任天堂 の歴史

花札屋から世界のゲーム企業へ

創業

1889年

創業者

山内房治郎

創業地

京都府京都市

直近売上高(2025/3)

11,649億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1949年に22歳で継いだ山内溥氏は、家内工業の花札屋を近代企業へ作り変えられたのか
A 花札やトランプは品質が均質で安定供給できれば売れる商品であり、自社で製造設備を内製化すれば、家内工業の同業零細を仕入と品質で引き離せる。ゆえに山内溥氏は、社長を継ぐとまず法人形態を整理し、製造の機械化と量産へ舵を切った。1949年に山内積良氏の急逝で22歳・早稲田大学在学中に社長を継いだ山内氏は、就任後に法人形態を整理して合名会社山内任天堂からかるたの製造業務を継承し、1953年には国産初のプラスチック製トランプを量産して、ディズニー提携とテレビCMで国内シェア約80%を握った
Q なぜ多角化に全敗した任天堂は、1966年に「娯楽の外には出ない」と事業を絞り込んだのか
A トランプ市場には規模の天井があり成長の余地が乏しいと見た山内溥氏は本業の外へ活路を求めたが、タクシーや即席ライスはトランプ製造で培った技術や販路との連続性を欠き、競争優位を築けないまま全て撤退した。この全敗が逆説的に事業領域を確定させた。異分野ではなく遊びの延長で多角化する道を選び、1966年に「総合室内ゲーム企業」への転換を社内決定する。山内氏は後年「次第に他のことをしなくてはならない必要に迫られて転身を図った」と振り返っている。光線銃などで機械仕掛けの玩具を自社開発する体質が、のちの電子ゲーム参入の前提となった。
Q なぜ2017年に任天堂は、携帯機と据置機を統合した単一プラットフォームのSwitchを投入したのか
A DSとWiiの後継機がいずれも前世代の成功を再現できず、携帯機と据置機の二系統を並行維持する構造そのものが開発リソースを分散させ、ヒットとヒットの谷でソフト供給が途切れる弱点を生んでいた。これを断つため、任天堂は両者の物理的境界を取り払い開発資源を一つのハードへ集中投下できる設計へ転換した。3DSとWii Uの不振で2009年3月期から8期連続減収となり最終赤字にも沈んだ末、2017年3月にNintendo Switchを発売する。ゼルダやマリオの看板作を発売年内に集中投入し、2018年3月期に連続減収を断ち切った

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1889年〜 花札製造業から戦後のトランプ独占への道

任天堂の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1889年 任天堂創業——山内房治郎氏が京都で興した花札の手工製造と3代の家業承継 セメント商家の副業から始めた花札製造を、山内房治郎氏はどのように全国へ広げたか
  2. 1947年 任天堂を設立
  3. 1949年 山内溥氏が社長就任
  4. 1953年 国産初のプラスチック製トランプを発売
  5. 1959年 ディズニープロ社からトランプの国内独占販売権を取得
  6. 1960年 トランプ専業を脱するための多角化とその全敗 本業の天井を破ろうとタクシー・即席食品・玩具の外へ広げた事業は、なぜことごとく失敗したのか
  7. 1962年 大阪証券取引所第2部に株式上場

22歳で継いだ家内工業からの脱却という執念

1889年9月、山内房治郎氏は京都市下京区で花札の製造を始めた[1]。山内家はセメント販売業「灰孝本店」を営む商家で、花札は副業として発足した[2]。花札は1886年に製造販売が公認されたばかり[3]で、賭博の陰にあった遊技具の需要が表へ出る段階に入っていた。房治郎氏は旧知のたばこ王・村井吉兵衛氏の協力を得て、村井兄弟商会の全国のたばこ販売ルートへ花札を相乗りさせ[4]、販路を一気に広げた。明治末年には西洋伝来のトランプ製造にも着手し、戦前にはその製品が国の内外へ広く浸透した[5]。1933年には婿養子の山内積良氏が合名会社山内任天堂を設立して2代目を継ぎ[6]、1947年11月には株式会社丸福が発足して[7]戦後の株式会社形態への再整理が始まった。花札類の製造は長らく手工業の域を出ない手仕事で、京都はその手工製造の適地だった[8]

