ヤマハ の歴史

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創業 1897年
創業者 山葉寅楠
創業地 静岡県浜松市
創業 1887年、医療機器の修理に従事していた山葉寅楠氏が浜松の小学校からオルガンの修
1887年、医療機器の修理に従事していた山葉寅楠氏が浜松の小学校からオルガンの修理を依頼され、西洋楽器の構造を独学で調べて修理と製作に成功した。1888年に静岡県浜松市でオルガン製造の工房を興し、1891年には合資会社山葉風琴製作所を組織する。1897年10月には個人事業を日本楽器製造株式会社へ改組し、年間約250台のオルガンを作る体制を構築した。1899年にピアノ、1915年にハーモニカへ品目を拡大し、学校需要と家庭需要の双方を取り込む。ただし楽器は景気に左右される嗜好品で、第一次世界大戦後の反動から1926年には105日間のストライキが起き、翌1927年に住友財閥出身の川上嘉市氏を社長に迎えて再建に入った。
決断 買い手を待たず、弾き手を育ててから楽器を売ってきた。1953年、社長の川上源一氏
買い手を待たず、弾き手を育ててから楽器を売ってきた。1953年、社長の川上源一氏は欧米視察で、フランスのプレイエルの販売が月2,000台から年2,000台へ落ち、スタインウェイが技術者の高齢化で減産する姿を見た。競争相手を楽器メーカーではなく自動車と家庭電気製品だと見た川上氏は、日本人が音楽を楽しむ習慣を先に作らなければ同じ道をたどると判断する。1954年、生徒150名・教室8カ所でヤマハ音楽教室を組織化し、全国の楽器店を拠点に教育から購入までの導線を作った。1963年には生徒20万人、国内のピアノシェア60〜70%に達している。弾く人の数から先に増やしたことが、1967年のピアノ生産世界一と1970年の世界シェア約30%を作った。
現況 売上の3分の2を楽器が生み、その楽器の生産設備を縮めている。2026年3月期の売
売上の3分の2を楽器が生み、その楽器の生産設備を縮めている。2026年3月期の売上高4,653億円は、楽器3,049億円と音響機器1,424億円で96%を占める。営業利益は292億円、親会社株主に帰属する当期純利益は237億円で、地域別では北米1,242億円が日本1,118億円を上回った。1967年の合歓の郷から1988年のキロロまで累計約350億円を投じたリゾートは2005年3月期に319億円の減損損失として処理され、2000年3月期には最終赤字407億円を計上している。1991年の2期連続減益のあと多角事業を順に手放し、1955年に分離したヤマハ発動機だけが独立した上場会社として残った。中国の需要低迷で入門層が減った2025年3月期には、楽器で127億円を減損して生産工程を縮めている。
競合 国内で築いた寡占が縮み、伸ばした海外では入門層を失った。1977年の国内楽器市場
国内で築いた寡占が縮み、伸ばした海外では入門層を失った。1977年の国内楽器市場でヤマハは河合楽器以下を寄せつけない位置にあり、当時の課題は強さではなく、成長の鈍った市場で寡占をどう保つかにあった。創立100周年の1987年前後には、ピアノからLSIが性能を左右するデジタル機器へ主力を移す途中にあり、自社開発の音源LSIが電子楽器の競争優位を支えた一方、半導体を事業として動かした以上は撤退の選択肢を持ちにくくなる。2020年代は中国の楽器需要が低迷し、デジタルピアノの回復も遅れた。教育で弾き手の数を増やして首位に立った会社が、数の増えない市場では台数ではなく単価で採算を保つ側へ移った。
長期業績の推移 1949〜2026年
ヤマハ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1887年〜 業態転換と経営再建オルガン国産化から105日争議後の経営再建へ

筆者考察y.sugiura, author

日本楽器製造の最初の40年は、楽器の技術ではなく木工の技術がどこまで通用するかで決まった。山葉寅楠が浜松の小学校で直したのはアメリカ製オルガンであり、2台目で舶来品に劣らないという評を得たあと、彼が集めたのは楽器職人ではなく指物師と大工とカザリ師だった。オルガンからピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと品目が増えたのも、木材の加工という一つの技能を別の製品へ当て直した結果である。資本金10万円で出発した会社が20年あまりで300万円へ届いたのは、需要が増えたからというより、同じ職人と同じ材で作れるものを増やし続けたからだろう。楽器を作る会社というより、木を扱う会社が楽器に当たったと言うほうが近い。

木材と低賃金の労働力に載った拡大は、その二つが高くつく局面で行き詰まる。マルク暴落でドイツ製ピアノが流入すると、国産化を掲げた会社が舶来品を輸入して売る側へ回り、関東大震災と度重なる火災が設備を削った。社債と借入で工場を保った以上、削れる原価は人件費しか残らない。1926年に従業員が求めたのは便所と洗面所の設置であり、男子70銭・女子60銭という最低賃金だった。105日の争議は、拡大の間ずっと据え置かれてきた条件の請求書である。額面の半額まで落ちた株価で川上嘉市を迎え、彼が最初にしたのが釧路と大崎の工場の売却と無配だったのは、拡大そのものを巻き戻すほかに手がなかったからにほかならない。

日本楽器製造の資本金 1897年〜1921年(万円)

10 1897 120 1917 300 1920 348 1921
  • 1921年8月の値は西川楽器製造を合併した後の資本金。
  • 出所は企業の現代史(1964年)と株式会社年鑑1955年版。

1887年〜山葉寅楠の器械修理からオルガン製造への転業

山葉寅楠は、楽器ではなく器械の修業から出発した人物である。1851年に和歌山の士族の家へ生まれ、1871年に長崎で英国人技師のもとに入って時計を学んだが、国産時計の会社を興す計画は資本が集まらずに潰えた。次に大阪の医療器械店へ住み込み、数年で専門の知識と技術を身につけて、1883年、浜松病院の求めに応じて浜松へ移った。1886年の小学校令を受けて唱歌科を置いた浜松の小学校は、翌年に買い入れたアメリカ製オルガンを二か月半で故障させ、直せる者を土地に見つけられずにいた。浜松病院長の福島豊策が洋式器械に明るい寅楠を学校へ推し、寅楠はカザリ職人の河合喜三郎と二人で構造と故障箇所を調べ、1887年にこれを修理した。請け負ったのは1台の修理にすぎなかったが、そこで寅楠は、自分の扱える器械の延長に楽器があることを知った

