1933年に吉田五郎氏と内田三郎氏が東京に開設した精機光学研究所が起源。
1975年に開発したレーザープリンターを1985年からHP社へOEM供与し、事務機へ軸を移した。売上の過半をプリンティングが占め、カメラではニコンと並ぶ二大ブランドである。
下丸子へ投じた2億円は、注文が積み上がってから設備を足す順序ではなく、工場を先に建てて製品を後から入れる順序を選んだ投資だった。資本金2000万円の10倍という規模は、当時のカメラ工場の常識を外れている。その賭けが3年で回収できたのは、高級機に絞って売上高利益率10%超を保てたからであり、快心の作が出るまで量産を自重するという御手洗毅氏の方針と表裏をなしていた。品質で選ばれる市場にとどまる限り、数量と価格の競争に引き込まれずに済む。ジャーデンマセソンとの総代理店契約もニューヨーク支店も、その前提の上に置かれた輸出の装置である。
その前提を自ら崩したのがキヤノネットだった。1万9,800円という値付けはカメラ業界の一斉の反発を招き、公正取引委員会の調査にまで及んでいる。9か月で21万台、2年半で100万台という数量は、高級機の商売とは原価の作り方が違う。注文に追われて取手用地の旧工場棟へ急ぎ組立てラインを敷いたのは、量産体制が足りないことを認めた手続きだった。同じ時期に踏み出した磁気録音装置のシンクロリーダーは850台で終わったが、そこへ投じた人員と材料の技術は消えず、電卓と複写機へ充当された。カメラで確立した輸出の装置は、カメラ以外の商品も売り込めるかを次の10年に試されることになる。
1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田三郎氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ、はじめ千手観音にちなむ"Kwanon"と名付けたものの、まもなく"Canon"へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組した。1939年にはレンズの内製を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している。
戦時統制は、創業の商品である高級カメラを市場から締め出した。横須賀海軍病院の横倉誠次郎軍医大佐は、海軍で結核の集団検診を実現しようとしており、その要望を聞いて1940年6月にX線間接撮影カメラの設計へ入り、大佐の示した仕様をもとに同年12月に仕上げた。同じ1940年の7月には奢侈品等製造販売制限規則が出され、1台500円を超える写真機は売ることができなくなった。同じ年の12月に決まった公定価格は、キヤノン最新型で卸384円、小売480円である。1941年には月産70台から74台という最高の生産能力に届いたものの、ほとんどは軍部向けで、民間へはもう回らなかった。写真機に代わって主力の座に据えられたのが、このX線間接撮影カメラだった。1942年上半期には、国民厚生上必須の製品として軍部をはじめ各方面からの需要が多く、X線間接撮影カメラは主要製品の地位を占めるまでに育っていた。
取締役社長に御手洗毅氏が就任したのは1942年9月で、これに先立つ同年2月、最高責任者だった内田三郎氏が公用でシンガポールへ発つにあたり、全従業員を集めた場で取締役の御手洗毅氏に後事を託していた。敗戦翌月の1945年10月には早くも生産を立て直し、翌1946年に世に出たキヤノンS型は進駐軍の将兵や日本を訪れた買い付け人から評判を得て、海外でキヤノンの名が知られるきっかけになった。産婦人科医を辞めて経営に打ち込むようになったのもこのころで、御手洗毅氏は外国製品と張り合える国産カメラを完成させることを事業の目的に掲げた。商号をキヤノンカメラ株式会社に改めたのが1947年9月、東京証券取引所に株式を上場したのが1949年5月で、これで資本市場から資金を調達できるようになった。1950年の欧米視察で御手洗毅氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。
1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出に着手した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し、国内の顧客対応にも拠点を開設した。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍したと当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。
高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を構築し、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。
カメラで積んだレンズ設計の蓄積は、カメラ以外の光学機器へも向けられた。1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表している。1959年には焦点距離45ミリから200ミリの自社初のスタジオズームIS-I型を出し、外国製を含む他社製品に比べて性能が高かったため、国内の市場占有率は95%を超えた。1960年にはズームとフォーカスを1本の棒で動かす一軸二操作方式のIS-III型を発表し、以後の日本のズームレンズの大半がこの方式を採ることになった。同じ年に始まったカラー放送に対しても分解光学系の研究を早くから進め、各放送局の要望に応えている。1961年5月には、ズームレンズの開発が映画とテレビに果たした功績に対して日本映画技術協会賞が贈られた。
議論に決着をつけたのは、設計課員の構想による自動露出機構の試作が成功したことだった。そこへ至るまでに、会社としての方針が固まらないうちから、とにかく試作は進めてみようと技術部長が道筋を示し、開発部門が先に動いていた。発端は1958年秋で、高級機に特化してきた路線を崩すかどうかをめぐり、社内は二つに割れた。すでに高級機メーカーの地位を得ている以上、あえて中級機に参入する必要はないとする慎重派と、危うくとも中級機に打って出てカメラ全般を手がけるメーカーを目指すべきだとする推進派がぶつかり、対立は開発設計の担当者の間にも及んでいた。1960年8月、予告した新製品の発売価格を2万円未満とすると明らかにすると、業界から激しい反発が起きた。国内での発売は1961年春へ先送りし、それまでに作った分は残らず輸出に回して収めた。
