売上
任天堂:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
16,718億円
売上高:2024/3
利益
任天堂:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
29.3%
利益率:2024/3
免責事項
当サイト(名称:The社史)において、品質を向上させるために、Google LLCが提供するサービス「Google Analytics」を介してGoogle LLCに対して閲覧者が保持する情報(IPアドレス・閲覧URL・閲覧遷移元URL・閲覧日時・デバイス情報)を送信しています。また、当サイトは、開発者が公開情報を取り纏めて掲載したもので、個人的な見解を述べたものであり、正確性、完全性および適時性を保証しません。また当サイトの情報によって閲覧者に生じたいかなる損害も、本サイトの開発者は一切の責任を負いません。
1889

花札の製造開始(任天堂創業)

明治22年に山内房治郎氏が花札の製造開始

1889年に京都市内の五条楽園にて花札の製造を開始し、これが任天堂の創業年に相当する。創業者は山内房治郎氏であった。任天堂は長らく同族経営を志向し、2002年に山内溥氏が社長を退任するまで、約1世紀にわたり山内家が経営する同族企業であった。

なお、花札の製造開始は1889年だが、4年ほど前の1885年に山内房治郎氏は「灰孝本店」というセメント販売問屋を創業していた。つまり、山内家としては「セメント販売業」に次ぐ新規事業として、花札製造業に参入する意図があった。

なお、セメント販売業の事業は好調であり、1918年に小野田セメントと契約を締結。京都市内のコンクリート建築が増加する追い風によって事業を拡大し、1934年には「三井物産・小野田セメント京都代理店」として事業を展開した。よって、セメント販売業によって得た収益を、花札という新規事業に投下した可能性もある。

タバコ販路を活用して売上拡大

新規事業の花札製造について、販売面において、国内トップのタバコ会社だった村井兄弟商会と取引することで業容を拡大。花札とタバコの顧客の親和性が高いことが功を奏した。製品群を拡大するために、1902年にはカルタ(骨牌)の製造に参入し、「花札」「かるた」の2つの製造に従事した。

1885年
灰孝本店を創業(セメント販売)
1889年
花札の販売を開始(任天堂の創業年に相当)
1906年
かるたの販売を開始
1927

カルタ事業とセメント販売業を分離・事業承継

1927年に山内家では、事業継承のために「カルタ・花札」と「セメント」の分離を決定した。

当時、経営を担っていた山内積良氏(創業者である山内房治郎氏の長女と結婚・婿養子)は2人娘の家系であった。そこで、長女の山内君氏(夫は山内鹿之丞)に対しては任天堂骨牌、次女の山内孝氏に対しては灰孝本店を継承した。

これによって、山内房治郎によって開始された2事業(花札カルタ・セメント販売)は分離され、任天堂は娯楽専業メーカーとなった。

1947
11月

株式会社丸福を設立(現:任天堂)

合名会社山内任天堂の設立

1933年に山内家は花札の製造および販売を行う合名会社として「山内任天堂」を設立した。その後、終戦後の1947年11月20日に株式会社丸福を設立して、同時に山内任天堂における販売部門、1950年には同じく製造部門を継承し、花札およびカルタの製造販売は「株式会社丸福」で運営する形をとった。

なお、合名会社から株式会社に運営主体を移行した理由は、山内家における相続に起因すると思われる。山内積良氏が病に倒れたため、山内家の資産を1つの法人に集約・継承する狙いがあったと推定される。

任天堂の会社設立

1947年に設立された株式会社丸福は、1951年に商号を「任天堂骨牌」、1963年には同じく「任天堂」に商号を変更し、現在に至るまで任天堂として経営されている。一方、合名会社山内任天堂については、1961年ごろの時点で「任天堂骨牌」の株式を保有する大株主であり、この頃までに「資産管理業」に移行したと推定される。

1933年
合名会社山内任天堂を設立
1947年
11月
株式会社丸福を設立(山内任天堂から事業譲受)
1951年
株式会社丸福から「任天堂骨牌株式会社」に商号変更
1952年
本社および工場を移転(東京市東山区福稲上高松町60)
1963年
任天堂骨牌株式会社から「任天堂株式会社」に商号変更
1949

