キヤノン の歴史

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創業 1933年
創業者 吉田五郎・内田三郎・御手洗毅
創業地 東京都港区六本木
創業
1933年11月、東京・麻布六本木に高級小型カメラの研究を目的とする精機光学研究所が発足した。技術の吉田五郎氏、資金を出した内田三郎氏、産婦人科医の御手洗毅氏という三者の結合で、舶来品が独占していた高級カメラの国産化に挑んだ。1937年8月に東京目黒で資本金100万円の精機光学工業として法人化し、カメラの製造販売を始めた。1947年9月にキヤノンカメラへ商号を変え、1949年5月に東京証券取引所へ上場している。1951年11月には旧富士航空計器跡地を取得して東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、英ジャーデン・マセソン社との5ヵ年輸出契約で海外の販路を確保した。
決断
本業が行き詰まるたびに、隣の産業へ主力を移してきた会社である。1975年に電卓事業の失敗で無配へ落ちると、1977年に賀来龍三郎氏を社長へ抜擢し、複写機とレーザープリンターへ開発資源を寄せた。1985年には米ヒューレット・パッカードと業務協力で提携し、自前の販売網を張る代わりに相手の販路へ自社のエンジンをOEM供給している。1995年には御手洗冨士夫氏が社長に就任し、事業部ごとの採算から連結全体の利益とキャッシュフローへ管理の単位を移した。2000年代にカメラのデジタル化と複合機の成熟が重なると、2009年に自前主義を返して蘭オセをTOBで連結子会社化し、2016年には東芝メディカルシステムズを6,655億円で取得した。祖業のカメラは残したまま、主力の座だけを三度入れ替えている。
現況
現在の売上の54%はプリンティングで、祖業のカメラを含むイメージングは23%にとどまる。2025年12月期の連結売上高は4兆6,247億円で、プリンティングが2兆4,944億円、イメージングが1兆549億円、メディカルが5,806億円、インダストリアルが3,611億円を占めた。税引前利益もプリンティングの2,736億円が最も大きい。医療は2016年の東芝メディカル買収で加えた領域だが、日本と中国の市場環境が悪化して計画に届かず、2024年12月期にのれん1,651億円を減損し、同期の純利益は前期比4割減の1,600億円へ落ちた。半導体露光装置を含むインダストリアルは売上の8%にすぎないが、税引前利益648億円を計上している。規模で選んだ医療が減損に至る一方、規模の小さい産業機器が利益率を保った。
競合
同じカメラ大手でも、カメラ以外に何を持つかで縮小の受け止め方が分かれた。レンズ交換式カメラの市場はスマートフォンの普及で2010年代に縮み、キヤノンはニコンと並ぶ二大ブランドの地位を保った。ただしキヤノンは1977年から事務機へ開発資源を寄せていたため、カメラの縮小をプリンティングの収益で吸収できた。半導体露光装置ではニコンとオランダのASMLに次ぐ3強の一角にとどまり、微細化の先端では劣位に置かれている。医療でも東芝から取得した事業が計画に届かず、参入した領域のすべてで首位を取れているわけではない。祖業で競争優位を保ちながら、その優位が全社の収益を決めない構成にしたことが、市場が縮んでも利益を伸ばせる形を作った。

創業ストーリー 御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立 (1933年〜)

産婦人科医の出資で生まれた国産高級カメラ

1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した[1]。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作[2]であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ[3]、はじめ千手観音にちなむ『Kwanon』と名付けたものの、まもなく『Canon』へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想[4]を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組[5]した。1939年にはレンズの内製を始め[6]、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している[7]

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [5]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
    • [3]1935年 製品化に成功
    • [4]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
    • [6]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
    • [7]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出

敗戦の翌月にあたる1945年10月、同社はいちはやく生産を再開した[8]。翌1946年に送り出したキヤノンS型は進駐軍将兵と来日バイヤーの間で好評を博し[9]、キヤノンの名が海外に認められる端緒となっている。御手洗毅氏はこの時期に産婦人科医の職を退いて経営へ専念し、外国品に対抗しうる国産カメラを大成させるという課題を事業の目的に据えた。1947年9月には商号をキヤノンカメラ株式会社へ改め[10]、1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場して[11]資本市場からの調達路を開いた。1950年の欧米視察で御手洗氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』[引用元][12](新日本経済 1950/10/20)と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1945年10月 生産を再開
    • [9]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [10]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
    • [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [12]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
    • [5]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
    • [10]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
    • [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
    • [3]1935年 製品化に成功
    • [4]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
    • [6]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
    • [7]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出
    • [8]1945年10月 生産を再開
    • [9]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
  • 新日本経済(1950年10月20日)
    • [12]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた