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [1]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
    • [2]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
    • [3]山葉寅楠は大阪の医療器械店に住み込んで技術を習得し、1883年に浜松病院の依頼で浜松へ移った
    • [4]1886年の小学校令で唱歌科を置いた浜松の小学校が翌年購入した米国製オルガンは、約2か月半で故障した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [5]1887年、医療機械の修理工であった山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理に成功した

修理の成功は、寅楠を製造の側へ向かわせた。楽器の材料を売る店も職人もない土地で、すべてあり合わせを自分で加工するほかなく、2か月をかけて1台を組み上げている。でき具合の判定を求めた寅楠は、河合喜三郎とともにこのオルガンを担いで東海道を歩き、大井川と箱根を越えて数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ。音楽取調所長の伊沢修二は寅楠の労苦に感銘したものの、調律が不完全で使用に堪えないという結論を下した。寅楠は伊沢の勧めで約1か月その講義に列してから浜松へ帰り、1888年3月、舶来品に劣らないという評を得る2台目を仕上げた。作れることと、その音が国の定めた基準に合うことは別だった

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [6]山葉寅楠は前年のオルガン修理の成功からオルガンの製作完成に心血をそそいだ
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [7]山葉寅楠は自作にあたりあり合わせの材料をすべて自分で加工し、約2か月で1台を組み上げた
    • [8]山葉寅楠は河合喜三郎とともに自作オルガンを担いで東海道を歩き、数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ
    • [9]音楽取調所長の伊沢修二は、持ち込まれたオルガンを調律が不完全で使用できないと判定した
    • [10]山葉寅楠は音楽取調所で約1か月講義を受けたのち、1888年3月に2台目を完成させ、舶来品に劣らないとの評を得た

オルガンの第1号ができると、静岡県から5台、静岡師範学校から2台という具合に注文が入り始めた。寅楠は指物師・大工・カザリ師といった木工の職人を集め、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて、1889年3月に山葉風琴製造所を興した。集まった職人は10名に満たなかった。注文が増えるにつれ個人の裁量では資金が回らなくなり、寅楠は知人を説いて3万円の出資を得て合資会社へ改め、その年のうちに250台を売った。1891年には屋号を山葉楽器製造所と改め、翌25年、オルガン80台を英国へ輸出している。楽器を作る職種は当時の日本になく、寅楠が元手にできたのは木工と細工の技能だけだった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [11]国産オルガンの完成後、静岡県から5台、静岡師範学校から2台の注文が入った
    • [12]山葉寅楠は1889年3月、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて山葉風琴製造所を設立した
    • [14]山葉寅楠は知人から3万円の出資を得て合資会社山葉風琴製造所を設立し、同年に250台のオルガンを販売した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [13]山葉風琴製造所は指物師・大工・カザリ師など10名に満たない職人を集めて設立された
    • [15]1891年に山葉楽器製造所と改称し、1892年にオルガン80台を英国へ輸出した
参考文献[1]-[15]
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [1]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
    • [2]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
    • [3]山葉寅楠は大阪の医療器械店に住み込んで技術を習得し、1883年に浜松病院の依頼で浜松へ移った
    • [4]1886年の小学校令で唱歌科を置いた浜松の小学校が翌年購入した米国製オルガンは、約2か月半で故障した
    • [7]山葉寅楠は自作にあたりあり合わせの材料をすべて自分で加工し、約2か月で1台を組み上げた
    • [8]山葉寅楠は河合喜三郎とともに自作オルガンを担いで東海道を歩き、数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ
    • [9]音楽取調所長の伊沢修二は、持ち込まれたオルガンを調律が不完全で使用できないと判定した
    • [10]山葉寅楠は音楽取調所で約1か月講義を受けたのち、1888年3月に2台目を完成させ、舶来品に劣らないとの評を得た
    • [11]国産オルガンの完成後、静岡県から5台、静岡師範学校から2台の注文が入った
    • [12]山葉寅楠は1889年3月、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて山葉風琴製造所を設立した
    • [14]山葉寅楠は知人から3万円の出資を得て合資会社山葉風琴製造所を設立し、同年に250台のオルガンを販売した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [5]1887年、医療機械の修理工であった山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理に成功した
    • [6]山葉寅楠は前年のオルガン修理の成功からオルガンの製作完成に心血をそそいだ
    • [13]山葉風琴製造所は指物師・大工・カザリ師など10名に満たない職人を集めて設立された
    • [15]1891年に山葉楽器製造所と改称し、1892年にオルガン80台を英国へ輸出した

1897年〜日本楽器製造への改組と舶来品との競争

1897年10月12日、山葉寅楠の個人経営だった山葉オルガン製造所は、資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組された。品目はオルガンに留まらず、ピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと次々に増えていった。ピアノの製造が始まるのは1899年である。日露戦争後の好況で資本金は24万円へ、翌年には金融恐慌に備える意味も含めて一挙に60万円へ引き上げられた。1908年に大連支店、43年に東京支店が開き、楽器用合板とハーモニカの製造、ピアノの輸出が続いた。鍵盤楽器も家具も合板も同じ木材加工の延長にあり、品目の広がりは技術の飛躍ではなく木工の転用だった

  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [16]1897年10月12日、山葉寅楠個人経営の山葉オルガン製造所を資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [17]日本楽器製造はオルガンに加えピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンと生産品目を増やした
  • 有価証券報告書
    • [18]1899年にピアノの製造を開始した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [19]日露戦争後の好況で資本金を24万円へ増資し、翌年には一挙に60万円へ増資した
    • [20]1908年に大連支店、1910年に東京支店を開設し、楽器用合板・ハーモニカの製造とピアノの輸出を進めた

北海道の木材資源を使うため、日本楽器は釧路に分工場を設けた。ハーモニカの工場だけで600名の女子工員を抱え、第一次世界大戦後の好況もあって会社の規模は急速に膨らんだ。ピアノと並んで高級木製家具を作り、ハーモニカは大量生産に移している。1916年には楽器の増産に合わせ、浜松市中沢町に新しい工場を建てた。同じ年の8月、寅楠は64歳で死んだ。あとを継いだのは、1913年に副社長へ迎えられていた浜名郡長の天野千代丸である。天野は1917年の社長就任と同時に資本を倍額へ引き上げ、以後も増資を重ねていった。木材と女子工員という二つの調達条件の上に、この拡大は載っていた

