日本楽器製造の最初の40年は、楽器の技術ではなく木工の技術がどこまで通用するかで決まった。山葉寅楠が浜松の小学校で直したのはアメリカ製オルガンであり、2台目で舶来品に劣らないという評を得たあと、彼が集めたのは楽器職人ではなく指物師と大工とカザリ師だった。オルガンからピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと品目が増えたのも、木材の加工という一つの技能を別の製品へ当て直した結果である。資本金10万円で出発した会社が20年あまりで300万円へ届いたのは、需要が増えたからというより、同じ職人と同じ材で作れるものを増やし続けたからだろう。楽器を作る会社というより、木を扱う会社が楽器に当たったと言うほうが近い。
木材と低賃金の労働力に載った拡大は、その二つが高くつく局面で行き詰まる。マルク暴落でドイツ製ピアノが流入すると、国産化を掲げた会社が舶来品を輸入して売る側へ回り、関東大震災と度重なる火災が設備を削った。社債と借入で工場を保った以上、削れる原価は人件費しか残らない。1926年に従業員が求めたのは便所と洗面所の設置であり、男子70銭・女子60銭という最低賃金だった。105日の争議は、拡大の間ずっと据え置かれてきた条件の請求書である。額面の半額まで落ちた株価で川上嘉市を迎え、彼が最初にしたのが釧路と大崎の工場の売却と無配だったのは、拡大そのものを巻き戻すほかに手がなかったからにほかならない。
山葉寅楠は、楽器ではなく器械の修業から出発した人物である。1851年に和歌山の士族の家へ生まれ、1871年に長崎で英国人技師のもとに入って時計を学んだが、国産時計の会社を興す計画は資本が集まらずに潰えた。次に大阪の医療器械店へ住み込み、数年で専門の知識と技術を身につけて、1883年、浜松病院の求めに応じて浜松へ移った。1886年の小学校令を受けて唱歌科を置いた浜松の小学校は、翌年に買い入れたアメリカ製オルガンを二か月半で故障させ、直せる者を土地に見つけられずにいた。浜松病院長の福島豊策が洋式器械に明るい寅楠を学校へ推し、寅楠はカザリ職人の河合喜三郎と二人で構造と故障箇所を調べ、1887年にこれを修理した。請け負ったのは1台の修理にすぎなかったが、そこで寅楠は、自分の扱える器械の延長に楽器があることを知った
修理の成功は、寅楠を製造の側へ向かわせた。楽器の材料を売る店も職人もない土地で、すべてあり合わせを自分で加工するほかなく、2か月をかけて1台を組み上げている。でき具合の判定を求めた寅楠は、河合喜三郎とともにこのオルガンを担いで東海道を歩き、大井川と箱根を越えて数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ。音楽取調所長の伊沢修二は寅楠の労苦に感銘したものの、調律が不完全で使用に堪えないという結論を下した。寅楠は伊沢の勧めで約1か月その講義に列してから浜松へ帰り、1888年3月、舶来品に劣らないという評を得る2台目を仕上げた。作れることと、その音が国の定めた基準に合うことは別だった
オルガンの第1号ができると、静岡県から5台、静岡師範学校から2台という具合に注文が入り始めた。寅楠は指物師・大工・カザリ師といった木工の職人を集め、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて、1889年3月に山葉風琴製造所を興した。集まった職人は10名に満たなかった。注文が増えるにつれ個人の裁量では資金が回らなくなり、寅楠は知人を説いて3万円の出資を得て合資会社へ改め、その年のうちに250台を売った。1891年には屋号を山葉楽器製造所と改め、翌25年、オルガン80台を英国へ輸出している。楽器を作る職種は当時の日本になく、寅楠が元手にできたのは木工と細工の技能だけだった
1897年10月12日、山葉寅楠の個人経営だった山葉オルガン製造所は、資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組された。品目はオルガンに留まらず、ピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと次々に増えていった。ピアノの製造が始まるのは1899年である。日露戦争後の好況で資本金は24万円へ、翌年には金融恐慌に備える意味も含めて一挙に60万円へ引き上げられた。1908年に大連支店、43年に東京支店が開き、楽器用合板とハーモニカの製造、ピアノの輸出が続いた。鍵盤楽器も家具も合板も同じ木材加工の延長にあり、品目の広がりは技術の飛躍ではなく木工の転用だった
