秀英舎がこの100年で手に入れたのは、印刷の技術そのものよりも、注文の出どころを自分で選べる立場だった。創業から半世紀のあいだ、この会社は西国立志編を刷り、官公庁の法令集を刷り、注文の量も中身も出版社と役所が決めていた。1923年の関東大震災で同業が操業を止めるなか市谷の新工場が持ちこたえ、注文が殺到したのも、鉄筋コンクリートに建て替えていたという偶然に助けられている。1935年に日清印刷と対等合併して日本最大の印刷会社になっても、注文が出版社から来るという構造は動かなかった。
それを動かしたのが北島織衛で、1951年の再建五カ年計画と米国視察を足場に紙器・包装へ出たとき、はじめて注文の出どころが出版社の外へ広がった。1958年に国内で初めて量産したシャドーマスクも、印刷の微細パターン転写を紙以外へ当てただけで、技術としては断絶していない。変わったのは客のほうで、相手が出版社から電機メーカーへ移った。1963年に6割を出資した北海道飲料は、紙コップの買い手を自分でつくる動きだった。1966年の中央研究所と1975年の生産総合研究所は、この客の選び替えを偶然に頼らず続けるための装置である。
1876年10月、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海らが発起人となり、東京府下京橋区西紺屋町(現在の銀座西四丁目付近)に秀英舎を創業した。佐久間の縁戚にあたる保田久成が資金1,000円を拠出し、売りに出ていた高橋活版所の設備を買い取って、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて出発した。社名は旧幕臣の佐久間が依頼した勝海舟が、当時の先進国だった英国よりも秀でる覚悟で事業に努めよという意で名付けたと伝わる。佐久間は布教を司る大教院や仏教新聞"明教新誌"に関わるなかで、木版印刷に代わる活版印刷の到来を西洋人宣教師から聞き、自ら活版所の開業に踏み切った。官公庁の文書・法令集や出版物の印刷を担い、明治初期の近代活字印刷業の草分けとして早くから地歩を築いた。
創業まもなく中村正直訳"西国立志編"など明治初期の名著の印刷を引き受けて企業基盤を固め、1886年11月には牛込区市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)の敷地を取得して第一工場(市谷工場)を開設した。当初は活版部から始まり、鋳造課・電気版課・石版部へと設備を広げ、町工場の域を出なかった同社は有数の活版印刷会社へと成長した。1888年4月には有限責任会社組織に、1894年1月には商法施行に合わせて株式会社組織へ改組し、初代社長には佐久間貞一氏が就任して近代的な組織形態を早期に整えた。活字書体(秀英体)を自前で開発する技術志向は、後年のエレクトロニクス事業へつながる技術型企業の素地となった。
市谷の第一工場は鉄筋コンクリート造の近代印刷工場へ建て替えられ、1923年9月の関東大震災で東京の印刷業界が壊滅的な打撃を受けるなか、秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまった。同業が操業を止めた間も印刷の注文が同社に殺到し、これが飛躍の契機となった。同年10月には本社を市谷の新工場へ移し、以後1世紀を超えて市谷が本社であり続けた。震災を境に新聞・雑誌など定期刊行物の受注が集中し、大正末から昭和初期にかけて凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整え、後の合併と多角化を支える生産基盤を構築した。
合併相手の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に工場を構えてから、1927年に田端の市田オフセット印刷所、1928年に入新井の辻本写真工芸社を買収し、1932年には大崎に分工場を新設してグラビア印刷を手がける総合印刷所へ成長していた。1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併の契約に調印し、1935年2月に両社は合併、商号を大日本印刷株式会社へ改めた。資本金600万円で発足した新会社の初代社長には増田義一が就任し、専務には青木・平野が並んだ。当時の日本印刷業界における最大規模の再編で、新会社は当時日本最大の印刷会社となり、以後の"DNP"というブランドの起点となった。
日中戦争開始後の用紙統制と工場空襲をくぐり抜け、戦後は1946年9月に榎町工場を操業再開し、10月には京都工場を開設した。同年には大蔵省の管理工場に指定されて紙幣・証券類の印刷を担い、これが後の証券・カード分野の素地となった。1949年5月には東京証券取引所に上場して戦後復興期の資本調達基盤を整え、1951年11月の大崎工場、1956年9月の日本精版合併による大阪工場発足で東京・大阪の2大拠点体制を固めた。書体という"ソフト"と全国の工場群という"ハード"を併せ持つ体制は、復興期から高度成長期にかけて急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要に応える供給力となり、以後の多角化投資を支える収益基盤を形づくった。
