シチズン時計の源流は、銀座の貴金属商山崎商店を率いた山崎亀吉氏が興した時計事業にさかのぼる。山崎氏は1906年に本郷富士前町で尚工舎を起こして懐中時計のケース製造に着手し、上戸塚を経て1918年に角筈へ工場を移し、時計機械そのものの製造へと参入した。目標に据えたのは、当時すでに国際水準に達していた精工舎の国産時計であり、スイス製の工作機械を入れ、尚工舎時計学校で優秀な技工を養成して品質を高めた。国産愛用の機運のなかで摂政宮(後の昭和天皇)が御愛用したことで"シチズン"の名は一時高まったと、後年に山田栄一社長は回顧している。
しかし技術で精工舎に並んでも、"シチズン"は"セイコー"の商標と同列には売れず、量産でもコストでも及ばないまま、安く売らざるを得ない経営難に追い込まれた。山崎氏は尚工舎に私財を何百万円とつぎ込んで支えたが、ついに行き詰まり、銀座の山崎商店もその破綻に巻き込まれて失われた。13歳で山崎家の養子に入り、宝石類の行商から身を起こして銀座の大貴金属商、東京商工会議所副会頭にまで上り詰めた人物が、国産時計のために大きな犠牲を払って退いた格好である。創業の完成がいかに容易でないかを示す挫折であり、この犠牲の上にシチズン時計の種がまかれた。
安田銀行(現富士)の担保に入って閉鎖されていた尚工舎の工場は、1930年5月に資本金20万円の新会社として再発足し、尚工舎時計研究所の名をここで初めてシチズンと改めた。発起人代表となって初代社長に就任した中島与三郎氏は、1918年創立の尚工舎時計研究所の施設一切を買収して母体とし、スイス時計の組立てを手がけ、静岡の時計商鈴木氏との共同経営で再生会社を引き受け、1932年にはスター商会を合併してケース製作を取り込んだ。技術面では尚工舎以来の人材を集めれば充実は容易で、懐中時計から腕時計への転換期を捉え、1933年に十型、1935年に八型、1940年に五型と国産初の腕時計を相次いで送り出した。1934年5月には淀橋工場を拡張し、1936年には中国・南方への腕時計輸出を開始して貴石製作所を合併した。従業員は六、700人、腕時計の月産は一万個に達し、小さいながらも時計会社としての基礎を固めかけた。
ところが日中戦争の拡大とともに、シチズンは時計会社の看板を掲げながら軍需会社への転換を迫られた。1938年4月には田無工場に兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し、同年12月に社名を大日本時計へ改め、1941年には日東精機を合併して工作機械の生産に参入し、尚工舎以来の時計工の多くは信管製造に回された。腕時計は人手・資材・価格の制約から事実上の製造禁止状態に陥ったが、全工場が軍需化するなかでも経営陣は本来が時計工場であることを忘れず、軍の意向に抗して工場の一部で月産二千個足らずの時計製造を続けた。この抵抗が時計製造の技術を戦後へ温存する結果となり、終戦後の時計会社復帰を支える素地となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1918〜1945年創業者山崎亀吉の挫折を経て再生したシチズン時計の誕生と軍需転換 | 尚工舎時計研究所設立 | ★ | ||
| 中島与三郎 | シチズン時計創立 | ★ | ||
| 中島与三郎 | 中島与三郎氏が初代社長に就任 | ★★ | ||
| 中島与三郎 | スター商会を合併し側製作を開始 | ★ | ||
| 中島与三郎 | 社名を大日本時計に商号変更 | ★ | ||
| 中島与三郎 | 日東精機を合併し工作機械生産開始 | ★★ | ||
| 中島進次 | 初代社長の中島与三郎氏が任期満了で辞任 | ★★ | ||
| 中島進次 | 中島進次氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 1946〜1975年山田栄一体制での腕時計専業への復帰と東証上場、海外販売網の構築 | 山田栄一 | 軍需会社からの再転換とミシン・農具案の不採用 1945年末から1946年3月にかけて、大日本時計(現シチズン時計)が軍需生産から腕時計専業へ戻る方針を固め、山田栄一氏の社長就任とともに実行に移した経営判断である。ミシン・農具・ラジオ・家庭用品といった転換案が並ぶなかで、時計以外を選ばなかった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山田栄一 | 腕時計専業へ復帰 | ★★ | ||
| 山田栄一 | 社名をシチズン時計に復名 | ★ | ||
| 山田栄一 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 山田栄一 | 御代田精密を設立 | ★ | ||
| 山田栄一 | 事務用機器の生産を開始 | ★★ | ||
| 山田栄一 | 合弁会社新星工業有限公司を設立 | ★ | ||
| 山田栄一 | シチズン・ウオッチ・アメリカを設立 | ★ | ||
| 1976〜2006年ムーブメント外販の決断と腕時計生産量世界一、事業多角化の時代 | 山田栄一 | 腕時計の心臓部を他社へも売り、量産で世界一を取る戦略への転換 シチズン時計が1976年に腕時計用ムーブメント(駆動部分)の外販を決め、1980年代を通じて量産規模を積み上げた戦略である。完成品の腕時計ではなく、他の時計メーカーが自社ブランドの時計を作るための心臓部を売った。1986年に腕時計の生産個数でセイコーグループを抜き、世界一に達した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山田栄一 | 星辰表を設立 | ★ | ||
| 山田栄一 | シチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを設立 | ★ | ||
| 山崎六哉 | 山田栄一氏が会長、山崎六哉氏が社長に就任 | ★ | ||
| 中島迪男 | 腕時計の生産量で世界シェア1位 | ★ | ||
| 梅原誠 | 梅原誠が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2007〜2026年持株会社化と電子デバイスの選択と集中、Bulovaなど海外ブランド買収と赤字からの回復 | 梅原誠 | 携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルを切り離す選択と集中 2007年3月、シチズン時計が中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げ、カメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業(C-STN、TFT)、フロッピーディスク装置事業からの撤退を決めた経営判断である。2009年度に営業利益率10%を取り戻すことを目標に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 梅原誠 | シチズンHDに商号変更・持株会社体制へ | ★★ | ||
| 梅原誠 | Bulova Corporationの株式を取得 | ★★ | ||
| 金森充行 | 金森充行が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 金森充行 | 公開買付けでミヤノを取得 | ★★ | ||
| 金森充行 | 純損失▲258億円に転落 | ★★ | ||
| 戸倉敏夫 | 戸倉敏夫が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 戸倉敏夫 | Prothor Holding S.A.(Manufacture La Joux-Perret)の株式を取得 | ★ | ||
| 戸倉敏夫 | 純損失▲89億円(デバイス事業減損) | ★ | ||
| 戸倉敏夫 | Frederique Constant Holding SAの株式を取得 | ★ | ||
| 佐藤敏彦 | 佐藤敏彦が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 佐藤敏彦 | 純損失▲167億円 | ★ | ||
| 佐藤敏彦 | 営業損失▲96億円・純損失▲252億円 | ★★ | ||
| 佐藤敏彦 | 営業利益223億円・純利益221億円でV字回復 | ★ | ||
| 大治良高 | 大治良高が代表取締役社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(シチズン時計)