キヤノン の歴史

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創業 1933年
創業者 吉田五郎・内田三郎・御手洗毅
創業地 東京都港区六本木
創業 1933年11月、東京・麻布六本木に高級小型カメラの研究を目的とする精機光学研究
1933年11月、東京・麻布六本木に高級小型カメラの研究を目的とする精機光学研究所が発足した。技術の吉田五郎氏、資金を集めた内田三郎氏、出資した産婦人科医の御手洗毅氏という三者の結合で、舶来品が独占していた高級カメラの国産化に挑んだ。1937年8月に東京目黒で資本金100万円の精機光学工業として法人化し、カメラの製造販売を開始した。1947年9月にキヤノンカメラへ商号を変更し、1949年5月に東京証券取引所へ上場している。1951年11月には旧富士航空計器跡地を取得して東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、英ジャーデン・マセソン社との5ヵ年輸出契約で海外の販路を確保した。
決断 本業が行き詰まるたびに、隣の産業へ主力を移してきた。1975年に電卓事業の失敗で
本業が行き詰まるたびに、隣の産業へ主力を移してきた。1975年に電卓事業の失敗で無配へ転じると、1977年に賀来龍三郎氏を社長へ抜擢し、複写機とレーザープリンターへ開発資源を配分した。1985年には米ヒューレット・パッカードと業務協力で提携し、自前の販売網を張る代わりに相手の販路へ自社のエンジンをOEM供給している。1995年には御手洗冨士夫氏が社長に就任し、事業部ごとの採算から連結全体の利益とキャッシュフローへ管理の単位を移した。2000年代にカメラのデジタル化と複合機の成熟が重なると、2009年に自前主義を返して蘭オセをTOBで買収すると決め、2016年には東芝メディカルシステムズを6,655億円で取得した。祖業のカメラは残したまま、主力の座だけを三度入れ替えている。
現況 現在の売上の54%はプリンティングで、祖業のカメラを含むイメージングは23%にと
現在の売上の54%はプリンティングで、祖業のカメラを含むイメージングは23%にとどまる。2025年12月期の連結売上高は4兆6,247億円で、プリンティングが2兆4,944億円、イメージングが1兆549億円、メディカルが5,806億円、インダストリアルが3,611億円を占めた。税引前利益もプリンティングの2,736億円が最も大きい。医療は2016年の東芝メディカル買収で加えた領域だが、日本と中国の市場環境が悪化して計画を下回り、2024年12月期にのれん1,651億円を減損し、同期の純利益は前期比4割減の1,600億円となった。半導体露光装置を含むインダストリアルは売上の8%にすぎないが、税引前利益648億円を計上している。規模で選んだ医療が減損に至る一方、規模の小さい産業機器が利益率を保った。
競合 同じカメラ大手でも、カメラ以外に何を持つかで縮小の受け止め方が分かれた。レンズ交
同じカメラ大手でも、カメラ以外に何を持つかで縮小の受け止め方が分かれた。レンズ交換式カメラの市場はスマートフォンの普及で2010年代に縮み、キヤノンはニコンと並ぶ二大ブランドの地位を保った。ただしキヤノンは1977年から事務機へ開発資源を配分していたため、カメラの縮小をプリンティングの収益で吸収できた。半導体露光装置ではニコンとオランダのASMLに次ぐ3強の一角にとどまり、微細化の先端では劣位に置かれている。医療でも東芝から取得した事業が計画を下回り、参入した領域のすべてで首位を取れているわけではない。祖業で競争優位を保ちながら、その優位が全社の収益を決めない構成にしたことが、市場が縮んでも利益を伸ばせる形を作った。
長期業績の推移 1949〜2025年
キヤノン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年12月期2025年12月期

第1章 1933年〜 御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立

筆者考察y.sugiura, author

下丸子へ投じた2億円は、注文が積み上がってから設備を足す順序ではなく、器を先に作って製品を後から入れる順序を選んだ投資だった。資本金2000万円の10倍という規模は、当時のカメラ工場の常識を外れている。その賭けが3年で回収できたのは、高級機に絞って売上高利益率10%超を保てたからであり、快心の作が出るまで量産を自重するという御手洗毅氏の方針と表裏をなしていた。品質で選ばれる市場にとどまる限り、数量と価格の競争に引き込まれずに済む。ジャーデンマセソンとの総代理店契約もニューヨーク支店も、その前提の上に置かれた輸出の装置である。

その前提を自ら崩したのがキヤノネットだった。1万9,800円という値付けはカメラ業界の一斉の反発を招き、公正取引委員会の調査にまで及んでいる。9か月で21万台、2年半で100万台という数量は、高級機の商売とは原価の作り方が違う。注文に追われて取手用地の旧工場棟へ急ぎ組立てラインを敷いたのは、量産の器が足りないことを認めた手続きだった。同じ時期に踏み出した磁気録音装置のシンクロリーダーは850台で終わったが、そこへ投じた人員と材料の技術は消えず、電卓と複写機へ充当された。カメラで確立した輸出の装置は、カメラ以外の商品を載せる器として次の10年に試されることになる。