下丸子工場への10倍投資が支えた輸出経営

1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を結び[13]、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出へ乗り出した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ[14]、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し[15]、国内の顧客対応にも拠点を置いた。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍した[16]と当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
    • [15]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [14]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [16]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された

高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し[17]、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を敷き[18]、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き[19]、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [17]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
    • [18]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
    • [19]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設

1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表[20]し、製品の幅を広げた。1961年にはEEカメラの先駆となるキヤノネットを送り出し、最高級機のキヤノン7型F[21]とあわせて市場の話題を集めている。1964年10月には電子式卓上計算機を発売し、本格的に事務機分野へ進出[22]した。1966年4月には米国にCanon U.S.A.,Inc.を設立して[23]現地法人による販売へ切り替えている。1968年の時点で売上構成は高級カメラ・中級カメラ・8ミリ・カメラ以外の特機がそれぞれ4分の1程度、輸出は全売上高の半分近く[24]を占めた。マスプロダクションとマスセールスの仕組みを業界に先んじて導入した会社[25]であり、特機部門ではICを用いた電子卓上計算機が伸びていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [20]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
    • [21]1961年 EEカメラの先駆キヤノネットを発売、最高級機キヤノン7型Fとともに話題
    • [24]1968年時点で高級カメラ・中級カメラ・8ミリ・特機がそれぞれ約4分の1の売上構成、輸出は全売上高の半分近く
    • [25]マスプロ・マスセールのシステムを導入した先駆者。特機部門ではICの電子卓上計算機が伸長
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [22]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出
    • [23]1966年4月 米国にCanon U.S.A.,Inc.を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
    • [15]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
    • [20]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
    • [21]1961年 EEカメラの先駆キヤノネットを発売、最高級機キヤノン7型Fとともに話題
    • [24]1968年時点で高級カメラ・中級カメラ・8ミリ・特機がそれぞれ約4分の1の売上構成、輸出は全売上高の半分近く
    • [25]マスプロ・マスセールのシステムを導入した先駆者。特機部門ではICの電子卓上計算機が伸長
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [14]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
    • [17]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
    • [18]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
    • [19]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設
    • [22]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出
    • [23]1966年4月 米国にCanon U.S.A.,Inc.を設立
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
    • [16]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された

電卓撤退から賀来龍三郎氏の経営改革まで

1967年、御手洗毅氏は『右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません』[引用元]と述べ、カメラと事務機を経営の両輪に据える方針を打ち出した。1968年2月にキヤノン事務機販売株式会社を設け[26]、同年4月にはNPシステムを開発して普通紙複写機の分野へ参入している[27]。1969年3月には商号をキヤノン株式会社へ改め[28]、社名から『カメラ』の語を外した。1970年3月には半導体製造装置を発表し[29]、のちに産業機器へつながる系統も立ち上げている。1971年11月にはキヤノンカメラ販売とキヤノン事務機サービスをキヤノン事務機販売へ統合し、キヤノン販売株式会社として[30]国内の販売機能を一本化した。

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1968年2月 キヤノン事務機販売(株)を設立
    • [27]1968年 NPシステムを開発し普通紙複写機(PPC)分野へ進出
    • [28]1969年3月 キヤノン株式会社と商号変更
    • [29]1970年3月 半導体製造装置を発表
    • [30]1971年11月 キヤノンカメラ販売・キヤノン事務機サービスをキヤノン事務機販売へ合併しキヤノン販売(株)へ商号変更

普通紙複写機はゼロックスが1960年に商品化し、20年をかけた特許網で他社の参入を阻んでいた[31]。キヤノンも当初は感光紙を使うエレクトロファックス方式を商品化していた[32]ものの、酸化亜鉛を塗るため地が白くならず、紙も厚く重かった。1962年に製品研究課を置き、課員七名のうち田中宏氏ら三人が複写機を担当して[33]ゼロックスの特許を調べ上げたが、小手先の回避では製品化が無理と判明した。そこで田中氏は、カメラの電子化のために研究していた硫化カドミウムに着目した[34]。抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用としては見捨てられていた材料だが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して電荷を保持させ、帯電と保持の機能を分離する[35]ことで欠点を利点へ転じた。二つの材料を光学的に組み合わせる技術はカメラメーカーの本領であり、この方式をNPシステムと名付けている[36]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
    • [31]ゼロックスが1960年にPPCを商品化、20年の開発期間で完璧に近い特許網を構築
    • [32]キヤノンは当初エレクトロファックス方式(感光紙)を商品化していたが、酸化亜鉛塗布で地が白くならず厚く重い
    • [33]1962年 製品研究課を設置、課員7名のうち田中宏ら3人が複写機を担当
    • [34]田中宏が電子写真用として見捨てられていた硫化カドミウム(CdS)に着目
    • [35]絶縁性の透明フィルムを一体化して電荷を保持させ、帯電と保持の機能を分離
    • [36]CdSとフィルタを光学的に最適に組み合わせる技術はカメラメーカーの強み。新方式をNP(New Process)システムと命名

