大日本印刷 の歴史

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創業 1876年
創業者 佐久間貞一
創業地 東京
創業 1876年10月、佐久間貞一氏・大内青巒氏・宏仏海氏らが東京府下京橋区西紺屋町に
1876年10月、佐久間貞一氏・大内青巒氏・宏仏海氏らが東京府下京橋区西紺屋町に秀英舎を創業した。保田久成氏が出した資金1,000円で高橋活版所の設備を譲り受け、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて操業を開始した。社名は勝海舟が、当時の先進国だった英国より秀でよという意で名付けたと伝わる。1886年11月に牛込区市谷加賀町に第一工場を新設し、1894年1月に株式会社へ改組して佐久間氏が初代社長に就任、活字書体の秀英体を自前で設計する技術志向を早くから持った。1935年2月には日清印刷と対等合併して、商号を大日本印刷へ改める。1949年5月に東京証券取引所へ上場した。
決断 印刷の微細な転写技術を、紙から金属・ガラス・フィルムへ当て直してきた。1957年
印刷の微細な転写技術を、紙から金属・ガラス・フィルムへ当て直してきた。1957年に通産省主導のカラーテレビ国産化へ加わり、写真凸版の原理をエッチングへ応用して1958年にシャドーマスクを国内で初めて量産した。厚さ0.1ミリの鋼板に数十万個の穴を均質に開ける工程は、版を作る技術そのものだった。1959年には半導体用フォトマスクでガラスへ当て先を移し、1966年7月の中央研究所が応用研究を体系化する。以降も液晶カラーフィルタ、2021年3月に鶴瀬工場へ設けたリチウムイオン電池部材、2024年5月稼働の有機EL用メタルマスクへ、同じ工程を当てる基材を替えている。台湾・韓国勢の台頭で液晶カラーフィルタの採算は崩れたが、精度を出す工程は次の基材へ移せる。紙媒体が縮んでも事業が続いたのは、この移し替えを繰り返したからである。
現況 純利益が営業利益を上回る決算が、3年続いている。2026年3月期の連結売上高は1
純利益が営業利益を上回る決算が、3年続いている。2026年3月期の連結売上高は1兆5,126億円で、営業利益1,010億円に対し、特別利益580億円を含む純利益は1,040億円だった。前2期も営業利益754億円に対し純利益1,109億円、営業利益936億円に対し純利益1,107億円で、差を埋めたのは政策保有株式の売却益である。セグメントはスマートコミュニケーション7,487億円・利益400億円、ライフ&ヘルスケア5,121億円・利益373億円、エレクトロニクス2,518億円・利益507億円で、売上の17%にすぎないエレクトロニクスが利益の4割を占める。2023年2月に公表した経営の基本方針に沿う自己株式取得は2026年3月時点で累計約2,200億円に達した。
競合 TOPPANが組織を組み替えた場面で、大日本印刷は資本を組み替えた。TOPPAN
TOPPANが組織を組み替えた場面で、大日本印刷は資本を組み替えた。TOPPANは2023年10月に持株会社へ移行して社名から"印刷"を外し、2025年10月にはフォトマスク事業をテクセンドフォトマスクとして上場させ、持分を46.57%へ下げた。大日本印刷は商号も事業会社の形も変えず、5年累計3,000億円の自己株式取得と政策保有株式の売却で応じた。2026年3月期の連結売上高はTOPPANの1兆8,050億円に対し1兆5,126億円だが、エレクトロニクスは2,518億円・利益507億円で、TOPPANの1,859億円・337億円を規模でも利益率でも上回る。社名から"印刷"を外したのはTOPPANだが、半導体部材の規模で先に出たのは社名を残した大日本印刷であり、商号の変更が競争優位を生んだわけではない。
長期業績の推移 1949〜2026年
大日本印刷:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1876年〜 秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期

筆者考察y.sugiura, author

秀英舎がこの100年で手に入れたのは、印刷の技術そのものよりも、注文の出どころを自分で選べる立場だった。創業から半世紀のあいだ、この会社は西国立志編を刷り、官公庁の法令集を刷り、注文の量も中身も出版社と役所が決めていた。1923年の関東大震災で同業が操業を止めるなか市谷の新工場が持ちこたえ、注文が殺到したのも、鉄筋コンクリートに建て替えていたという偶然に助けられている。1935年に日清印刷と対等合併して日本最大の印刷会社になっても、注文が出版社から来るという構造は動かなかった。

