伊藤忠商事 の歴史

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沿革

1858〜2025年 1858年に初代伊藤忠兵衛氏が近江国から始めた麻布の持下り行商が起源。1977年に安宅産業を救済合併し、2020年にはファミリーマートを完全子会社化して国内消費の事業を厚くした。資源権益に頼らず、2026年3月期の当期純利益9,003億円で5大商社の首位に立つ。

沿革

1858年に初代伊藤忠兵衛氏が近江国から始めた麻布の持下り行商が起源。

1977年に安宅産業を救済合併し、2020年にはファミリーマートを完全子会社化して国内消費の事業を厚くした。資源権益に頼らず、2026年3月期の当期純利益9,003億円で5大商社の首位に立つ。

1858年〜創業期初代伊藤忠兵衛の麻布持ち下りと呉服太物商「紅忠」の開店

  1. 初代伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業を個人創業
  2. 呉服太物商「紅忠」を開店
伊藤忠商事売上高

1893年〜成長期伊藤忠合名会社の設立と旧伊藤忠商事・伊藤忠商店への分割

  1. 「伊藤糸店」を開店し綿糸卸売業を開始
  2. 経営近代化のために伊藤忠合名会社を設立
  3. 合名会社を分割し「旧伊藤忠商事」と「伊藤忠商店」を設立
伊藤忠商事売上高

1920年〜転換期大正9年恐慌からの再建と大建産業への戦時統合

  1. 大正9年恐慌からの再建。重役を総入替し平均35歳へ若返り、堅実経営へ転換
  2. 二代伊藤忠兵衛氏が呉羽紡績を創立
  3. 旧伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店が合併し三興に
  4. 呉羽紡績・大同貿易と合併し「大建産業」に
伊藤忠商事売上高

1949年〜安定成長期伊藤忠商事の再発足と越後正一社長の下での総合商社化

  1. 過度経済力集中排除法により伊藤忠商事が再発足
  2. 大阪・東京両証券取引所に株式を上場
  3. 伊藤忠アメリカ会社を設立
  4. 越後正一氏が社長に就任
  5. 非繊維部門の拡充による総合商社化を最重点に
  6. 繊維重視の経営方針
  7. 東亜石油の株式取得・採掘から精製の一貫体制を志向
  8. 戸崎誠喜氏が社長に就任
  9. 伊藤忠香港会社を設立
伊藤忠商事売上高1976年3月期56,307億円

1977年〜転換期安宅産業の救済合併と石油精製からの撤退

  1. 安宅産業を救済合併・新日鐵の商権確保
  2. 東京本社新社屋を北青山に竣工
  3. 東亜石油の株式売却・石油精製から撤退
  4. 伊藤忠集団有限公司を設立
  5. ファミリーマートに出資
  6. 伊藤忠テクノサイエンス(CTC)を東京証券取引所一部に上場
伊藤忠商事売上高1999年3月期139,005億円

2000年〜成熟期3950億円の不良資産清算と岡藤正広の社長就任

  1. 特別損失3950億円を計上・バブル期の不良資産を清算
  2. 伊藤忠食品を東京証券取引所一部に上場
  3. 伊藤忠丸紅鉄鋼を会社分割で設立
  4. 豪州資源開発3社を統合しITOCHU Minerals & Energy of Australiaを発足
  5. 小林栄三氏が代表取締役社長に就任
  6. 日本アクセスをTOBで取得
  7. 15年以上続いた在庫操作の一括処理と、人事ローテーションの制度化
  8. 岡藤正広氏が代表取締役社長に就任
  9. ドール・フード・カンパニーから一部の事業を買収
  10. CITIC(中国中信集団)と戦略的資本業務提携を締結
  11. ヤナセをTOBで取得
  12. 8年ぶりの社長交代を、最高経営責任者と最高執行責任者の分離として設計した
  13. 4件の排除措置命令と、調査が始まる前に自ら取り止めた違反行為
  14. 持分法から連結へ移行し、総合スーパーを外してコンビニだけを残した再編
  15. ユニー・ファミリーマートHDをTOBで取得し子会社化
  16. 公開買付けによりデサント株式を追加取得
  17. 公開買付けによりファミリーマートを完全子会社化
  18. 日立建機の株式取得
  19. 伊藤忠テクノソリューションズを完全子会社化
  20. 大建工業をTOBで取得し上場廃止
  21. デサントをTOBで取得し2025年1月上場廃止
  22. C.P. Pokphand株式をCPF子会社へ譲渡する契約を締結
伊藤忠商事売上高2026年3月期148,231億円

系譜

前身は1858年に初代伊藤忠兵衛氏が始めた麻布類の卸売業。1941年に丸紅商店・岸本商店と合併して三興を、1944年に呉羽紡績と合併して大建産業を設立した。1949年には過度経済力集中排除法による分割で再発足。合併と分割を経て、総合商社へ多角化した。

系譜

前身は1858年に初代伊藤忠兵衛氏が始めた麻布類の卸売業。

1941年に丸紅商店・岸本商店と合併して三興を、1944年に呉羽紡績と合併して大建産業を設立した。1949年には過度経済力集中排除法による分割で再発足。合併と分割を経て、総合商社へ多角化した。

1858年 1918年 1941年 1944年 1949年 1977年 2020年2024年 2026年 伊藤忠兵衛 1858年麻布の持ち下り 伊藤忠商店 1918年分割で設立 伊藤忠商事(旧) 1918年合名会社を分割 岸本商店 1941年三興に合流 三興 1941年3社合併 呉羽紡績 1944年大建産業に合流 大建産業 1944年呉羽紡績らと合併 丸紅 1949年集排法で分割 伊藤忠商事 1949年集排法で再発足 呉羽紡績 1949年集排法で分割 安宅産業 1977年救済合併 ファミリーマート 2020年完全子会社化 デサント 2024年TOBで取得
長期業績の推移 1949〜2026年

業績

伊藤忠商事:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2026年3月期

第1章 1858年〜 初代伊藤忠兵衛の麻布持ち下りと呉服太物商「紅忠」の開店麻布の持下りの廃業による大阪本町・紅忠の開業

筆者考察y.sugiura, author

伊藤忠商事の出発点にあったのは、扱う品でも商域でもなく、稼げる場所を選び直す速さである。初代伊藤忠兵衛が1858年に始めた麻布の持下りは、店を持たない代わりに毎年商品を組み替えられた。麻布から美濃結城、関東呉服へと品目を替え、商域も馬関から長崎・博多へ広げている。1870年に兄と得意場を分けて区域が萩・山口以西に狭まると、翌年には持下りそのものから撤退して大阪本町へ店を構えた。商いが行き詰まった末の撤退ではない。船便の発達で広島がすでに大阪の商域に入っていたように、仲介の余地が縮んでいく方向を先に読んだ判断だった。

