| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 56,306億円 | -57億円 | -0.2% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 63,326億円 | 53億円 | 0.0% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 63,559億円 | -11億円 | -0.1% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 65,607億円 | 22億円 | 0.0% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 88,620億円 | 27億円 | 0.0% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 107,046億円 | 45億円 | 0.0% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 123,356億円 | 50億円 | 0.0% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 124,902億円 | 30億円 | 0.0% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 129,872億円 | 34億円 | 0.0% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 140,772億円 | 54億円 | 0.0% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 134,475億円 | 81億円 | 0.0% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 136,099億円 | 116億円 | 0.0% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 152,670億円 | 124億円 | 0.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 155,445億円 | -919億円 | -0.6% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 139,005億円 | -340億円 | -0.3% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 121,444億円 | -882億円 | -0.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 121,352億円 | 705億円 | 0.5% |
| 2002/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 16,881億円 | 301億円 | 1.7% |
| 2003/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 16,817億円 | 200億円 | 1.1% |
| 2004/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 17,387億円 | -319億円 | -1.9% |
| 2005/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 19,912億円 | 777億円 | 3.9% |
| 2006/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 22,182億円 | 1,451億円 | 6.5% |
| 2007/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 26,472億円 | 1,770億円 | 6.6% |
| 2008/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 28,612億円 | 2,185億円 | 7.6% |
| 2009/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 34,190億円 | 1,768億円 | 5.1% |
| 2010/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 34,182億円 | 1,404億円 | 4.1% |
| 2011/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 35,817億円 | 1,743億円 | 4.8% |
| 2012/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 41,975億円 | 3,218億円 | 7.6% |
| 2013/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 45,797億円 | 3,026億円 | 6.6% |