それを動かしたのが北島織衛で、1951年の再建五カ年計画と米国視察を足場に紙器・包装へ出たとき、はじめて注文の出どころが出版社の外へ広がった。1958年に国内で初めて量産したシャドーマスクも、印刷の微細パターン転写を紙以外へ当てただけで、技術としては断絶していない。変わったのは客のほうで、相手が出版社から電機メーカーへ移った。1963年に6割を出資した北海道飲料は、紙コップの買い手を自分でつくる動きだった。1966年の中央研究所と1975年の生産総合研究所は、この客の選び替えを偶然に頼らず続けるための装置である。

売上高(単体) 1953年5月期〜1975年5月期(億円)

26.96 53.5 69.61 58.5 274.32 63.5 442.16 66.5 935.1 70.5 2,397.33 75.5
  • 棒はすべて単体。上下期の合算。
  • 出所は1958年5月期までが上場会社総覧(1956年版・1959年版)、1963年5月期以降が会社年鑑(1967年版・1971年版・1976年版)。

1876年〜秀英舎の創業と活版印刷業の草分け

1876年10月、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海らが発起人となり、東京府下京橋区西紺屋町(現在の銀座西四丁目付近)に秀英舎を創業した。佐久間の縁戚にあたる保田久成が資金1,000円を拠出し、売りに出ていた高橋活版所の設備を買い取って、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて出発した。社名は旧幕臣の佐久間が依頼した勝海舟が、当時の先進国だった英国よりも秀でる覚悟で事業に努めよという意で名付けたと伝わる。佐久間は布教を司る大教院や仏教新聞"明教新誌"に関わるなかで、木版印刷に代わる活版印刷の到来を西洋人宣教師から聞き、自ら活版所の開業に踏み切った。官公庁の文書・法令集や出版物の印刷を担い、明治初期の近代活字印刷業の草分けとして早くから地歩を築いた。

  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる

創業まもなく中村正直訳"西国立志編"など明治初期の名著の印刷を引き受けて企業基盤を固め、1886年11月には牛込区市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)の敷地を取得して第一工場(市谷工場)を開設した。当初は活版部から始まり、鋳造課・電気版課・石版部へと設備を広げ、町工場の域を出なかった同社は有数の活版印刷会社へと成長した。1888年4月には有限責任会社組織に、1894年1月には商法施行に合わせて株式会社組織へ改組し、初代社長には佐久間貞一氏が就任して近代的な組織形態を早期に整えた。活字書体(秀英体)を自前で開発する技術志向は、後年のエレクトロニクス事業へつながる技術型企業の素地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 有価証券報告書
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任

市谷の第一工場は鉄筋コンクリート造の近代印刷工場へ建て替えられ、1923年9月の関東大震災で東京の印刷業界が壊滅的な打撃を受けるなか、秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまった。同業が操業を止めた間も印刷の注文が同社に殺到し、これが飛躍の契機となった。同年10月には本社を市谷の新工場へ移し、以後1世紀を超えて市谷が本社であり続けた。震災を境に新聞・雑誌など定期刊行物の受注が集中し、大正末から昭和初期にかけて凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整え、後の合併と多角化を支える生産基盤を構築した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた
  • 有価証券報告書
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
参考文献[1]-[12]
  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた

1907年〜日清印刷との合併による「大日本印刷」の誕生

合併相手の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に工場を構えてから、1927年に田端の市田オフセット印刷所、1928年に入新井の辻本写真工芸社を買収し、1932年には大崎に分工場を新設してグラビア印刷を手がける総合印刷所へ成長していた。1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併の契約に調印し、1935年2月に両社は合併、商号を大日本印刷株式会社へ改めた。資本金600万円で発足した新会社の初代社長には増田義一が就任し、専務には青木・平野が並んだ。当時の日本印刷業界における最大規模の再編で、新会社は当時日本最大の印刷会社となり、以後の"DNP"というブランドの起点となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点

日中戦争開始後の用紙統制と工場空襲をくぐり抜け、戦後は1946年9月に榎町工場を操業再開し、10月には京都工場を開設した。同年には大蔵省の管理工場に指定されて紙幣・証券類の印刷を担い、これが後の証券・カード分野の素地となった。1949年5月には東京証券取引所に上場して戦後復興期の資本調達基盤を整え、1951年11月の大崎工場、1956年9月の日本精版合併による大阪工場発足で東京・大阪の2大拠点体制を固めた。書体という"ソフト"と全国の工場群という"ハード"を併せ持つ体制は、復興期から高度成長期にかけて急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要に応える供給力となり、以後の多角化投資を支える収益基盤を形づくった。

