歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1876年10月、東京府下京橋区で佐久間貞一らが秀英舎を創業し、活版印刷で官公庁の文書や法令集、出版物を手がけた。創業まもなく活字書体「秀英体」を自前で開発し、書体という印刷の中身まで自社で設計する技術志向を初期から備えていた。1894年に株式会社へ改組し、1923年の関東大震災後に市谷へ本社を移して以後の恒久拠点とした。1935年2月には日清印刷を合併して大日本印刷へ商号を変更し、当時日本最大の印刷会社となった。
決断戦後に社長となった北島織衛は、一つの柱に頼らない多角化を進め、印刷の微細なパターン転写技術を紙以外へ持ち込んだ。1957年にカラーテレビ用シャドーマスクの国産化へ加わって翌年に国内初の量産を始め、1959年には半導体用フォトマスクへ広げた。1966年の中央研究所と1975年の生産総合研究所がこの応用研究を体系化し、文字や絵を刷る仕事から離れた製品群を次々に育てた。同じ転写の精度を金属やガラスの上で競うことで、凸版印刷と並ぶ2強の地位を固め、紙の印刷だけに頼らない収益源を抱える会社へと向かった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1876年創業の秀英舎は、1935年に日清印刷と対等合併して大日本印刷になったのか
- A 秀英舎は1876年、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海らが東京府下京橋区で創業した活版印刷会社で、活字書体(秀英体)まで自前で設計する技術型企業だった。だが新聞・雑誌・教科書の需要が膨らむと、書体という印刷の中身だけでは全国規模の大量印刷に応えきれない。そこで1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併に調印し、1935年2月に資本金600万円の大日本印刷が発足、初代社長に増田義一が就いた。秀英舎の書体技術と日清印刷の生産能力が一体となって当時日本最大の印刷会社となり、書体と工場群を併せ持つ体制が戦後の出版需要と多角化投資を支える基盤となった。
- Q なぜ印刷会社の大日本印刷が、紙以外の基材へ進みエレクトロニクス部材へ転じたのか
- A 戦後の労働争議で揺らいだ経営を1955年に継いだ北島織衛が、一つの柱に頼らない多角化を掲げたからである。北島は米国視察で着目した紙器・包装へ進み、印刷の核である微細なパターン転写技術を紙以外へも持ち込んだ。1957年には通産省主導のカラーテレビ国産化に、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社としてシャドーマスクで加わり、翌1958年に国内初の量産を実現、1959年には半導体用フォトマスクへ広げた。1966年の中央研究所と1975年の生産総合研究所がこの応用研究を体系化し、同じ転写の精度を金属やガラスの上で競うことで、凸版印刷と並ぶ2強の地位と紙に頼らない収益源を確立した。
- Q なぜ過去最大の赤字を出した大日本印刷が、2023年に大規模な株主還元へ転換したのか
- A 紙媒体の縮小と液晶カラーフィルタなどの採算悪化で、DNPは2009年・2012年・2019年と純損失を重ね、2019年3月期には特別損失1,000億円を伴う過去最大の純損失▲356億円を計上した。痛みを伴う構造改革で過去の負担を一度に処理したことが、利益回復の前提となった。2018年に社長へ就いた北島義斉はDX・SXを経営の柱に据え、政策保有株式の売却で資産を現金化した。そのうえで2023年2月に「DNPグループの経営の基本方針」を公表し、ROE10%を長期目標に、5年間累計3,000億円の自己株式取得と成長事業への集中投資を同時に進める、印刷会社として前例のない財務戦略へ踏み切った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1876年〜1975年 秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期
秀英舎の創業と活版印刷業の草分け