| 2014/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 55,875億円 | 2,544億円 | 4.5% |
| 2015/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 55,914億円 | 2,956億円 | 5.2% |
| 2016/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 50,835億円 | 2,763億円 | 5.4% |
| 2017/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 48,384億円 | 3,745億円 | 7.7% |
| 2018/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 55,100億円 | 4,317億円 | 7.8% |
| 2019/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 116,004億円 | 5,456億円 | 4.7% |
| 2020/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 109,289億円 | 5,592億円 | 5.1% |
| 2021/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 103,626億円 | 4,408億円 | 4.2% |
| 2022/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 122,933億円 | 8,789億円 | 7.1% |
| 2023/3 | 連結 収益 / 当期純利益 | 139,456億円 | 8,446億円 | 6.0% |
伊藤忠の160年の歴史には、大規模な投資で巨額損失を計上し、それを別の資産で穴埋めするというパターンが繰り返し現れる。最初の巨額損失は石油事業であった。1965年に東亜石油の株式38.5%を取得し、1969年には米イアプコ社に出資してインドネシアでの石油採掘権益を確保した。採掘から精製まで一貫体制を志向する「和製メジャー」構想のもと、知多精油所に推定500億円を投じた。しかし1973年のオイルショック以降、為替と原油価格の変動に対するリスク管理が機能せず、累計損失は約1300億円に達した。越後正一(当時社長)は「得意の時に最悪の事をやってしまった」と自省しているが、この損失の処理には1985年の完全撤退まで10年以上を要した。
第二の巨額損失はバブル崩壊に伴う不動産関連の損失であった。ゴルフ場をはじめとする不動産投資が軒並み含み損を抱え、1998年3月期には有利子負債が5.2兆円に膨張した。1998年に丹羽宇一郎が社長に就任し、2000年3月期に特別損失3950億円を一括計上して負の遺産を処理した。この処理を財務的に可能にしたのが、1999年12月に上場した子会社CTC(伊藤忠テクノソリューションズ)の株式売却益であった。CTCはネットバブルの最中に時価総額1.1兆円で上場し、その売却益が不動産バブルの損失を相殺する原資となった。不動産バブルの損失をネットバブルの一時的な高値で埋めるという構図は、二つのバブルの時間差が偶然に噛み合った結果であった。
第三の損失は2015年のCITIC(中国中信集団)への出資に起因する。タイのC.P.グループと合弁会社を設立し、CITICの株式20%を取得するスキームで伊藤忠の出資額は6890億円に達した。日本企業による中国企業への投資としては過去最大規模であったが、CITICの業績悪化を受けて2019年3月期に減損損失1433億円を計上した。出資額の約2割に相当する損失であったが、この時点では伊藤忠の全社的な収益力が減損を吸収できる水準にあった。ファミリーマートの完全子会社化やCTCの再取得など非資源分野のポートフォリオが拡充されていたことで、単一の巨額投資の躓きが企業全体の存続を脅かす事態には至らなかった。
石油・バブル・CITICという3つの巨額損失には共通の構造がある。いずれも好況期ないし関係性の蓄積を背景に大規模な投資を実行し、外部環境の変動で損失を被り、そのたびに別の資産の売却益や収益力で穴を埋めてきた。石油の損失は安宅合併で得た商権が補い、バブルの損失はCTC上場益が相殺し、CITICの減損は非資源ポートフォリオが吸収した。損失の原因は毎回異なるが、「別の資産で埋める」という回復パターンは一貫している。この反復が成立してきたのは、商社という業態が多様な資産を保有し、資産の入れ替えによって生存を図る構造を内包しているためである。裏を返せば、埋め合わせる資産が枯渇した時点でこのパターンは崩壊する。
1977年の安宅産業救済合併において、伊藤忠の越後正一(当時相談役)は住友銀行からの要請に「39年の恩を返します」と即答した。1964年に伊藤忠が財務悪化に苦しんだ際、住友銀行が融資に応じたことへの「恩」が13年後の経営判断を規定したのである。安宅産業はカナダの石油精製事業で不良債権2000億円を抱えて事実上の倒産状態にあり、同社の吸収は伊藤忠にとって大きなリスクを伴う判断であった。担当役員2名が「伊藤忠にプラスにならない」として撤退を進言した際、越後は「向こうが何も言わんのに下りる手があるかい」と叱責している。経営合理性の検証に先立ち、メインバンクとの関係性が合併を決定づけた。
