1889年(明治22年)に山葉寅楠(やまは・とらくす)氏が現在のヤマハにあたる「山葉風琴製造所」を開業した。
山葉氏の経歴は独特である。もともと大阪で医療機器の修理業に従事しており、浜松の病院から修理の引き合いがあったことで同地を訪れていた。その時、たまたま浜松の小学校から「オルガンの修理」を依頼されたことで、楽器の修理技術を身に付けた。明治20年代においてオルガンは珍しく、山葉氏も「初めてオルガン見た」ところからスタートし、試行錯誤を経て修理技術を習得した。
オルガンの修理を通じて、山葉氏は輸入品が幅をきかせていたオルガンなどの西洋楽器の国産化を決意。1897年にオルガンの国産化に成功して、静岡県内の師範学校に納入したことでメーカーとしての道を歩み始めた。当時のオルガンは高級品であったため、納入先は学校などのBtoBが中心であった。
1889年には輸入品との競争に勝つため、ヤマハ(合資会社山葉風琴製作所)を創業し、近代的な経営体制への第一歩となった。この年にはオルガンの年間生産「250台」の体制をとり、大量生産を志向。販売面では浅草で開催された万国博覧会に出品するなど、日本国内における認知度向上に努めた。
1897年には株式会社として日本楽器製造を設立して会社組織に改めるなど、近代的な製造業として発展することを意図した。
しかし、1913年に創業者である山葉寅楠氏は63歳にて逝去。副社長だった天野氏がヤマハの経営を引き継いだ。
ヤマハの祖業はオルガンの国産化であったが、1899年にはピアノの製造に参入。1915年にはハーモニカの製造に参入することで楽器全般を取り扱う総合メーカとしての発展を意図した。
戦前の日本においては、ピアノやオルガンは高級品であっため、大衆向けの楽器としてはハーモニカが普及。ヤマハは600名を擁する工場でハーモニカを量産するとともに、北海道の釧路に森林を確保して原材料調達を強化した。この結果、ヤマハは戦前の楽器市場の拡大とともに、企業規模を拡大した。
ただし、楽器市場における競争環境は厳しい状況であった。ピアノやオルガンは高級品であるがゆえに市場規模が小さく、一方でハーモニカはドイツからの輸入品との競争にさらされた。このため、ヤマハの業績は不安定であり、経営上の課題が山積していた。
明治時代および大正時代を通じて、ヤマハは「オルガン」と「ハーモニカ」を中心としたメーカーとして台頭した。ところが、問題になったのが市場規模の小ささであった。
戦前の日本ではピアノは普及しておらず、オルガンも高級品であったため、一般家庭(庶民)に普及するには程遠い状況であった。このため、BtoBや富裕層向けの販売が中心であったが、これらの楽器は「生活必需品」ではない点が問題であった。日本経済の好況・不況に翻弄されたため、ヤマハの経営状態は厳しかった。
特に、大正時代の第一次世界大戦の終結をもって、日本経済が苦境に陥ると「嗜好品」であった楽器の需要が縮小。ヤマハは業績不振に陥り、工場労働者の賃上げ要求に応えられない状況となり、労使関係の悪化に至ってしまう。1926年には深刻なストライキが発生し、工場生産が105日にわたって完全にストップして財務状況が悪化するなど、経営破綻の寸前に陥った。
1920年以降、日本国内では第一次世界体制の終結による経済不況が起き、これに呼応して労働組合の発足が相次いだ。
1926年にヤマハの労働組合は、工場における労働条件の改善(賃金アップなど)を求めて経営陣との交渉を開始した。だが、ヤマハの天野社長は会社の業績不振を理由として、組合の要求を拒絶する姿勢を打ち出した。その後、数回の交渉を経て、労働組合と会社側が決裂。105日間に及ぶストライキに発展し、この間、ヤマハは製造が停止する状況となった。
ヤマハの本社工場がある浜松では、ヤマハの大規模なストライキによって治安が悪化した。具体的には「日本刀の斬り込み、爆弾の投げ込み、放火」が相次ぎ、警官2万名を動員して600名を検挙するに至った。
ストライキの終了は、労働組合の指導者の検挙によって終焉に向かった。調停案を締結したうえで、ヤマハは350名の解雇を決定し、争議は終了した。
天野社長はストライキ終結後も経営状況を改善できず、1927年1月に株主から社長解任を言い渡された。
後任社長には、住友財閥に勤務していた川上嘉市氏が就任した。川上氏は静岡県出身で住友電工の取締役であったが、住友を辞めてヤマハの経営再建の仕事を担うことになった。なお、川上氏は社長就任とともに、ヤマハの株式を購入しており、1927年以降のヤマハは「川上家」が所有する形となった。ただし、1949年にヤマハは株式上場を行っており、川上家の持分は5%未満に希薄化している。