当期純利益(単体) 1949年12月期〜1966年12月期(億円)

0.056 49 0.718 51 1.42 53 3.07 55 3.77 57 2.12 59 7.32 61 9.8 62 10.5 63 6.1 64 3.5 65 3.4 66
  • 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
  • 同じ期間に売上高は2.05億円から162億円へ伸びている。

1933年〜産婦人科医の出資で生まれた国産高級カメラ

1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ、はじめ千手観音にちなむ"Kwanon"と名付けたものの、まもなく"Canon"へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組した。1939年にはレンズの内製を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [1]創立者は吉田五郎氏(技術)と内田三郎氏(営業)。内田氏は山一証券から外務員へ転じ証券の大口取引を扱っていた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [6]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
    • [4]1935年 製品化に成功
    • [5]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
    • [7]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
    • [8]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出

戦時統制は、創業の商品である高級カメラを市場から締め出した。横須賀海軍病院の横倉誠次郎軍医大佐は、海軍で結核の集団検診を実現しようとしており、その要望を聞いて1940年6月にX線間接撮影カメラの設計へ入り、大佐の示した仕様をもとに同年12月に仕上げた。同じ1940年の7月には奢侈品等製造販売制限規則が出され、1台500円を超える写真機は売ることができなくなった。同じ年の12月に決まった公定価格は、キヤノン最新型で卸384円、小売480円である。1941年には月産70台から74台という最高の生産能力に届いたものの、ほとんどは軍部向けで、民間へはもう回らなかった。写真機に代わって主力の座に据えられたのが、このX線間接撮影カメラだった。1942年上半期には、国民厚生上必須の製品として軍部をはじめ各方面からの需要が多く、X線間接撮影カメラは主要製品の地位を占めるまでに育っていた

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [9]横須賀海軍病院理学的治療科長の横倉誠次郎軍医大佐の仕様により1940年6月設計着手、同年12月完成。年末に海軍型X線間接撮影装置を納入
    • [10]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
    • [11]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
    • [12]1941年の生産能力は月産70〜74台で最高。大部分が軍部へ納入され民間には渡らなかった
    • [13]1942年上半期の営業報告書にX線間接撮影カメラは国民厚生上必須の製品として需要が多いと記載され、同社の主要製品の地位を占めた

取締役社長に御手洗毅氏が就いたのは1942年9月で、これに先立つ同年2月、最高責任者だった内田三郎氏が公用でシンガポールへ発つにあたり、全従業員を集めた場で取締役の御手洗氏に後事を託していた。敗戦翌月の1945年10月には早くも生産を立て直し、翌1946年に世に出たキヤノンS型は進駐軍の将兵や日本を訪れた買い付け人から評判を得て、海外でキヤノンの名が知られるきっかけになった。産婦人科医を辞めて経営に打ち込むようになったのもこのころで、御手洗氏は外国製品と張り合える国産カメラを完成させることを事業の目的に掲げた。商号をキヤノンカメラ株式会社に改めたのが1947年9月、東京証券取引所に株式を上場したのが1949年5月で、これで資本市場から資金を集める道が開けた。1950年の欧米視察で御手洗氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。

  • 会社年鑑
    • [14]1942年9月 御手洗毅氏が取締役社長に就任
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [15]1942年2月 内田三郎氏が全従業員を集めて取締役の御手洗毅氏へ後事を託し、公用でシンガポールへ赴いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1945年10月 生産を再開
    • [17]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
    • [19]1949年5月 東京証券取引所に上場
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [20]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた
参考文献[1]-[20]
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [1]創立者は吉田五郎氏(技術)と内田三郎氏(営業)。内田氏は山一証券から外務員へ転じ証券の大口取引を扱っていた
    • [9]横須賀海軍病院理学的治療科長の横倉誠次郎軍医大佐の仕様により1940年6月設計着手、同年12月完成。年末に海軍型X線間接撮影装置を納入
    • [10]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
    • [11]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
    • [12]1941年の生産能力は月産70〜74台で最高。大部分が軍部へ納入され民間には渡らなかった
    • [13]1942年上半期の営業報告書にX線間接撮影カメラは国民厚生上必須の製品として需要が多いと記載され、同社の主要製品の地位を占めた
    • [15]1942年2月 内田三郎氏が全従業員を集めて取締役の御手洗毅氏へ後事を託し、公用でシンガポールへ赴いた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [6]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
    • [18]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
    • [19]1949年5月 東京証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
    • [4]1935年 製品化に成功
    • [5]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
    • [7]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
    • [8]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出
    • [16]1945年10月 生産を再開
    • [17]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
  • 会社年鑑
    • [14]1942年9月 御手洗毅氏が取締役社長に就任
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [20]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた

1951年〜下丸子工場への10倍投資が支えた輸出経営

1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出に着手した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し、国内の顧客対応にも拠点を開設した。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍したと当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [21]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
    • [23]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [22]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [24]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された

高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を構築し、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
    • [26]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
    • [27]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設

カメラで積んだレンズ設計の蓄積は、カメラ以外の光学機器へも向けられた。1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表している。1959年には焦点距離45ミリから200ミリの自社初のスタジオズームIS-I型を出し、外国製を含む他社製品に比べて性能が高かったため、国内の市場占有率は95%を超えた。1960年にはズームとフォーカスを1本の棒で動かす一軸二操作方式のIS-III型を発表し、以後の日本のズームレンズの大半がこの方式を採ることになった。同じ年に始まったカラー放送に対しても分解光学系の研究を早くから進め、各放送局の要望に応えている。1961年5月には、ズームレンズの開発が映画とテレビに果たした功績に対して日本映画技術協会賞が贈られた

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [29]1959年 f=45-200mmF2.8の自社初のスタジオズームIS-I型を発売。他メーカー製品より高性能で国内市場占有率95%超
    • [30]1960年 一軸二操作方式のIS-III型(f=50-200mmF4)を発表。以降の日本のズームレンズの大半がこの方式を採用
    • [31]1960年開始のカラー放送に対し早くから分解光学系の研究を進め各放送局の要望に応えた
    • [32]1961年5月 ズームレンズの開発と一連のキヤノンズームレンズ群が映画やテレビに果たした功績に対し日本映画技術協会賞を受賞
参考文献[21]-[32]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [21]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
    • [23]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
    • [28]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [22]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
    • [25]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
    • [26]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
    • [27]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [24]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [29]1959年 f=45-200mmF2.8の自社初のスタジオズームIS-I型を発売。他メーカー製品より高性能で国内市場占有率95%超
    • [30]1960年 一軸二操作方式のIS-III型(f=50-200mmF4)を発表。以降の日本のズームレンズの大半がこの方式を採用
    • [31]1960年開始のカラー放送に対し早くから分解光学系の研究を進め各放送局の要望に応えた
    • [32]1961年5月 ズームレンズの開発と一連のキヤノンズームレンズ群が映画やテレビに果たした功績に対し日本映画技術協会賞を受賞

1958年〜キヤノネットの中級機参入とシンクロリーダーの挫折

議論に決着をつけたのは、設計課員の構想による自動露出機構の試作が成功したことだった。そこへ至るまでに、会社としての方針が固まらないうちから、とにかく試作は進めてみようと技術部長が道筋を示し、開発の側が先に動いていた。発端は1958年秋で、高級機に特化してきた路線を崩すかどうかをめぐり、社内は二つに割れた。すでに高級機メーカーの地位を得ている以上、わざわざ泥沼に踏み込むことはないとする慎重派と、危うくとも中級機に打って出てカメラ全般を手がけるメーカーを目指すべきだとする推進派がぶつかり、対立は開発設計の担当者の間にも及んでいた。1960年8月、予告した新製品の発売価格を2万円未満とすると明らかにすると、業界から激しい反発が起きた。国内での発売は1961年春へ先送りし、それまでに作った分は残らず輸出に回して収めた

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [33]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [34]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [35]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [36]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
    • [37]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした

キヤノネットの生産は下丸子工場で立ち上げたが、注文が押し寄せたため、先に手に入れていた茨城県取手の用地に残る旧工場棟へ組立てラインを急いで設け、そこからの最初の出荷は1961年3月となった。国内での販売はそれより前の1961年1月に始まっており、本体価格1万9,800円の同機は、明るさに合わせて絞りが自動で決まるシャッター速度優先式の自動露出機構と、45ミリF1.9のレンズを組み合わせており、売れ行きは同年11月までに21万台を上回り、1963年7月には生産の累計が100万台に届いた。カメラ業界がそろって非難の声を上げた件では、のちに公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調べに乗り出したが、安値ダンピングを疑われて喚問された会社側は、原価の構成を示して嫌疑を晴らした。1960年12月期に42億7,000万円だった売上高は1963年12月期には141億円となり、3年で3倍を上回った

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [38]注文が殺到したため取得済みの茨城県取手用地内の旧工場棟に急遽組立てラインを設置。同工場からの初出荷は1961年3月
    • [39]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
    • [40]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
    • [41]カメラ業界の一斉の非難行為に公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査。同社も安値ダンピングの疑いで喚問を受け、原価構成を示して疑いを解いた
  • 会社年鑑
    • [42]1960年12月期 売上高42.70億円、1963年12月期 売上高141億円

