| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1949/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2億円 | 0億円 | 2.7% |
| 1950/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3億円 | 0億円 | 0.8% |
| 1951/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6億円 | 0億円 | 11.3% |
| 1952/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 9億円 | 0億円 | 9.5% |
| 1953/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 13億円 | 1億円 | 10.3% |
| 1954/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 17億円 | 1億円 | 10.5% |
| 1955/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 18億円 | 3億円 | 16.2% |
| 1956/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 21億円 | 3億円 | 15.4% |
| 1957/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 24億円 | 3億円 | 15.5% |
| 1958/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 24億円 | 3億円 | 13.8% |
| 1959/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 28億円 | 2億円 | 7.4% |
| 1960/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 42億円 | 4億円 | 9.9% |
| 1961/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 71億円 | 7億円 | 10.2% |
| 1962/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 102億円 | 9億円 | 9.6% |
| 1963/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 141億円 | 10億円 | 7.4% |
| 1964/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 158億円 | 6億円 | 3.8% |
| 1965/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 150億円 | 3億円 | 2.3% |
| 1966/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 162億円 | 3億円 | 2.0% |
| 1967/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 181億円 | 6億円 | 3.6% |
| 1968/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 214億円 | 9億円 | 4.5% |
| 1969/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 333億円 | 17億円 | 5.3% |
| 1970/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 447億円 | 23億円 | 5.2% |
| 1971/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 471億円 | 12億円 | 2.5% |
| 1972/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 502億円 | 11億円 | 2.3% |
| 1973/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 590億円 | 17億円 | 3.0% |
| 1974/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 714億円 | 13億円 | 1.8% |
| 1975/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 749億円 | 8億円 | 1.0% |
| 1976/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,019億円 | 36億円 | 3.5% |
| 1977/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,239億円 | 59億円 | 4.7% |
| 1978/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,369億円 | 74億円 | 5.4% |
| 1979/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,874億円 | 113億円 | 6.0% |
| 1980/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,407億円 | 147億円 | 6.1% |
