シチズン時計 の歴史

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創業 1918年
創業者 山崎亀吉
創業地 東京都新宿区高田馬場
創業 シチズン時計の源流は、銀座の貴金属商を率いた山崎亀吉氏が1906年に本郷富士前町
シチズン時計の源流は、銀座の貴金属商を率いた山崎亀吉氏が1906年に本郷富士前町で興した尚工舎である。懐中時計のケース製造から始め、1918年に角筈へ工場を移して時計機械そのものの製造へ入った。目標は国際水準の精工舎の国産時計で、スイス製の工作機械を入れて技工を養成した。しかし技術で並んでも「シチズン」は「セイコー」と同列には売れず、量産でもコストでも及ばず安売りを強いられた。山崎亀吉氏は私財を注いだ末に行き詰まり、山崎商店もその破綻に巻き込まれて失われる。担保に入って閉鎖された工場は1930年5月に資本金20万円で再発足し、社名をここで初めてシチズンと改めた。1938年12月には社名を大日本時計へ改めて軍需へ転じ、1948年に元へ戻して1949年5月に上場している。
決断 作る品目より、どれだけ作るかを先に決めてきた。1946年3月に社長へ就任した山田
作る品目より、どれだけ作るかを先に決めてきた。1946年3月に社長へ就任した山田栄一氏は、終戦時に2,000人いた工員が約500名へ減るなか、ミシンや農具の案を採らず腕時計専業への復帰を選んだ。残った従業員の大半が時計工であり、戦中の規模に戻った工場なら再出発できると見たためである。1970年代に入るとクオーツで1969年のセイコーに3年遅れた後発の立場が固まり、1976年、完成品ではなく腕時計の動力部だけを他社へ売るムーブメント外販へ踏み切る。買い手が同じ市場の競合に変わることを承知で数量を取りに行き、1979年には国内量産のための増産投資に踏み切った。数量で取った位置は部品の値段が下がる市場でしか効かず、2000年代に同じ考えで広げた電子デバイスは、韓国・台湾勢との価格競争のなかで二度の減損を経て清算された。
現況 売上の6割弱を占める時計が、利益では7割を出している。2026年3月期の連結売上
売上の6割弱を占める時計が、利益では7割を出している。2026年3月期の連結売上高は3,468億円、営業利益302億円、純利益311億円である。時計が1,970億円・セグメント利益250億円、工作機械が862億円・77億円、デバイスが634億円・37億円という構成である。2007年3月に電子デバイスの選択と集中を掲げ、携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルから撤退した会社は、2009年3月期の純損失258億円と2013年3月期の減損を経て多角化を清算した。時計の売上は2023年3月期の1,500億円から3期続けて伸び、北米と欧州でBULOVAとFrederique Constantが増収の主因となった。利益率は時計12.7%、工作機械9.0%、デバイス5.9%の順で、2025年6月の社長交代は最も利益率の高い事業を担当した大治良高氏を選ぶ形になった。
競合 1986年度に生産量で抜いた相手は、クオーツでは3年先を行っていた。セイコーは1
1986年度に生産量で抜いた相手は、クオーツでは3年先を行っていた。セイコーは1969年に世界初のクオーツウオッチを出し、特許を公開して業界標準へ広げた。3年遅れて参入したシチズンは完成品で正面から追わず、1976年に音叉水晶振動子を開発したうえでムーブメントの外販へ回り、量産の原価で並ぶ道を選ぶ。香港などで組み立てられた10ドル級の腕時計が欧米へ広がり、1986年度に生産量で世界シェア1位を取った。だが量で押さえた低価格帯は、2010年代にスマートウォッチへ侵食される。2020年3月期には時計事業ののれんと在庫の見直しで特別損失246億円を計上し、純損失167億円に沈んだ。数量で押さえた低価格帯をスマートウォッチに侵食されたことが、時計とは別の循環で動く工作機械862億円を、清算せずに抱え続ける理由になった。
長期業績の推移 1949〜2026年
シチズン時計:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1918年〜 創業者山崎亀吉の挫折を経て再生したシチズン時計の誕生と軍需転換

