ヘルメットメーカーとして成長を遂げる一方で、本社ビルの購入など、本業とは無関係の分野に投資を実施した。この時の原資は金融機関からの借入金に依存しており、結果として昭栄化工の資産状況が悪化した。
加えて、1990年のバブル崩壊により、本業であるヘルメットの販売が伸び悩みに転じた。東京・茨城・岩手という3工場の生産能力が過剰となり、過剰在庫の問題にも直面した。
東京新橋で旅館を経営していた「江戸銀」の2代目であった鎌田栄太郎は、詳細な経緯は不明だが「鎌田ポリエステル」を創業した。当時はプラスティックが注目されつつある時代で、これらの樹脂製品を手がけたものと推察される。
鎌田栄太郎の東京新橋の旅館はホンダの「指定旅館」であったこともあり、ホンダの社員が使用していた。この過程で、鎌田はホンダの社員から外国製ヘルメットの不満を聞き、プラスティックを活用したヘルメットの製造を開始した。
1965年にはホンダとの取引を開始し、ヘルメットメーカーとして業容を拡大する契機となった。1968年には茨城工場を新設するとともに、アメリカに販売のための現地法人を設立するなど、ホンダの二輪車事業のグローバル化とともに成長を遂げた。
1992年に昭栄化工は負債120億円を抱えて18億円の債務超過に陥り、会社更生法を適用申請して倒産した。
この時、同社と取引のあった三菱商事の関連会社から打診を受けた山田勝氏(当時・三菱商事部長代行)は、昭栄化工が再建可能であると判断し、同社の管財人となって2010年代までSHOEI(注:会社更生計画の完了後に商号をSHOEIに変更)の経営を担った。
1993年に会社更生法の適用を受けて、まずは有利子負債の削減を優先して再建に着手した。過剰在庫の安値売却と、東京工場の閉鎖および土地売却などを実施し、資産の圧縮を実施した。
SHOEIの再建に際してトヨタ自動車の「三現主義(現地・現物・現実)」を指針とし、部署間の風通しが良くなるように、社内の組織風土の改革にも乗り出した。工場の整理整頓やペンキ塗りなどを、山田氏が社員とともに率先して行うことによって、経費節減と当事者意識を組織風土に根付かせていった。
また、会社再建の過程で、社員の士気が下がらないように、撤去した倉庫の跡地には花壇を作って社員が植物や花を持ち寄ったり、設備投資の第一号として「給茶機」を認めるなど、社員に気を配った経営再建を心がけたという。
SHOEIの経営課題は、設備過剰に陥っていた工場の稼働率を少しでも高めるために「いかに販売を増加させるか?」にあった。当時のSHOEIの販売先は国内45%・海外55%であったが、人口が減少に転じつつあった国内のヘルメット市場の拡大を期待することは難しかった。
そこで、SHOEIは「高級ヘルメット」の欧州での販売(輸出)を拡大する方針を打ち出し、従来は現地の代理店経由だった販売網の改革に乗り出した。ただし早急な改革は現地代理店の反感を買うことから、タイミングを伺って販売網の改革に乗り出す方針を決めた。
そして、1994年に欧州ドイツの代理店が経営不振に陥ったタイミングで、SHOEIはドイツに販売の現地法人「SHOEI GMBH」を設立した。
欧州ではデザイン性や機能性に優れた二輪車の「高級ヘルメット市場」が拡大しつつあったこともあり、SHOEIの経営再建における原動力となった。
SHOEIは業容の拡大と、資産内容の改善を受けて、ジャスダック証券取引所に株式上場。同時に有利子負債を完済し、無借金経営に移行した。
リーマンショックを受けて「高級ヘルメット」の需要が低迷し、SHOEIの工場の稼働率も低下。生産現場では15%の人員が余剰になった。
だが、SHOEIは人員の雇用継続を決めるとともに、30名の契約社員を正社員に登用した。さらに「同一労働・同一賃金」の方針を打ち出し、契約社員に対しても賞与を出すなど、人件費の抑制を回避した。
また、2010年には、全社員に対して通常通りの賞与(月給の5.2ヶ月分)を支払うとともに、定期昇給を実施した。
リーマンショックにも関わらず人件費を惜しまなかった理由は、山田勝氏の「仮に景気が回復した際に人員が不足すると、競争で優位に立てない」という考えに根ざしていた。
一方、販売面では、景気回復時に備えるために、イタリアにおける代理店経由の販売網の改革を決め、2011年にイタリアに販売の現地法人を新設した。