| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 18億円 | 1億円 | 7.8% |
| 1951/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 20億円 | 1億円 | 8.7% |
| 1952/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 34億円 | 2億円 | 8.0% |
| 1953/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 40億円 | 2億円 | 7.0% |
| 1954/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 55億円 | 3億円 | 6.4% |
| 1955/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 56億円 | 3億円 | 5.6% |
| 1956/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | - | - | - |
| 1957/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 75億円 | 2億円 | 3.3% |
| 1958/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 87億円 | 2億円 | 3.2% |
| 1959/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 99億円 | 3億円 | 3.3% |
| 1960/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 145億円 | 4億円 | 3.3% |
| 1961/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 198億円 | 6億円 | 3.1% |
| 1962/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 267億円 | 9億円 | 3.3% |
| 1963/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 339億円 | 11億円 | 3.3% |
| 1964/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 279億円 | 16億円 | 5.9% |
| 1965/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 583億円 | 19億円 | 3.3% |
| 1966/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 567億円 | 22億円 | 3.9% |
| 1967/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 483億円 | 32億円 | 6.6% |
| 1968/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 474億円 | 24億円 | 5.1% |
| 1969/4 | 単体 売上高 / 計上利益金 | 585億円 | 36億円 | 6.2% |
| 1970/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 763億円 | 39億円 | 5.1% |
| 1971/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 912億円 | 44億円 | 4.8% |
| 1972/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,026億円 | 46億円 | 4.5% |
| 1973/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,229億円 | 50億円 | 4.1% |
| 1974/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,654億円 | 57億円 | 3.4% |
| 1975/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,091億円 | 48億円 | 2.3% |
| 1977/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,537億円 | 52億円 | 2.0% |
| 1978/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,759億円 | 46億円 | 1.6% |
| 1979/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,819億円 | 60億円 | 2.1% |
| 1980/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,038億円 | 67億円 | 2.2% |
| 1981/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,295億円 | 69億円 | 2.1% |
| 1982/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,462億円 | 55億円 | 1.6% |
| 1983/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,348億円 | 31億円 | 0.9% |
| 1984/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,389億円 | 35億円 | 1.0% |
| 1985/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,918億円 | 54億円 | 1.3% |
| 1989/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,975億円 | 36億円 | 0.9% |