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [21]日本楽器製造は北海道の木材資源を利用するため釧路に分工場を設けた
    • [22]ハーモニカ工場だけで600名の女子工員を擁し、第一次世界大戦後の好況が会社の拡大に寄与した
    • [24]1916年、楽器の増産に伴い浜松市中沢町に新工場を建設した
    • [25]山葉寅楠は1916年8月8日に64歳で死去した
    • [26]1913年8月、浜名郡長の天野千代丸が日本楽器製造の副社長に迎えられた
    • [27]天野千代丸は1917年に社長へ就任し、ただちに資本を倍額へ増資した
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [23]日本楽器製造はピアノのほか高級木製家具の製造を始め、ハーモニカの大量生産にも着手した
    • [28]二代目の天野千代丸社長の時代に日本楽器製造は増資を重ねた

第一次世界大戦後の軍需不況で多くの銀行と生産会社が倒れるなか、日本楽器は1920年に資本金を120万円から300万円へ引き上げて事業を続けた。しかしマルク暴落でドイツ製のピアノとハーモニカが大量に流入すると、経営は一転して苦しくなった。日本楽器は横浜の西川楽器製造株式会社を合併し、1921年8月に資本金348万円となる。同年12月には第1回社債100万円を発行し、あわせてベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器といった外国製楽器の輸入販売にも乗り出した。国産化を掲げて出発した会社が、舶来品を売る側へ回ったのである

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [29]第一次世界大戦後の軍需不況下で多くの銀行や生産会社が倒産するなか、日本楽器製造は1920年に資本金を120万円から300万円へ増資して事業を継続した
    • [30]戦後のマルク暴落によりドイツ製のピアノやハーモニカが大量に流入し、日本楽器製造の事業は困難になった
    • [32]1921年12月に第一回社債100万円を発行した
    • [33]経営改善のためベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器などの輸入販売を行った
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [31]5回の増資後、1921年8月に西川楽器製造株式会社を合併し資本金348万円となった
参考文献[16]-[33]
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [16]1897年10月12日、山葉寅楠個人経営の山葉オルガン製造所を資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組した
    • [31]5回の増資後、1921年8月に西川楽器製造株式会社を合併し資本金348万円となった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [17]日本楽器製造はオルガンに加えピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンと生産品目を増やした
  • 有価証券報告書
    • [18]1899年にピアノの製造を開始した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [19]日露戦争後の好況で資本金を24万円へ増資し、翌年には一挙に60万円へ増資した
    • [20]1908年に大連支店、1910年に東京支店を開設し、楽器用合板・ハーモニカの製造とピアノの輸出を進めた
    • [21]日本楽器製造は北海道の木材資源を利用するため釧路に分工場を設けた
    • [22]ハーモニカ工場だけで600名の女子工員を擁し、第一次世界大戦後の好況が会社の拡大に寄与した
    • [24]1916年、楽器の増産に伴い浜松市中沢町に新工場を建設した
    • [25]山葉寅楠は1916年8月8日に64歳で死去した
    • [26]1913年8月、浜名郡長の天野千代丸が日本楽器製造の副社長に迎えられた
    • [27]天野千代丸は1917年に社長へ就任し、ただちに資本を倍額へ増資した
    • [29]第一次世界大戦後の軍需不況下で多くの銀行や生産会社が倒産するなか、日本楽器製造は1920年に資本金を120万円から300万円へ増資して事業を継続した
    • [30]戦後のマルク暴落によりドイツ製のピアノやハーモニカが大量に流入し、日本楽器製造の事業は困難になった
    • [32]1921年12月に第一回社債100万円を発行した
    • [33]経営改善のためベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器などの輸入販売を行った
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [23]日本楽器製造はピアノのほか高級木製家具の製造を始め、ハーモニカの大量生産にも着手した
    • [28]二代目の天野千代丸社長の時代に日本楽器製造は増資を重ねた

1923年〜105日争議と川上嘉市による再建

1923年9月の関東大震災は、日本楽器の東京支店を全焼させ、横浜工場の一部を壊した。前年に二度の工場火災を受けたばかりで、打撃は重なっている。震災後の東京には大崎工場を設け、復興向けの木造家具の大量生産に乗り出した。1924年5月には第2回・第3回あわせて115万円の社債を発行し、ピアノの製作技術を高めるためベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた。それでも慢性化した不況のもとでは、災害の打撃から脱するには足りない。舶来品の流入と震災の打撃が重なって、経営は傾き続けた。借入と社債で設備を保った以上、動かせる原価は人件費しか残っていなかった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [34]1923年9月の関東大震災で日本楽器製造の東京支店が全焼し、横浜工場の一部が破壊された
    • [35]関東大震災の前年、日本楽器製造は二度にわたり工場の火災に見舞われた
    • [36]震災後の東京に大崎工場を設け、復興のための木造家具類の大量生産を始めた
    • [37]1924年5月に第二回・第三回あわせて115万円の社債を発行し、ベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた
    • [38]当時の慢性化した不況のもとで、日本楽器製造は災害の打撃から脱しきれなかった
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [39]マルク相場の暴落によるドイツ製品の流入で不振に陥り、1923年の関東大震災の打撃が重なって日本楽器製造の経営は傾き続けた

1926年4月21日、浜松合同労働組合に属する従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限を切り回答を求めた。中身は便所と洗面所の設置、正月の休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭という最低賃金、年2回の昇給など、労働条件の水準そのものだ。社長の天野千代丸は翌日、日本労働組合評議会と手を切らない限り認められないと答え、26日に交渉は決裂する。争議は105日に及び、動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名に上った。8月8日、協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8,000円を出した。争議は収まったが、日本楽器は外部の応援を仰ぐほかなくなった。要求はどれも設備と賃金の水準に関わり、拡大の間ずっと会社が手をつけずに来た原価だった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [40]1926年4月21日、浜松合同労働組合に加盟する日本楽器製造の従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限つきで回答を求めた
    • [41]嘆願書は便所・洗面所の設置、正月休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭の最低賃金制定、年2回の昇給などを求めた
    • [42]天野千代丸は日本労働組合評議会と手を切らない限り嘆願事項を認められないと回答し、4月26日に交渉が決裂した
    • [43]争議は105日に及び、鎮圧に動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名を超えた
    • [44]1926年8月8日に協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8千円を支払った
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [45]105日間のストライキにより日本楽器製造は行き詰まり、外部の応援を仰ぐ事態に立ち至った

