時計製造における精密加工技術を社内に蓄積するため、工作機械の内製化を決定。1941年に日東精機を買収した。
当初は時計製造のための工作機械の製造に従事していたが、1961年から工作機械の外販に着手。シチズンとして工作機械の事業展開を開始し、1980年代にはCNCなどの新機種の開発を通じて工作機の事業展開を本格化した。
1950年代を通じて欧米向けの女性向け腕時計の輸出を強化。国内の生産体制を増強するために、国内子会社を通じて工場を新設
時計製造で培った精密加工技術を応用し、多角化のために事務機(計算機)に参入。1965年に電子加算機「CA10」を発売した。1969年には電卓向けの印刷機械としてプリンター「P12」を発売し、印刷事務機へ参入
1970年代を通じて水晶振動子の軽量小型化が進行し、腕時計に組み込めるクーオーツ時計の時代が到来。水晶振動子の採用によって日差が最小に抑えられ、故障も抑制できることから、従来の機械式の時計を駆逐した。
クオーツの領域においては、セイコーが技術開発で先行しており、シチズンは後発に相当した。シチズンは1976年に「時計用シリンダー型音叉水晶振動子」を開発し、クオーツ時計への参入準備を整えた。
1976年からシチズンは腕時計のムーブメントである水晶振動子(クオーツ用電子部品)の外販を開始した。時計メーカーにとってはムーブメントは心臓部分であり、外販を巡って社内で議論が紛糾したが、大量生産によるコストメリットを享受するために外販を決断した。1979年には国内におけるムーブメント量産のために、増産投資を実施した。
国内で生産されたムーブメントは香港などの時計生産国に輸出され、現地で組み立てられて製品となり、低価格な10ドルウォッチとして欧米を中心に輸出された。
シチズンはムーブメントの大量生産によって、販売価格の抑制を達成。コスト競争力によって時計生産量を増大した。1986年度にシチズンは腕時計の生産量で世界シェア1位を確保し、長年トップであったセイコーを凌駕した。
80年代初めにモジュールの外販(駆動部分だけを他社に売ること)を当社が初めて本格的に始めたんです。時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断でしたが、これが一つの転機となって、当社の腕時計を世界的な規模で事実上のスタンダード(標準)とすることができた。
この結果、生産の規模が増え、貴重品だった時計の値段が大幅に下がって大衆のものとなり、品質面でも「どんな環境で使われようとも、どんなに安い品であろうとも止まらない」ものになったわけです。それによって発展途上国でも時計の需要がワッと増えた。ですから標準化をできたことはシチズン時計にとってだけでなく産業史的にみても非常に良かったと思います。
1982年にシチズン(山﨑六哉社長)は中期計画を発表。時計以外の事業の売上比率を50%に高める目標を設定し、事業展開の多角化を志向した。多角化事業としては、すでに事業が軌道にのっていた工作機械に加え、先端分野(フロッピーディスク、プリンター、液晶)を選定した。
1986年にシチズンは半導体製造装置に参入するため、米パーキンエルマー社と提携。国内にパーキン・エルマー・シチズン(所沢本社)を合弁会社として発足したが、1991年に合弁会社の解散を決定した。
解散に至った理由は、エルマー社が得意とした露光装置(ステッパー)の領域において、日本企業(ニコンおよびキヤノン)がシェアを拡大したことにあった。1989年にパーキン・エルマー社は半導体製造装置の事業売却を決定し、合弁会社における製造装置の事業継続が困難に陥った。
当社としても技術ノウハウを活かせる分野として半導体製造装置をとらえており、チャンスがあれば乗り出したいと考えていました。また、ハイテク分野の強化で、時計メーカーから精密技術のシチズンという企業イメージに転換したい希望を持っていました。そこへ、この分野では(当時)世界最大規模の企業からの打診ですから、大いに検討に値しました。
事前の調査は十分したつもりです。米国の専門調査会社に依頼し、パ社の実力を調べ、日本の半導体製造装置メーカーからも情報を収集しました。
80年代後半、米国の半導体製造装置メーカーは雪崩を打ったように総崩れしてしまい、代わって日本企業がものすごい勢いでシェアを伸ばしていった。そしてあっという間に日本企業の独占状態になってしまった。しかし、調査の時点では、確かに米国メーカーの競争力低下が目立ってきてはいたが、今日のような姿を予想することはできませんでした。
シチズンで約35年にわたって社長を歴任した山田栄一氏(社長歴任:1946年〜1981年)が逝去
2007年にシチズンは中期経営計画を策定。電子デバイス事業について「選択と集中」を掲げ、不採算事業から撤退と、注力事業への投資を決定した。電子デバイス事業は「カメラモジュール部品・小型液晶パネル・フロッピーディスク・液晶バックライト・音響・HDD向けサブルトレート」など幅広く事業を展開しており、収益事業に絞り込むことを意図した。
以後、2000年代から2010年代を通じて、シチズンは多角化事業の主軸であった「電子デバイス事業」について段階的な縮小を実施。2012年3月期には電子デバイス事業を「デバイス事業」に再編し、自動車部品事業をデバイス事業に組み込む措置で、売上の目減りを防止した。
2007年3月に携帯電話向けカメラ部品および小型液晶パネルからの撤退を決定。段階的に生産設備の縮小を実施した。
2015年には液晶生産の子会社だった「シチズンセイミツ八戸」について会社清算を決定。同社は青森県八戸において、小型液晶パネルの生産に従事していたが、工場閉鎖と子会社清算を決定した。工場跡地については多摩精機が取得し、同社のジャイロ部品の生産拠点として転用された。
2009年に電子デバイス事業のうち、不採算3事業から撤退。2009年3月期に特別損失58億円を計上し、シチズンHDは258億円の最終赤字に転落した。特別損失のうち、減損損失の内訳は主に国内および中国における清算設備・有休資産における減損計上が中心であった。
米国の老舗腕時計メーカーであるブローバー社(Bulova Company・1911年から時計製造を開始)を288億円で買収。Bulovaのブランド取得により、時計のグローバル販売の拡大を意図した。
工作機械メーカーのミヤノ(2004年に東証2部へ株式上場・福島県に本社)に対してTOBにより買収
機械式腕時計の部品メーカー(機械式ムーブメントの星座王開発)であるProthoe Holding S.A.を59億円で買収
2012年にシチズンHDは中国広州の現地法人で運営する時計工場について、工場閉鎖および会社解散を決定。従業員約1000名を即日解雇した。
2013年から開始した中期経営計画「シチズングローバルプラン2018」を通じて、事業ポートフォリオにおいて時計事業に注力した。このため、時計事業への注力に最適化した組織体制を志向し、2007年に採用した「持株会社」から「時計事業を営む事業持株会社」への移行を決定。2016年に商号をシチズンHDからシチズン時計に変更した。