山内溥氏が社長就任

山内積良氏が倒れ、孫の山内溥氏が社長に就任

1949年に山内積良(任天堂・取締役社長)が66歳で急逝。婿養子の山内鹿之丞氏は、浪費癖が強い問題人物であったため、任天堂の継承者として相応しくなかった。

このため、積良の孫であり早稲田大学の学生であった山内溥(当時22歳)が突如として後継者となり、山内任天堂の経営を担うことになった。以後、山内溥は2002年に社長を退任するまで、任天堂の社長を歴任した。

なお、22歳の学生上がりの山内博氏が社長に就任したことに対して、周囲の目線は懐疑的であったといい、「任天堂もこれで終わりだ」と噂されていたという。

家内工業から脱却・生産設備に投資

山内溥氏は社長就任とともに、カルタ生産の近代化投資を決断した。従来は家内工業による下請けや人海戦術で製造していたが、機械による量産を志向。1952年には京都市内に分散していた製造拠点について、本社工場(京都市東山区福稲上高松町)を新設することで集約して生産改善を図った。

財務面において、これらの設備投資にあたっては銀行からの借入調達を実施。1958年時点における取引銀行は、東海銀行京都支店と、京都銀行本店の2行であった。当時、花札メーカーが大規模な設備投資を実施することは珍しく、これに関しても同業者は懐疑的な意見を持っていたという。

生産改善に現場が反発・ストライキが発生

これらの早急な改革に対して、生産現場の職人が反発。1955年頃にストライキが勃発するなど、生産改善には苦難を伴った。

証言
『任天堂商法の秘密』

仙台社長で祖父に当たる山内積良が突然、病に倒れ、東京から呼び戻された山内溥は、急遽家業を引き継ぐことになった。山内溥、22歳の時である。

22歳の青年社長といえば聞こえはいいが、周囲の目は冷ややかっだった。当時の任天堂はまだ、花札やトランプだけを扱う従業員百人程度の企業である。その大黒柱とも頼むべき社長が死んだということで、親類を含めた周囲の誰もが「任天堂もこれで終わったな」と囁きあった。山内溥自身、「東京の大学でしたい放題のことをして遊んだ」というくらい放蕩を重ねていたとあっては、それも無理からぬところであった。前途多難の出発だった。しかし、任天堂もこれでおわりだと言われて、山内は無性に腹が立った。

1949年
山内溥氏が社長就任
就任時年齢 22
1952年
製造拠点を本社工場に集約
1955年
ストライキが発生
1953

国産初のプラスチック製トランプを発売

決定

プラスチックトランプの量産開始

1953年に任天堂はプラスチックトランプの量産を開始した。従来のトランプは「紙製品」であったため、子供が遊びに使うと傷みやすいという欠点があった。これに対してプラスチックトランプは紙に比べて傷みにくいメリットがあり、トランプの標準素材となった。任天堂では、国内では難しいとされたプラスチックトランプについて、製造装置を自社で内製化することで生産技術の開発に成功した。

その後も任天堂はトランプに対する製造装置の内製化を継続。1959年には「台紙貼合機」「自動切断機」を自社開発することによって、トランプの量産効率を改善した。1961年6月期時点の任天堂の生産品目別の生産体系を見ると、トランプ工業が従業員156名に対して生産高が3.7億円、カルタ工場(花札を含む)が従業員202名に対して生産高2.3億円であり、トランプ工場の生産性が優れていたことが窺える。

この結果、トランプでは生産合理化を進めた任天堂が競争優位性を確立し、手工業の域を脱しなかった競合の零細企業を追い抜き、国内市場で独占を形成するに至った。

FY1961時点の生産状況
工場名 生産能力 従業員 敷地面積 建物面積
トランプ工場 3.7億円 156名 1706㎡ 1468㎡
かるた工場 2.1億円 202名 4063㎡ 2351㎡
販売

ディズニートランプを発売(独占販売権取得)

量産体制の確立と同時並行で、任天堂はトランプのマーケティングを強化、1959年11月に米国のディズニープロと提携し、日本国内におけるキャラクタートランプの独占販売権を取得した。以後、1960年からは日本国内でテレビCMなどを活用した積極的なマーケティングを展開することで、トランプの販売を拡大する。

主な販売先は、全国各地の問屋(日本出版販売、安藤骨牌、九州骨牌など)に加えて、三越、大丸、阪急百貨店などの主要な小売業へは直接販売を実施していた。すなわち、任天堂が「商品企画」「広告宣伝」を行うことによって需要を喚起し、これらの問屋・小売店(百貨店)からの引き合いが増えたことで、売上の増加につながった。

