| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 32億円 | 1億円 | 4.9% |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 59億円 | 5億円 | 9.9% |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 73億円 | 7億円 | 10.6% |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 105億円 | 11億円 | 10.5% |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 116億円 | 11億円 | 9.8% |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 134億円 | 9億円 | 6.9% |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 141億円 | -5億円 | -3.9% |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 124億円 | -7億円 | -6.0% |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 141億円 | 0億円 | 0.4% |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 216億円 | 5億円 | 2.5% |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 338億円 | 24億円 | 7.3% |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 475億円 | 34億円 | 7.1% |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 653億円 | 39億円 | 5.9% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 674億円 | 27億円 | 4.0% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 752億円 | 29億円 | 3.8% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,059億円 | 34億円 | 3.2% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,217億円 | 25億円 | 2.0% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,113億円 | 22億円 | 1.9% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,403億円 | 42億円 | 2.9% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,715億円 | 62億円 | 3.6% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,974億円 | 77億円 | 3.9% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,243億円 | 118億円 | 5.2% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,533億円 | 110億円 | 4.3% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,947億円 | 94億円 | 3.1% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,262億円 | 62億円 | 1.9% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,887億円 | 121億円 | 3.1% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,516億円 | 138億円 | 3.0% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,174億円 | 20億円 | 0.1% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,219億円 | 50億円 | 0.4% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,683億円 | 95億円 | 0.9% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,202億円 | 