105日の争議で工場は完全に止まり、争議そのものの出費も重なって、日本楽器の経営はいっそう悪化した。1927年の日本楽器は、株価が額面の半額にも満たない不良会社へ落ちている。重役の一部が改革を訴えても天野千代丸は聞き入れず、同年1月、取締役会は経営の整理改革を決議した。4月に天野は辞め、住友電線製造所の取締役だった静岡県出身の川上嘉市が、42歳で第3代社長に就いた。嘉市は住友の総理事湯川寛吉らに所信を述べて52万円の増資新株の引受を取りつけ、積立金と繰越金60万円余りの全額を取り崩し、不良資産を売り、一挙に無配とする。支店と出張所は本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場は売却した。3年から5年と見られた無配は2期で済んだ。外から招かれた経営者が最初にしたのは、拡大の巻き戻しだった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [46]105日の争議で工場が完全に停止し、争議のための出費も重なって日本楽器製造の経営は一層困難になった
    • [48]1927年1月、日本楽器製造の取締役会が経営の整理改革を決議した
    • [51]川上嘉市は積立金および繰越金の全部60万円余りを取り崩し、不良資産の一部を売却し、一挙に無配とした
    • [52]支店・出張所を全部本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場を売却した
    • [53]3年ないし5年と予想された無配はわずか2期で済んだ
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [47]1927年当時の日本楽器製造は株価が額面の半額にも満たない成績不良会社に落ちていた
    • [49]1927年4月、天野千代丸の辞任を受けて住友電線製造所取締役の川上嘉市が42歳で第三代社長に就任した
    • [50]川上嘉市は住友の総理事湯川寛吉・常務理事小倉正恒に所信を述べ、52万円の増資新株の引受を取りつけた
参考文献[34]-[53]
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [34]1923年9月の関東大震災で日本楽器製造の東京支店が全焼し、横浜工場の一部が破壊された
    • [35]関東大震災の前年、日本楽器製造は二度にわたり工場の火災に見舞われた
    • [36]震災後の東京に大崎工場を設け、復興のための木造家具類の大量生産を始めた
    • [37]1924年5月に第二回・第三回あわせて115万円の社債を発行し、ベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた
    • [38]当時の慢性化した不況のもとで、日本楽器製造は災害の打撃から脱しきれなかった
    • [40]1926年4月21日、浜松合同労働組合に加盟する日本楽器製造の従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限つきで回答を求めた
    • [41]嘆願書は便所・洗面所の設置、正月休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭の最低賃金制定、年2回の昇給などを求めた
    • [42]天野千代丸は日本労働組合評議会と手を切らない限り嘆願事項を認められないと回答し、4月26日に交渉が決裂した
    • [43]争議は105日に及び、鎮圧に動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名を超えた
    • [44]1926年8月8日に協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8千円を支払った
    • [46]105日の争議で工場が完全に停止し、争議のための出費も重なって日本楽器製造の経営は一層困難になった
    • [48]1927年1月、日本楽器製造の取締役会が経営の整理改革を決議した
    • [51]川上嘉市は積立金および繰越金の全部60万円余りを取り崩し、不良資産の一部を売却し、一挙に無配とした
    • [52]支店・出張所を全部本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場を売却した
    • [53]3年ないし5年と予想された無配はわずか2期で済んだ
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [39]マルク相場の暴落によるドイツ製品の流入で不振に陥り、1923年の関東大震災の打撃が重なって日本楽器製造の経営は傾き続けた
    • [45]105日間のストライキにより日本楽器製造は行き詰まり、外部の応援を仰ぐ事態に立ち至った
    • [47]1927年当時の日本楽器製造は株価が額面の半額にも満たない成績不良会社に落ちていた
    • [49]1927年4月、天野千代丸の辞任を受けて住友電線製造所取締役の川上嘉市が42歳で第三代社長に就任した
    • [50]川上嘉市は住友の総理事湯川寛吉・常務理事小倉正恒に所信を述べ、52万円の増資新株の引受を取りつけた

第2章 1931年〜 軍需への事業転換と減資プロペラ量産による軍需化から減資後の楽器復帰へ

筆者考察y.sugiura, author

日本楽器が1931年に全金属製プロペラを引き受けたのは、軍需へ進出したかったからではなく、1921年に木製プロペラを作った木工の腕を軍が名指しで求めたからである。楽器も航空機部品も、材を削って寸法の精度で性能が決まる点では同じ仕事だった。だからこの会社は、パイプオルガンを日本で初めて完成させた1932年と、プロペラ工場が陸軍の管理下へ入る1938年を、断絶なく続けて通り抜けている。資本金は400万円から875万円、1,750万円、3,000万円へと積み上がったが、その金が買ったのは楽器の生産能力ではない。品質を上げるために設けた音響実験室も、増やした工場も、そのまま軍需の側へ数えられていった。

敗戦のあと日本楽器が楽器へ戻れたのは、軍需へ渡していたのが設備と人であって、木を削る技術そのものではなかったからである。1945年10月に再開したのはハーモニカと木琴という最も単純な楽器で、オルガンが3か月後、ピアノは1年半後だった。戻る順番は、その製品がどれだけ手を要するかで決まっている。戦時に3,000万円まで膨らんだ資本は、1948年6月に7,937万5,000円へ増えた直後、12月には未払込金の切捨てで7,000万円へ落ちた。500名を超える解雇と資産の縮小をそこへ重ねて、ようやく1949年の東証上場に間に合っている。争議の後始末に呼ばれた川上嘉市は、23年をかけて軍需と敗戦の両方から会社を引き戻し、それを終えて長男の源一へ渡した。

日本楽器製造の資本金 1937年〜1944年(万円)

400 1937 875 1938 1,750 1940 3,000 1944
  • 1938年と1940年の増資はいずれもプロペラの増産を理由とするもの。
  • 出所は企業の現代史(1964年)と株式会社年鑑1955年版。

1931年〜金属製プロペラと国産パイプオルガンの並立

1931年に満州事変が起こると、軍需産業を育てる国策のもとで、日本楽器は軍の命令により全金属製プロペラの製造を始めた。選ばれた理由は木工の技術にあった。1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを作った実績があり、その技術を見込まれての受注である。木材の加工で成り立ってきた会社が、ここで初めて金属を本格的に扱うことになる。社長の川上嘉市は住友電線製造所の取締役から迎えられた人物で、金属を扱う工場の経営を見てきた。楽器も航空機部品も、材を削って形を出し、寸法の精度が性能を決める点では変わらなかった