なお、1962年時点で任天堂の販売体制は、東京、京都、大阪、名古屋にそれぞれ営業拠点を設置していた。ただし、人員数は5名〜25名程度であり、本社工場に勤務する従業員数(317名)が突出しており、販売ではなく生産主体のメーカーであった。

任天堂・事業所別人員数(1961年6月時点)
事業所 所在地 従業員数
本社工場 京都市東山区福稲荷上高松町60 317名
本社 京都市東山区福稲荷上高松町60 47名
東京支店 東京都千代田区神田須田町1-22 24名
京都営業所 京都市下京区正面通大橋西入 25名
大阪営業所 大阪市南区長堀橋筋1-32 5名
名古屋営業所 名古屋市西区藪下町29-1 5名
出所:株式会社年鑑 | 1963
財務

増資により調達。資本金1000倍へ

任天堂は1948年の株式会社としての設立以来、増資による資金調達を繰り返すことで、トランプなどへの投資資金を確保した。会社設立時点の資本金20万円に対して、1962年の株式上場時点における資本金は2億円であり、約15年の間に資本金が1000倍となった。

これらの資本政策を経て、任天堂における山内家の持分は希薄化した。山内社長は同族経営になることを意図的に避けており、株式の希薄化は許容範囲内であったと思われる。

任天堂・大株主(1962年4月時点・上場前)
名称 続柄 保有比率
山内溥 社長 18.2%
山内任天堂 資産管理会社(山内家) 15.6%
京都銀行 - 10.0%
山内君(きみ) 溥氏の母親 6.2%
任天堂商事 販売会社? 4.1%
結果

トランプで国内市場80%を確保。株式上場へ

任天堂はディズニートランプの販売拡大によって売上を拡大。1962年には大阪証券取引所第2部および京都証券取引所第2部に株式上場を果たした。株式上場と前後した大規模な資金調達によって自己資本比率を改善しており、経営の安定化を図っている。これは、娯楽産業が好不況の影響を受けやすいため、山内社長が健全な財務状況を確保することを狙ったためであった。

また、量産体制の確立によってトランプの国内シェア80%を確保した。この頃、日本国内では「トランプといえば任天堂」という評判が形成されており、任天堂が市場を独占するに至った。

業績面においては、1963年6月期において売上高当期純利益率13%という高い水準を達成。市場独占による価格支配と、生産合理化による原価低減によって、販促費を欠けても十分な収益を確立できるビジネスとなった。

ただし、このころの任天堂は京都の中堅企業に過ぎず「京都のちっぽけなトランプ屋」と揶揄される存在であった。このため株式上場を行ったものの、全国的な知名度は小さいローカル企業であることには変わりなかった。

証言
野田経済

トランプ類は国内ではほぼ半独占的な地位にあり、80%の占拠率をもち、トランプといえばすぐ任天堂と連想されるほどの存在、しかも、今後とも20%の伸びは期待できるという。トランプの場合、多くの人々が認めているように、売上の決め手となるのはアイデアと生産方式。同社の場合、ここまでのしあがってきたのは、今度の浮世絵トランプでもわかるように、新しいアイデアの開発がなんといっても、ものをいっている。ディズニートランプや立体印刷トランプのように、他社が容易に真似できず、しかも子供からワッと人気を呼ぶトランプの開発を、目標としている。なかでもディズニートランプは同社が万全の自信を持って1960年に発売したもの。

1960

多角化を志向

視察

渡米視察で市場規模を悲観

山内溥氏は任天堂を「花札・かるた」の会社から「トランプ」の会社へと順調に変貌させつつあり、1956年に渡米視察した。だが、そこで全米シェアトップのトランプ会社の工場を訪問して「こんなものか・・・」という感想を抱き、任天堂をトランプに限らない会社に発展させることを心に決めたという。

方針

タクシー交通・加工食品業に参入

1960年に任天堂は子会社として「ダイヤ交通株式会社」を設立してタクシー運営事業に参入した。ところが経営状況は芳しくなく、1969年に名鉄グループに事業譲渡した。

続いて、1964年に任天堂と近江絹糸の合弁で食品会社を設立して加工食品の製造に新規参入した。ディズニーキャラクターのふりかけや、インスタントラーメン、カレーなどを手掛けたものの、食品専業メーカーとの競争が激しく苦戦した。

