キヤノン

の歴史

創業
1933年
創業地
東京都港区六本木
創業者
吉田五郎・内田三郎・御手洗毅
上場
1949年
売上高(2025/12)
4.62 兆円
営業利益(2025/12)
4,821 億円
従業員数(2025/12)
経営トップ
御手洗冨士夫
キヤノンの長期業績と経営の転換点売上高と利益率の長期推移
売上高(億円純利益率(%)

1933 御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立

  1. 1933年精機光学研究所を発足
  2. 1937年東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立。カメラ製造販売開始。
  3. 1947年商号をキヤノンカメラに変更
  4. 1947年キヤノンカメラ株式会社と商号変更。
  5. 1949年東京証券取引所に株式上場
  6. 1951年本社工場を新設。北米輸出を本格化
  7. 1964年電子式卓上計算機を発売、本格的に事務機分野に進出。

キヤノンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

産婦人科医の出資が生んだ国産高級カメラの起点

1933年11月、映写機技術者の吉田五郎と証券マンの内田三郎は、東京六本木のアパートの一室に精機光学研究所を創立した。出資者は内田の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏であり、医業と光学精密工業という無関係に見える世界が一人の出産を通じて結ばれた経緯は、日本経済史でも特異な創業譚として知られる。開発から2年でカメラの国産化に成功し、ブランド名を千手観音の英訳から「kwanon」と名付けたのち、Canonが聖典・規範・標準を意味することにちなみ、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を込めて「Canon」へ改めた。1936年に目黒へ工場を新設して量産体制へ移行し、1937年には資本金100万円で精機光学工業株式会社として正式設立された。1939年にはレンズの自社生産を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器分野へも進出した。 [1][2][3][4]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [3]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]ブランド名は千手観音の英訳「kwanon」を経て「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準を意味し、標準となる優秀なカメラをつくる理想を象徴
    • [4]1939年にレンズの生産を開始し、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成して医療機器分野へ進出

1945年の終戦のあと、御手洗毅氏は産婦人科医の職業を断念し経営に専念する決断を下した。外国品の防衛を目的とする優秀な国産カメラの大成は自分以外に担い手がいないという使命感を公に表明し、国産カメラのグローバル展開を企業の存在意義の核として据えた。同社は1945年10月にいちはやく生産を再開し、まもなく送り出した戦後機が進駐軍将兵や来日バイヤーの間で好評を博し、キヤノンの名は海外でも認知を得た。1947年にはキヤノンカメラ株式会社へ社名を変更し、将来の海外展開を見据えたカタカナ表記を採用した。1950年の欧米視察で御手洗氏は「日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた」(御手洗毅 新日本経済 1950/10/20)と述べ、Made in Japan への評価の低さを直視した。 [5][6][7]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1945年10月に生産を再開。戦後の早期生産機が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評で、キヤノンの名が海外に認められた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [6]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [7]1950年の欧米視察で御手洗が日本商品の評価の低さを述べた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [3]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
    • [6]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]ブランド名は千手観音の英訳「kwanon」を経て「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準を意味し、標準となる優秀なカメラをつくる理想を象徴
    • [4]1939年にレンズの生産を開始し、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成して医療機器分野へ進出
    • [5]1945年10月に生産を再開。戦後の早期生産機が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評で、キヤノンの名が海外に認められた
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [7]1950年の欧米視察で御手洗が日本商品の評価の低さを述べた

下丸子工場への10倍投資が支えた輸出経営

1951年、御手洗毅氏は英ジャーデンマセソン社と5ヵ年の輸出販売契約を締結し、その実現のため50万ドルの借入を実行した。この資金を原資として東京大田区下丸子に2億円を投じ本社工場を新設したが、当時の資本金2000万円に対して10倍規模の投資であり、通常の経営判断を超えた賭けだった。同じ年には東京銀座にサービスセンターを開設して国内顧客への対応体制も整えた。ダイヤモンドは完成当初の同工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」(ダイヤモンド 1956/10/23)と評している。高級カメラに特化する戦略と、規模の先行投資で品質と数量を同時に担保する生産設計は、のちの自社の海外展開を支える物理的基盤として長く働いた。若い会社が自社の将来像を定義していたことの証左でもある。 [8][9][10][11]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [8]1951年11月 本社工場を新設し北米輸出を本格化(下丸子)
    • [9]東京大田区下丸子に本社工場を新設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]1951年に東京銀座にサービスセンターを開設
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [11]ダイヤモンドが下丸子工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評した

