伊藤忠商事の出発点にあったのは、扱う品でも商域でもなく、稼げる場所を選び直す速さである。初代伊藤忠兵衛が1858年に始めた麻布の持下りは、店を持たない代わりに毎年商品を組み替えられた。麻布から美濃結城、関東呉服へと品目を替え、商域も馬関から長崎・博多へ広げている。1870年に兄と得意場を分けて区域が萩・山口以西に狭まると、翌年には持下りそのものから撤退して大阪本町へ店を構えた。商いが行き詰まった末の撤退ではない。船便の発達で広島がすでに大阪の商域に入っていたように、仲介の余地が縮んでいく方向を先に読んだ判断だった。
紅忠が同業と分かれたのは、好況の最中に反動を仕込んだ点にある。1877年の西南の役で店頭が得意先で溢れていた時期に、掛売りを抑えて現金取引へ切り替え、余った資金は額面100円の金禄公債を60〜70円で買う運用に充当した。松方デフレで大阪の呉服商の多くが倒れた1884年に、紅忠は利益を残している。同じ設計は人にも向いた。純益を三つに割って店員へ配り、20歳前の者に巨額の取引を任せ、育った者は別家として独立させる。資本も人も店の外から借りずに済む仕組みが、次の代が綿糸貿易へ踏み出すときの原資になった。
初代伊藤忠兵衛は、家業を継げない次男として、店を構えない行商から商いを起こした人物である。近江国犬上郡豊郷村八目の呉服太物商・伊藤長兵衛家に生まれ、父からは、次男は兄と同業を営めないので早く独立して商いを興し分家せよと言い渡されていた。1858年、満15歳で叔父の伊藤武兵衛に同道して西国へ下り、麻布を担いで持下り商を始めた。最初の持下りで得た純益は7両にすぎない。翌1859年には叔父から100両を借りて岡山・広島へ商域を広げ、馬関からさらに足を延ばした長崎で、外国商館と黒船を初めて目にしている。商い高200両・純益30両を得たこの旅のあと、彼は北九州を自らの商域と定めた。
持下りの三年目から、忠兵衛は小売と小卸を離れて本格的な卸売へ移った。1860年、麻布800反を仕入れ、叔父に同道した前の二年と違って独力で長崎へ持ち下る。同年秋には美濃・尾張の仕入先から美濃結城と美濃縞を大量に仕入れて豊前・筑前へ下っている。生産量も消費量も多い美濃織物を主力に据えれば一度に扱える数量が増えると、手記には書かれている。このころには丸橋清平ら数名の荷持ちを使うようになり、18歳にして事業としての形が整った。1862年に父長兵衛が62歳で没して兄万治郎が六代長兵衛を襲名すると、忠兵衛は夏に麻類、秋に美濃結城、これに八王子・甲州産の関東呉服を加えて品目を広げた。
商域を広げるうえでの障害は、同業の組合だった。九州最北部に販路を持つ江州の持下り商は栄九講という組合を作り、講外の商人には問屋が荷を受けないという扱いで新参の参入を阻んでいた。忠兵衛は1861年に本業を九州持下りと定め、馬関・小倉・博多・久留米・柳川・佐賀へ販路を伸ばしたが、そのたびに講の妨害を受けた。数十年にわたり既得権に安住してきた講員にとって、新参の急進出は大きな脅威だった。彼は同じ新参の商人を集めてその代表となり、小倉の旅館で講員十数人と談判して加入を認めさせている。翌年には、入ったばかりの忠兵衛が栄九講全体の代表に推された。組合の外から争うのではなく、内側へ入って組合そのものを動かし、参入障壁を外したのである。
持下りの利益は、数年で兄の家督財産を上回っていた。1864年、忠兵衛は兄長兵衛から利益折半の協議を受け、子年から卯年までの4年間、旅方すなわち忠兵衛の商いと本家の商いを一つにして利益を分けるという契約を、双方の店卸帳に記した。1867年には兄が家業の「紅長」を時勢に遅れたとして廃業し、忠兵衛の持下りに加わって財産まで合体している。だが共同経営は長く続かなかった。1870年2月、兄弟はそれぞれ独立して得意場を分け、本家が馬関・長府・豊前・筑前、分家が萩・山口および宮市以西の厚狭市までとなった。長年の得意先を兄に譲った忠兵衛の側に残ったのは、狭い区域である。
区域が狭まった翌1871年は、廃藩置県と藩債整理で商況が冴えず、忠兵衛の事業も見るべき業績を上げられなかった。彼は旅先で三つの案を立て、防長の宮市町で兄と落ち合って決着をつけている。本家の得意場である馬関を譲り受けて本家は九州へ広げる案、大阪に開店して持下りをやめる案、防長のほかに芸備へ持下りを広げる案の三つだった。兄が馬関を渡さなかったため、大阪開店の案が残る。広島を本拠とする案もあったが、船便の発達で広島はすでに大阪の商域に入っており、直接大阪へ出るほうが早いと判断した。決定に従って博多の出張所も兄に譲り、残品は広島・尾道で売り切った。帰途に大阪へ立ち寄って開店の準備を進め、郷里の八目へ帰り着いたのは同年12月30日である。
