伊藤忠商事 の歴史

創業

1858年

創業者

伊藤忠兵衛

創業地

滋賀県犬上郡豊郷村

直近売上高(2026/3)

148,231億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ伊藤忠は1858年の創業から明治期にかけて、扱う商いそのものを四度も入れ替えたのか
A 一つの商いに固執するより、利が薄くなれば次の商いへ移るほうが生き残りやすい。それが近江商人の身の処し方だった。明治維新後に蒸気船と鉄道が普及して仲介業者の入る余地が縮むと、初代伊藤忠兵衛は行商に見切りをつけ、1872年に大阪本町で紅忠を開いて店舗商売へ移り、対米貿易、上海での綿糸輸入へと次々に業態を替えた。売り手・買い手・世間の三方よしを説く近江の商道のもと、時代に合わせて商いを組み替える適応の習い性が、約40年のあいだに四度の業態転換として現れた
Q なぜ越後正一社長は1965年、主力銀行の反対を押し切ってまで石油事業へ賭けたのか
A 繊維に偏った収益では、非繊維で先行する丸紅に総売上で水をあけられ続ける。越後正一はこの偏りを断つには、採掘から精製まで自前で握る重い投資が要ると見た。1961年に「ウチの繊維は世界一だ」と豪語した同じ越後正一が、1965年には東亜石油株38.5%取得を主力行の住友銀行に反対されながら強行し、イアプコ社への2,000万ドル出資と知多精油所への推定500億円で和製メジャーをめざした。だが原油と為替の変動を受けきれず損失が常態化し、累計約1,300億円を抱えて1985年に撤退した
Q なぜ伊藤忠は2021年に「三冠」を取った後、事業の入れ替えより株主還元の厚さで他社と差をつけているのか
A 業態転換と上流投資で稼ぐ余地が限られるなか、非資源を厚くした収益を株主へ多く戻すほうが、株価と時価総額で他社を引き離せる。岡藤正広会長CEOのもと、伊藤忠は2021年5月に純利益・株価・時価総額で総合商社の首位に立つ「三冠」を初めて達成し、純利益の約7割を非資源が稼ぐ構造を固めた。以後は総還元性向50%・11期連続増配・約1,700億円の自己株式取得を重ね、2026年1月に1株を5株へ分割して個人投資家の買いやすさを高めた。資本市場との対話が経営の主要な論点である。

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1858年〜 近江商人の行商業から戦前の繊維商社への道程

  1. 1858年初代伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業を個人創業
  2. 1872年呉服太物商「紅忠」を開店
  3. 1893年「伊藤糸店」を開店し綿糸卸売業を開始
  4. 1914年経営近代化のために伊藤忠合名会社を設立
  5. 1920年大正9年恐慌からの再建。重役を総入替し平均35歳へ若返り、堅実経営へ転換
  6. 1929年二代伊藤忠兵衛氏が呉羽紡績を創立
  7. 1929年紡績経営に参入

伊藤忠商事の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

行商から店舗・貿易・綿輸入への4度の業態転換

1858年(安政5年)、15歳の初代伊藤忠兵衛氏は兄の6代目伊藤長兵衛氏とともに麻布の卸売業を始めた。両名はともに近江国豊郷村の出身で、古くから近江商人の拠点として商売が盛んな土地柄が、若い忠兵衛氏に商人としての基礎を与えた。忠兵衛氏は近江商人として麻布の行商に励み、販売先は関西一円に及んだほか、九州まで足を伸ばして商圏を広げた。近江商人に特有の「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の商いが、伊藤忠の初期の事業観を形づくった。明治維新以降、蒸気船と鉄道による交通網の発達で仲介業者の介在余地は縮小し、行商のみで利益を確保することは難しくなった。こうした事業環境の変化が、伊藤忠に業態転換を迫るきっかけとなった。 [1]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業を創業