| 1990/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,846億円 | 42億円 | 1.1% |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,834億円 | 40億円 | 1.0% |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,128億円 | 57億円 | 1.1% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,834億円 | 18億円 | 0.3% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,456億円 | -39億円 | -0.9% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,825億円 | 53億円 | 1.1% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,312億円 | 94億円 | 1.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,047億円 | 140億円 | 2.3% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,089億円 | 134億円 | 2.2% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,637億円 | -158億円 | -2.9% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,278億円 | -407億円 | -7.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,191億円 | 133億円 | 2.5% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,044億円 | -102億円 | -2.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,247億円 | 179億円 | 3.4% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,395億円 | 435億円 | 8.0% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,340億円 | 196億円 | 3.6% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,340億円 | 281億円 | 5.2% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,503億円 | 278億円 | 5.0% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,487億円 | 395億円 | 7.1% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,592億円 | -206億円 | -4.5% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,148億円 | -49億円 | -1.2% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,738億円 | 50億円 | 1.3% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,566億円 | -293億円 | -8.3% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,669億円 | 41億円 | 1.1% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,103億円 | 228億円 | 5.5% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,321億円 | 249億円 | 5.7% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,354億円 | 326億円 | 7.4% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,082億円 | 467億円 | 11.4% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,329億円 | 543億円 | 12.5% |
| 2019/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,347億円 | 403億円 | 9.2% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,142億円 | 346億円 | 8.3% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 3,726億円 | 266億円 | 7.1% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,081億円 | 372億円 | 9.1% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,514億円 | 381億円 | 8.4% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,628億円 | 296億円 | 6.3% |
| 2025/3 | 連結 売上収益 / (親)当期利益 | 4,620億円 | 133億円 | 2.8% |
1950年代の日本において、ピアノは一般家庭にとって手の届かない高額商品であった。メーカーとして供給能力を整えても、そもそも「ピアノを弾きたい」という需要そのものが十分に形成されていなかった。通常の製造業であれば、所得水準の向上を待って市場が自然に立ち上がるのを期待するところだが、川上源一は待たなかった。1953年に約80日間にわたって欧米を視察し、幼少期からの音楽教育が家庭での楽器購入に直結する構造を目の当たりにした。需要は存在するものではなく、教育を通じて創るものだという認識がここで確立された。
1954年、ヤマハ音楽教室を組織化し、生徒150名・教室8カ所という小規模な出発から事業を開始した。全国の楽器店を拠点に活用し、教室と販売を連動させる仕組みを整備した。このモデルが爆発的に機能した背景には、高度成長期の日本社会が持つ特有の構造があった。「一億総中流」意識の中で、ピアノは中流家庭の文化的シンボルとなり、教育熱心な親が子どもの習い事としてピアノを選ぶ流れが生まれた。ヤマハ音楽教室はこの社会潮流の受け皿として機能し、「教育→体験→購入」という導線が全国規模で回り始めた。世界的に見ても、楽器メーカーが全国規模の音楽教室ネットワークを自前で運営し定着させた例は極めて稀であり、スタインウェイもベーゼンドルファーも実現していない。
この成功体験は国内にとどまらず、グローバル展開の基盤にもなった。1960年にロサンゼルスに現地法人を設立し、商社経由ではなく自社ブランドでの直接販売を選択した。音楽教室モデルは海外にも展開され、教育とブランドを一体で浸透させる手法が各国で機能した。1970年には世界シェア約30%を占め、ピアノ生産台数で世界首位を確保した。ただし、量産体制と音楽教室による普及価格帯での浸透が前提であったため、ヤマハは「高級ピアノ」としてのポジション確立には苦労を伴った。スタインウェイのようなコンサートホールの定番としての地位とは異なり、あくまで教育と家庭用途を入口としたブランド形成であり、価格帯の上昇には構造的な壁があった。
ヤマハ音楽教室の本質は、メーカーが教育という需要の入口を握ることで市場そのものを設計した点にある。日本にピアノを大衆文化として定着させたという意味で、川上源一の設計は典型的なマーケット創造型の経営だった。通常、製造業は「すでに存在する需要」に対して製品を供給するが、ヤマハは「まだ存在しない需要」を教育によって創出し、その受け皿として自社製品を位置づけた。しかし、大衆への普及を実現したことは、同時に普及台数の天井が見え始めることをも意味した。1974年度を境に国内ピアノ販売台数は伸び悩み、「一億総中流」の家庭に行き渡った時点で、このモデルの量的成長は限界に達した。市場を創った成功体験と、創った市場が飽和するジレンマ。この構造が、ヤマハを楽器以外の領域へと多角化に駆り立てていくことになる。