1949年、2代目社長の山内積良氏が66歳で急逝した[9]。孫にあたる山内溥氏は早稲田大学在学中の22歳で社長を継ぎ[10]、同年12月に任天堂へ入社した[11]。山内氏は後年、22歳での継承時の心境を「無性に腹が立った」(任天堂商法の秘密 1986)と述懐している[12]。就任後はまず法人形態の整理へ着手し、1949年9月に丸福かるた販売株式会社、1950年3月に任天堂かるた株式会社へ社名を変更した[13]うえで、合名会社山内任天堂から大統領印などのかるたの製造業務を継承した[14]。1951年7月には任天堂骨牌株式会社へ社名を改めた[15]。生産面では本格的な設備投資を避け、増産のための工場増設と増員を抑えた方針[16]を、山内氏は後年、危機を切り抜けた最大の要因に挙げた。

  • 財界家系譜大観 第1版(1971年)
    • [9]1949年 2代目社長 山内積良氏が66歳で急逝
    • [10]山内溥氏が22歳・早稲田大学在学中に社長を承継
  • 日経ビジネス 2003年2月24日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂相談役]ゲームはまだ終わらない」
    • [11]1949年12月 山内溥氏が任天堂へ入社
  • 任天堂商法の秘密(1986)
    • [12]山内溥氏の述懐「無性に腹が立った」
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1949年9月 丸福かるた販売株式会社へ社名変更/1950年3月 任天堂かるた株式会社へ社名変更
    • [14]1950年3月 合名会社山内任天堂より大統領印等のかるたの製造業務を継承
    • [15]1951年7月 任天堂骨牌株式会社へ社名変更
  • 日経ビジネス 1983年5月30日号「アイデアは技術の肉付けでヒットする」
    • [16]本格的な設備投資を避け工場増設・増員を抑えたことを危機回避の最大要因とした
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]1889年9月 山内房治郎氏が京都市下京区で花札類の製造を開始
    • [5]明治末年 トランプ製造に着手/戦前に製品が国の内外へ浸透
    • [6]1933年 山内積良氏が合名会社山内任天堂を設立し2代目を承継
    • [8]花札類の製造は手工業的製造方法の域を出ず/京都は手工製造の適地
    • [2]山内家はセメント販売業「灰孝本店」の商家/花札は副業として発足
    • [3]1886年 花札の製造販売が公認
    • [4]たばこ王・村井吉兵衛氏の協力で村井兄弟商会の全国たばこ販売ルートへ相乗り
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1947年11月 株式会社丸福として発足
    • [13]1949年9月 丸福かるた販売株式会社へ社名変更/1950年3月 任天堂かるた株式会社へ社名変更
    • [14]1950年3月 合名会社山内任天堂より大統領印等のかるたの製造業務を継承
    • [15]1951年7月 任天堂骨牌株式会社へ社名変更
  • 財界家系譜大観 第1版(1971年)
    • [9]1949年 2代目社長 山内積良氏が66歳で急逝
    • [10]山内溥氏が22歳・早稲田大学在学中に社長を承継
  • 日経ビジネス 2003年2月24日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂相談役]ゲームはまだ終わらない」
    • [11]1949年12月 山内溥氏が任天堂へ入社
  • 任天堂商法の秘密(1986)
    • [12]山内溥氏の述懐「無性に腹が立った」
  • 日経ビジネス 1983年5月30日号「アイデアは技術の肉付けでヒットする」
    • [16]本格的な設備投資を避け工場増設・増員を抑えたことを危機回避の最大要因とした

シェア80%の頂で見えた「トランプ産業の天井」

1953年、任天堂は国産初となるプラスチック製トランプの量産を始めた[17]。1957年7月には南アメリカ地域への大量輸出に踏み切り[18]、国内市場の外へ製品を出した。1959年10月には台紙貼合機や自動切断機を相次いで開発して花札類の機械化に成功し[19]、手仕事に頼っていた製造法を近代的な量産へ切り替えた。1962年3月期の製品別売上高はトランプ2.98億円、かるた・花札1.77億円、その他0.40億円[20]で、主力はすでにトランプへ移っていた。同期のトランプ工場は従業員156名・生産能力3.7億円を備え、かるた工場の202名・2.1億円と並ぶ生産拠点となっていた。

  • 有価証券報告書
    • [17]1953年 国産初のプラスチック製トランプの量産を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [18]1957年7月 南アメリカ地域への大量輸出
    • [19]1959年10月 台紙貼合機・自動切断機を開発し花札類の機械化に成功
  • 株式会社年鑑
    • [20]1962年3月期 製品別売上高 トランプ2.98億円・かるた花札1.77億円・その他0.40億円