1872年1月、30歳の忠兵衛は大阪本町2丁目に呉服太物商を開業し、生家の屋号「紅屋」の紅と自らの名の忠を取って「紅忠」と号した。取扱品は麻布全般・尾濃織物・関東織物で、支配人には持下り時代からの番頭・羽田治平を据えた。当時の呉服取引の中心は京都にあり、大阪の呉服商は伏見町に集まっていた。それでも本町を選んだのは、船着場の川口町からの道路が本町を通っていながら、地価が新町の半値以下だったからである。読みは当たり、数年のうちに伏見町の呉服商が次々と本町へ移って、本町は呉服街へ変わった。近くの本町通堺筋東には同郷の稲本利右衛門らが営む「稲西屋」があり、関東織物の取扱いでは国内随一だった。忠兵衛と店員はこの店を目標に置いている。
開店と同時に定めたのが店法だった。店員の権限と義務を明らかにし、毎月の月例会、半期に一度の大会、必要に応じた臨時会という三種の会議を置いて、忠兵衛みずから議長を務め、若い店員にも自由に意見を述べさせた。会議の決定には主人も従う仕来りで、20歳に満たない店員が尾濃や武甲に派遣され、巨額の取引を任されている。利益は店の純益を三つに分ける利益三分主義で配り、1893年の改正店法では本家納め5・本店積立3・店員配当2の割合となった。一人の息子を育てるより100人の息子を育てたいと、彼は家族や親しい者に語っていたという。1883年に京都のちりめん商を羽田治平へ与えたのが、別家の第一号である。のちに紡績業で身を立てた田附政次郎は、これだけ多数の人を育てて産を分かつことはなかなかできないと自伝に書き残している。
開店から数年は物価の下落が続き、1876年3月ごろに各品が大暴落したと忠兵衛は記している。潮目は1877年の西南の役で変わる。大阪の商業は活況を呈し、紅忠の店頭は持下り時代からの得意先で溢れた。輸入もののラシャ・ビロードの取扱いもこのころ始め、同業に見られない成績を上げている。忠兵衛はその最中に役後の反動を読んだ。呉服物の商習慣は現金仕入れと信用販売で資金繰りが常に弱かったため、1879年ごろから現金取引を勧め、まだ店が盛況だった1881年に「取引現金主義」の額を掲げて厳しく実行させた。手元に生じた余裕は金禄公債に向け、額面100円・年1割利付の公債を時価60〜70円で買い集めて両替商へ売却した。松方デフレの1884年に同業の大半が損失を受けて倒産が続出したなかで、紅忠は相応の利益さえ上げてこの反動期を越えた。
基盤が固まると、忠兵衛は店を分けて商いの幅を広げる方へ動いた。1884年1月に紅忠を伊藤本店と改称し、同時に京呉服を扱う伊藤京店を開設して染呉服へ進んでいる。1885年には甥の外海鉄次郎と組んで神戸に伊藤外海組を作り、1889年12月にサンフランシスコ市へ支店を開設し、絹ハンカチや花むしろなどの雑貨を直接輸出した。居留地の外国商館を介する当時の慣行を跳び越えた試みだったが、直貿易は業績が上がらないまま、外海の病気を理由に1895年に解散している。二代忠兵衛はのちに、父の毛織物輸入も伊藤外海組も予備調査も研究もしておらず「少々無謀にちかい」と書いた。それでも先に出たことが、次代の綿糸貿易の下地になった。
1893年に開いた伊藤糸店は、儲かるから始めた商いではない。呉服太物の卸が安定していたのに対し、綿糸は投機の対象で市況が乱調を繰り返し、開業から10年は本家の追加出資で赤字を埋め続けた。初代伊藤忠兵衛はそれでも糸店に別途「糸店法則」を定めて手放さず、その序文に遂に無一物の結果を見たと書いている。1897年に日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出が輸入を上回ると、この赤字の店が伊藤忠商事の母体になった。呉服で稼いだ資金を値動きの荒い商品へ10年注ぎ込んだことが、繊維商社としての位置を決めている。
二代伊藤忠兵衛が英国から持ち帰ったのは商品ではなく、取引の階層を減らす方法だった。ロンドンの商館の多くが代理店にすぎないと見抜いてブラッドフォードへ移り、問屋とブローカーの口銭を外して1割2分安く仕入れている。中間を減らして利ざやを作るこの型は、組織にもそのまま当てられた。五つに分かれた店を1908年の伊藤忠兵衛本部へ統合し、1914年には伊藤忠合名会社として資本と責任を一つにまとめる。大戦景気で膨らんだ営業を1918年に伊藤忠商事と伊藤忠商店へ割ったのも、拡大の速さと危険を切り分ける同じ設計だった。