ヤマハのガバナンスの歴史において最も特異な構造のひとつは、川上家の持株比率が上場時点で5%未満であったにもかかわらず、川上源一・浩の親子二代にわたり約40年間、実質的な同族経営が続いたことである。通常、上場企業で創業家が経営を支配するには相応の持株比率か、種類株などの制度的裏付けが必要となる。しかし川上家にはそのいずれもなかった。支配力の実態は、人事権の完全掌握にあった。社長の任免を川上家が決める以上、社内で逆らえる人間はいない。株主側も牽制機能を果たさなかった。主要株主は生命保険会社や銀行などの金融機関だったが、持株は広く分散し、大株主として積極的に物申すインセンティブは乏しかった。安定保有が前提の時代において、ガバナンスの空白地帯が構造的に生まれていた。
この人事権の絶対性を象徴するのが、1983年の河島博社長の実質解任である。河島氏はヤマハ発動機との二輪車事業での競争激化(HY戦争)などを経て業績面の課題を抱えていたが、退任の本質は業績評価ではなく「川上家との関係」にあったとされる。社長の進退が資本の論理ではなく創業家の意向で決まる構造は、外部から見れば異常だが、内部では長年にわたり常態化していた。川上源一の音楽教室モデルと海外展開の成功が、この統治構造に対する社内外の信認を支え続けたからである。
しかし、成功体験に裏付けられた創業家の裁量は、多角化路線の歯止めなき拡張をも許容した。エレクトーン、スポーツ用品、半導体、オーディオ、リゾート、リビング。1959年から半世紀にわたり事業領域は拡張され続けたが、その多くは楽器事業の収益力に依存する構造だった。リゾート事業だけで合歓の郷30億円、つま恋120億円、キロロリゾート200億円と累計数百億円が投じられた。楽器メーカーがホテルやスキー場を建設する判断は、資本効率の観点からは説明しにくく、人事権を握る創業家経営者に誰も異を唱えられなかったからこそ許容された投資だったと見るのが自然である。
川上家が退場したのは1992年、労働組合が川上浩社長の辞任を正式に要求したことによってである。株主でも銀行でもなく、労組がガバナンスの最後の砦として機能したという事実は、この企業の統治構造の特異さを物語っている。その後、2005年から多角事業の段階的整理が始まり、2013年に事業部制を廃止して「音」を軸とする事業構造へ回帰、2018年には時価総額1兆円を突破した。音楽教室という偉大な成功体験を生んだ同じ統治構造が、多角化という負の遺産も生んだ。資本の裏付けなき同族経営は、成功と失敗の両方を増幅させる構造だったのかもしれない。
山葉寅楠は医療機器の修理に従事していた人物であり、楽器製造の専門教育を受けていない。オルガンの修理依頼を契機に楽器構造を独学で習得し、輸入品を分解・模倣する過程で製造技術を確立した。精密機械の修理で培った観察力と加工技術が、楽器という異分野への参入を可能にした。明治期の産業勃興において、専門人材が不在の領域では隣接分野からの技術転用が産業創出の経路となりうることを示す事例である。
明治期の日本では、学校教育への音楽科目の導入に伴い、オルガンを中心とした西洋楽器への需要が師範学校や小学校で顕在化しつつあった。しかし市場に流通する楽器の大半は輸入品であり、高価かつ調達も不安定であった。国内に量産体制を持つ楽器メーカーは存在せず、国産化は事業機会であると同時に未踏の領域であった。
山葉寅楠はもともと医療機器の修理に従事していたが、浜松の小学校から依頼を受けたオルガン修理を契機に楽器構造を独学で研究した。輸入品に依存する構造を変えるべく国産製造を志向し、1889年に山葉風琴製造所を開業。試作と改良を重ねながら品質向上を図り、学校向け需要を取り込む基盤を築いた。
1897年、事業規模の拡大に対応するため、日本楽器製造株式会社を設立した。個人事業から株式会社組織への移行は、資本を集約して近代的な製造業としての体制を整備する制度的転換であった。年間生産規模は約250台に達し、安定供給を前提とした取引拡大を志向した。
万国博覧会への出品などを通じてブランド認知の向上を図り、輸入品との競争を見据えた品質と生産効率の両立が進められた。創業者の逝去後も経営は継承され、株式会社化によって形成された組織基盤が、個人の技能に依存しない事業継続を可能にした。
株式会社化により、楽器製造は個人の技術から組織的な産業へと転換した。資本調達の仕組みが整備されたことで、設備投資と人材確保に継続性が生まれ、生産規模の拡大が可能となった。輸入品との競争環境の中で、品質改善と原価低減を並行して進める体制が構築された。
ただし、楽器市場そのものは依然として限定的であり、学校や一部富裕層に依存する構造は変わらなかった。事業の器は整ったが、市場の厚みが伴うには時間を要する段階であった。組織化という制度設計が、後の総合楽器メーカーへの発展を可能にする前提条件となった。
山葉寅楠は医療機器の修理に従事していた人物であり、楽器製造の専門教育を受けていない。オルガンの修理依頼を契機に楽器構造を独学で習得し、輸入品を分解・模倣する過程で製造技術を確立した。精密機械の修理で培った観察力と加工技術が、楽器という異分野への参入を可能にした。明治期の産業勃興において、専門人材が不在の領域では隣接分野からの技術転用が産業創出の経路となりうることを示す事例である。
ピアノとハーモニカは価格帯こそ異なるが、どちらも景気変動に左右される嗜好品である。高価格帯は不況で買い控えられ、低価格帯は輸入品との価格競争にさらされる。価格帯の幅を広げても需要の性質が同一である限り、景気後退期には全製品が同時に打撃を受ける。リスク分散が機能するのは需要構造が異なる事業間であり、同一の消費行動に依存する製品群の拡張は真の分散にはならないという構造を、105日のストが証明した。
1890年代後半、日本における西洋楽器市場は依然として限定的であり、ピアノやオルガンは学校や一部富裕層向けの高額品にとどまっていた。日本楽器製造はオルガンの国産化で一定の地位を築いたものの、市場規模は小さく需要の拡大余地は不透明であった。加えて、楽器は生活必需品ではなく景気動向の影響を受けやすい商材であり、単一製品への依存は経営上のリスクとなる構造を内包していた。
好況期には需要が伸びる一方、不況期には真っ先に支出が削減される嗜好品の特性は、安定的な収益基盤の構築を困難にしていた。こうした需要の振れ幅を前提とすると、製品領域の拡張によるリスク分散が経営課題として浮上していた。
1899年、日本楽器製造はピアノ製造に参入した。オルガンに続く鍵盤楽器への展開であり、より高価格帯の製品を自社技術で手掛ける体制を整えた。さらに1915年にはハーモニカ製造にも参入し、高価格帯から大衆向けまで幅広い価格帯の楽器を揃えることで、総合楽器メーカーとしての基盤構築を目指した。
製造面では約600名規模の工場体制を整備し、北海道釧路に森林を確保するなど原材料調達の上流にまで踏み込んだ。製品多角化と生産基盤の拡充を同時に進めることで、市場拡大への備えを整えた。
しかし、楽器市場の構造的な脆弱性は解消されなかった。ピアノは高額品であり一般家庭への普及は限定的であった。ハーモニカは大衆向け商材として一定の広がりを見せたが、ドイツ製輸入品との価格競争にさらされ、収益の安定化には至らなかった。製品ラインを拡張しても、市場そのものの厚みが伴わなければ収益は安定しない。
第一次世界大戦後の景気後退期には需要が縮小し、業績は悪化した。1926年には大規模ストライキが発生し、約105日にわたり工場操業が停止した。財務状況は逼迫し、経営体制の再建が課題となった。嗜好品依存の事業構造が景気変動に対して脆弱であることが、労使対立という形で顕在化した。
