伊藤忠商事の創業は、1858年(江戸時代・安政5年)に麻布の卸売業を営んだことに始まる。創業者は初代伊藤忠兵衛(当時・15歳)と、兄にあたる6代目伊藤長兵衛であり、兄弟による共同創業の形式をとった。
ともに近江国・豊郷村の出身であり、近江商人の拠点として知られ、商売が盛んな土地柄であった。このため伊藤忠も近江商人として、麻布の行商を営んだ。販売先は関西一円であり、九州地区に赴いた時期もあったという。
ただし、行商は交通が未発達だった江戸時代には利益を生んだが、明治維新により「蒸気船・鉄道」による交通網が発達すると行商の介在余地が減少。利益の確保が難しくなり、初代伊藤忠部は行商からの脱却を決めた。
明治5年に初代伊藤忠兵衛は、大阪本町にて「紅忠」を開業して呉服太物の取扱を開始。明治17年には「伊藤本店」に改称した。
明治時代初頭における伊藤忠の戦略は、地域展開の拡大にあった。明治15年に京都支店を新設して多拠点の展開を開始し、明治18年頃からは海外向けの貿易業に本格参入。神戸とサンフランシスコに拠点を設置し、欧米から雑貨を輸入して販売した。当時の貿易業は「外国商館」が主流であり、日本人による雑貨輸入に従事したのは、伊藤忠と森村組のみと言われ、貿易事業では国内のパイオニアとなった。
創業期における伊藤忠の転機は、中国産の綿の輸入開始であった。1895年に日清戦争が終結したのを受けて、同年に上海に進出。綿糸の輸入業に参入し、いち早く現地からの輸入ルートを確保した。そして、これらの輸入綿糸を大阪周辺に集積する紡績会社に販売する「繊維商社」としてビジネスを確立した。
明治時代から大正時代を通じえて大阪周辺に紡績会社が勃興しており、伊藤忠は「日清戦争終結後にいち早く中国からの輸入綿を取り扱う」ことで、繊維商社として発展する礎を築いた。
1914年に2代目伊藤忠兵衛(当時・28歳)が、伊藤忠における代表者に就任。経営近代化のために、1914年に伊藤家の事業を集約する形で「伊藤忠合名会社」を設立した。1918年には株式会社として組織改編することで、近代的な会社組織の形態をとった。
1914年〜1918年にかけての伊藤忠合名会社は「4支店・6出張所」の貿易ネットワークを形成していた。4支店は「東京・神戸・上海・マニラ」、6出張所は「横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨーク」に擁しており、太平洋沿岸地域を中心に貿易業に従事した。
業績面では、1914年から1919年の第一次世界大戦が追い風となった。欧米諸国では船舶の徴収が相次いだことで、海外貿易において日本企業が参入する余地が生まれ、伊藤忠も莫大な利益を確保したと言われている。
1919年に第一次世界大戦が終結すると、それまでの戦時好景気が終焉。1920年に伊藤忠商事は赤字に転落し、財務体質が急速に悪化したため、大規模な人員削減を決定した。この過程で丸紅商店を分離し、伊藤忠と丸紅は兄弟関係ながらも袂を分けた。
経営再建の骨子は、綿糸の取扱に注力し、不採算であった貿易部門の分離であった。貿易部門は大同貿易として分離し、伊藤忠は「綿商社」として生き残りを図った。ただし、大正時代を通じて厳しい時期が続き、負債圧縮に時間を費やす形となった。
戦時中に企業統合により大建産業(旧伊藤忠商事が源流)を発足したが、戦後の財閥解体で会社分割を実施。1949年12月に伊藤忠商事株式会社を設立して事業を再開した。
国内の繊維メーカーが苦境に陥りつつあった中で、伊藤忠は線維重視の経営方針を遂行。合併を通じて非繊維を拡大したが、繊維の取り扱いも引き続き重視した。この結果、1960年代を通じて、丸紅と比べて非繊維部門の比率が低いという経営課題を背負った。
繊維は絶対に軽視できませんね。伊藤忠は、口幅ったいようだけれども、やはり、繊維製品の取扱高は金額において日本一、いや、世界一の商社だと思うんですよ。だから、この地位を保つ上にも繊維部門は以前重点を置いて行きます。今後自由化に伴って輸出の比重が次第に繊維から金へんに移って行く大勢にあるわけですが、まだ日本の輸出のウエイトは繊維を中心とした傾向にまであるわけで、7割が繊維、鉄鋼その他の重化学製品は3割です。
ドイツではこれが逆で、イギリスが半々ですから、いずれは日本も5:5になって行くから伊藤忠としても繊維部門とバランスのとれた完全な総合商社に築きあげて行きたいと思う。
1960年代を通じて伊藤忠は非繊維の拡大路線に転換し、商権の拡大を志向した。このうち、最大の意思決定となったのが、1960年代から1970年代を通じた「石油精製・石油採掘」への参入であり、和製メジャーを目指した経営方針であった。
