1933
11月

精機光学研究所を発足

創業
アマチュア技術者がカメラの国産化を志向
戦前の日本におけるカメラはドイツ製の「ライカ」などの輸入品が市場を席巻しており、国産品としてのカメラは皆無な状態であった。当時の日本にお...
開発
カメラの国産化に成功。Cacnonブランドを展開
1933年の創業から2年間の開発を経て、精機光学研究所はカメラの国産化に成功した。発売にあたって、ブランド名を「観音」を意味する「kwa...
設立
精機光学工業(キヤノン)を設立
1937年8月に、会社組織に変更するため「精機光学工業(現キヤノン)」を資本金100万円の株式会社として設立して個人事業から脱却した。現...
経過
軍需生産で規模を拡大
1937年から1945年にかけてのキヤノンは、軍需生産によって業容を拡大した。祖業はカメラであったが、精密機械工業は軍需産業との相性が良...
経営
御手洗毅氏が事業経営に専念
1945年の終戦を契機に、御手洗毅氏は医師と経営者の二足のワラジをやめ、キヤノンの経営に専念することを決意した。自身が開業していた産婦人...
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1933年
11月
東京六本木に精機光学研究所を発足
1936年
5月
東京目黒にカメラ工場を新設
1937年
8月
精密光学工業を会社設立
0.01 億円
1939年
カメラレンズの内製化に成功
1944年
大和光学研究所を吸収(東京板橋)
1945年
御手洗毅氏が産婦人科医を辞めて経営に専念
1947年
9月
キヤノンカメラ株式会社に商号変更
1947年
商号をキヤノンカメラに変更

日本企業としては珍しかった「カタカナ」による社名を採用してカメラのブランド名と一致させた。カメラの海外輸出に備えた施策であった。ただし1949年の株式上場にあたって「カタカナの社名」が問題視されるなど、それなりの苦労を伴った変更であった。

1949年5月
東京証券取引所に株式上場

株式市場の再開に伴い、東京証券取引所に株式を上場した。上場後の1953年9月時点で、筆頭株主は東亜火災海上保険(10.0%)であり、御手洗毅氏は3.81%を保有。すなわち、上場時点でキヤノンは御手洗家の所有物でなくなっていた。1953年9月末時点の保有数順の大株主は下記の通り。

決算
キヤノンの業績
1949年12月期(単体)
売上高
2.05
億円
当期純利益
0.056
億円
1951
11月

本社工場を新設。北米輸出を本格化

開発
高級カメラの開発を優先
1945年の終戦によって軍需を失ったキヤノンは、いったん工場を閉鎖して従業員を解雇し、2ヶ月の時間をおいた上で、再度社員を雇用して民需品...
宣伝
進駐軍で評判を獲得
キヤノンにとって追い風となったのが、進駐軍によるカメラの購入であった。1945年の敗戦によって進駐軍(GHQ)が日本に駐留するようになり...
方針
「Made in Japan」が粗悪品の代名詞であることに憤慨
1950年に御手洗毅氏は欧米を視察し、カメラの輸出のポテンシャルを探った。この過程で「Made in Japan」が、欧米では粗悪品の代...
販売
英ジャーデンマセソン社と輸出提携
1951年11月にキヤノンは、英国の貿易会社であるジャーデンマセソン社と輸出販売に関する5ヶ年契約を締結した。1952年1月から5年にわ...
量産
本社工場を大田区下丸子に新設
ジャーデンマセソン社からの借入金をもとに、キヤノンは旧富士航空計器の工場跡地(東京都大田区下丸子)を1億円で取得した。また、工作機械など...
財務
資本金の10倍を投資
カメラ業界の中堅企業であったキヤノンが2億円の投資するにあたっては、借入調達によって不足するキャッシュを賄っており、相応の財務リスクが存...
結果
高級カメラ市場でグローバル展開。投資回収へ
1950年代を通じて、キヤノンは高級カメラの北米輸出により業容を拡大するとともに、キヤノンブランドを浸透させた。 投資回収の観点では、2...
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1946年
進駐軍の間でキヤノンカメラが評判に
1948年
貿易再開に伴いカメラ輸出を開始
1949年
キヤノンカメラS型を発売
1950年
8月
御手洗毅社長が2ヶ月の欧米視察
1951年
東京都大田区下丸子に本社工場を新設
2 億円
1951年
11月
英ジャーデンマセソン社と販売契約
1.8 億円
1955年
10月
ニューヨーク支店を開設
1957年12月
カメラ不況により減収決算へ