キヤノネットの生産は下丸子工場で立ち上げたが、注文が押し寄せたため、先に取得していた茨城県取手の用地に残る旧工場棟へ組立てラインを急いで設け、そこからの最初の出荷は1961年3月となった。国内での販売はそれより前の1961年1月に始まっており、本体価格1万9,800円の同機は、明るさに合わせて絞りが自動で決まるシャッター速度優先式の自動露出機構と、45ミリF1.9のレンズを組み合わせており、売れ行きは同年11月までに21万台を上回り、1963年7月には生産の累計が100万台に達した。カメラ業界がそろって非難の声を上げた件では、のちに公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査を始めたが、安値ダンピングを疑われて喚問された会社側は、原価の構成を示して嫌疑を晴らした。1960年12月期に42億7,000万円だった売上高は1963年12月期には141億円となり、3年で3倍を上回った。
東京工業大学の星野豊教授が考え出した磁気録音装置を、シンクロリーダーの名で世に出したのは1959年5月で、紙の印刷物に目を通しながら音声を耳で確かめられる点が売り物だった。時期を同じくして参入したこの新分野では、結末が異なった。製品にすると決めてから発売までは約2年で、途中入社の人員も含めて多くの人手を新しい技術領域に振り向けたにもかかわらず、同年上期の販売は合計850台に終わり、前評判には届かなかった。13万5,000円の本体価格が割高と見られたうえ、その年の秋には他社から安い類似品も現れたうえ、東京芝浦電気と共同で開発し1960年1月に出したシートレコーダーも、販売台数が見込みに達せず、生産の打ち切りに至った。当期純利益は1963年12月期の10億5,000万円から1965年12月期の3億5,000万円へ減少した。異分野へ投じた人員と材料の技術は社内に残り、1964年10月の電子式卓上計算機の発売で事務機分野へ向け直されることになる。
1967年から1975年までの9年で、売上高は181億円から749億円へ4倍になった。ところが当期純利益は1970年12月期の23億6,000万円を頂点に、1975年12月期には8億2,000万円まで減少している。事務機は売上を作ったが、利益を作ったとは言い難い。電卓は年率およそ30%の値下げに追われ、部品の合理化では吸収できず、開発のモデルチェンジでしか原価を下げられない商売になっていた。複写機は独自方式を立てるまでに8年を要し、その間に部門は累積10億円の赤字を出している。号令として掲げた二本柱は、載せた二つの商品の性格がまるで違った。
それでも複写機だけが残ったのは、方式を自前で持ったからである。ゼロックスの600件を超える特許を迂回できないと判じた田中宏氏は、カメラの受光素子として研究されていた硫化カドミウムに絶縁層を重ね、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けた。電卓は他社と同じ部品を同じように組む商売で、値下げの速さが競争の焦点になる。複写機は方式そのものが他社と違い、参入したい企業へ特許を与える側に回れた。1975年上期の1億7,177万円の損失と、転換社債の条項が確定させた無配は、右手と左手に載せた商品の違いが決算に表れた結果だった。
創立30周年を迎えた1967年の年頭挨拶で、社長の御手洗毅氏は『今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません』と述べた。以後この言葉は社業の進路を表すものとして社内外で繰り返し使われた。前年の1966年に事務機と光学特機の売上は全体の16.5%にとどまっていたが、電卓や複写機といった新製品が加わった1968年には22%、1969年には42%に達している。売上高そのものも1966年12月期の162億円から1969年12月期の333億円へ伸びた。1969年3月1日、カメラ専業という印象を払い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため、商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ改めている。3年で事業構成の4割を新しい分野が占めるに至った変化は、号令が数字を作ったというより、事務機の需要が会社の想定を超えて立ち上がったことを示している。
多角化を本格的に広げること、需要の伸びに合わせて生産能力を増やすこと、自社製品を自社ブランドのまま自社の販路で世界へ売る輸出体制をつくること、という三つの狙いを据えたのが第2次長期経営計画で、多角化は第1次計画でまいた種を育てるものだった。期間は1968年から1972年までの5年間とされ、第1次長期経営計画が終わってから1年を空けて策定されて、5年後に社員6,000人・売上高400億円を達成することを目指した。売上高の目標は新製品の寄与と景気の持ち直しに支えられて計画3年目の1970年度に448億円となって早々と上回り、1970年12月期の決算でも経常利益53億5,000万円・当期純利益23億6,000万円と、どちらも前年を超えている。計画の枠組みは、売上の規模よりも、誰のブランドで誰の手を通じて売るかに重心を置いていた。
電卓の最初の機種は、演算素子にトランジスターとダイオードを使ったため、机に載る型といいながら大柄だった。それが1964年5月に発表したキヤノーラ130で、テンキー式の卓上電子計算機としては世界で初めてのものだった。集積回路の技術を身につけさせるため、1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ送った。その成果が表れたのが1968年5月のキヤノーラ163と161Sで、集積回路が全面的に使われた。同年12月に売り出したキヤノーラ1200は、12桁表示で重さは4キログラムだった。定価12万6,000円というこの機械は、同じくらいの性能の品に数十万円の値が付いていた市場を揺さぶった。この機種のために取手工場へ一貫大量生産体制を設け、設計と性能の簡略化とあわせて1桁1万円という価格帯を成立させた。1970年10月には大規模集積回路を用いた世界初の携帯機ポケトロニクを国内で発売した。