安宅合併の動機は義理であったが、結果として伊藤忠に実利をもたらした。安宅産業が保有していた鉄鋼(新日鐵との取引)や化学などの有力商権を選別的に取得することで、繊維偏重であった伊藤忠の事業構造は非繊維方向に転換した。社員3661名のうち転籍したのは1058名にとどまり、不採算事業を切り離して有力商権のみを取得するスキームが機能した。義理を動機とする合併が、長期的に見れば総合商社としての事業基盤を拡充する契機となったのである。もっとも、越後は合併時点でこの結果を見通していたわけではなく、関係性への忠誠が先行した判断が事後的に正当化された構造であった。関係性が正しい投資を導くのか、正しい投資が関係性の評価を事後的に高めるのか。因果の方向は容易には判定できない。
関係性が投資を規定する構造は、CITICへの出資にも現れている。伊藤忠が1972年に中国政府から「友好商社」の認定を受けてから43年を経た2015年に、CITICへの6890億円の出資が実現した。岡藤正広社長(当時)は「資本提携を行うことでより効果を上げる」と説明したが、CITICは事業の8割を金融が占める中国の国営企業であり、伊藤忠が経営に直接関与できる余地は限られていた。2019年3月期に減損損失1433億円を計上した結果は、関係性が投資機会をもたらす一方で、投資先の経営変動に対する統制力を保証しないという構造的課題を浮き彫りにした。43年かけて構築した関係は投資の「入場券」にはなったが、投資の成否を左右する手段にはならなかった。
安宅合併とCITIC出資の両事例に共通するのは、関係性の蓄積が投資判断の決定因となっている点である。安宅では住友銀行との13年の恩義が、CITICでは友好商社としての43年の蓄積が、それぞれ数千億円規模の投資を決定づけた。商社の競争力は商権すなわち取引先との長期的関係に依存しており、関係性への投資はその本業そのものである。しかし、関係性に基づく投資は、定量的なリスク評価を後回しにする傾向を内包する。安宅では義理が合理性に先行し、CITICでは長期関係が出資規模を正当化した。関係性を資産とする商社にとって、その関係性が投資判断を歪めうるというのは構造的な矛盾であり、伊藤忠の意思決定史はその両面を如実に示している。
伊藤忠の創業期は、行商から店舗経営、貿易業、綿輸入へと約40年で4度の業態転換を遂げた過程として読み取れる。交通網の発達で行商の介在余地が消失すると店舗を構え、外国商館が独占する貿易に日本人商社として参入し、日清戦争の終結を商機として綿輸入に転じた。各段階での転換は環境変化への受動的な対応ではなく、新たな市場にいち早く参入する能動的な判断であり、とりわけ貿易と綿輸入では先行者として地位を確保している。
1858年(安政5年)に初代伊藤忠兵衛(当時15歳)と兄の6代目伊藤長兵衛が、麻布の卸売業を営む形で事業を開始した。ともに近江国・豊郷村の出身であり、近江商人の拠点として商売が盛んな土地柄であった。伊藤忠兵衛は近江商人として麻布の行商を営み、販売先は関西一円に及んだほか、九州地区に赴いた時期もあったという。兄弟による共同創業という形式をとったことが、のちの伊藤忠商事の原点にあたる。
ただし、行商は交通が未発達であった江戸時代には利益を生んだものの、明治維新以降に「蒸気船・鉄道」による交通網が発達すると、仲介業者としての介在余地が縮小した。商品の産地と消費地が直接つながるようになったことで、行商人が中間で利鞘を得ることが難しくなったのである。利益の確保が困難になり、初代伊藤忠兵衛は行商からの脱却を模索するようになった。
明治5年(1872年)に初代伊藤忠兵衛は大阪本町にて「紅忠」を開業し、呉服太物の取扱を開始した。明治17年には「伊藤本店」に改称している。明治時代初頭における伊藤忠の戦略は地域展開の拡大にあり、明治15年に京都支店を新設して多拠点化に着手した。さらに明治18年頃からは海外向けの貿易業に本格参入し、神戸とサンフランシスコに拠点を設置して欧米から雑貨を輸入・販売する体制を構築した。
当時の貿易業は「外国商館」を経由するのが主流であり、日本人商社が直接雑貨の輸入に従事する例は稀であった。日本人による雑貨輸入を手掛けたのは伊藤忠と森村組のみとされ、伊藤忠は貿易事業において国内のパイオニア的存在となった。行商という近江商人の伝統から一歩踏み出し、海外との直接取引に乗り出したことが、のちの商社としての発展を方向づけた。
創業期における伊藤忠の転機は、中国産の綿の輸入開始であった。1895年に日清戦争が終結したのを受けて、同年に上海へ進出し綿糸の輸入業に参入した。いち早く現地からの輸入ルートを確保し、これらの輸入綿糸を大阪周辺に集積する紡績会社へ販売する「繊維商社」としてのビジネスモデルを確立するに至った。
明治時代から大正時代を通じて大阪周辺では紡績会社が勃興しており、伊藤忠は日清戦争の終結をいち早く商機と捉えて中国からの輸入綿を取り扱うことで、繊維商社としての地位を築いた。行商から店舗経営、貿易業、そして綿輸入へと段階的に事業を転換していった過程は、環境変化に応じて業態を変えていく近江商人の商法を体現するものであった。