1956年頃に日本経済が一時的な不況に陥ったことでカメラの売上高が低迷。キヤノンは減収決算へ

決算
キヤノンの業績
1957年12月期(単体)
売上高
24
億円
当期純利益
3.77
億円
1961年
中級機カメラに進出(キヤノンフレックス発売)

低迷を打破するために、キヤノンは中級カメラに新規参入を決定した。1958年以降のキヤノンは海外輸出とともに、国内向けの中級機の需要を取り込む経営方針のもとで開発を実施。1961年に発売した中級機「キヤノンフレックス」が爆発的なヒットを遂げ、キヤノンは「海外向け高級機メーカー」から「国内向け中級機メーカー」に転身した。

一方で、日本に数十社存在していた中級機のカメラメーカーはキヤノンなどの大企業の進出によってシェアを喪失し、その大半が消滅している。この点で、高級機にいち早く進出し、量産体制を整えて、中級機でも量産効果を発揮したキヤノンに軍配があがった。

決算
キヤノンの業績
1961年12月期(単体)
売上高
71
億円
当期純利益
7.32
億円
1966年12月
経済不況により減益決算

中級機ブームの一巡と経済不況(昭和40年不況)の到来が重なり、キヤノンの売上成長も低迷。カメラに次ぐ新商品・新規事業の開拓が急務となった。

決算
キヤノンの業績
1966年12月期(単体)
売上高
162
億円
当期純利益
3.4
億円
1967年
「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定

景気に左右されるカメラ需要

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精密加工を軸に新規事業を展開

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カメラと事務機に注力する方針を策定

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新事業の1つであった電卓の競争激化。赤字転落へ

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1959年
録音再生機「シンクロリーダー」を発売
1964年
電卓「キヤノーラ」を発売
1964年
複写機「キヤノファックス1000」を発売
1967年
「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定
1968年
普通紙複写機「キヤノンNPシステム」を開発
1970年
普通紙複写機「NP-1100」を発売
1970年
半導体焼付装置「PPC-1」を発売
1971年
事務用コンピュータ「BP-1000」を発売
1975年
電卓などの新規事業が不振。半期赤字へ転落
決算
キヤノンの業績
1967年12月期(単体)
売上高
181
億円
当期純利益
6.6
億円
1975年6月
無配転落。電卓事業の撤退
1977
6月

賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任

前田社長が急逝。経営再建が急務

賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任

前田社長の急逝に伴って賀来龍三郎(当時51歳)がキヤノンの代表取締役社長に就任。専務と副社長を飛ばした社長就任劇として注目された。賀来社長はキヤノンの前任経営陣を「キヤノンの経営陣があまりもだらしなかった」(1985/2/4日経ビジネス)と公言し、組織および事業面の経営改革を推進した。

事業部制の導入。組織に危機感を醸成

組織面では、事業部制の導入により多角化に即した組織に変更。

多角化を整理。カメラと事務機に集中投資

事業面では、研究開発投資を重視して事務機の開発を急ぐとともに、グローバル展開でHP社と提携するなど、外部パートナーとの協業による業容拡大を目論んだ。

連結売上高1兆円を突破

1926年
5月
生まれ(愛知県岡崎市)
1954年
3月
九州大学経済学部卒業
1954年
4月
キヤノン入社
1974年
キヤノン常務
1977年
6月
キヤノン代表取締役社長
1987年
キヤノン会長
1997年
キヤノン名誉会長
決算
キヤノンの業績
1977年12月期(単体)
売上高
1239
億円
当期純利益
59
億円
1985年
HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ

レーザープリンタの開発で世界先発

HP社へのLBPのOEM供与を決定。長期取引へ

HP向け販売高6000億円を突破(FY2002)

1975年
レーザー方式(LBP)のプリンターを開発
1979年
世界最小の「LBP-10」を発売
1981年
9月
HP社と共同研究を決定
1985年
9月
HP社と業務協力提携を締結(OEM供与)
1990年
LBPの世界シェア70%(売上高4000億円超)
2002年
12月
HP社向け販売高6,110億円
決算
キヤノンの業績
1985年12月期(連結)
売上高
9557
億円
当期純利益
370
億円
1990年
BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け)