紅忠が同業と分かれたのは、好況の最中に反動を仕込んだ点にある。1877年の西南の役で店頭が得意先で溢れていた時期に、掛売りを抑えて現金取引へ切り替え、余った資金は額面100円の金禄公債を60〜70円で買う運用に充当した。松方デフレで大阪の呉服商の多くが倒れた1884年に、紅忠は利益を残している。同じ設計は人にも向いた。純益を三つに割って店員へ配り、20歳前の者に巨額の取引を任せ、育った者は別家として独立させる。資本も人も店の外から借りずに済む仕組みが、次の代が綿糸貿易へ踏み出すときの原資になった。

伊藤家が営んだ店の数 紅忠の開店(1872年)から伊藤西店の開設まで(店)

1 1872 2 1884 3 1885 4 1886
  • 紅忠(1872年1月開店、1884年1月に伊藤本店へ改称)/伊藤京店(1884年1月)/伊藤外海組(1885年、神戸)/伊藤西店(1886年、瓦町でラシャ卸)。1882年に開いた京都のちりめん商は1883年に支配人の羽田治平へ譲ったため含めない。
  • 出所は伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)。

1858年〜麻布の持下りによる西国での地盤づくり

初代伊藤忠兵衛は、家業を継げない次男として、店を構えない行商から商いを起こした人物である。近江国犬上郡豊郷村八目の呉服太物商・伊藤長兵衛家に生まれ、父からは、次男は兄と同業を営めないので早く独立して商いを興し分家せよと言い渡されていた。1858年、満15歳で叔父の伊藤武兵衛に同道して西国へ下り、麻布を担いで持下り商を始めた。最初の持下りで得た純益は7両にすぎない。翌1859年には叔父から100両を借りて岡山・広島へ商域を広げ、馬関からさらに足を延ばした長崎で、外国商館と黒船を初めて目にしている。商い高200両・純益30両を得たこの旅のあと、彼は北九州を自らの商域と定めた。

  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [1]父長兵衛が次男の忠兵衛に、早く独立の商業に就いて分家せよと言い渡した
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
    • [2]1858年、初代伊藤忠兵衛が近江から西日本各地へ麻布類の持下り卸販売を始めた
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [3]最初の持下りで得た純益は7両
    • [4]1859年5月下旬の持下りで叔父武兵衛から100両を借り、岡山・広島を商い、馬関から長崎へ回って外国貿易の実情に触れた
    • [5]この持下りで商い高200両・純益30両を上げ、北九州を商域と定めた

持下りの三年目から、忠兵衛は小売と小卸を離れて本格的な卸売へ移った。1860年、麻布800反を仕入れ、叔父に同道した前の二年と違って独力で長崎へ持ち下る。同年秋には美濃・尾張の仕入先から美濃結城と美濃縞を大量に仕入れて豊前・筑前へ下っている。生産量も消費量も多い美濃織物を主力に据えれば一度に扱える数量が増えると、手記には書かれている。このころには丸橋清平ら数名の荷持ちを使うようになり、18歳にして事業としての形が整った。1862年に父長兵衛が62歳で没して兄万治郎が六代長兵衛を襲名すると、忠兵衛は夏に麻類、秋に美濃結城、これに八王子・甲州産の関東呉服を加えて品目を広げた。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [6]1860年、持下り3年目に麻布800反を仕入れて独力で長崎へ持ち下った
    • [7]1860年秋に美濃・尾張の仕入先から美濃結城と美濃縞を大量に仕入れ、豊前・筑前へ下った
    • [9]丸橋清平ほか数名の荷持ちを使う体制になり、18歳で事業としての形が整った
    • [10]1862年9月28日に父伊藤長兵衛が62歳で死去し、兄万治郎が六代伊藤長兵衛を襲名して家督を継いだ。忠兵衛は夏の麻類、秋の美濃結城に関東呉服(八王子・甲州産の絹織物類)の取扱いを加えた
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [8]生産量も消費量も多い美濃織物を多く取り扱うことで、小売・小卸から本格的な卸売へ発展させると手記に記した

商域を広げるうえでの障害は、同業の組合だった。九州最北部に販路を持つ江州の持下り商は栄九講という組合を作り、講外の商人には問屋が荷を受けないという扱いで新参の参入を阻んでいた。忠兵衛は1861年に本業を九州持下りと定め、馬関・小倉・博多・久留米・柳川・佐賀へ販路を伸ばしたが、そのたびに講の妨害を受けた。数十年にわたり既得権に安住してきた講員にとって、新参の急進出は大きな脅威だった。彼は同じ新参の商人を集めてその代表となり、小倉の旅館で講員十数人と談判して加入を認めさせている。翌年には、入ったばかりの忠兵衛が栄九講全体の代表に推された。組合の外から争うのではなく、内側へ入って組合そのものを動かし、参入障壁を外したのである。

  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [11]栄九講は筑前・豊前北部に販路を持つ江州の呉服太物持下り業者の組合で、講外商人には問屋が荷受けを拒むなど新規参入を排斥していた
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [12]1861年に本業を「九州持下り」と定め、馬関・小倉・筑前芦屋・博多・久留米・柳川・佐賀へ販路を広げた
    • [13]数十年にわたり既得権に安住してきた栄九講の組合員にとって、忠兵衛の急進出は大きな脅威であり、ことごとく彼の活動を抑えようとした
    • [14]忠兵衛は新参の商人を集めてその代表となり、小倉の旅館で栄九講の十数人と話し合って加入を認めさせた
    • [15]加入の翌年、新講員の忠兵衛が栄九講全体の代表に推された
参考文献[1]-[15]
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [1]父長兵衛が次男の忠兵衛に、早く独立の商業に就いて分家せよと言い渡した
    • [8]生産量も消費量も多い美濃織物を多く取り扱うことで、小売・小卸から本格的な卸売へ発展させると手記に記した
    • [11]栄九講は筑前・豊前北部に販路を持つ江州の呉服太物持下り業者の組合で、講外商人には問屋が荷受けを拒むなど新規参入を排斥していた
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
    • [2]1858年、初代伊藤忠兵衛が近江から西日本各地へ麻布類の持下り卸販売を始めた
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [3]最初の持下りで得た純益は7両
    • [4]1859年5月下旬の持下りで叔父武兵衛から100両を借り、岡山・広島を商い、馬関から長崎へ回って外国貿易の実情に触れた
    • [5]この持下りで商い高200両・純益30両を上げ、北九州を商域と定めた
    • [6]1860年、持下り3年目に麻布800反を仕入れて独力で長崎へ持ち下った
    • [7]1860年秋に美濃・尾張の仕入先から美濃結城と美濃縞を大量に仕入れ、豊前・筑前へ下った
    • [9]丸橋清平ほか数名の荷持ちを使う体制になり、18歳で事業としての形が整った
    • [10]1862年9月28日に父伊藤長兵衛が62歳で死去し、兄万治郎が六代伊藤長兵衛を襲名して家督を継いだ。忠兵衛は夏の麻類、秋の美濃結城に関東呉服(八王子・甲州産の絹織物類)の取扱いを加えた
    • [12]1861年に本業を「九州持下り」と定め、馬関・小倉・筑前芦屋・博多・久留米・柳川・佐賀へ販路を広げた
    • [13]数十年にわたり既得権に安住してきた栄九講の組合員にとって、忠兵衛の急進出は大きな脅威であり、ことごとく彼の活動を抑えようとした
    • [14]忠兵衛は新参の商人を集めてその代表となり、小倉の旅館で栄九講の十数人と話し合って加入を認めさせた
    • [15]加入の翌年、新講員の忠兵衛が栄九講全体の代表に推された