185億円 | 1.8% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,130億円 | 218億円 | 1.9% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,160億円 | 289億円 | 2.1% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,033億円 | 301億円 | 2.1% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,259億円 | 306億円 | 2.1% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,471億円 | 419億円 | 2.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,382億円 | 532億円 | 3.4% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 16,723億円 | 616億円 | 3.6% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 17,383億円 | 725億円 | 4.1% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 17,802億円 | 917億円 | 5.1% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,974億円 | 831億円 | 4.3% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,092億円 | 970億円 | 5.0% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,689億円 | 1,117億円 | 5.3% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 22,199億円 | 1,064億円 | 4.7% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,916億円 | 65億円 | 0.3% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,158億円 | 270億円 | 1.3% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,413億円 | 186億円 | 0.9% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,034億円 | -445億円 | -2.4% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 18,859億円 | 389億円 | 2.0% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 21,956億円 | 728億円 | 3.3% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 21,514億円 | 790億円 | 3.6% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 22,090億円 | 183億円 | 0.8% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 20,288億円 | -67億円 | -0.4% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 20,633億円 | -1,180億円 | -5.8% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 20,132億円 | 303億円 | 1.5% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 20,085億円 | 395億円 | 1.9% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 16,820億円 | -327億円 | -2.0% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 17,585億円 | 303億円 | 1.7% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 21,341億円 | 543億円 | 2.5% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期利益 | 23,489億円 | 441億円 | 1.8% |