伊藤忠の創業期は、行商から店舗経営、貿易業、綿輸入へと約40年で4度の業態転換を遂げた過程として読み取れる。交通網の発達で行商の介在余地が消失すると店舗を構え、外国商館が独占する貿易に日本人商社として参入し、日清戦争の終結を商機として綿輸入に転じた。各段階での転換は環境変化への受動的な対応ではなく、新たな市場にいち早く参入する能動的な判断であり、とりわけ貿易と綿輸入では先行者として地位を確保している。
第一次世界大戦の戦時好況で海外拠点を急拡大した伊藤忠は、終戦後の需要縮小に対応できず赤字に転落し、丸紅の分離と貿易部門の切り離しを余儀なくされた。戦時の特需による利益を恒常的な成長基盤と見なして組織を拡張し、終戦後にその規模を維持できなくなるという構造は、日本の商社がその後も経験するパターンとなる。28歳で代表に就いた2代目伊藤忠兵衛の経営近代化は、好況と不況の双方に晒される形で進行した。
1914年に2代目伊藤忠兵衛(当時28歳)が伊藤忠の代表者に就任した。経営近代化を推進するため、同年に伊藤家の事業を集約する形で「伊藤忠合名会社」を設立し、1918年には株式会社に改組することで近代的な会社組織へと転換した。組織改編と並行して海外拠点の整備も進め、4支店(東京・神戸・上海・マニラ)と6出張所(横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨーク)からなる貿易ネットワークを構築するに至った。
業績面では、1914年から1919年にかけての第一次世界大戦が追い風となった。欧州諸国では船舶が軍事目的で徴収されたことで海外貿易における日本企業の参入余地が生まれ、伊藤忠もこの需給ギャップを活かして莫大な利益を確保したとされる。太平洋沿岸地域を中心に貿易拠点を展開していた伊藤忠にとって、戦時における欧州勢の不在は商圏拡大の好機となった。
1919年の第一次世界大戦終結とともに、戦時好景気は終焉を迎えた。1920年に伊藤忠は赤字に転落し、財務体質が急速に悪化したため、大規模な人員削減と事業再編を決定した。この過程で丸紅商店を分離し、兄弟関係にあった伊藤忠と丸紅は袂を分かつこととなった。
経営再建の骨子は、綿糸の取扱に経営資源を集中させ、不採算であった貿易部門を切り離すことにあった。貿易部門は大同貿易として分離し、伊藤忠は「綿商社」として生き残りを図った。もっとも、大正時代を通じて経営環境は厳しく、負債の圧縮に時間を費やす形が続いた。戦時の利益は長期的な成長基盤にはならなかった。
第一次世界大戦中の好況で拡大した事業規模は、終戦後の需要縮小に対して過大なものとなった。組織と拠点を急速に拡張した一方で、戦時の特需に依存した収益構造は平時への転換に耐えうるものではなかった。丸紅の分離と貿易部門の切り離しは、事業縮小による延命策としての性格が強かった。
結果として、伊藤忠は綿商社として事業を絞り込むことで生存を果たしたが、総合商社としての多角化は後退した。戦時の好況で拡張し、終戦後の不況で縮小を余儀なくされるというサイクルは、日本の商社史において繰り返し現れる構造である。この経験が、のちの伊藤忠が非繊維分野の拡大を志向する際の原点ともなった。
第一次世界大戦の戦時好況で海外拠点を急拡大した伊藤忠は、終戦後の需要縮小に対応できず赤字に転落し、丸紅の分離と貿易部門の切り離しを余儀なくされた。戦時の特需による利益を恒常的な成長基盤と見なして組織を拡張し、終戦後にその規模を維持できなくなるという構造は、日本の商社がその後も経験するパターンとなる。28歳で代表に就いた2代目伊藤忠兵衛の経営近代化は、好況と不況の双方に晒される形で進行した。
繊維偏重からの脱却を図る伊藤忠が非繊維の柱に据えたのは、石油の採掘から精製まで一貫して手掛ける「和製メジャー」構想であった。東亜石油の株式38.5%取得と米イアプコ社への出資により川上から川下を一体化する体制を構築したが、採掘未確認の段階での出資にはリスクが伴った。繊維商社が資源事業に踏み込む際に、為替・資源価格変動へのリスク管理が確立されていなかった点は、のちの巨額損失の構造的な伏線となる。
1960年代に入り、伊藤忠は繊維偏重からの脱却を図り、非繊維分野の拡大を経営方針に掲げた。そのなかで最大の意思決定となったのが、石油精製・石油採掘への参入であった。1963年5月に石油精製事業への参入検討を開始し、1965年には石油精製を主力とする上場企業・東亜石油の株式38.5%を取得した。大株主であったアラビア石油が株式放出を決めたことで、伊藤忠がその株式を取得する機会を得た。
東亜石油における主要な投資は「知多精油所」の新設であった。1970年前後の日本国内では公害問題が深刻化しており、東亜石油は知多精油所の新設にあたり環境配慮型の設備導入を自治体と確約した。この一環として「ガス化脱硫装置」を導入し、知多精油所の建設・設備関連で推定500億円の投資を実行した。
1969年に伊藤忠は米イアプコ社の株式を2000万ドルで一部取得し、インドネシア・ジャワ島沖における石油採掘の権益を確保した。スマトラ島沖の鉱区は石油採掘の可否が未確認の段階であったが、伊藤忠はその不確実性を承知のうえで出資を決めた。石油精製(東亜石油)に加えて採掘権益を取得することで、川上から川下まで一貫した石油事業を手掛ける「和製メジャー」構想を推進した。
1971年にイアプコ社はスマトラ島沖の鉱区で石油の採掘に到達した。採掘された原油を東亜石油の知多精油所で精製する体制が実現し、伊藤忠の和製メジャー構想は具現化した。繊維商社から総合商社への転換において、石油事業は最も大規模な投資を伴う案件となった。