北海道の木材資源を使うため、日本楽器は釧路に分工場を設けた。ハーモニカの工場だけで600名の女子工員を抱え、第一次世界大戦後の好況もあって会社の規模は急速に膨らんだ。ピアノと並んで高級木製家具を作り、ハーモニカは大量生産に移している。1916年には楽器の増産に合わせ、浜松市中沢町に新しい工場を建てた。同じ年の8月、寅楠は64歳で死んだ。あとを継いだのは、1913年に副社長へ迎えられていた浜名郡長の天野千代丸である。天野は1917年の社長就任と同時に資本を倍額へ引き上げ、以後も増資を重ねていった。木材と女子工員という二つの調達条件の上に、この拡大は載っていた
第一次世界大戦後の軍需不況で多くの銀行と生産会社が倒れるなか、日本楽器は1920年に資本金を120万円から300万円へ引き上げて事業を続けた。しかしマルク暴落でドイツ製のピアノとハーモニカが大量に流入すると、経営は一転して苦しくなった。日本楽器は横浜の西川楽器製造株式会社を合併し、1921年8月に資本金348万円となる。同年12月には第1回社債100万円を発行し、あわせてベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器といった外国製楽器の輸入販売にも乗り出した。国産化を掲げて出発した会社が、舶来品を売る側へ回ったのである
1923年9月の関東大震災は、日本楽器の東京支店を全焼させ、横浜工場の一部を壊した。前年に二度の工場火災を受けたばかりで、打撃は重なっている。震災後の東京には大崎工場を設け、復興向けの木造家具の大量生産に乗り出した。1924年5月には第2回・第3回あわせて115万円の社債を発行し、ピアノの製作技術を高めるためベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた。それでも慢性化した不況のもとでは、災害の打撃から脱するには足りない。舶来品の流入と震災の打撃が重なって、経営は傾き続けた。借入と社債で設備を保った以上、動かせる原価は人件費しか残っていなかった
1926年4月21日、浜松合同労働組合に属する従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限を切り回答を求めた。中身は便所と洗面所の設置、正月の休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭という最低賃金、年2回の昇給など、労働条件の水準そのものだ。社長の天野千代丸は翌日、日本労働組合評議会と手を切らない限り認められないと答え、26日に交渉は決裂する。争議は105日に及び、動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名に上った。8月8日、協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8,000円を出した。争議は収まったが、日本楽器は外部の応援を仰ぐほかなくなった。要求はどれも設備と賃金の水準に関わり、拡大の間ずっと会社が手をつけずに来た原価だった
105日の争議で工場は完全に止まり、争議そのものの出費も重なって、日本楽器の経営はいっそう悪化した。1927年の日本楽器は、株価が額面の半額にも満たない不良会社へ落ちている。重役の一部が改革を訴えても天野千代丸は聞き入れず、同年1月、取締役会は経営の整理改革を決議した。4月に天野は辞め、住友電線製造所の取締役だった静岡県出身の川上嘉市が、42歳で第3代社長に就いた。嘉市は住友の総理事湯川寛吉らに所信を述べて52万円の増資新株の引受を取りつけ、積立金と繰越金60万円余りの全額を取り崩し、不良資産を売り、一挙に無配とする。支店と出張所は本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場は売却した。3年から5年と見られた無配は2期で済んだ。外から招かれた経営者が最初にしたのは、拡大の巻き戻しだった
日本楽器が1931年に全金属製プロペラを引き受けたのは、軍需へ進出したかったからではなく、1921年に木製プロペラを作った木工の腕を軍が名指しで求めたからである。楽器も航空機部品も、材を削って寸法の精度で性能が決まる点では同じ仕事だった。だからこの会社は、パイプオルガンを日本で初めて完成させた1932年と、プロペラ工場が陸軍の管理下へ入る1938年を、断絶なく続けて通り抜けている。資本金は400万円から875万円、1,750万円、3,000万円へと積み上がったが、その金が買ったのは楽器の生産能力ではない。品質を上げるために設けた音響実験室も、増やした工場も、そのまま軍需の側へ数えられていった。