1965年に伊藤忠は東亜石油の株式38%を取得した。東亜石油は石油精製を主力とする上場企業であり、大株主であるアラビア石油が株式放出を決めたため、タイミングよく伊藤忠が株式取得するに至った。
東亜石油における投資は「知多精油所(1969年)」の新設と「ガス化脱硫装置」の導入であった。1970年前後に日本国内では公害問題が深刻化しており、東亜石油は知多精油所の新設にあたって環境に配慮した設備の稼働を自治体と確約。この一環として「ガス化脱硫装置」の導入を実施し、知多精油所関連で500億円の投資を実行した。
1969年に伊藤忠は米イアプコ社の株式を一部取得し、インドネシア・ジャワ島沖の石油採掘の権益を取得した。スマトラ沖の鉱区は石油採掘が成功するかは未知数であったが、採掘が成功していない段階で伊藤忠はイアプコへの出資を決めた。
そして、1971年にイアプコ社はスマトラ島沖の鉱区で採掘に成功。これらの資源を、東亜石油の知多精油所で生成することで、伊藤忠は「石油採掘・石油精製」を一貫して手がける和製メジャーが具現化した。
これは当社にとって大変な決断を要する問題だった。当時、民族資本の大同団結が叫ばれていたし、経営的にも、巨額にのぼる同社の累積赤字が消せるかどうか。その上、一流リファイナリーにするためには、5万バーレルの能力を最低20万バレールぐらいまでには拡張しなければならないなどと、これは恐ろしく金のいる仕事、それだけに危険をはらむ問題であった。
安宅産業は大手総合商社とし知られ、最盛期の1974年度には売上高2兆円の大企業であった。ところが、カナダにおける石油精製事業(NRCプロジェクト)に失敗し、不良債権2000億円を抱えて倒産状態に陥った。安宅産業のメインバンクであった住友銀行は同社の救済を決め、同じくメインバンクであった伊藤忠に同業会社として安宅産業を吸収合併するように要望した。
越後正一氏(伊藤忠・当時社長)は、1964年に伊藤忠が財務悪化に悩む中で住友銀行が融資したことを「恩」として捉えており、義理を果たすために安宅産業の救済を決断した。ただし、安宅産業における競争優位な事業は限定的であり、単純な合併は伊藤忠の経営体質を悪化させることを意味した。
1977年10月に伊藤忠は安宅産業の合併を決定。安宅産業が保有していた「鉄鋼(新日鐵と取引あり)・化学」などの有力な商権を取得する一方で、安宅産業における不採算事業や人材流出による商権消滅が発生した事業(機械・繊維・パルプ・木材)については商権の取得を見送った。このため、安宅産業の社員数約3661名に対して、伊藤忠に転籍したのは1058名に留まり、約2/3の安宅産業の社員は希望退職により失職する形となった。
伊藤忠としては、安宅産業の救済合併により、鉄鋼などの非繊維の取引部門を拡大。繊維比率の低下に寄与する合併となった。
担当していた2人の役員が一緒にやってきて、「伊藤忠にとってプラスにならないので、安宅の話から下りたい」と言うんで、私はびっくりして「君ら、何を考えとんのや。住友の方から『伊藤忠はえげつないから下りてくれ』と言われたら仕方ないが、向こうが何も言わんのに下りる手があるかい」と叱り飛ばしました。
安宅との件もひとつの決断でしたが、私はもともと腹をくくっていました。最初、堀田さん(注:住友銀行・元頭取)から家に電話があったんです。「越後君、風邪引いて熱があるのでこんな声では済まんが、頼む」とね。私は「わかりました。39年の恩を返します」と答えました。伊部恭之助頭取が正式に会社のほうに見えたのはその後でした。
いくら苦しい局面にたっても、恩義を忘れたらいかん。そこを外しいたら信用も何もないですよ。大事なことは何がなんでもやり抜くと言う気概が欠かせません。
伊藤忠は歴史的に「繊維商社」として発展してきた経緯から、関西(大阪)に本社機能を置いてたが、非繊維比率の向上に合わせて東京への全面移転を決定。1980年11月に東京・北青山(最寄駅・銀座線外苑前)にて自社ビルとして「伊藤忠商事東京本社ビル」を竣工した。
1971年のニクソンショックと、1973年のオイルショックにより、為替と原油価格が大きく変動する時代に突入。石油の買付けや販売条件によって、事業の収益が変化する構造となった。
ところが、伊藤忠の石油事業の責任者は、これら為替などのリスクヘッジを十分に行わなかった。東亜石油に関しては、越後正一氏(伊藤忠・当時社長)の弟が代表を務めていたが、経営は好転しなかった。