1864年〜兄との得意場分割と、持下りを畳んでの大阪出店

持下りの利益は、数年で兄の家督財産を上回っていた。1864年、忠兵衛は兄長兵衛から利益折半の協議を受け、子年から卯年までの4年間、旅方すなわち忠兵衛の商いと本家の商いを一つにして利益を分けるという契約を、双方の店卸帳に記した。1867年には兄が家業の「紅長」を時勢に遅れたとして廃業し、忠兵衛の持下りに加わって財産まで合体している。だが共同経営は長く続かなかった。1870年2月、兄弟はそれぞれ独立して得意場を分け、本家が馬関・長府・豊前・筑前、分家が萩・山口および宮市以西の厚狭市までとなった。長年の得意先を兄に譲った忠兵衛の側に残ったのは、狭い区域である。

  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [16]数年の持下りで得た忠兵衛の利益は、先祖代々の蓄積である兄長兵衛の家督財産を上回っていた
    • [17]1864年、兄長兵衛からの利益折半の協議を承諾し、子年から卯年まで4年間、旅方と本家の商いを一所にする契約書を双方の店卸帳に記載した
    • [19]1870年2月に兄弟が独立し、本家の得意場を馬関・長府・豊前・筑前、分家の得意場を萩・山口および宮市以西の厚狭市までと契約した
    • [20]分家の得意場は区域が狭小であったため、売残品に限り長府・馬関までの販売を認める但し書きが付された
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [18]1867年に兄長兵衛が家業の「紅長」を廃業して忠兵衛の持下りに加わり、のちに財産も合体した

区域が狭まった翌1871年は、廃藩置県と藩債整理で商況が冴えず、忠兵衛の事業も見るべき業績を上げられなかった。彼は旅先で三つの案を立て、防長の宮市町で兄と落ち合って決着をつけている。本家の得意場である馬関を譲り受けて本家は九州へ広げる案、大阪に開店して持下りをやめる案、防長のほかに芸備へ持下りを広げる案の三つだった。兄が馬関を渡さなかったため、大阪開店の案が残る。広島を本拠とする案もあったが、船便の発達で広島はすでに大阪の商域に入っており、直接大阪へ出るほうが早いと判断した。決定に従って博多の出張所も兄に譲り、残品は広島・尾道で売り切った。帰途に大阪へ立ち寄って開店の準備を進め、郷里の八目へ帰り着いたのは同年12月30日である。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [21]1871年は廃藩置県・藩債整理などで商況が冴えず、新得意場が狭かったこともあり目ぼしい業績を上げられなかった
    • [25]広島本拠の案もあったが、船便の発達で広島はすでに大阪の商域に入っていたため、直接大阪へ進出する決心を固めた
    • [26]決定に従い博多の出張所を兄に譲り、残品は広島・尾道で売り切った
    • [27]帰途に大阪へ立ち寄って開店の準備を進め、郷里の八目へ帰り着いたのは1871年12月30日であった
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [22]1871年11月下旬、防長の宮市町(現防府市)の市川安兵衛方で兄と集議し、方針を決定した
    • [23]将来の計画として、馬関の譲り受けと本家の九州拡張、大阪への新規開店と持下りの廃止、芸備州への持下り拡張の三案を挙げた
    • [24]兄が馬関の譲渡に応じなかったため、大阪開店を断然決心すると手記に記した

1872年1月、30歳の忠兵衛は大阪本町2丁目に呉服太物商を開業し、生家の屋号「紅屋」の紅と自らの名の忠を取って「紅忠」と号した。取扱品は麻布全般・尾濃織物・関東織物で、支配人には持下り時代からの番頭・羽田治平を据えた。当時の呉服取引の中心は京都にあり、大阪の呉服商は伏見町に集まっていた。それでも本町を選んだのは、船着場の川口町からの道路が本町を通っていながら、地価が新町の半値以下だったからである。読みは当たり、数年のうちに伏見町の呉服商が次々と本町へ移って、本町は呉服街へ変わった。近くの本町通堺筋東には同郷の稲本利右衛門らが営む「稲西屋」があり、関東織物の取扱いでは国内随一だった。忠兵衛と店員はこの店を目標に置いている。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [28]1872年1月に大阪本町2丁目で呉服太物商を開店し、生家の屋号「紅屋」の紅と自らの名の忠を取って屋号を「紅忠」と定めた
    • [29]開店時は30歳で、取扱品は麻布全般・尾濃織物・関東織物、支配人に番頭の羽田治平を登用した
    • [30]当時の呉服物の取扱いは京都が中心で、大阪の呉服商は伏見町に集まっていた
    • [32]その後、伏見町の呉服商が続々と本町へ移り、本町は呉服街に変わった
    • [33]近くの本町通堺筋東には同郷の稲本利右衛門・西村重郎兵衛両家の合資による「稲西屋」があり、関東織物の取扱いで国内随一だった
    • [34]忠兵衛と店員たちは稲西屋を努力目標とした
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [31]本町を選んだ根拠として、船着場の川口町からの道路が本町を通っていながら地価が新町の半値以下であったことを挙げている
参考文献[16]-[34]
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [16]数年の持下りで得た忠兵衛の利益は、先祖代々の蓄積である兄長兵衛の家督財産を上回っていた
    • [17]1864年、兄長兵衛からの利益折半の協議を承諾し、子年から卯年まで4年間、旅方と本家の商いを一所にする契約書を双方の店卸帳に記載した
    • [19]1870年2月に兄弟が独立し、本家の得意場を馬関・長府・豊前・筑前、分家の得意場を萩・山口および宮市以西の厚狭市までと契約した
    • [20]分家の得意場は区域が狭小であったため、売残品に限り長府・馬関までの販売を認める但し書きが付された
    • [22]1871年11月下旬、防長の宮市町(現防府市)の市川安兵衛方で兄と集議し、方針を決定した
    • [23]将来の計画として、馬関の譲り受けと本家の九州拡張、大阪への新規開店と持下りの廃止、芸備州への持下り拡張の三案を挙げた
    • [24]兄が馬関の譲渡に応じなかったため、大阪開店を断然決心すると手記に記した
    • [31]本町を選んだ根拠として、船着場の川口町からの道路が本町を通っていながら地価が新町の半値以下であったことを挙げている
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [18]1867年に兄長兵衛が家業の「紅長」を廃業して忠兵衛の持下りに加わり、のちに財産も合体した
    • [21]1871年は廃藩置県・藩債整理などで商況が冴えず、新得意場が狭かったこともあり目ぼしい業績を上げられなかった
    • [25]広島本拠の案もあったが、船便の発達で広島はすでに大阪の商域に入っていたため、直接大阪へ進出する決心を固めた
    • [26]決定に従い博多の出張所を兄に譲り、残品は広島・尾道で売り切った
    • [27]帰途に大阪へ立ち寄って開店の準備を進め、郷里の八目へ帰り着いたのは1871年12月30日であった
    • [28]1872年1月に大阪本町2丁目で呉服太物商を開店し、生家の屋号「紅屋」の紅と自らの名の忠を取って屋号を「紅忠」と定めた
    • [29]開店時は30歳で、取扱品は麻布全般・尾濃織物・関東織物、支配人に番頭の羽田治平を登用した
    • [30]当時の呉服物の取扱いは京都が中心で、大阪の呉服商は伏見町に集まっていた
    • [32]その後、伏見町の呉服商が続々と本町へ移り、本町は呉服街に変わった
    • [33]近くの本町通堺筋東には同郷の稲本利右衛門・西村重郎兵衛両家の合資による「稲西屋」があり、関東織物の取扱いで国内随一だった
    • [34]忠兵衛と店員たちは稲西屋を努力目標とした