1872年に大阪本町で「紅忠」を開き呉服太物の取扱を始め、1885年には対米貿易業へ参入して神戸とサンフランシスコに海外拠点を構えた。外国商館を経由するのが主流だった当時、日本人商社が直接雑貨の輸入業務に従事する例は稀で、同時代にこれを手がけたのは伊藤忠と森村組のみとされる。1893年には近代綿紡績糸の有望性に着目し、綿糸取扱いのために大阪・安土町に伊藤糸店を開店した。これが後の伊藤忠商事発足の礎石となり、1895年には上海へ進出して中国産綿糸の輸入を始めた。大阪周辺の紡績会社群への販売を通じて「繊維商社」としての独自のビジネスモデルを固め、行商から店舗経営、貿易、綿輸入へと約40年のあいだに4度の業態転換を遂げた。明治期を通じて、変化に即応する経営方針が早くから根づいた。 [2][3][4]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1872年 大阪市本町に呉服太物商「紅忠」を開店
    • [3]1893年 綿糸取扱いのため伊藤糸店を開店(後の伊藤忠商事発足の礎石)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]伊藤糸店を後の伊藤忠商事発足の礎石とする位置づけ
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業を創業
    • [2]1872年 大阪市本町に呉服太物商「紅忠」を開店
    • [3]1893年 綿糸取扱いのため伊藤糸店を開店(後の伊藤忠商事発足の礎石)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]伊藤糸店を後の伊藤忠商事発足の礎石とする位置づけ

第一次大戦後の赤字転落と丸紅分離の帰結

1914年、2代目伊藤忠兵衛氏が28歳で代表に就任し、同年に伊藤忠合名会社を設立、1918年に株式会社へ改組して経営の近代化を図った。第一次世界大戦中は欧州列強の対アジア不在という好機を活かし、東京・神戸・上海・マニラの4支店と横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨークの6出張所からなる貿易ネットワークを築いた。当時の日本企業としては類を見ない広域展開で、商社としての地盤が広がった時期だった。大戦景気のもとで規模の拡大を追求し続けたのが1914年〜1919年の経営の特徴で、組織の拡張と利益の伸長が並行した。後に直面した反動の大きさも、この拡張の広さに比例した。 [5][6]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1914年 伊藤家各店を統合して伊藤忠合名会社を設立
    • [6]1918年 伊藤忠合名会社を分割し旧伊藤忠商事株式会社(株式会社化)を設立

1919年の終戦で戦時好景気は終わりを告げ、1920年には赤字へ転落した。人員削減を実施するとともに丸紅商店を分離し、貿易部門を大同貿易として切り離して「綿商社」に特化する延命策で、どうにか生き延びた。戦時特需の一時的な利益を恒常的な成長基盤と見誤って組織を広げ、平時に規模を維持できなくなる構造は、日本の商社史に繰り返し現れるパターンとなった。日華事変後の1941年には戦時統制のもとで丸紅商店・岸本商店と合併して三興となり、1944年には呉羽紡績・大同貿易を加えて大建産業へと統合された。終戦後、大建産業は過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年12月1日に伊藤忠商事・丸紅・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社へ分割され、伊藤忠商事株式会社として戦後の再出発を果たした。戦前から戦後にかけての組織再編の連続が、伊藤忠の事業基盤の性格を規定した。 [7][8][9][10][11]

  • 伊藤忠商事100年
    • [7]1920年11月期に旧伊藤忠の資本が17.0→7.5百万円へ半減(戦後不況で赤字転落の局面)
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1941年 旧伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店が合併して三興となる
    • [9]1944年 呉羽紡績・大同貿易と合併し大建産業となる
    • [10]1949年12月1日 大建産業が4社(伊藤忠商事・丸紅・呉羽紡績・尼崎製釘所)へ分割され伊藤忠商事が再発足
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]大建産業を4社へ分割した過度経済力集中排除法の指定・分離先4社の社名構成
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1914年 伊藤家各店を統合して伊藤忠合名会社を設立
    • [6]1918年 伊藤忠合名会社を分割し旧伊藤忠商事株式会社(株式会社化)を設立
    • [8]1941年 旧伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店が合併して三興となる
    • [9]1944年 呉羽紡績・大同貿易と合併し大建産業となる
    • [10]1949年12月1日 大建産業が4社(伊藤忠商事・丸紅・呉羽紡績・尼崎製釘所)へ分割され伊藤忠商事が再発足
  • 伊藤忠商事100年
    • [7]1920年11月期に旧伊藤忠の資本が17.0→7.5百万円へ半減(戦後不況で赤字転落の局面)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]大建産業を4社へ分割した過度経済力集中排除法の指定・分離先4社の社名構成

1960年〜 石油事業「和製メジャー」構想の挫折と総合商社化

  1. 1960年越後正一氏が社長に就任
  2. 1960年非繊維部門の拡充による総合商社化を最重点に
  3. 1960年繊維重視の経営方針
  4. 1966年東亜石油の株式取得・採掘から精製の一貫体制を志向
  5. 1974年伊藤忠香港会社を設立
  6. 1977年安宅産業を救済合併・新日鐵の商権確保
  7. 1980年東京本社新社屋を北青山に竣工