| 1981/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,820億円 | 157億円 | 5.5% |
| 1982/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,065億円 | 167億円 | 5.4% |
| 1983/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,741億円 | 175億円 | 4.6% |
| 1984/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,850億円 | 210億円 | 4.3% |
| 1985/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,557億円 | 370億円 | 3.8% |
| 1986/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,892億円 | 107億円 | 1.2% |
| 1987/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,767億円 | 132億円 | 1.3% |
| 1988/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,060億円 | 371億円 | 3.3% |
| 1989/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,689億円 | 521億円 | 2.7% |
| 1992/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,144億円 | 356億円 | 1.8% |
| 1993/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,361億円 | 211億円 | 1.1% |
| 1994/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,333億円 | 410億円 | 2.1% |
| 1995/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 21,656億円 | 550億円 | 2.5% |
| 1996/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 25,582億円 | 941億円 | 3.6% |
| 1997/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 26,695億円 | 1,188億円 | 4.4% |
| 1998/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 27,360億円 | 1,095億円 | 4.0% |
| 1999/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 25,308億円 | 702億円 | 2.7% |
| 2000/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 26,964億円 | 1,340億円 | 4.9% |
| 2001/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 29,075億円 | 1,675億円 | 5.7% |
| 2002/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 29,401億円 | 1,907億円 | 6.4% |
| 2003/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 31,980億円 | 2,757億円 | 8.6% |
| 2004/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 34,678億円 | 3,433億円 | 9.8% |
| 2005/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 36,541億円 | 3,840億円 | 10.5% |
| 2006/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 41,567億円 | 4,553億円 | 10.9% |
| 2007/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 44,813億円 | 4,883億円 | 10.8% |
| 2008/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 40,941億円 | 3,091億円 | 7.5% |
| 2009/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 32,092億円 | 1,316億円 | 4.1% |
| 2010/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 37,069億円 | 2,466億円 | 6.6% |
| 2011/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 35,574億円 | 2,486億円 | 6.9% |
| 2012/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 34,797億円 | 2,245億円 | 6.4% |
| 2013/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 37,313億円 | 2,304億円 | 6.1% |