1876年10月、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海らが発起人となり、東京府下京橋区西紺屋町(現在の銀座西四丁目付近)に秀英舎を創業した[1]。佐久間の縁戚にあたる保田久成が資金1,000円を拠出し、売りに出ていた高橋活版所の設備を買い取って、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて出発した[2]。社名は旧幕臣の佐久間が依頼した勝海舟が、当時の先進国だった英国よりも秀でる覚悟で事業に努めよという意で名付けたと伝わる[3]。佐久間は布教を司る大教院や仏教新聞『明教新誌』に関わるなかで、木版印刷に代わる活版印刷の到来を西洋人宣教師から聞き、自ら活版所の開業に踏み切った。官公庁の文書・法令集や出版物の印刷を担い、明治初期の近代活字印刷業の草分けとして早くから地歩を築いた。
創業まもなく中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受けて企業基盤を固め[5]、1886年11月には牛込区市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)の敷地を取得して第一工場(市谷工場)を開設した[4]。当初は活版部から始まり、鋳造課・電気版課・石版部へと設備を広げ、町工場の域を出なかった同社は有数の活版印刷会社へと成長した。1888年4月には有限責任会社組織に[6]、1894年1月には商法施行に合わせて株式会社組織へ改組し[7]、初代社長には佐久間貞一氏が就いて近代的な組織形態を早期に整えた[8]。活字書体(秀英体)を自前で開発する技術志向は[9]、後年のエレクトロニクス事業へつながる技術型企業の素地となった。
市谷の第一工場は鉄筋コンクリート造の近代印刷工場へ建て替えられ、1923年9月の関東大震災で東京の印刷業界が壊滅的な打撃を受けるなか、秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまった。同業が操業を止めた間も印刷の注文が同社に殺到し、これが飛躍の契機となった[11]。同年10月には本社を市谷の新工場へ移し、以後150年にわたる市谷本社体制を固めた[10]。震災を境に新聞・雑誌など定期刊行物の受注が集中し、大正末から昭和初期にかけて凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整え[12]、後の合併と多角化を支える生産基盤を築いた。
日清印刷との合併による「大日本印刷」の誕生
合併相手の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に工場を構えてから、1927年に田端の市田オフセット印刷所、1928年に入新井の辻本写真工芸社を買収し、1932年には大崎に分工場を設けてグラビア印刷を手がける総合印刷所へ成長していた[13]。1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併の契約に調印し[14]、1935年2月に両社は合併、商号を大日本印刷株式会社へ改めた[15]。資本金600万円で発足した新会社の初代社長には増田義一が就き、専務には青木・平野が並んだ[16]。当時の日本印刷業界における最大規模の再編で、新会社は当時日本最大の印刷会社となり、以後の「DNP」というブランドの起点となった[17]。
日中戦争開始後の用紙統制と工場空襲をくぐり抜け、戦後は1946年9月に榎町工場を操業再開し、10月には京都工場を開設した[18]。同年には大蔵省の管理工場に指定されて紙幣・証券類の印刷を担い、これが後の証券・カード分野の素地となった[19]。1949年5月には東京証券取引所に上場して戦後復興期の資本調達基盤を整え[20]、1951年11月の大崎工場、1956年9月の日本精版合併による大阪工場発足で東京・大阪の2大拠点体制を固めた[21]。書体という「ソフト」と全国の工場群という「ハード」を併せ持つ体制は、復興期から高度成長期にかけて急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要に応える供給力となり、以後の多角化投資を支える収益基盤を形づくった。
北島織衛の再建と拡印刷・多角化の源流
