| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1970/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 121億円 | 1億円 | 1.0% |
| 1971/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 115億円 | 0億円 | 0.5% |
| 1972/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 126億円 | 0億円 | 0.6% |
| 1973/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 202億円 | 3億円 | 1.8% |
| 1974/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 248億円 | 2億円 | 1.0% |
| 1975/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 211億円 | 2億円 | 1.0% |
| 1976/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 244億円 | 3億円 | 1.4% |
| 1977/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 277億円 | 3億円 | 1.4% |
| 1978/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 242億円 | 5億円 | 2.2% |
| 1979/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 312億円 | 8億円 | 2.5% |
| 1980/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 445億円 | 19億円 | 4.2% |
| 1981/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 550億円 | 33億円 | 6.0% |
| 1982/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 690億円 | 41億円 | 5.9% |
| 1983/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 828億円 | 50億円 | 6.0% |
| 1984/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,125億円 | - | - |
| 1985/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,501億円 | 93億円 | 6.2% |
| 1986/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 843億円 | 5億円 | 0.6% |
| 1987/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 763億円 | 6億円 | 0.8% |
| 1988/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,259億円 | 37億円 | 2.9% |
| 1989/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,733億円 | 77億円 | 4.4% |
| 1990/9 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,903億円 | 99億円 | 5.2% |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,972億円 | 83億円 | 4.2% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,539億円 | 17億円 | 1.1% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,897億円 | 51億円 | 2.6% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,516億円 | 97億円 | 3.8% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,017億円 | 309億円 | 7.6% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,327億円 | 299億円 | 6.9% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,555億円 | 300億円 | 