戦前の日本におけるカメラはドイツ製の「ライカ」などの輸入品が市場を席巻しており、国産品としてのカメラは皆無な状態であった。当時の日本における精密機械工業は発展途上にあり、精密な部品や機構が要求されるカメラの国産化は難しいと考えられていた。
この常識に挑戦したのが、映写機の技術者の吉田五郎氏と、証券マンであった内田三郎の2名であり、カメラの国産化を目指した。ところが、問題になったのは資金であった。カメラは高級品であり庶民が気軽に買えるものではなく、輸入カメラを分解して研究するにも多額の費用が必要であった。そこで、聖母病院の産婦人科部長であった御手洗毅氏に出資を頼み込んだ。内田氏は妻の出産時に担当していたのが御手洗毅氏だったっという縁があった。
御手洗毅氏は、産婦人科医でありながらも、日本における精密機械工業の将来性に期待しており、カメラの国産化に対して出資することを決めた。このため、創業期のキヤノンは、技術面では吉田氏、経営面では内田氏、監査・出資面では御手洗氏が関与し、カメラの国産化の研究を開始した。
1933年に精機光学研究所を創立し、東京都六本木(麻布)のアパートの一室でカメラの国産化の研究を開始した。この1933年の創立が、キヤノンにおける創業とされる。
1933年の創業から2年間の開発を経て、精機光学研究所はカメラの国産化に成功した。発売にあたって、ブランド名を「観音」を意味する「kwanon」を当初採用していたが、古風なイメージがあったためすぐに類似語である「Canon(キヤノン)」に変更した。
国産カメラの発売にあたって、1936年5月に東京目黒(中根)に工場を新設してカメラの生産体制を整えた。工場新設をもって、精機光学研究所は「研究主体」から「生産主体」の精密工業メーカーに転身した。
1937年8月に、会社組織に変更するため「精機光学工業(現キヤノン)」を資本金100万円の株式会社として設立して個人事業から脱却した。現在換算約6億円の資本金であり、カメラの量産に備えた。
ただし、資本金のうち40%が現物出資(高く見積もった設備)であり、会社設立の資金調達は必ずしも順調ではなかった。出資者の募集にあたっては、産婦人科医である御手洗氏が知り合いに出資を要請するなど、資金繰りには苦労している。
1937年から1945年にかけてのキヤノンは、軍需生産によって業容を拡大した。祖業はカメラであったが、精密機械工業は軍需産業との相性が良かったこともあり、軍需品の生産を中心に据えた。
1944年には東京板橋に工場を構える「大和光学研究所」を合併して生産拠点を増えるなど、軍需産業の拡大とともに業容を伸ばした。
1945年の終戦直前におけるキヤノンは、従業員500名ほどの規模に発展していた。なお、戦時中の空襲などの被害を奇跡に的免れたため、戦後復興の面でキヤノンは優位に立った。
1945年の終戦を契機に、御手洗毅氏は医師と経営者の二足のワラジをやめ、キヤノンの経営に専念することを決意した。自身が開業していた産婦人科医院が空襲によって焼失したことも、事業に専念するきっかけとなった。御手洗氏は、国産カメラのグローバル展開を目標に据えた。
なお、事業に失敗した場合、御手洗氏は「鶏でも飼って余生を終える覚悟」を決めていたという。
なお、現在に至るまで御手洗家出身者の社長がキヤノンを経営するなど、御手洗家は実質的なキヤノンの創業家として振る舞っている。ただし、1949年の株式上場の時点で、御手洗毅氏の株式保有比率は5%未満であり、資本的に裏打ちされた同族経営ではない。
私はもう、今までのような二足ワラジの生活が許されなくなった。許されるとしても、これをなすべきではいと考えた。一人一業ですらなかなか困難を加えてきた時代に、超人でもない自分が一人二役で、そのどちらもうまくやっていこうなどとは、贅沢極まると自省した。そこで、恩師、先輩、友人、知人等に、再び医業には戻らぬことをはっきり声明して、私はわざわざ茨の道である最後の事業経営を選んだ。
私も男と生まれたからには、どうでもこれでいくほかなかった。外国品防衛を目的とする優秀国産カメラの大成は、十数年来の私の仕事としてまだあとに残されている。私の偉業を代わって受け持ってくれる人はいくらでもあるが、しかし、私の熱願するこの初志の貫徹は私しか担当するものがないのだ。こういうわけで、私は終戦を機会に、断然、われとわが道を行くことにした。
日本企業としては珍しかった「カタカナ」による社名を採用してカメラのブランド名と一致させた。カメラの海外輸出に備えた施策であった。ただし1949年の株式上場にあたって「カタカナの社名」が問題視されるなど、それなりの苦労を伴った変更であった。