1959年11月、ディズニープロダクションからキャラクタートランプの国内独占販売権を取得し[21]、翌1960年から本格化させたテレビCMで全国の問屋と百貨店の販売ルートを開拓した。山内氏は「トランプごときの宣伝にテレビCMを打つなんて、当時では、およそ常識はずれの話[22]」(日経ビジネス 1983/5/30)と当時を振り返った。1962年1月には大阪証券取引所市場第二部と京都証券取引所へ株式を上場し[23]、1963年ごろにはトランプの国内シェアが約8割へ達して[24]、1964年には儲ける企業として「京都のこじんまりとした会社」に数えられた[25]。1963年10月には社名を任天堂株式会社へ改め[26]、骨牌専業の商号を外した。もっとも1956年の渡米視察で山内氏が見たのは、全米最大手のトランプメーカーですら事業規模が限られるという現実であり、単品経営の頭打ちは1964年からのトランプ売上の伸び悩みとして表れた[27]

  • 有価証券報告書
    • [21]1959年11月 ディズニープロダクションからトランプの国内独占販売権を取得
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [22]山内溥氏のテレビCMをめぐる述懐
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [23]1962年1月 大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所へ株式を上場
    • [26]1963年10月 社名を任天堂株式会社へ変更
  • 日経ビジネス 1983年5月30日号「アイデアは技術の肉付けでヒットする」
    • [24]1963年ごろ トランプの国内シェア約8割
    • [27]1964年からトランプ売上の伸びが止まり単品経営の限界に直面
    • [25]1964年 儲ける企業として「京都のこじんまりとした会社」に任天堂が挙げられた
  • 有価証券報告書
    • [17]1953年 国産初のプラスチック製トランプの量産を開始
    • [21]1959年11月 ディズニープロダクションからトランプの国内独占販売権を取得
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [18]1957年7月 南アメリカ地域への大量輸出
    • [19]1959年10月 台紙貼合機・自動切断機を開発し花札類の機械化に成功
  • 株式会社年鑑
    • [20]1962年3月期 製品別売上高 トランプ2.98億円・かるた花札1.77億円・その他0.40億円
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [22]山内溥氏のテレビCMをめぐる述懐
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [23]1962年1月 大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所へ株式を上場
    • [26]1963年10月 社名を任天堂株式会社へ変更
  • 日経ビジネス 1983年5月30日号「アイデアは技術の肉付けでヒットする」
    • [24]1963年ごろ トランプの国内シェア約8割
    • [27]1964年からトランプ売上の伸びが止まり単品経営の限界に直面
    • [25]1964年 儲ける企業として「京都のこじんまりとした会社」に任天堂が挙げられた

1966年〜 娯楽専業への収斂とファミコンが形成した家庭用市場

任天堂の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1966年 総合室内ゲーム企業を目指す方針決定
  2. 1975年 レジャー機器の販売不振。過剰在庫により減収減益へ
  3. 1983年 任天堂のファミリーコンピュータ発売と低価格・ソフト収益モデルへの転換 本体を安く配り、ソフトで長く稼ぐ――山内溥社長が挑んだ14,800円の家庭用ゲーム機
  4. 1996年 任天堂のソニー連合との決別と64ビット機NINTENDO64の単独開発 CD-ROM機の主導権とソフトのライセンス権を巡ってソニーと決別し、山内溥社長がカートリッジ式の単独路線を選んだ判断
  5. 1998年 任天堂のポケモン株式会社共同設立とIP経営への移行 ゲームボーイ延命の一過性ヒットを、キャラクターを一元管理する会社へ組み替えた判断
  6. 2002年 任天堂・山内溥氏から岩田聡氏への社長交代 53年続いた創業家経営に、山内溥氏はなぜ自ら幕を引いたか
  7. 2004年 携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売

多角化の全敗が選ばせた「娯楽専業」という逆説

1960年、任天堂はダイヤ交通を設立してタクシー事業へ進出した[28]。1961年6月には近江絹糸と共同出資でサンオー食品を設立し[29]、乾燥米に湯をかける「インスタントライス」やキャラクター付きふりかけを売り出した[30]。ふりかけは発売から一年で月商1億円を売る商品に育ち、丸美屋の「のりたま」と競った[31]。しかしインスタントライスは味が逃げると不評を買い、製造機は日清食品へ売却された[32]。山内氏はほかに乳母車や複写機にも手を広げたが[33]、いずれもトランプ製造で培った技術や販路との連続性を欠き、1969年までに撤退した。山内溥氏は後年「トランプやカルタが売れなくなりましたので、次第に他のことをしなくてはならない必要に迫られて転身を図った[34]」(任天堂商法の秘密 1986)と振り返り、この時期を「もうどうにもならない状態」(日経ビジネス 1983/5/30)と表現した[35]