川上嘉市(社長)は、ヤマハの財務体質の改善を実施。不良資産の売却や、無配によって現金を確保し、借入金の返済に当てることで自己資本比率を改善した。売却資産は「釧路分工場(北海道)」「大崎工場(東京・家具生産)」「名古屋貯木池」など多岐に及んだ。
これらの施策の結果、1930年ごろまでにヤマハの経営状況は改善したという(数値は非開示)。
軍需に対応して航空機向けプロペラの生産を決定。1938年に資本金を400万円から875万円(+475万円増資)に増資して投資資金を確保した。1939年天竜工場、1945年に佐久良工場をそれぞれ新設した。終戦時点でヤマハの従業員数は1万名に及んだ。
終戦後にプロペラの生産技術(工作機械)は、二輪車への参入に活用され、ヤマハ発動機の設立に至っている。
1949年にヤマハは株式上場を実施し、川上家による株式持分は5%未満となった。主要株主は生命保険などの金融機関が中心であった。ただし、川上家はヤマハの実質的な創業者として振る舞い、1992年に更迭されるまで川上家による「資本の裏付けなき同族経営」が続いた。
川上嘉市の息子である川上源一(当時38歳)が、日本楽器製造の社長に就任。以後1980年代までヤマハの経営に従事
1950年代に川上源一社長は欧米視察旅行を通じて、日本ではピアノが普及していない現状に問題意識を抱いた。そして、音感に関する教育は、まだ早熟な幼児期から行わなければいけないと判断し、5〜6歳の幼児に対して音楽教育を行う必要があると判断した。この考えのもと、当時の音楽教育の専門家を集めて協議をし、音楽教室の方向性を決めて行った。
私どもは、ピアノやオルガンを作っている。たまたま欧米の家庭を訪れると、家庭の生活の中で楽器が本当に生きている姿を親しく眼のあたりにする。子供も大人も何のくもなくピアノにふれ、かなでるのだ。ところが、わが国では、私どものつくる楽器はどんどん売れるのに、街を歩いてもピアノの音ひとつ聞こえてこない。ピアノは買っても、かなでるすべを知らないのだ。音楽は、むずかしいものだという先入観念がある。
こんなことでは、苦労して一生懸命良いピアノをつくる努力も、全くその甲斐がないというものだ。音楽とはやさしいものだ。ピアノを奏でることは楽しく誰にでもできることなのだということを、国全体に普遍化しようというところから、ヤマハ音楽教室の設置を思い至った。
1954年にヤマハは「ヤマハ音楽教室」の組織化を開始。開始所年度の生徒数は150名(教室は8箇所)であり、小規模なスタートであった。開拓の責任者は金原善徳氏であった。
当初は全国の楽器店を会場として活用していたが、1000箇所が限界であることが発覚した。そこで、1959年ごろから、全国の「幼稚園」にヤマハ音楽教室を設置することで、幼児をターゲットとして教室を展開。この結果、教室の開設スピードを早めることに成功した。
同時に、本全国の各地域に点在する楽器販売店を組織化し、ヤマハのピアノを取り扱う際は「ピアノ教室」の併設を同時に行う販売契約を締結することでシェアの確保を目論んだ。さらに、ヤマハ音楽教室の先生と生徒が、ヤマハのピアノを購入するように導くことで、日本国内でヤマハ製品が普及する販売体制を整えた。
1956年にヤマハはピアノの製造工場(天竜工場)において、木材の自動乾燥室を導入した。当時としてはそれなりの設備投資であった。
木材乾燥室の狙いは、ピアノの品質向上にあった。ピアノの部品である木材は、水分を含んでいるため十分に乾燥してからピアノ製造に取り掛かる必要があるが、乾燥するまでの長期間にわたって木材が在庫となる問題があった。そこで、木材乾燥室を導入することで、ピアノ部材の部品在庫の保持期間短縮や、均質な乾燥によるピアノの品質向上を目論んだ。
天竜工場における木材乾燥室の稼働によって、合板加工は「天竜工場」がにない、ピアノ組立生産は「本社工場(浜松)」が担う分業体制が整った。本社工場に比べて天竜工場は従事者数が少なく、生産の合理化が進んだ工場であったと推定される。
| FY | 本社工場 | 天竜工場 |
| 1955年4月時点 | 1863名 | 292名 |
| 1959年4月時点 | 3006名 | 332名 |
元来、家内工業的、手工業的要素を多分に持っている楽器製造業は、需要が逼迫してきたからといって急には増産ができない。そのため今まで社内蓄積を多額投じて、いろいろと設備の拡張、合理化を力に推し進めてきた。その好例が自動式木材乾燥室の設立である。