敗戦のあと日本楽器が楽器へ戻れたのは、軍需へ渡していたのが設備と人であって、木を削る技術そのものではなかったからである。1945年10月に再開したのはハーモニカと木琴という最も単純な楽器で、オルガンが3か月後、ピアノは1年半後だった。戻る順番は、その製品がどれだけ手を要するかで決まっている。戦時に3,000万円まで膨らんだ資本は、1948年6月に7,937万5,000円へ増えた直後、12月には未払込金の切捨てで7,000万円へ落ちた。500名を超える解雇と資産の縮小をそこへ重ねて、ようやく1949年の東証上場に間に合っている。争議の後始末に呼ばれた川上嘉市は、23年をかけて軍需と敗戦の両方から会社を引き戻し、それを終えて長男の源一へ渡した。
1931年に満州事変が起こると、軍需産業を育てる国策のもとで、日本楽器は軍の命令により全金属製プロペラの製造を始めた。選ばれた理由は木工の技術にあった。1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを作った実績があり、その技術を見込まれての受注である。木材の加工で成り立ってきた会社が、ここで初めて金属を本格的に扱うことになる。社長の川上嘉市は住友電線製造所の取締役から迎えられた人物で、金属を扱う工場の経営を見てきた。楽器も航空機部品も、材を削って形を出し、寸法の精度が性能を決める点では変わらなかった
1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会が日本楽器へパイプオルガンの製作を依頼した。パイプオルガンは、当時の日本では製造が不可能とされていた楽器である。日本楽器は苦心の研究の末、翌1932年2月にこれを完成させて納入した。1933年6月にはアコーディオンの製造販売を始め、1934年には聖テモテ教会向けに得た技術で東京音楽学校の注文に応じ、納めたパイプオルガンは戦後まで使われた。こうした製品の広がりに伴い、1936年から12年にかけて工場がいくつも新設されている。軍需の受注と最も難しい楽器の開発とが、同じ数年のうちに並んで進んだ
川上嘉市の再建策が効いて経営が安定すると、日本楽器は品質の改良へ資源を向け、音響実験室を設けて製品の水準を上げた。1937年7月に日中戦争が本格化すると、平和産業への資材の使用制限が強化され、やがて軍需品の生産へ移らざるを得なくなる。同じ月、嘉市の長男で大日本人造肥料に勤めていた川上源一が浜松へ戻り、日本楽器へ入社した。源一は前の勤め先で、荷役作業をすべてストップウォッチで測って賃金の計算式を組む仕事を任されていた。当時としては新しい作業測定の手法を、この26歳の入社者は持ち込んだことになる。楽器の品質を上げるために整えた設備と人が、そのまま軍需品の生産へ振り向けられていった
1938年8月、日本楽器はプロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ引き上げた。プロペラの量産が決まったのはこの年である。翌9月19日、プロペラ関係の工場は陸軍の管理下に置かれた。1939年には天龍分工場の完成に伴って製材と合板の部門を本社工場から移し、翌15年には名古屋と京城に支店を開くとともに、東京調布にプロペラ試作のための研究所と工場を着工した。この時点で生産の主力は、すでに楽器から軍需品へ移っていた。増資で集めた金の向かう先は、楽器ではなく航空機部品の生産能力だった
日中戦争が本格化してから、平和産業が使える資材への制限は強まり続けていた。1939年2月に鉄製品の回収が始まると、ピアノなどは作ることがきわめて難しくなった。同年7月の国民徴用令によって、労働力はいっそう軍需産業へ集められた。1940年9月には資本金が1,750万円まで積み増された。従業員は全員が現地で徴用され、プロペラと補助タンクの増産に回った。1941年12月の太平洋戦争開始と、翌年からの航空機の激しい消耗によって、増産の要求はさらに強まる。材料も人も外から断たれ、日本楽器に選べる生産品目は残っていなかった
