創業1933吉田五郎・内田三郎・御手洗毅(創業者)
上場1949-
創業地東京都港区六本木
2025/12 売上高46,247億円YoY+2.5%
2025/12 営業利益4,821億円YoY+60.1%
FY25 単体平均給与882万円前年度比+16万円

キヤノンの源流は1933年11月に映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎が東京六本木のアパートで創業した精機光学研究所にある。出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅だった。創業から2年でカメラの国産化に成功し、ブランド名を「kwanon」から「Canon」へ改め、1937年に精機光学工業として資本金100万円で正式設立された。終戦を機に医業を断念した御手洗毅は経営に専念し、1947年にキヤノンカメラ株式会社へ改称した。1951年には下丸子に資本金の10倍となる2億円を投じて本社工場を新設し、快心の作が出るまでは量産を自重する経営哲学を貫いた。

1967年に「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化方針を打ち出したのち、電卓の価格競争からの撤退と1975年の無配転落を経て、1977年に就任した賀来龍三郎のもとで事業部制導入と研究開発の事務機集中が本格化した。1985年のHP社とのLBP OEM供給契約をテコに事務機メーカーとしての世界的な地位を築き、1990年にはBJ-10vでインクジェット市場でも二大ブランドとなり、連結売上高は1兆円を突破した。2000年代以降はデジタル化とM&Aによる拡張を並行し、2015年のアクシス買収と2016年の東芝メディカル買収で新たな柱を得た。直近では関税とメモリ価格上昇の逆風下でPhase VII計画の規律を両立させる段階にあり、新社長人事、フォトンカウンティングCT、ナノインプリント、プリンティング市場の巻き返しが焦点となる。

キヤノン:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY02
FY03
FY04
FY05
FY06
FY07
FY08
FY09
FY10
FY11
FY12
FY13
FY14
FY15
FY16
FY17
FY18
FY19
FY20
FY21
FY22
FY23
FY24
FY25
FY26
FY27
FY28
御手洗冨士夫
代..
代表取締役会長
代表取締役会長兼社長..
代表取締役会長CEO
代表取締役会長兼社長CEO
歴代社長
FY05
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FY25
御手洗冨士夫
代表取締役社長
御手洗冨士夫
代表取締役会長
御手洗冨士夫
代表取締役会長兼社長CEO
御手洗冨士夫
代表取締役会長CEO
御手洗冨士夫
代表取締役会長兼社長CEO
キヤノン:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
海外機関投資家が御手洗社長の解任を支持2023
東芝メディカルを買収2016
Axis Communicationsを買収発表2015
リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに2009
NECマシナリー(株)(現キヤノンマシナリー(株))の株式を取得。2005

歴史概略

1933年〜1966御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立

産婦人科医の出資が生んだ国産高級カメラの起点

1933年11月、映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎は、東京六本木のアパートの一室に精機光学研究所を創立した。出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅であり、医業と光学精密工業という無関係に見える世界が一人の出産を通じて結ばれた経緯は、日本経済史でも特異な創業譚として知られる。開発から2年でカメラの国産化に成功し、ブランド名を千手観音の英訳から「kwanon」と名付けたのち、国際市場を念頭に「Canon」へ改めた。1936年に目黒へ工場を新設して量産体制へ移行し、1937年には資本金100万円で精機光学工業株式会社として正式設立された。海外展開を前提としたブランディングの発想が創業期から存在していた。

1945年の終戦を機に、御手洗毅は産婦人科医の職業を断念し経営に専念する決断を下した。外国品の防衛を目的とする優秀な国産カメラの大成は自分以外に担い手がいないという使命感を公に表明し、国産カメラのグローバル展開を企業の存在意義の核として据えた。1947年にはキヤノンカメラ株式会社へ社名を変更し、将来の海外展開を見据えたカタカナ表記を採用した。1950年の欧米視察で御手洗は「日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた」(御手洗毅 新日本経済 1950/10/20)と述べ、Made in Japan への評価の低さを直視した。戦後の混乱期に将来の海外市場を見据えた経営判断を下した御手洗の決意は、戦後日本の輸出主導企業の原型を示した。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノン社史
  • 新日本経済 1950/10/20
  • ダイヤモンド 1956/10/23