製材から加工まで1年ないし2年という長時間を要した従来の非能率的な乾燥方法を廃し、研究、設計に約4ヵ年の歳月と8000万円の巨費を投じて自動木材乾燥室を本年5月、天竜工場内に完成した。
販売面ではヤマハ音楽教室の展開によって需要を開拓。1963年度にはヤマハ音楽教室の生徒数が20万名を記録し、ピアノによる音楽教育が急速に普及した。
生産面では、安価なピアノを大量生産することで拡大するニーズに対応。木材乾燥室などの積極投資により量産が軌道に乗り、ヤマハがピアノ生産で国内シェア1位(1960年代・国内60〜70%を掌握)を確保した。
膨大な敷地と人員、設備を必要とするピアノ産業には大手メーカーが参入する余地はほとんどない。コストがかかりすぎるからだ。二番手の河合楽器製作所の売上高(1978年5月期645億円4200万円)は4分の1以下。楽器産業における日本楽器の地位は不動と言って良い。
当時のヤマハの社長であった川上源一は、終戦後にGHQ接収されていた工作機械と工場が返還されたのを受けて、当時需要が急増しつつあった二輪車への参入を決めた。 そして、1955年にヤマハの子会社として「ヤマハ発動機(資本金3000万円)」を設立した。その後、1961年にヤマハ発動機は株式を上場したため、ヤマハとヤマハ発動機の資本関係は希薄となった(1980年代にはヤマハが大株主として39%を保有)。このため、ヤマハ発動機とヤマハは「創業者は同一だが、資本面では関係会社」という位置付けて運営された。
1955年に二輪車への参入に続いて、1959年にスポーツ用品(アーチェリー用品)、エレクトーンに参入した。特にスポーツ用品は、二輪車と同様、楽器とは関連のない事業であった。以後、川上源一市(ヤマハ・社長)はピアノの市場成熟化を見据えて、リスクを分散するために多角化を積極推進するようになった。
確かに、これまでヤマハの主流をなしてきた仕事、その代表的なものがピアノを筆頭とする鍵盤楽器なんですが、これは商品がある程度、いくところまで行き渡っていますからね。どんなに人とエネルギーを注ぎ込んでいっても、これまで以上に増やしていくことはできないんです。(略)しかし私はこういう日が来る、ということはかなり以前からある程度把握していた。だから、景気の良い時に、配当性向を20%に抑え込んで社内留保を厚くし、先行投資を重ねて行ったわけです。経営陣の最大の責務の一つが株主総会を無事に乗り切ること、と考えておられる社長さんたちも多いようですが、そういう発想でいくと、私のようなやり方は取らないでしょう。
私は「開闢(注:かいびゃく)以来の利益を出して株価をあげた経営者」という評価をいただこう、などとは毛頭考えていませんからね。開闢以来の利益を出そうと思えば出せますよ。しかし、私に対する評価は、上の中で十分だと思っている。それよりも企業の将来性を見通して、考えられるあらゆる事態に対応できるような布石を持っていくのが、経営者の最大の責務だと思っている。
1959年にヤマハはエレクトーン(電子楽器)に新規参入した。当時はトランジスタの普及時期にあたるが、半導体のコストが高いことや、品質が安定しなかったこともあり、電子楽器の普及には時間を要した。1970年以降に電子楽器が普及フェーズに突入した。
1959年にヤマハはスポーツ用品の製造に参入し、アーチェリー用品の製造を開始した。アーチェリーを選定した理由は、川上源一氏の趣味によっている。技術的にはFRPを採用した点に特色があった。
1964年には、FRPを活用して浴槽の製造に参入した。ヤマハとしては住設機器(リビング用品)へに異分野からの参入であったが、FRPを軸に多角化を遂行するという意図があった。
FRPを軸に多角化した「スポーツ用品」と「リビング用品」については、ヤマハへの業績貢献は限定的であり、最終的には事業撤退という厳しい結果に終わった。一方で、エレクトーンについては電子楽器として、現在もヤマハのコア事業であり続けており、新規参入が功を奏した。
ただし、スポーツ用品からの撤退は段階的であり、ヤマハの業績を長年にわたって毀損している。1997年にスポーツ事業部を廃止し、取扱用品を徐々に縮小した。2010年にはリビング事業を展開する「ヤマハリビングテック」の株式を売却して完全撤退している。
このため、これらの多角事業は、ヤマハの業績を支えるのではなく、むしろ毀損を加速するという結果に終わった。
ヤマハ(川上源一・当時社長)は、終戦直後からピアノ欧米向けのの輸出に注力した。ピアノ普及率の低い日本ではなく、所得水準が相対的に高い海外の方が市場が広かったためである。