理研コンツェルンは研究成果の事業化を目的とする組織だったが、市村清の事例が示すのは、事業化の担い手を内部に留めておけないという逆説的な構造である。外部から招いた人材を組織が受容できず、結果として独立させざるを得なかったという創業経緯は、「計画された起業」とも「偶発的な独立」とも異なる第三の類型を示している。大河内博士が最終的に「任せる」と判断した背景には、市村の販売実績に対する評価と、組織の軋轢を解消するコストの天秤があったと推定される。
1930年代、理化学研究所の研究成果を事業化するために設立された理研コンツェルンは、大河内正敏博士のもとで63社・121工場を擁する一大企業集団に成長していた。その中で感光紙部門は、設計図面の複製に使われるジアゾ感光紙を製造・販売する事業であり、三菱造船や八幡製鐵所、満洲鉄道といった重工業の大口顧客を抱えていた。当時の日本は軍需産業の拡大期にあり、設計図面の需要は年々増加しており、感光紙部門はコンツェルン内でも収益性の高い事業として位置づけられていた。
この部門の販売を一手に担っていたのが、佐賀県出身の市村清である。富国生命の保険セールスマンから転じた市村は、九州を拠点に感光紙の販売網を独力で構築し、営業成績において群を抜く実績を上げた。造船所や製鉄所を一社ずつ回り、現場の技術者に直接製品を売り込むという泥臭い手法で、九州一円の感光紙需要をほぼ独占するまでに至った。この販売実績が大河内博士の目に留まり、35歳で理研本社の感光紙部長に抜擢された。
しかし、外部から高給で迎えられた若い人材に対する社内の反発は激しかった。理研本社の古参社員にとって、保険セールスマン上がりの市村は異質な存在であり、市村は赴任早々に業務を与えられないまま孤立した。痺れを切らした市村は、理研の経費を使って銀座のクラブに3カ月間通い詰めるという挑発的な行動に出た。さらには感光紙製造装置をハンマーで破壊するに至り、大河内博士が仲裁に入らざるを得ないほど事態は収拾不能となった。
大河内博士は市村を処分する代わりに、感光紙部門を独立した会社として分離し、経営を市村に一任するという決断を下した。1936年2月6日、資本金35万円(うち払い込み15万円)、従業員33名の理研感光紙株式会社が発足した。事務所は東京・日比谷の美松ビルに置かれ、理研コンツェルンの一翼を担う独立企業としての第一歩を踏み出した。大河内博士にとっては、組織の秩序を維持しながら市村の販売力を活かす折衷案だった。
この分離独立は、市村が自ら勝ち取ったものでもなく、大河内博士が最初から計画していたものでもない。理研本社での軋轢が限界に達した結果として、半ば偶発的に生まれた創業であった。コンツェルン内の他の事業会社が研究所の技術移転を起点に設立されたのとは異なり、リコーの出発点は人事問題の帰結としての分離である。市村自身は後年「さんざんいじめぬかれたあとだけに、敵愾心を伴って、仕事に対する闘志が火のようにわきあがった」と回想している。
残りの資本金20万円は大河内博士が「知能資本」と称するもので、技術やノウハウへの対価として計上されたが、市村にとっては実質的な負担が重かった。しかし、理研の看板と顧客基盤を引き継いだことで、三菱造船や八幡製鐵所といった大口取引先との関係を維持したまま、市村は販売力を存分に発揮できる基盤を得た。感光紙という地味な事業から出発したこの小さな会社が、後に売上高2兆5,000億円を超える企業集団の出発点となる。
独立後の市村は感光紙事業を軌道に乗せると同時に、1938年には社名を理研光学工業に変更し、光学技術を活かしたカメラの製造に進出した。戦後の1950年にはリコーフレックス(二眼レフカメラ)が発売され、朝鮮戦争特需の追い風もあって月産1万台を輸出する爆発的なヒットとなった。ソニー、本田技研と並ぶ戦後の「花形三羽烏」と称されるまでに急成長を遂げた。
さらに1955年にはジアゾ式複写機「リコピー101」を開発し、事務機市場への本格参入を果たす。感光紙→カメラ→複写機という事業の軸足の移動は、いずれも市村が直感的に「売れる」と判断した市場に、既存の技術を応用して飛び込むパターンだった。自社で基礎技術を開発するのではなく、市場に存在する技術を商品化し、販売力で一気にシェアを獲る手法は、市村の保険セールスマン時代に培われた市場感覚に根ざしていた。
理研からの独立という出発点は、リコーの企業DNAに二つの特質を刻み込んだ。一つは、組織内の軋轢を恐れない創業者の強烈な個性がもたらす「突破力」であり、市村は後年もリコー時計や三愛など次々と新事業を立ち上げる推進力を発揮し続けた。もう一つは、技術を自ら生み出すよりも、既存の技術を販売力で事業化する「アセンブリー型」の事業開発手法である。この二つの特質は、後のリコーの成長と挫折の双方に深く関わることになる。
理研コンツェルンは研究成果の事業化を目的とする組織だったが、市村清の事例が示すのは、事業化の担い手を内部に留めておけないという逆説的な構造である。外部から招いた人材を組織が受容できず、結果として独立させざるを得なかったという創業経緯は、「計画された起業」とも「偶発的な独立」とも異なる第三の類型を示している。大河内博士が最終的に「任せる」と判断した背景には、市村の販売実績に対する評価と、組織の軋轢を解消するコストの天秤があったと推定される。
私の不満はもう一度爆発し、いきなり装置をハンマーで叩き壊してしまった。すると空気が八方へ吹き出して始末におえない。めちゃくちゃである。懐古でもなんでもしろ、また「サロン春」通いだ、と私も腹を決めた。(略)