下丸子工場への10倍投資が結実した輸出経営

1951年、御手洗毅は英ジャーデンマセソン社と5ヵ年の輸出販売契約を締結し、その実現のため50万ドルの借入を確保した。この資金を原資として東京大田区下丸子に2億円を投じ本社工場を新設したが、当時の資本金2000万円に対して10倍規模の投資であり、通常の経営判断を大きく超えた賭けだった。ダイヤモンドは完成当初の同工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」(ダイヤモンド 1956/10/23)と評している。高級カメラに特化する戦略と、規模の先行投資で品質と数量を同時に担保する生産設計は、のちのキヤノンの海外展開を支える物理的基盤として長く機能した。若い会社が自社の将来像を定義していたことの証左でもある。

高級カメラへの特化によって売上高利益率は10%超を維持し、2億円の投資はわずか3年で回収された。1955年にはニューヨーク支店を開設して現地販売体制を構築し、米国市場への直接アクセスを確保した。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅の経営哲学のもと、品質に自信を持てるまでは輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切るリズムが会社に定着した。数年単位での品質確立と量産開始のサイクルは、カメラメーカーとしての評価を国際市場で築く基礎となり、戦後日本の高級精密機器輸出モデルの原型を形成した。品質優先の選択はブランド価値の蓄積として長期に還流した。

キヤノン業績推移
  • 1950年にFY売上3.78億円・純利益0.032億円・従業員623名だった同社は、1955年にFY売上18.84億円・純利益3.07億円・従業員985名まで拡大した。
  • 5年で売上は約5倍、純利益は約96倍に伸び、下丸子への10倍投資が高級カメラ特化と米国販路開拓で短期回収された過程を数値で裏付けている。
unit売上高当期純利益従業員数
億円3.80.0623
億円6.30.7690
億円9.40.9778
億円13.71.4798
億円17.41.8983
億円18.83.1985
出所会社年鑑(1950年版〜1956年版) (FY1950)
参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノン社史
  • 新日本経済 1950/10/20
  • ダイヤモンド 1956/10/23

1967年〜1994事務機への経営転換と売上高1兆円突破という飛躍

電卓撤退から賀来龍三郎の経営改革まで

1967年にキヤノンは「今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません」(御手洗毅 キヤノン社史)という多角化方針を策定し、複写機や電卓など複数の新規事業を並行して立ち上げた。しかし電卓事業は1970年代の激烈な価格競争で採算が悪化し、週刊東洋経済は「キメ手を欠く多角化路線」(週刊東洋経済 1972/01/15)と評価した。1975年にはキヤノンが無配に転落して電卓事業からの撤退を余儀なくされた。経営混乱の只中で前田社長が急逝する事態も重なり、1977年には常務だった賀来龍三郎が副社長と専務を飛ばす異例の形で社長に抜擢された。賀来は就任と同時に過去の経営に甘さが出ていたと公言し、事業部制の導入によってカメラ・事務機・光学の各事業部に損益責任を持たせる組織改革に着手した。

賀来はさらに研究開発投資を事務機に集中させ、複写機とプリンターの開発を加速させた。週刊東洋経済は就任直後の状況について「事務機の総合化は、キヤノンの命題だが、その場合は、それだけ付加価値の高い、製品差別化ができるかどうか」(週刊東洋経済 1977/07/30)と厳しい見方を示したが、のちに日経ビジネスは「ダメ会社キヤノンに生気を吹き込み、見事不死鳥のようによみがえらせたのは、常識的に言えば一介のサラリーマン経営者に過ぎない賀来龍三郎である。だが、並のサラリーマン経営者では決してない」(日経ビジネス 1983/10/31)と総括している。分散していた多角化の方針を整理し、成長事業への資源配分を明確化したことが、のちの事務機メーカーとしての飛躍の出発点となった。事業部制の導入は各事業の採算責任を可視化し、経営の規律を全社に浸透させた。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノン社史
  • 週刊東洋経済 1972/1/15
  • 週刊東洋経済 1977/7/30
  • 日経ビジネス 1983/10/31
  • 日経ビジネス 1990/1/1