| 2014/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 37,272億円 | 2,547億円 | 6.8% |
| 2015/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 38,002億円 | 2,202億円 | 5.7% |
| 2016/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 34,014億円 | 1,506億円 | 4.4% |
| 2017/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 40,800億円 | 2,420億円 | 5.9% |
| 2018/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 39,519億円 | 2,524億円 | 6.3% |
| 2019/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 35,932億円 | 1,249億円 | 3.4% |
| 2020/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 31,602億円 | 833億円 | 2.6% |
| 2021/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 35,133億円 | 2,147億円 | 6.1% |
| 2022/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 40,314億円 | 2,439億円 | 6.0% |
キヤノンの創業は技術者2人の構想に産婦人科医の御手洗毅が出資したことで始まった。出資者が本業を断念して経営に専念する判断は、終戦による医院焼失と国産カメラへの使命感が重なった結果であった。株式保有5%未満で同族経営の資本的裏付けを持たないまま、御手洗家がキヤノンの創業家として経営に関与し続ける出発点でもあった。
戦前の日本におけるカメラ市場はドイツ製の「ライカ」をはじめとする輸入品が席巻しており、国産の高級カメラは皆無であった。日本の精密機械工業は発展途上にあり、精密な部品と機構が要求されるカメラの国産化は技術的に困難と考えられていた。この常識に挑んだのが、映写機の技術者である吉田五郎と証券マンの内田三郎の2人であった。
カメラは当時の日本では高級品であり、輸入カメラを分解して構造を研究するだけでも多額の費用を要した。吉田と内田には技術への情熱はあったが、研究開発に必要な資金が決定的に不足していた。そこで2人は、内田の妻の出産を担当した縁で知り合った聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅に出資を依頼した。
御手洗毅は産婦人科医でありながら、日本における精密機械工業の将来性に強い関心を持っていた。カメラの国産化に対して出資を決断し、技術面は吉田、経営面は内田、監査・出資面は御手洗という3人の役割分担で事業が始動した。1933年11月に東京六本木のアパートの一室で「精機光学研究所」を創立し、これがキヤノンの創業とされる。
1933年の創業から2年間の開発を経て、精機光学研究所はカメラの国産化に成功した。ブランド名は当初「観音」を意味する「kwanon」を採用したが、古風な印象を避けるため「Canon(キヤノン)」に変更した。1936年5月には東京目黒に工場を新設してカメラの生産体制を整え、精機光学研究所は研究主体の組織から生産主体の精密工業メーカーに転じた。
1937年8月に株式会社「精機光学工業」を資本金100万円で設立し、個人事業から脱却した。ただし資本金の40%は現物出資(設備を高く見積もったもの)であり、資金調達は順調ではなかった。産婦人科医の御手洗が知人に出資を要請して回るなど、会社設立の資金繰りには苦労が伴った。1939年にはカメラレンズの内製化にも成功し、レンズを外部調達に頼らない一貫生産体制を構築した。
1937年から1945年にかけてのキヤノンは軍需生産により業容を拡大した。1944年には東京板橋の大和光学研究所を吸収して生産拠点を増やし、終戦直前には従業員約500名の規模に成長した。戦時中の空襲による被害を奇跡的に免れたため、戦後復興において競合他社に対して優位に立つことになった。
1945年の終戦を契機に、御手洗毅は産婦人科医とキヤノン経営者の二足のわらじを止め、事業経営に専念することを決意した。自身が開業していた産婦人科医院が空襲で焼失したことも経営専念の契機となった。御手洗は「私も男と生まれたからには、外国品防衛を目的とする優秀国産カメラの大成は、私しか担当するものがない」と述べ、国産カメラのグローバル展開を目標に掲げた。
1947年9月には商号を「キヤノンカメラ株式会社」に変更し、カタカナの社名とブランド名を一致させた。日本企業としては珍しいカタカナ社名の採用であり、海外輸出を見据えた施策であった。1949年の株式上場時点で御手洗毅の株式保有比率は5%未満であり、資本的に裏打ちされた同族経営ではなかったが、以後の御手洗家はキヤノンの実質的な創業家として経営に関与し続けることになる。
産婦人科医の出資で始まったカメラメーカーは、終戦を経て「国産カメラによる外国品との競争」を企業の存在意義に据えた。御手洗が事業に失敗した場合は「鶏でも飼って余生を終える覚悟」を決めていたという逸話は、創業期のキヤノンが背負っていたリスクの大きさを示している。
キヤノンの創業は技術者2人の構想に産婦人科医の御手洗毅が出資したことで始まった。出資者が本業を断念して経営に専念する判断は、終戦による医院焼失と国産カメラへの使命感が重なった結果であった。株式保有5%未満で同族経営の資本的裏付けを持たないまま、御手洗家がキヤノンの創業家として経営に関与し続ける出発点でもあった。