イアプコ社の採掘到達により、伊藤忠は石油の採掘から精製までを一貫して手掛ける体制を整えた。知多精油所ではガス化脱硫装置の導入により環境規制にも対応し、精製能力の増強を進めた。繊維商社からの脱却を図る伊藤忠にとって、石油事業は非繊維分野における最重要の投資であった。
もっとも、この石油事業は1970年代以降の為替変動とオイルショックにより大きな試練を迎えることになる。為替リスクのヘッジが十分に行われなかったことが、のちの東亜石油における巨額損失の伏線となった。非繊維への拡大が急務であった伊藤忠にとって、石油事業は最大の賭けであり、同時に最大のリスクを孕んだ投資でもあった。
繊維偏重からの脱却を図る伊藤忠が非繊維の柱に据えたのは、石油の採掘から精製まで一貫して手掛ける「和製メジャー」構想であった。東亜石油の株式38.5%取得と米イアプコ社への出資により川上から川下を一体化する体制を構築したが、採掘未確認の段階での出資にはリスクが伴った。繊維商社が資源事業に踏み込む際に、為替・資源価格変動へのリスク管理が確立されていなかった点は、のちの巨額損失の構造的な伏線となる。
これは当社にとって大変な決断を要する問題だった。当時、民族資本の大同団結が叫ばれていたし、経営的にも、巨額にのぼる同社の累積赤字が消せるかどうか。その上、一流リファイナリーにするためには、5万バーレルの能力を最低20万バレールぐらいまでには拡張しなければならないなどと、これは恐ろしく金のいる仕事、それだけに危険をはらむ問題であった。
安宅産業の救済合併は、経営戦略上の合理性ではなく、1964年に住友銀行から受けた融資への「恩返し」として決断された。越後正一氏は住友銀行頭取からの電話に「39年の恩を返します」と即答しており、メインバンクとの関係性が商社の重大な経営判断を規定した構造が浮かび上がる。結果として鉄鋼など有力商権の選別取得に至ったが、社員3661名中約2600名が失職するという規模の再編を伴うものでもあった。
安宅産業は大手総合商社として知られ、最盛期の1974年度には売上高2兆円を計上する大企業であった。ところが、カナダにおける石油精製事業(NRCプロジェクト)で巨額損失を計上し、不良債権2000億円を抱えて事実上の倒産状態に陥った。1977年3月期には最終赤字1330億円を計上し、安宅産業のメインバンクであった住友銀行は同社の救済を決断した。
住友銀行は、同じくメインバンクの関係にあった伊藤忠に対して、同業者として安宅産業を吸収合併するよう要望した。越後正一氏(伊藤忠・当時社長)は、1964年に伊藤忠が財務悪化に苦しんでいた際に住友銀行が融資に応じたことを「恩」と捉えていた。このため、住友銀行への義理を果たす形で安宅産業の救済合併を受け入れる判断を下した。
1977年10月に伊藤忠は安宅産業の合併を決定した。安宅産業が保有する「鉄鋼(新日鐵との取引あり)・化学」などの有力商権を取得する一方で、不採算事業や人材流出により商権が消滅した事業(機械・繊維・パルプ・木材)については取得を見送った。安宅産業の社員数3661名に対して伊藤忠に転籍したのは1058名に留まり、約2/3の社員が希望退職により失職する形となった。
伊藤忠にとって、安宅産業の合併は非繊維分野の商権を拡大する契機となった。とりわけ鉄鋼部門における新日鐵との取引は、繊維偏重からの脱却を進める伊藤忠にとって重要な商権であった。もっとも、合併の動機が経営戦略上の合理性ではなく、メインバンクへの義理にあったという点は、この合併の性質を特徴づけている。
安宅産業の救済合併により、伊藤忠は鉄鋼をはじめとする非繊維部門の取引基盤を拡大した。繊維比率の低下が進み、総合商社としての事業バランスが改善される契機となった。有力商権を選別的に取得するスキームにより、合併に伴うリスクを限定する設計がなされていた。
一方で、この合併は「メインバンクへの義理」を動機とする意思決定であった点が特異である。越後正一氏は住友銀行からの要請に対して「39年の恩を返します」と即答しており、経営合理性とは異なる次元での判断であった。戦後日本の企業社会においてメインバンク関係が商社の重大な経営判断を規定した事例として、構造的な意味を持つ合併であった。
安宅産業の救済合併は、経営戦略上の合理性ではなく、1964年に住友銀行から受けた融資への「恩返し」として決断された。越後正一氏は住友銀行頭取からの電話に「39年の恩を返します」と即答しており、メインバンクとの関係性が商社の重大な経営判断を規定した構造が浮かび上がる。結果として鉄鋼など有力商権の選別取得に至ったが、社員3661名中約2600名が失職するという規模の再編を伴うものでもあった。
担当していた2人の役員が一緒にやってきて、「伊藤忠にとってプラスにならないので、安宅の話から下りたい」と言うんで、私はびっくりして「君ら、何を考えとんのや。住友の方から『伊藤忠はえげつないから下りてくれ』と言われたら仕方ないが、向こうが何も言わんのに下りる手があるかい」と叱り飛ばしました。
安宅との件もひとつの決断でしたが、私はもともと腹をくくっていました。最初、堀田さん(注:住友銀行・元頭取)から家に電話があったんです。「越後君、風邪引いて熱があるのでこんな声では済まんが、頼む」とね。私は「わかりました。39年の恩を返します」と答えました。伊部恭之助頭取が正式に会社のほうに見えたのはその後でした。
いくら苦しい局面にたっても、恩義を忘れたらいかん。そこを外しいたら信用も何もないですよ。大事なことは何がなんでもやり抜くと言う気概が欠かせません。