東京工業大学の星野豊教授が考え出した磁気録音装置を、シンクロリーダーの名で世に出したのは1959年5月で、紙の印刷物に目を通しながら音声を耳で確かめられる点が売り物だった。時期を同じくして踏み込んだこの新分野では、結末が異なった。製品にすると決めてから発売までは約2年で、途中入社の人員も含めて多くの人手を新しい技術領域に振り向けたにもかかわらず、同年上期の販売は合計850台に終わり、前評判には届かなかった。13万5,000円の本体価格が割高と見られたうえ、その年の秋には他社から安い類似品も現れたうえ、東京芝浦電気と共同で開発し1960年1月に出したシートレコーダーも、販売台数が見込みに達せず、生産の打ち切りに至った。当期純利益は1963年12月期の10億5,000万円から1965年12月期の3億5,000万円へ減少した。異分野へ投じた人員と材料の技術は社内に残り、1964年10月の電子式卓上計算機の発売で事務機分野へ向け直されることになる

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [43]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [44]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [45]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [46]1960年1月 東京芝浦電気との共同開発によるシートレコーダーを発表したが期待に届かず生産打切り
  • 会社年鑑
    • [47]1963年12月期 当期純利益10.5億円、1965年12月期 当期純利益3.5億円
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [48]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出
参考文献[33]-[48]
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [33]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [34]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [35]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
    • [36]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
    • [37]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
    • [38]注文が殺到したため取得済みの茨城県取手用地内の旧工場棟に急遽組立てラインを設置。同工場からの初出荷は1961年3月
    • [39]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
    • [40]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
    • [41]カメラ業界の一斉の非難行為に公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査。同社も安値ダンピングの疑いで喚問を受け、原価構成を示して疑いを解いた
    • [43]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [44]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [45]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
    • [46]1960年1月 東京芝浦電気との共同開発によるシートレコーダーを発表したが期待に届かず生産打切り
  • 会社年鑑
    • [42]1960年12月期 売上高42.70億円、1963年12月期 売上高141億円
    • [47]1963年12月期 当期純利益10.5億円、1965年12月期 当期純利益3.5億円
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [48]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出

第2章 1967年〜 右手にカメラ左手に事務機、普通紙複写機参入と電卓撤退による無配転落

筆者考察y.sugiura, author

1967年から1975年までの9年で、売上高は181億円から749億円へ4倍になった。ところが当期純利益は1970年12月期の23億6,000万円を頂点に、1975年12月期には8億2,000万円まで減少している。事務機は売上を作ったが、利益を作ったとは言い難い。電卓は年率およそ30%の値下げに追われ、部品の合理化では吸収できず、開発のモデルチェンジでしか原価を下げられない商売になっていた。複写機は独自方式を立てるまでに8年を要し、その間に部門は累積10億円の赤字を出している。号令として掲げた二本柱は、載せた二つの商品の性格がまるで違った。

それでも複写機だけが残ったのは、方式を自前で持ったからである。ゼロックスの600件を超える特許を迂回できないと判じた田中宏氏は、カメラの受光素子として研究されていた硫化カドミウムに絶縁層を重ね、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けた。電卓は他社と同じ部品を同じように組む商売で、値下げの速さが競争の焦点になる。複写機は方式そのものが他社と違い、参入したい企業へ特許を与える側に回れた。1975年上期の1億7,177万円の損失と、転換社債の条項が確定させた無配は、右手と左手に載せた商品の違いが決算に表れた結果だった。

当期純利益(単体) 1967年12月期〜1975年12月期(億円)

6.6 67 9.7 68 17.8 69 23.6 70 12.1 71 11.8 72 17.8 73 13 74 8.2 75
  • 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
  • 同じ期間に売上高は181億円から749億円へ伸びている。

1967年〜事務機と光学特機の売上比率42%への急伸とキヤノンへの改称

創立30周年を迎えた1967年の年頭挨拶で、社長の御手洗毅氏は『今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません』と述べた。以後この言葉は社業の進路を表すものとして社内外で繰り返し使われた。前年の1966年に事務機と光学特機の売上は全体の16.5%にとどまっていたが、電卓や複写機といった新製品が加わった1968年には22%、1969年には42%に達している。売上高そのものも1966年12月期の162億円から1969年12月期の333億円へ伸びた。1969年3月1日、カメラ専業という印象を払い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため、商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ改めている3年で事業構成の4割を新しい分野が占めるに至った変化は、号令が数字を作ったというより、事務機の需要が会社の想定を超えて立ち上がったことを示している。

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [49]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
    • [50]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
    • [51]事務機・光学特機部門の売上比率は1966年16.5%、1968年22%、1969年42%
  • 会社年鑑
    • [52]1966年12月期 売上高162億円、1969年12月期 売上高333億円
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [53]1969年3月1日 商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ変更。カメラ専業のイメージを拭い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため

多角化を本格的に広げること、需要の伸びに合わせて生産能力を増やすこと、自社製品を自社ブランドのまま自社の販路で世界へ売る輸出体制をつくること、という三つの狙いを据えたのが第2次長期経営計画で、多角化は第1次計画でまいた種を育てるものだった。期間は1968年から1972年までの5年間とされ、第1次長期経営計画が終わってから1年を空けて策定されて、5年後に社員6,000人・売上高400億円へ届くことを目指した。売上高の目標は新製品の寄与と景気の持ち直しに押されて計画3年目の1970年度に448億円となって早々と上回り、1970年12月期の決算でも経常利益53億5,000万円・当期純利益23億6,000万円と、どちらも前年を超えている計画の枠組みは、売上の規模よりも、誰のブランドで誰の手を通じて売るかに重心を置いていた。

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [54]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [55]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [56]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [57]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
  • 会社年鑑
    • [58]1970年12月期 経常利益53.5億円、当期純利益23.6億円

電卓の最初の機種は、演算素子にトランジスターとダイオードを使ったため、机に載る型といいながら大柄だった。それが1964年5月に発表したキヤノーラ130で、テンキー式の卓上電子計算機としては世界で初めてのものだった。集積回路の技術を身につけさせるため、1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ送った。その成果が表れたのが1968年5月のキヤノーラ163と161Sで、集積回路が全面的に使われた。同年12月に売り出したキヤノーラ1200は、12桁表示で重さは4キログラムだった。定価12万6,000円というこの機械は、同じくらいの性能の品に数十万円の値が付いていた市場を揺さぶった。この機種のために取手工場へ一貫大量生産体制を設け、設計と性能の簡略化とあわせて1桁1万円という価格帯を成立させた。1970年10月には大規模集積回路を用いた世界初の携帯機ポケトロニクを国内で発売した

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [59]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
    • [60]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
    • [61]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
    • [62]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
    • [63]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
    • [64]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
    • [65]1970年10月 LSIを用いた世界初の携帯型計算機キヤノン・ポケトロニクを国内で発売
参考文献[49]-[65]
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [49]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
    • [50]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
    • [51]事務機・光学特機部門の売上比率は1966年16.5%、1968年22%、1969年42%
    • [54]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [55]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [56]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [57]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
    • [59]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
    • [60]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
    • [61]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
    • [62]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
    • [63]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
    • [64]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
    • [65]1970年10月 LSIを用いた世界初の携帯型計算機キヤノン・ポケトロニクを国内で発売
  • 会社年鑑
    • [52]1966年12月期 売上高162億円、1969年12月期 売上高333億円
    • [58]1970年12月期 経常利益53.5億円、当期純利益23.6億円
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [53]1969年3月1日 商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ変更。カメラ専業のイメージを拭い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため

1964年〜ゼロックスの特許網を迂回したNP方式と複写機部門の累積赤字

経営陣が電子複写機を製品にすると決め、開発と生産を担うEプロジェクトを組んだのは1964年9月である。本体だけでなく現像剤や複写用紙などの消耗品が売れる点に、この製品への期待がかかっていた。複写の方式の中で、仕上がりの質が最も高いのは電子写真方式だった。ただしその一種で、感光板にできた像を普通紙に移す間接式のゼロックス方式は、ゼロックス社が600件を超える特許で押さえており、似た製品を作ることはほぼ望めないと見られていた。最初に製品化したのは、特許導入のめどがついていた酸化亜鉛感光紙のエレクトロファックス方式で、1966年5月に70万円前後のキヤノファックス1000を売り出した。複写の速さは毎分6枚だった。ところが3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙機BS-1を29万8,000円で出し、市場は高画質よりも低価格の簡易型へ傾いている

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [66]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
    • [67]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
    • [68]複写機の方式のうちコピーの質は電子写真方式が最も優れていた
    • [69]ゼロックス方式は普通紙へ転写する間接式で、ゼロックス社が600件以上の特許を持ち同種製品の開発はまず不可能とされた
    • [70]1966年5月 エレクトロファックス方式の全自動乾式複写機キヤノファックス1000を70万円前後で発売。毎分6枚のB4判
    • [71]発売の3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙複写機BS-1を29万8,000円で発売し、市場は高画質より低価格の簡易型湿式EFへ向かった

普通紙複写機の自社開発は、1962年に設けられた製品研究課で田中宏氏が担った。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機の開発に加わり、会社が開発事業をやめたために一度は職を離れた経歴を持つ技術者である。ゼロックスの特許を徹底的に調べた結果、小手先の迂回では製品化できないと判じ、カメラの受光素子として研究が進んでいた硫化カドミウムに目を付けた。硫化カドミウムは抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化すれば、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けられる。この構成をNP(New Process)方式と呼び、まず特許の確立に努めた。実用化までの道のりは長く、複写機部門は累積で10億円の赤字を出し、社内には撤退を求める強硬な意見も出た。それでも部門は一時、全員が中央研究所へ移り、本社の費用で開発を続けている

  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
    • [72]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [73]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [74]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [75]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [76]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
    • [77]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
    • [78]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
    • [79]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した