株式市場の再開に伴い、東京証券取引所に株式を上場した。上場後の1953年9月時点で、筆頭株主は東亜火災海上保険(10.0%)であり、御手洗毅氏は3.81%を保有。すなわち、上場時点でキヤノンは御手洗家の所有物でなくなっていた。1953年9月末時点の保有数順の大株主は下記の通り。
1945年の終戦によって軍需を失ったキヤノンは、いったん工場を閉鎖して従業員を解雇し、2ヶ月の時間をおいた上で、再度社員を雇用して民需品としてのカメラ生産を開始した。この解雇によって、軍需の喪失による余剰人員が労働組合として過激な活動に走ることを抑止するとともに、優秀な社員だけを再雇用することに成功した。このため、キヤノンの労使関係は終戦直後から良好であり、労働運動に翻弄された多く精密機械メーカーとは一線を画すことになった。
そして、民生品としてのカメラの開発にあたって、御手洗毅氏は中級品ではなく高級品を優先的に開発・生産する方針を決めた。この理由は、敗戦した日本が経済的に復興するためには技術力の強さを武器にする以外方法がなく、したがって、技術的難易度の高い高級カメラを手掛けることが復興に寄与すると判断したためであった。
この経緯から、終戦直後のキヤノンは「高級カメラメーカー」として知られるようになり、日本国内に有象無象に存在していた中級カメラメーカーとは一線を画す存在となった。
当時は戦後でもあり、社会が最も必要としていたものは、ナベ、カマ、スキ、クワの類であったため、これを作ろうじゃないかという声もあったのだが、会社の再スタートにあたり私は日本企業を伸ばすには今後輸出以外にない、特に頭脳で勝負する意外に道はない。そのためには外国から材料を取り寄せて加工するのでは妙味がない。国内で材料を得られ、独自の製品として輸出できるものではなくてはならない。これに叶うものは高級カメラである。ということで会社の方針を決めたのである。
ところが何を始めるにしても先立つものは金である。金を借りるにつけ、銀行(注:富士銀行と推察される)へ行って仕事の内容について説明すると、当時の情勢からして、皆が皆、仕事の内容に賛成しかねる情勢であった。しかし日本企業の今後の行くべき道を刻々と説明し、やっと金融をつけてもらうのに成功したのである。
キヤノンにとって追い風となったのが、進駐軍によるカメラの購入であった。1945年の敗戦によって進駐軍(GHQ)が日本に駐留するようになり、キヤノン製のカメラや、ニコン製のレンズを手にし、その品質の良さから口コミで評判が広まっていった。進駐軍は、遠くアメリカにいる家族に自分の所在を伝えるために、写真を撮ることが多かったため、それなりの需要もあった。
当時の日本は敗戦国であり国民所得が低かったため、これらのカメラやレンズは欧米人に販売され、戦後の輸出解禁とともに海外に輸出されるようになった。輸出されると、日本製のカメラ・レンズの評判が高まり、外国人のバイヤーが日本の業界関係者と接触するようになった。
このため、日本の精密機械工業は、カメラとレンズを中心に、外国人バイヤーからの注目を得たことで、いち早く欧米への輸出産業として発展することにつながった。
当社の歴史を見て第一に感ずることは、戦後の急速な進展ぶりである。研究時代から終戦までの10年間は、いわば技術を錬磨し、将来のチャンスを掴んで伸ばすべき底力を養った時代である。終戦直前、大和光学を吸収し、増資を行なっているが、輸出市場無くしてこの産業は伸びない。それは軍需産業としての進展態勢をとったものであるが、終戦で再出発を要請された。
それが進駐軍将兵の愛用で進展のチャンスを掴み、貿易の再開で、南米、北米、欧州、東南アジアと世界至るところでライカを向こうに回し飛躍しているのも、十余年にわたる技術の錬磨時代を持ったればこそである。
1950年に御手洗毅氏は欧米を視察し、カメラの輸出のポテンシャルを探った。この過程で「Made in Japan」が、欧米では粗悪品の代名詞になっていることに憤慨した。これは、戦前の日本企業が欧米市場に粗悪な製品(双眼鏡など)を輸出していたため、現地での日本製品に対する評判が悪かったことに起因する。
そこで、高級品のキヤノンカメラを輸出することで、キヤノンの業容を拡大するとともに、メイドインジャパンの汚名を返上することを目論んだ。ただし、現地のバイヤーからは「あなた方の会社のものは従来米国の市場に出ていない。立派なニューモデルとして認める。しかし、Made in Japanという点に変わりはない。したがって、従来の例から見て、果たしてこの立派な見本通りのものが送られるかどうか、甚だ疑問に思う。あなた方には誠に気の毒だが、Made in Japanは絶対信用できない」(1950/12新日本経済)と言われ、品質は良いが、日本製だから信用がないという烙印を押されてしまった。