大河内先生に、私はまもなく呼びつけられた。いよいよ終わりかなと思って行ってみると、しようのないやつだ、という顔をして所長は意外にもさらにいい条件を出してくれたのである。
「感光紙部門を独立の会社にして君に任せる。好きなところへ事務所を移してやってくれたまえ」
私は今度は本当に感激した。昭和11年の春、36歳の時だった。(略)昭和11年2月に発足した理研感光紙株式会社は、資本金35万円、うち払い込み15万円、残り20万円は大河内流の知能資本と称するものでかなり負担は重かった。事務所は東京日比谷の美松に置き、私が代表取締役であった。
さんざんいじめぬかれたあとだけに、敵愾心を伴って、仕事に対する投資が日のようにわきあがった。
リコピー101の開発は、感光紙という自社の中核技術を「素材」から「機器」へと応用した事例である。市村清が複写機に着目した背景には、感光紙の販売先であるオフィスの現場を日常的に訪問するなかで掴んだ需要への直感があった。技術的な飛躍よりも、既存の顧客接点と技術基盤を活かした「隣接領域への展開」であり、このパターンはリコーがその後も繰り返す事業開発の原型となった。
1950年に発売したリコーフレックスは、朝鮮戦争の特需もあり月産1万台を輸出する爆発的なブームを巻き起こした。しかし、1953年の朝鮮戦争終結に伴う特需の消滅と、ブームに乗じた新規参入メーカーの乱立によって、カメラ市場は急速に冷え込んだ。リコーは一つのヒット商品が短命に終わるという、後に繰り返されるパターンに初めて直面していた。二眼レフカメラの需要が一巡するなか、次の成長エンジンをどこに求めるかが経営課題として浮上した。
市村清はこの停滞期に、感光紙事業で培ったジアゾ技術を応用した複写機の開発に着目した。当時、オフィスでの文書複製は青焼きやカーボン紙が主流であり、手間と時間のかかる作業だった。戦後の経済復興に伴い企業間の書類のやり取りが増加するなか、簡便な卓上型複写機への潜在需要は大きいと市村は読んだ。感光紙の販売先であるオフィスの現場を日常的に訪問するなかで掴んだ、現場ニーズへの直感がその判断を支えていた。
リコーは自社の感光紙技術をベースに、ジアゾ方式の卓上型複写機「リコピー101」を開発した。1955年に生産を開始したこの製品は、設計図面だけでなく一般的なオフィス文書の複写にも使える実用性を備えていた。国内初の卓上型ジアゾ湿式複写機として市場に投入され、それまで専門業者に外注するか青焼きに頼るしかなかった文書複製を、オフィスの机の上で完結させるという新しい事務処理の形態を提案した製品だった。
リコピー101の開発は、リコーが感光紙メーカーから事務機メーカーへと事業の軸足を移す転換点となった。市村清は事務合理化の波を捉え、複写機を単なる製品としてではなく、機器の設置後に継続的な収益を生む事業として構想した。機器本体の販売益に加え、保守サービス料金と消耗品である感光紙の販売を組み合わせた「アフター収益モデル」の原型が、このリコピー101の時点で形づくられていた。
リコピー101は事務合理化の波に乗って官公庁や民間企業に広く普及し、カメラブームの終焉で停滞していたリコーを再び成長軌道に押し上げた。複写機事業はその後、1959年の国産初の電子複写機「リコーファックス」、1960年代の電子リコピーシリーズへと技術を進化させながら発展し、リコーの売上構成を根本から変える主力事業として定着する。カメラ依存の収益構造からの脱却が、この一台を起点に始まった。
全都道府県にまたがる販売・サービス網の構築もこの時期に本格的に始まった。複写機は販売後の定期的な保守点検と消耗品の安定供給が不可欠であり、全国に技術サービス要員を配置する体制が求められた。この要請が、直系販売会社・事務機専門商社・文具問屋からなる三層構造販売網の原型を形成し、後に「販売のリコー」と呼ばれるリコー独自の販売体制へと発展していく。
リコピー101の開発は、感光紙という自社の中核技術を「素材」から「機器」へと応用した事例である。市村清が複写機に着目した背景には、感光紙の販売先であるオフィスの現場を日常的に訪問するなかで掴んだ需要への直感があった。技術的な飛躍よりも、既存の顧客接点と技術基盤を活かした「隣接領域への展開」であり、このパターンはリコーがその後も繰り返す事業開発の原型となった。
市村清が選んだのは、粉飾的に赤字を分散させるのではなく、一期に集中して不良資産を吐き出すという手法だった。この「膿の一括処理」は、27年後の浜田広によるCRP、53年後の山下良則による減損処理と、リコーの歴史上3度にわたって繰り返される。危機のたびにドラスティックな処理を断行して再生する力がリコーにはある一方、危機に至るまでの予防的な舵取りが機能しにくい組織体質も浮き彫りになる。「経営の神様」でさえ、嬉野温泉で同級生に指摘されるまで自社の実態を把握できなかったという逸話が、この構造を象徴している。
1960年代前半、リコーはソニー、本田技研と並ぶ戦後の「花形三羽烏」と称され、1961年には社名を理研光学工業からリコーに変更するなど勢いに乗っていた。事務機と感光紙の高い市場占有率を背景に、市村清は「経営の神様」としてメディアに頻繁に取り上げられ、全国各地で講演会を飛び回っていた。リコーの株価は市場の注目を集め、個人投資家の間でも人気銘柄の一つに数えられるほどだった。