6.5% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,138億円 | 18億円 | 0.5% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,407億円 | 198億円 | 4.4% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,238億円 | 620億円 | 8.5% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,605億円 | -415億円 | -9.1% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,296億円 | 82億円 | 1.5% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,357億円 | 616億円 | 9.6% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,736億円 | 480億円 | 7.1% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,519億円 | 912億円 | 10.7% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,060億円 | 1,062億円 | 11.7% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,080億円 | 75億円 | 1.4% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,186億円 | -90億円 | -2.2% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,687億円 | 719億円 | 10.7% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,330億円 | 367億円 | 5.7% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,972億円 | 60億円 | 1.2% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,121億円 | -194億円 | -3.2% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,131億円 | 718億円 | 11.7% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,639億円 | 778億円 | 11.7% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,997億円 | 1,152億円 | 14.4% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,307億円 | 2,043億円 | 18.0% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 12,782億円 | 2,482億円 | 19.4% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,272億円 | 1,852億円 | 16.4% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,991億円 | 2,429億円 | 17.3% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,038億円 | 4,370億円 | 21.8% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 22,090億円 | 4,715億円 | 21.3% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,305億円 | 3,639億円 | 19.8% |
東京エレクトロンの業態転換は一度の決断ではなく、30年にわたる段階的な移行として進行した。1963年にTBSの全額出資でカーラジオの輸出商社として出発し、1965年にフェアチャイルドの総代理店として半導体製造装置の輸入販売を開始した。しかし単なる輸入商社とは異なり、創業時から「輸入機械に組織的な技術サービスを付加する」という業態設計が組み込まれていた。理工系の新卒を米国メーカーに半年から1年単位で派遣し、装置の構造と動作原理を学ばせた上で、顧客の工場に常駐して据え付けからメンテナンスまでを担当させた。この技術サービスの厚みが総合商社との差別化要因となり、「日本初のICラインの装置の80%は東京エレクトロンが納入した」と言われるほどの市場支配力を生んだ。