高級カメラへの特化によって売上高利益率は10%超を維持し、2億円の投資はわずか3年で回収された。1955年にはニューヨーク支店を開設して現地販売体制を構築し、米国市場への直接アクセスを得た。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の経営哲学のもと、品質に自信を持てるまでは輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切るリズムが会社に定着した。数年単位での品質確立と量産開始のサイクルは、カメラメーカーとしての評価を国際市場で築く基礎となり、戦後日本の高級精密機器輸出モデルの原型を形成した。品質優先の選択はブランド価値の蓄積として長期に還流した。 [12]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [12]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [8]1951年11月 本社工場を新設し北米輸出を本格化(下丸子)
    • [9]東京大田区下丸子に本社工場を新設
    • [12]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]1951年に東京銀座にサービスセンターを開設
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [11]ダイヤモンドが下丸子工場を「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評した

1967 事務機への経営転換と売上高1兆円突破という飛躍

  1. 1967年「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定
  2. 1968年NPシステムを開発、普通紙複写機(PPC)分野に進出。
  3. 1969年キヤノン株式会社と商号変更。
  4. 1970年半導体製造装置を発表。
  5. 1975年レーザープリンターの開発に成功。
  6. 1977年賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任
  7. 1981年バブルジェット記録方式の開発に成功。

キヤノンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

電卓撤退から賀来龍三郎氏の経営改革まで

1967年にキヤノンは「今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません」(御手洗毅)という多角化方針を策定し、複写機や電卓など複数の新規事業を並行して立ち上げた。しかし電卓事業は1970年代の激烈な価格競争で採算が悪化し、週刊東洋経済は「キメ手を欠く多角化路線」(週刊東洋経済 1972/01/15)と評価した。1975年にはキヤノンが無配に転落して電卓事業から撤退した。経営混乱の只中で前田社長が急逝する事態も重なり、1977年には常務だった賀来龍三郎氏が副社長と専務を飛ばす異例の形で社長に抜擢された。賀来氏は就任と同時に過去の経営に甘さが出ていたと公言し、事業部制の導入によってカメラ・事務機・光学の各事業部に損益責任を持たせる組織改革に着手した。 [13][14][15]

  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
    • [13]週刊東洋経済が「キメ手を欠く多角化路線」と評価
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [14]1975年 無配転落・電卓事業から撤退
    • [15]1977年6月 賀来龍三郎が常務から社長に抜擢(副社長・専務を飛ばす異例の人事)

賀来社長はさらに研究開発投資を事務機に集中させ、複写機とプリンターの開発を加速させた。週刊東洋経済は就任直後の状況について「事務機の総合化は、キヤノンの命題だが、その場合は、それだけ付加価値の高い、製品差別化ができるかどうか」(週刊東洋経済 1977/07/30)と厳しい見方を示したが、のちに日経ビジネスは「ダメ会社キヤノンに生気を吹き込み、見事不死鳥のようによみがえらせたのは、常識的に言えば一介のサラリーマン経営者に過ぎない賀来龍三郎である。だが、並のサラリーマン経営者では決してない」(日経ビジネス 1983/10/31)と総括している。分散していた多角化の方針を整理し、成長事業への資源配分を明確化したことが、のちの事務機メーカーとしての飛躍の出発点となった。事業部制の導入は各事業の採算責任を可視化し、経営の規律を全社に浸透させた。 [16][17]

