小笠原敏晶が日英物産を創業
ITWと合弁でニフコを設立
小笠原敏晶氏によるキャリア形成
ロンドン大学を卒業した小笠原敏晶氏(当時22歳)は、英語が得意であったことを活かし、終戦直後に貿易商社として「日英物産」を創業。終戦直後の外貨規制の中で、葉タバコの取り扱いシェアを確保して業容を拡大した。
1960年にはベルクロファスナー社から技術導入した製品を「マジックテープ」として国内で販売するなど、貿易業と技術提携によるビジネスを志向した。
日英物産の経営が軌道に乗ったことを受けて、1960年代に小笠原敏晶氏は政治家を志すために米国のプリンストン大学のロースクールに進学した。最終的に小笠原氏は政治家にはならなかったものの、プリンストン大学時代にITWの経営陣と知遇を得て、ニフコの創業のチャンスを掴むに至った。
ITWと合弁でニフコを創業
小笠原敏晶氏は米国留学時代のプリンストン大学に知り合った米国の大手機械メーカーであるITW社(イリノイ・ツール・ワークス)の部長と知り合い、同社から工業用ファスナーの日本進出の話を持ちかけられた。
そそこで、小笠原敏晶氏は提案を引き受けることを決断。1967年に日英物産とITWの合弁会社として「日本ファスナー工業(現ニフコ)」を設立。ニフコはITWが保有するプラスチック製ファスナーの特許の利用を許可され、日本での事業活動を開始した。
ニフコにおける地域制約・ITWとの競合回避
ニフコの会社設立時点における出資比率は、日英物産60%・ITW40%で小笠原氏が主導権を握った。ただし、ニフコの展開地域については日本を含めた極東地域に契約面で絞られ、実施質的にITW社の工業ファスナー部門における日本法人の扱いであった。
大阪営業所を新設
家電メーカーへの開始
ニフコはITWから導入したファスナーを販売するために、1969年に大阪営業所を新設。関西に集積する家電メーカーに対する売り込みを開始した。
松下精工向けに留め具を納入
ニフコにおける受注1号は松下精工(パナソニック系列)から換気扇向けの留め具の受注であった。同製品はITW社が保有する特許を活用し「プラスティリベット」として販売した。
商号を株式会社ニフコに変更
名古屋工場を新設
トヨタ自動車向けに自動車用の工業ファスナを生産するため、1976年に名古屋工場を新設。すでに1969年ごろに名古屋に営業拠点を設置してトヨタ自動車向けの営業を開始しており、自動車業界向けへの営業を強化していた。
日英物産を吸収合併
ニフコは株式上場を見据えて親会社である日英物産と合併。小笠原氏を中心とした従来の資本関係を整理
東証第2部に株式上場
1979年にニフコは東京証券取引所に株式を上場
株主名称 | 保有割合 | 備考 |
小笠原敏晶 | 65.6% | 日英物産創業者 |
ITW | 31.5% | 合弁パートナー |
相模原工場を新設
宇都宮事業所を新設
本田技研(ホンダ)向けの取引を拡大するために、1982年に宇都宮事業所を新設。
ジャパンタイムズの経営権を取得
発行部数が低迷していた日本情報を英語で発信する「ジャパンタイムズ」を再建するため、小笠原敏晶氏はジャパンタイムズの経営権を取得。当時、日米貿易摩擦が深刻化しつつあり、小笠原敏晶氏は摩擦解消の一助になればという考えで、英字新聞の経営に参画する。
ITWとの資本関係を解消
ITWによる戦略変更・資本提携の解消へ
1980年代を通じてニフコの合弁パートナーであるITW社は、機械のコングロマリットを志向してM&Aを推進した。この過程で、買収資金を捻出するために、保有していたニフコの株式売却を決定。ニフコに対して売却を打診するに至った。
ITWからの出資比率が23.1%→1.8%に低下
1986年にニフコはITWとの資本関係を解消。IWTの株式保有率は23.1%から1.8%に減少するに至った。
米国オハイオ州に現地法人設立
ホンダの米国進出先であるオハイオ州に拠点を新設。日本の自動車メーカーのグローバル化に合わせて、ニフコも海外展開を開始
広島事業所を新設
マツダ向けの取引を拡大するために、1987年に広島事業所を新設。
JTと国内合弁会社をを設立