1942年6月、調布の東京製作所は陸軍の管理工場となり、10月には本社工場と天龍分工場が海軍の監査工場になった。天龍工場はほどなく陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月には東京製作所の拡張も許可される。同年12月には製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けている。1944年の軍需会社指定で日本楽器は民間兵器廠となり、11月には楽器の製造禁止命令が出た。4回の増資を経て、同年12月の資本金は3,000万円に達している。空襲が激しくなると天龍市船明に疎開工場の建設を決め、学徒動員によって1945年5月、一部地下式の佐久良工場が完成してプロペラ部門が移った。同年3月に名古屋支店と大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼け、操業は佐久良工場だけとなった。1944年末には、生産のほとんどが軍需品だった
終戦後の日本楽器は、いち早く本来の業務へ復帰した。1945年8月の敗戦を、この会社は佐久良工場だけの操業で迎えている。戦後の復興でまず求められたのは木工家具の製作で、学徒動員と女子挺身隊を合わせて1万名を数えた従業員は大幅に整理され、九州支店と京城支店は廃止された。楽器の再開は同年10月のハーモニカと木琴から始まり、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された。1946年1月には本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場、東京製作所が賠償予定工場に指定されたが、指定は同年10月に解かれている。同年2月には本社の労働組合が結成された。軍需へ寄せた設備は、最も単純な楽器から順に本業へ戻された
過度経済力集中排除法の適用で岩手工場を閉め、従業員を解雇したのは1948年2月である。この工場は前年9月に北上川の氾濫で被害を受け、一部はすでに手放していた。閉鎖に先立ち、製造は1946年1月のオルガンとアコーディオン、1947年4月のピアノと順に戻っており、同じ22年にはハーモニカ二千ダースの米国向け出荷で楽器輸出も再び始まっていた。閉鎖と同じ年には、3月にスピネット型ピアノの試作が仕上がり、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノ輸出も再開し、8月に民間貿易が再開されると輸出商談が活発になって、11月には神戸出張所が支店に昇格した。生産設備の整理と製品の復旧が、同じ年のうちに並んで進んだ
1948年6月、日本楽器は旧株一に対し新株〇・五の割当で資本金を7,937万5,000円へ引き上げた。ところが同年12月には企業再建整備計画に基づいて未払込金を切り捨て、資本金は7,000万円へ減る。9月には独占禁止法に基づく株式処分計画と企業再建計画が認可され、翌24年にはさらに500名を超える従業員を解雇した。1949年3月に3,000万円を増資して資本金は1億円となり、同じ年、日本楽器の株式は東京証券取引所へ上場された。1950年2月に第100期を迎え、川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害して同年9月に辞任し、長男の源一へ社長を譲っている。争議の後始末のために外から招かれた経営者が、23年をかけて会社を軍需と敗戦の両方から引き戻したことになる
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|---|---|---|---|---|
| 1887〜1930年業態転換と経営再建 | 山葉寅楠がオルガン製作に成功 | ★ | ||
| 山葉寅楠 | 一台の修理を出発点とした国産楽器メーカーへの踏み出し 1897年10月、山葉寅楠氏が静岡県浜松市板屋町に資本金10万円で日本楽器製造株式会社を設立し、初代社長に就任した。契機は1887年、浜松尋常小学校の輸入オルガン1台の修理であった。医療機器の修理技術を楽器へ転用した寅楠氏は、試作1号機を東京の音楽取調所で認めさせ、個人事業から株式会社化を経て、オルガン・ピアノ・ハーモニカを量産する国産楽器メーカーを築いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山葉寅楠 | ピアノ製造を開始 | ★ | ||
| 川上嘉市 | スト終息により経営再建 | ★★ | ||
| 1931〜1949年軍需への事業転換と減資 | 川上嘉市 | プロペラの量産を決定 | ★★ | |