  • 有価証券報告書
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)
参考文献[13]-[21]
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)

1955年〜北島織衛の再建と拡印刷・多角化の源流

戦後の混乱期、大日本印刷は労働争議で経営が揺らいだが、1955年に社長へ就任した北島織衛が再建を主導した。北島は当時専務だった青木弘の三男で、日本興業銀行への入行を志して果たせず大日本印刷へ入社し、営業の現場から頭角を現した経営者だった。社長就任に先立つ1951年6月には、専務として再建五カ年計画を全社へ発表し、全従業員の投票で全面的な支持を得て立て直しの足場を確立した。一つの主力事業だけに頼る危うさを避けて複数の収益源を立てる方針を掲げ、1951年に開設した大崎工場を足がかりに、米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出した。社内には出版偏重を崩すことへの反対もあったが押し切り、これが後の包装事業の中核へ育った。印刷の対象や素材、前後の工程まで広げる"拡印刷"と、受注産業でありながら自ら企画を売り込む発想とを軸に、北島は24年にわたって積極経営を率いた

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た

多角化の収益源の一つが、印刷の微細パターン転写技術を紙以外へ応用するエレクトロニクス部材だった。1957年、通産省主導で始まったカラーテレビ国産化の試作にシャドーマスクの担い手として加わり、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として期待を集めた。エッチング技術でブラウン管用シャドーマスクを試作し、1958年には国内メーカーで初めて量産・販売を開始し、埼玉県上福岡市に無塵工場を構えた。1959年にはICの製造に欠かせないフォトマスク、1967年にはクロムマスクの生産へと広げ、半導体・ディスプレイ部材の供給者としての地位を確立した。1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究を体系的に担う拠点で、後のエレクトロニクス事業の発祥地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)

多角化はエレクトロニクスにとどまらなかった。北島は紙コップなど自社製品の需要拡大も見込み、1963年に大日本印刷が6割を出資して北海道飲料を設立、コカ・コーラの北海道ボトリングへ参入した。寒冷地での清涼飲料は売れないとの見方を覆して事業は伸び、後の清涼飲料セグメント(現在の北海道コカ・コーラボトリング)の源流となった。1972年1月の赤羽工場・蕨工場の新設と二葉印刷の合併など、高度成長期の生産拡張を重ね、1975年7月には製造技術そのものを体系的に研究する生産総合研究所を設立した。中央研究所と生産総合研究所の2本柱が、印刷会社の枠を越えてエレクトロニクス・包装・機能性材料へ広がる多角化の技術基盤となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 有価証券報告書
    • [32]1972年1月 赤羽工場・蕨工場を新設し二葉印刷を合併
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立
参考文献[22]-[33]
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)
    • [32]1972年1月 赤羽工場・蕨工場を新設し二葉印刷を合併
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立

1976年〜 営業主導から技術主導への転換北島義俊による造注の掲示と研究開発への資源移転

筆者考察y.sugiura, author

北島義俊が父から受け継いだのは、拡印刷という言葉と、それを支える営業力だった。1979年5月期の大日本印刷は売上高3,739億円・自己資本比率52.5%の実質無借金で、設備投資を年160億円に抑えたまま増収増益が続く会社である。ただし紙以外へ広げても、印刷物の中身を決めるのは依然として得意先で、広告宣伝費が削られれば注文は消え、機械は遊ぶ。義俊が営業の大日本を技術の大日本へ言い換えたのは、注文の出どころに続いて、注文の中身を決める側へ回ろうとしたからだった。

研究員を200人から1,100人へ、研究開発費を32億円から160億円へ積んだのは、その宣言に見合う数を揃える作業である。数が形になったのが1991年末の液晶特許の請求で、発注元の電機メーカーへ印刷会社が権利を主張するという逆転が起きた。だがその翌年の時点でも、自主開発の技術はまだ少なかった。研究のきっかけは顧客の要望であり、テーマの出どころは受注時代のままだった。掲げた1兆5,000億円が1996年3月期の1兆2,453億円で止まったのは、体制の量を揃えるのに10年、それを売上へ移すのにさらに歳月が要ったからだろう。