複写機→LBP→BJPの順に展開して事務機の需要を取り込み。PCの普及を見据えてBtoC向けのプリンタとしてグローバル展開

1977年
バブルジェット方式のプリンター(BJP)の特許出願
1987年
BJP事業の立ち上げ。責任者は田中宏(副社長)
1989年
市場調査で家庭用に照準。小型化に注力
1990年
円高対策のためシンガポールに部品調達拠点を設置
1990年
玉川・福島の生産拠点でBJPの量産を開始
1990年
BJP方式の「BJ-10v」を発売。BtoC向けに展開
1993年
円高対策のため香港に部品調達拠点を設置
1994年
2月
カラー方式のBJP「BJC-600J」を発売
1994年
12月
BJPの販売高1400億円(見込み)
1995年9月
御手洗冨士夫氏が代表取締役社長に就任

実質的な創業家である御手洗冨士夫氏がキヤノンの代表取締役社長に就任。以後、2023年現在に至るまで、社長もしくは会長を歴任し、キヤノンの実質的な経営トップとして振る舞った。この間、御手洗氏の会長在任期間には、キヤノンの社長は何度か交代しており、実質的な社長人事を握っていたと思われる。ただし、御手洗冨士夫氏のキヤノンの株式保有比率は約0.01%(2022年末時点)であり、議決権における影響は軽微である。

決算
キヤノンの業績
1995年12月期(連結)
売上高
21656
億円
当期純利益
550
億円
1998年
セル生産方式を導入
2005年12月
原価改善により過去最高収益へ
2009年12月
リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに

リーマンショックで業績が悪化するとともに、2010年代を通じてキヤノンの売上高は低迷。カメラはスマートフォンの普及、事務機はソフトウェアの発展により需要が低迷し、キヤノンは事業ポートフォリオの転換を経営課題に据えた。ただし、社内では新規事業が育っておらず、御手洗冨士夫会長は巨額買収による事業転換を目論んだ。

決算
キヤノンの業績
2009年12月期(連結)
売上高
32092
億円
当期純利益
1316
億円
2010年
オセ社を買収発表

オランダの産業印刷機械メーカーであるオセ社(従業員数2.2万名)の買収を決定。売上高の40%が米国向けのグローバル企業。2008年に競合のリコーが米アイコンオフィスソリューションズ社(買収前はキヤノン製品を販売)を買収したため、キヤノンは米国における事務機の売上減少に対応するため、米国での販路を持つオセ社の買収を決定した。

決算
キヤノンの業績
2010年12月期(連結)
売上高
37069
億円
当期純利益
2466
億円
2015年2月
Axis Communicationsを買収発表

監視カメラで世界シェアトップのAxis社(スウェーデン本社・従業員数1900名)を買収し、産業向けカメラに本格参入。スマートフォンの普及によりキヤノンの祖業であるカメラ事業の売上が低迷しており、産業領域のカメラに注力するために買収を決定した。

決算
キヤノンの業績
2015年12月期(連結)
売上高
38002
億円
当期純利益
2202
億円
2016年12月
東芝メディカルを買収

経営危機の東芝から医療機器子会社を買収。富士フイルムとの入札競争で価格が吊り上がる

2015年
2月
東芝が不正会計で決算発表を延期
2016年
1月
東芝メディカルの1次入札に参加
2016年
2月
東芝の最終赤字7100億円の見込み
2016年
3月
東芝メディカルの2次入札に参加
2016年
3月
キヤノンが独占交渉権を獲得
2016年
3月
東芝と株式譲渡契約を締結
2016年
12月
東芝メディカルの買収完了
決算
キヤノンの業績
2016年12月期(連結)
売上高
34014
億円
当期純利益
1506
億円
2023年5月
海外機関投資家が御手洗社長の解任を支持

キヤノンは、取締役5名の全員が男性という選任案を出したことに対して、女性の取締役登用を怠ったとみなされて海外の機関投資家(投資助言会社を含む)が「取締役の多様性の欠如」として問題視。2023年3月の株主総会において、御手洗冨士夫社長の取締役専任に対する賛成比は50.59%となり、解任ギリギリの低水準となった。

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