ピアノとハーモニカは価格帯こそ異なるが、どちらも景気変動に左右される嗜好品である。高価格帯は不況で買い控えられ、低価格帯は輸入品との価格競争にさらされる。価格帯の幅を広げても需要の性質が同一である限り、景気後退期には全製品が同時に打撃を受ける。リスク分散が機能するのは需要構造が異なる事業間であり、同一の消費行動に依存する製品群の拡張は真の分散にはならないという構造を、105日のストが証明した。
川上嘉市は外部から招聘された再建者であったが、就任と同時に株式を取得したことで、再建の過程が支配権の確立と不可分になった。危機を収束させた実績は「川上家に任せればよい」という社内の合意を形成し、株主構成の分散がこれを牽制する力を持たなかった。再建のために付与された裁量が、再建完了後も回収されず世襲化したという経緯は、日本企業における「恩義による支配の固定化」の典型例であり、以後60年にわたる同族経営の起点となった。
第一次世界大戦後の反動不況により、日本経済は1920年代に深刻な停滞局面に入った。楽器は景気後退の影響を受けやすい商材であり、日本楽器製造の業績も悪化した。賃金水準の維持が困難となる中、1926年に労働組合は賃金改善を求めて交渉を開始したが、会社側は業績不振を理由に応じなかった。
交渉は決裂し、105日に及ぶ大規模なストライキへ発展した。生産は完全に停止し、浜松では騒擾事件が発生するなど社会問題化した。争議は企業の存続そのものを問う深刻な局面であり、収束後も経営の混乱は続いた。1927年1月、株主は天野社長を解任し、後任の選定が急務となった。
後任社長には住友財閥出身の川上嘉市が招聘された。川上は就任と同時に自ら株式を取得し、経営責任と資本責任を一体で引き受ける体制を整えた。外部からの登用により、従来の経営陣との断絶を図り、再建を主導する構えを明確にした。
川上体制下では、釧路分工場、大崎工場、名古屋貯木池などの資産売却を進め、借入金返済と財務健全化を最優先とした。無配を継続し内部留保を確保するなど、成長より存続を選ぶ姿勢が貫かれた。過剰設備を圧縮し、固定費構造の見直しに着手した。
資産整理と支出抑制の徹底により、資金繰りは次第に安定へ向かった。1930年前後には経営は一定の安定を取り戻したとされる。事業規模は縮小したが、財務基盤の再構築により企業としての継続可能性が確保された。
ただし、この再建過程は財務再建にとどまらない意味を持っていた。川上嘉市が就任時に株式を取得したことで、日本楽器製造は事実上「川上家」の支配下に入った。危機対応を通じて確立された川上家の経営権は、以後約60年にわたる同族的経営体制の起点となった。
川上嘉市は外部から招聘された再建者であったが、就任と同時に株式を取得したことで、再建の過程が支配権の確立と不可分になった。危機を収束させた実績は「川上家に任せればよい」という社内の合意を形成し、株主構成の分散がこれを牽制する力を持たなかった。再建のために付与された裁量が、再建完了後も回収されず世襲化したという経緯は、日本企業における「恩義による支配の固定化」の典型例であり、以後60年にわたる同族経営の起点となった。
軍需に対応して航空機向けプロペラの生産を決定。1938年に資本金を400万円から875万円(+475万円増資)に増資して投資資金を確保した。1939年天竜工場、1945年に佐久良工場をそれぞれ新設した。終戦時点でヤマハの従業員数は1万名に及んだ。
終戦後にプロペラの生産技術(工作機械)は、二輪車への参入に活用され、ヤマハ発動機の設立に至っている。
1949年にヤマハは株式上場を実施し、川上家による株式持分は5%未満となった。主要株主は生命保険などの金融機関が中心であった。ただし、川上家はヤマハの実質的な創業者として振る舞い、1992年に更迭されるまで川上家による「資本の裏付けなき同族経営」が続いた。
川上嘉市の息子である川上源一(当時38歳)が、日本楽器製造の社長に就任。以後1980年代までヤマハの経営に従事
ヤマハ音楽教室は需要の創出装置であると同時に、顧客の囲い込み装置でもあった。ヤマハの教材で育った生徒はヤマハの楽器を買い、ヤマハの教室で教える側に回る。教育・販売・製造の循環構造は、競合メーカーには模倣しにくいエコシステムを形成した。スタインウェイもベーゼンドルファーもこの設計を実現していない事実は、需要創出の本質がメーカー単体の力ではなく教育インフラの組織化にあったことを示している。
戦後復興が進む1950年代、日本では生活水準の向上とともに文化需要も伸び始めていた。しかしピアノは依然として高額商品であり、学校や一部の家庭に限られる存在であった。メーカー側にとっては、供給能力の問題以前に、そもそも「ピアノを弾きたい」という需要そのものが十分に形成されていないという構造的課題があった。
1953年、川上源一社長は約80日間にわたり欧米を視察し、音楽教育と楽器普及が密接に結びついている現場を確認した。幼少期から体系的に音楽教育を行う仕組みがあり、それが家庭での楽器購入につながる構造を目の当たりにした。需要を待つのではなく、教育を通じて市場を形成するという認識がここで確立された。
同時に、生産面でも量産体制の確立が課題であった。需要が本格化した場合に備え、品質を保ちながら供給能力を高める基盤整備が求められていた。需要創出と供給体制の両面に投資を行うか否かが、経営上の論点となっていた。
1954年、ヤマハは音楽教育事業を組織化し、ヤマハ音楽教室を開始した。当初は生徒150名、教室8カ所という小規模な出発であったが、教材開発や指導法の整備を進め、事業としての型を構築した。全国の楽器店を拠点に活用し、教室と販売を連動させる仕組みを整備した。
1959年頃からは幼稚園の活用を本格化させ、幼児層を対象とする教室網を拡張した。教育を通じて音楽体験を日常化させ、その延長線上にピアノ購入を位置づける「教育→体験→購入」の導線を全国規模で構築した。世界的に見ても、楽器メーカーが全国規模の音楽教室ネットワークを自前で運営し定着させた例は極めて稀であった。
生産面では1956年に天竜工場に木材乾燥室を導入した。自然乾燥に依存していた従来工程を設備化することで、在庫期間の短縮と品質の均一化を図った。合板加工を天竜、組立を浜松本社工場が担う分業体制を整え、量産に向けた基盤を整備した。
音楽教室の拡大により、幼児期からの音楽教育が全国に広がった。教室は単なる教育の場ではなく、教材・発表会・講師ネットワークを通じて継続的な需要を生み出す装置として機能した。1963年度には生徒数が20万人規模に達したとされる。
生産体制の整備により、拡大する需要に対応する供給能力が確保された。1960年代には国内ピアノ市場で60〜70%とされるシェア水準を記録し、国内首位の地位を確立した。教育・販売・製造の連動構造は、その後の輸出拡大にもつながる基盤となった。
ただし、このモデルの量的成長には構造的な天井があった。1974年度を境に国内ピアノ販売台数は伸び悩み、「一億総中流」の家庭に行き渡った時点で普及は飽和へ向かった。市場を創った仕組みが、創った市場の限界にも直面する構造が内包されていた。
| FY | 本社工場 | 天竜工場 |
| 1955年4月時点 | 1863名 | 292名 |
| 1959年4月時点 | 3006名 | 332名 |
ヤマハ音楽教室は需要の創出装置であると同時に、顧客の囲い込み装置でもあった。ヤマハの教材で育った生徒はヤマハの楽器を買い、ヤマハの教室で教える側に回る。教育・販売・製造の循環構造は、競合メーカーには模倣しにくいエコシステムを形成した。スタインウェイもベーゼンドルファーもこの設計を実現していない事実は、需要創出の本質がメーカー単体の力ではなく教育インフラの組織化にあったことを示している。