経営陣が電子複写機を製品にすると決め、開発と生産を担うEプロジェクトを組んだのは1964年9月である。本体だけでなく現像剤や複写用紙などの消耗品が売れる点に、この製品への期待がかかっていた。複写の方式の中で、仕上がりの質が最も高いのは電子写真方式だった。ただしその一種で、感光板にできた像を普通紙に移す間接式のゼロックス方式は、ゼロックス社が600件を超える特許で押さえており、似た製品を作ることはほぼ望めないと見られていた。最初に製品化したのは、特許導入のめどがついていた酸化亜鉛感光紙のエレクトロファックス方式で、1966年5月に70万円前後のキヤノファックス1000を売り出した。複写の速さは毎分6枚だった。ところが3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙機BS-1を29万8,000円で出し、市場は高画質よりも低価格の簡易型へ傾いている。
普通紙複写機の自社開発は、1962年に設けられた製品研究課で田中宏氏が担った。田中宏氏はオリエンタル写真工業で複写機の開発に加わり、会社が開発事業をやめたために一度は職を離れた経歴を持つ技術者である。ゼロックスの特許を徹底的に調べた結果、小手先の迂回では製品化できないと判じ、カメラの受光素子として研究が進んでいた硫化カドミウムに目を付けた。硫化カドミウムは抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化すれば、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けられる。この構成をNP(New Process)方式と呼び、まず特許の確立に努めた。実用化までの道のりは長く、複写機部門は累積で10億円の赤字を出し、社内には撤退を求める強硬な意見も出た。それでも部門は一時、全員が中央研究所へ移り、本社の費用で開発を続けている。
NP方式の第1号機であるNP-1100が市販されたのは1970年、開発に取り組み始めて8年目であった。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、黒い部分の周囲だけが写るエッジ効果がない点が評価されている。複写機部門が事業の土台を固めたのは、1972年11月に世界で最初に実用化した普通紙複写機NP-L7からである。液体の現像剤を使う液乾式で、画質が高いのに原価は安く、これが新しい市場を開いた。売り方は完全保証方式で、1枚7.5円の料金の中に消耗品、交換部品、保守サービスの一切を含めた。販売先はサービス拠点を中心に半径30キロメートル以内、もしくは2時間で駆けつけられる地域に絞っている。社内で複写機を売り込む営業部隊が十分に育っていなかったので、海外で参入を望む企業には進んで特許を与え、技術料も並行して収益源にした。
ベル・アンド・ハウエル社は1962年から10年余り北米の総代理店を務めたが、自社製品を売ることを優先し、キヤノン製品には力を割かなかった。欧州での伸びと比べると、市場として最も大きいアメリカの成績は見込みに届いていなかった。提携を解くことは1973年3月、業界の関係者を招いた場で公表された。同年7月、アメリカとカナダ向けのカメラ販売はキヤノンU.S.A.による直販に切り替わり、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、トロントには約50名の販売員が置かれた。電卓でも、同じ年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー社とのOEM契約を打ち切り、自社ブランドと代理店のブランドがぶつかり合う状態をなくした。第2次長期経営計画が掲げた自前の販売網は、まず北米で形になった。
電卓の価格は1970年代を通じて下がり続け、10年でおよそ100分の1になった。年率およそ30%の値下げは各生産現場の合理化で吸収できる幅を超えており、開発のモデルチェンジで原価を落とすほかなかった。年間の開発モデルが増えたのはそのためで、日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦の様相を呈している。1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社を含む数社にすぎない。1973年の石油危機による物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇も重なり、経常利益の鈍化は1974年上期に表れて、同期の利益は前年下期と同じ21億円で横ばいに終わった。1974年8月には御手洗毅氏が会長へ退き、1934年に前身の研究所へ入った副社長の前田武男氏が社長に就任している。創業以来はじめての社長交代であった。
1974年春に売り出したパンサーシリーズの電卓に不良問題が起き、電卓を中心とする在庫が急激に増えて経営を圧迫した。パーソナル計算機の需要が膨らむなかで参入の時機を逃し、製品自体も価格と技術の両方に問題を抱えていた。1975年上期の営業報告書は、これを業績悪化の最大の原因に挙げている。この期、売上高は前期より6%少ない337億8,453万円にとどまり、1億7,177万円の損失金を出して、株式上場後で初めての赤字に陥った。繰越利益を取り崩せば配当はできたものの、同年6月にロンドンで出した無担保転換社債に配当を制限する条項があり、これに触れるため配当を見送った。下期には売上高が412億円と過去最高に達し、年1割の配当に戻った。通期の着地は売上高749億円、当期純利益8億2,000万円である。1976年1月に提起された優良企業構想は、内外でどのような事態が起きても揺るがない企業を目指すもので、この無配が経営のあり方に投げかけた問いがきっかけになった。