1970年代以降の伊藤忠は「東亜石油」において巨額損失を抱えるに至り、社内で東亜石油問題のプロジェクトを発足。1978年には事業縮小の方向が決定し、1979年に東亜石油の株式の一部を売却した。
1985年に伊藤忠は保有していた残りの株式(約10%)についても、昭和シェルへの売却を決定。東亜石油から完全撤退を果たしたが、伊藤忠が東亜石油関連で被った累計損失額は約1300億円に及んだという。
このため、石油生成への進出に関して、伊藤忠は「失敗」を被る形となった。
いろいろやって石油産業は成功したんですが、東亜石油では巨額の損をしました。名を残すは常に窮苦の日にあり、事に破るるは多くは得意の時によるという言葉の通り、得意の時に最悪の事をやってしまった。
東亜石油にはいろんな人材が派遣されていました。私の弟もその中にいましたし、戸崎君も瀬島君も非常勤役員で東亜石油の会合に出てました。そこで私は「君ら2人がいってどうしたんだ。もっと早くわからなかったのか」といっておったんですが・・・。たとえば為替が1割下がったら、あるいは2割下がったら、いくら損するかというマクロ的なことを全然考えない。そういう考えでは会社の経営はできないのが当然です。
東亜石油の株を手に入れる時には、当時の富士銀行の頭取、昭和電工の社長にお願いしてようやく取得したわけで、手放す事になって大変恨めしく残念に思いました。
伊藤忠は食品流通事業を強化するために、1998年にファミリーマート(西友グループ)の株式29%を取得。伊藤忠食品など、グループ内の食品商社と連携することで、川下への進出を図った。
伊藤忠は段階的にファミリーマートへの出資比率を増大。2020年7月にはファミリーマートへのTOBを発表して株式94.7%を保有することで、連結子会社化を実施した。このため、伊藤忠における食品事業において、小売業であるファミリーマートを中心に、卸・流通業を強化する方向性をとった。
2010年代までに国内のコンビニ業界では、セブンイレブンの1強体制が確立。ドミナント出店や、ベンダーとの協業による物流網の整備を通じて、競合を寄せ付けない収益力を確保した。これに対して、伊藤忠のファミリーマートは対抗できず、業界2位に止まっている。
1972年に伊藤忠は「伊藤忠データシステム」を完全子会社として設立し、現在のCTCの創立にあたる。設立時の人員は約100名であったが、当時は高額だったコンピューターに触れたことがある人員は数名だけであったという。創業時はコンピューター向け磁気テープを取り扱っていた。
1989年までに伊藤忠のシステム関連子会社を「伊藤悠テクノサイエンス」に集約。2006年には商号を「伊藤忠テクノソリューション」に変更しており、システム機器の販売やシステム構築をサービスとして提供した。なお、CTCは「C.ITOH TECHNO-SCIENCE CO., LTD」の略称であり、「伊藤忠テクノサイエンス」の時代から略称として用いられるようになった。このため、伊藤忠テクノソリューションズはCTCの略称で呼ばれることも多い。
CTCが発展する契機となったのが、1984年に米サンマイクロシステムズのUnixワークステーションの国内販売権を取得したことであった。当時のサンマイクロはベンチャー企業であったが、担当部長であった佐武廣夫氏(のちのCTC・会長)はUNIXの将来性に着眼し、サンマイクロの思想である「オープンなシステム」に共感して販売権の獲得に至った。
その後も、米国のベンチャー企業をいち早く発掘することで商権(販売権)を確保し、1994年にはシスコシステムの製品販売を開始した。そして、1990年代を通じて国内でもインターネットが普及する中で、サーバー機器などの需要が増加してCTCは売上を拡大。1999年3月期(連結)には売上高1753億円・経常利益87億円を計上した。
1999年12月に伊藤忠商事は、子会社の伊藤忠テクノサイエンスの株式上場を決定。上場時の初値時価総額は1.1兆円を記録し、ネットバブルを象徴するひとつの企業となった。
なお、伊藤忠はCTCの株式上場時点で一部の株式(約30%)を売り出すことで、特別利益を計上した。これらの利益の一部は、伊藤忠の財務体質の改善に充当される形となり、伊藤忠が総合商社として単独存続する布石となった。
サン(注:サンマイクロ)とCTCの関係のスタートは、約17年前にさかのぼります。当時私は、米カリフォルニアのシリコンバレーで、サンを起業したばかりのビル・ジョイと知り合いになりました。彼は、企業経営者としてビジネスの拡大を目指す以上に、オープンな思想で作られたUNIXをベースとするコンピュータを世の中に広めることを考えていました。オープンなコンピュータとは、特定メーカーのシステムに縛られることなく、誰もが自由に利用できるプラットフォームとなるコンピュータという意味です。