輸入代理店から自社製造への移行は、合弁会社という中間形態を経由して進んだ。1968年に米サームコ社との合弁でテルサームコを設立し、拡散炉の国内製造を開始した。合弁はリスクを分散しつつ製造技術を移転するための装置であり、東京エレクトロンは装置の販売と技術サービスを担い、米国側が製造技術を提供するという分業構造であった。この合弁を通じて東京エレクトロンの技術者は装置の開発・製造工程に直接関与する経験を蓄積した。1986年から1988年にかけて半導体不況期に合弁相手の持分を買い取り、テルサームコ、テルラムなどの合弁会社を完全子会社化した。合弁パートナーが不況で投資意欲を失った時期を利用して、製造拠点と技術を自社に集約したのである。
業態転換の完成を示す指標は自社製品比率の推移である。1994年3月期に55.8%であった自社製品比率は2000年3月期に94.9%に達した。輸入代理店として他社製品を販売する事業から、自社で開発・製造した装置を世界に販売するメーカーへの転換が数値として確認できる。この転換を下支えしたのは、創業時に組み込まれた技術サービス体制であった。装置の据え付けとメンテナンスを自社技術者が担当する過程で、顧客の要求と装置の限界を直接把握できる立場にあったことが、自社開発の方向性を規定した。「効率の問題だ。ニーズに合った技術開発・商品開発で確実にもうかることを考えなければ効率的じゃない」という小高敏夫の発言は、基礎研究ではなく顧客ニーズに即応する開発を志向する姿勢を示している。
輸入商社→代理店→合弁メーカー→自社メーカーという段階的な業態転換は、各段階で蓄積された技術と顧客関係が次の段階への移行を可能にする連続的な構造を持っていた。代理店時代に蓄えた米国半導体産業の人脈と技術知見は合弁会社の設立と運営を円滑にし、合弁時代の製造経験は自社開発の基盤となった。しかしこの連続性は事後的に認識できるものであり、創業者が30年後の世界トップメーカーを構想していたわけではない。1963年にTBSの500万円で始まった会社が2023年に純利益4715億円を計上するに至る軌跡は、「技術サービスの付加」という創業時の設計図が予期せぬ方向に延長された結果であった。業態転換は計画的な跳躍ではなく、偶発的な契機と段階的な蓄積の連鎖として進行した。
半導体製造装置メーカーの競争力は、最先端の半導体を製造する顧客のそばで開発できるかどうかに依存する。1990年代初頭まで東京エレクトロンの主要顧客は日本の大手半導体メーカーであり、国内に22カ所のフィールドエンジニアリングステーションと500人の技術者を配置する緻密なサポート網を構築していた。主力4製品の国内シェアは6割に達し、装置全体でも4割近くを握る圧倒的な地位にあった。しかし1990年代に入り、DRAMの量産では韓国のサムスン電子や台湾のTSMCが台頭し、MPU分野では米インテルが主導権を握った。半導体産業の重心が日本から離れ始めたことで、東京エレクトロンは国内の成功モデルの延長では生き残れないという構造的な問題に直面した。
1994年10月、東京エレクトロンは欧米向けの販売体制を根本から転換した。代理店経由の販売を全面的に廃し、全額出資の現地子会社を通じた直接販売に切り替えた。代理店の解約は不可逆であり、海外法人が軌道に乗らなければ販路を失うリスクを伴った。米国法人の本社をテキサス州オースティンに設置し、20万平方メートルの敷地に半導体工場と同等のクリーンルームを備えた技術拠点を建設した。海外法人にはすべて現地人材をトップに据え、日本人はサポート役に徹する方針が採られた。米国法人では1997年に、かつて合弁パートナー企業の幹部として日本に滞在した経験を持つバリー・ラポーゾが社長に就任し、米国の半導体メーカー上位8社すべてを顧客にする目標を掲げた。
直販転換の効果は急速に現れた。1995年3月期に34%であった海外売上比率は2000年3月期に70%へ逆転した。米国市場の売上高は約130億円から1300億円へ10倍に拡大し、米国市場シェアは8%から34%へ上昇した。この構造転換の真価が試されたのは1999年3月期の半導体不況であった。連結売上高は前期の3分の2に縮小し、営業利益は5分の1に落ち込んだが、常石哲男専務は「6年前の決断がなければ、会社は倒れていたかもしれない」と振り返った。国内市場に依存したままであれば致命的であった不況を、拡大した海外顧客基盤がダメージを分散させた。翌期以降のIT需要回復に乗り、2001年3月期には売上高6900億円・営業利益率15%と過去最高を更新した。
2023年3月期の主要顧客はIntel(販売構成比16.2%)、TSMC(同14.5%)、Samsung(同12.5%)であり、上位3社がすべて海外企業である。1990年代初頭に日本企業が主要顧客であった時代からの構造的な転換を如実に示している。半導体製造装置メーカーにとって、顧客の地理的移動は事業戦略の所与の条件である。最先端の微細加工技術は顧客の量産工場に隣接した環境でしか開発・検証できず、顧客が移動すれば装置メーカーも移動するほかない。東京エレクトロンの1994年の直販転換は、この構造的制約を認識した上で国内の安定した顧客基盤を維持しつつ海外の成長市場に張り出すという選択であった。装置メーカーの競争力は技術力だけでなく、最先端顧客との地理的近接性にどう対応するかによって規定される。
東京エレクトロンが商社から世界的な装置メーカーへ転身できた原点は、創業時に組み込まれた技術サービスの付加という業態設計にある。単に輸入品を仲介するのではなく、若手技術者を米国に送り込んで装置の中身を学ばせ、顧客に対するサポート体制を自前で構築した。この「輸入機械に組織的なサービスを付加する」モデルが、合弁によるメーカー化、さらには自社開発への移行という段階的な業態転換の各段階で、技術と顧客関係の蓄積を途切れさせない連続性を担保した。