HP社OEMが開いたLBP世界シェア70%の扉

1985年にキヤノンは米HP社と業務協力提携を締結し、レーザービームプリンター(LBP)のOEM供給を始めた。自社ブランドの販路を独自に構築するのではなく、世界最大級のIT企業をOEM先として選び、販売コストを抑えつつグローバル市場を取り込むという、当時の日本企業として大胆な選択だった。LBPの世界シェアは1990年時点で70%に達し、HP社向け販売高はFY2002に6110億円という規模に達した。自社ブランドの認知度を最優先する通常のメーカー発想から離れて、収益の本質を押さえるため販売の前面をパートナーに譲る判断は、のちの日本企業の海外展開戦略にも大きな示唆を残し、OEM供給をブランド毀損ではなく規模獲得の手段と位置づける先例となった。

賀来社長の在任10年間である1977年から1987年までに、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへの事業構造転換を完成させた。1990年にはBtoC向けインクジェットプリンター「BJ-10v」を発売し、PCの普及に伴って拡大するプリンター需要を取り込むことにも成功した。日経ビジネスは1990年元日号の表紙特集で「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」(日経ビジネス 1990/01/01)と報じ、売上高1兆円を突破した同社の躍進を描いた。無配転落からわずか10年で収益構造を転換する経営のターンアラウンドを果たした。カメラ事業からの撤退ではなく両立のなかで重心を移す選択は、のちに映像事業でのブランド維持と事務機事業での収益最大化を同時に実現する構造的な土台となった。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノン社史
  • 週刊東洋経済 1972/1/15
  • 週刊東洋経済 1977/7/30
  • 日経ビジネス 1983/10/31
  • 日経ビジネス 1990/1/1

1995年〜2023デジタル化対応と大型M&Aによる事業領域の拡張

デジタル化への対応と海外売上八割の構造

1990年代後半からデジタルカメラの普及が本格化し、フィルムカメラからの移行が加速した。キヤノンはEOSシリーズでデジタル一眼レフ市場の先頭集団を走り続け、映像事業の収益基盤の維持に成功した。2000年代には海外売上高比率が80%に達し、事務機と映像の二本柱でグローバル事業を展開する体制が完成した。生産面では国内を中心とした製造体制を維持しつつ、中国やベトナムなどアジア諸国での生産拠点の拡大も並行して進め、為替変動と地政学リスクへの耐性を強化した。グローバルな生産と販売のネットワークが有機的に結びつき、為替・地政・金融市場という多面的な変動にある程度耐えうる構造が形成された。

御手洗冨士夫社長(創業者の甥)のもとで「キヤノングローバル戦略」を推進し、研究開発拠点と生産拠点のグローバル配置を進めることで、地域ごとの市場特性に応じた製品開発と現地生産の両立を試みた。御手洗は座右の銘を「なにくそ」(御手洗冨士夫 日本経済新聞「私の履歴書」2026/01)と記し、弱さや逆境を意地で押し返す経営方針を自らの原点と語っている。カメラという創業時からの主力事業はブランドの象徴として維持しつつも、収益の中心は事務機と新規事業へ移行した。会社全体の性格が単一の製品軸から複数の事業軸へ拡張されたことで、キヤノンは変動の多いグローバル市場での耐性と複数の成長ドライバーを並列で抱える企業として再定義された。その過程は、創業期から続く経営哲学の上に市場環境に応じた事業の再解釈を積み重ねる長期的な適応の歴史でもあった。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノンIR
  • 決算説明会 FY22
  • 日本経済新聞「私の履歴書」2026/01