この他にもホテル業(ラブホテル運営)などにも参入するなど、手広く事業を展開したが、いずれも競争優位性に乏しく主力事業育つことはなかった。

結果

新規事業から一時撤退。全社業績も長期低迷へ

新規事業の推進にあたって最大のボトルネックになったのが、本業のトランプにおける販売不振である。1965年に日本経済が不況に陥ると、娯楽品であるトランプの需要が低迷。任天堂は市場シェア80%を確保していたものの、問屋などにおける流通在庫が増加し、需要低迷によって工場稼働率が60%程度に低下。押し込み販売を行ったため、PLにおける営業利益は高水準を持続したが、工場稼働率を維持できないという問題に直面した。

この結果、任天堂による「トランプの収益によって新規事業を育成する」という目論見が瓦解した。1969年にタクシー事業は名鉄グループに譲渡して撤退し、加工食品事業も撤退を決めている。

証言
山内溥(任天堂・当時社長)

昭和40年代(注:1965年〜1975年)は日本の高度成長時代で、様々な企業が大変成長して躍進を遂げた時代です。私どもの任天堂は元々京都でトランプやカルタを作っていた家内工業でしたが、トランプやカルタが売れなくなりましたので、次第に他のことをしなくてはならない必要に迫られて転身を図ったのです。その40年代を振り返ってみますと、いろいろな企業が大躍進を遂げられたのに、任天堂は一向にパッとせず、トンネルの中から抜けられず長い低迷の期間でした。

1962
大阪証券取引所第2部に株式上場
1965
6月

トランプ需要の一巡で減収減益へ

日本経済の一時的な不況を受けて需要が低迷。シェアは確保していたが工場稼働率が低迷。新規事業も足かせとなり、既存事業と新規事業の両方で課題を抱える「八方塞がり」へ

1966

総合室内ゲーム企業を目指す方針決定

開発

おもちゃを相次いで開発

1966年以降、任天堂は「ゲーム・おもちゃ」の事業に集中する方針を打ち出して「総合室内ゲームメーカー」を目指した。この方針をもとに、室内ゲームをいくつか開発するが、いずれも数年のヒットとその後の低迷を繰り返し、ロングセラー商品には至らなかった。

結果

一過性のブームに翻弄。過剰在庫で経営危機へ

オイルショック後の不況も重なったことで販売が低迷した。特に、1975年度にはレーザークレーのブーム終焉も重なり、大幅な減収となった。

この結果、1975年2月期(半期実績)の売上高42億円に対して、売上債権31億円および棚卸し資産20億円を抱え込み、在庫の倒産の危機に陥った。

1975
レジャー機器の販売不振。過剰在庫により減収減益へ
1977
テレビゲーム・アーケードゲームに参入
1983
7月

ファミリーコンピュータを発売

方針

ファミリーコンピュータを発売

ファミコン発売

1983年7月に任天堂は家庭用テレビゲーム「ファミリーコンピュータ」を14,800円台で発売した。当時のテレビゲームの価格帯が3万円台が中心であったのに対して、任天堂はハードウェアを1万円の低価格に抑える代わりに、ゲームカセット(ソフトウェア)で収益を確保する方針をとった。ソフトウェアの小売価格は4500〜5500円であった。

設備投資

任天堂としては本体価格を下げるために、ファミコン量産(組み立て)のために宇治工場を1983年に新設するなど、後戻りできない布陣をとった。当時は任天堂のゲームウォッチのブームが終焉しており、ファミコンが次のヒット商品に育たなければ、設備投資額を回収できず、厳しい状況に陥ることが予想されていた。

開発体制

1981年に任天堂の開発第2部において「新型テレビゲーム機」の開発がスタートした。当時の任天堂は携帯ゲーム機「ゲームウォッチ」がヒットしていたが、次のヒット商品を生み出すべくテレビゲーム機にマトを絞った。開発第2部の上村雅之氏が部長としてファミコンの開発に従事。ソフトウェア(ゲーム)の制作には宮本茂氏も参画した。

証言
山内溥(任天堂・当時社長)