私の狭い範囲の見聞を通じて見にしみて感じたことは、日本商品がいかに不信用ようであり、日本商人の道徳観がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた。あちらではサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク等のカメラ関係メーカーおよび問屋連中と親しく会談したが、アメリカ業者の日本品への結論は「安かろう、悪かろう」であった。
キヤノンカメラでは、アメリカにはあくまで快心の作を出すという意識のもとに、従来、対米輸出は積極的にやらなかった。バイヤーから度々話もあったが応じなかった。しかし、進駐軍の人たちがCPOを通じて内地で1万台くらいは買ったと思う。信用は一度失ったが最後、もうダメだから、絶対確信のもてる快心の作が出るまでは、自重してきたが、最近当社の製品がライカ以上である確信を得たので、ここに初めてアメリカに呼びかけることとなり、ニューモデルを持ってあちらの業者の信を問うたわけである。
1951年11月にキヤノンは、英国の貿易会社であるジャーデンマセソン社と輸出販売に関する5ヶ年契約を締結した。1952年1月から5年にわたって、キヤノンはカメラ生産量の「最低70%」をマセソン社を通じて、米国のカメラ問屋に向けて輸出販売する契約であった。なお、カメラ問屋は当時「米国3大カメラ問屋」と呼ばれたレングラム社、ホーンスタイン社、クレーグムービー社であり、キヤノンのカメラがアメリカ全土で販売されることを意味した。
ジャーデンマセソン社がキヤノンと契約を締結した理由は、日本製のカメラの評判が高かったことや、最初に接触したニコンとの提携が進まなかったことが理由であった。なお、現地のアメリカ国内のカメラ問屋はキヤノンが「Made in Japan」であることを問題視し、直接取引を締結しなかったため、止むを得ずマセソン社を仲介する販路を構築した。
一方、キヤノンがマセソン社と提携した理由は、販路を確保できることに加え、マセソン社から50万ドル(50万 * 360円/$ = 1.8億円)の借入を行うことを契約できたためであった。狙いは、量産体制の確立であり、目黒と板橋の2つの拠点に分散しており効率が悪かっため、新工場を建設して量産体制を整えることを目論んでいた。
すなわち、量産体制の確立を前提として輸出体制を構築することにより、「Made in Japan」の汚名を返上する狙いがあった。
ジャーデンマセソン社からの借入金をもとに、キヤノンは旧富士航空計器の工場跡地(東京都大田区下丸子)を1億円で取得した。また、工作機械などの設備投資のために1億円を投資し、合計2億円を本社工場新設のために投資した。すなわち、シャーデンマセゾン社からの調達額を、ほぼ全額設備投資に回した。
1950年時点で、東京目黒(従業員272名・カメラボディの生産)と東京板橋(従業員242名・カメラレンズ・X線カメラの生産)の2カ所に分散していたカメラの生産拠点を下丸子の本社工場に集約し、新工場でカメラの量産体制の構築を目論んだ。また、大量の工作機械(性能の良い海外製品)を導入するなど、生産設備に惜しみなく投資をすることで、カメラの量産体制を整えた。
カメラ業界の中堅企業であったキヤノンが2億円の投資するにあたっては、借入調達によって不足するキャッシュを賄っており、相応の財務リスクが存在した。当時のキヤノンの半期売上高は1.9億円、利益1200万円(1950年6月時点)であり、利益ベースで約10年分に相当するため巨額投資であった。
バランスシートの面では、1950年6月時点のキヤノンの総資産は1.6億円(資本金2000万円)であり、2億円の投資は「資本金の10倍」「総資産の超過」に相当した。このため、巨額投資に失敗すればキヤノンは債務超過に陥ることリスクを背負った。
このため、1952年にキヤノンは増資により1億円を資本調達(倍額増資)を実施するなど、バランスシートの健全性維持の施策を行なっている。それでも増資後の自己資本比率は32%であり、製造業の上場企業としては危険な水準にあった。
1952年6月時点のキヤノンの財務状況は下記の通り。
・総資産7.8億円(自己資本比率32%)
・資本金1.0億円(1951年に増資)
・長期借入金2.0億円(うち1.8億円はジャーデンマセソン社より調達)
今までの生産力増加は目黒、板橋両工場の補強によって行なってきたが、それが限界点に達し、新鋭工場を他に求めなければならぬところに来たため、2億円の巨費を投じて富士計器社屋を買収改造し、ここに生産を集中するという抜本的対策に出たのである。