戦後の混乱期、大日本印刷は労働争議で経営が揺らいだが、1955年に社長へ就いた北島織衛が再建を主導した。北島は当時専務だった青木弘の三男で、富士銀行を経て入社し、営業の現場から頭角を現した経営者だった[22]。社長就任に先立つ1951年6月には、専務として再建五カ年計画を全社へ発表し、全従業員の投票で全面的な支持を得て立て直しの足場を固めた[23]。一つの事業の柱だけに頼る危うさを避けて複数の柱を立てる方針を掲げ、1951年に開設した大崎工場を足がかりに、米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出した[24]。社内には出版偏重を崩すことへの反対もあったが押し切り、これが後の包装事業の柱へ育った。印刷の対象や素材、前後の工程まで広げる「拡印刷」と、受注産業でありながら自ら企画を売り込む発想とを軸に、北島は24年にわたって積極経営を率いた[25]。
多角化の柱の一つが、印刷の微細パターン転写技術を紙以外へ応用するエレクトロニクス部材だった。1957年、通産省主導で始まったカラーテレビ国産化の試作にシャドーマスクの担い手として加わり、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として期待を集めた[26]。エッチング技術でブラウン管用シャドーマスクを試作し、1958年には国内メーカーで初めて量産・販売を始め、埼玉県上福岡市に無塵工場を構えた[27]。1959年にはICの製造に欠かせないフォトマスク、1967年にはクロムマスクの生産へと広げ[28]、半導体・ディスプレイ部材の供給者としての地位を固めていった。1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究を体系的に担う拠点で、後のエレクトロニクス事業の発祥地となった[29]。
多角化はエレクトロニクスにとどまらなかった。北島は紙コップなど自社製品の需要拡大も見込み、1963年に大日本印刷が6割を出資して北海道飲料を設立、コカ・コーラの北海道ボトリングへ踏み込んだ[30]。寒冷地での清涼飲料は売れないとの見方を覆して事業は伸び、後の清涼飲料セグメント(現在の北海道コカ・コーラボトリング)の源流となった[31]。1972年1月の赤羽工場など高度成長期の生産拡張を重ね[32]、1975年7月には製造技術そのものを体系的に研究する生産総合研究所を設立した[33]。中央研究所と生産総合研究所の2本柱が、印刷会社の枠を越えてエレクトロニクス・包装・機能性材料へ広がる多角化の技術基盤となった。
1976年〜2019年 多角化と売上ピーク到達、そして長い調整局面の時期
エレクトロニクス・包装・出版への広がりと4セグメント体制
1979年、北島織衛の長男・北島義俊が社長を継ぎ(織衛は翌1980年に死去)、織衛の築いた営業力に技術力・企画力を束ねる体制を引き継いだ[34]。義俊は印刷の幅を広げる「拡印刷」と、自ら企画を造り込む「造」の2つを経営理念に掲げ[35]、印刷の対象を紙以外へも広げる方針を強めた。1957年に始まったシャドーマスク、1959年からのフォトマスクは量産技術を磨いて世界市場で高いシェアを占め、エレクトロニクス部材が紙媒体に次ぐ収益の柱へ育った。こうした拡大の結果、1991年3月期に売上高は1兆円を突破し、東京証券取引所再開時の上場以来の連続増収増益を更新する成長企業となった[36]。父から子への継承を経て、印刷の枠を押し広げる多角化が本格化する局面に入った。
1970年代から1990年代にかけて、DNPは全国各地に工場を新設し続けた。1983年9月の久喜工場[37]、1990年11月の小野工場[38]、1991年10月の岡山工場[39]、1994年10月の大利根工場[40]、1995年9月の田辺工場[41]など、包装材料・エレクトロニクス部材・機能性材料の生産拠点が次々と立ち上がった。特に液晶カラーフィルタやフォトマスクといった半導体・ディスプレイ向け材料は、印刷技術の高精度化によって競争力を持ちえた分野である。印刷会社の生産拠点が紙以外の基材へ広がった時期で、同社の事業ポートフォリオの多層化が目に見える形で進んだ。同時代の印刷業界は出版需要のピークを迎えつつあったが、DNPはそのピーク時期に既に「次の基材」への布石を打ち始めており、紙媒体依存から脱する投資を業界のなかでも先行して行った。