相当の決断も何もないですよ。そこに行くしか道がない時は迷うこともないでしょう。決断というのは右へ行くか左へ行くか、どっちへ行こうかという時に、右とか左とかを決めることでしょう。ところがうちの場合、企業がここで潰れるかもしれない、会社更生法を申請するか、それとも実直に耐え抜いて頑張るのか、という時ですから、とにかくもうそこにしか行くところがない。ファミコンでやるしかなかったのだから

投資

CPUを自社開発。リコーに製造委託

ファミコンにおける最大の特徴は、画像の美しさにあった。当時、一般的に流通していたCPUはパソコン用途が中心であり画像処理の気候が弱かったのに対して、任天堂は独自の画像処理に強いCPUを準備(製造はリコー・池田工場に委託)することで、ファミコンユーザーの体験を向上させた。ファミコン向けのCPUは8bitであったが、機能を絞り込むことで、画像処理だけは16bit並みの性能を実現している。

また、カスタム仕様のCPUを活用したことで、競合他社がCPUを特定することが困難となり、ファミコンは競合企業が参入するまでの時間を稼いだ。

最も重要な部品であるCPUの製造について、上村部長(任天堂・開発第2部)は複写機メーカーのリコーに委託することを決定した。リコーはインテルの650Zのライセンスを保有していたこともあり、このライセンスに沿って製造された。

リコーは半導体製造の池田工場(大阪)を新設したばかりであったが、半導体不況により稼働率が悪化しており、任天堂からの製造委託を受ける形となった。任天堂はCPU1個あたりにつき、2000円でリコーから仕入れた。価格交渉は、山内社長(任天堂)と浅川常務(リコー)の話し合いによって決着した。

なお、ファミコンブームによって、リコーの半導体事業は売上高を拡大。任天堂向けの売上高(=すなわち任天堂のCPU仕入額)は、FY1983に86億円、FY1986に150億円を達成している。

証言
上村雅之(任天堂開発第2部・当時部長)

いろんなメーカーのICもいろいろ調べてみたんですけど、これを真似しても仕方がない。真似をするなら作ったほうが早いわけですから。そこが半導体メーカーとは違う点ですね。半導体メーカーだったら真似しちゃうというか、ちょっと改良してやろうという気になる。その時になんというか、邪念のようなものが出てくると思うんですよ。半導体メーカーは娯楽用にだけ売っているわけではありませんから。あれにもこれにも使えるようにと、いろんな性能をプラスしてしまう。そういう汎用性がないと、設備投資や技術投資が焼却できませんから、どうしても八方美人的設計になってしまうんですよね。

方針

ソフトメーカーを選別。粗製濫造を防止

任天堂はファミコンに対応するソフトウェアの製造について、ソフトウェアの本数を絞り込む方針を打ち出した。この理由は、1981年前後のアメリカにおいて、テレビゲーム機を製造するアタリ社がソフトウェアの企画をオープンにした結果、市場に粗悪なソフトウェアが大量に流通し、結果としてテレビゲームの市場が縮小する事件(通称:アタリショック)があったためである。

1983年のファミコン発売当初は、任天堂はソフトウェアについて自社ソフトに絞り込んだ。この路線は「スーパーマリオブラザーズ」といった自社企画ソフトのヒットにつながった。

その後、1984年からサードパーティーにより企画されたソフトウェアの販売を開始した。任天堂は、ソフトウェアメーカー約30社に対して「年に2本まで」という条件で、ファミコンのソフトを制作する形をとった。このように強気な契約ができた理由は、ファミコンが600万台売れたことで、ソフトウェアについても莫大な市場が約束されていたためである。

1984年以降、任天堂以外のメーカーからもゲームが発売され、ファミコンを中心として巨大市場が形成された。当時のヒット作は、ハドソン社の『ロードランナー』、ナムコ社の『ゼビウス』であり、いずれも100万本を発売。1本あたり5000円とすると、ヒット作の売上は1作品だけで約40億円に及んだ。

証言
高橋利幸氏(ハドソン・当時社員)

1983年のファミコン発売から2~3カ月経ったころ、任天堂さんからシャープさん経由で「ファミコン用のBASIC(ファミリーベーシック)を作ってくれないか」という依頼がありました。当時、ハドソンはシャープのX1用のOSを作っていたので、任天堂さんから依頼されたシャープさんがハドソンに振ってくれたのです。