  • 有価証券報告書
    • [28]1960年 ダイヤ交通を設立しタクシー事業へ進出
  • 経済情報 1964年3月号(経済情報社)
    • [29]1961年6月 近江絹糸と共同出資でサンオー食品を設立
    • [31]ふりかけは発売一年で月商1億円規模・丸美屋「のりたま」と競合
  • 国友隆一『セガvs.任天堂 : 新市場で勝つのはどっちだ!?』(こう書房, 1994年)
    • [30]インスタントライス・キャラクター付きふりかけの発売
    • [32]インスタントライスは味が逃げて不評/製造機を日清食品へ売却
    • [33]乳母車・複写機への進出
  • 任天堂商法の秘密(1986)
    • [34]山内溥氏の述懐(トランプ・カルタの不振から転身を図った)
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [35]山内溥氏の述懐「もうどうにもならない状態」

多角化の全敗は「娯楽の外には出ない」という方針を固めさせ、1966年には総合室内ゲーム企業への転換が社内で決まって[36]、トランプ専業から室内娯楽品の総合メーカーへ脱皮した[37]。ウルトラハンドや光線銃SPといった機械仕掛けの玩具に続き、1973年には業務用のレーザークレー射撃システムへ広げたが、その売上は1975年3月期の17.6億円から1976年3月期には1.3億円へ落ち[38]、石油ショックと重なった1974年には前年比50%近い減益に落ち込んだ[39]。それでも電子ゲームの開発は続き、1977年にテレビゲーム事業へ参入して[40]、1978年のインベーダーブームで手応えを得た[41]。1980年発売の「ゲーム&ウオッチ」は累計3000万個以上を売り[42]、1982年にはポケット型電子ゲーム市場の50%強を握るトップメーカーに立った[43](読売新聞 1982/9/12)。

  • 有価証券報告書
    • [36]1966年 総合室内ゲーム企業への転換を社内決定
    • [40]1977年 テレビゲーム事業へ参入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]トランプ専業から室内娯楽品の総合メーカーへ脱皮
  • 会社年鑑
    • [38]レーザークレーの売上高は1975年3月期17.6億円から1976年3月期1.3億円へ急減
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号「任天堂のファミリーコンピュータ商戦に圧勝、ゲーム一本槍の“本音商品”」
    • [39]1974年 レーザークレー不発と石油ショックで前年比50%近い減益
    • [41]1978年 インベーダーブームで電子ゲーム開発の確信を深めた
    • [42]「ゲーム&ウオッチ」は累計3000万個以上を販売
  • 読売新聞(1982年9月12日)
    • [43]1982年 ポケット型電子ゲーム市場の50%強でトップメーカー

1983年7月、任天堂は本体価格1万4800円の「ファミリーコンピュータ」を発売した[44]。3万円以上した低価格パソコンや2万4800円で参入した米アタリのゲーム機より本体を安く抑え[45]、別売のROMカートリッジで収益を回収する構造を採った。画像やゲーム展開を処理する専用のカスタムLSIを独自に開発し、製造はリコーへ委託している[46]。量産のため同年11月には京都府宇治市へ新工場を設け[47]、失敗すれば設備投資を回収できない状況を、山内氏は「会社更生法か、ファミコンか」の二択だったと述懐した[48]。同年7月には東京証券取引所市場第一部へ株式を上場し[49]、売上高は1981年8月期の230億円から1983年8月期には651億円へ伸びた[50]