伊藤忠商事の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

石油事業「和製メジャー」構想の挫折の代償

1960年代、伊藤忠は繊維偏重からの脱却をめざして非繊維領域へ進出し、1965年に東亜石油の株式38.5%を取得、1969年には米イアプコ社へ2,000万ドルを出資してインドネシア・ジャワ島沖の石油採掘権益を取得した。知多精油所には推定500億円を投じ、採掘から精製までを一貫して手がける「和製メジャー」体制の構築をめざした。当時の越後正一社長は「当社が石油産業に本格進出を決めたのは1963年5月で、私としては当然相当な犠牲を覚悟した上のことだった」(日本経済新聞 私の履歴書 1975)と回想している。住友銀行はこの東亜株取得に反対したが、越後社長は主力行の反対を押し切って経営支配を強行した(日経新聞 1985/1/3)。インドネシア権益への出資にあたっても越後社長は「もし2000万ドルを海に捨てる結果となれば、即座に社長の地位から退く決意を固めていた」(日本経済新聞 私の履歴書 1975)と、進退を賭けた判断だったと明かしている。 [12]

  • 日経新聞(1985年1月3日)
    • [12]越後正一氏が当時の社長で、住友銀行の反対を押し切って東亜石油の経営支配を強行した

1973年のオイルショック以降、為替と原油価格の変動に対するリスクヘッジが不十分だった点が露呈し、1976年3月期には東亜石油が経常損失120億円を計上、知多精油所の稼働率は60%に落ち込んだ。1978年時点で日経ビジネスは「だまっていても年間約130億円程度の損が出る体質になっているわけだ」(日経ビジネス 1978/10/9)と分析し、同社の1978年3月期の経常利益84億円を上回る出血構造を指摘した。累計損失は最終的に約1,300億円に達し、1985年に東亜石油の株式を昭和シェル石油に売却して石油事業から撤退した。撤退決断の背景には「今後、5年間、年間100億円内外の損失が続くことは避けられない」(日経新聞 1985/1/3、伊藤忠首脳の発言)という見通しがあり、約250億円の解決一時金を支払ってでも一括解決を選んだ。20年に及ぶ「和製メジャー」構想はここで幕を閉じた。 [13][14]

  • 会社年鑑
    • [13]東亜石油の1976年3月期 経常損失120億円
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [14]1985年 東亜石油の株式を売却し石油精製事業から撤退
  • 日経新聞(1985年1月3日)
    • [12]越後正一氏が当時の社長で、住友銀行の反対を押し切って東亜石油の経営支配を強行した
  • 会社年鑑
    • [13]東亜石油の1976年3月期 経常損失120億円
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [14]1985年 東亜石油の株式を売却し石油精製事業から撤退

安宅救済が押し開いた繊維偏重の解消

1977年の安宅産業救済合併は、伊藤忠にとって総合商社としての性格を決定づける転換点となった。1961年時点の業界誌は、丸紅との競争で丸紅が完全勝利したと評し、非繊維部門の差がそのまま総売上高の差を生んでいると分析した(ダイヤモンド 1961/9/10)。越後社長自身「ウチの繊維は世界一だ」(ダイヤモンド 1961/9/10)と社長就任時に豪語していたが、繊維依存からの脱却が収益構造上の課題となっていた。業界9位の安宅産業の大半の商権を選別的に取得することで、伊藤忠は戦後長く続いた繊維偏重の事業構造から脱皮する機会を得た。住友銀行との39年に及ぶ恩義を返すと即答した越後社長の判断のもとで、鉄鋼分野では新日鐵との取引関係を引き継ぎ、非繊維部門の利益基盤を広げた。救済合併という受け身の形ではあったが、結果として伊藤忠は総合商社としての事業ポートフォリオを比較的短期間で広げた。 [15][16]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1977年 安宅産業を救済合併(新日鐵の商権を確保)
  • ダイヤモンド(1961年9月10日)
    • [16]越後正一氏(当時社長)が社長就任時に繊維事業を「世界一」と語った(ダイヤモンド1961/9/10引用)