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [54]1931年の満州事変を受け、軍需産業育成の国策により軍の命令で全金属製プロペラの製造を開始した
    • [57]日本楽器製造は木製プロペラの製造を経て、1931年から全金属製プロペラの製造へ移った
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [55]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [56]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [58]川上嘉市は住友電線製造所の取締役から日本楽器製造の社長に迎えられた

1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会が日本楽器へパイプオルガンの製作を依頼した。パイプオルガンは、当時の日本では製造が不可能とされていた楽器である。日本楽器は苦心の研究の末、翌1932年2月にこれを完成させて納入した。1933年6月にはアコーディオンの製造販売を始め、1934年には聖テモテ教会向けに得た技術で東京音楽学校の注文に応じ、納めたパイプオルガンは戦後まで使われた。こうした製品の広がりに伴い、1936年から12年にかけて工場がいくつも新設されている。軍需の受注と最も難しい楽器の開発とが、同じ数年のうちに並んで進んだ

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [59]1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会から日本楽器製造にパイプオルガンの製作が依頼された
    • [61]日本楽器製造は研究の末、1932年2月にパイプオルガンを完成させ聖テモテ教会へ納入した
    • [63]1934年、聖テモテ教会向けに開発した技術で東京音楽学校の注文によるパイプオルガンを納入し、同機は長く使用された
    • [64]1936年から1937年にかけて日本楽器製造は複数の工場を新設した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [60]パイプオルガンは当時の日本では製造不可能とされていた楽器だった
    • [62]1933年6月にアコーディオンの製造販売を開始した

川上嘉市の再建策が効いて経営が安定すると、日本楽器は品質の改良へ資源を向け、音響実験室を設けて製品の水準を上げた。1937年7月に日中戦争が本格化すると、平和産業への資材の使用制限が強化され、やがて軍需品の生産へ移らざるを得なくなる。同じ月、嘉市の長男で大日本人造肥料に勤めていた川上源一が浜松へ戻り、日本楽器へ入社した。源一は前の勤め先で、荷役作業をすべてストップウォッチで測って賃金の計算式を組む仕事を任されていた。当時としては新しい作業測定の手法を、この26歳の入社者は持ち込んだことになる。楽器の品質を上げるために整えた設備と人が、そのまま軍需品の生産へ振り向けられていった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [65]川上嘉市の再建策により経営が安定し、日本楽器製造は音響実験室を設けて品質の向上を図った
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [66]1937年7月の日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され、日本楽器製造は軍需品の生産へ移行せざるを得なくなった
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [67]川上源一は大日本人造肥料を退職し、1937年7月に浜松へ戻って日本楽器製造へ入社した
    • [68]川上源一は大日本人造肥料王子工場で、陸揚げから倉庫積み・びん詰めまでの作業をストップウォッチで測定し作業員賃金の計算式を作成した
    • [69]川上源一は大日本人造肥料で産業能率研究所長の上野陽一に助言を求め、ガントチャートを用いて作業を計測した
参考文献[54]-[69]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [54]1931年の満州事変を受け、軍需産業育成の国策により軍の命令で全金属製プロペラの製造を開始した
    • [57]日本楽器製造は木製プロペラの製造を経て、1931年から全金属製プロペラの製造へ移った
    • [60]パイプオルガンは当時の日本では製造不可能とされていた楽器だった
    • [62]1933年6月にアコーディオンの製造販売を開始した
    • [66]1937年7月の日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され、日本楽器製造は軍需品の生産へ移行せざるを得なくなった
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [55]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [56]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [59]1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会から日本楽器製造にパイプオルガンの製作が依頼された
    • [61]日本楽器製造は研究の末、1932年2月にパイプオルガンを完成させ聖テモテ教会へ納入した
    • [63]1934年、聖テモテ教会向けに開発した技術で東京音楽学校の注文によるパイプオルガンを納入し、同機は長く使用された
    • [64]1936年から1937年にかけて日本楽器製造は複数の工場を新設した
    • [65]川上嘉市の再建策により経営が安定し、日本楽器製造は音響実験室を設けて品質の向上を図った
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [58]川上嘉市は住友電線製造所の取締役から日本楽器製造の社長に迎えられた
    • [67]川上源一は大日本人造肥料を退職し、1937年7月に浜松へ戻って日本楽器製造へ入社した
    • [68]川上源一は大日本人造肥料王子工場で、陸揚げから倉庫積み・びん詰めまでの作業をストップウォッチで測定し作業員賃金の計算式を作成した
    • [69]川上源一は大日本人造肥料で産業能率研究所長の上野陽一に助言を求め、ガントチャートを用いて作業を計測した

1938年〜プロペラ増産のための増資と全面軍需化

1938年8月、日本楽器はプロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ引き上げた。プロペラの量産が決まったのはこの年である。翌9月19日、プロペラ関係の工場は陸軍の管理下に置かれた。1939年には天龍分工場の完成に伴って製材と合板の部門を本社工場から移し、翌15年には名古屋と京城に支店を開くとともに、東京調布にプロペラ試作のための研究所と工場を着工した。この時点で生産の主力は、すでに楽器から軍需品へ移っていた。増資で集めた金の向かう先は、楽器ではなく航空機部品の生産能力だった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [70]1938年8月、プロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ増資した
    • [72]1938年9月19日、プロペラ関係工場が陸軍の管理下に置かれた
    • [73]1939年、天龍分工場の完成に伴い製材・合板の両部門を本社工場から移した
    • [74]1940年に名古屋支店と京城支店を開設した
    • [75]1940年、プロペラの試作研究のため東京調布に研究所と工場を着工した
    • [76]1940年ごろには日本楽器製造の生産の主力が楽器から軍需品へ移っていた
  • 有価証券報告書
    • [71]1938年にプロペラの量産を決定した

日中戦争が本格化してから、平和産業が使える資材への制限は強まり続けていた。1939年2月に鉄製品の回収が始まると、ピアノなどは作ることがきわめて難しくなった。同年7月の国民徴用令によって、労働力はいっそう軍需産業へ集められた。1940年9月には資本金が1,750万円まで積み増された。従業員は全員が現地で徴用され、プロペラと補助タンクの増産に回った。1941年12月の太平洋戦争開始と、翌年からの航空機の激しい消耗によって、増産の要求はさらに強まる。材料も人も外から断たれ、日本楽器に選べる生産品目は残っていなかった