1963年、東京エレクトロン研究所の創業者となる久保徳雄と小高敏夫は、総合商社の日商(現・双日)で米国製電子機器の輸出入に携わっていた。久保は日商のニューヨーク駐在員として米国製の半導体製造装置を日本企業に売り込む業務に従事していたが、商社の立場では顧客に十分な技術サービスを提供できないことに不満を感じていた。当時の電子機器貿易は製品を右から左に流す仲介が主流であり、装置の据え付けやメンテナンスは顧客側の自助努力に委ねられていた。
加えて久保はカーラジオやカーステレオなどのOEM輸出の脆弱性を実感していた。小高が後に語ったところによれば、OEM製品は欧米企業のブランドで販売するため「最終消費者の動向がわからない」構造にあり、米国から突然注文が打ち切られると在庫の山ができた。1960年前後は「問屋不要論」がベストセラーとなり商社の存在意義が問われた時代でもあり、単なる取次ではなく技術サービスを組み込んだ新しい業態に商機があると久保は判断した。
久保はニューヨーク駐在中に米国の電子産業の動向を間近に見ており、半導体が今後の成長産業となることを確信していた。帰国後に駐在手当がなくなり給与が大幅に減少したことも起業の引き金となった。久保は1959年頃、東京放送(TBS)のテレビ技術局長・吉田稔と中型コンピュータの商談で面識を得ており、この人脈がTBS副社長・今道潤三への紹介につながった。失敗した場合は「タクシーの運ちゃんをやる」覚悟で、久保は日商を離れる決断を下した。
1963年11月、久保徳雄と小高敏夫を中心にわずか数名で東京エレクトロン研究所が設立された。資本金500万円は東京放送(TBS)が全額出資した。TBS副社長の今道潤三は久保らの「青雲の志」を評価し、「金は出すが口は出さない」方針で創業を支援した。オフィスはTBS赤坂本社内に間借りした10坪ほどの部屋であり、放送局の建物の中で電子機器商社が産声を上げるという異例の創業だった。
久保と小高が設計した事業モデルは、輸入した電子機器・半導体製造装置に組織的な技術サービスを付加して販売するという、商社ともメーカーとも異なる業態だった。後に大浜真敏取締役は「米国から近代産業技術が導入されて以来、輸入機械に組織的なサービス体制を付加して販売した最初の会社」と記している。理工系の大学卒業生を採用し、入社1〜2年目で米国の装置メーカーに半年から1年単位で研修に送り込んで技術の中身とサポート方法を叩き込んだ。
創業初年度の事業は二本立てだった。一つは日本メーカーが製造したカーラジオ2000台のニューヨーク向けOEM輸出、もう一つは米国製電子機器の日本国内への輸入販売である。経営の基本方針には「利益志向のオペレーションを行う」という一文が創業期から掲げられた。小高は「企業人にとって一番大切なのは利益の拡大にある。いつもそこから発想せよ」と社員に説き、顧客に高い価値を提供した対価として利益を得るという思想が組織の原点に据えられた。
1964年9月期、東京エレクトロンは売上高9091万円に対して利益26万円を計上し、わずかながら初年度から黒字を達成した。カーラジオの輸出に続いて日本ビクターの大型教育用VTRの米国輸出を請け負い、売上基盤を広げた。そして創業からわずか1年後の1964年、まだ黎明期にあった半導体製造装置の輸入販売を開始した。1965年には米国フェアチャイルドの総代理店となり、ICテスター「4000M」をはじめとする製品を日本の半導体メーカーに供給し始めた。
フェアチャイルドの装置は日本のIC量産ラインの立ち上げに不可欠であり、「日本初のICラインの装置の80%は東京エレクトロンが納入した」とも言われた。東京エレクトロンは装置を販売するだけでなく、米国で研修を受けた自社の技術者が据え付けからメンテナンスまでを一貫してサポートする体制を敷いた。この技術サービスの厚みが総合商社との差別化要因となり、後に総合商社がエレクトロニクス市場に相次いで参入した際にも代理店契約を維持できた競争力の源泉だった。
1960年代後半からは米国メーカーとの合弁会社を相次いで設立し、日本国内で装置を製造する段階へと進んだ。商社として輸入し技術サポートを付加する段階から、合弁を通じて製造に関与する段階へ、そして自社開発・自社製造へという業態転換は創業から20年以上をかけて段階的に進行した。設立から20年後の1983年9月期には売上高828億円、経常利益99億円を計上し、1989年には売上世界1位の半導体製造装置メーカーとなった。TBSの10坪の部屋から始まった商社は、久保が構想した「メーカー機能を持った商社」を経て、純粋なメーカーへと変貌を遂げた。
東京エレクトロンが商社から世界的な装置メーカーへ転身できた原点は、創業時に組み込まれた技術サービスの付加という業態設計にある。単に輸入品を仲介するのではなく、若手技術者を米国に送り込んで装置の中身を学ばせ、顧客に対するサポート体制を自前で構築した。この「輸入機械に組織的なサービスを付加する」モデルが、合弁によるメーカー化、さらには自社開発への移行という段階的な業態転換の各段階で、技術と顧客関係の蓄積を途切れさせない連続性を担保した。