1872年〜店法と利益三分主義、直輸出への進出

開店と同時に定めたのが店法だった。店員の権限と義務を明らかにし、毎月の月例会、半期に一度の大会、必要に応じた臨時会という三種の会議を置いて、忠兵衛みずから議長を務め、若い店員にも自由に意見を述べさせた。会議の決定には主人も従う仕来りで、20歳に満たない店員が尾濃や武甲に派遣され、巨額の取引を任されている。利益は店の純益を三つに分ける利益三分主義で配り、1893年の改正店法では本家納め5・本店積立3・店員配当2の割合となった。一人の息子を育てるより100人の息子を育てたいと、彼は家族や親しい者に語っていたという。1883年に京都のちりめん商を羽田治平へ与えたのが、別家の第一号である。のちに紡績業で身を立てた田附政次郎は、これだけ多数の人を育てて産を分かつことはなかなかできないと自伝に書き残している。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [35]開店と同時に店法を定め、毎月の月例会・半期に一度の大会・必要に応じた緊急臨時会の三種の会議を置き、忠兵衛が議長となって出席店員に自由に意見を述べさせた
    • [36]会議の決定は主人もこれに従う仕来りで、20歳にならない若い店員が尾濃や武甲に派遣されて巨額の取引を任された
    • [37]利益三分主義は店の純益を分ける方法で、1893年の改正店法では本家納め5・本店積立3・店員配当2の割合となった
    • [38]忠兵衛は「1人の息子をそだてるよりも100人の息子をそだてたい。それが商売繁栄の本道だ」と家族や親しい者に語っていた
    • [39]1882年に京都堺町通に創設したちりめん商を、翌1883年に支配人の羽田治平へ与えた。これが別家の第一号である
  • 田附政次郎自伝(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [40]田附政次郎は自伝で「伊藤忠兵衛氏のようにあれだけ多数の人をそだて、産をわかつことはなかなかできないことだ」と述べた

開店から数年は物価の下落が続き、1876年3月ごろに各品が大暴落したと忠兵衛は記している。潮目は1877年の西南の役で変わる。大阪の商業は活況を呈し、紅忠の店頭は持下り時代からの得意先で溢れた。輸入もののラシャ・ビロードの取扱いもこのころ始め、同業に見られない成績を上げている。忠兵衛はその最中に役後の反動を読んだ。呉服物の商習慣は現金仕入れと信用販売で資金繰りが常に弱かったため、1879年ごろから現金取引を勧め、まだ店が盛況だった1881年に「取引現金主義」の額を掲げて厳しく実行させた。手元に生じた余裕は金禄公債に向け、額面100円・年1割利付の公債を時価60〜70円で買い集めて両替商へ売却した。松方デフレの1884年に同業の大半が損失を受けて倒産が続出したなかで、紅忠は相応の利益さえ上げてこの反動期を越えた。

  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [41]1872年以来物価が下落し、1876年3月ごろにその極に達して各品が大暴落したと初代忠兵衛が記録している
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [42]1877年の西南の役で大阪の商業は活況を呈し、紅忠の店頭は持下り当時からの得意先で溢れ、この活況は1881年ごろまで続いた
    • [43]このころ輸入もののラシャ・ビロードの取扱いを始め、同業者に見られない成績を上げた
    • [44]呉服物取引は現金仕入れと信用販売が常態で資金繰りが弱かったため、1879年ごろから現金取引を勧め、1881年に「取引現金主義」の額を掲げて実行させた
    • [45]1879年から店員を山陽・九州方面へ出張させ、額面100円・年1割利付の金禄公債を時価60〜70円で買い集め、大阪の両替商・黒川幸七商店へ売却して利益を得た
    • [46]1884年の不況で同業者のほとんどが損失を受け倒産者が続出したが、紅忠は相応の利益を上げて反動期を乗り切った