戦後の混乱期、大日本印刷は労働争議で経営が揺らいだが、1955年に社長へ就任した北島織衛が再建を主導した。北島は当時専務だった青木弘の三男で、日本興業銀行への入行を志して果たせず大日本印刷へ入社し、営業の現場から頭角を現した経営者だった。社長就任に先立つ1951年6月には、専務として再建五カ年計画を全社へ発表し、全従業員の投票で全面的な支持を得て立て直しの足場を確立した。一つの主力事業だけに頼る危うさを避けて複数の収益源を立てる方針を掲げ、1951年に開設した大崎工場を足がかりに、米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出した。社内には出版偏重を崩すことへの反対もあったが押し切り、これが後の包装事業の中核へ育った。印刷の対象や素材、前後の工程まで広げる"拡印刷"と、受注産業でありながら自ら企画を売り込む発想とを軸に、北島は24年にわたって積極経営を率いた。
多角化の収益源の一つが、印刷の微細パターン転写技術を紙以外へ応用するエレクトロニクス部材だった。1957年、通産省主導で始まったカラーテレビ国産化の試作にシャドーマスクの担い手として加わり、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として期待を集めた。エッチング技術でブラウン管用シャドーマスクを試作し、1958年には国内メーカーで初めて量産・販売を開始し、埼玉県上福岡市に無塵工場を構えた。1959年にはICの製造に欠かせないフォトマスク、1967年にはクロムマスクの生産へと広げ、半導体・ディスプレイ部材の供給者としての地位を確立した。1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究を体系的に担う拠点で、後のエレクトロニクス事業の発祥地となった。
多角化はエレクトロニクスにとどまらなかった。北島は紙コップなど自社製品の需要拡大も見込み、1963年に大日本印刷が6割を出資して北海道飲料を設立、コカ・コーラの北海道ボトリングへ参入した。寒冷地での清涼飲料は売れないとの見方を覆して事業は伸び、後の清涼飲料セグメント(現在の北海道コカ・コーラボトリング)の源流となった。1972年1月の赤羽工場・蕨工場の新設と二葉印刷の合併など、高度成長期の生産拡張を重ね、1975年7月には製造技術そのものを体系的に研究する生産総合研究所を設立した。中央研究所と生産総合研究所の2本柱が、印刷会社の枠を越えてエレクトロニクス・包装・機能性材料へ広がる多角化の技術基盤となった。
北島義俊が父から受け継いだのは、拡印刷という言葉と、それを支える営業力だった。1979年5月期の大日本印刷は売上高3,739億円・自己資本比率52.5%の実質無借金で、設備投資を年160億円に抑えたまま増収増益が続く会社である。ただし紙以外へ広げても、印刷物の中身を決めるのは依然として得意先で、広告宣伝費が削られれば注文は消え、機械は遊ぶ。義俊が営業の大日本を技術の大日本へ言い換えたのは、注文の出どころに続いて、注文の中身を決める側へ回ろうとしたからだった。
研究員を200人から1,100人へ、研究開発費を32億円から160億円へ積んだのは、その宣言に見合う数を揃える作業である。数が形になったのが1991年末の液晶特許の請求で、発注元の電機メーカーへ印刷会社が権利を主張するという逆転が起きた。だがその翌年の時点でも、自主開発の技術はまだ少なかった。研究のきっかけは顧客の要望であり、テーマの出どころは受注時代のままだった。掲げた1兆5,000億円が1996年3月期の1兆2,453億円で止まったのは、体制の量を揃えるのに10年、それを売上へ移すのにさらに歳月が要ったからだろう。
1876年の創業から100年を数えた時点で、大日本印刷の事業は印刷の素材を紙に限定しない広がりを持っていた。1979年の売上構成は書籍・定期刊行物が20%、商業印刷物が約40%、紙器・特殊印刷物が約40%で、創業以来の出版印刷は全体の5分の1まで比重を下げていた。住宅や家具の表面材となる木目調の建材、冷蔵庫の扉に用いる金属印刷、超高層ビルの間仕切りに採用された鉄板への直接印刷が加わり、当時はまだ製品として出ていなかった曲面印刷も技術としてはほぼ確立していた。印刷業はもともと出版社の底辺にある仕事で、社長の北島織衛氏にとって、この広がりの動機は出版依存の危うさにあった『出版だけに頼っている印刷業というものが、運命を他人に預けちゃったようなもので、だから"何か自分自身で生きていく方法を考えなくちゃいかぬな"と』。