今道さん(注:TBS副社長)が、放送界とかかわりのない東京エレクトロンなのに、ことのほか愛情を注いでくださった陰には、幼少時代を通じて台北で過ごし、長じては、大阪商船社員としてベトナムに駐在された今道さんが、西洋世界との接触の当時から、海外貿易に深い関心を抱いておられたことが関係していると私は思っています。第二次世界大戦勃発直後のハノイ市で、銃火の飛び交う下を死に物狂いで逃げ回った話、薄明の中、眼前に拳銃を突きつけられて唖然とした話、等々、若い頃の冒険に満ちた時代を語ってくださいましたことが、昨日のことのように思い出されます。
『東京エレクトロンの創立はね、君たちの青雲の志に賭けたんだよ・・・』としみじみ語っておられました。
今道さんは、御自身の夢大き青春時代に描かれた海外雄飛の見果てぬ夢を、われわれに託されたのかもしれません。東京エレクトロンの建設、いまだ途上にして世をさられた今道さんの夢を、私どもは当社に結実させたいと念じます。
東京エレクトロンがフェアチャイルドの総代理店を獲得できた背景には、創業者の米国人脈と、装置に技術サービスを付加するという商社にはない業態設計があった。日本初のICラインの装置の8割を納入し、半導体製造装置市場で圧倒的な初期ポジションを確保したが、フェアチャイルド自体の衰退により単一メーカーへの依存リスクが顕在化した。この経験が合弁によるメーカー化と製品多角化を促し、輸入商社から装置メーカーへの業態転換を不可逆的に進める駆動力となった。
東京エレクトロン研究所は1963年11月にカーラジオの輸出と電子機器の輸入を事業として設立された。しかし創業者の久保徳雄と小高敏夫は、OEM輸出が構造的に不安定な事業であることを認識していた。小高は後に「大手メーカーがカーステレオなどの民生用電子機器の輸出に乗り出しており、技術・商品面の差はほとんどない。中小企業ではとても太刀打ちできない」と語っている。松下通信工業がカーステレオの生産を本格化させるなど、大手の参入が相次ぐ中で、東京エレクトロンのような小規模企業がOEM輸出で存続し続ける余地は狭まりつつあった。
一方、久保はニューヨーク駐在時代から米国の半導体産業の勃興を間近に見ていた。米国ではフェアチャイルドセミコンダクターがIC(集積回路)の量産を開始し、半導体メーカーが自社で製造装置を開発・内製化する動きが広がっていた。小高は「いよいよICの時代が始まる。アメリカではすでにIC時代が始まっている。遅くとも2〜3年のうちに日本も必ずそうなる」と社内で訴え、カーラジオやVTRの輸出から半導体製造装置へと軸足を移すべきだと主張した。
1960年代半ばの日本では、NECや日立製作所、東芝などの大手電機メーカーがICの試作・量産に着手し始めた段階だった。ICの量産にはテスターや露光装置、拡散炉といった専用の製造装置が不可欠だが、日本国内にはこれらを供給できるメーカーがほとんど存在しなかった。米国製装置の輸入需要は確実に見込まれたが、単に製品を仕入れて売るだけでは総合商社との差別化が困難だった。
1965年、東京エレクトロンは米国フェアチャイルドセミコンダクターの日本総代理店となった。フェアチャイルドは半導体メーカーであると同時に製造装置の開発・内製も手がけており、ICテスター「4000M」は業界で伝説的名器と呼ばれた。東京エレクトロンはこの4000Mをはじめとするフェアチャイルド製の製造装置一式を日本の半導体メーカーに供給する独占的な立場を獲得した。総合商社との代理店争奪戦に勝利した背景には、久保がニューヨーク時代に築いたフェアチャイルドとの人脈があった。
東京エレクトロンが総合商社と決定的に異なっていたのは、装置の販売に組織的な技術サービスを付加した点にある。理工系の大学卒業生を採用し、入社1〜2年目で米国のフェアチャイルドに半年から1年単位で研修に派遣した。装置の構造と動作原理を習得した技術者が、日本国内で据え付け・調整・メンテナンスまでを一貫して担当する体制を敷いた。半導体製造装置は精密機器であり、納品後の技術支援なしには顧客が量産ラインを立ち上げられない。この技術サービスの厚みが、単なる商社にはない東京エレクトロンの競争優位となった。
小高は事業判断の基準を明確にしていた。「効率の問題だ。大企業なら自走型の技術開発をしてもいいが、うちのような小型の企業はニーズに合った技術開発・商品開発で確実にもうかることを考えなければ効率的じゃない」。基礎研究ではなく顧客ニーズへの即応を優先し、米国の先端技術を日本市場に橋渡しする立ち位置を意図的に選択した。
フェアチャイルドとの代理店契約は即座に成果を生んだ。日本の大手半導体メーカーがIC量産ラインを構築する際、必要な製造装置の大半を東京エレクトロンが供給した。「当時のIC製造ラインはフェアチャイルドジャングルと言われた」と大手半導体メーカーの首脳が振り返るほど、フェアチャイルド製装置が生産現場を席巻した。「日本初のICラインの装置の80%は東京エレクトロンが納入した」とも言われ、創業2年目の小さな商社が日本の半導体産業のインフラ整備を担う構図が生まれた。
しかしフェアチャイルドへの依存は脆弱性も内包していた。フェアチャイルドは後にシュルンベルジェに買収され、ヒット商品が出なくなると東京エレクトロンのICテスター事業は劣勢に立たされた。国内ではアドバンテストが1972年にICテスターを国産化し、輸入品の東京エレクトロンと国産品のアドバンテストという競合構造が形成された。東京エレクトロンは1981年にフェアチャイルドから米国ジェンラッドに乗り換えたが、テスター分野では国産勢に押される展開が続いた。