医療とネットワークカメラへのM&A拡張という賭け

2000年代以降のキヤノンは、複写機とプリンター市場の成熟を見据えて新しい事業領域への進出を加速させた。御手洗冨士夫は「次の成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けた」(御手洗冨士夫 日本経済新聞「私の履歴書」2026/01)と後年回想している。2015年にはスウェーデンのアクシスコミュニケーションズを買収してネットワークカメラ事業を取得し、監視カメラ分野で世界首位の地位を獲得した。翌2016年には東芝メディカルシステムズを約6655億円の巨額で買収し、医療機器分野への本格参入を果たした。これらの大型M&Aは、キヤノンの長年にわたる光学とイメージングの技術的蓄積を新しい応用領域へ拡張する試みであり、成熟した事務機市場の代替となる新しい成長ドライバーを探索する経営判断でもあった。

FY2022/12期には連結売上高4兆314億円を計上し、1933年に東京六本木のアパートで生まれたカメラメーカーは約90年の時を経て4兆円規模の精密機器企業へ成長した。カメラと事務機で培われた光学技術とイメージング技術を軸としつつ、医療や監視カメラという新たな事業領域への展開を進めた。創業者の御手洗毅が掲げた、外国品の防衛を目的とする優秀な国産カメラを大成させるという使命は、そのまま現代の精密機器グローバル企業としてのキヤノンの姿へ直接つながっている。多角化とM&Aによる事業拡張は、創業期の賭けを繰り返しながらスケールを増してきた長い適応の軌跡そのものだ。外国品との競争という原点の課題設定が現代まで一貫している点で、同社の経営哲学は連続的だ。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • キヤノンIR
  • 決算説明会 FY22
  • 日本経済新聞「私の履歴書」2026/01

直近の動向と展望

Phase VII五ヵ年計画と戦略投資・還元の両立

キヤノンは現行のPhase VII五ヵ年経営計画のもとで、株主還元として5年間累計1兆円以上を配分する方針を掲げ、2026年1月には2000億円の自己株式取得枠の設定を決議した。Phase VIIでは機動的な戦略投資枠として2兆円の資金を設定しており、第一優先は成長投資、第二は株主還元、第三に借入金返済という優先順位を定めたうえで、M&Aなど成長投資の機会があれば優先的に実行し、機会がなければ株価水準を見ながら自社株買いなどの株主還元へ振り向ける方針である。自己株式は将来のM&A対価やストックオプションの原資として保有する位置づけで、直近での消却計画は持たないと経営陣は説明している。創業期の下丸子工場への10倍投資以来の成長機会優先の哲学が反映されている。

2026年の業績計画では、米国関税影響が通年で前年比マイナス115億円、DRAM価格上昇による部材コスト増が約60から70億円、レアアース供給リスクが内在するなど、外部環境からの逆風が複層的に並んでいる。値上げによる価格対応は846億円規模と織り込んでいるが、関税についてはグループ全体で前年比マイナス73億円の利益影響が残る見通しだ。プリンティング事業ではレーザープリンターの市場シェア低下を価格優位性のある新製品投入で挽回する計画で、2026年は保守的な前提を置く。メディカル事業では構造改革の継続で100億円以上の改善効果を見込みつつ、フォトンカウンティングCTの発売を控えた開発費用の先行計上が利益成長を一時的に抑制する見通しだ。

参考文献
  • 決算説明会 FY25
  • 経営方針説明会 2025/3
  • 決算説明会 FY25本決算 2026/1

新社長人事とフォトンカウンティングCT・ナノインプリント

2026年3月期の決算発表に合わせ、キヤノンは小川新社長への代表取締役交代を発表した。新社長は海外販売会社で30年以上の経験を持ち、主力販売会社であるキヤノンUSAの社長やキヤノン中国の副社長を歴任して業績を残してきた人物で、次期経営トップに求められる資質のうち海外経験とグローバル感覚を強みとしている。人選プロセスは社外取締役中心の指名報酬委員会で諮ったうえで取締役会で決定するというガバナンス上の規律に沿って進め、GEの幹部研修の仕組みを取り入れた経営塾の卒業生から複数の候補者を育成して比較評価するという独自の手法を採用した。新社長はPhase VIIの計画策定にも深く関与しており、計画実行の中心に据えられる。