そこで9月くらいに、ハドソンの副社長がファミコンを買ってくるんですね。「高橋、これどう思う?」と聞かれました。すでにファミコンソフトの『ポパイ』や『マリオブラザーズ』は30万本くらい売れていました。当時、パソコンは20万円くらいなんです。比較的安いPC-6001でも8万くらいでしたが、それに比べてファミコンは1万4800円でパソコンよりきれいな画像のゲームができるわけです。なおかつソフトの販売本数も(パソコン用が)1万本と(ファミコン用が)30万本。これは経営者としては飛びついて当たり前です。私たちもここで飛びつきました。

結果

ファミコンが社会現象へ。大ヒットを記録

100万台の発注によって15,000円という低価格を実現したファミリーコンピューターは日本の子供達にすぐに受け入れられ、社会現象を巻き起こした。1985年頃にはサードパーティーによるソフトウェアの充実や、任天堂が制作した「スーパーマリオブラザーズ」のヒットにより、ファミコンの人気は衰えることがなかった。この結果、1986年にファミコンは販売累計台数が600万台を突破した。

ファミコン発売前の任天堂の売上高は1981年時点で239億円(純利益率6.8%)に過ぎなかったが、ファミコン発売後の1989年には売上高2912億円(純利益率11.8%)という驚異的な水準を叩き出した。

1990
欧米に現地法人を新設・グローバル展開へ
1996

テレビゲーム機NINTENDO64を発売

1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。

2000
ゲームボーイの販売好調・ポケモンが寄与
2001
家庭用TVゲーム機「ゲームキューブ」を発売
2002

山内溥氏が社長退任・岩田聡氏が社長就任

1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は4代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。

2002年
岩田聡が任天堂社長に就任
社長就任事 42
2015年
岩田聡氏が急逝(55歳)
社長退任事 55
2004
12月

携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売

ニンテンドーDSを発売

任天堂は携帯ゲーム機のロングセラーである「ゲームボーイ(ゲームボーイアドバンス)」の後継機種として、2004年12月に「ニンテンドーDS」を発売した。

脳トレのヒットで需要の年齢層が拡大

発売直後は品薄になるほどのヒットには至らなかったが、2005年5月に発売したタイトル「脳を鍛える大人のDSトレーニング」が爆発的なヒットを記録し、この結果としてDSの販売に拍車がかかった。従来の携帯ゲーム機のニーズは、子供が中心だったのに対して「脳トレ」のヒットによって、幅広い年齢層にDSが受け入れられた。

ニンテンドー3DSの販売と苦戦(2011年)

2011年に任天堂はDSの後継機種として「ニンテンドー3DS」を発売した。3D映像を体験できる新機種として発売したが、「脳トレ」のようなヒットタイトルに恵まれなかったこともあり、前世代のDSと比較して販売台数の面では及ばなかった。

2004年
12月
ニンテンドーDSを発売
2008年
ニンテンドーDSiを発売
2009年
3月
ニンテンドーDSで累計1億台を突破
累計販売台数 1 億台突破
2011年
ニンテンドー3DSを発売
2006

家庭用TVゲーム機「Wii」を発売

Wiiの発売(2006年)・ファミリー層にヒット

2006年に任天堂は家庭用TVゲーム機「Wii」を発売。ファミリーで楽しめるゲーム機として企画して「WiiSports」など、Wiiの機能を活用できる自社タイトルを合わせて販売開始した。

Wiliはファミリー層を中心に支持を獲得。2009年までに累計5,000万台を販売し、同時期に3DSと並ぶヒット製品となった。この結果、2009年度における任天堂は「3DS」と「Wii」の2つの製品が業績好調を牽引した。

Wii Uの苦戦(2012年発売)

2012年12月に任天堂はWiiの後継機となる「Wii U」を発売した。2010年前後に携帯やスマホによる個人向けゲームが普及する趨勢において、任天堂はファミリーで楽しめるゲーム機としてWiiUを開発した。

ところが問題になったのが、任天堂による自社ソフトの展開の想定外の遅れにあった。2013年7月に「ピクミン3」を発売するまでは有力なソフトを投入できず、結果としてハードウェアを先行発売したものの、ユーザーにとって魅力のあるタイトルが欠落したけ結果、WiiUは販売に苦戦した。

加えて、ユーザーに対する「Wii」と「WiiU」の違いに関する訴求も困難を極め、新しいゲーム機として認知を獲得することが難しい状態に陥った。

この結果、Wii Uは、Wiiの販売数量の下落をカバーすることができず、2012年以降の任天堂の業績悪化要因の1つとなった。

証言
岩田聡(任天堂・社長)