1918年〜山崎亀吉が尚工舎に注いだ私財と国産時計の挫折

シチズン時計の源流は、銀座の貴金属商山崎商店を率いた山崎亀吉氏が興した時計事業にさかのぼる。山崎氏は1906年に本郷富士前町で尚工舎を起こして懐中時計のケース製造に着手し、上戸塚を経て1918年に角筈へ工場を移し、時計機械そのものの製造へと参入した。目標に据えたのは、当時すでに国際水準に達していた精工舎の国産時計であり、スイス製の工作機械を入れ、尚工舎時計学校で優秀な技工を養成して品質を高めた。国産愛用の機運のなかで摂政宮(後の昭和天皇)が御愛用したことで"シチズン"の名は一時高まったと、後年に山田栄一社長は回顧している。

  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [1]創業者は銀座の貴金属商山崎商店を率いた山崎亀吉
    • [3]精工舎の国産時計を目標に、スイス製工作機械と尚工舎時計学校で技工を養成
    • [4]摂政宮(後の昭和天皇)がシチズンを御愛用し名が一時高まった
  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [2]山崎亀吉は1906年に本郷富士前町で尚工舎を創業(懐中時計ケース製造)、1918年に角筈へ移転し時計機械の製造に着手

しかし技術で精工舎に並んでも、"シチズン"は"セイコー"の商標と同列には売れず、量産でもコストでも及ばないまま、安く売らざるを得ない経営難に追い込まれた。山崎氏は尚工舎に私財を何百万円とつぎ込んで支えたが、ついに行き詰まり、銀座の山崎商店もその破綻に巻き込まれて失われた。13歳で山崎家の養子に入り、宝石類の行商から身を起こして銀座の大貴金属商、東京商工会議所副会頭にまで上り詰めた人物が、国産時計のために大きな犠牲を払って退いた格好である。創業の完成がいかに容易でないかを示す挫折であり、この犠牲の上にシチズン時計の種がまかれた。

  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [5]山崎亀吉は尚工舎に私財を何百万円と投じたが行き詰まり、銀座の山崎商店も破綻に巻き込まれた
    • [6]山崎亀吉は13歳で山崎家の養子、行商から銀座の大貴金属商・東京商工会議所副会頭に至った
参考文献[1]-[6]
  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [1]創業者は銀座の貴金属商山崎商店を率いた山崎亀吉
    • [3]精工舎の国産時計を目標に、スイス製工作機械と尚工舎時計学校で技工を養成
    • [4]摂政宮(後の昭和天皇)がシチズンを御愛用し名が一時高まった
    • [5]山崎亀吉は尚工舎に私財を何百万円と投じたが行き詰まり、銀座の山崎商店も破綻に巻き込まれた
    • [6]山崎亀吉は13歳で山崎家の養子、行商から銀座の大貴金属商・東京商工会議所副会頭に至った
  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [2]山崎亀吉は1906年に本郷富士前町で尚工舎を創業(懐中時計ケース製造)、1918年に角筈へ移転し時計機械の製造に着手

1930年〜再発足とシチズン改称、戦時下の技術温存

安田銀行(現富士)の担保に入って閉鎖されていた尚工舎の工場は、1930年5月に資本金20万円の新会社として再発足し、尚工舎時計研究所の名をここで初めてシチズンと改めた。発起人代表となって初代社長に就任した中島与三郎氏は、1918年創立の尚工舎時計研究所の施設一切を買収して母体とし、スイス時計の組立てを手がけ、静岡の時計商鈴木氏との共同経営で再生会社を引き受け、1932年にはスター商会を合併してケース製作を取り込んだ。技術面では尚工舎以来の人材を集めれば充実は容易で、懐中時計から腕時計への転換期を捉え、1933年に十型、1935年に八型、1940年に五型と国産初の腕時計を相次いで送り出した。1934年5月には淀橋工場を拡張し、1936年には中国・南方への腕時計輸出を開始して貴石製作所を合併した。従業員は六、700人、腕時計の月産は一万個に達し、小さいながらも時計会社としての基礎を固めかけた。