2001年5月には「DNPグループ21世紀ビジョン」を策定し[42]、デジタル時代への対応を意識した長期戦略を示した。事業構造は情報コミュニケーション、生活・産業、エレクトロニクス、清涼飲料の4セグメント体制となり[43]、紙媒体以外の事業が収益の柱となった。2006年3月期の売上高は1兆5,075億円、営業利益は1,206億円に達し、凸版印刷と並ぶ日本最大級の印刷グループとしてピーク期を迎えた。紙媒体縮小の逆風が顕在化する直前の時期に、多角化投資の成果が決算の数字に最もはっきりと表れた節目の決算だった。この時期に形成された4セグメント体制は、以降の長い調整局面で事業ごとの浮沈を分ける枠組みとして働き、紙媒体縮小の影響がエレクトロニクスや包装で相殺される構図を作った。
書店買収と出版流通への垂直統合の試み
2008年8月、DNPは丸善株式会社の株式を取得して連結子会社化した[44]。翌2009年3月には株式会社ジュンク堂書店も連結子会社化し[45]、2010年2月には丸善と図書館流通センターを経営統合して中間持株会社CHIグループ(現丸善CHIホールディングス)を設立した[46]。印刷会社が書店大手を傘下に収めるという、業界内でも異例の垂直統合戦略だった。印刷の川上から川下までを連続的に掌握しようとする発想で、出版業界全体の縮小傾向のなかで流通側に回ることによって付加価値を確保しようとする意図が読み取れる。ただし書店事業は固定費が重く、出版市場の縮小とともに採算が悪化する構造にあり、印刷会社が異業種の小売事業を抱え込むリスクも同時に内包していた。
ただし、この出版流通事業への踏み込みは、直後のリーマンショックと業績悪化のタイミングに重なった。2009年3月期、DNPは初の純損失▲209億円を計上した。特別損失763億円には構造改革と減損の費用が含まれ、エレクトロニクス事業の過剰投資と出版流通の赤字が同時に表面化した。2008年3月期にピークの1兆6,160億円を記録した売上高は、以降長らく1兆4,000億円台後半から1兆5,000億円台で横ばい推移する。以後の長い調整局面の始まりを告げる決算で、垂直統合の難しさが数字として現れた。出版市場が2008年をピークに縮小へ転じた時期でもあり、書店を抱えることで流通側の赤字を抱え込む構造が、印刷本業の稼ぐ力を毀損する要因として表面化した格好となった。
構造改革と2度目の減損を経た体質転換
2012年3月期、DNPは再び純損失▲164億円を計上した。特別損失366億円は主にエレクトロニクス事業の減損によるもので、液晶カラーフィルタ事業の縮小局面を示す数字となる。2014年7月には地域子会社4社(DNP北海道・東北・中部・西日本)を分割・統合し、製造部門をDNPグラフィカ・DNPデータテクノ等に機能別に再編する組織改編に踏み切った[47]。地域別から機能別への組織転換は、事業効率化と成長領域への資源集中を同時に狙ったもので、長い調整期を経ての体質改善の動きが本格化した。液晶カラーフィルタは1990年代に投資を積み上げた成長事業だったが、台湾・韓国勢の台頭で採算が崩れ、同社が先行投資した設備が一転して減損対象となる事態が起きていた。
2015年10月には「DNPグループビジョン2015」を策定し、新しい長期戦略を公表した[48]。それでも2019年3月期、DNPは純損失▲356億円という過去最大の赤字を計上した。特別損失1,000億円は構造改革に伴う減損で、ここで思い切った資産圧縮に踏み切ったことが、結果として後の成長軌道入りの前提となった。2018年6月には北島義俊の後任として北島義斉が社長に就任し[49]、DX・SXを経営の柱とする体制への転換が始まった。長い停滞期のなかで痛みを伴う構造改革を進める覚悟が決まった時期で、以後の大転換への土台がこの赤字決算を通じて形成された。先代から続く経営の連続性を保ちながら、赤字計上で過去の負担を一度に処理する判断は、翌期からの利益回復と株主還元強化の前提条件を作るうえで不可欠な一歩だった。
2020年〜2025年 経営基本方針とDNP財務戦略の転換期
リチウムイオン電池パウチへの集中投資とSX推進
2020年3月期、DNPは純利益694億円まで回復した。特別利益817億円には政策保有株式等の売却益が含まれ、保有資産売却による財務体質強化の開始点となった。同月には「DNPグループ環境ビジョン2050」を策定し[50]、SX(サステナビリティトランスフォーメーション)を経営の中心に据える方向性を明示した。社長の北島義斉は社会課題解決を目指して変革に挑むとの姿勢を打ち出し[51]、DX・SX両面での変革を経営の中心に据えることを社外に示した。長期の停滞を抜け出す前提として、財務の体質改善と経営戦略の再定義が並行した。過去最大の赤字からの転換点にあたる決算で、印刷会社の新しい成長戦略の土台が整った。政策保有株式の売却という手段は、積み上がった含み益を現金化して成長投資と株主還元に振り分ける動きで、印刷業界のなかでも早い段階での本格的なキャピタルアロケーション転換にあたる。