川上源一社長は、商社に頼る輸出ではなく、ヤマハによる直接輸出を施工した。この理由は、商社が競合製品を扱うことのリスクや、アフターサービスを担うことが難しい点であった。そこで、ヤマハはピアノの輸出にあたって、現地の特約店を募集し、特約店を通じたアフターサービスの充実を試みた。
日本経済そのものが輸出を度外視しては成り立たないことは、戦後、初めて海外旅行をした時からの考えである。だから日本楽器も積極的に輸出に力を入れた。
ただ戦後の輸出再開以来、商社は内外とも全部オミットし、ヤマハの直接輸出である。楽器とかオートバイは繊維などと違い、最高の品質を維持しなければならない。繊維のような消耗品ではなく耐久消費財なので、部品の取り替え、アフターサービス、クレーム処理など、きめ細かいサービスが要求される。商社に頼むと、ヤマハのオートバイが売れたとなれば、他のライバル勝者がホンダの車を持ってきて競争する。商社にしてみれば、どこの商品でもいいわけで、売れさえすれば儲かる。アフターサービスが損なわれがちだ。
それでは、ヤマハの信用が維持できなくなるから、戦後一貫して直接輸出、販売している。これがヤマハの基本戦略である。
海外進出にあたって、ヤマハは現地企業との合弁会社の設立ではなく、ヤマハの100%子会社の設立にこだわった。この理由は、合弁会社の場合は経営責任が曖昧になるためであり、ヤマハは自助努力の道を選択した。
1958年にメキシコに現地法人を設立したのを皮切りに海外法人の設立を積極化。1960年に米国のロサンゼルスに米国現地法人を設立し、1966年には西ドイツにも現地法人を設立した。特に、ヤマハの注力輸出国であるアメリカは、1960年時点において年間150台の輸出にとどまっており、市場開拓が課題となった。
また販売にあたって、ヤマハは「YAMAHA」ブランドを展開した。当時の日本企業でOEMではなく自社ブランドでの展開例はソニーなど一部の企業に限られており、珍しかった。
ここで付け加えておきたいのは、私は海外とのジョイント(合弁)には一切手を出さないことである。経営責任がぼやけて、仲間割れのおそれがあるからだ。あくまでも自分の責任で努力すべきである。特に何回かの海外旅行で感じたのは、白人というのは、利害が一致すれば、非常にいい友人になれるが、自己の利益が少しでも損なわれたときの目つきは、東洋人の比ではないからだ。
海外現地法人の設立により販路を構築したことを受けて、ヤマハはピアノ量産のための設備投資を実施。工場の新設を伴っており、それぞれの工程や製品種別に合わせて特化型の工場を新設した。
1960年代を通じてヤマハが新設した工場は3拠点(いずれも静岡県内)である。1963年に西山工場(静岡県・浜松市)、1965年に掛川工場(静岡県・掛川市)、1966年に磐田工場(静岡県・磐田市)をそれぞれ新設した。
磐田工場は鋳造の専門工場として稼働。掛川工場はアップライトピアノの量産工場であり、分業体制を敷くことでコストダウンを実現。海外輸出向けのピアノのコストを下げる点で効果を発揮した。
| FY | 本社工場 | 天竜工場 | 西山工場 | 掛川工場 | 磐田工場 |
| 1955年4月時点 | 1863名 | 292名 | - | - | - |
| 1966年4月時点 | 5552名 | 1475名 | 854名 | 804名 | - |
| 1970年4月時点 | 5213名 | 1232名 | 1598名 | 1608名 | 712名 |
1967年までにヤマハはピアノの生産台数で世界1位を確保。日本国内ではシェア60〜70%を確保して業界2位の河合楽器を圧倒した。1970年には世界シェア30%を確保した。
注力地域である米国でも現地の老舗メーカーからシェアを奪い25%のシェアを確保した。1960年には150台であった米国向けの年間輸出台数も、1970年には年間1.8万台の輸出に拡大。ヤマハのピアノは、低価格ながらも品質が良いことで、現地の市場開拓に成功した。
当社が楽器の伝統的生産国である欧米諸国のメーカーを抜き、世界最大のメーカーに成長したのは、
①手工業的楽器生産を近代的生産方式に編成(部品の規格化、組み立て工程の合理化)、
②専用機・自動省力機を自社開発し大量生産を可能にした、
③音楽教室(全国に7500会場・生徒数30万人)を設けて音楽教育の普及に努め需要創造活動を積極的に行った、
④国内外に強力な販売網をつくり市場開拓を意欲的に行った、
⑤品質第一をモットーとし、適正な価格で販売する経営方針を貫いた、
ことなどがあげられる。