  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1930年5月 尚工舎を母体に資本金20万円の新会社として再発足、尚工舎時計研究所をシチズンと改称
    • [10]1932年 スター商会を合併しケース(側)製作を取り込んだ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1930年5月の創立で発起人代表となり初代社長に就いたのは中島与三郎で、尚工舎時計研究所(1918年=1918年創立)の施設一切を買収して母体とした
    • [12]1934年5月 淀橋工場を拡張、1936年 中国・南方への腕時計輸出を開始し貴石製作所を合併
  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [9]再生会社はスイス時計の組立てを手がけた中島(与三郎)と静岡の時計商鈴木氏の共同経営で引き受けられた
    • [11]国産初の腕時計を1933年十型・1935年八型・1940年五型と相次いで発売
    • [13]従業員は六〜700人、腕時計の月産は一万個に達した

ところが日中戦争の拡大とともに、シチズンは時計会社の看板を掲げながら軍需会社への転換を迫られた。1938年4月には田無工場に兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し、同年12月に社名を大日本時計へ改め、1941年には日東精機を合併して工作機械の生産に参入し、尚工舎以来の時計工の多くは信管製造に回された。腕時計は人手・資材・価格の制約から事実上の製造禁止状態に陥ったが、全工場が軍需化するなかでも経営陣は本来が時計工場であることを忘れず、軍の意向に抗して工場の一部で月産二千個足らずの時計製造を続けた。この抵抗が時計製造の技術を戦後へ温存する結果となり、終戦後の時計会社復帰を支える素地となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [14]1938年4月 田無工場に兵器工場を新設し兵器部品の製作に着手した(軍需転換の具体的契機)
  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1938年4月 田無工場に兵器工場を新設し兵器部品の製作に着手、同年12月 社名を大日本時計へ改称(戦時統制下)、1941年 日東精機を合併し工作機械生産を開始
  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [16]戦時下に腕時計は事実上の製造禁止状態に陥ったが、工場の一部で月産二千個足らずの製造を続け技術を温存
参考文献[7]-[16]
  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1930年5月 尚工舎を母体に資本金20万円の新会社として再発足、尚工舎時計研究所をシチズンと改称
    • [10]1932年 スター商会を合併しケース(側)製作を取り込んだ
    • [15]1938年4月 田無工場に兵器工場を新設し兵器部品の製作に着手、同年12月 社名を大日本時計へ改称(戦時統制下)、1941年 日東精機を合併し工作機械生産を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1930年5月の創立で発起人代表となり初代社長に就いたのは中島与三郎で、尚工舎時計研究所(1918年=1918年創立)の施設一切を買収して母体とした
    • [12]1934年5月 淀橋工場を拡張、1936年 中国・南方への腕時計輸出を開始し貴石製作所を合併
    • [14]1938年4月 田無工場に兵器工場を新設し兵器部品の製作に着手した(軍需転換の具体的契機)
  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)
    • [9]再生会社はスイス時計の組立てを手がけた中島(与三郎)と静岡の時計商鈴木氏の共同経営で引き受けられた
    • [11]国産初の腕時計を1933年十型・1935年八型・1940年五型と相次いで発売
    • [13]従業員は六〜700人、腕時計の月産は一万個に達した
    • [16]戦時下に腕時計は事実上の製造禁止状態に陥ったが、工場の一部で月産二千個足らずの製造を続け技術を温存

