ヤマハの歴史
沿革
1887年に山葉寅楠氏が浜松でオルガンの修理と製作に成功したことが起源。
1954年にヤマハ音楽教室を組織化して弾き手を育て、1967年にピアノ生産で世界一となった。楽器と音響機器が売上の96%を占める楽器の最大手で、北米の売上が日本を上回る。
1887年〜日本楽器製造の設立と1927年の経営再建
- 山葉寅楠氏がオルガン製作に成功[1]
- 前身の山葉風琴製造所を設立[4]
- 山葉寅楠氏の日本楽器製造設立[1]
- ピアノ製造を開始
- 浜名郡長の天野千代丸氏を副社長に迎える[2]
- 山葉寅楠氏が64歳で死去[2]
- 西川楽器製造を合併[5]
- 第一回社債100万円を発行[2]
- 関東大震災で東京支店が全焼[2]
- ベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲル氏を招く[2]
- 浜松合同労働組合加盟の従業員代表が11条の嘆願書を提出[2]
- 協調会理事添田敬一郎氏の調停案で妥結[2]
- スト終息により経営再建
- 川上嘉市氏が第三代社長に就任[6]
筆者所見
創業者の死後、日本楽器製造は社外から迎えた二人の経営者のもとで、拡大と縮小の両極を経験した。1917年に社長へ就任した天野千代丸は、ただちに資本を倍額へ増資した[2]。1927年4月に後任となった川上嘉市は、積立金と繰越金を取り崩して一挙に無配とした[3][2]。浜名郡長から転じた天野氏が資本を集めて規模を追ったのに対し、住友から来た川上氏は規模を縮小して資本を守った。同じ外部招聘でありながら資本の使い方は正反対で、後任が前任の拡大を清算する役を負った。
- [2]串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [3]川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
1931年〜プロペラ量産による軍需転換と減資
- パイプオルガンを完成させ聖テモテ教会に納入[2]
- アコーディオンの製造販売を開始[7]
- 川上源一氏が入社[6]
- プロペラの量産を決定
- プロペラ増産のため資本金を875万円に増資[2]
- プロペラ関係工場が陸軍の管理下に[2]
- 資本金1,750万円に増資[2]
- 東京製作所が陸軍の管理工場に[2]
- 岩手県黒沢尻町に岩手工場を開設[2]
- 名古屋支店・大阪支店が焼失[2]
- 一部地下式の佐久良工場が完成しプロペラ部門が疎開[2]
- ハーモニカと木琴の製造を開始[2]
- 本社工場と各工場が賠償予定工場に指定[2]
- オルガンとアコーディオンの製造を再開[2]
- 本社労働組合が結成[2]
- 過度経済力集中排除法の適用を受け岩手工場を閉鎖[2]
- スピネット型ピアノの試作が完成[2]
- 株式処分計画と企業再建計画が承認・認可[2]
- 東京証券取引所に株式上場[1]
筆者所見
川上源一氏が戦後に持ち込む量産の発想は、楽器の工場ではなく肥料の倉庫で習得したものだった。大日本人造肥料の王子工場で、陸揚げからびん詰めまでの作業をストップウォッチで測定し、作業員賃金の計算式を作成している[3]。1937年7月に入社したとき、日本楽器製造は軍需品の生産へ移行する直前にあった[3][7]。作業を数値で管理する手法は、楽器の需要が回復するまで出番を待つ。社外で得た管理の技術が、軍需の時代を越えて戦後の量産体制の土台になった。
- [3]川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [7]経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
1950年〜川上源一体制での音楽教室とヤマハ発動機設立
- 川上源一氏が社長就任
- 木材乾燥技術への投資
- ヤマハ音楽教室を組織化[8]
- ヤマハ音楽教室の開設
- ヤマハ発動機を設立[1]
- 販売子会社を設立[1]
- エレクトーン・スポーツ用品に参入
- ロサンゼルスに子会社を新設
- リゾート事業を開始[1]
- レジャー事業への参入
- ピアノ国内シェア1位
- リビング用品(FRP製バスタブ)の製造を開始[1]
- 西独にYamaha Europa GmbHを設立[10]
- レクリエーション事業に新規参入
- 日本初の株式時価発行を実施[1]
- ボーカルアンプシステム(PA機器)を発売[1]
- 半導体製造に本格参入
- オーディオ機器に新規参入
- 河島博氏が社長退任(実質解任)[11]
- ヤマハピアノテクニカルアカデミーを設立[1]
- ゴルフクラブを発売[1]
- 事業部制を導入[9]
- マッキンゼー助言の事業部制導入
- 社名を「ヤマハ」に変更[1]
- 天津雅馬哈電子楽器有限公司を設立[1]
筆者所見
川上源一氏の多角化は、楽器の周辺へ広げた結果というより、家計の支出を奪い合う相手を自動車と家電に定めた見方から出ている。1954年にヤマハ音楽教室を組織化し、1962年にリゾート事業を開始した[8][1]。前者は演奏人口を先に育て、後者は余暇の支出を獲得する打ち手で、狙う財布は同じだった。家計全体を対象とする視野が、発動機から浴槽まで事業を増やす論理にもなった。1983年の事業部制導入は、その広がりを社長一人で統括する限界の裏返しである[9]。
- [8]日本経済新聞「私の履歴書・川上源一」(1978年4月20日)
- [1]ヤマハ 公式サイト「沿革」(2026年10月)
- [9]日経ビジネス「ヤマハ 事業部制が不協和音――楽器に安住、多角化不発」(日経BP社)(1991年12月23日)
1990年〜川上家の退任と楽器・音響への集中
- 多角化路線の見直し
- 薄膜磁気ヘッドの生産開始
- 川上家が退任意向
- 希望退職者を募集
- 川上家支配の終わり
- リモートルータを発売[1]
- 天竜半導体工場を新設
- ヤマハ発動機の株式売却を開始
- 最終赤字407億円に転落
- 中国に投資管理会社 雅馬哈楽器音響(中国)投資有限公司を設立[4]
- Steinberg Media Technologiesを買収[1]
- 多角事業の整理
- レクリェーション事業の撤退
- ベーゼンドルファーを買収[10]
- リビング事業の譲渡
- 希望退職者の募集
- 事業部制を廃止
- Line 6を買収[1]
- 半導体のファブレス化
- 中期経営計画「NEXT STAGE 12」を発表[12]
- 時価総額1兆円を突破
- Cordoba Music Groupを買収[10]
- Cordoba買収で米ギター集約
- 国内製造子会社の吸収合併
- ヤマハ発動機株式の一部を売却[13]
- ヤマハ発動機株1,800万株を売却
- ヤマハ発動機株式の一部を売却[13]
筆者所見
1990年代以降のヤマハの集中は、事業を減らす以上に、他社のブランドを買収して自前主義を離れる過程だった。2008年にベーゼンドルファーを、2014年にLine 6を買収した[10][1]。自社の工場では短期に届かない領域を、時間ごと取得した構図になる。需要を内側から育てた音楽教室とは逆向きの成長であり、2023年のCordoba買収も同じ線上にある。ヤマハ発動機株式の売却は、1955年の分離以来の資本のつながりを集中の論理で整理する手続きに当たる。
- [10]有価証券報告書
- [1]ヤマハ 公式サイト「沿革」(2026年10月)