基盤が固まると、忠兵衛は店を分けて商いの幅を広げる方へ動いた。1884年1月に紅忠を伊藤本店と改称し、同時に京呉服を扱う伊藤京店を開設して染呉服へ進んでいる。1885年には甥の外海鉄次郎と組んで神戸に伊藤外海組を作り、1889年12月にサンフランシスコ市へ支店を開設し、絹ハンカチや花むしろなどの雑貨を直接輸出した。居留地の外国商館を介する当時の慣行を跳び越えた試みだったが、直貿易は業績が上がらないまま、外海の病気を理由に1895年に解散している。二代忠兵衛はのちに、父の毛織物輸入も伊藤外海組も予備調査も研究もしておらず「少々無謀にちかい」と書いた。それでも先に出たことが、次代の綿糸貿易の下地になった。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [47]1884年1月に紅忠を伊藤本店と改称し、同時に染呉服への進出を目指して伊藤京店を開業した
    • [48]1885年に甥の外海鉄次郎との組合組織で神戸に伊藤外海組を創立し、1889年12月にサンフランシスコ市へ支店を開いて絹ハンカチ・花むしろなどの雑貨類を直輸出した
    • [49]伊藤外海組の営業は1895年まで続いたが、外海鉄次郎の病気のため鶴谷忠五郎に後を譲り、同年に組合を解散した
  • 二代伊藤忠兵衛『在りし日の父』1937年(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [50]二代忠兵衛は、父の毛織物輸入や伊藤外海組について予備調査も研究もしておらず「少々無謀にちかいともいへる」と記した
参考文献[35]-[50]
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [35]開店と同時に店法を定め、毎月の月例会・半期に一度の大会・必要に応じた緊急臨時会の三種の会議を置き、忠兵衛が議長となって出席店員に自由に意見を述べさせた
    • [36]会議の決定は主人もこれに従う仕来りで、20歳にならない若い店員が尾濃や武甲に派遣されて巨額の取引を任された
    • [37]利益三分主義は店の純益を分ける方法で、1893年の改正店法では本家納め5・本店積立3・店員配当2の割合となった
    • [38]忠兵衛は「1人の息子をそだてるよりも100人の息子をそだてたい。それが商売繁栄の本道だ」と家族や親しい者に語っていた
    • [39]1882年に京都堺町通に創設したちりめん商を、翌1883年に支配人の羽田治平へ与えた。これが別家の第一号である
    • [42]1877年の西南の役で大阪の商業は活況を呈し、紅忠の店頭は持下り当時からの得意先で溢れ、この活況は1881年ごろまで続いた
    • [43]このころ輸入もののラシャ・ビロードの取扱いを始め、同業者に見られない成績を上げた
    • [44]呉服物取引は現金仕入れと信用販売が常態で資金繰りが弱かったため、1879年ごろから現金取引を勧め、1881年に「取引現金主義」の額を掲げて実行させた
    • [45]1879年から店員を山陽・九州方面へ出張させ、額面100円・年1割利付の金禄公債を時価60〜70円で買い集め、大阪の両替商・黒川幸七商店へ売却して利益を得た
    • [46]1884年の不況で同業者のほとんどが損失を受け倒産者が続出したが、紅忠は相応の利益を上げて反動期を乗り切った
    • [47]1884年1月に紅忠を伊藤本店と改称し、同時に染呉服への進出を目指して伊藤京店を開業した
    • [48]1885年に甥の外海鉄次郎との組合組織で神戸に伊藤外海組を創立し、1889年12月にサンフランシスコ市へ支店を開いて絹ハンカチ・花むしろなどの雑貨類を直輸出した
    • [49]伊藤外海組の営業は1895年まで続いたが、外海鉄次郎の病気のため鶴谷忠五郎に後を譲り、同年に組合を解散した
  • 田附政次郎自伝(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [40]田附政次郎は自伝で「伊藤忠兵衛氏のようにあれだけ多数の人をそだて、産をわかつことはなかなかできないことだ」と述べた
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [41]1872年以来物価が下落し、1876年3月ごろにその極に達して各品が大暴落したと初代忠兵衛が記録している
  • 二代伊藤忠兵衛『在りし日の父』1937年(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [50]二代忠兵衛は、父の毛織物輸入や伊藤外海組について予備調査も研究もしておらず「少々無謀にちかいともいへる」と記した

第2章 1893年〜 伊藤忠合名会社の設立と旧伊藤忠商事・伊藤忠商店への分割伊藤糸店の綿糸卸から伊藤忠商事への分社独立

筆者考察y.sugiura, author

1893年に開いた伊藤糸店は、儲かるから始めた商いではない。呉服太物の卸が安定していたのに対し、綿糸は投機の対象で市況が乱調を繰り返し、開業から10年は本家の追加出資で赤字を埋め続けた。初代伊藤忠兵衛はそれでも糸店に別途「糸店法則」を定めて手放さず、その序文に遂に無一物の結果を見たと書いている。1897年に日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出が輸入を上回ると、この赤字の店が伊藤忠商事の母体になった。呉服で稼いだ資金を値動きの荒い商品へ10年注ぎ込んだことが、繊維商社としての位置を決めている。

二代伊藤忠兵衛が英国から持ち帰ったのは商品ではなく、取引の階層を減らす方法だった。ロンドンの商館の多くが代理店にすぎないと見抜いてブラッドフォードへ移り、問屋とブローカーの口銭を外して1割2分安く仕入れている。中間を減らして利ざやを作るこの型は、組織にもそのまま当てられた。五つに分かれた店を1908年の伊藤忠兵衛本部へ統合し、1914年には伊藤忠合名会社として資本と責任を一つにまとめる。大戦景気で膨らんだ営業を1918年に伊藤忠商事と伊藤忠商店へ割ったのも、拡大の速さと危険を切り分ける同じ設計だった。

設立時の資本金 伊藤忠合名会社(1914年12月)と伊藤忠商事(1918年12月)(万円)

200 1914 1,000 1918
  • 伊藤忠合名会社は1914年12月29日の設立で資本金200万円。1918年12月1日の営業部門の二分により、伊藤忠商事の資本金は1,000万円、株式会社伊藤忠商店は500万円となり、合名会社は同時に2,000万円へ増資して両社の株式を保有した。
  • 出所は伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)、会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項。

1893年〜伊藤糸店の開店と、10年続いた赤字

呉服太物の問屋として固まった商いを、忠兵衛は1893年にもう一度動かした。近代綿紡績糸の有望性に着目し、綿糸を扱うために大阪東区安土町2丁目へ伊藤糸店を開設したのである。この店がのちの伊藤忠商事発足の礎石になった。店主は忠兵衛、店主代理に伊藤忠次郎、後見支配人に田附源兵衛、主任に村岸休五郎を置く陣容で始めている。開店と同時に店法の成文化にも手を着け、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した。読みは外れていない。1897年には日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出高が初めて輸入高を凌いで清国・朝鮮の市場へ向かった。呉服の卸で得た資金を、価格変動の激しい綿糸の商いへ振り向ける判断だった。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
    • [51]1893年、近代綿紡績糸の有望性に着眼し、綿糸取扱いのため大阪東区安土町2丁目に伊藤糸店を開店した
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [52]伊藤糸店はのちの伊藤忠商事発足の礎石となり、現在の伊藤忠商事はこの店が根幹となって発展した
    • [53]糸店開店当時の陣容は、店主が伊藤忠兵衛、店主代理が伊藤忠次郎、後見支配人が田附源兵衛、主任が村岸休五郎であった
    • [54]糸店開業とともに店法の成文化に着手し、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した
    • [55]1894年の綿糸輸出税撤廃、1896年の綿花輸入税廃止などの綿業振興策もあって、1897年に日本の紡機は100万錘を超え、綿糸の輸出高もこの年はじめて輸入高を凌いで清国・朝鮮などの市場へ進出した