1974年暮れ、同年8月に常務へ就任したばかりの賀来龍三郎氏は、会長の御手洗毅氏に個人用電卓からの撤退を直訴した。その年の暮れ、電卓の製品在庫は前年同期の9億4000万円から21億7000万円に膨らんでいた。無配ののち、賀来龍三郎氏は優良企業構想の立案から実施までを中心で担った。1977年5月に社長の前田武男氏が死去し、6月2日の取締役会で51歳の賀来龍三郎氏が社長に就任した。1978年1月にはカメラ・事務機・光学機器の3事業部制を本格的に敷き、国内外の販売会社を地域事業部と位置づけた。下丸子と玉川の工場には複数の事業が雑居しており、事業部長は権限を持ちながら場所の取り合いに追われていた。そこで小杉工場に光学機器、福島工場にカメラ、取手工場に事務機を振り分け、事業部ごとに工場を持たせた。
優良企業構想は、1976年からの3年間で日本の、続く3年間で世界の優良企業になる計画だった。1979年の年頭には、予定どおり後半の目標である世界の優良企業を掲げた。尺度は成長性・安定性・収益性のすべてで優れることとし、開発・生産・販売にキヤノン式の仕組みを作る委員を置いた。生産ではコストダウンの目標を初年度60億〜70億円、2年度100億円、3年度120億円とし、ほぼ達成した。販売では、独自の製品を出しても1〜2年で後発に追い抜かれることを反省点とした。賀来龍三郎氏は複写機の販売力がリコーに遠く及ばないとみて、技術で製品を差別化する方針を取った。人事では、キヤノンUSAで直販網を築いた滝川精一氏を呼び戻し、国内販売を統括するキヤノン販売の社長に充てた。
1976年度の販売総額は1,019億円と初めて1,000億円を超え、その65%を輸出が占めた。米国では、キヤノンUSAのカメラ売上高が1976年に1億4000万ドルに達し、日本製カメラの約25%を占めた。欧州の生産拠点である西独のキヤノン・ギーセンは、1979年夏にアムステルダムの販売会社の管理から本社の管轄へ移った。需要の繁閑に合わせて増減産する運営を改め、手送りの工程をベルトコンベヤーに換えて3年以内に月産を倍にする計画を立てた。1981年12月期の単独売上高は2,820億円、経常利益は260億円だった。優良企業構想を掲げてから、10期連続で増収増益を重ねている。販売を直販で押さえ、工場を本社の計画に組み込み直したことが、輸出の伸びを利益に結びつけたとみられる。
1970年代後半、製品技術研究所は複写機の次を担う記録技術を調べ、インクジェット方式に参入の余地があると判断した。既存のインクジェット技術は未完成とみて、研究グループを再発足させた。1977年、実験中のはんだごてがインク入りの注射針に触れ、熱でインクが噴き出す現象が見つかった。同じ年に、中央研究所の技術者だった遠藤一郎氏がこの原理を発明し、特許を出願している。熱で泡を作ってインクを押し出す方式は、ヒーターを並べてノズルを増やせるため、高速印字への道を開いた。1981年8月に「バブルジェット」と名付け、同年11月のキヤノングランドフェアで技術を展示した。量産の第1号ヘッドを積んだBJ80は1985年に生産を始め、不良を直して同年10月に再開した。
1979年4月に投入したレーザービームプリンターLBP-10は、価格の高さが導入先を一部の専門分野にとどめた。ワープロやパソコン向けの大きな市場に出るため、ミニコピアのカートリッジ方式を使った小型のLBP-CXを開発した。米国で他社が小型機を売り始めたと知り、事務機事業本部長の山路敬三氏は1983年4月に試作機を持って渡米した。各社を回ったこの訪問が、ヒューレット・パッカード社などのOEM先の獲得につながった。同じ1983年4月には、HP社とバブルジェットヘッドの開発協力契約も結んでいる。1984年2月発売のLBP-CXは、1986年までの出荷累計55万台のうち90%がOEMだった。パソコンから出力するソフトを自前で作れず、自社のセールスマンが直接売る方式を取れなかったためである。
1985年秋からの円高で、1986年12月期の経常利益は前期の425億円から131億円に減少した。同年下期には営業損益が赤字になり、減配に追い込まれた。賀来龍三郎氏は、日本の強い製造業が国外へ出て、国の競争力が低下していくと見ていた。1988年1月に賀来龍三郎氏が打ち出した「第2の創業ビジョン」は、国境を越えて世界と共に栄える真のグローバル企業への転換を目標とした。市場のある地域に生産拠点を置き、製品企画から研究開発、製造、販売までを現地で一貫させる方針である。1987〜88年に玉川工場を閉鎖して大分工場へ生産を移し、電子タイプライター事業は事業部ごと米国へ移した。約18%だった海外生産比率は、2000年までに60%へ高める目標を置いた。1988年12月期の経常利益は435億円と、円高前の最高を上回った。
1989年3月末、11年9カ月社長を務めた賀来龍三郎氏は会長となり、山路敬三氏が社長に就任した。同年9月、中国に佳能大連事務機有限公司を設立した。賀来龍三郎氏は1989年、NIESは為替が上がりアセアンもコストが上がっていくと見ていた。11億人の人口を抱える中国はコストの上がり方が最も遅く、最終的な生産基地になるという判断である。中国の近代化を支えることは、第2の創業で掲げた世界人類との共生にもつながると位置づけた。1988年のマレーシアに続き、1989年に大連、1990年に中国・珠海とタイへ製造拠点を広げた。大連工場は、世界から回収したプリンター用カートリッジを再生する最終工程も担った。
1990年に発売したノート型の「BJ-10v」が、バブルジェットプリンターの需要を一気に広げた。原理の発明から10年を経ても売上が伸びず、1987年夏に副社長の田中宏氏がLBPの開発部隊をBJPに合流させた。最初から個人を狙い、1987年暮れにキャビネットに収まる大きさと7万4800円の価格を決めた。BJPの販売台数は1993年に300万台、売上は900億円に達した。1994年6月中間期の経常利益は285億円と前年同期比83%増え、この時期の輸出比率は約80%だった。1994年3月末に36%だった連結の海外生産比率は、1995年3月末に45%へ上げる計画だった。本体が普及するほどインクの需要が積み上がるため、円高の吸収を支えたのは消耗品の収益だったのだろう。