1980年代から1990年代初頭にかけて世界同時好況とバブル経済が業績を押し上げる裏側で、ゴルフ場開発に代表される不動産関連投資が積み上がり、1990年代前半のバブル崩壊とともに多額の含み損を抱えた。非繊維化を果たしたはずの伊藤忠が、今度は不動産バブルの波にのまれた。1998年3月期には有利子負債が5.2兆円に膨らみ、経営の健全性そのものが市場から問われた。1998年4月に社長に就任した丹羽宇一郎氏は、不良資産の処理を中心とする経営改革に踏み込み、バブル期に積み上がった負の遺産との決着を会社全体の最重要経営課題に据えた。選別的な商権取得という安宅合併の経験は、のちのM&A戦略における選別取得の原型にもなった。 [17]

  • Annual Report 2003
    • [17]1998年3月期に有利子負債が5.2兆円に膨らんだ
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1977年 安宅産業を救済合併(新日鐵の商権を確保)
  • ダイヤモンド(1961年9月10日)
    • [16]越後正一氏(当時社長)が社長就任時に繊維事業を「世界一」と語った(ダイヤモンド1961/9/10引用)
  • Annual Report 2003
    • [17]1998年3月期に有利子負債が5.2兆円に膨らんだ

2000年〜 不良資産3950億円の一括処理と非資源シフト

  1. 2000年特別損失3950億円を計上・バブル期の不良資産を清算
  2. 2001年伊藤忠丸紅鉄鋼を会社分割で設立
  3. 2004年豪州資源開発3社を統合しITOCHU Minerals & Energy of Australiaを発足
  4. 2012年米ドール・フード・カンパニーから一部の事業を買収
  5. 2015年CITIC(中国中信集団)と戦略的資本業務提携を締結
  6. 2017年ヤナセをTOBで取得
  7. 2018年ユニー・ファミリーマートHDをTOBで取得し子会社化

伊藤忠商事の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

3950億円一括処理とCTC上場益が重なる偶然

バブル崩壊後、ゴルフ場をはじめとする不動産関連投資が軒並み多額の含み損を抱え、1998年3月期には伊藤忠の有利子負債が5.2兆円に膨らんだ。1998年4月に社長就任した丹羽宇一郎氏は、不良資産の処理を中心とする経営改革に踏み込み、2000年3月期に特別損失3,950億円を一括計上し、長年引きずってきた負の遺産を清算した。この痛みを伴う経営処理を財務面で支えたのが、1999年12月にネットバブルのただ中で株式上場を果たしたCTC(伊藤忠テクノソリューションズ)の株式売却益である。不動産という旧来型投資の清算原資を、IT関連の新興上場益で賄う構図だった。この時間差の偶然こそが、丹羽改革を実行可能にした要因だった。 [18][19][20]

  • Annual Report 2003
    • [18]1998年3月期に有利子負債が5.2兆円に膨らんだ
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [19]2000年3月期に特別損失3,950億円を一括計上
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1999年12月 CTC(伊藤忠テクノサイエンス)が東証一部に株式上場

CTCは1972年に設立した情報子会社「伊藤忠データシステム」が母体で、1984年に米サンマイクロシステムズの国内販売権を取得、1992年にはシスコシステムズとオラクルの製品販売も始めた。米国の新興ベンチャー企業の販売権をいち早く獲得する商社的な事業開拓手法で伸び、上場時の初値時価総額は1.1兆円に達した。不動産バブルの含み損をネットバブルの高値で相殺する構図は、2つのバブルの時間差がたまたま噛み合った結果だった。不動産と石油で出血を重ねた1970年代〜1990年代の伊藤忠が、ITという別領域の資産売却益で過去の負債をまとめて処理した点に、2000年前後の特色がある。

  • Annual Report 2003
    • [18]1998年3月期に有利子負債が5.2兆円に膨らんだ
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [19]2000年3月期に特別損失3,950億円を一括計上
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1999年12月 CTC(伊藤忠テクノサイエンス)が東証一部に株式上場

ファミリーマートとCITICを軸とする非資源の拡充

1998年にファミリーマートの株式29%を推定約1,000億円で取得して以降、伊藤忠は22年をかけて出資比率を引き上げた。2014年と2016年に株式を追加取得し、2016年9月にはユニーグループHDとの経営統合により「ユニー・ファミリーマートHD」が発足した。2019年にはユニーの株式をドンキホーテHDに売却してコンビニ事業への集中体制を整え、2020年にはTOBで推定5,800億円を投じて株式94.7%を取得し、ファミリーマートの連結子会社化を完了した。22年を費やして連結子会社化に至るプロセスは、同社の投資スタンスを体現した。積み上げた累計投資額は推計8,000億円超にのぼり、食の分野における川上から川下までの垂直統合を、商社として成し遂げた事例となった。 [21]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [21]1998年 ファミリーマートに出資(22年・累計8000億円超を投じた段階的買収)