研究開発部門の社員数 1982年4月〜1992年3月(人)

200 82.4 410 86 600 89 1,100 92.3
  • 1991年度からソフト開発の人員を含む。
  • 出所は日経ビジネス 1992年6月29日号「大日本印刷 脱・受注産業へ集中投資」。

1976年〜拡印刷の到達点と受注産業という体質への手当て

1876年の創業から100年を数えた時点で、大日本印刷の事業は印刷の素材を紙に限定しない広がりを持っていた。1979年の売上構成は書籍・定期刊行物が20%、商業印刷物が約40%、紙器・特殊印刷物が約40%で、創業以来の出版印刷は全体の5分の1まで比重を下げていた。住宅や家具の表面材となる木目調の建材、冷蔵庫の扉に用いる金属印刷、超高層ビルの間仕切りに採用された鉄板への直接印刷が加わり、当時はまだ製品として出ていなかった曲面印刷も技術としてはほぼ確立していた。印刷業はもともと出版社の底辺にある仕事で、社長の北島織衛氏にとって、この広がりの動機は出版依存の危うさにあった『出版だけに頼っている印刷業というものが、運命を他人に預けちゃったようなもので、だから"何か自分自身で生きていく方法を考えなくちゃいかぬな"と』

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [34]1876年の創立から100年を経た時点で、印刷素材を紙に限定しない総合印刷会社となっていた
    • [36]木目調の建材表面材、冷蔵庫扉の金属印刷、超高層ビル間仕切りの鉄板直接印刷を手がけ、曲面印刷の技術もほぼ確立していた
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [35]1979年の売上構成は書籍・定期刊行物20%、商業印刷物約40%、特殊印刷約40%
    • [37]北島織衛は印刷業を出版社の底辺にあった仕事と述べ、出版依存からの脱却を多角化の動機とした

受注産業という業態そのものが、この会社の弱点だった。取締役の高橋平氏は、得意先が経費節減で広告宣伝費を削れば印刷物の注文が消えて機械が遊び、出版社が本の発売を中止しても設備を用意した印刷会社は文句を言えないと、印刷業の体質を説明した。大日本印刷はこれに企画部門を置いて応じ、得意先へ情報を売り込むと同時に相手の問題点を分析し、そこへ企画をぶつける営業へ組み替えた。注文を待たずに注文をつくるという意味で、この姿勢は造注と呼ばれた。実体は本社の隣に構えたクリエーティブデザインセンターで、東洋一と称した写真スタジオは年間を通じて足りないほど稼働し、1978年夏には大阪にも関西最大のスタジオを設けた

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [38]受注産業である印刷業は、得意先の都合で注文が消え設備が遊ぶ体質を持つ
    • [39]高橋平は、広告宣伝費の削減や本の発売中止で印刷物がなくなり機械が遊ぶと印刷業の弱さを説明した
    • [40]受注産業からの脱皮のため企画部門を設け、得意先へ情報を売り込み問題点を分析して企画を提案した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [41]自ら企画を売り込む姿勢を造注と名づけた
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [42]本社隣のクリエーティブデザインセンターは東洋一の写真スタジオを持ち通年でフル稼働、1978年夏に大阪へ関西最大のスタジオを設けた

拡印刷と造注を支えたのは、借入に頼らない財務だった。1979年5月期の売上高は3,739億円、経常利益は308億7,100万円、純利益は152億1,700万円で、自己資本比率は52.5%、会社は実質無借金の状態にあった。借入の返済を申し出ると銀行に断られるほどで、金利を稼ぐより先に返すという織衛氏の方針は崩れなかった。設備投資も年160億円程度にとどめ、この2、3年は合理化と省力化が中心だと副社長の北島義俊氏は説明している。例外は埼玉県の鶴瀬工場に建てた大グラビア工場で、日本では刷れなかった幅の広い紙に対応するイタリア製の機械を入れ、関連する設備投資は70億円に達した