一方で、フェアチャイルド時代に蓄積した技術サービスの経験と顧客関係は、テスター以外の装置分野への展開を可能にした。1968年には米国サームコ社と合弁会社テルサームコを設立し、拡散炉の国内製造に進出した。以後、イオン注入装置、ウエハープローバー、プラズマエッチング装置と製品領域を広げ、いずれも高い国内シェアを獲得していく。フェアチャイルドとの代理店契約は東京エレクトロンを半導体製造装置の世界に引き込んだ起点であり、同時にその契約への依存が、自社製品の開発と多角化を促す圧力ともなった。
東京エレクトロンがフェアチャイルドの総代理店を獲得できた背景には、創業者の米国人脈と、装置に技術サービスを付加するという商社にはない業態設計があった。日本初のICラインの装置の8割を納入し、半導体製造装置市場で圧倒的な初期ポジションを確保したが、フェアチャイルド自体の衰退により単一メーカーへの依存リスクが顕在化した。この経験が合弁によるメーカー化と製品多角化を促し、輸入商社から装置メーカーへの業態転換を不可逆的に進める駆動力となった。
いよいよICの時代が始まります。アメリカでは、すでにIC時代が始まっています。遅くとも2〜3年のうちに、日本も必ずそうなるでしょう。わが社は今後、ICに焦点を絞るべきです。したがって、テスターも、トランジスタやダイオード用ではなく、ICテスターでなければ妙味はありません。ICテスターの市場は、おそらく爆発的に伸びると思います。
東京エレクトロンの民生品撤退が示すのは、撤退判断そのものよりも撤退の実行設計にある。売上の6割を失う決断に際し、縮小部門にエース社員を配置して段階的に秩序立てて畳むという方法を採った。撤退を放置せず最も優秀な人材で管理するという発想は、顧客関係と社内士気の毀損を最小限に抑えながら事業ポートフォリオを入れ替えるための実務的な知恵であり、撤退の成否が実行の質に左右されることを示している。
東京エレクトロンは創業以来、カーラジオ・カーステレオ・電卓などの民生用電子機器のOEM輸出を事業の柱としていた。1975年時点でこれら輸出部門は売上高の約60%を占める主力事業だった。しかしOEM製品はすべて欧米企業のブランドで販売する構造であり、最終消費者の動向が東京エレクトロンには見えなかった。米国から突然注文が打ち切られれば在庫が積み上がるという、需要変動を自社でコントロールできないリスクを常に抱えていた。
1973年の第一次オイルショックはこの脆弱性を一気に顕在化させた。需要が急減して在庫が膨張し、業績は悪化した。しかしオイルショックは本質的な問題ではなく、民生品輸出が構造的に先細りの事業であったことが真因だった。松下通信工業をはじめとする大手メーカーがカーステレオの生産に本格参入しており、技術・商品面での差別化が困難な市場で東京エレクトロンのような中小企業が競争を続ける余地は狭まりつつあった。
小高敏夫社長の判断は明快だった。民生品輸出は伸びないどころか、続ければ会社の存続そのものが危うくなる。東京エレクトロンは売上高の60%を占める民生品輸出部門からの撤退を決め、成長しつつあった半導体製造装置事業に経営資源を集中する方針に転換した。売上の過半を一度に失えば資金繰りが行き詰まるため、即座の全面撤退ではなく段階的な縮小が選択された。
撤退部門にはエース級の社員を投入するという異例の人事が行われた。通常、縮小・撤退が決まった部門には人材の配置が手薄になりがちだが、東京エレクトロンは逆の判断を下した。撤退を秩序立てて遂行し、顧客との関係を損なわず社内の士気を維持するには、最も能力の高い人材が必要だという考えに基づいていた。売上の6割を段階的に縮小しながら残りの4割で成長軌道に乗せるという、事業ポートフォリオの入れ替えが進行した。
民生品からの撤退と半導体製造装置への集中は、東京エレクトロンの収益構造を根本から変えた。1984年の時点で設立20周年を迎えた同社は売上高828億円、経常利益99億円を計上し、経常利益率12%という高収益企業に変貌していた。半導体製造装置に特化したことで顧客は日本の大手半導体メーカーに絞られ、技術サービスと装置供給の密度が高まった。
東京エレクトロンは創業期から利益の拡大を経営の最優先事項に掲げており、利益率の低いOEM輸出から利益率の高い製造装置事業への転換は、この経営哲学の実践でもあった。OEM輸出で売上規模を維持する選択肢もあり得たが、規模より利益を優先する判断が後の高収益体質の起点となった。1989年には売上世界1位の半導体製造装置メーカーに到達し、1975年の撤退判断は創業期に次ぐ事業構造の転換点として位置づけられる。
東京エレクトロンの民生品撤退が示すのは、撤退判断そのものよりも撤退の実行設計にある。売上の6割を失う決断に際し、縮小部門にエース社員を配置して段階的に秩序立てて畳むという方法を採った。撤退を放置せず最も優秀な人材で管理するという発想は、顧客関係と社内士気の毀損を最小限に抑えながら事業ポートフォリオを入れ替えるための実務的な知恵であり、撤退の成否が実行の質に左右されることを示している。