NP方式の第1号機であるNP-1100が市販されたのは1970年、開発に取り組み始めて8年目であった。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、黒い部分の周囲だけが写るエッジ効果がない点が評価されている。複写機部門が事業の土台を固めたのは、1972年11月に世界で最初に実用化した普通紙複写機NP-L7からである。液体の現像剤を使う液乾式で、画質が高いのに原価は安く、これが新しい市場を開いた。売り方は完全保証方式で、1枚7.5円の料金の中に消耗品、交換部品、保守サービスの一切を含めた。販売先はサービス拠点を中心に半径30キロメートル以内、もしくは2時間で駆けつけられる地域に絞っている。社内で複写機を売り込む営業部隊が十分に育っていなかったので、海外で参入を望む企業には進んで特許を与え、技術料も並行して収入の柱にした

  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
    • [80]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
    • [81]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
    • [85]自社に複写機の営業力が育っていなかったため、PPCへの参入意欲が強い海外企業へ積極的に特許を与えて特許収入を得る方針を採った
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [82]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
    • [83]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
    • [84]複写機の販売にはTG(Total Guaranty)方式を採用。NP-1100・1200では1枚7.5円に消耗品・交換部品・保守サービスを含み、販売先はサービス拠点から半径30kmまたは2時間以内に到着できる範囲に限定
参考文献[66]-[85]
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [66]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
    • [67]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
    • [68]複写機の方式のうちコピーの質は電子写真方式が最も優れていた
    • [69]ゼロックス方式は普通紙へ転写する間接式で、ゼロックス社が600件以上の特許を持ち同種製品の開発はまず不可能とされた
    • [70]1966年5月 エレクトロファックス方式の全自動乾式複写機キヤノファックス1000を70万円前後で発売。毎分6枚のB4判
    • [71]発売の3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙複写機BS-1を29万8,000円で発売し、市場は高画質より低価格の簡易型湿式EFへ向かった
    • [82]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
    • [83]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
    • [84]複写機の販売にはTG(Total Guaranty)方式を採用。NP-1100・1200では1枚7.5円に消耗品・交換部品・保守サービスを含み、販売先はサービス拠点から半径30kmまたは2時間以内に到着できる範囲に限定
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
    • [72]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [73]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [74]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [75]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
    • [76]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
    • [77]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
    • [78]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
    • [79]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
    • [80]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
    • [81]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
    • [85]自社に複写機の営業力が育っていなかったため、PPCへの参入意欲が強い海外企業へ積極的に特許を与えて特許収入を得る方針を採った

1973年〜電卓の値下げ競争が招いた在庫と上場以来初の無配

ベル・アンド・ハウエル社は1962年から10年余り北米の総代理店を務めたが、自社製品を売ることを優先し、キヤノン製品には力を割かなかった。欧州での伸びと比べると、市場として最も大きいアメリカの成績は見込みに届いていなかった。提携を解くことは1973年3月、業界の関係者を招いた場で公表された。同年7月、アメリカとカナダ向けのカメラ販売はキヤノンU.S.A.による直販に切り替わり、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、トロントには約50名の販売員が置かれた。電卓でも、同じ年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー社とのOEM契約を打ち切り、自社ブランドと代理店のブランドがぶつかり合う状態をなくした。第2次長期経営計画が掲げた自前の販売網は、まず北米で形になった

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [86]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [87]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [88]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [89]電卓も1973年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー・インターナショナル・ディビジョンとのOEM契約を解消し直販体制へ。キヤノンブランドとの競合関係が解消された
  • 日経ビジネス 1979年5月7日号
    • [90]1979年時点で米国はキヤノンU.S.A.による直販体制、欧州は一国一代理店にまかせていた

電卓の価格は1970年代を通じて下がり続け、10年でおよそ100分の1になった。年率およそ30%の値下げは各生産現場の合理化で吸収できる幅を超えており、開発のモデルチェンジで原価を落とすほかなかった。年間の開発モデルが増えたのはそのためで、日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦の様相を呈している。1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社を含む数社にすぎない。1973年の石油危機による物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇も重なり、経常利益の鈍化は1974年上期に表れて、同期の利益は前年下期と同じ21億円で横ばいに終わった。1974年8月には御手洗毅氏が会長へ退き、1934年に前身の研究所へ入った副社長の前田武男氏が社長に就任している。創業以来はじめての社長交代であった

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [91]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [92]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [93]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [94]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [95]1973年の石油ショックによる物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇で経常利益の鈍化が1974年上期に顕在化し、同期の利益は1973年下期と同じ21億円で横ばい
  • 会社年鑑
    • [96]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
    • [97]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代