私どもは、ピアノやオルガンを作っている。たまたま欧米の家庭を訪れると、家庭の生活の中で楽器が本当に生きている姿を親しく眼のあたりにする。子供も大人も何のくもなくピアノにふれ、かなでるのだ。ところが、わが国では、私どものつくる楽器はどんどん売れるのに、街を歩いてもピアノの音ひとつ聞こえてこない。ピアノは買っても、かなでるすべを知らないのだ。音楽は、むずかしいものだという先入観念がある。
こんなことでは、苦労して一生懸命良いピアノをつくる努力も、全くその甲斐がないというものだ。音楽とはやさしいものだ。ピアノを奏でることは楽しく誰にでもできることなのだということを、国全体に普遍化しようというところから、ヤマハ音楽教室の設置を思い至った。
当時のヤマハの社長であった川上源一は、終戦後にGHQ接収されていた工作機械と工場が返還されたのを受けて、当時需要が急増しつつあった二輪車への参入を決めた。 そして、1955年にヤマハの子会社として「ヤマハ発動機(資本金3000万円)」を設立した。その後、1961年にヤマハ発動機は株式を上場したため、ヤマハとヤマハ発動機の資本関係は希薄となった(1980年代にはヤマハが大株主として39%を保有)。このため、ヤマハ発動機とヤマハは「創業者は同一だが、資本面では関係会社」という位置付けて運営された。
エレクトーンとFRP応用製品はともに楽器製造技術からの派生であったが、前者は「音楽をする人」に売り、後者は「スポーツをする人」に売る事業であった。ヤマハが持つ音楽教室・楽器店のネットワークはエレクトーンの販路として機能したが、アーチェリーやスキーには無力であった。技術の横展開は工場の都合では可能でも、既存の販売基盤から離れるほど競争力は希薄化する。多角化の成否を分けたのは製造技術の近さではなく、顧客接点の連続性であったと考えられる。
1950年代後半、ヤマハはピアノを中心に国内市場で地位を確立しつつあった。一方で楽器市場は景気動向に左右されやすく、需要の変動が業績に直結する構造を抱えていた。川上源一社長は、単一事業への依存は将来的なリスク要因になると認識し、楽器以外の領域への展開を検討していた。
1955年には二輪車事業を分社化する形でヤマハ発動機を設立しており、製造技術や素材技術を横展開することで新分野を開拓する発想はすでに実績があった。楽器事業が生む安定的なキャッシュフローを原資に、先行投資を積み重ねる余力も確保されていた。
1959年、ヤマハは電子楽器であるエレクトーンに参入した。当時はトランジスタの普及期であり、半導体は高コストかつ品質面で不安定であったが、電気技術と音響技術の融合領域として将来性を見込み、研究開発を継続した。同年にはFRP素材を活用したアーチェリー用品の製造も開始した。
1964年にはFRPを応用した浴槽など住宅設備分野へ進出した。楽器製造で培った素材加工技術を軸に、異分野へ横展開する構想であった。事業ポートフォリオの拡張を図り、楽器依存からの脱却を目指した判断であった。
エレクトーンは1970年代以降に電子楽器市場が拡大する中で存在感を高め、ヤマハの電子楽器事業の基盤となった。電子技術と楽器製造の融合は、後のシンセサイザーや半導体事業にもつながる技術的蓄積を生んだ。
一方、スポーツ用品およびリビング用品事業は業績への寄与が限定的であり、長期的には段階的に縮小へ向かった。1997年にスポーツ事業部を廃止、2002年にアーチェリーから撤退、2010年にはヤマハリビングテックの株式売却により完全撤退した。素材技術の横展開という発想は一貫していたが、事業特性の違いが半世紀後の明暗を分けた。
エレクトーンとFRP応用製品はともに楽器製造技術からの派生であったが、前者は「音楽をする人」に売り、後者は「スポーツをする人」に売る事業であった。ヤマハが持つ音楽教室・楽器店のネットワークはエレクトーンの販路として機能したが、アーチェリーやスキーには無力であった。技術の横展開は工場の都合では可能でも、既存の販売基盤から離れるほど競争力は希薄化する。多角化の成否を分けたのは製造技術の近さではなく、顧客接点の連続性であったと考えられる。
確かに、これまでヤマハの主流をなしてきた仕事、その代表的なものがピアノを筆頭とする鍵盤楽器なんですが、これは商品がある程度、いくところまで行き渡っていますからね。どんなに人とエネルギーを注ぎ込んでいっても、これまで以上に増やしていくことはできないんです。(略)しかし私はこういう日が来る、ということはかなり以前からある程度把握していた。だから、景気の良い時に、配当性向を20%に抑え込んで社内留保を厚くし、先行投資を重ねて行ったわけです。経営陣の最大の責務の一つが株主総会を無事に乗り切ること、と考えておられる社長さんたちも多いようですが、そういう発想でいくと、私のようなやり方は取らないでしょう。
私は「開闢(注:かいびゃく)以来の利益を出して株価をあげた経営者」という評価をいただこう、などとは毛頭考えていませんからね。開闢以来の利益を出そうと思えば出せますよ。しかし、私に対する評価は、上の中で十分だと思っている。それよりも企業の将来性を見通して、考えられるあらゆる事態に対応できるような布石を持っていくのが、経営者の最大の責務だと思っている。
川上源一が商社経由を全面排除した理由は、商社が競合製品も扱うためブランドの主導権を失うことにあった。耐久消費財ではアフターサービスが購入後の顧客接点となり、ここを他社に委ねることは実質的に顧客関係を譲渡することに等しい。年間150台からの出発でも100%子会社で直接販売にこだわった判断は、短期の販売効率より長期のブランド支配を優先する設計であった。10年後に世界シェア30%を確保した事実が、この設計の有効性を裏づけている。
戦後のヤマハは、国内市場だけでは成長余地に限界があると判断し、早期から欧米への輸出を志向していた。日本ではピアノの普及率が低く所得水準も限られていた一方、米国や欧州には既存の音楽文化と需要基盤が存在していたためである。
川上源一社長は、商社経由ではなく自社による直接輸出を選択した。商社が競合製品も扱う構造ではブランド統制やアフターサービスの質を維持しにくいと考えたためである。耐久消費財である楽器は、部品交換やクレーム処理を含む継続的なサービスが不可欠であり、品質管理を一貫して自社で行う方針が固まった。
1958年のメキシコ法人設立に続き、1960年に米国ロサンゼルスへ現地法人を新設した。合弁ではなく100%子会社とし、「YAMAHA」ブランドでの自社展開にこだわった。当時はOEM供給が一般的であった中で、ブランド主導の販売戦略を採用した点に特徴がある。
並行して国内では、西山工場(1963年)、掛川工場(1965年)、磐田工場(1966年)を相次いで新設し、鋳造やアップライトピアノ量産を工程別に分業化した。輸出拡大に対応する生産基盤を国内に構築し、品質と原価の両面で競争力を確保する体制を整えた。
1960年時点で米国向け輸出台数は年間150台にとどまっていたが、現地法人設立後は販売網とサービス体制の整備が進み、輸出は急拡大した。1970年には米国向け輸出台数が年間1万8千台規模に達し、現地市場での存在感を高めた。
1967年にはピアノ生産台数で世界首位を確保し、1970年には世界シェア約30%を占めた。国内では60〜70%のシェアを維持しつつ、海外市場を成長源とする構造へ転換した。商社を介さず自社ブランドで直接販売する体制が、品質と価格の主導権を維持する基盤となった。
| FY | 本社工場 | 天竜工場 | 西山工場 | 掛川工場 | 磐田工場 |
| 1955年4月時点 | 1863名 | 292名 | - | - | - |
| 1966年4月時点 | 5552名 | 1475名 | 854名 | 804名 | - |