糸店の開業に合わせて、記帳の方法も入れ替えた。創業以来使っていた大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年には大阪商業学校本科の卒業生・岡本一太郎を採用してこれに当たらせている。当時の呉服問屋としては画期的な改革だった。1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没した際、出荷主を通じて英国で保険契約が結ばれていたため実損を免れた経験から、遠隔地へ送る商品にも保険を付けるようにしている。1898年3月には月刊誌「実業」を創刊し、主要織物の統計と産地の商況を載せて織物業界の指導誌となり、一部は市販された。当時の呉服問屋の商いは手形が一切取れず、集金の大半が盆と正月の得意回りに限られていたから、数字で計画を立てられる商売ではなかった。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [56]創業以来の大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年に大阪商業学校本科卒業生の岡本一太郎を採用した
    • [57]大福帳の廃止と洋式簿記の採用は、当時の呉服問屋としては画期的な改革であった
    • [58]1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没したが、英国で出荷主を通じ保険契約が結ばれており実損はなかった。以後、遠隔地へ送る商品に保険を付けるようにした
    • [59]1898年3月に月刊誌「実業」(英文名The Business)を創刊し、主要織物の統計・産地の商況・相場表を詳しく載せた。織物業界の指導誌となり一部は市販され、大正初期まで発行された
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [60]当時の呉服問屋は不規則で手形は一切取れず、集金の大半は盆と正月の得意回りに限られ、数学的な立案企画などが立つものではなかった

しかし糸店の経営は、開業から10年にわたって苦しんだ。綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返したからである。1896年の恐慌以来、赤字を補うために数次にわたって本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年にも多額の資金がつぎ込まれてようやく再建にこぎつけた。この年に支配人は田附源兵衛から村岸休五郎へ代わっている。忠兵衛は各店共通の店法とは別に糸店のための「糸店法則」を定め、その序文に、得意の信用と相応の利益を得ながら種々の困難を生じて遂に無一物の結果を見たと記した。須磨で静養していた忠兵衛からは、再建後も数度にわたって資金の救援を受けている。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [61]綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返した
    • [62]1896年の恐慌以来、赤字を補うため数次にわたり本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年に多額の資金がつぎ込まれて再建した
    • [63]1900年に支配人の田附源兵衛が退店し、村岸休五郎が二代支配人になった
    • [65]本店支配人の田中良蔵、糸店支配人の村岸休五郎らの回顧談によれば、須磨の別荘で静養していた忠兵衛から1900年の再建後も数度にわたり資金の救援を受けた
  • 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [64]「糸店法則」の序文に、開業から約10年の間に得意の信用と相応の利益を得たが種々の困難を生じ遂に無一物の結果を見た、と記された
参考文献[51]-[65]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
    • [51]1893年、近代綿紡績糸の有望性に着眼し、綿糸取扱いのため大阪東区安土町2丁目に伊藤糸店を開店した
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [52]伊藤糸店はのちの伊藤忠商事発足の礎石となり、現在の伊藤忠商事はこの店が根幹となって発展した
    • [53]糸店開店当時の陣容は、店主が伊藤忠兵衛、店主代理が伊藤忠次郎、後見支配人が田附源兵衛、主任が村岸休五郎であった
    • [54]糸店開業とともに店法の成文化に着手し、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した
    • [55]1894年の綿糸輸出税撤廃、1896年の綿花輸入税廃止などの綿業振興策もあって、1897年に日本の紡機は100万錘を超え、綿糸の輸出高もこの年はじめて輸入高を凌いで清国・朝鮮などの市場へ進出した
    • [56]創業以来の大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年に大阪商業学校本科卒業生の岡本一太郎を採用した
    • [57]大福帳の廃止と洋式簿記の採用は、当時の呉服問屋としては画期的な改革であった
    • [58]1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没したが、英国で出荷主を通じ保険契約が結ばれており実損はなかった。以後、遠隔地へ送る商品に保険を付けるようにした
    • [59]1898年3月に月刊誌「実業」(英文名The Business)を創刊し、主要織物の統計・産地の商況・相場表を詳しく載せた。織物業界の指導誌となり一部は市販され、大正初期まで発行された
    • [61]綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返した
    • [62]1896年の恐慌以来、赤字を補うため数次にわたり本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年に多額の資金がつぎ込まれて再建した
    • [63]1900年に支配人の田附源兵衛が退店し、村岸休五郎が二代支配人になった
    • [65]本店支配人の田中良蔵、糸店支配人の村岸休五郎らの回顧談によれば、須磨の別荘で静養していた忠兵衛から1900年の再建後も数度にわたり資金の救援を受けた
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [60]当時の呉服問屋は不規則で手形は一切取れず、集金の大半は盆と正月の得意回りに限られ、数学的な立案企画などが立つものではなかった
  • 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [64]「糸店法則」の序文に、開業から約10年の間に得意の信用と相応の利益を得たが種々の困難を生じ遂に無一物の結果を見た、と記された

1903年〜初代の死と、京城・上海へ出した店

1903年7月8日、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で没した。残した事業は伊藤本店・伊藤京店・伊藤西店・伊藤糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んでいた。家督を継いだのは次男の精一で、二代伊藤忠兵衛を襲名した当時は満17歳、滋賀県立商業学校に在学中である。退学させてすぐ家業を継がせるという親族や番頭の案は、母やゑの強い意見で退けられ、卒業まで待つことになった。翌1904年、熱望していた東京高等商業学校への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店する。日露戦争の年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた。主人の跡取りでありながら最下級の職務から始め、最も体力を要する荷造方に配されて、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかったという。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [66]1903年7月8日午前7時30分、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で死去した。病名は肝臓がんであった
    • [67]1903年の死去当時、初代が残した事業は伊藤本店・京店・西店・糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んだ
    • [68]次男の伊藤精一が家督を相続して伊藤忠兵衛を襲名した。当時満17歳で滋賀県立商業学校に在学中であった
    • [69]親族や番頭には退学してすぐ家業を継ぐよう主張する者もいたが、母やゑの強い意見で卒業まで待つことになった
    • [70]1904年に商業学校を卒業した二代忠兵衛は、熱望していた東京高商への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店した
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [71]入店したのは日露戦争の始まった1904年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた
    • [72]入店当初は最下級の職務に就き、そのうちでも最も体力を要する兵たん部と称する荷造方に回され、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかった

日露戦争は、伊藤家の商いを国内の卸から大陸の輸出へ押し出した。1904年10月、韓国との貿易を見込んで田中清吉と高井兵三郎を視察に送り、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月には京城へ出張所を開設している。中国本土へも1906年2月から田中と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年かけて回り、同年12月に中村を上海へ常駐させた。上海では日本綿花の上海支店の好意で「日信分行」の名義を借りて営業を始めている。ただし加工綿布は品質で英国品に及ばず、輸出は5年にわたって損失を重ね、利益の見込みが立たなかった。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [73]1904年10月に田中清吉と高井兵三郎を韓国視察に派遣し、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月に京城へ出張所を開いた
    • [74]1906年2月から田中清吉と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年にわたり視察し、同年12月に中村信太郎を上海へ常駐させた
    • [75]上海では英租界松江路に事務所を開き、日信洋行上海支店の好意により「日信分行」の名義で営業を始めた
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [76]開戦の年に朝鮮貿易を始め、翌年満州へ人を派し、戦後に上海へ出張所を設けたが、この5年間輸出は丸損で利益の見込みが立たなかった

五つに分かれた店をそのまま置けば、資金も人事も店ごとに閉じてしまう。伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、糸店は分家の伊藤孝太良家が分担して経営しており、初代の没後は統一が課題になっていた。1908年夏、本家と分家の事業を合同して同族組織の伊藤忠兵衛本部が設けられる。1872年の大阪開店以来の改革だった。本部は各店の基本方針の決定、業務の指導監督、人事の管理、資金の調達と配分、決算を統轄する機関である。同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城と上海の出張所をその管下に置き、東京には糸店の支店を新設した。事業の分担も定まり、義兄の伊藤忠三が京店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [77]伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、伊藤糸店は分家の伊藤孝太良家がそれぞれ分担して経営していた
    • [78]初代の没後に伊藤家事業の統一を図るため本家・分家の事業を合同し、1908年夏に同族組織の伊藤忠兵衛本部を設けた
    • [79]伊藤忠兵衛本部の設置は、初代忠兵衛が1872年に大阪本町へ開店して以来の改革であった
    • [80]本部の任務は各店の基本方針の決定・業務の指導監督・人事の管理・資金の調達と配分・決算の統轄であった
    • [81]本部創設と同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城・上海の出張所をその管下に置き、東京に糸店の支店を開いた
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [82]事業の協力者として、義兄の伊藤忠三が京都店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った
参考文献[66]-[82]
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [66]1903年7月8日午前7時30分、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で死去した。病名は肝臓がんであった
    • [67]1903年の死去当時、初代が残した事業は伊藤本店・京店・西店・糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んだ
    • [68]次男の伊藤精一が家督を相続して伊藤忠兵衛を襲名した。当時満17歳で滋賀県立商業学校に在学中であった
    • [69]親族や番頭には退学してすぐ家業を継ぐよう主張する者もいたが、母やゑの強い意見で卒業まで待つことになった
    • [70]1904年に商業学校を卒業した二代忠兵衛は、熱望していた東京高商への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店した
    • [73]1904年10月に田中清吉と高井兵三郎を韓国視察に派遣し、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月に京城へ出張所を開いた
    • [74]1906年2月から田中清吉と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年にわたり視察し、同年12月に中村信太郎を上海へ常駐させた
    • [75]上海では英租界松江路に事務所を開き、日信洋行上海支店の好意により「日信分行」の名義で営業を始めた
    • [77]伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、伊藤糸店は分家の伊藤孝太良家がそれぞれ分担して経営していた
    • [78]初代の没後に伊藤家事業の統一を図るため本家・分家の事業を合同し、1908年夏に同族組織の伊藤忠兵衛本部を設けた
    • [79]伊藤忠兵衛本部の設置は、初代忠兵衛が1872年に大阪本町へ開店して以来の改革であった
    • [80]本部の任務は各店の基本方針の決定・業務の指導監督・人事の管理・資金の調達と配分・決算の統轄であった
    • [81]本部創設と同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城・上海の出張所をその管下に置き、東京に糸店の支店を開いた
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [71]入店したのは日露戦争の始まった1904年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた
    • [72]入店当初は最下級の職務に就き、そのうちでも最も体力を要する兵たん部と称する荷造方に回され、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかった
    • [76]開戦の年に朝鮮貿易を始め、翌年満州へ人を派し、戦後に上海へ出張所を設けたが、この5年間輸出は丸損で利益の見込みが立たなかった
    • [82]事業の協力者として、義兄の伊藤忠三が京都店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った

1908年〜英国での直取引から合名会社化、そして会社分割へ

二代忠兵衛は満22歳の春に渡米し、ニューヨークで当時日本銀行理事だった井上準之助の世話を受けたのち、英国へ渡った。ロンドン大学の経済部で講義を受けたが聞き取れず、下宿で教科書を読めば大半が理解できたため通学をやめ、家業の織物の直輸入に精を出す。そこで見つけたのが取引の構造だった。ロンドンの商館の多くは代理店にすぎず、マンチェスターやブラッドフォードの商品はブローカーが仲介していた。彼はブラッドフォードへ移って直接取引を始め、問屋・ブローカー・商館の口銭を除くことで1割2分ほど安く買い、しま・ズボン地や高級外とう地では2割安く仕入れた。英国の低金利を使ったこの直輸入は帰国後も続き、持ち帰った技術書をもとに1913年8月には大阪安土町へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫を建てている。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [83]二代忠兵衛は満22歳の春にまず渡米し、ニューヨークで日本銀行理事の井上準之助の世話を受けたのち英国へ渡った
    • [84]ロンドン大学経済部の講義は聞き取れなかったが下宿で教科書を読むと大半が理解できたため、通学をやめて商売に精を出した
    • [85]ロンドンの綿毛織物の商館の多くは代理店にすぎず、ブローカーがマンチェスターやブラッドフォードの商品の仲介をしていた
    • [86]ブラッドフォードへ移って直接取引を始めた結果、問屋からブローカー・ロンドン・神戸の商館までの口銭を除いて1割2分ほど安く買え、しま・ズボン地や高級外とう地は2割安かった
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [87]二代忠兵衛が在英当時に英国の低金利を利用して始めた毛・綿織物の直輸入はその後も続けられ、1910年に英国から持ち帰った鉄筋コンクリート建築の技術書をもとに、1913年8月に大阪東区安土町3丁目へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫が建設された