  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
    • [16]週刊東洋経済が賀来就任直後に事務機総合化の難しさを指摘
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
    • [17]日経ビジネスが賀来龍三郎を「ダメ会社キヤノンに生気を吹き込み…よみがえらせた」と総括
  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
    • [13]週刊東洋経済が「キメ手を欠く多角化路線」と評価
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [14]1975年 無配転落・電卓事業から撤退
    • [15]1977年6月 賀来龍三郎が常務から社長に抜擢(副社長・専務を飛ばす異例の人事)
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
    • [16]週刊東洋経済が賀来就任直後に事務機総合化の難しさを指摘
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
    • [17]日経ビジネスが賀来龍三郎を「ダメ会社キヤノンに生気を吹き込み…よみがえらせた」と総括

HP社OEMが開いたLBP世界シェア70%の扉

1985年にキヤノンは米HP社と業務協力提携を締結し、レーザービームプリンター(LBP)のOEM供給を始めた。自社ブランドの販路を独自に構築するのではなく、世界最大級のIT企業をOEM先として選び、販売コストを抑えつつグローバル市場を取り込むという、当時の日本企業として大胆な選択だった。LBPの世界シェアは1990年時点で70%に達し、HP社向け販売高はFY2002に6110億円という規模に達した。自社ブランドの認知度を最優先する通常のメーカー発想から離れて、収益の本質を押さえるため販売の前面をパートナーに譲る判断は、のちの日本企業の海外展開戦略にも示唆を残し、OEM供給をブランド毀損ではなく規模獲得の手段と位置づける先例となった。

賀来社長の在任10年間である1977年から1987年までに、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへの事業構造転換を完成させた。1990年にはBtoC向けインクジェットプリンター「BJ-10v」を発売し、PCの普及に伴って拡大するプリンター需要を取り込むことにも成功した。日経ビジネスは1990年元日号の表紙特集で「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」(日経ビジネス 1990/01/01)と報じ、売上高1兆円を突破した同社の躍進を描いた。無配転落からわずか10年で収益構造を転換する経営のターンアラウンドを果たした。カメラ事業からの撤退ではなく両立のなかで主力を事務機に移す選択は、のちに映像事業でのブランド維持と事務機事業での収益最大化を同時に実現する構造的な土台となった。 [18][19]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]賀来社長の在任は1977年から1987年までの10年間
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
    • [19]日経ビジネスが1990年元日号で「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」と報じた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]賀来社長の在任は1977年から1987年までの10年間
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
    • [19]日経ビジネスが1990年元日号で「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」と報じた

1995 デジタル化対応とM&Aによる事業領域の拡張

  1. 1995年御手洗冨士夫氏が代表取締役社長に就任
  2. 1997年中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立。
  3. 2000年ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止)。
  4. 2005年アネルバ(株)(現キヤノンアネルバ(株))の株式を取得。
  5. 2005年NECマシナリー(株)(現キヤノンマシナリー(株))の株式を取得。
  6. 2009年リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに
  7. 2010年オセ社を買収発表

キヤノンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書・会社四季報等

デジタル化への対応と海外売上八割の構造

1990年代後半からデジタルカメラの普及が本格化し、フィルムカメラからの移行が加速した。キヤノンはEOSシリーズでデジタル一眼レフ市場の先頭集団を走り続け、映像事業の収益基盤の維持に成功した。2000年代には海外売上高比率が80%に達し、事務機と映像の二本柱でグローバル事業を展開する体制が完成した。生産面では国内を中心とした製造体制を維持しつつ、中国やベトナムなどアジア諸国での生産拠点の拡大も並行して進め、為替変動と地政学リスクへの耐性を強化した。グローバルな生産と販売のネットワークが有機的に結びつき、為替・地政・金融市場という多面的な変動にある程度耐えうる構造が形成された。 [20]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]中国やベトナムなどアジア諸国での生産拠点を拡大