  • 有価証券報告書
    • [44]1983年7月 ファミリーコンピュータを本体価格1万4800円で発売
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号「任天堂のファミリーコンピュータ商戦に圧勝、ゲーム一本槍の“本音商品”」
    • [45]低価格パソコン3万円以上・米アタリのゲーム機2万4800円より低価格/別売ROMカートリッジで収益回収
    • [46]画像処理用カスタムLSIの独自開発/製造はリコーへ委託
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1983年11月 京都府宇治市槇島町に新工場(現 宇治工場)を設置
    • [49]1983年7月 東京証券取引所市場第一部へ株式を上場
    • [48]山内溥氏の述懐「会社更生法か、ファミコンか」
  • 会社年鑑(1986年版・任天堂 単体業績)
    • [50]売上高 1981年8月期230億円→1983年8月期651億円
  • 有価証券報告書
    • [28]1960年 ダイヤ交通を設立しタクシー事業へ進出
    • [36]1966年 総合室内ゲーム企業への転換を社内決定
    • [40]1977年 テレビゲーム事業へ参入
    • [44]1983年7月 ファミリーコンピュータを本体価格1万4800円で発売
  • 経済情報 1964年3月号(経済情報社)
    • [29]1961年6月 近江絹糸と共同出資でサンオー食品を設立
    • [31]ふりかけは発売一年で月商1億円規模・丸美屋「のりたま」と競合
  • 国友隆一『セガvs.任天堂 : 新市場で勝つのはどっちだ!?』(こう書房, 1994年)
    • [30]インスタントライス・キャラクター付きふりかけの発売
    • [32]インスタントライスは味が逃げて不評/製造機を日清食品へ売却
    • [33]乳母車・複写機への進出
  • 任天堂商法の秘密(1986)
    • [34]山内溥氏の述懐(トランプ・カルタの不振から転身を図った)
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [35]山内溥氏の述懐「もうどうにもならない状態」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]トランプ専業から室内娯楽品の総合メーカーへ脱皮
  • 会社年鑑
    • [38]レーザークレーの売上高は1975年3月期17.6億円から1976年3月期1.3億円へ急減
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号「任天堂のファミリーコンピュータ商戦に圧勝、ゲーム一本槍の“本音商品”」
    • [39]1974年 レーザークレー不発と石油ショックで前年比50%近い減益
    • [41]1978年 インベーダーブームで電子ゲーム開発の確信を深めた
    • [42]「ゲーム&ウオッチ」は累計3000万個以上を販売
    • [45]低価格パソコン3万円以上・米アタリのゲーム機2万4800円より低価格/別売ROMカートリッジで収益回収
    • [46]画像処理用カスタムLSIの独自開発/製造はリコーへ委託
  • 読売新聞(1982年9月12日)
    • [43]1982年 ポケット型電子ゲーム市場の50%強でトップメーカー
  • 任天堂 有価証券報告書 第85期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1983年11月 京都府宇治市槇島町に新工場(現 宇治工場)を設置
    • [49]1983年7月 東京証券取引所市場第一部へ株式を上場
    • [48]山内溥氏の述懐「会社更生法か、ファミコンか」
  • 会社年鑑(1986年版・任天堂 単体業績)
    • [50]売上高 1981年8月期230億円→1983年8月期651億円

「枯れたハード」を蘇らせるソフトの用途発明

1992年、任天堂はスーパーファミコン用CD-ROM装置の共同開発をソニーと仕切り直し、ソフト会社へのライセンス権を任天堂が握る形で合意した[51]。それでも規格を公開して市場を広げたいソニーと、規格を握って市場を管理したい任天堂の対立[52]は解けず、任天堂は共同開発から降りて開発計画そのものを棚上げした[53]。山内氏は「ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました」(日経ビジネス 1995/10/9)[54]と当時の決断を振り返っている。利用者が求めるのはハードの性能ではなくソフトの面白さだとする判断[55]のもと、次世代機の記録媒体にはCD-ROMではなくカートリッジを選び、1996年6月に「スーパーマリオ64」と同時にNINTENDO64を発売した[56]。しかし発売3カ月の1996年9月末の出荷は116万台にとどまり[57]、500を超えるソフト会社が集まったプレイステーション[58]に水をあけられた。

  • 日経ビジネス 1992年1月27日号「ソニー、CD−ROMで任天堂と仕切り直し」
    • [51]1992年 ソニーとのCD-ROM装置共同開発を仕切り直し/ライセンス権は任天堂が保持
    • [52]規格公開を志向するソニーと規格管理を志向する任天堂の対立
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号「セガ・任天堂にすり寄る電機大手」
    • [53]スーパーファミコン用CD-ROM装置の開発計画を棚上げ
  • 日経ビジネス(1995年10月9日)
    • [54]山内溥氏の述懐「ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました」
  • 日経ビジネス 1992年6月1日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂社長]ハード体質では勝てない」
    • [55]山内溥氏はハードの性能ではなくソフトの面白さが求められるとした
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号「激戦続く家庭用ゲーム機市場。ソニー優勢、追う任天堂」
    • [56]1996年6月 「スーパーマリオ64」と同時にNINTENDO64を発売
    • [57]NINTENDO64は発売3カ月の1996年9月末で116万台の出荷
    • [58]プレイステーションには500を超えるソフト会社が参加

1996年にゲームボーイ向けソフトとして発売された「ポケットモンスター」は、2台のゲームボーイを通信ケーブルでつなぎ、ゲーム内のキャラクターを交換する遊び[59]を持ち込んだ。すでに成熟していた携帯機がソフトの用途発明で再び売れる商品へ変わり、ゲームボーイの年間販売台数は2001年3月期に1,745万台へ達した[60]。展開はゲームソフト・カードゲーム・テレビアニメの3本柱[61]へ広がり、1997年にはテレビアニメの全国放映が始まった。1998年4月には店舗展開を担うポケモンセンター株式会社を、ゲームフリーク・クリーチャーズと共同で設立[62]した。海外では米国任天堂が日本とアジアを除く全世界の権利を獲得し、初期費用として約30億円弱を投じて[63]ブームを演出した。関係各社に分散していた権利は、のちに株式会社ポケモンへ改組する形で一社へ集約された[64]