1993年3月、創業者の御手洗毅氏の長男である御手洗肇氏が社長に就任した。就任した1993年は円高が1300億円の減益要因となり、利益が半減した。同年7月には1ドル100円を想定した「CR100」を始め、10%程度だった部品の海外調達比率を2倍にする目標を置いた。国内の既存工場は生産品目を入れ替えて残し、解雇につながる閉鎖はしない方針を取った。1994年12月期の経常利益は44%増え、円高の影響は650億円にとどまった。1995年3月、御手洗肇氏は国内の空洞化を防ぎながらドル建ての国際価格に対応する方針を示した『空洞化を防ぎ、なおかつ、グローバル対応ができることを身をもって示したいと思います。』。このとき経営を率いていたのは、御手洗肇氏と田中宏・御手洗冨士夫の両副社長の3人だった。御手洗肇氏は1995年8月、社長在任のまま死去した。
1995年、社長の御手洗肇氏が在任中に死去し、副社長の御手洗冨士夫氏が後任の社長に就任した。御手洗冨士夫氏は1989年に23年の米国駐在を終えて帰任していた。帰任後は管理部門の責任者として赤字事業の問題を指摘したが、当時の序列は5番目で提案は通らなかった。社長就任時の借入金は8400億円に達し、事業部制の行き過ぎが投資の無駄と赤字事業の拡大を生んでいた。御手洗冨士夫氏は短期の目標を財務の立て直しに置き、米国で学んだ連結とキャッシュフローで損益を見る方式を全社に持ち込んだ。同じ1995年には、分散していた複写機とプリンターの技術者約1300人を、1996年3月開設の富士裾野リサーチパークへ集約すると決めた。
御手洗冨士夫氏は会社の目的を利益の追求と定め、事業はその手段と位置づけた。そのうえで不採算の事業から大小7つを一度に撤退し、年間260億円を超えていた赤字を損益から外した。撤退は損益が堅調だった1996年から1997年に終え、タイプライターやパソコンが対象に入った。パソコンから撤退した理由は、東芝・NEC・富士通がLSIを自社で作るのに対し、キヤノンは購入部品を組み立てるだけだった点にある。基幹技術を自前で持たない事業は続けないという基準だった。ただしパソコンの技術者は社内に残し、デジタル複写機の心臓部にあたるコントローラーの開発に充てた。撤退後はデジタルカメラなどの新事業を立ち上げ、国内の雇用を維持した。
1996年、キヤノンは5年を1期とする中長期の経営計画「グローバル優良企業グループ構想」を始めた。全体最適と利益優先を判断の基準に置き、第1期は事業の選択と集中、財務体質の強化に充てた。1998年8月時点で、連結業績は4期連続の増収増益と2期連続の最高益更新を記録していた。第1期を終えた2000年12月期の連結売上高は2兆6964億円、当期純利益は1340億円だった。構想前の1995年12月期の連結当期純利益は550億円だった。御手洗冨士夫氏は2002年の年次報告書で、第1期を『The management reformation strategies we introduced in 1996 under Phase I of the Excellent Global Corporation Plan placed Canon firmly on the path to profitability.』(訳:1996年に構想の第1期として導入した経営改革が、キヤノンを収益の軌道に確実に乗せた)と総括した。事業を先に絞ったため、構想は規模の目標ではなく利益の目標として機能したとみられる。
キヤノンは1997年から生産ラインのベルトコンベヤーを外し、少人数で製品を組み上げるセル生産を全面的に取り入れた。御手洗冨士夫氏が調べると、年間50億円のコストダウンは外注先への値下げ要請に依存し、工場自身の改善は進んでいなかった。指導にはトヨタ生産方式を広めたPEC産業教育センター所長の山田日登志氏を招いた。複写機工場では仕掛品が20日分から7〜8日分に減り、完成品の在庫は2か月分から半減した。生産性は中級機で4割、高級機で3割改善した。御手洗冨士夫氏は全社の切り替えについて、『Our Groupwide shift to cell production, which was completed in 2002, eliminated more than 20 kilometers of conveyor belt and dozens of automated storage systems, freeing large volumes of internal and external floor space.』(訳:2002年に完了したグループ全体のセル生産への移行で、20kmを超えるベルトコンベヤーと数十の自動倉庫を撤去し、社内外の広い床面積を空けた)と記した。
在庫の圧縮は、借入金の返済と研究開発の原資を同時に生んだ。仕掛品と部品の在庫が減って工場の運転資金は3分の1以下となり、千数百億円の資金が浮いた。1998年12月末から1999年10月末にかけて在庫は600億円減り、円高で減収減益の年でも現金は増えた。有利子負債は1992年12月期に8218億円あり、2001年9月末の2.8倍の水準だった。一方で2000年12月期の研究開発費は売上高の7%にあたる1945億円、設備投資は1709億円を維持した。御手洗冨士夫氏は、次の収益源が育つまでの間を財務体質を整えたまま耐えることを、キャッシュフロー経営の目的に置いた。キヤノンは2002年の年次報告書で『By reducing our dependency on debt, we have freed sufficient capital to invest in new technology development without relying on debt financing.』(訳:借入への依存を減らしたことで、借入に頼らずに新技術の開発へ投資できる資本を確保した)と記した。
2000年9月、キヤノンはニューヨーク証券取引所に上場した。キヤノンは連結財務諸表を米国会計基準で作成しており、開示の基準はすでに米国の投資家と揃っていた。1999年時点で連結売上高に占める日本国内の比率は27%程度で、キヤノン製品に限れば20%を下回っていた。従業員約8万人のうち半数以上が日本人以外だった。御手洗冨士夫氏は、米国人の6割がキヤノンを米国の会社と認識しているという調査結果も挙げていた。御手洗冨士夫氏は同じ時期、日本・米国・欧州に本社を置く3本社制を構想し、米欧の本社代表を日本本社の役員に加える考えを示していた。売上と人員の過半を海外に置く会社として、株主の構成も米国の市場へ開く必要があると判断したのだろう。