御手洗冨士夫社長(創業者の甥)のもとで「キヤノングローバル戦略」を推進し、研究開発拠点と生産拠点のグローバル配置を進めることで、地域ごとの市場特性に応じた製品開発と現地生産の両立を試みた。御手洗社長は座右の銘として「なにくそ」を掲げ、弱さや逆境を意地で押し返す姿勢を自らの経営原点としている。カメラという創業時からの主力事業はブランドの象徴として維持しつつも、収益の中心は事務機と新規事業へ移行した。会社全体の性格が単一の製品軸から複数の事業軸へ拡張されたことで、キヤノンは変動の多いグローバル市場での耐性と複数の成長ドライバーを並列で抱える企業として再定義された。その過程は、創業期から続く経営哲学の上に市場環境に応じた事業の再解釈を積み重ねる長期的な適応の歴史でもあった。 [21][22]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [21]御手洗冨士夫が代表取締役社長に就任(1995年9月)、創業者御手洗毅の甥
  • 日本経済新聞(2026年1月)
    • [22]御手洗社長の座右の銘は「なにくそ」
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]中国やベトナムなどアジア諸国での生産拠点を拡大
    • [21]御手洗冨士夫が代表取締役社長に就任(1995年9月)、創業者御手洗毅の甥
  • 日本経済新聞(2026年1月)
    • [22]御手洗社長の座右の銘は「なにくそ」

医療とネットワークカメラへのM&A拡張という賭け

2000年代以降のキヤノンは、複写機とプリンター市場の成熟を見据えて新しい事業領域への進出を加速させた。御手洗冨士夫氏は後年、次の成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けたと振り返っている。2015年にはスウェーデンのアクシスコミュニケーションズを買収してネットワークカメラ事業を取得し、監視カメラ分野で世界首位の地位を獲得した。翌2016年には東芝メディカルシステムズを約6655億円で買収し、医療機器分野への本格参入を果たした。これらのM&Aは、キヤノンの長年にわたる光学とイメージングの技術的蓄積を新しい応用領域へ拡張する試みであり、成熟した事務機市場の代替となる新しい成長ドライバーを探索する経営判断でもあった。 [23]

  • 日本経済新聞(2026年1月)
    • [23]御手洗冨士夫が成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けたと振り返った

FY2022/12期には連結売上高4兆314億円を計上し、1933年に東京六本木のアパートで生まれたカメラメーカーは約90年の時を経て4兆円規模の精密機器企業へ成長した。カメラと事務機で培われた光学技術とイメージング技術を軸としつつ、医療や監視カメラという新たな事業領域への展開を行った。創業者の御手洗毅氏が掲げた、外国品の防衛を目的とする優秀な国産カメラを大成させるという使命は、そのまま現代の精密機器グローバル企業としてのキヤノンの姿へ直接つながっている。多角化とM&Aによる事業拡張は、創業期の賭けを繰り返しながらスケールを増した長い適応の軌跡そのものにあたる。外国品との競争という原点の課題設定が現代まで一貫している点で、同社の経営哲学は連続性を保っている。 [24]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [24]1933年に東京六本木のアパートで創業したカメラメーカーが約90年後に4兆円規模へ成長
  • 日本経済新聞(2026年1月)
    • [23]御手洗冨士夫が成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けたと振り返った
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [24]1933年に東京六本木のアパートで創業したカメラメーカーが約90年後に4兆円規模へ成長