  • 日経ビジネス 2001年6月25日号「フォーカス 石原恒和氏[ポケモン社長兼クリエイティブ本部長]」
    • [59]ポケモンの基本コンセプトは2台のゲームボーイを通信ケーブルでつなぎキャラクターを交換する遊び
    • [61]ポケモンはゲームソフト・カードゲーム・テレビアニメの3本柱で展開
    • [64]ライセンス管理の権限を株式会社ポケモンへ集約
  • 任天堂 連結販売数量の推移
    • [60]ゲームボーイの年間販売台数は2001年3月期に1,745万台
  • 有価証券報告書
    • [62]1998年4月 ゲームフリーク・クリーチャーズとポケモンセンター株式会社を共同設立
  • 日経ビジネス 2000年1月31日号「米国任天堂(Nintendo of America)30億円初期投資でポケモンブーム演出」
    • [63]米国任天堂が日本・アジアを除く全世界の権利を獲得し初期費用約30億円弱を投下

2002年5月31日、山内溥氏は32歳年下でHAL研究所出身のプログラマーである岩田聡氏へ社長を譲り、自らは取締役相談役へ退いた[65]。就任時42歳の岩田氏の登用は創業家以外からは初めてで、婿養子を交えた山内家4代の同族経営に終止符が打たれた[66]。山内氏は前年に世襲をしないと明言し、身内に適任者がいないと説明していた[67]。岩田体制のもと2004年12月に発売したニンテンドーDSは二画面構成とタッチパネル操作を採り[68]、2005年発売の「脳を鍛える大人のDSトレーニング」で大人や高齢者まで顧客層を広げた。2006年にはモーション操作の据置機Wiiを投入し[69]、二機種のヒットで2009年3月期には連結売上高1兆8386億円の過去最高を記録した[70]

  • 日経ビジネス 2003年2月24日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂相談役]ゲームはまだ終わらない」
    • [65]2002年5月31日付 山内溥氏が32歳年下の岩田聡氏へ社長を譲り取締役相談役へ退任
  • 有価証券報告書
    • [66]岩田聡氏は就任時42歳/創業家以外からの社長登用は初・山内家4代の同族経営が終了
    • [68]2004年12月 ニンテンドーDSを発売
    • [69]2006年 据置機Wiiを発売
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂社長]ハード屋の発想に乗ったら負ける」
    • [67]山内溥氏は2001年に世襲をしないと明言し身内に適任者がいないと説明
  • 任天堂 有価証券報告書
    • [70]2009年3月期 連結売上高1兆8386億円で過去最高
  • 日経ビジネス 1992年1月27日号「ソニー、CD−ROMで任天堂と仕切り直し」
    • [51]1992年 ソニーとのCD-ROM装置共同開発を仕切り直し/ライセンス権は任天堂が保持
    • [52]規格公開を志向するソニーと規格管理を志向する任天堂の対立
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号「セガ・任天堂にすり寄る電機大手」
    • [53]スーパーファミコン用CD-ROM装置の開発計画を棚上げ
  • 日経ビジネス(1995年10月9日)
    • [54]山内溥氏の述懐「ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました」
  • 日経ビジネス 1992年6月1日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂社長]ハード体質では勝てない」
    • [55]山内溥氏はハードの性能ではなくソフトの面白さが求められるとした
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号「激戦続く家庭用ゲーム機市場。ソニー優勢、追う任天堂」
    • [56]1996年6月 「スーパーマリオ64」と同時にNINTENDO64を発売
    • [57]NINTENDO64は発売3カ月の1996年9月末で116万台の出荷
    • [58]プレイステーションには500を超えるソフト会社が参加
  • 日経ビジネス 2001年6月25日号「フォーカス 石原恒和氏[ポケモン社長兼クリエイティブ本部長]」
    • [59]ポケモンの基本コンセプトは2台のゲームボーイを通信ケーブルでつなぎキャラクターを交換する遊び
    • [61]ポケモンはゲームソフト・カードゲーム・テレビアニメの3本柱で展開
    • [64]ライセンス管理の権限を株式会社ポケモンへ集約
  • 任天堂 連結販売数量の推移
    • [60]ゲームボーイの年間販売台数は2001年3月期に1,745万台
  • 有価証券報告書
    • [62]1998年4月 ゲームフリーク・クリーチャーズとポケモンセンター株式会社を共同設立
    • [66]岩田聡氏は就任時42歳/創業家以外からの社長登用は初・山内家4代の同族経営が終了
    • [68]2004年12月 ニンテンドーDSを発売
    • [69]2006年 据置機Wiiを発売
  • 日経ビジネス 2000年1月31日号「米国任天堂(Nintendo of America)30億円初期投資でポケモンブーム演出」
    • [63]米国任天堂が日本・アジアを除く全世界の権利を獲得し初期費用約30億円弱を投下
  • 日経ビジネス 2003年2月24日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂相談役]ゲームはまだ終わらない」
    • [65]2002年5月31日付 山内溥氏が32歳年下の岩田聡氏へ社長を譲り取締役相談役へ退任
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号「編集長インタビュー・山内溥氏[任天堂社長]ハード屋の発想に乗ったら負ける」
    • [67]山内溥氏は2001年に世襲をしないと明言し身内に適任者がいないと説明
  • 任天堂 有価証券報告書
    • [70]2009年3月期 連結売上高1兆8386億円で過去最高