しかし、その裏で組織には「泰平ムード」が蔓延していた。幹部や社員は市場占有率の高さにあぐらをかき、技術開発や販売促進の努力を怠った。市村自身もリコー時計や日本リースなど関連事業の立ち上げに注力し、本業であるリコーの経営をおろそかにしていた面がある。市村が嬉野温泉で旧制佐賀高校の同級生に「おまえの会社はひどい。会社に乗り込んでやろうか」と指摘されたという逸話は、外部からすでに経営の弛緩が見えていたことを物語る。
1964年の東京五輪後に襲った不況は、この構造的な弱さを一気に露呈させた。カメラ部門は二眼レフの需要減退で不採算に陥り、事務機部門の売り上げも需要の一巡で下降線をたどった。まさにダブルパンチだった。会社首脳が異変に気づいた時には、資本金35億円に匹敵する赤字を抱え、長短合わせた銀行借入金は111億円余にふくれ上がっていた。不渡り手形を出す寸前の状態であり、企業存続そのものが危ぶまれる事態となった。
1965年3月期、市村清は不良資産(棚卸資産と売掛債権)を一掃し、総額8億4千万円の赤字を計上する決断を下した。配当も一割二分から一挙に無配に転落した。株価は30円台にまで暴落し、取引先や株主からの信用は地に落ちた。市村は後に「寝れない日が幾晩も続いた。一時は自殺することも考えた」と述懐しており、創業者として29年間築いてきた信用が一夜にして崩れる恐怖と向き合っていた。
この決断の本質は、過去のウミを一括して吐き出すことにあった。経常利益ベースでは2億2千万円余の赤字だったが、不良資産を温存して複数期に分散させるのではなく、一気に処理することで再建の出発点を明確にした。同時に、社内の風評が高かった経営陣を刷新し、4,000人の社員のうち800人を関連会社に出向・転出させるなど、人員面でも徹底した合理化に踏み切った。市村自身の報酬もこの時期に大幅に削減された。
市村はこの無配転落を機に、それまでの「販売第1主義」から「不況に強い企業体質づくり」へと経営の根幹を据え直した。不良営業所の整理、遊休不動産の処分、カメラ部門の段階的縮小を断行する一方で、電子複写機リコピーを中心とした新製品の開発に経営資源を集中させた。カメラ・感光紙・事務機の三本柱から、事務機一本へと事業構造を絞り込む方針が、この危機を通じて定まった。
わずか1年後の1966年3月期には、売り上げこそカメラ部門の後退で減少したものの、合理化の効果が現れて利益は8,100万円を計上するまで回復した。前期からの繰越欠損9億4,600万円も、利益準備金と資本準備金の一部を取り崩して一掃を図った。800人の関連会社への出向・転出と不良営業所の整理統合が、固定費の大幅な圧縮として決算数字に反映された格好だった。
再建の起死回生の一打となったのは、1965年に発売した静電複写機「電子リコピーBS2」だった。1959年にすでに海外から導入していた静電複写技術を製品化したもので、ジアゾ方式に比べて普通紙への複写が可能という利点があった。高度成長期の産業界が事務合理化を本格的に推進する時期と製品の投入タイミングが合致し、電子リコピーに加え軽加算機やタイプライターなど事務機の売り上げが一本調子に伸びた。
1967年9月期には3億4,800万円の利益を計上し、夢にまでみた一割の復配を実現した。無配転落からわずか2年半での復配は「奇跡のカムバック」と呼ばれ、リコーの企業DNAに「危機を転機に変える力」を刻み込んだ。しかし同時に、電子リコピーBS2というヒット商品が危機を救ったという成功体験は、「次のヒット商品さえ生まれれば回復できる」という楽観を組織に根づかせ、次の「泰平ムード」の種をも蒔いていた。
市村清が選んだのは、粉飾的に赤字を分散させるのではなく、一期に集中して不良資産を吐き出すという手法だった。この「膿の一括処理」は、27年後の浜田広によるCRP、53年後の山下良則による減損処理と、リコーの歴史上3度にわたって繰り返される。危機のたびにドラスティックな処理を断行して再生する力がリコーにはある一方、危機に至るまでの予防的な舵取りが機能しにくい組織体質も浮き彫りになる。「経営の神様」でさえ、嬉野温泉で同級生に指摘されるまで自社の実態を把握できなかったという逸話が、この構造を象徴している。
イマジオの事例は、技術的な先行が必ずしも市場での優位に結びつかないことを示している。初代機の「複写中にファクシミリを受信できない」という制約は、技術者が描いた理想と、ユーザーが求める実用性との乖離を端的に表している。リコーの開発部門には「難しい技術を最初にクリアすれば、普及機の開発はやさしい」という発想があったとされるが、この論理は市場投入のタイミングという変数を見落としていた。
1980年代半ば、複写機業界はアナログ方式からデジタル方式への技術転換期を迎えていた。デジタル複写機は、レーザープリンターと同じ原理の印刷機構をベースに、複写・ファクシミリ・プリンターの機能を1台に統合できる可能性を秘めていた。オフィスに複数台の機器を置く必要がなくなるため、省スペース化と業務効率化の両面で市場のニーズに合致する製品と目されていた。リコーはこの将来性に着目し、業界に先駆けてデジタル複写機の開発に着手した。