1960年代に和製メジャーを志向して東亜石油の株式38.5%を取得した伊藤忠は、オイルショック後の為替・原油価格変動に対応できず、累計損失約1300億円を被って完全撤退に至った。為替ヘッジの不備という管理上の問題に加え、社長の弟が東亜石油代表を務めるというガバナンス上の課題も指摘しうる。越後正一氏が「得意の時に最悪の事をやった」と自省した言葉は、好況期の投資判断が構造的リスクの評価を欠いていたことを示す。
1971年のニクソンショックと1973年のオイルショックにより、為替と原油価格が大きく変動する時代に突入した。石油の買付けや販売条件によって事業収益が左右される構造となったが、伊藤忠の石油事業の責任者はこれらの為替リスクのヘッジを十分に行わなかった。東亜石油の代表には越後正一氏(伊藤忠・当時社長)の弟が就任していたが、経営は好転しなかった。
1976年3月期に東亜石油は経常損失120億円を計上し、知多製油所の稼働率は1978年3月期に60%まで低下した。環境配慮型の設備として推定500億円を投じた知多精油所は、稼働率の低下により採算割れの状態に陥った。伊藤忠にとって、石油精製事業は非繊維拡大の柱として位置づけられていたが、為替・原油価格のリスク管理が追いつかない状態が続いた。
1970年代後半に伊藤忠は社内に「東亜石油問題」のプロジェクトを発足させ、1978年に事業縮小の方針を決定した。同年に東亜石油の経営権譲渡を決め、保有株式の一部を売却。1985年3月には残りの保有株式(約10%)を昭和シェルに売却し、東亜石油から完全に撤退した。
伊藤忠が東亜石油関連で被った累計損失額は約1300億円に及んだとされる。1960年代に「和製メジャー」を志向して石油の採掘から精製まで一貫体制を構築したものの、為替・原油価格の変動リスクへの対応が不十分であったことが巨額損失の構造的要因であった。越後正一氏は「得意の時に最悪の事をやってしまった」と振り返っている。
1960年代に和製メジャーを志向して東亜石油の株式38.5%を取得した伊藤忠は、オイルショック後の為替・原油価格変動に対応できず、累計損失約1300億円を被って完全撤退に至った。為替ヘッジの不備という管理上の問題に加え、社長の弟が東亜石油代表を務めるというガバナンス上の課題も指摘しうる。越後正一氏が「得意の時に最悪の事をやった」と自省した言葉は、好況期の投資判断が構造的リスクの評価を欠いていたことを示す。
いろいろやって石油産業は成功したんですが、東亜石油では巨額の損をしました。名を残すは常に窮苦の日にあり、事に破るるは多くは得意の時によるという言葉の通り、得意の時に最悪の事をやってしまった。
東亜石油にはいろんな人材が派遣されていました。私の弟もその中にいましたし、戸崎君も瀬島君も非常勤役員で東亜石油の会合に出てました。そこで私は「君ら2人がいってどうしたんだ。もっと早くわからなかったのか」といっておったんですが・・・。たとえば為替が1割下がったら、あるいは2割下がったら、いくら損するかというマクロ的なことを全然考えない。そういう考えでは会社の経営はできないのが当然です。
東亜石油の株を手に入れる時には、当時の富士銀行の頭取、昭和電工の社長にお願いしてようやく取得したわけで、手放す事になって大変恨めしく残念に思いました。
伊藤忠がファミリーマートの株式を1998年に29%取得してから連結子会社化に至るまで22年を要しており、段階的に出資比率を引き上げる手法が際立つ。商社が小売業の川下に進出する際、一括取得ではなく段階的な支配権獲得を選んだ点は、小売業の事業特性を理解しながら関与を深めるアプローチと解釈できる。もっとも、セブンイレブンとの収益力格差は縮まっておらず、累計8000億円超の投資に見合うリターンの検証が問われ続ける。
伊藤忠は食品流通事業の強化を図るため、1998年にファミリーマート(当時は西友グループ)の株式29%を推定約1000億円で取得した。伊藤忠食品などグループ内の食品商社と連携し、コンビニエンスストアという小売業を通じて川下への事業展開を図った。その後、2014年と2016年に株式を追加取得し、2018年には約1200億円を投じて出資比率をさらに引き上げた。
2016年9月にはユニーグループHDとの経営統合で「ユニー・ファミリーマートHD」が発足し、2019年1月にユニーの株式をドンキホーテHDに売却してコンビニ事業への集中体制を整えた。2020年にはTOBを実施して株式94.7%を取得し、推定5800億円を投じてファミリーマートの連結子会社化を完了した。1998年の初期出資から22年にわたる段階的な買収であった。
伊藤忠の食品事業においてファミリーマートは中核的な存在となったが、国内コンビニ業界ではセブンイレブンの1強体制が確立していた。セブンイレブンはドミナント出店やベンダーとの協業による物流網の整備を通じて、他社を寄せ付けない収益力を構築しており、ファミリーマートはこれに対抗しきれず業界2位に留まっている。
伊藤忠は1998年から2020年にかけて累計で推計8000億円超をファミリーマートに投じたことになるが、業界首位との収益力格差を縮めるには至っていない。商社がコンビニ事業を直接運営する業態は、食品流通の川上から川下まで一気通貫で管理できる利点がある一方、小売業固有の競争環境に向き合い続ける構造でもある。