2007年〜 後継機の谷とSwitchによる単一プラットフォーム統合

任天堂の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2009年 売上高で過去最高を記録
  2. 2014年 3DSとWiiUが不振・最終赤字に転落
  3. 2015年 DeNAと資本業務提携を締結
  4. 2017年 併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売
  5. 2020年 マイクロソフトが任天堂の買収を議論
  6. 2020年 バリューアクトが株式保有
  7. 2025年 後継機「Nintendo Switch 2」の投入 累計1億5000万台の初代Switchの後を、どう継ぐか——据置×携帯ハイブリッドの継承という一大意思決定

二系統並存の代償と窮地で投入した新ハード

DSとWiiの後継機はいずれも前世代の実績に届かず、3DSは裸眼立体視を前面に出したものの、DSの「脳トレ」に匹敵する用途拡張型のキラーソフトを欠いて、累計販売台数は1億5402万台を売ったDSに対し7594万台にとどまった[71]。Wii UもGamePadが付いただけのWiiに過ぎないという受け止めを覆せず、1億163万台のWiiに対し1356万台で終わった[72]。年間で見ればWii Uはピークの2016年3月期でも338万台で、Wiiが2010年3月期に記録した2,595万台[73]の1割強にとどまる。岩田聡社長は決算説明会で、Wii Uの製品価値を十分に伝えられていない点と努力不足[74]を繰り返し反省として語った。

2009年3月期をピークに連結売上高は8期連続で減少し[75]、1兆8386億円だった売上高は2017年3月期に4891億円まで縮んだ[76]。2012年3月期と2014年3月期には最終赤字[77]にも転落した。2015年にはDeNAと資本業務提携を結び[78]、スマートデバイス向けにも自社IPを展開する方針を決めた。その年の7月、岩田聡氏が55歳で急逝した。2013年の山内溥氏逝去[79]に続き、2人の経営者を短期間に失う事態となった。後任の君島達己氏は経理と法務畑出身の実務家で、ゲーム開発者でも創業家出身者でもなく、社長在任は2016年度までの2年間にとどまった。

  • 任天堂 有価証券報告書
    • [75]2009年3月期をピークに連結売上高が8期連続減収
    • [76]連結売上高 2009年3月期1兆8386億円→2017年3月期4891億円
    • [77]2012年3月期・2014年3月期に最終赤字
  • 有価証券報告書
    • [78]2015年 DeNAと資本業務提携を締結
  • 週刊東洋経済 2013年9月27日号「追悼 山内溥・任天堂前社長を悼む テレビゲーム育ての親 任天堂・山内溥氏逝去」
    • [79]2013年 山内溥氏逝去
    • [71]DS 1億5402万台に対し3DS 7594万台(後継機のジンクス)
    • [72]Wii 1億163万台に対しWii U 1356万台
  • 任天堂 連結販売数量の推移
    • [73]Wii Uの年間販売はピークの2016年3月期338万台/Wiiは2010年3月期に2,595万台
  • 任天堂 決算説明会(2014年1月30日)
    • [74]岩田聡氏がWii Uの製品価値と努力不足を決算説明会で反省として語った
  • 任天堂 有価証券報告書
    • [75]2009年3月期をピークに連結売上高が8期連続減収
    • [76]連結売上高 2009年3月期1兆8386億円→2017年3月期4891億円
    • [77]2012年3月期・2014年3月期に最終赤字
  • 有価証券報告書
    • [78]2015年 DeNAと資本業務提携を締結
  • 週刊東洋経済 2013年9月27日号「追悼 山内溥・任天堂前社長を悼む テレビゲーム育ての親 任天堂・山内溥氏逝去」
    • [79]2013年 山内溥氏逝去