こうした設備の拡張が多大の資金を要したことは言うまでもない。終戦後の再出発当時の資本金は300万円であったが、その後3回の増資により5000万円に膨張し、一方負債も昨年9月末現在の長期借入金は8900万円にのぼり、支払手形および短期借入金は1.28億円に達しており、資本構成比率は2倍の外部資本を示している。こうした急激な膨張は当然に資本構成を不均衡にし、金融に弾力性を失わしめる結果となる。その是正を目的として、今次の倍額増資が行われるわけだ。
1950年代を通じて、キヤノンは高級カメラの北米輸出により業容を拡大するとともに、キヤノンブランドを浸透させた。
投資回収の観点では、2億円の投資に対して、1954年時点で年間1.8億円の純利益を計上しており、わずか3年で回収する形となった。なお、1951年から1955年度までの5ヶ年における純利益の累計額は7.94億円。キヤノンの高級カメラは収益性が高く、売上高利益率10%超をキープすることにつながり、新工場新設後は順調に投資を回収する形となった。
1956年頃に日本経済が一時的な不況に陥ったことでカメラの売上高が低迷。キヤノンは減収決算へ
低迷を打破するために、キヤノンは中級カメラに新規参入を決定した。1958年以降のキヤノンは海外輸出とともに、国内向けの中級機の需要を取り込む経営方針のもとで開発を実施。1961年に発売した中級機「キヤノンフレックス」が爆発的なヒットを遂げ、キヤノンは「海外向け高級機メーカー」から「国内向け中級機メーカー」に転身した。
一方で、日本に数十社存在していた中級機のカメラメーカーはキヤノンなどの大企業の進出によってシェアを喪失し、その大半が消滅している。この点で、高級機にいち早く進出し、量産体制を整えて、中級機でも量産効果を発揮したキヤノンに軍配があがった。
中級機ブームの一巡と経済不況(昭和40年不況)の到来が重なり、キヤノンの売上成長も低迷。カメラに次ぐ新商品・新規事業の開拓が急務となった。
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前田社長の急逝に伴って賀来龍三郎(当時51歳)がキヤノンの代表取締役社長に就任。専務と副社長を飛ばした社長就任劇として注目された。賀来社長はキヤノンの前任経営陣を「キヤノンの経営陣があまりもだらしなかった」(1985/2/4日経ビジネス)と公言し、組織および事業面の経営改革を推進した。
組織面では、事業部制の導入により多角化に即した組織に変更。
事業面では、研究開発投資を重視して事務機の開発を急ぐとともに、グローバル展開でHP社と提携するなど、外部パートナーとの協業による業容拡大を目論んだ。
複写機→LBP→BJPの順に展開して事務機の需要を取り込み。PCの普及を見据えてBtoC向けのプリンタとしてグローバル展開
実質的な創業家である御手洗冨士夫氏がキヤノンの代表取締役社長に就任。以後、2023年現在に至るまで、社長もしくは会長を歴任し、キヤノンの実質的な経営トップとして振る舞った。この間、御手洗氏の会長在任期間には、キヤノンの社長は何度か交代しており、実質的な社長人事を握っていたと思われる。ただし、御手洗冨士夫氏のキヤノンの株式保有比率は約0.01%(2022年末時点)であり、議決権における影響は軽微である。
リーマンショックで業績が悪化するとともに、2010年代を通じてキヤノンの売上高は低迷。カメラはスマートフォンの普及、事務機はソフトウェアの発展により需要が低迷し、キヤノンは事業ポートフォリオの転換を経営課題に据えた。ただし、社内では新規事業が育っておらず、御手洗冨士夫会長は巨額買収による事業転換を目論んだ。
オランダの産業印刷機械メーカーであるオセ社(従業員数2.2万名)の買収を決定。売上高の40%が米国向けのグローバル企業。2008年に競合のリコーが米アイコンオフィスソリューションズ社(買収前はキヤノン製品を販売)を買収したため、キヤノンは米国における事務機の売上減少に対応するため、米国での販路を持つオセ社の買収を決定した。
監視カメラで世界シェアトップのAxis社(スウェーデン本社・従業員数1900名)を買収し、産業向けカメラに本格参入。スマートフォンの普及によりキヤノンの祖業であるカメラ事業の売上が低迷しており、産業領域のカメラに注力するために買収を決定した。
経営危機の東芝から医療機器子会社を買収。富士フイルムとの入札競争で価格が吊り上がる
キヤノンは、取締役5名の全員が男性という選任案を出したことに対して、女性の取締役登用を怠ったとみなされて海外の機関投資家(投資助言会社を含む)が「取締役の多様性の欠如」として問題視。2023年3月の株主総会において、御手洗冨士夫社長の取締役専任に対する賛成比は50.59%となり、解任ギリギリの低水準となった。