当時のリコーは、大植武士社長のもとで「技術のリコー」への転換を掲げ、LSIの自社生産や半導体内製化に投資を進めていた。1983年に49歳で就任した浜田広社長もこの路線を継承し、超高速複写機やデジタル技術への開発資源の集中投入を決断した。「販売のリコー」から「技術のリコー」への脱皮は、キヤノンとの技術格差を縮める上で経営陣が共有する最重要課題だった。
1987年、リコーは業界で初めてデジタル複写機「イマジオ320」を発売した。複写機とファクシミリの機能を1台に統合したこの製品は、オフィスの省スペース化と業務効率化を実現するコンセプトを提示した。アナログ複写機が市場の大半を占めるなか、デジタル技術の旗を最初に立てたという意味で、リコーの技術志向を象徴する製品であり、業界全体のデジタル化への移行を方向づけるものでもあった。
しかし、初代イマジオには致命的な弱点があった。複写中にファクシミリを受信できないという制約があり、「何のための一体化か、ユーザーには理解できなかった」と競合メーカーの幹部が指摘している。複写とファクシミリの同時処理を実現するには処理能力が不足しており、技術的な先進性がユーザーの実用的なニーズに追いついていなかった。開発部門の「難しい技術を最初にクリアすれば、普及機の開発はやさしい」という発想が、市場投入のタイミングと完成度の見極めを甘くさせていた。
イマジオは発売から約6年間、鳴かず飛ばずの状態が続いた。売れ始めたのは1993年発売の第3世代機「MF150」からであり、初代機の構想が市場に受け入れられるまでに長い助走期間を要した。この間にリコーは超高速複写機の開発にも経営資源を集中させたが、こちらも販売実績は限定的だった。高性能製品の開発に傾倒するあまり、レーザープリンターやカラー複写機という成長市場での普及価格帯の製品投入が遅れ、キヤノンとの収益格差が決定的に拡大した。
デジタル複写機市場は2000年代に入って本格的に拡大し、リコーのイマジオシリーズはようやく主力製品に成長した。しかし、2年後発の富士ゼロックスと40%ずつシェアを分け合う状況にとどまり、6年間の先行投資に見合う圧倒的な市場優位は築けなかった。技術で先行しても市場をとれないという経験は、リコーの組織に「先行者利益は製品の完成度と市場投入のタイミングが揃って初めて成立する」という教訓を刻んだ。
イマジオの事例は、技術的な先行が必ずしも市場での優位に結びつかないことを示している。初代機の「複写中にファクシミリを受信できない」という制約は、技術者が描いた理想と、ユーザーが求める実用性との乖離を端的に表している。リコーの開発部門には「難しい技術を最初にクリアすれば、普及機の開発はやさしい」という発想があったとされるが、この論理は市場投入のタイミングという変数を見落としていた。
浜田広が掲げた「緩い統制」は、現場の自律性を尊重する経営哲学として機能した一方、エネルギーの拡散を制御できないという限界を露呈した。興味深いのは、リストラの引き金が社長自身の判断ではなく、役員からの突き上げだったという点である。「緩い統制」の組織では、トップダウンの危機対応が遅れがちになる。結果として「赤字」という外部からの明確なシグナルが、組織を動かす最も有効なショック療法として機能した。浜田自身が「赤字になったのが結果的に良かったのかもしれない」と述懐しているのは、この構造を正確に認識していたことを示している。
1980年代後半、リコーはキヤノンと売上高でほぼ肩を並べる「良きライバル」だった。1989年3月期のリコーの経常利益は219億円に達し、PPC複写機の成長市場と三層構造の販売網がかみ合って過去最高の収益を記録していた。しかし1990年代に入ると、両社の格差は急速に拡大する。最大の要因は、レーザービームプリンター(LBP)とカラー複写機という2大成長分野での出遅れだった。
LBPでは、キヤノンが1984年からヒューレット・パッカード向けにパソコン用プリンターのOEM供給を開始し、「レーザーショット」として爆発的にヒットさせた。リコーは1年早い1983年にディジタル・イクイップメントへの供給を開始していたが、ワークステーション用に狙いを定めたため、パソコン用という巨大市場を逃した。しかもキヤノンのカートリッジ交換技術の特許に阻まれ、対抗製品の開発に数年を要した。技術的には先行しながら市場の読み違いで後手に回るという、イマジオと同じパターンが繰り返されていた。
カラー複写機でも、キヤノンの1979年発売に対しリコーは1983年と4年遅れた。さらに「新製品は出るのだが、とにかく色調が悪かった」と販売会社幹部が証言するように(日経ビジネス 1994年12月12日号)、製品の完成度とユーザーニーズとの乖離が解消されなかった。加えて、多角化路線のもとパソコン、LAN、電子ファイルなどに経営資源が分散し、いずれも収益化に至らないまま本業の収益力をむしろ悪化させていた。
1991年11月、浜田広社長は事業部長会議の席上でCRP(コーポレート・リストラクチャリング・プログラム)を発表した。不採算事業の見直しと重点事業への経営資源の集中投下を柱とする構造改革であり、リコー創業以来最大規模の自己変革だった。実はその数週間前の役員会で、数人の役員が浜田社長にリストラの断行を迫っていた。「緩い統制」を信条とする浜田は最初ためらったが、事態の深刻さを認識して踏み切った。