帰国後の伊藤家は、店の集合から会社へ組織を替えた。1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代忠兵衛を代表社員として伊藤忠合名会社が設立される。設立は同月29日で、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めたものだった。資本金200万円、社員4名の出資は伊藤忠兵衛120万円、伊藤とき30万円、伊藤忠三36万円、伊藤竹之助14万円で、英語ではC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した。改組の大きな理由は、初代の没後に遺産の配分が済んでおらず、伊藤家各人の持分と責任の所在を明らかにする必要があったことである。同時に伊藤6家を同族と定める家憲を制定した。1915年1月の披露では総支配人の田中良蔵ら3名の長老が勇退し、経営は若手中心へ移った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [88]1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代伊藤忠兵衛を社長(代表社員)として資本金200万円の伊藤忠合名会社へ組織を変更した
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [89]1914年12月29日、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めて伊藤忠合名会社が設立された
    • [90]資本金200万円、社員4名の出資額は伊藤忠兵衛120万円・伊藤とき30万円・伊藤忠三36万円・伊藤竹之助14万円で、英語名はC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した
    • [91]初代の没後、遺族に未成年者が多く遺産の配分ができていなかったため、伊藤家各人の持分を定めて責任の所在を明らかにすることが改組の大きな理由の一つであった
    • [92]合名会社の設立に伴い、伊藤6家に限って同族とする家憲が制定された
    • [93]1915年1月5日の組織変更と家憲制度の披露の席上、総支配人の田中良蔵、本店支配人の楡喜三、京店支配人の重森土蔵の3名の長老が勇退した

第一次大戦は商いの規模を変えた。日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1919年の21億円へ5年で3倍以上に増え、三品綿糸相場は1916年1月の118円95銭から翌1917年7月に470円の高値を付けている。1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分する。資本金1,000万円の伊藤忠商事が糸店と神戸・東京・上海など国内外の支店を継ぎ、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャの本店・京店を継いだ。合名会社は資本金2,000万円へ増資し、両社の株式を保有する側へ退いた。二代は披露の席で『時代が次第に軽佻となり、浮利にはしり、投機にながれる傾向が多くなってきたが、それはもっともうれうべきことで、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進んでゆきたい』と述べ、着実を信条に掲げた。1919年11月30日に終わる第1期は税引前700万円余の利益、資本金に対する利益率70%だった。

  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [94]日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1916年の11億2,700万円を経て1919年に21億円となり、5年間で3倍以上に増えた。三品綿糸相場は1916年1月の当限安値118円95銭から1917年7月21日に470円の高値記録をつけた
    • [95]1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分し、二つの株式会社を新設して営業部門を譲り渡した
    • [96]資本金1,000万円の伊藤忠商事株式会社が糸店と東京・神戸・横浜・上海・漢口・天津・青島・ニューヨーク・マニラ・カルカッタの各支店出張所を、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャ洋反物を扱う本店と京呉服の京店を引き継いだ
    • [99]1919年11月30日に終わる伊藤忠商事の第1期決算は税引前700万円余の利益で、資本金に対する利益率は70%、株主配当は20%であった
  • 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [97]合名会社は資本金を2,000万円へ増資し、両社の株式を所有するほか関係会社の株券と不動産を保有する伊藤家の資本を保管する会社となった
    • [98]二代忠兵衛は組織変更の披露の席上、時代が次第に軽佻となり浮利に走り投機に流れる傾向が多くなったことを憂うべきこととし、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進みたいと述べた
参考文献[83]-[99]
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [83]二代忠兵衛は満22歳の春にまず渡米し、ニューヨークで日本銀行理事の井上準之助の世話を受けたのち英国へ渡った
    • [84]ロンドン大学経済部の講義は聞き取れなかったが下宿で教科書を読むと大半が理解できたため、通学をやめて商売に精を出した
    • [85]ロンドンの綿毛織物の商館の多くは代理店にすぎず、ブローカーがマンチェスターやブラッドフォードの商品の仲介をしていた
    • [86]ブラッドフォードへ移って直接取引を始めた結果、問屋からブローカー・ロンドン・神戸の商館までの口銭を除いて1割2分ほど安く買え、しま・ズボン地や高級外とう地は2割安かった
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
    • [87]二代忠兵衛が在英当時に英国の低金利を利用して始めた毛・綿織物の直輸入はその後も続けられ、1910年に英国から持ち帰った鉄筋コンクリート建築の技術書をもとに、1913年8月に大阪東区安土町3丁目へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫が建設された
    • [89]1914年12月29日、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めて伊藤忠合名会社が設立された
    • [90]資本金200万円、社員4名の出資額は伊藤忠兵衛120万円・伊藤とき30万円・伊藤忠三36万円・伊藤竹之助14万円で、英語名はC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した
    • [91]初代の没後、遺族に未成年者が多く遺産の配分ができていなかったため、伊藤家各人の持分を定めて責任の所在を明らかにすることが改組の大きな理由の一つであった
    • [92]合名会社の設立に伴い、伊藤6家に限って同族とする家憲が制定された
    • [93]1915年1月5日の組織変更と家憲制度の披露の席上、総支配人の田中良蔵、本店支配人の楡喜三、京店支配人の重森土蔵の3名の長老が勇退した
    • [94]日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1916年の11億2,700万円を経て1919年に21億円となり、5年間で3倍以上に増えた。三品綿糸相場は1916年1月の当限安値118円95銭から1917年7月21日に470円の高値記録をつけた
    • [95]1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分し、二つの株式会社を新設して営業部門を譲り渡した
    • [96]資本金1,000万円の伊藤忠商事株式会社が糸店と東京・神戸・横浜・上海・漢口・天津・青島・ニューヨーク・マニラ・カルカッタの各支店出張所を、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャ洋反物を扱う本店と京呉服の京店を引き継いだ
    • [99]1919年11月30日に終わる伊藤忠商事の第1期決算は税引前700万円余の利益で、資本金に対する利益率は70%、株主配当は20%であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [88]1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代伊藤忠兵衛を社長(代表社員)として資本金200万円の伊藤忠合名会社へ組織を変更した
  • 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
    • [97]合名会社は資本金を2,000万円へ増資し、両社の株式を所有するほか関係会社の株券と不動産を保有する伊藤家の資本を保管する会社となった
    • [98]二代忠兵衛は組織変更の披露の席上、時代が次第に軽佻となり浮利に走り投機に流れる傾向が多くなったことを憂うべきこととし、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進みたいと述べた

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出典・参考 9件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
  • 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
  • 二代伊藤忠兵衛『在りし日の父』1937年(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
  • 初代伊藤忠兵衛手記(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
  • 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
  • 田附政次郎自伝(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
  • 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)

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