| 川上嘉市 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1950〜1989年川上源一社長のもとでの音楽教室・エレクトーンとヤマハ発動機設立、多角化と海外展開 | 川上源一 | 川上源一氏が社長就任 | ★ | |
| 川上源一 | 木材乾燥システム開発と量産品質の確立 1953年の欧米視察から戻った日本楽器製造の川上源一社長が、流れ作業による大量生産へ移るには木材の乾燥を完璧にしなければならないと見て、奨学生1人を米国の大学へ留学させて乾燥技術開発の根本的な理論を学ばせ、次いで欧州へ派遣して乾燥機の設計に当たらせた投資。乾燥機の製作だけで5〜6年を費やしている。設備を先に据えるのではなく、理論を学んだ人間を育ててから機械を設計させる順序をとった。 詳細を読む | |||
| 川上源一 | ヤマハ音楽教室を組織化 | ★★ | ||
| 川上源一 | 教室を通じて弾き手を育て、楽器需要そのものを作り出す市場の創造 1954年、日本楽器製造の川上源一社長が、音楽による幼児への情操教育とわが国音楽文化の向上を掲げてヤマハ音楽教室を開設した経営判断。楽器を製造販売する会社が、演奏人口という潜在需要の形成そのものを自社の事業に組み入れた。前年の3か月におよぶ海外視察で欧州のピアノメーカーの斜陽を見た川上源一社長は、競争相手は楽器メーカーではなく自動車と家庭電気製品であると判断していた。 詳細を読む | |||
| 川上源一 | ヤマハ発動機を設立 | ★★ | ||
| 川上源一 | 販売子会社を設立 | ★ | ||
| 川上源一 | エレクトーン・スポーツ用品に参入 | ★ | ||
| 川上源一 | ロサンゼルスに子会社を新設 | ★ | ||
| 川上源一 | 志摩・英虞湾の土地取得を起点とした事業領域の拡張 1962年、日本楽器製造はリゾート事業へ参入した。川上源一社長が真珠産業の没落した三重県志摩・英虞湾の土地を坪180〜200円で取得し、その地に合歓の郷を開設する。楽器で培った技術をグラスファイバー製の洋弓・スキー・モーターボートへ転用したのに続き、余暇需要そのものを自社で商う非関連多角化に踏み切った経営判断である。 詳細を読む | |||
| 川上源一 | ピアノ国内シェア1位 | ★ | ||
| 川上源一 | 西独にYamaha Europa GmbHを設立 | ★ | ||
| 川上源一 | レクリエーション事業に新規参入 | ★ | ||
| 川上源一 | 日本初の株式時価発行を実施 | ★ | ||
| 川上源一 | 半導体製造に本格参入 | ★★ | ||
| 川上源一 | オーディオ機器に新規参入 | ★ | ||
| 川上源一 | 河島博氏が社長退任(実質解任) | ★ | ||
| 川上浩 | 事業部制を導入 | ★ | ||
| 川上浩 | 事業部制導入と社長直結の指揮系統 1983年、川上浩氏が父・川上源一氏から社長を承継すると同時に、マッキンゼーの助言で事業部制を導入した組織判断。事業を細分化して業績責任単位を小さく取り、その全部を社長直結の指揮系統に収めた。楽器から半導体・音響機器・リビング用品・スポーツ用品へ広がった事業ポートフォリオを、就任したばかりの社長が掌握するための設計であった。 詳細を読む | |||
| 川上浩 | 社名を「ヤマハ」に変更 | ★ | ||
| 川上浩 | 天津雅馬哈電子楽器有限公司を設立 | ★ | ||
| 1990〜2026年連続減益と川上家の退任、多角事業の整理と楽器・音響への集中、海外ブランド買収 | 川上浩 | 2期連続の減益を受けた事業の絞り込みと、減量経営への転換 1990年前後、主力の楽器市場の成熟によって営業利益・経常利益とも2期連続の減少が避けられなくなったヤマハが、川上浩社長の下で希望退職を伴う減量経営と、有望事業の分社化による事業ポートフォリオの見直しに踏み切った経営判断。1991年時点で楽器の売上比率は56%まで低下していたが、多角化した諸事業は半導体を除いて利益を生めずにいた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 川上浩 | 薄膜磁気ヘッドの生産開始 | ★ | ||
| 上島清介 | 川上家が退任意向 | ★★ | ||
| 上島清介 | 希望退職者を募集 | ★ | ||
| 上島清介 | 解任動議と創業家出身社長の退任宣言 1992年2月19日、ヤマハ社長の川上浩氏が役員会の直前に自ら退任を宣言し、会社は社長を取締役へ降格した人事。社長解任動議を諮る根回しが役員の間で進み、その動きを事前に察知した先手だったと推察される。1950年の川上源一氏の社長就任から40年余り続いた創業家の経営支配は、この日で途切れた。 詳細を読む | |||