2021年3月、リチウムイオン電池部材の工場を鶴瀬工場内に開設した[52]。EV用バッテリーパウチの生産拡張で、以降DNPの成長投資の中核案件となった。EV化は2020年代前半に世界的な政策テーマで、バッテリーパウチは印刷の多層フィルム技術の延長線上にある製品として、DNPが強みを発揮できる成長分野だった。2022年3月期には純利益971億円を計上し、特別利益545億円には政策保有株式売却が含まれる。成長投資と資産売却が両面で回り始めた節目の時期で、以後の拡大局面の基礎がこの並行運転のなかで築かれた。包装印刷の技術を車載電池の外装材へ転用する発想は、紙の需要縮小に直面する印刷会社にとって、既存技術資産を新市場で再展開する典型的な成長経路に相当する。
経営基本方針と5年3,000億円の自己株式取得
2023年2月、DNPは「DNPグループの経営の基本方針」を公表した[53]。ROE10%を長期目標に掲げ、5年間累計3,000億円の自己株式取得と、政策保有株式の売却、成長事業への集中投資を同時進行する財務戦略を明示した[54]。印刷会社としては前例のない規模の株主還元・財務戦略の転換にあたる。経営陣は「DNPグループは新しい価値を開発して提供していくために、今までと違うような非連続とも言える変革を行っていく」(決算説明会 FY23)と位置づけた[55]。長期停滞を抜け出す決定打となる経営方針の大転換で、資本市場への明確なメッセージを伴う動きだった。この方針公表を境に株価水準が切り上がり、機関投資家との対話の軸が「紙媒体リスク」から「資本効率改善」へと移るきっかけにもなった。
2024年3月期、売上高1兆4,248億円、営業利益754億円、純利益1,109億円を計上した。16期ぶりに営業利益が700億円台を回復し、特別利益859億円と合わせて利益面でも成長軌道に乗った。同年5月には有機ELディスプレイ製造用メタルマスクの生産ラインを黒崎工場内で稼働開始した[56]。スマートフォン・ノートPCの有機EL化需要に対応する注力事業で、エレクトロニクス部門の成長を牽引する拠点となった。印刷技術の延長線上にある先端材料事業が、具体的な収益として決算に表れ始めた局面である。メタルマスクは有機EL画素を基板に蒸着する際の精密マスクで、微細パターン転写という印刷技術の核を先端ディスプレイ製造へ応用した製品として、同社の技術資産の長期活用を象徴する事業である。
営業利益936億円と構造改革・買収の並行運転
2025年3月期の売上高は1兆4,576億円、営業利益は936億円、純利益は1,107億円だった。特別利益1,304億円と特別損失777億円が同時に計上され、保有資産の売却と構造改革の両輪が最大速度で同時進行した。セグメント別ではスマートコミュニケーション7,140億円、ライフ&ヘルスケア4,959億円、エレクトロニクス2,478億円・利益574億円と、エレクトロニクス部門の利益率が突出した構造となった。紙媒体縮小の長期逆風のなかで、エレクトロニクス事業が会社全体の収益性を支える構造が表れた決算となった。売上構成比17%のエレクトロニクス部門が営業利益の6割を担う構図は、印刷会社という社名から想起される事業像と実態とのズレを数字の上で決定づけた。
2025年1月にはHKホールディング(光金属工業所)を連結子会社化し[57]、2月にはレゾナック・パッケージングを取得してDNP高機能マテリアル彦根として子会社化した[58]。4月には出版印刷事業とDNP書籍ファクトリー等を統合してDNP出版プロダクツを設立した[59]。構造改革と買収を組み合わせ、事業ポートフォリオの再構成を加速させた。現中期経営計画の自己株式取得は2026年3月時点で既に2,200億円(計画の約7割強)まで進捗し[60]、経営基本方針で掲げた財務戦略は前倒しで実行される形で、印刷会社の変貌が加速する局面となった。買収先がエレクトロニクス部材と包装という成長2分野に集中している点は、ポートフォリオ再構成の方向性を明示している。