属人性なき組織で成功を再現したSwitchの逆説

2017年3月、任天堂は携帯機と据置機の物理的境界を取り払った「Nintendo Switch」を発売した[80]。携帯モード・テーブルモード・TVモードを使い分けられるハイブリッド機[81]で、二系統に分散していた開発資源を一つのハードへ集中できる構造になった。「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」「スプラトゥーン2」「スーパーマリオ オデッセイ」といった看板タイトルが発売年内に相次いで投入され、連結売上高は2017年3月期の4891億円から2018年3月期には1兆557億円へ倍増し[82]、8期続いた連続減収に終止符が打たれた。ハードの年間販売台数も2018年3月期の274万台から2019年3月期には1,505万台へ伸びた[83]

2020年3月発売の「あつまれ どうぶつの森」[84]はコロナ禍の室内需要と合致してヒットし、Switchの年間販売台数は2021年3月期に本体1,483万台とLite 619万台[85]を合わせて2,100万台規模へ達した。2022年3月期には累計販売台数が1億台を突破し[86]、2025年2月時点の全モデル累計は1億5086万台[87]と、任天堂ハード最多のニンテンドーDSの1億5402万台に迫った。2025年6月5日には後継機「Nintendo Switch 2」を発売し[88]、初代のソフトが遊べる後方互換[89]とハイブリッドの形を引き継いだ。発売後4日間の世界販売台数は350万台を突破し[90]、任天堂のゲーム専用機として発売後4日間で過去最高を記録した。2025年12月には累計1500万台へ到達し[91]、初代を含む任天堂ハードで最速のペースとなった。

任天堂の沿革1889〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
任天堂創業——山内房治郎氏が京都で興した花札の手工製造と3代の家業承継セメント商家の副業から始めた花札製造を、山内房治郎氏はどのように全国へ広げたか 詳細を読む★★★
任天堂を設立
山内溥氏が社長就任
山内溥国産初のプラスチック製トランプを発売
山内溥ディズニープロ社からトランプの国内独占販売権を取得
山内溥トランプ専業を脱するための多角化とその全敗本業の天井を破ろうとタクシー・即席食品・玩具の外へ広げた事業は、なぜことごとく失敗したのか 詳細を読む★★★
山内溥大阪証券取引所第2部に株式上場
山内溥任天堂に商号変更
山内溥減収減益
山内溥総合室内ゲーム企業を目指す方針決定★★
山内溥レジャー機器の販売不振。過剰在庫により減収減益へ★★
山内溥テレビゲーム・アーケードゲームに参入
山内溥東京証券取引所第1部に株式上場
山内溥任天堂のファミリーコンピュータ発売と低価格・ソフト収益モデルへの転換本体を安く配り、ソフトで長く稼ぐ――山内溥社長が挑んだ14,800円の家庭用ゲーム機 詳細を読む★★★
山内溥ファミコンが社会現象
山内溥欧米に子会社を新設
山内溥任天堂のソニー連合との決別と64ビット機NINTENDO64の単独開発CD-ROM機の主導権とソフトのライセンス権を巡ってソニーと決別し、山内溥社長がカートリッジ式の単独路線を選んだ判断 詳細を読む★★★
山内溥任天堂のポケモン株式会社共同設立とIP経営への移行ゲームボーイ延命の一過性ヒットを、キャラクターを一元管理する会社へ組み替えた判断 詳細を読む★★★
岩田聡家庭用TVゲーム機「ゲームキューブ」を発売
岩田聡任天堂・山内溥氏から岩田聡氏への社長交代53年続いた創業家経営に、山内溥氏はなぜ自ら幕を引いたか 詳細を読む★★★
岩田聡携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売★★
岩田聡家庭用TVゲーム機「Wii」を発売★★
岩田聡売上高で過去最高を記録
岩田聡3DSとWiiUが不振・最終赤字に転落★★
君島達己DeNAと資本業務提携を締結
古川俊太郎併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売★★
古川俊太郎マイクロソフトが任天堂の買収を議論
古川俊太郎バリューアクトが株式保有
古川俊太郎Nintendo Switchの販売好調
古川俊太郎後継機「Nintendo Switch 2」の投入累計1億5000万台の初代Switchの後を、どう継ぐか——据置×携帯ハイブリッドの継承という一大意思決定 詳細を読む★★★
出典・参考

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