1960年代を通じてヤマハはピアノの製造販売で国内トップ企業となり、資金的な余裕が生じた。そこで、川上源一社長は「企業イメージの向上」を目的としてレクリエーション事業(リゾート施設運営)に本格参入した。
ただし、これらの事業は収益化を目的としておらず、ヤマハとしては収益源としてレクリエーション事業を運営することも意図していなかった。川上源一氏によって、レジャー産業のあるべき姿を体現するために、税金対策を兼ねて本格投資した。
記者の問:しかし、合歓(ねむ)の里を初め手広くやられているのは。
川上氏の答:あれは、5年くらい経つと、維持費がペイする程度です。簡単に言えば、企業のアクセサリーです。なぜ、それがやれたかというと、幸い、日本楽器に資金余裕があって、それを貯金して税金で皆持っていかれることもないから、少しずつやっていたからです。
日本人の将来の生活の姿を、かくあって欲しいということを見せられるように、われわれで何かやっておこうというわけです。あれだけを一つの企業として単独にやったら、とっくにつぶれています。うちとしては企業イメージも良くなるし、資産もそれだけ増えて、いざという時の株主の保証にもなることだしね。
1964年にヤマハは「鳥羽国際ホテル」の営業を開始して、観光事業に参入した。ただし、この時点では「レジャー施設」ではなく、業界の従来からの慣行である「宿泊施設」の延長線上であった。
ヤマハのリゾート開発が独自性を兼ね備えて、本格化したのは1967年に三重県賢島にて開業したリゾート施設「合歓の郷」であった。投資額30億円で、三重県志摩半島にレジャー施設として開業した。
従来の観光は「ホテル・温泉」が中心であったのに対し、合歓の郷ではレクリエーション施設を充実させることで、日本に新しいレジャー産業を定着させた。
合歓の郷は小さな半島の海側半分をひっそり買い占めて作られている。面積300万平方メートル。最も今のところは3/1ぐらいしか手をつけていないが、それでも30億円の巨費が投入されている。
作ったのは日本楽器。楽器産業が作ったレジャーランドというのは、それだけでも興味深いが、ここはさらに「音楽の場」として、レジャーとしての音楽を楽しむことを施設計画の基本的要素にしている点がユニークである。郷の中心は「ヤマハ・ミュージック・キャンプ」であ、ここには600名収容の本格的なホール、3000名が聞ける野外ホール、六角形のコテージ風のアンサンブル・レッスン室20棟、それに録音スタジオ、ミュージックライブラリー、宿泊施設や研修室が設けられている。(略)
音楽ばかりではなくて、一般的なレジャー施設もいろいろ考えられている。3V時代の一翼を担うビラ、デラックスな別荘、ヨットやモーターボート、オートキャンプ場、牧場、サボテン園、プール、テニスコート、洋弓場・・・。広い敷地にゆったりとそれらの施設が点在する。
1974年にヤマハは、関連会社のヤマハ発動機と共同で、静岡県掛川に「つま恋」を開業した。新設における投資額は120億円であった。
コンサート会場を併設することにより、各種イベントを開催することで知名度が向上した。特に、フォークソングがブームになった1970年代においては「聖地」として認識され、ヤマハの企業イメージ向上に貢献した。
1980年代を通じて国内のバブル景気の発生とともに、地方におけるリゾート開発(スキー場新設)の計画が活発化した。この中で、北海道の赤井川村では人口減少を食い止めるべく、スキー場の開発計画が立ち上がった。そこで、ヤマハは赤井川村の要請に応えて、スキー場の新設を決定した。1988年に「北海道リゾート開発」を設立しキロロリゾートの建設を本格化。開業にあたっての総投資額は約200億円に及んだ。
1991年にヤマハは北海道赤井川村にて「キロロリゾート」を新設開業した。初年度は33万人を記録し、会員権の売却益で投資を回収する目論みであった。冬季にはスキー場として活用する一方、夏季にはレクリエーション施設の利用を訴求した。このため、キロロリゾートではテニスコート、アーチェリー場、サッカー場、ラグビー場、多目的広場、キャンプ場、ゴルフ場といった施設を併設した。
だが、開業と同時にバブルが崩壊。リゾート施設の会員権ビジネスも行き詰まり、1995年にヤマハはキロロリゾート関連で約150億円の損失を計上した。
赤井川村の強い要請で進出した経緯があり、神原秀一村長が後者の会長を務めるなど関係は密。農産物の調達は地元農協に全面委託しているほか、雇用も地元を優先しています。税収や人口、所得なども増えているようなので、地域振興にいささか貢献できていると自負しています。