キヤノンの沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

年月区分社長・CEO出来事重要度
精機光学研究所を発足★★★
会社設立東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立。カメラ製造販売開始。★★★
商号をキヤノンカメラに変更★★
キヤノンカメラ株式会社と商号変更。★★
東京証券取引所に株式上場★★
海外進出本社工場を新設。北米輸出を本格化★★★
(株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン(株))を設立。
(株)秩父英工舎(現キヤノン電子(株))を設立。
海外進出ニューヨーク支店開設。★★
海外進出スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.開設。
カメラ不況により減収決算へ★★
中級機カメラに進出(キヤノンフレックス発売)★★
企業買収三栄産業(株)(現キヤノン化成(株))に出資。
電子式卓上計算機を発売、本格的に事務機分野に進出。★★★
海外進出米国にCanon U.S.A.,Inc.を設立。★★
経済不況により減益決算★★
「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定★★
キヤノン事務機販売(株)を設立。
NPシステムを開発、普通紙複写機(PPC)分野に進出。★★★
キヤノン株式会社と商号変更。★★
半導体製造装置を発表。★★★
海外進出台湾佳能股份有限公司を設立。
組織再編キヤノンカメラ販売(株)、キヤノン事務機サービス(株)をキヤノン事務機販売(株)へ合併、キヤノン販売(株)(現キヤノンマーケティングジャパン(株))と商号変更。★★
企業買収Physotec GmbH(現Canon Giessen GmbH)に出資。
企業買収第一精機工業(株)(現キヤノンファインテックニスカ(株))に出資。
レーザープリンターの開発に成功。★★★
無配転落。電卓事業の撤退
社長交代賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任★★★
海外進出オーストラリアにCanon Australia Pty.Ltd.を設立。
海外進出シンガポールにCanon Singapore Pte.Ltd.を設立。
企業買収コピア(株)(現キヤノンファインテックニスカ(株))に出資。
キヤノン販売(株)(現キヤノンマーケティングジャパン(株))とコピア(株)の共同出資によりコピア販売(株)(現キヤノンシステムアンドサポート(株))を設立。
バブルジェット記録方式の開発に成功。★★★
海外進出オランダにCanon Europa N.V.を設立。
大分キヤノン(株)を設立。
海外進出フランスにCanon Bretagne S.A.(現Canon Bretagne S.A.S.)を設立。
キヤノン・コンポーネンツ(株)を設立。
HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ
企業買収キヤノン販売(株)(現キヤノンマーケティングジャパン(株))が日本タイプライター(株)(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント(株))に出資。
海外進出米国にCanon Virginia,Inc.を設立。★★
長浜キヤノン(株)を設立。
海外進出マレーシアにCanon Opto(Malaysia)Sdn.Bhd.を設立。
海外進出中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立。★★
BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け)★★
海外進出タイにCanon Hi-Tech(Thailand)Ltd.を設立。
御手洗冨士夫御手洗冨士夫氏が代表取締役社長に就任★★
海外進出中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立。★★
セル生産方式を導入
大分キヤノンマテリアル(株)を設立。
株式上場ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止)。★★★
企業買収キヤノン化成(株)を完全子会社化。
海外進出イギリスにCanon Europe Ltd.を設立。
海外進出ベトナムにCanon Vietnam Co.,Ltd.を設立。
海外進出中華人民共和国に佳能(蘇州)有限公司を設立。
上野キヤノンマテリアル(株)をキヤノン(株)より分社化。
福島キヤノン(株)をキヤノン(株)より分社化。
企業買収アネルバ(株)(現キヤノンアネルバ(株))の株式を取得。★★
企業買収NECマシナリー(株)(現キヤノンマシナリー(株))の株式を取得。★★
原価改善により過去最高収益へ
株式上場普通株式1株につき1.5株の割合で株式分割を実施。
企業買収キヤノンマーケティングジャパン(株)が(株)アルゴ21(現キヤノンITソリューションズ(株))の株式を取得。
リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに★★
オセ社を買収発表★★
Axis Communicationsを買収発表★★
東芝メディカルを買収★★
企業買収Redlen Technologies Inc.の株式を取得。★★
海外機関投資家が御手洗社長の解任を支持★★
企業買収キヤノンメディカルシステムズ(株)がミナリスメディカル(株)(現キヤノンメディカルダイアグノスティックス(株))の株式を取得。
企業買収キヤノンマーケティングジャパン(株)が(株)プリマジェストの株式を取得。
医療機器事業でのれん減損1651億円を計上★★★
経営体制小川一登副社長の社長COO昇格を発表(3度目の社長交代)★★★
出典・参考
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 新日本経済(1950年10月20日)
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
  • 日本経済新聞(2026年1月)

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