1960年にD・ローゼンが「日本娯楽物産」および「日本機械製造」を設立し、ジュークボックの国内生産を開始した。
当時は、輸入のジュークボックスが一般的であったが、輸入制限があったため、国内開発を開始した背景があった。1960年に日本機械製造が開発したジュークボックスの名称は「Service・Games」という単語を組み合わせた「セガ1000」と命名し、後の「セガ」の社名の由来となった。
1964年に日本娯楽物産は日本機械製造を吸収合併し、翌1965年に商号を「セガエンタープライズ」に変更した。
商号変更とともに、1965年からセガは直営によるアミューズメント施設の運営に参入して、従来の「製造・輸入」に加えて「ゲーム施設の運営」を手掛けることで、ビジネスの垂直統合を図った。
詳細な経緯は不明だが、1969年に米国のコングロマリット企業であるガルフ&ウェスタン(G&W)社が買収した。以後、外資企業の傘下でセガは経営され、国内のゲーム機および遊技場の運営会社となった。
1970年代にはコンピュータの普及によりゲームが高性能化する追い風を受けた。この結果、ゲームセンター向けの業務用機器では、タイトー、ナムコ、セガの3社が日本国内における「御三家」と呼ばれていた。
1970年代後半のインベーダーゲームのブームに乗り遅れたセガは、経営再建のためにエスコ貿易を買収し、同社の創業者であり英語が堪能な中山隼雄氏をセガの副社長として招いた。
中山隼雄氏はエスコ貿易の経営を通じて、海外から業務用ゲーム機を輸入する事業を営み、エスコ貿易を急成長させる手腕を発揮しており、セガの再建を託された。
中山隼雄氏の副社長就任により、セガは経営再建のために「家庭用ゲーム」への本格参入を決定した。開発の末、1983年にセガは「SG-1000」を発売し、主に欧米への輸出に注力した。
1983年のSG-1000の開発にあたって、少なくない開発費用が必要になるものの、セガの親会社であったG&Wは家庭用ゲーム機への参入に賛同しなかった。このため、株式の売却を画策する。
そこで、中山隼雄氏は親会社の株売却の意向を汲み取り、新しい株式の引受先として当時急成長を遂げていたSIerであるCSKに白羽の矢を立てた。CSKは株式上場を果たしたばかりで、SIerに次ぐ新規事業の展開を模索していたことから、セガの買収を決定した。
また、CSKの創業者である大川功は、個人名義でセガの株式を取得。中山隼雄氏も個人でセガの株式30%を取得し、同社のオーナー経営者となった。
この結果、1983年以降、セガは大株主CSKのもとで経営される資本関係となった。
1980年代を通じて欧米向けの家庭用ゲーム機の輸出と、国内向けの業務用ゲーム機器の需要が増加し、セガも業容を急拡大した。
この結果、1983年ごろのセガの売上高は20億円程度に過ぎなかったが、1985年度には売上高248億円、1990年度には1065億円を達成した。業績の拡大を受けて、1988年にセガは株式上場を果たした。
【事業概況】
1990年前半のセガの業績は急成長かつ高収益で推移し、日本経済界でも急成長企業として注目を集めた。
この時期、日経ビジネスでもセガの躍進が取り上げられるようになり、1994年2月7日号では「強い会社・セガ」「異能集団のスピード経営」として特集が組まれた。
セガでは、業界の著名人物を次々と経営陣としてスカウトし、企業組織を作り上げていく点に、当時の日本企業からすると珍しさがあり、注目の対象となった。
スカウトした人物は、ホンダの元役員(入交昭一郎・のちのセガ社長)や、ダイエーの元取締役など多彩な顔ぶれであり、中途採用が盛んな企業としても知られた。
【経営方針】
家庭用ゲーム機の拡大で勢いづいたセガは、売上高の増大を何よりも優先させた。
1996年の時点で、セガは「売上高1兆円」を目標に掲げて、高収益の業務用ゲームとともに、投資中で採算が悪い家庭用ゲーム機の開発を継続する方針を示した。
当時、日本国内には「売上高1兆円」を達成したゲームメーカーは存在せず、どの企業が最初に1兆円に到達するかが注目されていた。
【スクウェアの脱任天堂】