2015年1月、伊藤忠はタイのC.P.グループとの合弁会社CTBを設立し、CTBを通じてCITIC(中国中信集団)の株式20%を取得した。伊藤忠の出資額は6,890億円にのぼり、日本企業による中国企業への投資としては過去最大級の案件となった。1972年に中国政府から「友好商社」と認定されて以来、43年をかけて築いた信頼関係が、6,890億円の出資として可視化された。岡藤正広社長は、単なる取引関係を超えて資本で結ばれることで、より踏み込んだ事業連携が可能になると対外的に説明した。しかしCITICは事業の8割を金融が占める国営企業で、伊藤忠の経営関与の余地は限られた。2019年3月期には減損損失1,433億円を計上し、減損損失を別の収益資産で埋め続ける伊藤忠史のパターンが繰り返された。 [22][23]

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [22]2015年 CITIC(中国中信集団)との戦略的業務資本提携(株式20%取得)
    • [23]岡藤正広氏は本文当時の社長
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
    • [21]1998年 ファミリーマートに出資(22年・累計8000億円超を投じた段階的買収)
    • [22]2015年 CITIC(中国中信集団)との戦略的業務資本提携(株式20%取得)
    • [23]岡藤正広氏は本文当時の社長

伊藤忠商事の沿革1858〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
初代伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業を個人創業★★★
呉服太物商「紅忠」を開店★★
「伊藤糸店」を開店し綿糸卸売業を開始★★
経営近代化のために伊藤忠合名会社を設立★★★
合名会社を分割し「旧伊藤忠商事」と「伊藤忠商店」を設立★★
大正9年恐慌からの再建。重役を総入替し平均35歳へ若返り、堅実経営へ転換★★★
二代伊藤忠兵衛氏が呉羽紡績を創立★★★
紡績経営に参入★★★
旧伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店が合併し三興に★★
呉羽紡績・大同貿易と合併し「大建産業」に★★
過度経済力集中排除法により伊藤忠商事が再発足★★
大阪・東京両証券取引所に株式を上場
伊藤忠アメリカ会社を設立★★
越後正一氏が社長に就任★★★
非繊維部門の拡充による総合商社化を最重点に★★★
繊維重視の経営方針★★
東亜石油の株式取得・採掘から精製の一貫体制を志向★★★
伊藤忠香港会社を設立★★
安宅産業を救済合併・新日鐵の商権確保★★★
東京本社新社屋を北青山に竣工★★
東亜石油の株式売却・石油精製から撤退★★
室伏稔伊藤忠集団有限公司を設立★★
丹羽宇一郎ファミリーマートに出資★★
丹羽宇一郎伊藤忠テクノサイエンス(CTC)を東京証券取引所一部に上場
丹羽宇一郎特別損失3950億円を計上・バブル期の不良資産を清算★★
丹羽宇一郎伊藤忠食品を東京証券取引所一部に上場
丹羽宇一郎伊藤忠丸紅鉄鋼を会社分割で設立★★
丹羽宇一郎豪州資源開発3社を統合しITOCHU Minerals & Energy of Australiaを発足★★
小林栄三日本アクセスをTOBで取得
岡藤正広岡藤正広氏が代表取締役社長に就任
岡藤正広コロンビア石炭権益20%をドラモンド経由で取得
岡藤正広米ドール・フード・カンパニーから一部の事業を買収★★
岡藤正広CITIC(中国中信集団)と戦略的資本業務提携を締結★★★
鈴木善久ヤナセをTOBで取得★★
鈴木善久ユニー・ファミリーマートHDをTOBで取得し子会社化★★
石井敬太東京証券取引所プライム市場に移行
石井敬太日立建機の株式取得
石井敬太伊藤忠テクノソリューションズを完全子会社化★★
石井敬太大建工業をTOBで取得し上場廃止
石井敬太デサントをTOBで取得し2025年1月上場廃止★★
出典・参考
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 伊藤忠商事100年
  • 日経新聞(1985年1月3日)
  • 会社年鑑
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書
  • ダイヤモンド(1961年9月10日)
  • Annual Report 2003

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