Wii Uについては、1月の経営方針説明会でお話ししたときの見通し以上に、自社の有力ソフトの発売間隔が空いてしまいましたので、プラットフォームの勢いを維持することができていません。

それに加えて、現状ではまだWii Uの製品価値をしっかりとお伝えできていないということが大変大きな課題になっています。Wii Uが、「単にGamePadが付いているWiiに過ぎない」との誤解があったり、さらには、「GamePadはWiiの周辺機器だ」と誤解されている方までおられたりして、私たちがお伝えしなければならないことをお伝えしきれていない状況で、私たち自身の努力不足を痛感しています。

2006年
家庭用TVゲーム機「Wii」を発売
2009年
Wiiで販売台数5000万台を突破
累計販売台数 5000 万台突破
2012年
12月
家庭用TVゲーム機「Wii U」を発売
2013年
WiiUの販売苦戦
2009
3月

売上高で過去最高を記録

WiiおよびDSの販売好調により、2009年3月期に過去最高となる連結売上高1.8兆円を記録。

2014
3月

3DSとWiiUが不振・最終赤字に転落

2010年までの任天堂は「DS」と「Wii」の2機種のヒットによって売上を確保したが、それぞれの後継機種「3DS」「Wii U」について販売に苦戦した。

この結果、2009年3月期をピークとして、以降は2017年3月期まで8期連続の減収となった。また、2012年3月期および2014年3月期において最終赤字に転落した。

2011年
ニンテンドー3DSを発売
2013年
WiiUの販売苦戦
2014年
3月
最終赤字に転落
当期純利益 -232 億円
2017年
3月
8期連続減収
連続減収 8
2015

DeNAと業務資本提携を締結

スマホ向けのゲームに関する協業に向けて、DeNAと業務資本提携を締結。任天堂はDeNAの株式10%を220億円で取得し、DeNAも任天堂の株式1.24%を取得した。

2017
3月

併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売

Nintendo Switchの発売

2017年3月に任天堂は併用型ゲーム機として「Nintendo Switch」を発売。携帯およびテレビの両方で利用できるゲーム機として開発し、従来のゲーム機の常識であった「携帯用ゲーム機・テレビ用ゲーム機」の垣根を外した製品となった。

このため、任天堂が展開しつつも苦戦に陥っていた「3DS」および「Wii U」に代わる後継機種となった。Nintendo Switchの希望小売価格は約33,000円に設定された。

人気タイトル投入により販売好調へ

Nintendo Switchの発売に合わせて、大型タイトルも同時に発売。2017年10月までの間に、「ゼルダ」「スプラトゥーン2」「スーパーマリオ オデッセイ」などの人気タイトルを発売することで、ハードの販売台数も好調に推移した。

この結果、2018年3月期に任天堂は「8期連続減収」の記録に終止符を打ち、前年度比で売上高約2倍を達成し、大幅な増益を達成した。この結果、任天堂はNintendo Switchのヒットによって、2009年3月期から続いた業績不振に終止符を打った。

あつ森のヒットで販売台数を拡大

2020年3月に任天堂は自社タイトルとして「あつまれ どうぶつの森」を発売。コロナ禍による室内ゲームの需要増加もあって爆発的なヒットを繰り出し、あつもりのヒットとともにSwitchの販売台数も増加した。

2017年
併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売
希望小売価格 32798
2017年
4月
Switch「マリオカート8 デラックス」を発売
販売本数(2024/10) 6290 万本
2018年
オンラインサービス「Nintendo Switch Online」を開始
2020年
3月
Switch「あつまれ どうぶつの森」を発売
販売本数(2024/10) 4585 万本
2021年
有機ELモデルの「Nintendo Switch」を発売
2020
マイクロソフトが任天堂の買収を議論
2020

バリューアクトが株式保有

バリューアクト・キャピタル・マネジメントは、任天堂の株式11億ドル相当の保有を公表した。バリューアクトは、任天堂をデジタル企業として将来性評価するとともに、任天堂に対してガバナンスの改善や、外国人取締役の起用を促したと推察される

2022
3月

Nintendo Switchの販売好調

「あつまれ どうぶつの森」などの販売好調により、Nintendo Switchの累計販売台数が1億台を突破

2025 (c) Yutaka Sugiura