| 1970年4月時点 | 5213名 | 1232名 | 1598名 | 1608名 | 712名 |
川上源一が商社経由を全面排除した理由は、商社が競合製品も扱うためブランドの主導権を失うことにあった。耐久消費財ではアフターサービスが購入後の顧客接点となり、ここを他社に委ねることは実質的に顧客関係を譲渡することに等しい。年間150台からの出発でも100%子会社で直接販売にこだわった判断は、短期の販売効率より長期のブランド支配を優先する設計であった。10年後に世界シェア30%を確保した事実が、この設計の有効性を裏づけている。
日本経済そのものが輸出を度外視しては成り立たないことは、戦後、初めて海外旅行をした時からの考えである。だから日本楽器も積極的に輸出に力を入れた。
ただ戦後の輸出再開以来、商社は内外とも全部オミットし、ヤマハの直接輸出である。楽器とかオートバイは繊維などと違い、最高の品質を維持しなければならない。繊維のような消耗品ではなく耐久消費財なので、部品の取り替え、アフターサービス、クレーム処理など、きめ細かいサービスが要求される。商社に頼むと、ヤマハのオートバイが売れたとなれば、他のライバル勝者がホンダの車を持ってきて競争する。商社にしてみれば、どこの商品でもいいわけで、売れさえすれば儲かる。アフターサービスが損なわれがちだ。
それでは、ヤマハの信用が維持できなくなるから、戦後一貫して直接輸出、販売している。これがヤマハの基本戦略である。
川上源一自身がレクリエーション事業を「企業のアクセサリー」と呼んだ時点で、この投資の目的は収益ではなく経営者の構想の実現にあった。収益を目的としない投資は、通常であれば取締役会や株主が歯止めをかける。しかし持株比率5%未満で経営を支配する川上家に対して、分散した機関投資家は異議を唱えず、社内にも反対できる者はいなかった。350億円の投じられた先が示しているのは、ガバナンスの空白が資本配分の歪みとして顕在化する構造である。
1960年代を通じてヤマハはピアノの製造販売で国内首位を確立し、輸出拡大と量産体制の確立により財務基盤を強化していた。楽器事業は安定収益を生み、設備投資と海外展開を同時に進められる体制が整っていた。こうした資金余力を背景に、川上源一社長は次なる事業領域の開拓を志向した。
川上は単なる事業拡大ではなく「企業イメージの向上」を重視した。音楽メーカーとしての枠を超え、文化や余暇の創造を担う企業像を構築することが狙いであった。レクリエーション事業は収益最大化を第一の目的とせず、企業の社会的存在感を高める象徴的投資として位置づけられた。
高度経済成長期に入り、国民所得の上昇とともに余暇需要は拡大していた。しかし欧米型の滞在型リゾートという概念は日本ではまだ定着しておらず、ヤマハはこの未成熟な市場において新しいレジャーの形を提示することを構想した。
1964年に鳥羽国際ホテルを開業し観光事業へ参入したが、本格的な転換点は1967年に三重県賢島で開業した「合歓の郷」であった。推定投資額約30億円を投じ、宿泊機能に加えて多様なレクリエーション施設を備えた滞在型リゾートを構築した。
1974年にはヤマハ発動機と共同で静岡県掛川に「つま恋」を開業し、推定約120億円を投資した。コンサート会場を併設し大規模イベントを開催できる施設としたことで、音楽企業としてのブランドとも連動する構造を形成した。1988年には北海道赤井川村で「キロロリゾート」開発を開始し、推定投資額約200億円を投じた。
合歓の郷、つま恋、キロロだけで累計約350億円の投資となった。楽器メーカーがホテルやスキー場を建設する判断は資本効率の観点からは説明しにくいが、楽器事業のキャッシュフローと社内留保がこれを可能にした。川上源一自身が「企業のアクセサリー」と表現した通り、収益事業としての位置づけは限定的であった。
1991年前後のバブル崩壊により会員権ビジネスは急速に失速した。キロロリゾート関連では1995年に約150億円規模の損失を計上し、投資回収計画は大きく修正を迫られた。固定資産比率の高いリゾート事業は景気変動への耐性が低く、稼働率が低下すると固定費負担が収益を圧迫する構造であった。
1990年代以降、各施設では十分な再投資が行えず、設備の老朽化と集客力低下が進行した。収益性の改善は限定的であり、楽器事業のキャッシュフローに依存する状況が常態化した。レジャー部門は成長エンジンではなく、財務負担要因として認識されるようになった。
2005年3月期には主要4施設で減損処理を実施し、特別損失319億円を計上した。その後、合歓の郷やキロロなどは外部企業へ譲渡され、ヤマハはレジャー事業を大幅に縮小した。企業イメージ向上を目的とした投資は、結果として長期的な財務毀損を残すこととなった。
川上源一自身がレクリエーション事業を「企業のアクセサリー」と呼んだ時点で、この投資の目的は収益ではなく経営者の構想の実現にあった。収益を目的としない投資は、通常であれば取締役会や株主が歯止めをかける。しかし持株比率5%未満で経営を支配する川上家に対して、分散した機関投資家は異議を唱えず、社内にも反対できる者はいなかった。350億円の投じられた先が示しているのは、ガバナンスの空白が資本配分の歪みとして顕在化する構造である。
記者の問:しかし、合歓(ねむ)の里を初め手広くやられているのは。
川上氏の答:あれは、5年くらい経つと、維持費がペイする程度です。簡単に言えば、企業のアクセサリーです。なぜ、それがやれたかというと、幸い、日本楽器に資金余裕があって、それを貯金して税金で皆持っていかれることもないから、少しずつやっていたからです。
日本人の将来の生活の姿を、かくあって欲しいということを見せられるように、われわれで何かやっておこうというわけです。あれだけを一つの企業として単独にやったら、とっくにつぶれています。うちとしては企業イメージも良くなるし、資産もそれだけ増えて、いざという時の株主の保証にもなることだしね。
エレクトーンで培った製造技術を応用し、半導体製造に参入。
もう15年も前のことになるんですが、エレクトーンをはじめとする電子楽器に組み込む電子部品を何にするかという段階で、その当時は真空管の全盛時代で、真空管の方が値段が安く材料供給も安定していたんですが、会長(川上源一氏)が、将来必ずトランジスタの時代がやってくる、ということを主張して、トランジスタの工場と研究所を作っちゃったんです。これが短期間のうちにかなり力をつけて、早い時期にICの将来性に注目して、その開発に着手していたわけです。
幸なことに、ヤマハには技術部門ではピカイチの持田という常務がおりまして、かなり高度な電子技術を開発していった。それが最近ではエレクトーンのシリーズだけではなく、シンセサイザーや、さらにCDにも応用され始めて大きな力を発揮するようになってきた。やはり会長のヒラメキと、それを確実にビジネスにした優秀な技術陣がいた、ということじゃないですか。
音楽を軸とした多角化として、オーディオ機器(ステレオなど)に新規参入。
事業部制は各部門に損益責任を課す一方、投下資本に対する収益性を全社横断で評価する仕組みを欠いていた。各事業部が売上拡大を優先した結果、重複投資と固定費の膨張が進み、低収益事業が楽器事業のキャッシュフローに寄生する構造が固定化した。分権化は市場対応の速度を上げたが、資本効率を監視する経営管理の不在が多角化の歯止めを外し、後年の撤退コストを膨張させた。1983年の導入から2013年の廃止まで30年を要した事実が、組織設計の修正の難しさを示している。
1970年代から1980年代初頭にかけて、ヤマハは楽器を中核としながら電子楽器、半導体、音響機器、レクリエーション、リビング関連へと事業領域を拡張していた。売上規模は拡大したが、事業の性質は大きく異なり、収益構造や投資負担にもばらつきがあった。それにもかかわらず、本社主導の機能別組織で全体を統制していた。