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [43]1979年5月期時点で実質無借金の財務だった
    • [47]埼玉県鶴瀬工場に大グラビア工場を建設、イタリア製の広幅機を導入し関連投資は70億円
  • 会社年鑑
    • [44]1979年5月期 売上高3,739億円・経常利益308億7,100万円・純利益152億1,700万円・自己資本比率52.5%
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [45]北島織衛は借入返済を優先し、金利稼ぎより返済という方針を取った
    • [46]1979年前後の設備投資は年160億円程度で、合理化・省力化が中心だった
参考文献[34]-[47]
  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [34]1876年の創立から100年を経た時点で、印刷素材を紙に限定しない総合印刷会社となっていた
    • [36]木目調の建材表面材、冷蔵庫扉の金属印刷、超高層ビル間仕切りの鉄板直接印刷を手がけ、曲面印刷の技術もほぼ確立していた
    • [38]受注産業である印刷業は、得意先の都合で注文が消え設備が遊ぶ体質を持つ
    • [39]高橋平は、広告宣伝費の削減や本の発売中止で印刷物がなくなり機械が遊ぶと印刷業の弱さを説明した
    • [40]受注産業からの脱皮のため企画部門を設け、得意先へ情報を売り込み問題点を分析して企画を提案した
    • [43]1979年5月期時点で実質無借金の財務だった
    • [47]埼玉県鶴瀬工場に大グラビア工場を建設、イタリア製の広幅機を導入し関連投資は70億円
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [35]1979年の売上構成は書籍・定期刊行物20%、商業印刷物約40%、特殊印刷約40%
    • [37]北島織衛は印刷業を出版社の底辺にあった仕事と述べ、出版依存からの脱却を多角化の動機とした
    • [42]本社隣のクリエーティブデザインセンターは東洋一の写真スタジオを持ち通年でフル稼働、1978年夏に大阪へ関西最大のスタジオを設けた
    • [45]北島織衛は借入返済を優先し、金利稼ぎより返済という方針を取った
    • [46]1979年前後の設備投資は年160億円程度で、合理化・省力化が中心だった
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [41]自ら企画を売り込む姿勢を造注と名づけた
  • 会社年鑑
    • [44]1979年5月期 売上高3,739億円・経常利益308億7,100万円・純利益152億1,700万円・自己資本比率52.5%

1979年〜北島織衛の死去と技術主導への組み替え

1979年12月、24年にわたって社長を務めた北島織衛氏が会長へ退き、副社長の北島義俊氏が社長に就任した。義俊氏は1958年に慶応義塾大学経済学部を卒業して富士銀行に入り、支店勤務と本店経理部を経た5年後の1963年に大日本印刷へ移った。父と同じ会社に入れば何かと比較されて良いことはないと考えて一度は外へ出た人物で、就任にあたって世襲かと問われると、自分が適任とみられたから選ばれたのだと答えた。就任から4か月後の1980年4月27日、織衛氏は心不全のため新宿区中落合の自宅で74歳で死去した。戦後の労働争議を収拾し、紙器から特殊印刷・建材・精密電子部品へ多角化を進めた織衛氏を、業界は中興の祖と呼んだ

  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [48]1979年12月 北島織衛が会長へ退き、副社長の北島義俊が社長に就任(織衛の社長在任は24年)
    • [49]北島義俊は1958年慶応義塾大学経済学部卒業後に富士銀行へ入行し、1963年5月に大日本印刷へ入社した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [50]父と同じ会社では比較されると考えて富士銀行を選び、社長就任時には自分が適任だから選ばれたと述べた
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」
    • [51]1980年4月27日 北島織衛が心不全のため新宿区中落合の自宅で死去、74歳
    • [52]労働争議の収拾と紙器・特殊印刷・建材・精密電子部品への多角化を進め、中興の祖と呼ばれた

義俊氏が就任にあたって掲げたのは、営業中心からの脱皮だった。これまでは外から技術を取り入れてきたが、これからは自分自身の技術を確立しなければならないとして、半導体のマスクのようなミクロ部門、建材、繊維を印刷技術の応用先に挙げた。営業・技術・企画の三本柱を総合的に育て、営業の大日本と呼ばれてきた会社を技術の大日本と呼ばれるようにしたいというのが、その言い方だった。義俊氏は父の残した営業力を動かさないまま、そこへ技術力と企画力を重ね、営業・技術・企画の三位一体を掲げて拡印刷と造注の二つの理念を引き継いだ先代の路線を否定せずに資源の重心だけを移した点に、この継承の慎重さが表れている。