1974年春に売り出したパンサーシリーズの電卓に不良問題が起き、電卓を中心とする在庫が急激に増えて経営を圧迫した。パーソナル計算機の需要が膨らむなかで参入の時機を逃し、製品自体も価格と技術の両方に問題を抱えていた。1975年上期の営業報告書は、これを業績悪化の最大の原因に挙げている。この期、売上高は前期より6%少ない337億8,453万円にとどまり、1億7,177万円の損失金を出して、株式上場後で初めての赤字に陥った。繰越利益を取り崩せば配当はできたものの、同年6月にロンドンで出した無担保転換社債に配当を制限する条項があり、これに触れるため配当を見送った。下期には売上高が412億円と過去最高に達し、年1割の配当に戻った。通期の着地は売上高749億円、当期純利益8億2,000万円である。1976年1月に提起された優良企業構想は、内外でどのような事態が起きても揺るがない企業を目指すもので、この無配が経営のあり方に投げかけた問いがきっかけになった

  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [98]1974年春に売り出したパンサーシリーズ電卓の不良問題が発生し、電卓を中心とする在庫の急激な増加が経営を圧迫した
    • [99]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
    • [100]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
    • [101]配当は繰越利益の取崩しで可能だったが、1975年6月にロンドンで発行した無担保転換社債の配当制限条項に抵触するため無配とした
    • [103]1975年上期の無配を受け、内外のいかなる事態にも耐えうる企業の構築を目指す優良企業構想が1976年1月に提起された
  • 会社年鑑
    • [102]1975年下期は売上高412億円と過去最高を記録し年1割に復配。1975年12月期は通期で売上高749億円・当期純利益8.2億円
参考文献[86]-[103]
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
    • [86]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [87]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [88]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
    • [89]電卓も1973年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー・インターナショナル・ディビジョンとのOEM契約を解消し直販体制へ。キヤノンブランドとの競合関係が解消された
    • [91]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [92]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [93]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [94]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
    • [95]1973年の石油ショックによる物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇で経常利益の鈍化が1974年上期に顕在化し、同期の利益は1973年下期と同じ21億円で横ばい
    • [98]1974年春に売り出したパンサーシリーズ電卓の不良問題が発生し、電卓を中心とする在庫の急激な増加が経営を圧迫した
    • [99]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
    • [100]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
    • [101]配当は繰越利益の取崩しで可能だったが、1975年6月にロンドンで発行した無担保転換社債の配当制限条項に抵触するため無配とした
    • [103]1975年上期の無配を受け、内外のいかなる事態にも耐えうる企業の構築を目指す優良企業構想が1976年1月に提起された
  • 日経ビジネス 1979年5月7日号
    • [90]1979年時点で米国はキヤノンU.S.A.による直販体制、欧州は一国一代理店にまかせていた
  • 会社年鑑
    • [96]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
    • [97]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
    • [102]1975年下期は売上高412億円と過去最高を記録し年1割に復配。1975年12月期は通期で売上高749億円・当期純利益8.2億円

第3章 1977-1994 (気が向いたら執筆します!) 賀来龍三郎の再建とレーザー・バブルジェット、HPへのOEM供与と大連進出

第4章 1995-2008 (気が向いたら執筆します!) 御手洗冨士夫のセル生産と原価改善、ニューヨーク上場とアネルバ買収で最高益

第5章 2009-2015 (気が向いたら執筆します!) リーマンショックで頭打ちになった本業とオセ・アクシスの買収

第6章 2016-2026 (気が向いたら執筆します!) 東芝メディカル買収と医療機器ののれん減損、御手洗解任支持と社長交代

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歴史年表 1933〜2026年

キヤノンの沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1933〜1966年御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立創業——医・証券・技術の三者結合が興した国産高級カメラ

1933年11月、映写機技術者・吉田五郎氏、証券マン・内田三郎氏、産婦人科医・御手洗毅氏の三者が東京六本木のアパートで精機光学研究所を興し、舶来品が独占していた高級小型カメラの国産化に挑んだ創業。試作機"Kwanon"は1935年に"Canon"へ改められた。

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★★★
東京目黒に精機光学工業として創立。カメラ製造販売開始
御手洗毅商号をキヤノンカメラに変更
御手洗毅キヤノンカメラと商号変更
御手洗毅東京証券取引所に株式上場
御手洗毅本社工場を新設。北米輸出を本格化
御手洗毅目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立
御手洗毅秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
御手洗毅ニューヨーク支店開設
御手洗毅カメラ不況により減収決算へ
御手洗毅事務機分野に本格参入★★
御手洗毅Canon U.S.A.,Inc.を設立
1967〜1976年右手にカメラ左手に事務機、普通紙複写機参入と電卓撤退による無配転落御手洗毅「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定
御手洗毅普通紙複写機(PPC)分野に参入★★
御手洗毅キヤノンと商号変更
御手洗毅半導体製造装置を発表★★
御手洗毅キヤノン販売に商号変更
前田武男レーザープリンターの開発に成功★★
前田武男無配転落。電卓事業の撤退
1977〜1994年賀来龍三郎の再建とレーザー・バブルジェット、HPへのOEM供与と大連進出賀来龍三郎事業部制による組織の再編と、事務機事業への経営資源の集中