2001年からの構想第2期で、キヤノンは基幹部品とデバイスの自社開発を主要戦略に置き、年次報告書に『Developing key components and devices in-house is a primary strategy under Phase II of the Excellent Global Corporation Plan』(訳:基幹部品とデバイスの自社開発は、グローバル優良企業グループ構想第2期の主要戦略である)と記した。御手洗冨士夫氏は米国の販売会社で、決め手のないパソコンやカムコーダーの販売に苦労した経験から、基幹部品の内製を重んじた。デジタル一眼レフの光センサーは、1999年にNKKから工場を取得し、三菱電機から技術を導入して自社で作った。電子写真のエンジンに関する米国の特許登録件数は、1998年の178件から2002年には270件に増え、競合各社を上回った。2005年には米国特許の取得件数で民間2位となり、14年続けて上位3社に入った。
2005年9月30日、キヤノンは真空薄膜技術を持つアネルバの全株式を取得して子会社とし、10月1日にキヤノンアネルバへ改称した。狙いは、製品の差別化に欠かせないと判断した製造装置を自社で持ち、新たなディスプレー事業にも備えることにあった。重点はSEDパネルを低コストで量産する生産技術と設備に置いた。同じ年には大阪証券取引所第2部に上場していたNECマシナリーの株式も取得した。自動化機械の設計・製造技術を持つ同社は、キヤノンマシナリーとしてグループに加わった。キヤノンは2005年に生産自動化の特別委員会を設け、人手に依存しない生産方式の確立を目標に掲げた。2006年からの構想第3期は、国際競争力を保つ新しい生産システムの確立を5つの重点戦略の一つとした。
2006年5月、御手洗冨士夫氏は日本経団連の会長に就任し、キヤノンでは会長兼CEOに移った。後任の社長兼COOには内田恒二氏が就任し、構想第3期の目標達成を新体制で進めることになった。2007年12月期の連結営業利益は7566億7300万円、売上高は4兆4813億円だった。内田恒二氏は2008年の目標について、『we are confident that Canon will achieve sales and profit growth for a ninth consecutive year.』(訳:キヤノンは9期連続の増収増益を達成できると確信している)と記した。しかし2008年10月27日、米国の金融機関の破綻に端を発した世界的な株安と円高を受け、通期の見通しを引き下げた。修正後の見通しは売上高4兆2500億円、営業利益5800億円だった。経営の分担を分けた直後に外部環境が急変し、第3期の成長の前提が崩れたと推察される。
2008年秋の予想修正のあと、2009年12月期の連結売上高は3兆2092億円となり、前期の4兆941億円から減少した。営業利益は4961億円から2171億円へ減少した。年報は減少率を売上高で21.6%、営業利益で56.2%と示し、世界景気の後退と円高を要因に挙げた。キヤノンは在庫の圧縮で現金収支を確保し、健全な財務を保った。そのうえで年報は『Canon, aiming to become one of the world’s top 100 companies, views 2010 as the first year in a new era of growth.』(訳:世界の上位100社入りを目指すキヤノンは、2010年を新たな成長の元年と位置づける)と記した。社長の内田恒二氏は、2010年がフェーズIIIの最終年にあたると記し、既存の主力事業すべてで世界首位を固める方針を示した。
2009年11月16日、キヤノンはオランダのオセを連結子会社にする契約の締結を取締役会で決議した。狙いは、フェーズIIIの重要戦略である主力事業での世界首位を、プリンティング全般で実現することだった。キヤノンは2006年に独自技術で商業印刷市場へ参入していた。オセは売上の約4割を米国で上げ、業務用大判プリンターで欧米の高いシェアを持っていた。お知らせは製品の補完、研究開発力、30以上の国の販売・サービス網を効果に挙げた。日米欧の三極で進める国際多角化の第一歩とも位置づけた。買付価格は1株8.6ユーロで、11月13日の終値に70%を上乗せした。社長の内田恒二氏は年報で『We are also working to expand our commercial printing business through the merger with Océ N.V. as well as the Company’s digital production systems and large-format inkjet printers.』(訳:オセとの統合と、自社のデジタル印刷システムや大判インクジェットプリンターで、商業印刷事業の拡大にも取り組む)と記した。
2010年3月4日、キヤノンはオセ株式を取得して子会社にすることを取締役会で決議した。取得は3652万160株、3億1400万ユーロで、所有割合は28.3%から71.3%に上がる計画だった。同年6月28日には、装置子会社のキヤノンマシナリーとトッキを株式交換で完全子会社にする契約を結んだ。キヤノンマシナリーについては、新興国の人件費上昇に備えて自動化・無人化の生産を急ぐことを理由に挙げた。トッキについては、有機ELと太陽電池の製造装置を産業機器事業の成長に欠かせない事業とみた。内田恒二氏は2009年の年報で、次世代の領域に知能化生産ロボットを挙げていた。オセで事務機の外の販路を得て、装置子会社で生産の効率と産業機器を固める二正面の手当てだったとみられる。