私はもう、今までのような二足ワラジの生活が許されなくなった。許されるとしても、これをなすべきではいと考えた。一人一業ですらなかなか困難を加えてきた時代に、超人でもない自分が一人二役で、そのどちらもうまくやっていこうなどとは、贅沢極まると自省した。そこで、恩師、先輩、友人、知人等に、再び医業には戻らぬことをはっきり声明して、私はわざわざ茨の道である最後の事業経営を選んだ。
私も男と生まれたからには、どうでもこれでいくほかなかった。外国品防衛を目的とする優秀国産カメラの大成は、十数年来の私の仕事としてまだあとに残されている。私の偉業を代わって受け持ってくれる人はいくらでもあるが、しかし、私の熱願するこの初志の貫徹は私しか担当するものがないのだ。こういうわけで、私は終戦を機会に、断然、われとわが道を行くことにした。
キヤノンは英マセソン社からの借入金を全額設備投資に充て、資本金の10倍に相当する2億円で下丸子工場を新設した。債務超過リスクを負った巨額投資であったが、高級カメラへの特化と量産効果により売上高利益率10%超を維持し、3年で投資を回収した。品質への自信が持てるまで輸出を急がなかった御手洗の方針が、Made in Japanの不信用を実績で覆した。
1945年の終戦後、キヤノンは軍需から民需への転換にあたり、工場を一時閉鎖して従業員を解雇した上で優秀な人材のみを再雇用するという手法をとった。これにより労働組合の過激化を抑止し、戦後の労使関係を良好に保った。御手洗毅社長は中級品ではなく高級品を優先する方針を決め、「技術力の強さを武器にする以外に日本の復興はない」として高級カメラに注力した。
終戦に伴い日本に駐留した進駐軍(GHQ)の将兵がキヤノンのカメラやニコンのレンズを手にし、その品質の良さが口コミで広まった。進駐軍は家族に近況を伝えるために写真を撮る需要があり、日本製カメラの評判は欧米に伝播した。1948年の貿易再開とともにカメラの輸出が始まり、海外バイヤーが日本の業界関係者と接触するようになった。
1950年に御手洗社長は2ヶ月間の欧米視察を実施し、カメラ輸出のポテンシャルを探った。しかし欧米では「Made in Japan」が粗悪品の代名詞となっていた。現地バイヤーからは「立派なニューモデルとして認めるが、Made in Japanは絶対信用できない」と告げられ、品質は評価されても日本製であること自体が信用の壁となった。
1951年11月にキヤノンは英国の貿易会社ジャーデンマセソン社と5ヶ年の輸出販売契約を締結した。キヤノンはカメラ生産量の最低70%をマセソン社経由で米国の3大カメラ問屋(レングラム社、ホーンスタイン社、クレーグムービー社)に輸出する契約であった。米国の問屋はキヤノンが「Made in Japan」であることを問題視して直接取引を拒んだため、マセソン社を仲介する販路を構築する形となった。
キヤノンがマセソン社と提携した最大の理由は、販路の確保に加えて50万ドル(1.8億円)の借入を契約に組み込めたことにあった。目黒と板橋の2拠点に分散していた生産体制は非効率であり、量産体制の確立には新工場の建設が不可欠であった。キヤノンはマセソン社からの借入金をもとに、旧富士航空計器の工場跡地(東京都大田区下丸子)を1億円で取得し、工作機械などの設備投資に1億円を投じて、合計2億円を本社工場の新設に充てた。
当時のキヤノンの半期売上高は1.9億円、利益は1200万円(1950年6月時点)であり、2億円の投資は利益ベースで約10年分に相当した。総資産1.6億円(資本金2000万円)に対して2億円の投資は「資本金の10倍」「総資産を超過」する規模であり、投資に失敗すれば債務超過に陥るリスクを負った。1952年に倍額増資で1億円を資本調達したが、増資後の自己資本比率は32%と製造業としては低い水準であった。
下丸子の本社工場に生産を集約したキヤノンは、海外製の高性能工作機械を導入してカメラの量産体制を確立した。高級カメラに特化したことで売上高利益率は10%超を維持し、1954年時点で年間1.8億円の純利益を計上した。2億円の巨額投資はわずか3年で回収される形となった。1951年度から1955年度までの5ヶ年における純利益の累計額は7.94億円に達した。
1950年代を通じてキヤノンは高級カメラの北米輸出により業容を拡大し、1955年にはニューヨーク支店を開設して現地での販売体制を構築した。「Made in Japan」の不信用という壁は、量産体制の確立により品質を安定させ、継続的な納品実績を積み上げることで克服された。
御手洗社長が掲げた「確信の持てる快心の作が出るまでは自重する」という方針は、品質に自信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で一気に量産・輸出に踏み切るという戦略であった。資本金の10倍という巨額投資のリスクを背負いながらも、高級品への特化と量産効果の追求を両立させたことで、キヤノンは「高級カメラのグローバルメーカー」としての地位を確立した。
キヤノンは英マセソン社からの借入金を全額設備投資に充て、資本金の10倍に相当する2億円で下丸子工場を新設した。債務超過リスクを負った巨額投資であったが、高級カメラへの特化と量産効果により売上高利益率10%超を維持し、3年で投資を回収した。品質への自信が持てるまで輸出を急がなかった御手洗の方針が、Made in Japanの不信用を実績で覆した。
私の狭い範囲の見聞を通じて見にしみて感じたことは、日本商品がいかに不信用ようであり、日本商人の道徳観がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた。あちらではサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク等のカメラ関係メーカーおよび問屋連中と親しく会談したが、アメリカ業者の日本品への結論は「安かろう、悪かろう」であった。
キヤノンカメラでは、アメリカにはあくまで快心の作を出すという意識のもとに、従来、対米輸出は積極的にやらなかった。バイヤーから度々話もあったが応じなかった。しかし、進駐軍の人たちがCPOを通じて内地で1万台くらいは買ったと思う。信用は一度失ったが最後、もうダメだから、絶対確信のもてる快心の作が出るまでは、自重してきたが、最近当社の製品がライカ以上である確信を得たので、ここに初めてアメリカに呼びかけることとなり、ニューモデルを持ってあちらの業者の信を問うたわけである。