事業単位での損益責任が不明確なため、設備投資や人員配置の判断が各事業の市場特性を十分に反映できない局面が生じていた。多角化の実態に組織構造が追いついておらず、事業ごとに権限と責任を明確化する体制への転換が課題となっていた。
1983年、ヤマハは事業部制を導入した。楽器、電子楽器、半導体、音響、レクリエーションなどを事業単位として再編し、それぞれに損益責任を持たせる体制へ移行した。事業部長が売上・利益の責任を負い、投資や商品戦略について主体的に判断する構造とすることで、市場に近い単位での意思決定を迅速化する狙いがあった。
ただし、事業部ごとの売上規模拡大が重視される一方で、投下資本に対する収益性や全社レベルでの資本効率を横断的に検証する仕組みは限定的であった。分権化は進んだが、収益性の吟味が徹底される構造にはなっていなかった。
事業部制の下で各部門は独自に事業拡大を進め、多角化は一段と加速した。市場に即した意思決定は迅速化した一方、事業部間の横断的な資源配分は弱まり、重複投資や固定費の増大が生じやすい構造となった。各部門が自部門の数字を優先する傾向が強まり、全社最適の視点は後退した。
結果として、高収益事業と低収益事業が併存し、全社としての資本効率は管理されにくい状態が続いた。楽器事業のキャッシュフローが他部門を補填する構造が固定化され、事業部制は多角化を支える制度であると同時に、後年の収益性改革が必要となる課題も内包していた。
事業部制は各部門に損益責任を課す一方、投下資本に対する収益性を全社横断で評価する仕組みを欠いていた。各事業部が売上拡大を優先した結果、重複投資と固定費の膨張が進み、低収益事業が楽器事業のキャッシュフローに寄生する構造が固定化した。分権化は市場対応の速度を上げたが、資本効率を監視する経営管理の不在が多角化の歯止めを外し、後年の撤退コストを膨張させた。1983年の導入から2013年の廃止まで30年を要した事実が、組織設計の修正の難しさを示している。
ピアノ市場では音楽教室と楽器店の一体ネットワークがヤマハの参入障壁として機能した。しかし電子楽器はカシオやローランドが量販店経由で販売可能な商材であり、教室を介さずに購入できる構造が市場を変えた。ヤマハの競争優位は「教室→販売」の導線に依存しており、この導線が迂回された市場では優位性が希薄化する。ピアノの飽和と電子楽器の販路変化が同時に進行した1990年前後は、需要創出型モデルの射程が限定的であることが露呈した局面であった。
1974年度を境に国内ピアノ販売台数は伸び悩み、高度成長期に急速に進んだ普及の一巡が顕在化した。音楽教室モデルによって「一億総中流」の家庭にピアノが行き渡った結果、新規需要は限定的となり、市場は量的成長の限界に直面した。
輸出面では為替環境の変化が重なった。1971年のニクソンショック以降、円高が進行し、国内生産を前提とした価格競争力が低下した。1960年代には円安を背景に海外市場で優位に立っていたが、為替条件の反転により収益構造が圧迫された。主力製品であるピアノの国内・海外双方で成長の前提条件が崩れていた。
ピアノ事業では、大量生産を前提とした拡大路線の見直しが課題となった。国内市場で新規需要が限定的となる中、生産能力と需要の均衡が崩れ始め、設備投資の回収期間も長期化した。量産モデルの前提が揺らぐ中、事業構造の再検討が迫られた。
一方、成長分野として期待された電子楽器でも競争が激化した。半導体技術の進展によりエレクトーンの製造が容易となり、カシオやローランドなどが参入した。ヤマハが楽器店と音楽教室を基盤とする販売モデルで優位を保っていたピアノとは異なり、電子楽器は量販店での販売が可能であり、従来の販路優位が通用しにくい市場環境であった。
1980年代後半から1990年にかけて、ピアノと電子楽器の双方で収益環境が悪化し、2期連続の減益を記録した。祖業であるピアノは需要一巡と為替影響に直面し、成長分野と位置づけた電子楽器では競争優位を確立できなかった。主力二事業の同時停滞は、経営の前提条件を揺るがす局面であった。
この時期は、国内市場依存と量産志向を基軸とするヤマハの経営モデルの限界が明確になった転換点であった。音楽教室による需要創出という仕組みは普及の完了とともに量的拡張力を失い、収益源の再設計が不可避となっていた。
ピアノ市場では音楽教室と楽器店の一体ネットワークがヤマハの参入障壁として機能した。しかし電子楽器はカシオやローランドが量販店経由で販売可能な商材であり、教室を介さずに購入できる構造が市場を変えた。ヤマハの競争優位は「教室→販売」の導線に依存しており、この導線が迂回された市場では優位性が希薄化する。ピアノの飽和と電子楽器の販路変化が同時に進行した1990年前後は、需要創出型モデルの射程が限定的であることが露呈した局面であった。
川上家の持株比率は5%未満であったが、主要株主は持合い関係にある生命保険や銀行であり、経営への介入は相互不干渉の暗黙の了解によって封じられていた。取締役会も川上家が人事権を握る以上、自浄作用は期待できなかった。ガバナンスの担い手がすべて機能停止した状態で、唯一声を上げる動機と手段を持っていたのが労働組合であった。株主主権論では想定されない経路でガバナンスが作動した事実は、持合い時代の日本企業統治の空白を浮き彫りにしている。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ヤマハは主力の楽器事業の成長鈍化と多角化事業の収益悪化に直面していた。ピアノ・電子楽器の市場環境は厳しさを増し、高成長期を前提とした経営構造が重荷となっていた。業績が悪化する中、経営の意思決定のあり方そのものが問われる段階に入った。
川上浩社長は創業家出身として株式を約8%超保有し、実質的な経営支配を継続していた。しかし1983年の河島博社長の実質解任をめぐる混乱以降、経営に対する社内外の不信は蓄積されていた。業績低迷と統治体制への疑義が重なり、労使関係は緊張を強めていった。
1992年、労働組合は川上浩社長の辞任を正式に要求した。要求の背景には、業績悪化への責任論だけでなく、創業家中心の経営体制そのものに対する問題提起があった。経営の透明性と責任の所在を明確にする必要があるとの声が強まり、単なる業績評価を超えて統治構造の是正が焦点となった。
最終的に川上浩は社長を退任し、上島清介が新社長に就任した。これにより川上家は経営陣から全面的に退く形となった。株主でも銀行でもなく労働組合が創業家支配を終わらせたという経緯は、日本の上場企業のガバナンス史においても異例の事例であった。
川上家の退任により、1927年の川上嘉市就任から約65年にわたって続いた川上家による経営支配は終焉を迎えた。以後、ヤマハの経営は社内昇進による専門経営者が担う体制へ移行し、創業家の影響力は経営の意思決定から排除された。
ただし、川上家体制下で拡張された多角化事業群はそのまま残された。経営者は交代したが、事業ポートフォリオの再設計は次の経営課題として引き継がれた。統治構造の転換と事業構造の転換は同時には進まず、多角事業の整理が本格化するのは2005年以降であった。
川上家の持株比率は5%未満であったが、主要株主は持合い関係にある生命保険や銀行であり、経営への介入は相互不干渉の暗黙の了解によって封じられていた。取締役会も川上家が人事権を握る以上、自浄作用は期待できなかった。ガバナンスの担い手がすべて機能停止した状態で、唯一声を上げる動機と手段を持っていたのが労働組合であった。株主主権論では想定されない経路でガバナンスが作動した事実は、持合い時代の日本企業統治の空白を浮き彫りにしている。
半導体への投資を進めるも特損計上。半導体事業を統括していた石村社長は引責辞任へ
半導体事業における天竜工場の新設により損失計上へ
-