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [77]日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され続けた
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [78]1939年2月に始まった鉄製品の回収により、ピアノなどの生産は極度に困難となった
    • [79]1939年7月の国民徴用令により軍需産業への労働力集中が加速した
    • [80]1940年9月に資本金1,750万円へ増資し、全従業員が現地徴用されてプロペラ・補助タンクの増産にあたった
    • [81]1941年12月の太平洋戦争開始と1942年からの航空機の消耗により、プロペラや補助タンクの増産要求が一層強まった

1942年6月、調布の東京製作所は陸軍の管理工場となり、10月には本社工場と天龍分工場が海軍の監査工場になった。天龍工場はほどなく陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月には東京製作所の拡張も許可される。同年12月には製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けている。1944年の軍需会社指定で日本楽器は民間兵器廠となり、11月には楽器の製造禁止命令が出た。4回の増資を経て、同年12月の資本金は3,000万円に達している。空襲が激しくなると天龍市船明に疎開工場の建設を決め、学徒動員によって1945年5月、一部地下式の佐久良工場が完成してプロペラ部門が移った。同年3月に名古屋支店と大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼け、操業は佐久良工場だけとなった。1944年末には、生産のほとんどが軍需品だった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [82]1942年6月に東京製作所が陸軍の管理工場となり、10月に本社工場と天龍分工場が海軍監査工場となった
    • [83]天龍工場は海軍監査工場から陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月に東京製作所の拡張が許可された
    • [84]1943年12月、撫材の製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けた
    • [85]1944年の軍需会社指定により日本楽器製造は民間兵器廠となり、同年11月に楽器の製造禁止命令が出た
    • [87]空襲の激化により天龍市船明へ疎開工場の建設を決め、学徒動員により1945年5月に一部地下式の佐久良工場が完成しプロペラ部門が疎開した
    • [88]1945年3月に名古屋支店・大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼失し、佐久良工場のみの操業となった
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [86]4回の増資を経て1944年12月に資本金3,000万円となった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [89]1944年末には日本楽器製造の生産のほとんどが軍需品で占められた
参考文献[70]-[89]
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [70]1938年8月、プロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ増資した
    • [72]1938年9月19日、プロペラ関係工場が陸軍の管理下に置かれた
    • [73]1939年、天龍分工場の完成に伴い製材・合板の両部門を本社工場から移した
    • [74]1940年に名古屋支店と京城支店を開設した
    • [75]1940年、プロペラの試作研究のため東京調布に研究所と工場を着工した
    • [76]1940年ごろには日本楽器製造の生産の主力が楽器から軍需品へ移っていた
    • [78]1939年2月に始まった鉄製品の回収により、ピアノなどの生産は極度に困難となった
    • [79]1939年7月の国民徴用令により軍需産業への労働力集中が加速した
    • [80]1940年9月に資本金1,750万円へ増資し、全従業員が現地徴用されてプロペラ・補助タンクの増産にあたった
    • [81]1941年12月の太平洋戦争開始と1942年からの航空機の消耗により、プロペラや補助タンクの増産要求が一層強まった
    • [82]1942年6月に東京製作所が陸軍の管理工場となり、10月に本社工場と天龍分工場が海軍監査工場となった
    • [83]天龍工場は海軍監査工場から陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月に東京製作所の拡張が許可された
    • [84]1943年12月、撫材の製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けた
    • [85]1944年の軍需会社指定により日本楽器製造は民間兵器廠となり、同年11月に楽器の製造禁止命令が出た
    • [87]空襲の激化により天龍市船明へ疎開工場の建設を決め、学徒動員により1945年5月に一部地下式の佐久良工場が完成しプロペラ部門が疎開した
    • [88]1945年3月に名古屋支店・大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼失し、佐久良工場のみの操業となった
  • 有価証券報告書
    • [71]1938年にプロペラの量産を決定した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [77]日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され続けた
    • [89]1944年末には日本楽器製造の生産のほとんどが軍需品で占められた
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [86]4回の増資を経て1944年12月に資本金3,000万円となった

1945年〜敗戦後の縮小と楽器への復帰

終戦後の日本楽器は、いち早く本来の業務へ復帰した。1945年8月の敗戦を、この会社は佐久良工場だけの操業で迎えている。戦後の復興でまず求められたのは木工家具の製作で、学徒動員と女子挺身隊を合わせて1万名を数えた従業員は大幅に整理され、九州支店と京城支店は廃止された。楽器の再開は同年10月のハーモニカと木琴から始まり、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された。1946年1月には本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場、東京製作所が賠償予定工場に指定されたが、指定は同年10月に解かれている。同年2月には本社の労働組合が結成された。軍需へ寄せた設備は、最も単純な楽器から順に本業へ戻された

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [90]終戦後、日本楽器製造はいち早く本来の業務へ復帰した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [91]浜松市が焼け野原となるなか、日本楽器製造は佐久良工場のみの操業で1945年8月15日の終戦を迎えた
    • [92]戦後の復興では木工家具の製作が最も緊急を要し、1万名を数えた従業員を大幅に整理して九州支店と京城支店を廃止した
    • [93]1945年10月にハーモニカと木琴の製造を開始し、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された
    • [94]1946年1月に本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場および東京製作所が賠償予定工場に指定され、同年10月に指定が解除された
    • [95]1946年2月に日本楽器製造の本社労働組合が結成された

過度経済力集中排除法の適用で岩手工場を閉め、従業員を解雇したのは1948年2月である。この工場は前年9月に北上川の氾濫で被害を受け、一部はすでに手放していた。閉鎖に先立ち、製造は1946年1月のオルガンとアコーディオン、1947年4月のピアノと順に戻っており、同じ22年にはハーモニカ二千ダースの米国向け出荷で楽器輸出も再び始まっていた。閉鎖と同じ年には、3月にスピネット型ピアノの試作が仕上がり、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノ輸出も再開し、8月に民間貿易が再開されると輸出商談が活発になって、11月には神戸出張所が支店に昇格した。生産設備の整理と製品の復旧が、同じ年のうちに並んで進んだ

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [96]1948年2月、過度経済力集中排除法の適用を受けて岩手工場を閉鎖し従業員を解雇した
    • [97]1947年9月の北上川の氾濫で岩手工場は損害を受け、経営困難から一部を売却していた
    • [98]1946年1月にオルガンとアコーディオン、1947年4月にピアノの製造を再開した
    • [100]1948年3月にスピネット型ピアノの試作が完成し、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノの輸出を再開した
    • [101]1948年8月の民間貿易再開に伴い輸出商談が活発化し、11月に神戸出張所が支店へ昇格した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [99]1947年に楽器の輸出を再開し、ハーモニカ2,000ダースを米国へ輸出した