  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [53]北島義俊は社長就任時に営業中心からの脱皮を掲げた
    • [54]外部技術の導入から自前の技術確立へ転じるとし、半導体マスクなどミクロ部門・建材・繊維を応用先に挙げた
    • [55]営業・技術・企画の三本柱を育て「技術の大日本」と呼ばれるようにしたいと述べた
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [56]父の残した営業力に技術力・企画力を加えた三位一体の体制を築き、拡印刷・造注の2大理念を掲げた

宣言は研究組織の形で実行された。1975年、それまで社内唯一の研究所だった中央研究所から生産総合研究所を分離し、1979年には事業部の下で商品開発と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設して、中央研究所はより基本的なテーマへ集中した。1985年7月には中央研究所の柏研究施設が完成し、研究所はその後も増えて、1992年には本社直轄の3つと事業部が管轄する6つを合わせて9つに達した。研究開発部門の社員は1982年4月の200人から4年後に410人、7年後に600人、1992年3月末には1,100人へと10年で5.5倍に膨らんだ。研究開発費も1983年5月期の32億円から1992年3月期の160億円へ伸び、売上高に対する比率は0.56%から約1.5%になった

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [57]1975年に中央研究所から生産総合研究所を分離し研究体制の整備を始めた
    • [58]1979年に事業部と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設、中央研究所は基本的テーマへ集中した
    • [60]研究開発部門の社員は1982年4月200人、4年後410人、7年後600人、1992年3月末1,100人
    • [61]研究開発費は1983年5月期32億円(売上高比0.56%)から1992年3月期160億円(同約1.5%)へ
  • 有価証券報告書
    • [59]1985年7月 中央研究所柏研究施設を完成
参考文献[48]-[61]
  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [48]1979年12月 北島織衛が会長へ退き、副社長の北島義俊が社長に就任(織衛の社長在任は24年)
    • [49]北島義俊は1958年慶応義塾大学経済学部卒業後に富士銀行へ入行し、1963年5月に大日本印刷へ入社した
    • [53]北島義俊は社長就任時に営業中心からの脱皮を掲げた
    • [54]外部技術の導入から自前の技術確立へ転じるとし、半導体マスクなどミクロ部門・建材・繊維を応用先に挙げた
    • [55]営業・技術・企画の三本柱を育て「技術の大日本」と呼ばれるようにしたいと述べた
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [50]父と同じ会社では比較されると考えて富士銀行を選び、社長就任時には自分が適任だから選ばれたと述べた
    • [56]父の残した営業力に技術力・企画力を加えた三位一体の体制を築き、拡印刷・造注の2大理念を掲げた
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」
    • [51]1980年4月27日 北島織衛が心不全のため新宿区中落合の自宅で死去、74歳
    • [52]労働争議の収拾と紙器・特殊印刷・建材・精密電子部品への多角化を進め、中興の祖と呼ばれた
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [57]1975年に中央研究所から生産総合研究所を分離し研究体制の整備を始めた
    • [58]1979年に事業部と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設、中央研究所は基本的テーマへ集中した
    • [60]研究開発部門の社員は1982年4月200人、4年後410人、7年後600人、1992年3月末1,100人
    • [61]研究開発費は1983年5月期32億円(売上高比0.56%)から1992年3月期160億円(同約1.5%)へ
  • 有価証券報告書
    • [59]1985年7月 中央研究所柏研究施設を完成

1991年〜1兆円到達と液晶特許の請求が示した自主技術の不足

1991年3月期、大日本印刷の売上高は1兆円を超えた。義俊氏が社長に就任した1979年の4,200億円から12年で2.4倍であり、1949年の東京証券取引所再開時に上場して以来の連続増収増益の記録も更新中で、東証1部でこれだけ長い記録を持つのは同社だけだった。設備投資はこの3年間、毎年600億円から800億円に達し、商業印刷・特殊印刷部門の拡大とフォトマスクに代表される精密電子事業の強化に加え、電子出版や映像ビジネスといった新規事業へも配られた。大日本印刷は広い意味での情報加工産業のリーダーを目標に置き、5年後に売上高1兆5,000億円という数字を掲げた

  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [62]1991年3月期に売上高が1兆円を突破した
    • [63]1979年の売上高4,200億円から12年で倍増し、1949年の上場以来の連続増収増益を更新中で東証1部で最長だった
    • [64]設備投資は3年間毎年600億〜800億円、商業印刷・特殊印刷の拡大とフォトマスク等の精密電子事業強化、電子出版・映像ビジネスへ配分した
    • [65]情報加工産業のリーダーを目指し、5年後に売上高1兆5,000億円の経営目標を掲げた