まず約370億円のコストダウンを目標に掲げた。内訳は経費削減で約200億円、製品の値上げで約70億円、製品原価の削減で約100億円である。さらに1992年2月末には、社長と常任監査役を除く役員23人に辞表の提出を要求するというショック療法を断行した。世間からは「ワンマン」「辞めるべきは社長」と批判を浴びたが、「仲よしクラブ的な経営」と自ら評していた社内の空気を一変させ、全社の危機意識を一気に高める効果があった。
並行して、開発・製造体制の抜本改革にも着手した。複写機、ファクシミリ、プリンター等の事業部を画像事業本部に統合し、TSS(統合的設計生産方式)を導入した。超高速機に集中していた開発要員をカラー機やレーザープリンターに振り向けるとともに、企画から製造まで一貫して責任を持つプロダクトマネジャー制度を導入した。開発リソースの再配分は、「技術のリコー」を掲げた大植・浜田路線の軌道修正であり、市場が求める製品を優先する方針への転換だった。
CRPの成果は数字に如実に表れた。1992年3月期に17億円の営業損失に転落した後、翌1993年3月期には86億円の営業黒字に復帰し、約370億円のコストダウン目標をほぼ達成した。特にTSS方式で開発した普及型複写機「スピリオ」は、開発費を従来の4分の1に圧縮し、開発期間も半分に短縮するという成果を生んだ。従来のリコーでは考えられなかった開発効率の飛躍であり、CRPの象徴的な成功事例となった。
事業面では、コンピューター事業を大幅に縮小し、複写機・ファクシミリという本業への回帰を明確にした。パソコン、LAN、電子ファイルなど多角化路線のもとで広がった事業を整理し、「多角化は善」という従来の前提を180度転換するものだった。浜田社長はこの転換を「天動説から地動説へ」と表現し、自社の技術シーズではなく市場の需要を起点に事業を組み立て直す姿勢を打ち出した。
1995年3月期には営業利益185億円を計上し、円高による利益の目減りを考慮すれば実質的に過去最高水準に達した。しかし浜田社長は外部からの講演依頼をすべて断り、「リストラは前半2年プラス後半3年の4年計画。前半が終わっただけ」と手綱を緩めなかった。1965年の市村清が復配後に再び「泰平ムード」を許した前例を意識し、リコー特有の「仲よしクラブ的な経営」を改めて数字で議論する文化を根づかせることが、真の課題だと認識していたからである。
浜田広が掲げた「緩い統制」は、現場の自律性を尊重する経営哲学として機能した一方、エネルギーの拡散を制御できないという限界を露呈した。興味深いのは、リストラの引き金が社長自身の判断ではなく、役員からの突き上げだったという点である。「緩い統制」の組織では、トップダウンの危機対応が遅れがちになる。結果として「赤字」という外部からの明確なシグナルが、組織を動かす最も有効なショック療法として機能した。浜田自身が「赤字になったのが結果的に良かったのかもしれない」と述懐しているのは、この構造を正確に認識していたことを示している。
リコーが国内で築いた三層構造の販売網は、長年にわたる取引関係と業界特有の商慣行の上に成り立っていた。IKON買収は、この成功体験を海外にも移植しようとする試みだったが、買収した販売網と自社の製品・サービス体制を統合するには、国内で自然に醸成された暗黙知を組織的に移転する必要があった。1,705億円という買収対価は販売網の「ハードウェア」に対するものだったが、それを機能させる「ソフトウェア」は買収では手に入らなかった。
2000年代、リコーは桜井正光社長(1996-2007年)のもとで積極的な海外M&Aを展開していた。1995年の米SAVIN・GESTENER買収に始まり、2001年の米LANIER買収、2004年の日立プリンティングソリューションズ買収、2007年の米IBM大型プリンター事業買収と、矢継ぎ早に買収を重ねた。この戦略の根底には、国内市場の成熟化に対して海外での販売網拡大で売上成長を維持するという構想があり、桜井の在任11年間で連結売上高は約2倍の2兆689億円に拡大した。
この路線を引き継いだ近藤史朗社長は、北米市場での販売網をさらに強化するため、米国の独立系事務機販売大手IKONの買収を決断した。IKONは全米に約400拠点の販売・サービス網を持ち、中堅・大企業向けのドキュメントソリューションに強みを持っていた。リコーの製品力とIKONの顧客接点を組み合わせることで、北米市場でのシェア拡大を一気に加速させる構想だった。
2008年10月、リコーはIKON Office Solutionsの株式100%を取得し、完全子会社化した。買収対価は1,705億円で、のれん1,432億円、無形固定資産555億円を計上した。リコーにとって過去最大規模のM&Aであり、これまで積み重ねてきた海外買収の集大成として、北米での直販体制を一挙に強化するグローバル戦略の要と位置づけられた。桜井前社長が敷いた海外M&A路線の延長線上にある、近藤社長にとっての最大の賭けだった。
しかし、買収のタイミングは2008年9月のリーマン・ショック直後と重なった。世界的な景気後退のなかで北米のオフィス需要は急速に冷え込み、企業の設備投資は軒並み凍結された。IKONの売上は買収完了の直後から下振れし、1,705億円の投資に対するリターンの前提が根底から崩れた。買収した販売網と自社の製品・サービス体制を統合する作業は、景気悪化と文化的摩擦の二重の障壁に阻まれ、想定を大きく超える困難に直面した。