東京エレクトロンの直販移行は、日本の半導体メーカーの競合である韓国・台湾メーカーに装置を直接販売する判断でもあった。代理店契約の解消は不可逆であり、海外法人が軌道に乗らなければ販路を失うリスクがあった。この一手の背景には、製造技術の先端がDRAMからMPUへ移り、最先端顧客が日本から米国・アジアへ動いたという構造変化がある。地の利を失えば次世代装置を開発できないという危機認識が、既存顧客への配慮に勝った。
東京エレクトロンは1960年代の創業以来、米国の半導体製造装置を輸入し日本の半導体メーカーに販売・技術サポートを提供する事業モデルで成長した。国内に22カ所のフィールドエンジニアリングステーションを設け、500人の技術者を半導体メーカーの主力工場近くに常駐させて「トラブル発生から1時間以内に駆けつける」体制を構築していた。この緻密なサポート網が日本の半導体メーカーとの信頼を支え、主力4製品の国内シェアは6割に達し、装置全体でも4割近くを握る国内最大手の地位を築いていた。
しかし1990年代に入り、半導体産業の重心が移り始めた。DRAMの量産では韓国のサムスン電子や台湾のTSMCが台頭し、MPU分野では米インテルが主導権を握っていた。ニコンの倉本豊寿・取締役精機事業部長は「DRAMよりMPUの方が細密化要求が厳しい」と指摘し、製造技術の最先端がメモリーからロジックへ移行する兆候が現れていた。装置メーカーにとって最先端顧客のそばで開発する地の利こそが競争力の源泉であり、日本市場だけでは次世代装置の開発に必要な情報が得られなくなるリスクが顕在化しつつあった。
東京エレクトロンの海外販売は各地域の代理店を経由する方式だった。しかし代理店を介すると顧客の要求やクレームを的確に把握しにくく、情報伝達にも遅れが生じた。1994年頃には顧客の米テキサス・インスツルメンツから、代理店ではなく直接取引を求められ、応じなければ取引を打ち切るとの通告を受けた。1995年3月期の海外売上比率は34%にとどまり、主力製品の欧米シェアは14%と国内60%との間に大きな開きがあった。代理店方式のまま海外展開を進めても、国内で築いた競争優位を再現することは構造的に困難だった。
1994年10月、東京エレクトロンは欧米向け半導体製造装置の販売体制を根本から転換した。代理店経由の販売を全面的に廃し、全額出資の現地子会社を通じた直接販売に切り替える判断を下した。米国では輸出入窓口だった子会社テル・アメリカを改組して東京エレクトロン・アメリカとし、本社をカリフォルニア州からテキサス州オースティンに移転した。オースティンには20万平方メートルの敷地を確保し、半導体工場と同等のクリーンルームを備えた海外初の技術拠点を建設した。
欧州では英国ロンドン郊外に東京エレクトロン・ヨーロッパを設立して欧州統括拠点とし、ドイツにも現地法人を設けた。続いて1995年に韓国、1996年に台湾にも進出し、半導体メーカーが集積する地域に段階的に直販網を広げた。オースティンのクリーンルームでは実際の半導体工場と同じ環境を再現し、顧客を交えた装置性能の評価やオペレーターの操作訓練を実施できる体制を整えた。装置は受注生産で顧客ごとに仕様が異なるため、納品前に実機で目標性能を確認できる拠点の存在は受注活動において決定的な意味を持った。
海外法人はすべて現地人材をトップに据え、日本人はサポート役に徹する方針が採られた。米国法人では1994年10月に小野里充が副社長として赴任し立ち上げを主導したが、体制が整った1997年4月には米国人のバリー・ラポーゾが社長に就任した。ラポーゾはかつて合弁パートナー企業の幹部として1987年から89年にかけて日本に滞在した経験があり、東京エレクトロンの製品と文化の双方を理解していた。従来の代理店に対しては相応の対価を支払って円満に契約を解消し、代理店時代に同社製品を担当していた技術者の移籍も進めて販路と人材の断絶を最小限に抑えた。
直販体制の構築は急速に成果を上げた。1995年3月期に34%だった海外売上比率は2000年3月期に70%へ逆転した。米国市場の売上高は同期間で約130億円から1300億円へ10倍に拡大し、欧州も10倍の約420億円、台湾は9.5倍の1400億円に達した。米国市場のシェアは1995年末の8%から1999年末には34%へ上昇した。ラポーゾは米国の半導体メーカー上位8社すべてを顧客にする目標を掲げ、就任時の取引先2社から着実に開拓を進めた。
この構造転換の真価が問われたのは1999年3月期だった。半導体不況で装置の受注が途絶え、連結売上高は前期の3分の2にあたる3138億円へ縮小、営業利益は5分の1の64億円に落ち込んだ。常石哲男専務は「6年前の決断がなければ、会社は倒れていたかもしれない」と振り返った。国内市場に依存したままであれば致命的だった不況を、拡大した海外顧客基盤がダメージを分散させた。翌期以降は世界的なパソコン・携帯電話需要の回復に乗り、2001年3月期には売上高6900億円、営業利益1020億円、営業利益率15%と過去最高を記録する見通しとなった。
米国法人の従業員は設立時の約200人から2000年時点で1200人に拡大し、うち日本人は50人にとどまった。現地化の進行と同時に、自社製品比率も1994年3月期の55.8%から2000年3月期に94.9%へ上昇した。商社として米国製装置を輸入販売する時代から、メーカーとして自社製品を世界に直販する体制への転換が完了した。東京エレクトロンが輸入商社時代から数十年にわたって蓄積した米国半導体産業との人脈と技術知見が短期間での海外展開を可能にした基盤であり、この蓄積なしに6年でグローバル直販体制を構築することは困難だったと考えられる。