これらのリゾート施設は、ヤマハのレジャーへの多角化を象徴する事業としては立ち上がったものの、収益面では課題が多く、将来に向けた設備投資が十分に行えなかった。1990年代以降のヤマハのリゾート事業は、地方のリゾート施設の負けパターンである「設備投資ができず、施設が老朽化し、客離れが進行する」というスパイラルに陥った。
2000年代以降にヤマハは「レジャー事業の縮小」を決め、ヤマハにとっては手痛い負の遺産となった。
2005年3月期には「合歓の郷・鳥羽国際ホテル・つま恋・キロロリゾート」の4施設の減損を決めて、リゾート事業だけで特別損失319億円を計上した。その後、各施設は三井不動産などの同業他社に譲渡され、ヤマハはレジャー・リゾート事業を大幅に縮小した。
もう15年も前のことになるんですが、エレクトーンをはじめとする電子楽器に組み込む電子部品を何にするかという段階で、その当時は真空管の全盛時代で、真空管の方が値段が安く材料供給も安定していたんですが、会長(川上源一氏)が、将来必ずトランジスタの時代がやってくる、ということを主張して、トランジスタの工場と研究所を作っちゃったんです。これが短期間のうちにかなり力をつけて、早い時期にICの将来性に注目して、その開発に着手していたわけです。
幸なことに、ヤマハには技術部門ではピカイチの持田という常務がおりまして、かなり高度な電子技術を開発していった。それが最近ではエレクトーンのシリーズだけではなく、シンセサイザーや、さらにCDにも応用され始めて大きな力を発揮するようになってきた。やはり会長のヒラメキと、それを確実にビジネスにした優秀な技術陣がいた、ということじゃないですか。
1980年代を通じてヤマハは主力の楽器事業において、売上成長が低迷した。主要因は、ピアノ及びエレクトーンにおける売上低迷であった。
1973年のオイルショックを契機に日本経済が不況に陥ったため、耐久消費財である楽器の需要が低迷したことが発端であった。ただし、不況から数年を経ても需要は回復せず、主に国内におけるピアノの普及が一巡したことを意味した。
輸出の面においては、円高ドル安の進行が影響した。1960年代までのヤマハは国内生産によって円安の恩恵を享受していたが、1971年のニクソンショックによって円高が進行したことで、国内生産のコストが相対的に高まった。この結果、海外市場においてヤマハはコスト面で優位に立てなくなり、輸出も低迷した。
1970年代を通じて「エレクトーン」などの電子楽器の市場が形成されたが、問題は競争環境にあった。従来の木製ピアノは「木材乾燥室」や「音楽教室による販売促進」が必要でありヤマハの寡占が形成されていた一方、エレクトーンは半導体の組み合わせで製造できることや、ライトユーザー向けであり量販店での販売が可能であったため、参入障壁が低い事業であった。
このため、1980年代を通じて、カシオやローランドといったメーカーが電子楽器に参入。ヤマハと競合することとなり、エレクトーンではヤマハは寡占を形成できなかった。
この結果、ヤマハは1980年代に経営上の転機を迎える。すなわち、祖業で収益を確保できていた「ピアノ」と、新技術として期待された「電子楽器」という2つの事業の不振が浮き彫りとなった。
1974年度を境に国内のピアノ販売台数が低迷。ピアノの需要が一巡したことで、ヤマハのピアノ製造は「量産一辺倒」からの転換という課題に直面した。
1980年代を通じて電子楽器(レクトーンなど)の競争環境が激化。計算機メーカーのカシオや、新興楽器メーカーのローランドが参入したことで、ヤマハは寡占を形成できなかった。
半導体への投資を進めるも特損計上。半導体事業を統括していた石村社長は引責辞任へ
半導体事業における天竜工場の新設により損失計上へ
2000年の時点でヤマハは本業の「楽器事業」に加えて、「AV・IT(音響機器)」「電子機器・電子金属」「リビング」「レクリエーション」という3つの多角事業を展開していた。1990年代までは日本国内の人口増加によって売上面で成長していたが、2000年以降は国内市場の縮小とともに売上が低迷した。
利益面では、楽器事業は安定的に収益を生み出していたものの、全社の業績不振をカバーするには力不足であった。電子機器・電子金属は、携帯電話向けの音源LSIの需要急増によってFY2003に利益を確保するが、すぐに競争が激化したことで安定した利益を生み出せなかった。加えて、もともと低収益のレクリエーション(リゾート施設運営)やリビング(住設機器製造)といった不採算事業が足かせとなり、ヤマハの利益が低迷した。
この結果、2000年代を通じてヤマハは、本業および多角化事業のすべてにおいて、苦しい事業を抱えるという深刻な問題に直面した。売上面ではトップラインが伸びず、利益面でも祖業の「楽器事業」以外は安定しない課題が生じた。
