1933年 御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立
- 1933年精機光学研究所を発足
- 1937年東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立。カメラ製造販売開始。
- 1947年商号をキヤノンカメラに変更
- 1947年キヤノンカメラ株式会社と商号変更。
- 1949年東京証券取引所に株式上場
- 1951年本社工場を新設。北米輸出を本格化
- 1964年電子式卓上計算機を発売、本格的に事務機分野に進出。
キヤノンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
産婦人科医の出資が生んだ国産高級カメラの起点
1933年11月、映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎は、東京六本木のアパートの一室に精機光学研究所を創立した。出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏であり、医業と光学精密工業という無関係に見える世界が一人の出産を通じて結ばれた経緯は、日本経済史でも特異な創業譚として知られる。開発から2年でカメラの国産化に成功し、ブランド名を千手観音の英訳から「kwanon」と名付けたのち、Canonが聖典・規範・標準を意味することにちなみ、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を込めて「Canon」へ改めた。1936年に目黒へ工場を新設して量産体制へ移行し、1937年には資本金100万円で精機光学工業株式会社として正式設立された。1939年にはレンズの自社生産を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器分野へも進出した。 [1][2][3][4]
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
- [3]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]ブランド名は千手観音の英訳「kwanon」を経て「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準を意味し、標準となる優秀なカメラをつくる理想を象徴
- [4]1939年にレンズの生産を開始し、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成して医療機器分野へ進出
1945年の終戦のあと、御手洗毅氏は産婦人科医の職業を断念し経営に専念する決断を下した。外国品の防衛を目的とする優秀な国産カメラの大成は自分以外に担い手がいないという使命感を公に表明し、国産カメラのグローバル展開を企業の存在意義の核として据えた。同社は1945年10月にいちはやく生産を再開し、まもなく送り出した戦後機が進駐軍将兵や来日バイヤーの間で好評を博し、キヤノンの名は海外でも認知を得た。1947年にはキヤノンカメラ株式会社へ社名を変更し、将来の海外展開を見据えたカタカナ表記を採用した。1950年の欧米視察で御手洗氏は「日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた」(御手洗毅 新日本経済 1950/10/20)と述べ、Made in Japan への評価の低さを直視した。 [5][6][7]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]1945年10月に生産を再開。戦後の早期生産機が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評で、キヤノンの名が海外に認められた
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [6]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
- 新日本経済(1950年10月20日)
- [7]1950年の欧米視察で御手洗が日本商品の評価の低さを述べた
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
- [3]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
- [6]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]ブランド名は千手観音の英訳「kwanon」を経て「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準を意味し、標準となる優秀なカメラをつくる理想を象徴
- [4]1939年にレンズの生産を開始し、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成して医療機器分野へ進出
- [5]1945年10月に生産を再開。戦後の早期生産機が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評で、キヤノンの名が海外に認められた
- 新日本経済(1950年10月20日)
- [7]1950年の欧米視察で御手洗が日本商品の評価の低さを述べた
下丸子工場への10倍投資が支えた輸出経営
1951年、御手洗毅氏は英ジャーデンマセソン社と5ヵ年の輸出販売契約を締結し、その実現のため50万ドルの借入を実行した。この資金を原資として東京大田区下丸子に2億円を投じ本社工場を新設したが、当時の資本金2000万円に対して10倍規模の投資であり、通常の経営判断を超えた賭けだった。同じ年には東京銀座にサービスセンターを開設して国内顧客への対応体制も整えた。ダイヤモンドは完成当初の同工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」(ダイヤモンド 1956/10/23)と評している。高級カメラに特化する戦略と、規模の先行投資で品質と数量を同時に担保する生産設計は、のちの自社の海外展開を支える物理的基盤として長く働いた。若い会社が自社の将来像を定義していたことの証左でもある。 [8][9][10][11]
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [8]1951年11月 本社工場を新設し北米輸出を本格化(下丸子)
- [9]東京大田区下丸子に本社工場を新設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [10]1951年に東京銀座にサービスセンターを開設
- ダイヤモンド(1956年10月23日)
- [11]ダイヤモンドが下丸子工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評した
高級カメラへの特化によって売上高利益率は10%超を維持し、2億円の投資はわずか3年で回収された。1955年にはニューヨーク支店を開設して現地販売体制を構築し、米国市場への直接アクセスを得た。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の経営哲学のもと、品質に自信を持てるまでは輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切るリズムが会社に定着した。数年単位での品質確立と量産開始のサイクルは、カメラメーカーとしての評価を国際市場で築く基礎となり、戦後日本の高級精密機器輸出モデルの原型を形成した。品質優先の選択はブランド価値の蓄積として長期に還流した。 [12]
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [12]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [8]1951年11月 本社工場を新設し北米輸出を本格化(下丸子)
- [9]東京大田区下丸子に本社工場を新設
- [12]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [10]1951年に東京銀座にサービスセンターを開設
- ダイヤモンド(1956年10月23日)
- [11]ダイヤモンドが下丸子工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評した