1948年6月、日本楽器は旧株一に対し新株〇・五の割当で資本金を7,937万5,000円へ引き上げた。ところが同年12月には企業再建整備計画に基づいて未払込金を切り捨て、資本金は7,000万円へ減る。9月には独占禁止法に基づく株式処分計画と企業再建計画が認可され、翌24年にはさらに500名を超える従業員を解雇した。1949年3月に3,000万円を増資して資本金は1億円となり、同じ年、日本楽器の株式は東京証券取引所へ上場された。1950年2月に第100期を迎え、川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害して同年9月に辞任し、長男の源一へ社長を譲っている。争議の後始末のために外から招かれた経営者が、23年をかけて会社を軍需と敗戦の両方から引き戻したことになる

  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [102]1948年6月、旧株1に対し新株0.5の割当で資本金7,937万5千円へ増資した
    • [103]1948年12月、企業再建整備計画に基づき未払込金を切り捨てて減資し、資本金7,000万円となった
    • [106]1949年3月に3,000万円を増資し資本金1億円となった
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [104]1948年9月、独占禁止法により申請中の株式処分計画と企業再建計画が承認・認可された
    • [105]1949年に500名を超える従業員を解雇して経営の合理化を進めた
    • [108]1950年2月に第100期を迎えた
    • [109]川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害し、1950年9月に社長を辞して会長となり、長男の源一へ社長を譲った
  • 有価証券報告書
    • [107]1949年に東京証券取引所へ株式を上場した
参考文献[90]-[109]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [90]終戦後、日本楽器製造はいち早く本来の業務へ復帰した
    • [99]1947年に楽器の輸出を再開し、ハーモニカ2,000ダースを米国へ輸出した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [91]浜松市が焼け野原となるなか、日本楽器製造は佐久良工場のみの操業で1945年8月15日の終戦を迎えた
    • [92]戦後の復興では木工家具の製作が最も緊急を要し、1万名を数えた従業員を大幅に整理して九州支店と京城支店を廃止した
    • [93]1945年10月にハーモニカと木琴の製造を開始し、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された
    • [94]1946年1月に本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場および東京製作所が賠償予定工場に指定され、同年10月に指定が解除された
    • [95]1946年2月に日本楽器製造の本社労働組合が結成された
    • [96]1948年2月、過度経済力集中排除法の適用を受けて岩手工場を閉鎖し従業員を解雇した
    • [97]1947年9月の北上川の氾濫で岩手工場は損害を受け、経営困難から一部を売却していた
    • [98]1946年1月にオルガンとアコーディオン、1947年4月にピアノの製造を再開した
    • [100]1948年3月にスピネット型ピアノの試作が完成し、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノの輸出を再開した
    • [101]1948年8月の民間貿易再開に伴い輸出商談が活発化し、11月に神戸出張所が支店へ昇格した
    • [104]1948年9月、独占禁止法により申請中の株式処分計画と企業再建計画が承認・認可された
    • [105]1949年に500名を超える従業員を解雇して経営の合理化を進めた
    • [108]1950年2月に第100期を迎えた
    • [109]川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害し、1950年9月に社長を辞して会長となり、長男の源一へ社長を譲った
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [102]1948年6月、旧株1に対し新株0.5の割当で資本金7,937万5千円へ増資した
    • [103]1948年12月、企業再建整備計画に基づき未払込金を切り捨てて減資し、資本金7,000万円となった
    • [106]1949年3月に3,000万円を増資し資本金1億円となった
  • 有価証券報告書
    • [107]1949年に東京証券取引所へ株式を上場した

第3章 1950-1989 (気が向いたら執筆します!) 川上源一社長のもとでの音楽教室・エレクトーンとヤマハ発動機設立、多角化と海外展開

第4章 1990-2026 (気が向いたら執筆します!) 連続減益と川上家の退任、多角事業の整理と楽器・音響への集中、海外ブランド買収

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歴史年表 1887〜2023年

ヤマハの沿革1887〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1887〜1930年業態転換と経営再建山葉寅楠がオルガン製作に成功★
山葉寅楠一台の修理を出発点とした国産楽器メーカーへの踏み出し

1897年10月、山葉寅楠氏が静岡県浜松市板屋町に資本金10万円で日本楽器製造株式会社を設立し、初代社長に就任した。契機は1887年、浜松尋常小学校の輸入オルガン1台の修理であった。医療機器の修理技術を楽器へ転用した寅楠氏は、試作1号機を東京の音楽取調所で認めさせ、個人事業から株式会社化を経て、オルガン・ピアノ・ハーモニカを量産する国産楽器メーカーを築いた。

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★★★
山葉寅楠ピアノ製造を開始★
川上嘉市スト終息により経営再建★★
1931〜1949年軍需への事業転換と減資川上嘉市プロペラの量産を決定★★
川上嘉市東京証券取引所に株式上場★
1950〜1989年川上源一社長のもとでの音楽教室・エレクトーンとヤマハ発動機設立、多角化と海外展開川上源一川上源一氏が社長就任★
川上源一木材乾燥システム開発と量産品質の確立

1953年の欧米視察から戻った日本楽器製造の川上源一社長が、流れ作業による大量生産へ移るには木材の乾燥を完璧にしなければならないと見て、奨学生1人を米国の大学へ留学させて乾燥技術開発の根本的な理論を学ばせ、次いで欧州へ派遣して乾燥機の設計に当たらせた投資。乾燥機の製作だけで5〜6年を費やしている。設備を先に据えるのではなく、理論を学んだ人間を育ててから機械を設計させる順序をとった。

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川上源一ヤマハ音楽教室を組織化★★
川上源一教室を通じて弾き手を育て、楽器需要そのものを作り出す市場の創造

1954年、日本楽器製造の川上源一社長が、音楽による幼児への情操教育とわが国音楽文化の向上を掲げてヤマハ音楽教室を開設した経営判断。楽器を製造販売する会社が、演奏人口という潜在需要の形成そのものを自社の事業に組み入れた。前年の3か月におよぶ海外視察で欧州のピアノメーカーの斜陽を見た川上源一社長は、競争相手は楽器メーカーではなく自動車と家庭電気製品であると判断していた。