呉服太物の問屋として固まった商いを、忠兵衛は1893年にもう一度動かした。近代綿紡績糸の有望性に着目し、綿糸を扱うために大阪東区安土町2丁目へ伊藤糸店を開設したのである。この店がのちの伊藤忠商事発足の礎石になった。店主は忠兵衛、店主代理に伊藤忠次郎、後見支配人に田附源兵衛、主任に村岸休五郎を置く陣容で始めている。開店と同時に店法の成文化にも手を着け、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した。読みは外れていない。1897年には日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出高が初めて輸入高を凌いで清国・朝鮮の市場へ向かった。呉服の卸で得た資金を、価格変動の激しい綿糸の商いへ振り向ける判断だった。
糸店の開業に合わせて、記帳の方法も入れ替えた。創業以来使っていた大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年には大阪商業学校本科の卒業生・岡本一太郎を採用してこれに当たらせている。当時の呉服問屋としては画期的な改革だった。1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没した際、出荷主を通じて英国で保険契約が結ばれていたため実損を免れた経験から、遠隔地へ送る商品にも保険を付けるようにしている。1898年3月には月刊誌「実業」を創刊し、主要織物の統計と産地の商況を載せて織物業界の指導誌となり、一部は市販された。当時の呉服問屋の商いは手形が一切取れず、集金の大半が盆と正月の得意回りに限られていたから、数字で計画を立てられる商売ではなかった。
しかし糸店の経営は、開業から10年にわたって苦しんだ。綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返したからである。1896年の恐慌以来、赤字を補うために数次にわたって本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年にも多額の資金がつぎ込まれてようやく再建にこぎつけた。この年に支配人は田附源兵衛から村岸休五郎へ代わっている。忠兵衛は各店共通の店法とは別に糸店のための「糸店法則」を定め、その序文に、得意の信用と相応の利益を得ながら種々の困難を生じて遂に無一物の結果を見たと記した。須磨で静養していた忠兵衛からは、再建後も数度にわたって資金の救援を受けている。
1903年7月8日、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で没した。残した事業は伊藤本店・伊藤京店・伊藤西店・伊藤糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んでいた。家督を継いだのは次男の精一で、二代伊藤忠兵衛を襲名した当時は満17歳、滋賀県立商業学校に在学中である。退学させてすぐ家業を継がせるという親族や番頭の案は、母やゑの強い意見で退けられ、卒業まで待つことになった。翌1904年、熱望していた東京高等商業学校への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店する。日露戦争の年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた。主人の跡取りでありながら最下級の職務から始め、最も体力を要する荷造方に配されて、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかったという。
日露戦争は、伊藤家の商いを国内の卸から大陸の輸出へ押し出した。1904年10月、韓国との貿易を見込んで田中清吉と高井兵三郎を視察に送り、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月には京城へ出張所を開設している。中国本土へも1906年2月から田中と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年かけて回り、同年12月に中村を上海へ常駐させた。上海では日本綿花の上海支店の好意で「日信分行」の名義を借りて営業を始めている。ただし加工綿布は品質で英国品に及ばず、輸出は5年にわたって損失を重ね、利益の見込みが立たなかった。
