軍需に対応して航空機向けプロペラの生産を決定。1938年に資本金を400万円から875万円(+475万円増資)に増資して投資資金を確保した。1939年天竜工場、1945年に佐久良工場をそれぞれ新設した。終戦時点でヤマハの従業員数は1万名に及んだ。
終戦後にプロペラの生産技術(工作機械)は、二輪車への参入に活用され、ヤマハ発動機の設立に至っている。
1949年にヤマハは株式上場を実施し、川上家による株式持分は5%未満となった。主要株主は生命保険などの金融機関が中心であった。ただし、川上家はヤマハの実質的な創業者として振る舞い、1992年に更迭されるまで川上家による「資本の裏付けなき同族経営」が続いた。
川上嘉市の息子である川上源一(当時38歳)が、日本楽器製造の社長に就任。以後1980年代までヤマハの経営に従事
当時のヤマハの社長であった川上源一は、終戦後にGHQ接収されていた工作機械と工場が返還されたのを受けて、当時需要が急増しつつあった二輪車への参入を決めた。 そして、1955年にヤマハの子会社として「ヤマハ発動機(資本金3000万円)」を設立した。その後、1961年にヤマハ発動機は株式を上場したため、ヤマハとヤマハ発動機の資本関係は希薄となった(1980年代にはヤマハが大株主として39%を保有)。このため、ヤマハ発動機とヤマハは「創業者は同一だが、資本面では関係会社」という位置付けて運営された。
半導体への投資を進めるも特損計上。半導体事業を統括していた石村社長は引責辞任へ