ゲームソフト会社のスクウェアは、任天堂向けのゲーム「ファイナルファンタジー」のヒットによって急成長を遂げていた。1990年3月期の売上高25億円に対して、1992年3月期には166億円を達成するなど、急成長のソフト会社として注目を集めていた。
しかし、急成長とともにスクウェアは、ゲームソフトの流通におけるタイムロスを問題視するようになった。
任天堂のゲームカートリッチがROM方式であり、生産に時間がかかるため、製造から発売に至るまでの時間のロスを気にしていた。さらに、任天堂はおもちゃ問屋の「初心会」を通じた流通機構を組織していたが、商品が届くまでのタイムロスとなっていた。
【ソニーorセガの選定】
1996年にスクウェアは、次世代のCD-ROM方式の家庭用ゲーム機向けにファイナルファンタジーを開発する方針を決め、ソニーとセガに話を持ちかけた。
セガはスクウェアにオファーを出して陣営に取り込もうとしたが、スクウェアはソニーの「プレイステーション」向けの開発を決定した。
これによって、ファイナルファンタジーはソニー向けに発売されることになり、セガは「人気の高い大型ソフトウェア」の取り込みに失敗。ゲーム機メーカーとして魅力を失ったセガは、次世代ゲーム機「ドリームキャスト」の開発にあたっても有力なソフトを抱え込むことができず、長期的に業績が低迷する要因を作ってしまった。
一方、ソニーはファイナルファンタジーを獲得し、プレイステーションを躍進させるきっかけを掴み、任天堂に次ぐ家庭用ゲーム機メーカーの座を掴んだ。その意味で、ファイナルファンタジーの取り込みが、その後のゲーム機メーカーの趨勢に大きな影響を与える形となった。
1990年代を通じて家庭用ゲーム機の市場では、任天堂とソニー(PlayStation)が死闘を繰り広げ、セガもその煽りを受ける形となった。特に、任天堂やソニーのようにキラーソフトを持たなかったセガは徐々に苦境に陥り、1990年代後半の売上は低迷し、欧米の販売店にゲーム機の在庫が築かれていった。
また、業務用ゲーム機器でも競争が激化したことによって収益率が低迷。セガにとって家庭用ゲーム機器の赤字を支えてきた主力事業の低迷が、業績の悪化に拍車をかけた。
そして、1998年には減収減益決算となり、在庫処分のために最終赤字433億円を計上した。業績不振に陥ったセガを問題視したのが、大株主であるCSKと、CSKの創業者である大川功氏である。大川功氏は大株主として、中山隼雄氏を代表取締役社長に退任するように要請。セガの後任社長としてホンダ出身の入交昭一郎氏を据えた。
ソフトウェアを重視する任天堂とソニーに対して、セガは挽回を期すために、ゲーム機の性能・機能で勝負する道を選択した。そこで、当時普及しつつあったインターネット技術に着目し、ネット回線を用いたゲーム機「ドリームキャスト」の開発に数百億円の投資を決定した。
ネット技術を使用した背景には、大株主であるCSKと座組みを作る狙いがあった。CSKがネット技術の開発に協力することによって、セガがインターネットによるゲーム機という新しい試みを支援することが可能となった。
1999年にセガは満を持して「ドリームキャスト」を発売する。
セガはドリームキャストを発売したものの、顧客が支持するようなソフトウェアに欠き、さらに高速インターネット回線も国内では未整備だったため、そのポテンシャルが発揮されずに売れ行きは低迷した。特に、ドリームキャストに搭載される半導体が高性能であったために出荷が遅れ、ソフトメーカーの開発が遅れたことも影響したという。
ドリームキャストの発売当日は行列ができたが、セガが年末商戦期間中における100万台の販売予想に対して、実績は50万台の販売にとどまり、膨大な在庫となってしまう。
セガはドリームキャスの開発を賄うだけの黒字を確保できず、1999年以降の業績が極度に悪化。2000年3月期には営業赤字403億円、2001年3月期には営業赤字520億円を計上し、壊滅的な決算となった。
財務状況が悪化したことを受けて、セガでは1000人規模の人員削減を実施するなど、膨張した組織の再編に追われた。また、大株主であった大川功は、個人資産850億円をセガに寄贈し、損失補填に当てた。