当時は戦後でもあり、社会が最も必要としていたものは、ナベ、カマ、スキ、クワの類であったため、これを作ろうじゃないかという声もあったのだが、会社の再スタートにあたり私は日本企業を伸ばすには今後輸出以外にない、特に頭脳で勝負する意外に道はない。そのためには外国から材料を取り寄せて加工するのでは妙味がない。国内で材料を得られ、独自の製品として輸出できるものではなくてはならない。これに叶うものは高級カメラである。ということで会社の方針を決めたのである。
ところが何を始めるにしても先立つものは金である。金を借りるにつけ、銀行(注:富士銀行と推察される)へ行って仕事の内容について説明すると、当時の情勢からして、皆が皆、仕事の内容に賛成しかねる情勢であった。しかし日本企業の今後の行くべき道を刻々と説明し、やっと金融をつけてもらうのに成功したのである。
当社の歴史を見て第一に感ずることは、戦後の急速な進展ぶりである。研究時代から終戦までの10年間は、いわば技術を錬磨し、将来のチャンスを掴んで伸ばすべき底力を養った時代である。終戦直前、大和光学を吸収し、増資を行なっているが、輸出市場無くしてこの産業は伸びない。それは軍需産業としての進展態勢をとったものであるが、終戦で再出発を要請された。
それが進駐軍将兵の愛用で進展のチャンスを掴み、貿易の再開で、南米、北米、欧州、東南アジアと世界至るところでライカを向こうに回し飛躍しているのも、十余年にわたる技術の錬磨時代を持ったればこそである。
今までの生産力増加は目黒、板橋両工場の補強によって行なってきたが、それが限界点に達し、新鋭工場を他に求めなければならぬところに来たため、2億円の巨費を投じて富士計器社屋を買収改造し、ここに生産を集中するという抜本的対策に出たのである。
こうした設備の拡張が多大の資金を要したことは言うまでもない。終戦後の再出発当時の資本金は300万円であったが、その後3回の増資により5000万円に膨張し、一方負債も昨年9月末現在の長期借入金は8900万円にのぼり、支払手形および短期借入金は1.28億円に達しており、資本構成比率は2倍の外部資本を示している。こうした急激な膨張は当然に資本構成を不均衡にし、金融に弾力性を失わしめる結果となる。その是正を目的として、今次の倍額増資が行われるわけだ。
前田社長の急逝に伴い、常務から副社長・専務を飛ばして社長に抜擢された賀来龍三郎は、前任経営陣を「経営に甘さが出ていた」と公言して組織改革に着手した。事業部制の導入で各事業の損益を可視化し、多角化の整理と事務機への研究開発投資の集中を推進した。1985年のHP社との提携でLBPのOEM供給を開始した判断は、自社販路の構築ではなく外部パートナーの販路を活用する設計であり、無配転落から10年で売上高1兆円に至る成長の起点であった。
1975年にキヤノンは電卓事業の不振により無配に転落し、電卓事業からの撤退を余儀なくされた。1967年に策定した「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化方針のもとで電卓・複写機・半導体焼付装置・事務用コンピュータなど複数の事業を立ち上げていたが、電卓は1970年代の価格競争の激化により採算が悪化し、多角化戦略の見直しが迫られた。カメラ事業も中級機ブームの一巡と経済不況により成長が鈍化しており、キヤノンは成長の牽引役を欠いた状態にあった。
この経営混乱の最中に前田社長が急逝し、キヤノンは後継者の選定と経営再建を同時に迫られる事態に直面した。副社長や専務といった通常の昇格順序を飛び越え、1977年6月に常務であった賀来龍三郎(当時51歳)が代表取締役社長に就任する異例の人事が行われた。賀来は九州大学経済学部を卒業後、1954年にキヤノンに入社した生え抜きであり、1974年に常務に就任してからわずか3年での社長抜擢であった。
賀来社長は就任後、前任の経営体制を「どうしても経営に甘さが出ていた」「経営が下手になってしまっていたんです」(1985年2月4日・日経ビジネス)と公言し、組織と事業の両面で改革に着手した。組織面では事業部制を導入し、カメラ・事務機・光学機器の各事業部に損益責任を持たせる体制に移行した。事業部ごとの収益を可視化することで不採算事業を早期に特定し、成長事業への資源配分を加速させる体制を構築した。
事業面では、分散していた多角化の方針を整理し、研究開発投資を事務機分野に集中させる決断を下した。カメラに次ぐ収益の柱として複写機とプリンターの開発を急ぎ、1985年には米HP社と業務協力提携を締結してレーザービームプリンター(LBP)のOEM供給を開始した。自社ブランドでの販路開拓ではなく、HP社という世界最大級のIT企業をOEM先に選ぶことで、販売コストを抑えつつグローバル市場を一気に取り込む戦略であった。
賀来社長の在任10年間(1977年〜1987年)を通じて、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへの事業構造転換を実現した。LBPの世界シェアは1990年時点で70%に達し、売上高は4,000億円を超えた。HP社向けの販売高はその後も拡大を続け、FY2002には6,110億円を記録する。カメラ事業に依存していた収益構造は事務機が牽引する体制へと転換し、連結売上高は1兆円を突破した。
1987年に賀来氏は会長に退き、後任にバトンを渡した。無配転落から10年で連結売上高1兆円企業に変貌した過程は、電卓撤退後の経営危機を事務機への集中投資で乗り越えた結果であった。専務と副社長を飛ばした抜擢人事で就任した賀来社長が、事業部制の導入と事務機への投資集中という2つの改革を推進したことで、キヤノンの事業基盤は根本的に転換した。
前田社長の急逝に伴い、常務から副社長・専務を飛ばして社長に抜擢された賀来龍三郎は、前任経営陣を「経営に甘さが出ていた」と公言して組織改革に着手した。事業部制の導入で各事業の損益を可視化し、多角化の整理と事務機への研究開発投資の集中を推進した。1985年のHP社との提携でLBPのOEM供給を開始した判断は、自社販路の構築ではなく外部パートナーの販路を活用する設計であり、無配転落から10年で売上高1兆円に至る成長の起点であった。