| 上島清介 | 天竜半導体工場を新設 | ★ | ||
| 伊藤修二 | ヤマハ発動機の株式売却を開始 | ★ | ||
| 石村和清 | 最終赤字407億円に転落 | ★★ | ||
| 伊藤修二 | Steinberg Media Technologiesを買収 | ★ | ||
| 伊藤修二 | 多角事業の整理 | ★★ | ||
| 伊藤修二 | 減損会計の適用による損失の一括計上と、抱えてきた事業の整理 2006年3月期から「固定資産の減損に係る会計基準」を適用し、減損損失32,703百万円を一括計上した。うち31,988百万円はレクリェーション事業資産で、「キロロ」「つま恋」「鳥羽国際ホテル」「合歓の郷」の4施設が対象である。帳簿価額の切り下げを経て、翌2007年3月期には6施設のうち4施設の譲渡を決議し、2009年3月期には事業の種類別セグメントの区分そのものを廃止した。 詳細を読む | |||
| 梅村充 | ベーゼンドルファーを買収 | ★ | ||
| 梅村充 | 住宅設備事業のカーブアウトと音・音楽への集中 ヤマハは2010年3月31日付で、システムキッチン・システムバス・洗面化粧台の製造販売を担う100%出資子会社ヤマハリビングテックの株式851,000株(議決権の85.1%)を、日本産業パートナーズが管理・運営する投資事業有限責任組合等へ譲渡した。売却価額は1,276百万円、売却後の持分比率は14.9%である。同社と100%子会社のヤマハリビングプロダクツ、ジョイエルホームの3社が同日付で連結の範囲から外れた。 詳細を読む | |||
| 梅村充 | 希望退職者の募集 | ★ | ||
| 中田卓也 | 事業部制を廃止 | ★ | ||
| 中田卓也 | Line 6を買収 | ★ | ||
| 中田卓也 | 製造事業の譲渡による自前工場の手放しと、電子部品事業の縮退 2014年10月にフェニテックセミコンダクターと基本合意し、2015年3月31日、全額出資子会社ヤマハ鹿児島セミコンダクタの半導体製造事業を同社へ譲渡する契約を締結した。譲渡の実行は2015年10月1日で、半導体事業はファブレス化へ移行している。1971年に開始した半導体の自社生産は、ここで終了した。 詳細を読む | |||
| 中田卓也 | 時価総額1兆円を突破 | ★ | ||
| 中田卓也 | Cordoba Music Groupを買収 | ★ | ||
| 中田卓也 | 相手方の全持分取得と、米国ギター事業のブランドの一本化 2023年2月7日、ヤマハは連結子会社のYamaha Guitar Group, Inc.(YGG)を通じて、米国のギターメーカーCordoba Music Group, LLCの資本持分100%を取得し、同社とその子会社3社を連結子会社とした。支払対価は5,122百万円で、現金を対価とする持分取得である。Cordoba社は「Cordoba」ブランドのナイロン弦ギターやウクレレ、「Guild」ブランドのアコースティックギター・エレクトリックギターを企画開発・製造販売し、米国では弦の輸入代理店も担う。本社はカリフォルニア州サンタモニカ、流通および製造施設はオックスナードにある。 詳細を読む | |||
| 山浦敦 | 生産機能の国内集約 2024年4月1日、ヤマハは日本国内における楽器・音響機器の製造を担う株式会社ヤマハミュージックマニュファクチュアリングを吸収合併した。ヤマハを存続会社、同社を消滅会社とする吸収合併で、結合後企業の名称はヤマハ株式会社。共通支配下の取引として処理し、抱合せ株式消滅差益4,840百万円を特別利益に計上した。2014年に国内の生産事業を会社分割で分社してから10年での本体復帰にあたる。 詳細を読む | |||
| 山浦敦 | 政策保有株式の縮減と自己株式の取得・消却 ヤマハは2025年3月期に、共通の「ヤマハ」ブランドを使うヤマハ発動機の株式18,000,000株を売却し、保有株式数を46,928,370株から28,928,370株へ縮減した。売却による投資有価証券売却益は20,467百万円である。同じ期に3本の取締役会決議で自己株式を50,028百万円取得し、30,900,000株を消却した。2024年10月1日には普通株式1株を3株へ分割している。 詳細を読む |
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事実根拠:出所(ヤマハ)