伊藤忠がファミリーマートの株式を1998年に29%取得してから連結子会社化に至るまで22年を要しており、段階的に出資比率を引き上げる手法が際立つ。商社が小売業の川下に進出する際、一括取得ではなく段階的な支配権獲得を選んだ点は、小売業の事業特性を理解しながら関与を深めるアプローチと解釈できる。もっとも、セブンイレブンとの収益力格差は縮まっておらず、累計8000億円超の投資に見合うリターンの検証が問われ続ける。
1972年に社員100名・コンピューター経験者数名で発足した情報子会社が、27年後にネットバブル下で時価総額1.1兆円の上場を果たし、その売却益が親会社のバブル期不良資産の清算原資となった。CTCの成長を支えたのは、サンマイクロやシスコといった米ベンチャーの販売権をいち早く獲得するという商社的手法であり、佐武廣夫氏の関係構築が起点となった。上場タイミングが親会社を救うという構造は、計画的というより偶発的なものであった。
1972年4月に伊藤忠は完全子会社として「伊藤忠データシステム」を設立した。これが現在のCTC(伊藤忠テクノソリューションズ)の原点にあたる。設立時の人員は約100名であったが、当時は高額だったコンピューターに触れた経験を持つ社員は数名にとどまったという。創業時の主力事業はコンピューター向け磁気テープの取扱であった。
1989年までに伊藤忠はシステム関連子会社を「伊藤忠テクノサイエンス」に集約し、2006年には「伊藤忠テクノソリューションズ」に商号を変更した。CTCの略称は「C.ITOH TECHNO-SCIENCE CO., LTD」に由来し、伊藤忠テクノサイエンスの時代から使用されている。システム機器の販売やシステム構築をサービスとして提供する事業体として、商社の情報子会社から独立した企業へと成長していった。
CTCの事業モデルは、海外のIT機器メーカーから国内販売権を獲得し、日本企業向けに機器の販売とシステム構築を一括して提供するものであった。商社の「商権確保」という手法をIT分野に応用した形であり、伊藤忠の子会社ならではの事業モデルであった。
CTCの事業を飛躍させる契機となったのは、1984年に米サンマイクロシステムズのUnixワークステーションの国内販売権を取得したことであった。当時のサンマイクロはベンチャー企業であったが、担当部長の佐武廣夫氏(のちのCTC会長)はUNIXの将来性に着目し、サンマイクロが標榜する「オープンなシステム」の思想に共感して販売権の獲得に至った。
その後もCTCは米国のベンチャー企業をいち早く発掘し、国内での独占的な販売権を確保する手法を確立していった。1992年にはシスコシステムズとオラクルの製品販売を相次いで開始した。大手メーカーの既存製品ではなく、成長途上のベンチャー企業の製品に着目して販売権を先行取得するという手法は、CTCの競争優位の源泉となった。
1994年には佐武廣夫氏がCTC社長に就任した(当時63歳)。サンマイクロとの関係構築からCTCの経営トップに至るまで、一貫して米国IT企業との取引拡大を推進した人物であった。1990年代を通じた国内のインターネット普及に伴いサーバー機器などの需要が増大し、CTCは1999年3月期(連結)に売上高1753億円・経常利益87億円を計上するまでに成長した。
1999年12月に伊藤忠はCTCの株式上場を実施した。ネットバブルの最中にあった株式市場においてCTC株は高い評価を受け、上場時の初値時価総額は1.1兆円を記録した。IT関連企業への投資家の期待が過熱していた時期の上場であり、ネットバブルを象徴する銘柄のひとつとなった。
伊藤忠はCTCの株式上場に際して保有株式の約30%を売り出し、特別利益を計上した。この売却益は、バブル期に取得した不動産を中心とする不良資産の処理原資に充当された。2000年3月期に伊藤忠が計上した特別損失3950億円の処理において、CTCの株式売却益がその一部を賄う構造となった。
1972年に設立された情報子会社が27年を経て、親会社の財務体質改善を支える存在となった。CTCの上場時期がネットバブルと重なったことは偶然の要素が大きいが、結果として伊藤忠が総合商社として単独存続するための布石として機能した。
1972年に社員100名・コンピューター経験者数名で発足した情報子会社が、27年後にネットバブル下で時価総額1.1兆円の上場を果たし、その売却益が親会社のバブル期不良資産の清算原資となった。CTCの成長を支えたのは、サンマイクロやシスコといった米ベンチャーの販売権をいち早く獲得するという商社的手法であり、佐武廣夫氏の関係構築が起点となった。上場タイミングが親会社を救うという構造は、計画的というより偶発的なものであった。
サン(注:サンマイクロ)とCTCの関係のスタートは、約17年前にさかのぼります。当時私は、米カリフォルニアのシリコンバレーで、サンを起業したばかりのビル・ジョイと知り合いになりました。彼は、企業経営者としてビジネスの拡大を目指す以上に、オープンな思想で作られたUNIXをベースとするコンピュータを世の中に広めることを考えていました。オープンなコンピュータとは、特定メーカーのシステムに縛られることなく、誰もが自由に利用できるプラットフォームとなるコンピュータという意味です。
この思想に共鳴した私は、日本代理店になることを申し出、快諾されました。(略)このようにサンとCTCの親密な関係は、約17年間オープンなコンピュータという思想に深く共鳴して伴走し続けたことから生まれたもので、インターネットが流行したからといって一朝一夕に生まれたものではありません。それは、オラクルやシスコシステムズに関しても同じです。