1992年に川上家が退任してから2005年の事業整理本格化まで13年を要した。この遅延は、経営者が交代しても事業を支える雇用・取引先・地域社会の利害関係はそのまま残るためである。合歓の郷やキロロを閉じることは、地域の雇用と税収を直撃する。一括撤退ではなく段階的売却を選んだのは社会的配慮であると同時に、撤退の意思決定がいかに政治的な調整を要するかを示している。多角化の「入り口」は経営者一人で決められるが、「出口」は利害関係者全員の合意を要する。
2000年代初頭のヤマハは、楽器事業に加え、電子機器・電子金属、AV・IT、リビング、レクリエーションといった多角事業を抱えていた。1990年代までは国内市場の拡大に支えられ一定の売上規模を維持していたが、人口減少と需要成熟の進行により、トップラインは横ばい圏に入った。拡張した事業ポートフォリオを支えるだけの収益力を確保できない状態が続いた。
楽器事業は安定的に黒字を確保していたものの、他事業の赤字を補填するには規模が不足していた。電子機器・電子金属事業は2003年に携帯電話用音源LSIの需要拡大で一時的な高収益を計上したが、半導体市況の変動と競争激化により収益は不安定であった。リビングやレクリエーションは固定費負担が重く、景気後退局面で利益が急速に悪化した。
2000年3月期に最終赤字407億円、2009年3月期にも206億円の最終赤字を計上し、特別損失の計上が常態化した。問題は個別事業の一時的な失敗ではなく、多角化により拡張した事業群が持続的なキャッシュ創出に結びついていない構造にあった。資本が分散し、全社の収益力が希薄化する状態の是正が不可避となった。
2005年3月期を転機に、ヤマハは「選択と集中」を掲げ多角事業の整理を本格化した。ただし一括撤退ではなく、雇用や地域経済への影響を踏まえた段階的縮小を選択した。各事業の競争力と将来性を検証し、売却可能な事業から順次整理する方針をとった。
電子機器・電子金属事業では、2007年にヤマハメタニクスをDOWAメタルテックへ売却し、2014年にはヤマハ鹿児島セミコンダクターをフェニテックへ売却して完全撤退した。リビング事業は2010年に日本産業パートナーズへ譲渡し、レクリエーション事業も主要施設を三井不動産などへ売却した。
一方で、楽器および音響機器など音技術を基盤とする領域には投資を継続した。中国での生産体制整備や国内工場の再編を進め、経営資源を「音」を軸とする事業群へ再集中させる方向へ舵を切った。ルーター事業など技術的近接性の高い分野は維持し、非中核事業からの撤退を段階的に進めた。
2000年代を通じてヤマハは減損損失や構造改革費用を計上しながら、多角事業の縮小を進めた。短期的には利益を圧迫したが、資本の滞留は徐々に解消され固定費構造の改善が進んだ。事業ポートフォリオは簡素化され、収益の源泉は楽器と音響へと再集中した。
レクリエーション、リビング、電子機器・電子金属といった事業は整理され、1959年から半世紀にわたり拡張してきた多角化構造は収束局面に入った。企業規模の拡大よりも収益の安定性が優先される経営方針への転換であった。
結果として、ヤマハは「音」を中核とする事業群へと再定義された。多角化の整理には時間を要したが、川上源一体制以降に拡張してきた事業ポートフォリオとの実質的な決別が進められた。2005年は拡張から収束への転換点として位置付けられる。
1992年に川上家が退任してから2005年の事業整理本格化まで13年を要した。この遅延は、経営者が交代しても事業を支える雇用・取引先・地域社会の利害関係はそのまま残るためである。合歓の郷やキロロを閉じることは、地域の雇用と税収を直撃する。一括撤退ではなく段階的売却を選んだのは社会的配慮であると同時に、撤退の意思決定がいかに政治的な調整を要するかを示している。多角化の「入り口」は経営者一人で決められるが、「出口」は利害関係者全員の合意を要する。
当社グループの事業セグメントは、楽器、AV・IT、リビング、電子機器・電子金属、レクリエーション、その他の6つの事業で構成されています。これらの事業のうち、ここ数年ヤマハグループの利益を牽引してきたのは、電子機器・電子金属事業における携帯電話用音源LSI事業でした。この事業は世界的な携帯電話の普及に伴い急拡大しましたが、技術革新が激しく、現状では市場動向が非常に読みづらい状況となっています。グループ全体として、今後ともこの分野に注力するものの、業績の振幅の大きい同分野だけに頼ることのない事業経営を行っていくことが必要と考えています。
そこで、楽器事業とAV・IT事業、すなわち、ヤマハのコアコンピタンスといえる「音・音楽」に関わる領域に経営資源を集中し、デジタル技術における強みを生かしたヤマハならではの付加価値の高い事業を展開することで、グループ全体の成長を牽引していくことを経営方針にしています。同時に、リビング事業とレクリエーション事業に関しましては、引き続き再度事業の領域と製品・サービスの見直し、すなわち「選択」と「集中」を徹底する必要があります。
1983年に導入した事業部制を30年後に廃止して機能別組織に戻したという事実は、組織設計に普遍的な正解がないことを示している。多角化の拡張期には分権化が合理的であったが、事業を絞り込む縮小期には全社横断の意思決定が不可欠であった。中田卓也社長が成し遂げた営業利益率の二桁化は、戦略の転換以上に組織の「形」を変えたことで実現した。原価改善という実務課題に対する最大の制約が、技術でも人材でもなく組織構造であったという発見が、この転換の本質であった。
2000年代のヤマハは多角事業の撤退を進めたが、本業の楽器・音響でも利益率が低位にとどまっていた。円高の進行で国内生産の採算が悪化しても、拠点再編や生産移管は部門ごとの利害に引き寄せられ、全社での最適化が進みにくかった。為替や市況に利益が振れやすく、原価構造を改善する意思決定と実行が分断されていた。
事業部別損益が強い組織では、工場稼働や在庫を全社で平準化するより、各事業部が自部門の数字を守る行動を取りやすい。工場間の連携や設備の共通化投資が進まず、固定費と間接費が積み上がる。価格の適正化以前に、原価を下げるための組織的な意思決定が構造的に阻まれていた。
2013年に社長に就任した中田卓也は、原価改善を進める前提として組織構造そのものを見直し、事業部制の廃止を決断した。事業別の縦割りを排し、生産・開発・営業など機能別の横串で意思決定と人員配置を行う体制へ切り替えた。全社視点で投資とリソース配分を決められるようにし、改善施策の実行速度を上げる狙いであった。
同時に、管理会計と責任設計も作り替えた。生産にはコストダウン、営業には売上と価格という形でKPIを単純化し、成果の帰属を明確にした。管楽器生産を豊岡工場に集約するなど、工場再編も全社判断で推進した。
事業部制の廃止により、工場間の連携と稼働の平準化が進み、在庫管理や生産計画が全社で最適化されやすくなった。国内拠点の縮小や海外生産移管といった原価改善策も、事業部の壁を越えて実行可能となり、固定費構造の見直しが加速した。
さらに、価格は「値上げ」ではなく「適正化」として扱い、製品価値を説明して価格に反映する姿勢を強めた。原価と価格の両輪が揃ったことで、2017年3月期には売上高営業利益率10.2%を達成した。組織の形式を変えたことが、原価改善を回す実務の前提条件となった事例である。
1983年に導入した事業部制を30年後に廃止して機能別組織に戻したという事実は、組織設計に普遍的な正解がないことを示している。多角化の拡張期には分権化が合理的であったが、事業を絞り込む縮小期には全社横断の意思決定が不可欠であった。中田卓也社長が成し遂げた営業利益率の二桁化は、戦略の転換以上に組織の「形」を変えたことで実現した。原価改善という実務課題に対する最大の制約が、技術でも人材でもなく組織構造であったという発見が、この転換の本質であった。