IKON買収後、リコーの北米事業は期待された成長を実現できなかった。リーマン・ショック後の需要回復が遅れたことに加え、デジタル化の進展による商業プリントそのものの需要構造の変化が追い打ちをかけた。買収した販売網の統合コストが重くのしかかり、IKONの顧客基盤とリコーの製品力を掛け合わせるという戦略構想は、現場レベルでの文化的摩擦やビジネス慣行の違いもあり、想定通りには進まなかった。
この買収は、10年後の2018年に1,759億円の巨額減損として精算されることになる。買収による外延的成長はリコーの基本戦略だったが、IKONの事例は、販売網の買収が製品の競争力を補完するとは限らないことを示した。国内で「販売のリコー」を支えた三層構造の暗黙知は、海外の買収先には移転できなかった。
リコーが国内で築いた三層構造の販売網は、長年にわたる取引関係と業界特有の商慣行の上に成り立っていた。IKON買収は、この成功体験を海外にも移植しようとする試みだったが、買収した販売網と自社の製品・サービス体制を統合するには、国内で自然に醸成された暗黙知を組織的に移転する必要があった。1,705億円という買収対価は販売網の「ハードウェア」に対するものだったが、それを機能させる「ソフトウェア」は買収では手に入らなかった。
IKON買収(2008年)から減損処理(2018年)まで10年を要したという事実は、買収時点で「期待通りにいかなかった場合の出口戦略」が十分に設計されていなかったことを示唆している。この10年間、北米事業の収益性は段階的に悪化していたが、巨額ののれんを抱えたまま抜本的な対策を先送りし続けた。山下社長が就任1年目で減損に踏み切れたのは、前任者が積み上げた負の遺産に対して「新任社長」という立場が持つ政治的な自由度が作用した面もある。リコーの3度の「膿の一括処理」はいずれも、経営者交代の直後に実行されている。
2017年4月、山下良則がリコーの第8代社長に就任した。「リコー再起動」を掲げた山下が直面したのは、2008年のIKON買収以降、統合が進まないまま収益性が低下し続ける北米事業の問題だった。バランスシートには買収時に計上した巨額ののれんと無形固定資産が残り、毎期の減価償却が利益を圧迫していた。デジタル化とクラウドサービスの台頭により、複写機の販売を軸とする従来のビジネスモデルは構造的な転換を迫られていた。
山下社長は就任直後から、リコーが長年守ってきた5つの原則——マーケットシェアの追求、稼働台数の拡大、フルラインアップ、ものづくり自前主義、直販・直サービス——を見直す方針を打ち出した。桜井・近藤の2代にわたって推進されたこれらの原則は、PPC複写機の成長期には有効だったが、デジタルサービスへの転換期にはむしろ変革の足かせになっていると山下は認識していた。
2018年3月期決算で、リコーはIKONおよびmindSHIFTを中心に1,759億円の減損損失を計上した。減損額の大半は2008年に約1,700億円で買収したIKON関連ののれんと無形固定資産であり、10年間にわたって帳簿上に積み残されてきた負の遺産を一括で処理する形となった。この結果、営業赤字1,156億円、最終赤字1,180億円という、80年余りの歴史で過去最大の赤字を記録した。
山下社長はこの減損を、過去の買収判断の誤りを清算し、「デジタルサービスの会社」への転換を加速するための不可避の処理と位置づけた。1965年の市村清による不良資産8億4千万円の処理、1991年の浜田広によるCRPの約370億円のコストダウンに続き、リコーの経営者は3度目の「膿の一括処理」を断行した。規模は拡大しながらも、危機に際して新任社長が過去を清算するという構造は同じだった。
減損処理と並行して、山下社長は非注力事業からの撤退を進めた。リコー電子デバイスの日清紡HDへの譲渡、リコーロジスティクスのSBS HDへの譲渡など、リコーの本業であるオフィスサービスに直接関わらない事業を次々と手放し、事業ポートフォリオの整理を断行した。減損による一時的な赤字を吸収した翌2019年3月期には営業利益868億円を計上し、業績は急回復を見せた。
以後、リコーは「デジタルサービスの会社」への転換を経営の中心に据えた。2022年にはPFU(富士通子会社)の株式80%を840億円で取得してスキャナー事業を取り込み、2024年には東芝テックとの合弁会社エトリアを設立するなど、オフィスプリンティングを起点としたデジタルサービスの展開を加速させている。複写機の販売台数ではなくデジタルサービスの契約数を成長指標とする方針は、90年間続いた「ハードウェア販売モデル」からの構造転換を意味している。
IKON買収(2008年)から減損処理(2018年)まで10年を要したという事実は、買収時点で「期待通りにいかなかった場合の出口戦略」が十分に設計されていなかったことを示唆している。この10年間、北米事業の収益性は段階的に悪化していたが、巨額ののれんを抱えたまま抜本的な対策を先送りし続けた。山下社長が就任1年目で減損に踏み切れたのは、前任者が積み上げた負の遺産に対して「新任社長」という立場が持つ政治的な自由度が作用した面もある。リコーの3度の「膿の一括処理」はいずれも、経営者交代の直後に実行されている。