受注産業という業態そのものが、この会社の弱点だった。取締役の高橋平氏は、得意先が経費節減で広告宣伝費を削れば印刷物の注文が消えて機械が遊び、出版社が本の発売を中止しても設備を用意した印刷会社は文句を言えないと、印刷業の体質を説明した。大日本印刷はこれに企画部門を置いて応じ、得意先へ情報を売り込むと同時に相手の問題点を分析し、そこへ企画をぶつける営業へ組み替えた。注文を待たずに注文をつくるという意味で、この姿勢は造注と呼ばれた。実体は本社の隣に構えたクリエーティブデザインセンターで、東洋一と称した写真スタジオは年間を通じて足りないほど稼働し、1978年夏には大阪にも関西最大のスタジオを設けた。
拡印刷と造注を支えたのは、借入に頼らない財務だった。1979年5月期の売上高は3,739億円、経常利益は308億7,100万円、純利益は152億1,700万円で、自己資本比率は52.5%、会社は実質無借金の状態にあった。借入の返済を申し出ると銀行に断られるほどで、金利を稼ぐより先に返すという織衛氏の方針は崩れなかった。設備投資も年160億円程度にとどめ、この2、3年は合理化と省力化が中心だと副社長の北島義俊氏は説明している。例外は埼玉県の鶴瀬工場に建てた大グラビア工場で、日本では刷れなかった幅の広い紙に対応するイタリア製の機械を入れ、関連する設備投資は70億円に達した。
1979年12月、24年にわたって社長を務めた北島織衛氏が会長へ退き、副社長の北島義俊氏が社長に就任した。義俊氏は1958年に慶応義塾大学経済学部を卒業して富士銀行に入り、支店勤務と本店経理部を経た5年後の1963年に大日本印刷へ移った。父と同じ会社に入れば何かと比較されて良いことはないと考えて一度は外へ出た人物で、就任にあたって世襲かと問われると、自分が適任とみられたから選ばれたのだと答えた。就任から4か月後の1980年4月27日、織衛氏は心不全のため新宿区中落合の自宅で74歳で死去した。戦後の労働争議を収拾し、紙器から特殊印刷・建材・精密電子部品へ多角化を進めた織衛氏を、業界は中興の祖と呼んだ。
義俊氏が就任にあたって掲げたのは、営業中心からの脱皮だった。これまでは外から技術を取り入れてきたが、これからは自分自身の技術を確立しなければならないとして、半導体のマスクのようなミクロ部門、建材、繊維を印刷技術の応用先に挙げた。営業・技術・企画の三本柱を総合的に育て、営業の大日本と呼ばれてきた会社を技術の大日本と呼ばれるようにしたいというのが、その言い方だった。義俊氏は父の残した営業力を動かさないまま、そこへ技術力と企画力を重ね、営業・技術・企画の三位一体を掲げて拡印刷と造注の二つの理念を引き継いだ。先代の路線を否定せずに資源の重心だけを移した点に、この継承の慎重さが表れている。
宣言は研究組織の形で実行された。1975年、それまで社内唯一の研究所だった中央研究所から生産総合研究所を分離し、1979年には事業部の下で商品開発と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設して、中央研究所はより基本的なテーマへ集中した。1985年7月には中央研究所の柏研究施設が完成し、研究所はその後も増えて、1992年には本社直轄の3つと事業部が管轄する6つを合わせて9つに達した。研究開発部門の社員は1982年4月の200人から4年後に410人、7年後に600人、1992年3月末には1,100人へと10年で5.5倍に膨らんだ。研究開発費も1983年5月期の32億円から1992年3月期の160億円へ伸び、売上高に対する比率は0.56%から約1.5%になった。
1991年3月期、大日本印刷の売上高は1兆円を超えた。義俊氏が社長に就任した1979年の4,200億円から12年で2.4倍であり、1949年の東京証券取引所再開時に上場して以来の連続増収増益の記録も更新中で、東証1部でこれだけ長い記録を持つのは同社だけだった。設備投資はこの3年間、毎年600億円から800億円に達し、商業印刷・特殊印刷部門の拡大とフォトマスクに代表される精密電子事業の強化に加え、電子出版や映像ビジネスといった新規事業へも配られた。大日本印刷は広い意味での情報加工産業のリーダーを目標に置き、5年後に売上高1兆5,000億円という数字を掲げた。
1991年末、大日本印刷は日本電気など30社を超える電機・OA機器メーカーに対し、液晶ディスプレーの技術に関する特許使用料の請求へ踏み切った。受注産業である印刷会社が発注元の電機メーカーへ権利を主張する行いは、当時の取引慣行のなかでは珍しかった。背景には10年以上をかけた研究開発体制の整備があり、特許と実用新案の出願は1990年に1,900件、特許庁の指導で各社が出願を絞った1991年でも1,650件に達し、保有する特許・実用新案は2,500件にのぼった。特許を交換材料ではなく権利として保有し、研究開発費の回収にも役立てるという考えが、この請求の根拠に置かれた。さらに筑波研究学園都市には8万6,000平方メートルの用地を得て、1998年完了予定の5期工事で総合開発センターを建てる計画が進んだ。