特に、2005年度には頼みの綱であった「電子機器・電子金属」における利益が減少し、構造改革が避けられない事態に直面した。
2005年にヤマハ(伊藤修二・代表取締役社長)は「選択と集中」により、事業領域を絞る方針を打ち出した。
ただし、まるごと1つの事業から撤退をすぐに決めるわけではなく、不採算製品からの撤退など、段階的に縮小する道を選択した。これは、ヤマハは主に静岡県内に工場を擁しており雇用問題を解決する必要があったためと推定される。
当社グループの事業セグメントは、楽器、AV・IT、リビング、電子機器・電子金属、レクリェーション、その他の6つの事業で構成されています。これらの事業のうち、ここ数年ヤマハグループの利益を牽引してきたのは、電子機器・電子金属事業における携帯電話用音源LSI事業でした。この事業は世界的な携帯電話の普及に伴い急拡大しましたが、技術革新が激しく、現状では市場動向が非常に読みづらい状況となっています。グループ全体として、今後ともこの分野に注力するものの、業績の振幅の大きい同分野だけに頼ることのない事業経営を行っていくことが必要と考えています。
そこで、楽器事業とAV・IT事業、すなわち、ヤマハのコアコンピタンスといえる「音・音楽」に関わる領域に経営資源を集中し、デジタル技術における強みを生かしたヤマハならではの付加価値の高い事業を展開することで、グループ全体の成長を牽引していくことを経営方針にしています。同時に、リビング事業とレクリェーション事業に関しましては、引き続き再度事業の領域と製品・サービスの見直し、すなわち「選択」と「集中」を徹底する必要があります。
ヤマハは「選択と集中」を掲げる中で、祖業である楽器事業についてはコア事業として投資を続ける方針を打ち出した。
2000年代を通じてヤマハは楽器事業において中国における投資を積極化。海外生産拠点への投資を進めつつ、中国でピアノ販売のためのマーケティングを展開した。
ただし、国内の生産拠点が需要に対して過剰である問題があったため、工場の従業員数を減らしつつ、2009年には埼玉工場の閉鎖を決定した。だが、2000年代を通じて工場の余剰問題は解消されることなく、2013年に社長に就任した中田氏による経営改革まで収益の改善を待つ必要があった。
1999年にヤマハは天竜工場をロームに売却したものの、その後も「電子機器・電子金属事業」そのものは子会社を通じて継続していた。
ケータイ電話向けの音源を扱う半導体の好調もあり、FY2003に売上高768億円(同年度のセグメント営業利益300億円)を計上。一時的な好調を達成するものの、音源用LSIの競争激化に巻き込まれたことで高収益を持続することはできなかった。この結果、リーマンショックによる不況が決定打となり、セグメント売上高が激減した。
2003年時点でヤマハは、子会社を通じて電子機器・電子金属事業を運営。電子金属については、ヤマハメタニクス(静岡県磐田市本社)において主に半導体向けパッケージの金属材料を製造。電機機器については、ヤマハ鹿児島セミコンダクタで主に半導体を製造する体制であった。しかし、ヤマハは事業継続を諦める選択をした。
まず、2007年にヤマハは電子金属を手がける子会社「ヤマハメタニクス」の事業売却を決定。売却先は「DOWAメタルテック」であり、ヤマハが保有する全株式(90%)を売却した。
続いて、2014年にヤマハは半導体製造子会社「ヤマハ鹿児島セミコンダクター」の事業売却を決定。売却先はフェニテックセミコンダクター(岡山県本社)であり、122名の従業員は売却先の企業に移籍した。
この結果、ヤマハは2014年までに「電子機器・電子金属事業」から完全に撤退した。だが、ロームへの半導体工場の売却から完全撤退に至るまで、約14年の歳月を費やしており、苦労の末の撤退戦を強いられる形となった。
2005年時点でにおいて、ヤマハのAV・IT事業は「AV機器(アンプ・レシーバ、スピーカーなど)・映像機器(デジタルシネマ)・通信カラオケ・ルーター」から構成されていた。
AV機器においては、2005年に「ホームシアター」に経営資源を集中することを決定。また、通信カラオケについても、事業存続を決めた。音響技術が生きる領域の事業を残した。