2000年3月期に計上された特別損失3950億円はバブル期の不動産投資に起因するものであったが、その処理を可能にしたのは1999年12月のCTC上場によるネットバブル下での株式売却益であった。不動産バブルの負の遺産を、IT分野のバブルがもたらした一時的な高値で相殺するという構図は、意図して設計されたものではなく、二つのバブルの時間差が財務再建に寄与した偶発的な結果であった。
バブル崩壊を受けて、伊藤忠が保有する不動産の価値が下落し、財務状況が急速に悪化した。ゴルフ場をはじめとする不動産関連への投資が軒並み含み損を抱える状態に陥ったことが主要因であった。1998年3月期には有利子負債の総額が5.2兆円に達し、借入金の返済が喫緊の経営課題となった。
1997年11月に伊藤忠は「経営改善策」を公表し、不動産や子会社株式の売却による財務体質の改善を計画した。1998年4月には丹羽宇一郎氏が新社長に就任し、不良資産の処理を中心とする経営改革を加速させた。バブル期の投資の後始末という性格の強い施策であったが、これを断行するための経営者交代が行われた形となった。
2000年3月期に伊藤忠は特別損失3950億円を計上し、バブル期に取得した不動産を中心に負の遺産を一括処理した。法人税調整額1298億円の計上に加え、1999年12月に上場したCTCの株式売却益を活用することで、当期純損失は1632億円に着地した。
不動産バブルの負の遺産を、ネットバブル下でのIT子会社上場益で相殺するという構図は、二つのバブルが時間差で交差した結果であった。CTCの上場タイミングがなければ、不良資産の一括処理は困難であった可能性がある。丹羽宇一郎氏の下で財務体質の改善が進み、伊藤忠は総合商社として単独存続する道を確保した。2001年には伊藤忠食品の子会社上場や伊藤忠丸紅鉄鋼の設立など、再建後の事業再編にも着手した。
2000年3月期に計上された特別損失3950億円はバブル期の不動産投資に起因するものであったが、その処理を可能にしたのは1999年12月のCTC上場によるネットバブル下での株式売却益であった。不動産バブルの負の遺産を、IT分野のバブルがもたらした一時的な高値で相殺するという構図は、意図して設計されたものではなく、二つのバブルの時間差が財務再建に寄与した偶発的な結果であった。
1972年に中国政府から「友好商社」に認定されて以来の関係構築が、43年後のCITICへの6890億円出資という形で結実した。タイのC.P.グループとの合弁を通じた間接的な株式保有スキームを採用したが、CITICの業績悪化により2019年に減損1433億円を計上するに至った。長期的な関係構築が大型投資の機会をもたらす一方で、中国国営企業の業績変動に対する直接的なコントロール手段を持たないという構造的課題が浮かび上がる。
伊藤忠は1972年に中国に進出し、中国政府から「友好商社」の認定を受けた。以後、中国政府との関係性を深め、2011年1月にCITIC(中国中信集団)と包括戦略提携を締結した。CITICは中国の国営企業であり、2013年度の純利益は7300億円に達していた。金融業(主に信託・証券)を中心に、不動産・建設・資源開発・アルミ製造などを手掛けるコングロマリットであった。
2014年7月にはタイの財閥であるC.P.グループとの戦略的業務・資本提携を締結し、CITICへの共同出資の枠組みを整えた。伊藤忠とC.P.がそれぞれ50%を出資する合弁会社CTBを設立し、CTBを通じてCITICの株式を合計20%取得するスキームを構築した。伊藤忠の出資額は6890億円であり、日本企業による中国企業への投資としては過去最大規模であった。
2015年1月に伊藤忠はCITICの株式10%を取得した。CITICは事業の8割を金融が占めており、今後は非金融分野の拡大を目指すとされた。伊藤忠はCITICのパートナーとして生活消費関連分野での協業を企図し、岡藤正広社長(当時)は「資本提携を行うことでより効果を上げる」と説明した。
しかし、CITICの業績悪化を受けて、2019年3月期に伊藤忠はCITIC関連で減損損失1433億円を計上した。6890億円の出資に対して約2割に相当する減損を強いられた形となった。1972年の中国進出から43年をかけて築いた関係が大型出資に結実したものの、国営企業の業績変動に連動するリスクを内包する構造であった。
1972年に中国政府から「友好商社」に認定されて以来の関係構築が、43年後のCITICへの6890億円出資という形で結実した。タイのC.P.グループとの合弁を通じた間接的な株式保有スキームを採用したが、CITICの業績悪化により2019年に減損1433億円を計上するに至った。長期的な関係構築が大型投資の機会をもたらす一方で、中国国営企業の業績変動に対する直接的なコントロール手段を持たないという構造的課題が浮かび上がる。
単純な業務提携ではなく、資本提携を行うことでより効果を上げることを考えている。CITICは現在8割が金融ビジネス。今後、非金融分野を伸ばし、商社のようになることを目指している。そのパートナーとして、中国・アジアに強いネットワークを持つCO、生活消費関連分野に強い伊藤忠が選ばれた。例えば食に関して言えば、安心で安全な日本製品を供給することを期待されている。そこで、ビジネスのプラスアルファを実現できる。CITICは国有企業だが、民間の力を入れ、より良い会社、グローバル企業となることを目指していると聞いており、それが中国政府の目指す国有企業改革でもある。大きな効果実現に向けた確信はある。