この思想に共鳴した私は、日本代理店になることを申し出、快諾されました。(略)このようにサンとCTCの親密な関係は、約17年間オープンなコンピュータという思想に深く共鳴して伴走し続けたことから生まれたもので、インターネットが流行したからといって一朝一夕に生まれたものではありません。それは、オラクルやシスコシステムズに関しても同じです。
バブル崩壊を受けて保有する不動産の価値が下落したことで伊藤忠の財務状況が悪化。ゴルフ場などへの投資が失敗に終わったことが主要因であった。このため、1998年3月期に伊藤忠では有利子負債の総額が5.2兆円に達し。借入金の返済が喫緊の課題となった。
1997年11月に伊藤忠は「経営改善策」を公表し「不動産・子会社株式」の売却による財務体質の改善を計画。1998年4月には丹羽宇一郎氏が伊藤忠の新社長に就任し、財務体質改善のための経営改革を加速した。
そして、2000年3月期に伊藤忠は特別損失3950億円を計上し、バブル期に取得した不動産を中心に負の遺産を清算。法人税調整額+1298億円の計上や、1999年12月に上場したCTC(現・伊藤忠テクノソリューション)による株式売却益の計上により、当期純損失1632億円に着地した。
このため、システム機器の販売・構築を行うCTCの株式売却益があったからこそ、バブル期の負の遺産を一掃できたという側面があった。
2012年に伊藤忠は米Dole Food Company社から「アジア地区における青果事業(売上12.9億ドル)」と「グローバルにおける加工食品事業(売上12.0億ドル)」の2事業の買収を決定した。取得価格は1596億円であり、伊藤忠の食糧事業としては大規模な投資となった。
取得に至った理由は、Doleh社が事業継承問題に直面して、株式上場を目標とした企業価値の向上を志向し、不採算事業の売却を決定したことであった。また、伊藤忠がDole社と50年近く前から取引していたことも、取得の理由であった。
中国の国営企業であるCITIC(中国中信集団)への出資を決定。CITICは2013年度の純利益7300億円を計上しており、金融業(主に信託・証券)を中心に展開するコングロマリットであり、不動産・建設・資源開発・アルミ製造などを手掛けていた。
伊藤忠がCITICにアプロートできた理由は、1972年に中国進出を決定して中国政府から「友好商社」の認定を受けたことが発端であった。伊藤忠はその後も中国政府との関係性を深め、2015年にCITICへの出資というチャンスを確保した。
伊藤忠はCITICの株式10%を6800億円で取得した。同じくタイのCPグループ(財閥)もCITICへの10%の出資を行っており、共同でCITICの株式を合計20%取得した。出資スキームとしては、伊藤忠とCPがそれぞれ50%出資する合弁会社CTBを設立し、CTBを通じてCITICの株式を合計20%保有する形をとった。伊藤忠によるCITICへの出資は、日本企業から中国企業への投資としては過去最大規模であり、注目を集めた。
しかし、CITICの業績悪化により2018年度に伊藤忠は減損損失1443億円を計上。
単純な業務提携ではなく、資本提携を行うことでより効果を上げることを考えている。CITICは現在8割が金融ビジネス。今後、非金融分野を伸ばし、商社のようになることを目指している。そのパートナーとして、中国・アジアに強いネットワークを持つCO、生活消費関連分野に強い伊藤忠が選ばれた。例えば食に関して言えば、安心で安全な日本製品を供給することを期待されている。そこで、ビジネスのプラスアルファを実現できる。CITICは国有企業だが、民間の力を入れ、より良い会社、グローバル企業となることを目指していると聞いており、それが中国政府の目指す国有企業改革でもある。大きな効果実現に向けた確信はある。
伊藤忠は非資源部門を強化するために、子会社の伊藤忠テクノソリューションズ(通称CTC)について、株式38.7%を追加取得することで、完全子会社化することを決定。CTCは1974年に設立された伊藤忠の子会社「伊藤忠データシステム」が出自であり、1999年に伊藤忠はCTCの株式を上場することで、同社の保有株の一部を売却していた。このため、2023年のTOBにより完全子会社に戻る形となった。
2023年時点でCTCは株式上場をしていたが、TOBの成立によって上場廃止となった。伊藤忠はCTCの完全子会社化のために3870億円で株式を取得するに至った。