2011年、キヤノンは5カ年計画「グローバル優良企業グループ構想」のフェーズIVを始めた。目標は2015年に連結売上高5兆円以上、営業利益率20%以上、当期純利益率10%以上だった。起点の2010年12月期の売上高は3兆7069億円だった。会長の御手洗冨士夫氏は年報のインタビューで、フェーズIIIは2008年の金融危機で事業規模が縮んだと振り返った。そのうえで既存製品を他分野へ展開し、医療と産業機器を新事業として育てる方針を示した。多角化を日本の外でも進めるため、米欧にも本社機能を置く三極本社体制を掲げ、その要にオセを置いた。御手洗冨士夫氏は『In Phase IV, we plan to complete the Three Regional Headquarters management system through the promotion of further M&A.』(訳:フェーズIVでは、さらなるM&Aを進めて三極本社体制を完成させる)とも記した。
2011年11月9日、子会社のキヤノンマーケティングジャパンは、JASDAQ上場の昭和情報機器への公開買付けを決めた。昭和情報機器は連続帳票の漢字プリンター「SXシリーズ」を主力とし、競争力のある製品を持つ提携先を必要としていた。キヤノンマーケティングジャパンは2010年11月から、昭和情報機器とオセのオフィス向けプリンターの販売で提携していた。公開買付けは、印刷会社を中心とする商業印刷の顧客に、オセ製品を含めて接近する狙いを掲げた。買付けは12月20日に終わった。キヤノンとオセの共同開発製品は、2011年3月と9月に発売されていた。オセについては2013年に完全子会社にし、高速印刷システムで商業印刷と包装印刷の市場に参入した。
2012年1月30日、キヤノンは代表取締役の異動を取締役会で内定した。3月29日付で会長CEOの御手洗冨士夫氏が会長兼社長CEOに就任し、社長COOの内田恒二氏は相談役に就任した。リリースは異動の理由を『To promote steady advancement towards achieving the Company’s goals in Phase IV of the Excellent Global Corporation Plan (2011 – 2015) amid the challenging business environment.』(訳:厳しい事業環境のもとで、フェーズIVの目標達成へ着実に前進するため)とした。連結売上高は2011年12月期に3兆5574億円、2012年12月期に3兆4797億円と2年続けて減少した。御手洗冨士夫氏は2012年の年報で、世界景気の減速と歴史的な円高を業績低下の要因に挙げた。同じ年報で、レーザープリンターとデジタルカメラの世界首位は保ったと記した。計画2年目で5兆円の目標から遠ざかったため、会長が執行も兼ねて改革を急ぐ体制に改めたと推察される。
2013年12月期の連結売上高は3兆7313億円、2014年12月期は3兆7272億円だった。3年ぶりの増収増益は、大幅な円安の効果によるものだった。同じ年報で、スマートフォンの普及によりコンパクトデジタルカメラの販売台数が減ったと記した。2014年の売上高はほぼ横ばいで、キヤノンは売上より利益を重んじる方針のもと、売上総利益率を49.9%に上げた。コンパクトカメラでは操作性と画質を磨いてスマートフォンのカメラとの差を広げ、携帯機器との連携も高める方針を取った。事務機とカメラの2事業だけでは、2015年に売上高5兆円を達成する見通しが立たなくなっていたのだろう。
2015年2月10日、キヤノンはスウェーデンのアクシスの全株式を対象とする公開買付けを取締役会で決議した。お知らせは、フェーズIVの重要戦略「グローバル多角化による新たな事業の獲得」を背景に挙げた。映像監視システムの市場は拡大を続けており、キヤノンはネットワーク監視カメラを成長の原動力となる新規事業と位置づけた。アクシスは1984年創業のネットワークビデオの首位企業で、世界に7万5000社の販売パートナーを抱えていた。買付価格は1株340スウェーデンクローネ、総額は約3337億円で、自己資金を充当する計画だった。キヤノンは同じ分野で、マイルストーン・システムズもグループに加えていた。
フェーズIVの最終年の2015年12月期、連結売上高は3兆8002億円で、5兆円の目標を下回った。年報は、欧州の債務危機や新興国の減速を受け、規模拡大の方針を改めて財務体質の強化を優先したと記した。一方でキヤノンは、既存事業の横展開とM&Aで新しい事業を加えた。M&Aの対象は商業印刷、ネットワークカメラ、ナノインプリントの3分野だった。年報は『In these ways, Canon has initiated a shift from B2C to B2B, adding new business segments to such maturing core businesses as cameras and office equipment.』(訳:こうしてキヤノンは、カメラや事務機という成熟した主力事業に新たな事業を加え、B2CからB2Bへの転換に着手した)と総括した。新規事業が売上高に占める比率は、2014年の約10%から2015年に13%へ上がった。既存事業に大きな成長は見込めず、その利益で新規事業を立ち上げることが次の計画の前提となった。
2016年3月17日、キヤノンは東芝から東芝メディカルシステムズの全株式を約6,655億円で取得する契約を結んだ。取得の理由には、同年に始めたフェーズVの新規事業の強化拡大のなかで、ヘルスケアを次世代の収益源の一つに育てることを掲げた。東芝メディカルシステムズはCTで国内首位にあり、X線・MRI・超音波・核医学まで製品群を揃えていた。キヤノンはそれまでX線画像診断機器用センサーを供給する取引先にとどまっていた。競争法当局の承認がそろった2016年12月19日、キヤノンは株式の取得を決議して子会社とした。会長CEOの御手洗冨士夫氏は2026年の統合報告書で、大型の買収は時間を買う手段だったと振り返っている。