1977年、電卓事業の採算悪化で無配に転落したキヤノンが、前田武男社長の急逝を受けて常務の賀来龍三郎氏を社長に抜擢した経営判断。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業の損益を見えるようにして、多角化を整理し事務機へ研究開発を集中させた。

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★★★
賀来龍三郎バブルジェット記録方式の開発に成功★★
賀来龍三郎大分キヤノンを設立
賀来龍三郎HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ
賀来龍三郎Canon Virginia,Inc.を設立
山路敬三山路敬三氏が代表取締役社長に就任
山路敬三中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立
山路敬三BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け)
御手洗肇御手洗肇氏が代表取締役社長に就任
1995〜2008年御手洗冨士夫のセル生産と原価改善、ニューヨーク上場とアネルバ買収で最高益御手洗冨士夫連結経営への移行と、外部依存を排する自前主義への転換

1995年9月、御手洗冨士夫氏が代表取締役社長に就任し、事業部ごとの採算から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ改めた。技術と販路の自前主義を徹底し、セル生産で在庫を絞って"稼ぐ会社"へ作り替えた経営判断。

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★★★
御手洗冨士夫中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立
御手洗冨士夫セル生産方式を導入
御手洗冨士夫大分キヤノンマテリアルを設立
御手洗冨士夫ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止)
御手洗冨士夫アネルバ(現キヤノンアネルバ)の株式を取得
御手洗冨士夫NECマシナリー(現キヤノンマシナリー)の株式を取得
御手洗冨士夫原価改善により過去最高収益へ
2009〜2015年リーマンショックで頭打ちになった本業とオセ・アクシスの買収内田恒二リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに
内田恒二「自前主義」を返上した初の大型買収

2009年11月16日、キヤノンはオランダの印刷機大手オセ(Océ)を株式公開買付け(TOB)で連結子会社化することを取締役会で決議した。公開買付けは翌2010年3月9日に成立し、その後の追加買付けと優先株式の取得を合わせて持分は87.2%、取得価額は839億円に達した。独自技術にこだわる自前主義を看板としてきたキヤノンが、初めて大型のM&Aで他社の技術と欧米の販路を買い、成長領域の商業印刷へ進んだ転換にあたる。

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★★★
御手洗冨士夫Axis Communicationsを買収発表★★
2016〜2026年東芝メディカル買収と医療機器ののれん減損、御手洗解任支持と社長交代真栄田雅也6,655億円を投じた買収と、医療事業への本格的な参入

2016年、キヤノンは経営再建中の東芝から医療機器子会社の東芝メディカルシステムズを6,655億円で買収した。CT装置で国内首位の同社を得て、医療を次の主力に据える事業転換であった。ただ、各国の競争法当局の承認を待たずに代金を東芝へ払い込む手法を用いたため、公正取引委員会は買収そのものは承認しつつ、その手法に異例の"注意"を行った。

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★★★
御手洗冨士夫Redlen Technologies Inc.の株式を取得
御手洗冨士夫取締役候補を全員男性とした人事と、そのあとに続いた取締役会の組み替え

2023年3月30日の第122期定時株主総会で選任された取締役は5名で、全員が男性だった。内訳は代表取締役会長兼社長CEOの御手洗冨士夫氏、代表取締役副社長CFOの田中稔三氏、代表取締役副社長CTOの本間利夫氏と、社外取締役の齊田國太郎氏・川村雄介氏。取締役の任期は1年で、毎年の総会が信任を問う仕組みになっていた。取締役・監査役・執行役員を合わせた52名のうち女性は2名で、比率は3.8%。その2名はいずれも執行役員であり、取締役会に女性はいなかった。

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★★★
御手洗冨士夫医療機器事業ののれん1,651億円の減損と、本社との一体化への舵切り

2025年1月30日、2024年12月期決算でメディカル報告単位ののれんに減損損失1,651億円を計上した。2024年10月1日を基準日として実施した年次の減損テストで、報告単位の公正価値が帳簿価額を下回ったことによる。 売上高は4兆5,098億円と過去最高を更新しながら、営業利益は2,798億円へ25%減り、親会社株主に帰属する当期純利益は前期比40%減の1,600億円。4期ぶりの減益となった。

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★★★
御手洗冨士夫3度目の社長交代と、CEOを残したままの並走体制

2026年1月29日、取締役副社長の小川一登氏が代表取締役社長COOへ昇格する人事が公表された。就任は3月27日の第125期定時株主総会の直後に開かれる取締役会の決議による。会長兼社長CEOを務めてきた御手洗冨士夫氏は社長を退き、代表取締役会長CEOとして取締役会の議長を続ける。御手洗冨士夫氏が社長を譲るのは2006年、2016年に続いて3度目となる。

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★★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
  • 日経ビジネス 1979年5月7日号
  • 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
  • 新日本経済(1950年10月20日)

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