1991年末、大日本印刷は日本電気など30社を超える電機・OA機器メーカーに対し、液晶ディスプレーの技術に関する特許使用料の請求へ踏み切った。受注産業である印刷会社が発注元の電機メーカーへ権利を主張する行いは、当時の取引慣行のなかでは珍しかった。背景には10年以上をかけた研究開発体制の整備があり、特許と実用新案の出願は1990年に1,900件、特許庁の指導で各社が出願を絞った1991年でも1,650件に達し、保有する特許・実用新案は2,500件にのぼった。特許を交換材料ではなく権利として保有し、研究開発費の回収にも役立てるという考えが、この請求の根拠に置かれた。さらに筑波研究学園都市には8万6,000平方メートルの用地を得て、1998年完了予定の5期工事で総合開発センターを建てる計画が進んだ

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [66]1991年末 日本電気など30社超の電機・OA機器メーカーへ液晶ディスプレー技術の特許使用料を請求した
    • [67]受注産業の印刷会社がユーザーの電機メーカーへ権利を主張するのは当時の取引慣行では珍しかった
    • [68]特許・実用新案の出願は1990年1,900件、1991年1,650件、保有は2,500件
    • [69]特許を権利として保有し研究開発費の回収に役立てるという方針が請求の根拠だった
    • [70]筑波研究学園都市に8万6,000平方メートルの用地を取得、5期工事で1998年完了予定の総合開発センターを計画した

拡大した体制が抱えた弱点は、研究テーマの出どころだった。受注産業だった経緯から研究開発のきっかけは顧客の要望であるものが多く、自主開発の技術がまだ少ないと専務の山司康雄氏は認めている。研究開発部門の平均年齢は約30歳と全社平均より3歳若く、入社10年目で研究室長に就任する社員もいて、専門的な相談相手が社内にいないという不満も出ていた。1992年からは要求の積み上げだった予算にふるいをかけ、テーマの取捨選択を始めた。1994年10月には大利根工場を新設して生産の受け皿を足したが、連結売上高は1993年3月期から2期続けて減り、1996年3月期の1兆2,453億円は掲げた1兆5,000億円に遠く、1999年3月期は1兆2,695億円で1992年3月期の水準を下回った研究開発への集中投資は体制の量をつくったが、それが売上の伸びへ移るまでには長い時間がかかった。

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [71]研究開発のテーマは顧客の要望に発するものが多く、自主開発技術の少なさが課題だった
    • [72]山司康雄専務は自主開発の技術がまだ少ないことを今後の課題として挙げた
    • [73]研究開発部門の平均年齢は約30歳で全社平均より3歳若く、マネジメントを担う中堅層が不足していた
    • [74]1992年から研究開発予算をふるいにかけ、テーマの取捨選択と投資効率の検討を始めた
  • 有価証券報告書
    • [75]1994年10月 大利根工場を新設
  • 会社年鑑
    • [76]連結売上高は1992年3月期1兆2,443億円、1993年3月期1兆1,921億円、1994年3月期1兆1,455億円、1996年3月期1兆2,453億円、1999年3月期1兆2,695億円
参考文献[62]-[76]
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [62]1991年3月期に売上高が1兆円を突破した
    • [63]1979年の売上高4,200億円から12年で倍増し、1949年の上場以来の連続増収増益を更新中で東証1部で最長だった
    • [64]設備投資は3年間毎年600億〜800億円、商業印刷・特殊印刷の拡大とフォトマスク等の精密電子事業強化、電子出版・映像ビジネスへ配分した
    • [65]情報加工産業のリーダーを目指し、5年後に売上高1兆5,000億円の経営目標を掲げた
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [66]1991年末 日本電気など30社超の電機・OA機器メーカーへ液晶ディスプレー技術の特許使用料を請求した
    • [67]受注産業の印刷会社がユーザーの電機メーカーへ権利を主張するのは当時の取引慣行では珍しかった
    • [68]特許・実用新案の出願は1990年1,900件、1991年1,650件、保有は2,500件
    • [69]特許を権利として保有し研究開発費の回収に役立てるという方針が請求の根拠だった
    • [70]筑波研究学園都市に8万6,000平方メートルの用地を取得、5期工事で1998年完了予定の総合開発センターを計画した
    • [71]研究開発のテーマは顧客の要望に発するものが多く、自主開発技術の少なさが課題だった
    • [72]山司康雄専務は自主開発の技術がまだ少ないことを今後の課題として挙げた
    • [73]研究開発部門の平均年齢は約30歳で全社平均より3歳若く、マネジメントを担う中堅層が不足していた
    • [74]1992年から研究開発予算をふるいにかけ、テーマの取捨選択と投資効率の検討を始めた
  • 有価証券報告書
    • [75]1994年10月 大利根工場を新設
  • 会社年鑑
    • [76]連結売上高は1992年3月期1兆2,443億円、1993年3月期1兆1,921億円、1994年3月期1兆1,455億円、1996年3月期1兆2,453億円、1999年3月期1兆2,695億円