拡大した体制が抱えた弱点は、研究テーマの出どころだった。受注産業だった経緯から研究開発のきっかけは顧客の要望であるものが多く、自主開発の技術がまだ少ないと専務の山司康雄氏は認めている。研究開発部門の平均年齢は約30歳と全社平均より3歳若く、入社10年目で研究室長に就任する社員もいて、専門的な相談相手が社内にいないという不満も出ていた。1992年からは要求の積み上げだった予算にふるいをかけ、テーマの取捨選択を始めた。1994年10月には大利根工場を新設して生産の受け皿を足したが、連結売上高は1993年3月期から2期続けて減り、1996年3月期の1兆2,453億円は掲げた1兆5,000億円に遠く、1999年3月期は1兆2,695億円で1992年3月期の水準を下回った。研究開発への集中投資は体制の量をつくったが、それが売上の伸びへ移るまでには長い時間がかかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1876〜1975年秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期 | 東京府下京橋区に秀英舎として創業 | ★ | ||
| 第一工場(市谷工場)を開設 | ★ | |||
| 舎則を改め有限責任会社組織に変更 | ★ | |||
| 組織に変更 | ★ | |||
| 本社を現在地(市谷)に移転 | ★ | |||
| 同業との対等な立場での一体化と、新たな社名を掲げての再出発 1876年創業の秀英舎が1907年設立の日清印刷と対等合併し、1935年3月に資本金600万円の大日本印刷が発足した経営判断。当時日本最大の印刷会社が生まれ、現在まで続く"大日本印刷(DNP)"という社名がこのとき定まった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 大崎工場を新設 | ★ | |||
| 北島織衛 | 日本精版を合併し大阪工場として発足 | ★★ | ||
| 北島織衛 | フォトマスクへの展開を伴うエレクトロニクス分野への多角化 1958年、大日本印刷が印刷の製版技術を応用してカラーテレビ用シャドーマスクを国内で初めて量産し、フォトマスクや中央研究所へと広げて、紙以外のエレクトロニクス部材を新しい主力事業へ育てた経営判断。北島織衛氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北島織衛 | 中央研究所を完成 | ★ | ||
| 北島織衛 | 赤羽工場を新設、二葉印刷を合併、蕨工場を新設 | ★ | ||
| 北島織衛 | 生産総合研究所を設立 | ★ | ||
| 1976〜2005年営業主導から技術主導への転換 | 北島義俊 | 中央研究所柏研究施設を完成 | ★ | |
| 北島義俊 | 大利根工場を新設 | ★ | ||
| 2006〜2017年過去最高益から丸善・ジュンク堂の書店再編へ、初の純損失と地域子会社の統合 | 北島義俊 | 売上高1兆5,075億円、営業利益1,206億円 | ★ | |
| 北島義俊 | コニカミノルタHDの証明写真事業等を買収 | ★★ | ||
| 北島義俊 | 丸善を子会社化 | ★★ | ||
| 北島義俊 | ジュンク堂書店を子会社化 | ★ | ||
| 北島義俊 | 初の純損失▲209億円を計上 | ★★ | ||
| 北島義俊 | CHIグループを設立 | ★ | ||
| 北島義俊 | 純損失▲164億円。特別損失366億円 | ★ | ||
| 北島義俊 | DNP北海道・東北・中部・西日本の地域子会社4社を分割・統合 | ★ | ||
| 2018〜2026年北島義斉の1000億円特損と経営基本方針、電池部材とレゾナック包装の取得 | 北島義斉 | 北島義斉氏が社長に就任 | ★ | |
| 北島義斉 | 純損失▲356億円。特別損失1,000億円 | ★★ | ||
| 北島義斉 | 純利益694億円まで回復 | ★ | ||
| 北島義斉 | リチウムイオン電池部材の工場を鶴瀬工場内に開設 | ★ | ||
| 北島義斉 | 「経営の基本方針」への転換と5年3,000億円の自己株式取得 2023年、大日本印刷(DNP)は『DNPグループの経営の基本方針』を公表し、ROE10%を長期目標に、5年間で累計3,000億円の自己株式取得と政策保有株式の売却、成長事業への集中投資を同時に進める財務戦略へ転換した。同年3月末の大株主にはELLIOTT INTERNATIONAL LPが2.48%を保有する第5位として並び、外部株主の圧力とDNP自身の変革志向が重なった転換であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北島義斉 | レゾナック・パッケージングを取得しDNP高機能マテリアル彦根として子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大日本印刷)