吉原信之氏(当時20代)が東京都板橋区にて繊維製品や工業製品を扱う三陽商会を設立した。創業時は第二次世界大戦中であったため、軍需工場が集中していた板橋にて、軍需生産に欠かせない工作機械の修理・加工業を経営した。戦時の特需景気に沸いたこともあり、わずか数年で現在換算10億円の利益を計上した
1945年の終戦によって工作機械の修理という需要が消えたため、三陽商会は業態転換を迫られた。そこで、終戦によって使用されなくなった防空暗幕や風船爆弾用の繊維を調達して、レインコートの製造に着手する。以後、現在に至るまで三陽商会はコートを製造する重衣料メーカーとして発展を遂げた。
吉原信之はレインコートの品質を向上させる為に、レインコートの歴史調査を開始。浜松や米沢などの主要産地を巡ってレインコートの生地のサンプルを収集して、ノートに貼り付けて調査結果をまとめるなど、レインコートの徹底した研究を行なった。そして、吉原信之はレインコートを「工芸品」であると結論づけ、三陽商会の企業理念である「用と美」を発案する。
工場から創業したという歴史的な経緯により、三陽商会は販売が手薄であるという経営課題に直面していた。そこで、1952年に三陽商会は東京銀座にサービスステーションを設置し、東京における百貨店で三陽商会の商品を取り扱うように営業力を強化。営業社員が小売店や百貨店を1軒1軒回ることで、レインコート販売を拡大する。
従来のレインコートは雨合羽とみなされておりオシャレとは程遠い存在であったが、1959年に三陽商会は「ササールコート」を発売。販売面では映画会社東和とタイアップし「三月生まれ」で主人公の女優に着用させるなど、メディアを活用したブランド戦略を展開して大ヒット商品に育つ。この結果、三陽商会は日本国内の主要百貨店との取引を網羅したと言われる。
三陽商会のモノづくり力は世界からの注目を集めた。1969年にイギリスの著名アパレルブランドを展開するバーバリーは、三陽商会との提携を決めて、同社の全商品を三陽商会に委託する契約を締結した。以後、三陽商会はバーバリを製造面で支える影の立役者となり、三陽商会の歴史における転機となった。
バーバリーとの提携によって、三陽商会は主力であるコートの販売を拡大し、1975年には国内のコートの販売数量でシェア1位(10%)を確保した。この結果、アパレル業界では三陽商会の躍進に注目が集まる。
バーバリーのOEMによって海外にも三陽商会の製品が行き渡るようになるが、自社の「サンヨー」ブランドは海外で無名だった。そこで、三陽商会は海外でのサンヨーブランドを拡大させる為に、ニューヨークに拠点を新設した。
三陽商会のものづくりの力はバーバリーから高い評価を獲得し、20年の延長契約を締結した。
創業者の吉原信之が社長を退任して会長に就任し、三陽商会の新社長には三菱レイヨンからスカウトした高月英五を据えた。
1980年代のバブル景気の中で、三陽商会の販売先である百貨店の業績が好調であったこともあり三陽商会は増収増益を記録していた。だが、バブル景気が終わりに差し掛かった1990年に三陽商会は減益決算を計上。高級衣料が百貨店で売れる高度経済成長時代が終わりを告げ、三陽商会は岐路に立つ。
三陽商会を一代で創り上げた吉原信之氏が会長を退任し、相談役に就任。翌2001年には相談役からも退き、三陽商会の経営から退いた。
1970年の提携から、三陽商会にとってバーバリーは重要な取引先であった。だが、2015年にバーバリーは三陽商会との契約を解消したため、三陽商会は重要な取引先を失うという危機に直面した。
バーバリーとの契約解消は三陽商会に大きな打撃を与えた。契約解消から1年を経た2016年に前年比約300億円の減収となり、最終赤字113億円を計上。アパレルの優良企業が苦境に陥ったことが鮮明となる。