東京エレクトロンの直販移行は、日本の半導体メーカーの競合である韓国・台湾メーカーに装置を直接販売する判断でもあった。代理店契約の解消は不可逆であり、海外法人が軌道に乗らなければ販路を失うリスクがあった。この一手の背景には、製造技術の先端がDRAMからMPUへ移り、最先端顧客が日本から米国・アジアへ動いたという構造変化がある。地の利を失えば次世代装置を開発できないという危機認識が、既存顧客への配慮に勝った。
われわれの業界は非常に厳しい状況でした。アジア経済危機の影響など、世界規模で景気が伸び悩んだことと、高度情報化社会などと言われても、そのインフラが十分に整っていなかったためです。ところが昨年あたりからインターネットなどが普及し、情報通信のアプリケーションも豊富になって、半導体への投資が活発になってきました。また、台湾などアジアの国々が情報通信関連の製造を自国の産業の礎に据えようとしてきています。
こうした背景のもとで半導体需要が急激に回復し、当社の業績も改善しました。ただ、いわゆるIT革命はまだまだ道なかばの状況ですから、これは始まりであり、当社のビジネスチャンスは中長期的に拡大していくと捉えています。(略)
(注:強みは)当社のマーケティング力でしょう。ここ数年来グローバリゼーションということで、米国を中心に開発・製造およびサービス・サポートの拠点を世界に展開しています。これらのネットワークで世界の情報、将来の動きを敏感に察知して、対応できるようになっています。
東京エレクトロンとApplied Materialsの経営統合は、研究開発費の高騰に対する合理的な解であったが、独禁法の壁に阻まれて白紙撤回された。しかし統合断念後に東京エレクトロンは単独での研究開発投資を加速させ、5カ年で1.5兆円という大規模投資に踏み切った。統合による効率化が不可能になったことで、逆に自社単独での技術力強化が経営上の最優先課題に格上げされたという逆説的な構造を示している。
2010年代に入り半導体製造装置には三次元構造への対応など、より高度な微細加工技術が求められるようになった。製造装置1台あたりの開発コストは年々増大し、東京エレクトロンにとって研究開発費の負担が経営上の重荷となりつつあった。加えて、メモリ製造はグローバルで数社の寡占構造にあり、少数の大口顧客に対する価格交渉力の面でも課題が浮き彫りになっていた。
こうした状況下で2012年12月、米Applied Materials社の会長から東京エレクトロンに対して経営統合の打診があった。帝国ホテルのフランス料理店での会談から始まり、東京エレクトロンは会長・社長・副社長の3名で協議を開始した。高騰する開発費を2社で分担し、製品ラインナップを補完し合うことで、半導体製造装置市場における競争力を強化するという構想であった。
2013年9月、東京エレクトロンは米Applied Materialsとの経営統合を正式に発表した。統合に向けてオランダに準備子会社TEL-Applied Holdings B.V.を設立し、企業文化の異なる2社の統合を3〜5年かけて段階的に進める方針を示した。両社の幹部110名を中心にIMO(Integration Management Office)を開設し、PMIの実務に着手した。
しかし、半導体製造装置の世界1位と3位の統合は市場の独占につながるとして、米司法省が独占禁止法の観点から疑念を示した。統合計画は2014年12月に延期され、先行きが不透明な状態が1年半にわたって続いた。東哲郎CEOは法廷で争う選択肢もあったとするが、裁判の長期化による顧客と現場の混乱を懸念し、2015年4月に統合計画の白紙撤回を決断した。
統合の白紙撤回により、東京エレクトロンは単独の半導体製造装置メーカーとして事業を継続することとなった。東CEOは「統合という大きな目標に向け社員は本気になっていた。高まった社員のエネルギーを新たな方向に集中させるのが急務だ」と述べ、2015年7月に中期経営計画を策定して研究開発への集中投資に舵を切った。
統合が実現していれば研究開発費の分担が可能であったが、単独路線を選択したことで自社の研究開発投資を一段と拡大する必要が生じた。FY2024〜FY2028の5カ年で合計1.5兆円の研究開発費投資を決定するに至った経緯は、統合断念が結果的に自力での技術開発強化を促したという構造を示している。
東京エレクトロンとApplied Materialsの経営統合は、研究開発費の高騰に対する合理的な解であったが、独禁法の壁に阻まれて白紙撤回された。しかし統合断念後に東京エレクトロンは単独での研究開発投資を加速させ、5カ年で1.5兆円という大規模投資に踏み切った。統合による効率化が不可能になったことで、逆に自社単独での技術力強化が経営上の最優先課題に格上げされたという逆説的な構造を示している。
無念。いまでも実現すべき統合だったと思う。司法省の判断に納得がいかぬと法廷で争う手もあった。だが、すでに計画の発表から1年半が過ぎていた。先の見えない裁判に時間を費やすわけにはいかない。中ぶらりんが続けば顧客と現場が混乱し始める。きっぱり断念することにした。
統合という大きな目標に向け社員は本気になっていた。高まった社員のエネルギーを新たな方向に集中させるのが急務だ。時間をかければ、社員は萎える。どんどん動かなければならない。