メディカル事業ではフォトンカウンティングCTの発売を目前に控え、開発費と米国・新興国でのチャネル拡大のための販売投資が合計で約100億円の費用増として計画に織り込まれている。半導体露光装置事業ではナノインプリント技術の本格的な売上寄与を2027年以降と見込んでおり、2026年計画には織り込まないが、顧客評価の進捗次第で上振れの可能性が残されている。i線露光装置の販売台数はパワー半導体需要の低迷と後工程向け需要のバランスのなかで前年比減少となる見通しで、露光装置事業全体は短期的な踊り場にある。Phase VIIが示す多角化企業としての新しい姿は、創業期の下丸子工場への賭けから続くキヤノン流の、準備が整った段階で量産と投資に踏み切るという経営リズムを現代に引き継ぐ。

参考文献
  • 決算説明会 FY25
  • 経営方針説明会 2025/3
  • 決算説明会 FY25本決算 2026/1

重要な意思決定

1933年11月

精機光学研究所を発足

キヤノンの創業は技術者2人の構想に産婦人科医の御手洗毅が出資したことで始まった。出資者が本業を断念して経営に専念する判断は、終戦による医院焼失と国産カメラへの使命感が重なった結果であった。株式保有5%未満で同族経営の資本的裏付けを持たないまま、御手洗家がキヤノンの創業家として経営に関与し続ける出発点でもあった。

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1951年11月

本社工場を新設。北米輸出を本格化

キヤノンは英マセソン社からの借入金を全額設備投資に充て、資本金の10倍に相当する2億円で下丸子工場を新設した。債務超過リスクを負った巨額投資であったが、高級カメラへの特化と量産効果により売上高利益率10%超を維持し、3年で投資を回収した。品質への自信が持てるまで輸出を急がなかった御手洗の方針が、Made in Japanの不信用を実績で覆した。

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1977年6月

賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任

前田社長の急逝に伴い、常務から副社長・専務を飛ばして社長に抜擢された賀来龍三郎は、前任経営陣を「経営に甘さが出ていた」と公言して組織改革に着手した。事業部制の導入で各事業の損益を可視化し、多角化の整理と事務機への研究開発投資の集中を推進した。1985年のHP社との提携でLBPのOEM供給を開始した判断は、自社販路の構築ではなく外部パートナーの販路を活用する設計であり、無配転落から10年で売上高1兆円に至る成長の起点であった。

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歴史的証言

日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた

御手洗毅

新日本経済 1950/10/20

木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した

ダイヤモンド

ダイヤモンド 1956/10/23

今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません

御手洗毅

キヤノン社史

キメ手を欠く多角化路線

週刊東洋経済

週刊東洋経済 1972/01/15

事務機の総合化は、キヤノンの命題だが、その場合は、それだけ付加価値の高い、製品差別化ができるかどうか

週刊東洋経済

週刊東洋経済 1977/07/30

ダメ会社キヤノンに生気を吹き込み、見事不死鳥のようによみがえらせたのは、常識的に言えば一介のサラリーマン経営者に過ぎない賀来龍三郎である。だが、並のサラリーマン経営者では決してない

日経ビジネス

日経ビジネス 1983/10/31

連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した

日経ビジネス

日経ビジネス 1990/01/01

なにくそ

御手洗冨士夫

日本経済新聞「私の履歴書」2026/01

次の成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けた

御手洗冨士夫

日本経済新聞「私の履歴書」2026/01

参考文献・出所

有価証券報告書
キヤノン社史
新日本経済 1950/10/20
ダイヤモンド 1956/10/23
週刊東洋経済 1972/01/15
週刊東洋経済 1977/07/30
日経ビジネス 1983/10/31
日経ビジネス 1990/01/01
キヤノンIR
決算説明会 FY22
日本経済新聞「私の履歴書」2026/01
決算説明会 FY25
経営方針説明会 2025/03
決算説明会 FY25本決算 2026/01
新日本経済
ダイヤモンド
週刊東洋経済
日経ビジネス
経営方針説明会
決算説明会 FY25本決算