五つに分かれた店をそのまま置けば、資金も人事も店ごとに閉じてしまう。伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、糸店は分家の伊藤孝太良家が分担して経営しており、初代の没後は統一が課題になっていた。1908年夏、本家と分家の事業を合同して同族組織の伊藤忠兵衛本部が設けられる。1872年の大阪開店以来の改革だった。本部は各店の基本方針の決定、業務の指導監督、人事の管理、資金の調達と配分、決算を統轄する機関である。同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城と上海の出張所をその管下に置き、東京には糸店の支店を新設した。事業の分担も定まり、義兄の伊藤忠三が京店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った。
二代忠兵衛は満22歳の春に渡米し、ニューヨークで当時日本銀行理事だった井上準之助の世話を受けたのち、英国へ渡った。ロンドン大学の経済部で講義を受けたが聞き取れず、下宿で教科書を読めば大半が理解できたため通学をやめ、家業の織物の直輸入に精を出す。そこで見つけたのが取引の構造だった。ロンドンの商館の多くは代理店にすぎず、マンチェスターやブラッドフォードの商品はブローカーが仲介していた。彼はブラッドフォードへ移って直接取引を始め、問屋・ブローカー・商館の口銭を除くことで1割2分ほど安く買い、しま・ズボン地や高級外とう地では2割安く仕入れた。英国の低金利を使ったこの直輸入は帰国後も続き、持ち帰った技術書をもとに1913年8月には大阪安土町へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫を建てている。
帰国後の伊藤家は、店の集合から会社へ組織を替えた。1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代忠兵衛を代表社員として伊藤忠合名会社が設立される。設立は同月29日で、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めたものだった。資本金200万円、社員4名の出資は伊藤忠兵衛120万円、伊藤とき30万円、伊藤忠三36万円、伊藤竹之助14万円で、英語ではC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した。改組の大きな理由は、初代の没後に遺産の配分が済んでおらず、伊藤家各人の持分と責任の所在を明らかにする必要があったことである。同時に伊藤6家を同族と定める家憲を制定した。1915年1月の披露では総支配人の田中良蔵ら3名の長老が勇退し、経営は若手中心へ移った。
第一次大戦は商いの規模を変えた。日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1919年の21億円へ5年で3倍以上に増え、三品綿糸相場は1916年1月の118円95銭から翌1917年7月に470円の高値を付けている。1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分する。資本金1,000万円の伊藤忠商事が糸店と神戸・東京・上海など国内外の支店を継ぎ、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャの本店・京店を継いだ。合名会社は資本金2,000万円へ増資し、両社の株式を保有する側へ退いた。二代は披露の席で『時代が次第に軽佻となり、浮利にはしり、投機にながれる傾向が多くなってきたが、それはもっともうれうべきことで、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進んでゆきたい』と述べ、着実を信条に掲げた。1919年11月30日に終わる第1期は税引前700万円余の利益、資本金に対する利益率70%だった。
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事実根拠:出所(伊藤忠商事)