2016年3月30日の総会後、専務取締役でイメージコミュニケーション事業本部長の真栄田雅也氏が社長COOに就任した。御手洗冨士夫氏は社長の兼務を解き、会長CEOとして残った。この交代は同年1月27日に、経営体制の一層の強化を理由として発表されていた。7月の決算説明会で会社側は、事務機とカメラの2016年見通しを前年比約10%の減収、新規事業を11%の増収と示した。新規事業の売上比率は2015年の13%から2016年に15%程度へ上がる見通しだった。既存事業の役割について、会社側は『既存事業は収益源であり、大きな成長は期待できないが、その生み出す利益をもとに如何に新規事業を立ち上げるか、という観点で重要である』と答えた。カメラ事業を率いた真栄田雅也氏に既存事業の執行を任せ、御手洗冨士夫氏が買収を含む事業の組み替えを担う分担だったと推察される。
買収後の医療は、2019年の実績で前回計画を下回った。2017年7月、欧州委員会は東芝メディカルシステムズ買収の手続きについて異議告知書を出した。2017年12月期の決算説明会で、会社側は見解の提出期限が延び、進展はないと説明した。同じ説明会で、医療は2020年に売上高6,000億円・営業利益率10%以上を目標とした。施策には画像処理技術による共同開発、販売網の統合、生産技術と調達力の活用を挙げた。未達の主な理由は、日本の消費増税後の反動が想定を上回ったことだった。会社側は2019年後半に投入したCTとMRIの高付加価値機で製品構成を改善し、サービス収入も増やすとした。
2020年5月1日、社長COOの真栄田雅也氏が健康上の理由で代表取締役と取締役を辞任した。同日の取締役会は、会長CEOの御手洗冨士夫氏が社長を兼務すると決議した。御手洗冨士夫氏は1995年、2012年に続き、3度目の社長就任となった。真栄田雅也氏は代表権を離れ、技術最高顧問に就任した。社長を兼ねた御手洗冨士夫氏は、この時点で84歳だった。年報2020は、フェーズVの成果として2016年にキヤノンメディカルシステムズを迎え、医療へ本格参入したことを挙げた。同じ年報は、感染拡大と世界的な景気後退の下で5年間を終えたと記した。感染拡大で先行きの読めない時期に後任を選び直すより、経営経験の長い会長が執行を兼ねる方を選んだとみられる。
2020年7月、キヤノンは中間配当を前年の1株80円から40円に引き下げた。キヤノンはそれまで減配しない方針をとってきた。会社側は、中長期の業績とキャッシュフローで配当を決める方針に変更はないとした。そのうえで新型コロナウイルスを経験のないリスクと位置づけ、『今回、この難局を乗り切るために、キャッシュフローを最優先に考え、減配を決定した』と説明した。期末配当は感染の収束状況と業績を見て決めるとして、この時点では未定とした。同じ説明会で、前年の約300億円に続き約150億円の追加の構造改革を示した。投資キャッシュフローは成長に向けたM&Aの枠を確保し、年初の2,100億円から2,350億円に増やした。2020年12月期の親会社株主に帰属する当期純利益は833億円で、前期の1,249億円から減少した。
2021年、キヤノンはフェーズVIを始め、生産性の向上と新規事業の創出で事業ポートフォリオの転換を加速すると定めた。前提はフェーズVの結果で、商業印刷・ネットワークカメラ・医療・産業機器の売上比率は2015年の9%から2020年に28%へ上がった。2022年1月の決算説明会で会社側は、借入金の返済を終える時期を2023年と見込んだ。完済後は配当性向50%を目途とする考えで、『従って、25年の利益ベースでは、減配前の水準まで戻せることになる』とした。期初の決算短信に配当予想を載せた理由は、投資家の声を反映したためと説明した。買収で増えた借入金を返し終えてから還元を厚くする順序を、配当予想の開示で先に示したと考えられる。
2023年3月30日の第122期定時株主総会で、御手洗冨士夫氏の取締役再任への賛成率は50.59%だった。賛成は3,757,240個、反対は3,655,508個で、差は約10万個にとどまった。同時に選任された田中稔三氏ら4名の賛成率は77.32%から92.31%の範囲にあった。1935年生まれの御手洗冨士夫氏は、総会の時点で87歳だった。キヤノンが女性を執行役員に登用したのは2015年だった。翌2024年、キヤノンは女性の取締役を選任し、取締役を5名から10名に増やした。選任された取締役5名に女性がいない構成に対し、取締役会の多様性を重んじる機関投資家が反対票を投じたのだろう。
2025年1月30日、キヤノンは2024年12月期に医療事業ののれんの減損損失1,651億円を計上したと公表した。理由には地政学的リスクによる事業の縮小、中国の景気低迷、国内医療機関の経営悪化を挙げた。保守的な販売予測で将来計画を見直すと、事業価値が帳簿価額を下回った。1年前の決算説明会で会社側は、買収後の4年で売上を1,000億円伸ばしたと説明していた。一方で人件費の増加とロシア・中国の販売不振から、利益は想定を下回ったとした。2024年2月には生産・調達・物流を見直すメディカル事業革新委員会を設けた。減損後の説明会では、先進国2%・新興国7%程度の成長を前提に計画を見直したとし、『達成可能な保守的な販売前提のもと見直しており、追加的な減損リスクはないと考えている』と答えた。
2026年1月の2025年12月期決算説明会で、キヤノンは小川一登氏を新社長に選んだ理由を説明した。小川一登氏は海外の主要販売会社で30年以上を過ごし、キヤノンU.S.A.社長とキヤノン中国副社長を務めた。会社側は、小川一登氏がフェーズVIIの策定に深く関わり、実行の中心を担うと位置づけた。御手洗冨士夫氏は社長の兼務を解き、会長CEOとなった。統合報告書2026には、自らの役割を『I will focus on overseeing the Group as a whole and formulating strategy, while entrusting the execution of operations to Mr. Ogawa.』(訳:私はグループ全体の統括と戦略の策定に注力し、業務執行は小川一登氏に委ねる)と記した。フェーズVIIの説明会では、医療は前半に構造改革で収益力を回復させ、後半にCTと超音波の新製品で売上を拡大する計画を示した。
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事実根拠:出所(キヤノン)