日英物産時代の取引先であったJT(日本たばこ産業)から、同社の工場閉鎖に伴い雇用問題の相談をニフコが受けた。これに対して、ニフコは「ニフコ山形」の設立を決定。同社では工業用ファスナーを生産しつつ、JTから雇用を継承する形で地域雇用の維持を図った。
レックを再建支援
レック(旧駿河工業)の倒産
1992年5月に日用雑貨品メーカーのレック(当時の商号はスルガ))は、会社更生法の適用を申請して倒産。破綻前のレックでは「小物向けフック」「醤油さし」などの日用品を生産していたが、輸入品との競合により経営状況が悪化した。
ニフコがレックの経営再建を支援
1992年8月に管財人としてニフコ社長の小笠原氏が選定され、ニフコとして再建支援を決定した。レックはニフコと同じく樹脂製品を取り扱っており、日用雑貨における独自製品の開発体制に特色があった。ニフコとしては樹脂製品を軸として、経営の多角化を図るために再建支援を決定した。
2001年に経営再建を完了
ニフコはレックへの出資を通じて財務支援を実施し、1998年10月にはニフコ常務の大久保氏がレックの社長に就任。1999年にレックはロングセラー「激落くん」を発売。全国的に販売促進を推進することで、レックの業績を改善した。この結果、2001年9月に東京地裁で更生手続き終結が決定され、ニフコによるレックの経営再建が完了した。
ジャパンタイムズおよびシモンズを買収
国内自動車需要の低迷に対応
1990年代を通じて小笠原社長は国内における自動車販売台数の低下に対して危機感を持った。ニフコはITWとの契約が存在しており、極東地域以外の海外進出が困難なため、国内市場が低迷することはニフコの業績低迷を示唆した。
そこで、小笠原社長はニフコにおいて経営の多角化を遂行。資本投下が少ないビジネスを中心に、国内事業の多角展開を志向した。
ジャパンタイムズを子会社化
1996年にニフコは英字新聞「ジャパンタイムズ」を買収。同社は1986年に小笠原社長が個人で買収していたが、小笠原氏からニフコへと所有権を移すことで、ニフコの経営多角化を推進する意図があった。
ニフコによるジャパンタイムズの買収価格は約12億円。小笠原氏によれば、1986年に同氏が個人で買収した金額よりも割安であり、小笠原氏にとってはジャパンタイムズの企業価値改善に苦戦し、売却損を被る形になった。
1980年代は日米貿易摩擦によって世界から日本への注目度が高く、結果として英字新聞ニーズが高かったが、1990年代のバブル崩壊を通じて日本企業のプレゼンスが低下。結果として、欧米人による日本への注目度も低迷し、結果としてジャパンタイムズの販売も低迷する状況に陥っていた。
シモンズを買収
1996年7月に米国の高級ベットメーカー「シモンズ」の日本法人及び香港法人を買収。日本国内における高齢化の進行に着眼し、高級ベットの販売拡大を意図した。買収価格は約49億円。
渡辺隆治氏が社長就任
ニフコの創業者である小笠原氏が社長を退任して会長に就任。ニフコの新社長として渡辺隆治氏が就任した。渡辺氏は東芝出身のキャリアであり、1980年代にニフコが推進していた電子部品事業の部長として液晶事業を転職した人物であった。この意味で渡辺氏の抜擢は、ニフコにおける新事業推進者の登用を意味した。
ITWと提携解消
ITWと提携解消により単独でグローバル展開へ
品目を絞り込み
主力製品について、数百種類の品目を15種類に統一する方針を決定。
自動車部品に集中投資
缶飲料向け結束材から撤退
2002年に缶飲料向けの樹脂製の結束材を手がける子会社「ニフコ・ハイコーン・リーシング」の譲渡を決定。同社はニフコとITWの合弁会社でありニフコが60%を出資していたが、ITWとの提携解消を受けて事業売却を決定した。
自動車部品に集中投資
ニフコとしては缶飲料向けなどの非注力事業を縮小。ITWとの提携解消によって可能になった自動車部品のグローバル展開に経営資源を投下する道を選択した。
大幅減益(純利益45億円→6億円)
経常利益101億円に対して、特別損益▲46億円(うち特別損失52億円・特別利益6億円)を計上。子会社売却の影響による
小笠原敏晶氏が逝去
ニフコの創業者である小笠原敏晶氏が逝去
ジャパンタイムズを売却
非注力事業としてジャパンタイムズの売却を決定。売却先は国内PR会社のニューズ・ツー・ユーホールディングス