リコーの創業者である市村清氏は、大学卒業後に大東銀行へ就職して北京で業務に従事したが、1927年の昭和恐慌により同行が閉鎖された。そこで、地元の九州に帰郷し、富国生命の保険営業に従事するセールスマンに転身した。
当初は営業活動に苦戦し、祭祀を伴って東京への夜逃げを考えたというが、諦めかけた時に訪問した顧客(大江高等女学校の校長)で保険を成約。顧客からの紹介により、教員を中心に、九州地区における保険の販売を軌道に乗せ、保険セールスの仕事を継続するに至った。
保険セールスの過程で、1929年ごろに資産家の顧客から「理研が開発した感光紙(印刷専用紙)の営業をやらないか」と提案されて承諾。福岡市内に「理研感光紙九州総代理店」を発足して販売に従事した。
当時は印刷専用の感光紙が必需品であり、主に設計現場に対して販売された。主な販売先としては「三菱造船(長崎)、三井三池炭鉱、八幡製鐵所」といった大企業の開拓に成功した。販路を拡大するために満洲にも進出し、満洲鉄道との取引を開始するなど、市村氏は感光紙の販売で注目される存在となった。
感光紙の製造元である理研の大河内正敏氏(理研グループの創業者)は市村氏の存在を知り、理研本社の感光紙部長として抜擢。当時35歳であった市村清氏を高給で本社に迎え入れた。
ところが、理研の本社において、市村清氏は社員から無視をされた。若い年齢で外部から登用された人物が高給迎え入れられたことに対して、社内で反発(嫉妬)があったと推定される。本社では決まった業務もなく、市村清氏は暇を持て余す形となった。
そこで、市村清氏は痺れを切らして職務放棄を決定。理研の経費を使って、昼間から銀座のクラブ「サロン春」に3ヶ月間通い詰めるなど、仕事をしないでわざと遊びに興じた。この事情が明らかとなり、理研の役員会で、感光紙部門を全て市村清氏に任せる決議を実施した。それでも社内の抵抗勢力が市村氏の仕事を妨害したため、市村氏は設備をハンマーなどで破壊した。
事態が大ごとになったため、理研の大河内氏が市村清氏の処分を決定。ただし、理研の感光紙部門を会社として分離し、資本面では大河内氏などの出資し、経営面では市村清氏に一任する方針が打ち出された。
事業分離により、1936年2月に市村清氏(当時36歳)はリコー(理研感光紙)を設立し、実質的な創業者となった。したがって、リコーの創業は、理研における感光紙事業(外部人材登用)に失敗した結果として、独立発足したという複雑な創業経緯が存在する。
日時 | 経歴 | 備考 |
1900年4月 | 佐賀県・生まれ | |
1922年9月 | 中央大学法学部・中退 | 経済的な理由で退学 |
1922年 | 大東銀行・入校 | 北京で銀行業務に従事 |
1927年 | 大東銀行・退職 | 昭和恐慌による銀行閉鎖 |
1927年 | 富国徴兵保険・入社 | 九州地区で保険セールスに従事 |
1933年 | 理研の感光紙販売に従事 | 九州地区の大企業および満鉄を開拓 |
1933年 | 理研・感光紙部長 | 社員からの無視に苦慮 |
1936年2月 | 理研感光紙・社長 | 現リコーを発足 |
1968年12月 | リコー・会長退任(逝去) | 68歳で逝去 |
私の不満はもう一度爆発し、いきなり装置をハンマーで叩き壊してしまった。すると空気が八方へ吹き出して始末におえない。めちゃくちゃである。懐古でもなんでもしろ、また「サロン春」通いだ、と私も腹を決めた。(略)
大河内先生に、私はまもなく呼びつけられた。いよいよ終わりかなと思って行ってみると、しようのないやつだ、という顔をして所長は意外にもさらにいい条件を出してくれたのである。
「感光紙部門を独立の会社にして君に任せる。好きなところへ事務所を移してやってくれたまえ」
私は今度は本当に感激した。昭和11年の春、36歳の時だった。(略)昭和11年2月に発足した理研感光紙株式会社は、資本金35万円、うち払い込み15万円、残り20万円は大河内流の知能資本と称するものでかなり負担は重かった。事務所は東京日比谷の美松に置き、私が代表取締役であった。
さんざんいじめぬかれたあとだけに、敵愾心を伴って、仕事に対する投資が日のようにわきあがった。
リコー創業者の市村清氏が68歳にて逝去。葬儀は東京築地本願寺で行われ、財界人など7000名が参列した。
LSIの量産工場を新設。事業所開設当初は、任天堂のファミコン向けに半導体を供給し、稼働率を維持
複写機のグローバル販売を推進するために、米国のIKON Office Solutions(独立系の事務機販売会社)の株式100%を取得して買収。買収価格(買収対価)は1705億円であり、リコーは「のれん1432億円」「無形固定資産555億円」を計上した。
北米事業の不振により、過去に買収した2社(IKONおよびmindSHIFT)を中心に1759億円の減損損失(のれん等の減損)を計上。減損額の大半が2008年に約1700億円で買収したIKON社に関連する資産であった。この結果、2018年3月期にリコーは最終赤字1180億円に転落した。
減損に至った理由は、IKONについてはデジタル化の進展による商業プリントの販売不振、mindSHIFTについてもクラウドサービスの台頭による競争激化により、キャッシュフローが想定よりも下回ったためであった。