第2章 1976-2005 (気が向いたら執筆します!) 営業主導から技術主導への転換

第3章 2006-2017 (気が向いたら執筆します!) 過去最高益から丸善・ジュンク堂の書店再編へ、初の純損失と地域子会社の統合

第4章 2018-2026 (気が向いたら執筆します!) 北島義斉の1000億円特損と経営基本方針、電池部材とレゾナック包装の取得

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歴史年表 1876〜2025年

大日本印刷の沿革1876〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1876〜1975年秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期東京府下京橋区に秀英舎として創業
第一工場(市谷工場)を開設
舎則を改め有限責任会社組織に変更
組織に変更
本社を現在地(市谷)に移転
同業との対等な立場での一体化と、新たな社名を掲げての再出発

1876年創業の秀英舎が1907年設立の日清印刷と対等合併し、1935年3月に資本金600万円の大日本印刷が発足した経営判断。当時日本最大の印刷会社が生まれ、現在まで続く"大日本印刷(DNP)"という社名がこのとき定まった。

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★★★
東京証券取引所に上場
大崎工場を新設
北島織衛日本精版を合併し大阪工場として発足★★
北島織衛フォトマスクへの展開を伴うエレクトロニクス分野への多角化

1958年、大日本印刷が印刷の製版技術を応用してカラーテレビ用シャドーマスクを国内で初めて量産し、フォトマスクや中央研究所へと広げて、紙以外のエレクトロニクス部材を新しい主力事業へ育てた経営判断。北島織衛氏が主導した。

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★★★
北島織衛中央研究所を完成
北島織衛赤羽工場を新設、二葉印刷を合併、蕨工場を新設
北島織衛生産総合研究所を設立
1976〜2005年営業主導から技術主導への転換北島義俊中央研究所柏研究施設を完成
北島義俊大利根工場を新設
2006〜2017年過去最高益から丸善・ジュンク堂の書店再編へ、初の純損失と地域子会社の統合北島義俊売上高1兆5,075億円、営業利益1,206億円
北島義俊コニカミノルタHDの証明写真事業等を買収★★
北島義俊丸善を子会社化★★
北島義俊ジュンク堂書店を子会社化
北島義俊初の純損失▲209億円を計上★★
北島義俊CHIグループを設立
北島義俊純損失▲164億円。特別損失366億円
北島義俊DNP北海道・東北・中部・西日本の地域子会社4社を分割・統合
2018〜2026年北島義斉の1000億円特損と経営基本方針、電池部材とレゾナック包装の取得北島義斉北島義斉氏が社長に就任
北島義斉純損失▲356億円。特別損失1,000億円★★
北島義斉純利益694億円まで回復
北島義斉リチウムイオン電池部材の工場を鶴瀬工場内に開設
北島義斉「経営の基本方針」への転換と5年3,000億円の自己株式取得

2023年、大日本印刷(DNP)は『DNPグループの経営の基本方針』を公表し、ROE10%を長期目標に、5年間で累計3,000億円の自己株式取得と政策保有株式の売却、成長事業への集中投資を同時に進める財務戦略へ転換した。同年3月末の大株主にはELLIOTT INTERNATIONAL LPが2.48%を保有する第5位として並び、外部株主の圧力とDNP自身の変革志向が重なった転換であった。

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★★★
北島義斉レゾナック・パッケージングを取得しDNP高機能マテリアル彦根として子会社化★★
出典・参考 11件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
  • 野田経済 1979年1月24日号
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
  • 野田経済 1980年4月16日号
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」

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