第2章 1946-1975 (気が向いたら執筆します!) 山田栄一体制での腕時計専業への復帰と東証上場、海外販売網の構築

第3章 1976-2006 (気が向いたら執筆します!) ムーブメント外販の決断と腕時計生産量世界一、事業多角化の時代

第4章 2007-2026 (気が向いたら執筆します!) 持株会社化と電子デバイスの選択と集中、Bulovaなど海外ブランド買収と赤字からの回復

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歴史年表 1918〜2025年

シチズン時計の沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1945年創業者山崎亀吉の挫折を経て再生したシチズン時計の誕生と軍需転換尚工舎時計研究所設立★
中島与三郎シチズン時計創立★
中島与三郎中島与三郎氏が初代社長に就任★★
中島与三郎スター商会を合併し側製作を開始★
中島与三郎社名を大日本時計に商号変更★
中島与三郎日東精機を合併し工作機械生産開始★★
中島進次初代社長の中島与三郎氏が任期満了で辞任★★
中島進次中島進次氏が社長に就任★★
1946〜1975年山田栄一体制での腕時計専業への復帰と東証上場、海外販売網の構築山田栄一軍需会社からの再転換とミシン・農具案の不採用

1945年末から1946年3月にかけて、大日本時計(現シチズン時計)が軍需生産から腕時計専業へ戻る方針を固め、山田栄一氏の社長就任とともに実行に移した経営判断である。ミシン・農具・ラジオ・家庭用品といった転換案が並ぶなかで、時計以外を選ばなかった。

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★★★
山田栄一腕時計専業へ復帰★★
山田栄一社名をシチズン時計に復名★
山田栄一東京証券取引所に上場★
山田栄一御代田精密を設立★
山田栄一事務用機器の生産を開始★★
山田栄一合弁会社新星工業有限公司を設立★
山田栄一シチズン・ウオッチ・アメリカを設立★
1976〜2006年ムーブメント外販の決断と腕時計生産量世界一、事業多角化の時代山田栄一腕時計の心臓部を他社へも売り、量産で世界一を取る戦略への転換

シチズン時計が1976年に腕時計用ムーブメント(駆動部分)の外販を決め、1980年代を通じて量産規模を積み上げた戦略である。完成品の腕時計ではなく、他の時計メーカーが自社ブランドの時計を作るための心臓部を売った。1986年に腕時計の生産個数でセイコーグループを抜き、世界一に達した。

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★★★
山田栄一星辰表を設立★
山田栄一シチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを設立★
山崎六哉山田栄一氏が会長、山崎六哉氏が社長に就任★
中島迪男腕時計の生産量で世界シェア1位★
梅原誠梅原誠が代表取締役社長に就任★
2007〜2026年持株会社化と電子デバイスの選択と集中、Bulovaなど海外ブランド買収と赤字からの回復梅原誠携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルを切り離す選択と集中

2007年3月、シチズン時計が中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げ、カメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業(C-STN、TFT)、フロッピーディスク装置事業からの撤退を決めた経営判断である。2009年度に営業利益率10%を取り戻すことを目標に据えた。

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★★★
梅原誠シチズンHDに商号変更・持株会社体制へ★★
梅原誠Bulova Corporationの株式を取得★★
金森充行金森充行が代表取締役社長に就任★
金森充行公開買付けでミヤノを取得★★
金森充行純損失▲258億円に転落★★
戸倉敏夫戸倉敏夫が代表取締役社長に就任★
戸倉敏夫Prothor Holding S.A.(Manufacture La Joux-Perret)の株式を取得★
戸倉敏夫純損失▲89億円(デバイス事業減損)★
戸倉敏夫Frederique Constant Holding SAの株式を取得★
佐藤敏彦佐藤敏彦が代表取締役社長に就任★
佐藤敏彦純損失▲167億円★
佐藤敏彦営業損失▲96億円・純損失▲252億円★★
佐藤敏彦営業利益223億円・純利益221億円でV字回復★
大治良高大治良高が代表取締役社長に就任★
出典・参考 3件
出典・参考
  • シチズン時計 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 築き上げた人々(実業之日本社、1956年)

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