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川上源一ヤマハ発動機を設立★★
川上源一販売子会社を設立★
川上源一エレクトーン・スポーツ用品に参入★
川上源一ロサンゼルスに子会社を新設★
川上源一志摩・英虞湾の土地取得を起点とした事業領域の拡張

1962年、日本楽器製造はリゾート事業へ参入した。川上源一社長が真珠産業の没落した三重県志摩・英虞湾の土地を坪180〜200円で取得し、その地に合歓の郷を開設する。楽器で培った技術をグラスファイバー製の洋弓・スキー・モーターボートへ転用したのに続き、余暇需要そのものを自社で商う非関連多角化に踏み切った経営判断である。

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川上源一ピアノ国内シェア1位★
川上源一西独にYamaha Europa GmbHを設立★
川上源一レクリエーション事業に新規参入★
川上源一日本初の株式時価発行を実施★
川上源一半導体製造に本格参入★★
川上源一オーディオ機器に新規参入★
川上源一河島博氏が社長退任(実質解任)★
川上浩事業部制を導入★
川上浩事業部制導入と社長直結の指揮系統

1983年、川上浩氏が父・川上源一氏から社長を承継すると同時に、マッキンゼーの助言で事業部制を導入した組織判断。事業を細分化して業績責任単位を小さく取り、その全部を社長直結の指揮系統に収めた。楽器から半導体・音響機器・リビング用品・スポーツ用品へ広がった事業ポートフォリオを、就任したばかりの社長が掌握するための設計であった。

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川上浩社名を「ヤマハ」に変更★
川上浩天津雅馬哈電子楽器有限公司を設立★
1990〜2026年連続減益と川上家の退任、多角事業の整理と楽器・音響への集中、海外ブランド買収川上浩2期連続の減益を受けた事業の絞り込みと、減量経営への転換

1990年前後、主力の楽器市場の成熟によって営業利益・経常利益とも2期連続の減少が避けられなくなったヤマハが、川上浩社長の下で希望退職を伴う減量経営と、有望事業の分社化による事業ポートフォリオの見直しに踏み切った経営判断。1991年時点で楽器の売上比率は56%まで低下していたが、多角化した諸事業は半導体を除いて利益を生めずにいた。

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★★★
川上浩薄膜磁気ヘッドの生産開始★
上島清介川上家が退任意向★★
上島清介希望退職者を募集★
上島清介解任動議と創業家出身社長の退任宣言

1992年2月19日、ヤマハ社長の川上浩氏が役員会の直前に自ら退任を宣言し、会社は社長を取締役へ降格した人事。社長解任動議を諮る根回しが役員の間で進み、その動きを事前に察知した先手だったと推察される。1950年の川上源一氏の社長就任から40年余り続いた創業家の経営支配は、この日で途切れた。

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上島清介天竜半導体工場を新設★
伊藤修二ヤマハ発動機の株式売却を開始★
石村和清最終赤字407億円に転落★★
伊藤修二Steinberg Media Technologiesを買収★
伊藤修二多角事業の整理★★
伊藤修二減損会計の適用による損失の一括計上と、抱えてきた事業の整理

2006年3月期から「固定資産の減損に係る会計基準」を適用し、減損損失32,703百万円を一括計上した。うち31,988百万円はレクリェーション事業資産で、「キロロ」「つま恋」「鳥羽国際ホテル」「合歓の郷」の4施設が対象である。帳簿価額の切り下げを経て、翌2007年3月期には6施設のうち4施設の譲渡を決議し、2009年3月期には事業の種類別セグメントの区分そのものを廃止した。

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梅村充ベーゼンドルファーを買収★
梅村充住宅設備事業のカーブアウトと音・音楽への集中

ヤマハは2010年3月31日付で、システムキッチン・システムバス・洗面化粧台の製造販売を担う100%出資子会社ヤマハリビングテックの株式851,000株(議決権の85.1%)を、日本産業パートナーズが管理・運営する投資事業有限責任組合等へ譲渡した。売却価額は1,276百万円、売却後の持分比率は14.9%である。同社と100%子会社のヤマハリビングプロダクツ、ジョイエルホームの3社が同日付で連結の範囲から外れた。

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梅村充希望退職者の募集★
中田卓也事業部制を廃止★
中田卓也Line 6を買収★
中田卓也製造事業の譲渡による自前工場の手放しと、電子部品事業の縮退

2014年10月にフェニテックセミコンダクターと基本合意し、2015年3月31日、全額出資子会社ヤマハ鹿児島セミコンダクタの半導体製造事業を同社へ譲渡する契約を締結した。譲渡の実行は2015年10月1日で、半導体事業はファブレス化へ移行している。1971年に開始した半導体の自社生産は、ここで終了した。

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中田卓也時価総額1兆円を突破★
中田卓也Cordoba Music Groupを買収★
中田卓也相手方の全持分取得と、米国ギター事業のブランドの一本化

2023年2月7日、ヤマハは連結子会社のYamaha Guitar Group, Inc.(YGG)を通じて、米国のギターメーカーCordoba Music Group, LLCの資本持分100%を取得し、同社とその子会社3社を連結子会社とした。支払対価は5,122百万円で、現金を対価とする持分取得である。Cordoba社は「Cordoba」ブランドのナイロン弦ギターやウクレレ、「Guild」ブランドのアコースティックギター・エレクトリックギターを企画開発・製造販売し、米国では弦の輸入代理店も担う。本社はカリフォルニア州サンタモニカ、流通および製造施設はオックスナードにある。

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山浦敦生産機能の国内集約

2024年4月1日、ヤマハは日本国内における楽器・音響機器の製造を担う株式会社ヤマハミュージックマニュファクチュアリングを吸収合併した。ヤマハを存続会社、同社を消滅会社とする吸収合併で、結合後企業の名称はヤマハ株式会社。共通支配下の取引として処理し、抱合せ株式消滅差益4,840百万円を特別利益に計上した。2014年に国内の生産事業を会社分割で分社してから10年での本体復帰にあたる。

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山浦敦政策保有株式の縮減と自己株式の取得・消却

ヤマハは2025年3月期に、共通の「ヤマハ」ブランドを使うヤマハ発動機の株式18,000,000株を売却し、保有株式数を46,928,370株から28,928,370株へ縮減した。売却による投資有価証券売却益は20,467百万円である。同じ期に3本の取締役会決議で自己株式を50,028百万円取得し、30,900,000株を消却した。2024年10月1日には普通株式1株を3株へ分割している。

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出典・参考 5件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)

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