また、IT機器(ルーター)では事業継続を選択した。1995年に中小企業向けのルーターに参入して「RT100i」を発売したことで、インターネットの黎明期ということもあり先行者利益を確保していた。競合製品は海外製(シスコなど)であったが、日本語のサポートが豊富という点で、ヤマハのルータは中小企業向けでシェアを確保するに至った。2020年時点でもヤマハはルータで国内シェア1位(27%・出所:日経XTECH, 2021/12/23)を確保している。
ヤマハが住設機器に参入したのは、高度経済成長期の1964年であった。当時は珍しかったFRPに着目してバスタブの製造を開始し、その後は大理石によるキッチン、建材にも参入。1992年にこれらの事業を100%子会社「ヤマハリビングテック」に移管して事業を継続していた。
しかし、国内における人口減少により住宅の着工件数が減少すると、リビングテックの業績が低迷。2005年にヤマハはリビング事業について「キッチン・バスルーム・洗面化粧台」に集中するために、「建材・ドア・床材」などから撤退した。
だが業績は好転できず、2010年にヤマハはリビング事業の子会社「ヤマハリビングテック」の売却を決定。売却先は投資ファンド「日本産業パートナーズ」であり、ファンド傘下での経営再建されることになり、2013年にはMBOによりトラスクとして独立した。
現在はトラスクとして住設機器の製造に従事しているが、業績は低迷したままと推定される。FY2019のトラクスの売上高は249億円・営業利益は0.5億円であり、ヤマハから独立したのちも苦境が続いている。
1967年に参入したレクリエーション事業についても、2000年代を通じてヤマハは事業の縮小を決定した。セグメント業績は赤字が続いており、厳しい状況にあった。バブル崩壊によるリゾート需要の喪失や、円高ドル安の進行で海外旅行との競争が激化したことで、集客に苦戦した。
2007年にレクリエーション事業の「リゾート4施設」を三井不動産に約40.7億円で売却することを決定し、同時にレクリエーションのセグメントの開示を取りやめた。FY2006にヤマハは減損損失47億円を計上した。
売却した4施設の内訳は、キロロ(北海道)、鳥羽国際ホテル(三重県鳥羽市)、合歓の郷(三重県志摩市)、はいむるぶし(沖縄県八重山郡竹富)であった。
なお、フォークソングの聖地であった「つま恋(静岡県掛川市)」については引き続きヤマハが事業運営をする方針をとったが、2016年に営業終了を発表。FY2016にヤマハは「リゾート事業改善のための構造改革費」として30億円を計上した。
この結果、ヤマハのリゾート施設は、事業展開から約50年が経過した2016年に撤退となった。
2000年3月期にヤマハは697億円の特別損失を計上し、最終赤字407億円に転落した。1990年代を通じて投資をした半導体事業(天竜工場の新設)が不振に陥ったことが主要因であった。
2000年3月期のセグメント業績において、ヤマハの本業である「楽器事業」は黒字を確保したが、3つの多角化事業「電子機器電子金属事業・リビング事業・レクリエーション事業」のすべてがセグメントで営業赤字に転落した。半導体事業は設備投資の失敗が主要因な一方、リビング事業とレクリエーション事業は、競争力に乏しく構造的な課題が山積していた。
この結果、2000年3月期における巨額損失の計上をもって損失を食い止めることはできず、2000年代を通じて特別損失を毎年計上するに至った。特別損失の内訳の中心は「構造改革費用」や「株式評価損」などであり、多角事業の整理に費やされる形となった。
2000年代を通じてヤマハは「多角事業の撤退」によって、収益性を改善することを目論んだ。しかし、本業である「楽器事業」においても収益性が低迷する事態に直面していた。
楽器事業における苦戦理由は、国内における生産体制にある。1970年代以降の円高ドル安の進行によって、国内生産での採算が合わない状況が生じていたが、ヤマハは抜本的な工場再編にメスを入れ切れていなかった。
2013年にヤマハの社長に就任した中田卓也氏は、国内拠点の縮小を決定。豊岡工場における人員数を大幅に削減(子会社に移管したと推察)し、海外に生産移管することで原価改善を試みた。
国内の生産拠点の再編に伴って、2012年以降にヤマハは「構造改革費」を計上した。内訳は非開示だが、人員削減に対する費用捻出と推定される。
なお、2015年度における「のれん償却額」は、2013年に71億円で買収したプロ向け音響機器メーカー「Line 6, Inc」の業績不振に起因する。
国内生産拠点の再編によって、ヤマハは売上原価の比率を改善して、営業利益率を向上。それまでの高コスト体質な企業体質から脱却し、高収益企業への変貌した。これらの改革の成果として、2018年にヤマハは時価総額1兆円を突破している。