1965年に総勢23名のEプロジェクトが動き出した[37]が、実用化は容易ではなく、複写機部門は累積で10億円の赤字を抱えた[38]。社内には撤退を求める強硬な意見も出たものの、経営陣は長期的に有望な事業と判断し、部門を中央研究所へ移して本社の費用で開発を続けさせている[39]。第一号機のNP-1100が市販にこぎつけたのは1970年で、着手から八年目[40]であった。キヤノンは自社に複写機の営業力が育っていない事情もあり、参入意欲の強い海外企業へ積極的に特許を供与して技術料を得る道を選ぶ[41]。1977年からは複写機で技術料収入が支出を上回り、1980年以降は支出がゼロ[42]になった。特許の確立には数万ページの書類と数億円の弁護士費用を要している[43]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
    • [37]1965年 複写機の製品開発を行うEプロジェクトが総勢23名で発足
    • [38]複写機部門は累積で10億円の赤字。社内から撤退を求める強硬な意見
    • [39]複写機部門を中央研究所へ移し本社費用で開発を継続。トップが長期的に有望と判断
    • [40]1970年 NP方式第一号機NP-1100を市販。開発着手から8年目
    • [41]自社に複写機の営業力が育っておらず、海外企業へ特許を供与して技術料収入を得る戦略
    • [42]1977年から複写機で技術料収入が支出を上回り、1980年以降は支出がゼロ
    • [43]特許確立に数万ページの関係書類と数億円の弁護士費用
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1968年2月 キヤノン事務機販売(株)を設立
    • [27]1968年 NPシステムを開発し普通紙複写機(PPC)分野へ進出
    • [28]1969年3月 キヤノン株式会社と商号変更
    • [29]1970年3月 半導体製造装置を発表
    • [30]1971年11月 キヤノンカメラ販売・キヤノン事務機サービスをキヤノン事務機販売へ合併しキヤノン販売(株)へ商号変更
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
    • [31]ゼロックスが1960年にPPCを商品化、20年の開発期間で完璧に近い特許網を構築
    • [32]キヤノンは当初エレクトロファックス方式(感光紙)を商品化していたが、酸化亜鉛塗布で地が白くならず厚く重い
    • [33]1962年 製品研究課を設置、課員7名のうち田中宏ら3人が複写機を担当
    • [34]田中宏が電子写真用として見捨てられていた硫化カドミウム(CdS)に着目
    • [35]絶縁性の透明フィルムを一体化して電荷を保持させ、帯電と保持の機能を分離
    • [36]CdSとフィルタを光学的に最適に組み合わせる技術はカメラメーカーの強み。新方式をNP(New Process)システムと命名
    • [37]1965年 複写機の製品開発を行うEプロジェクトが総勢23名で発足
    • [38]複写機部門は累積で10億円の赤字。社内から撤退を求める強硬な意見
    • [39]複写機部門を中央研究所へ移し本社費用で開発を継続。トップが長期的に有望と判断
    • [40]1970年 NP方式第一号機NP-1100を市販。開発着手から8年目
    • [41]自社に複写機の営業力が育っておらず、海外企業へ特許を供与して技術料収入を得る戦略
    • [42]1977年から複写機で技術料収入が支出を上回り、1980年以降は支出がゼロ
    • [43]特許確立に数万ページの関係書類と数億円の弁護士費用

HP社OEMが開いたLBP世界シェア70%の扉

一方で電卓は1970年代の値下げ競争で採算が悪化し[44]、多角化の絞り込みの甘さに市場も疑いの目を向けた。1972年初頭の時点で同社の路線は決め手を欠く多角化と評されている[45](週刊東洋経済 1972/01/15)。1975年6月にキヤノンは無配へ転落し、電卓事業から撤退した。前田武男社長の急逝も重なるなか、1977年には常務の賀来龍三郎氏が副社長と専務を越えて社長へ就いている[46]。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制を敷いてカメラ・事務機・光学の各事業に損益責任を負わせた[47]。就任直後には、事務機の総合化がキヤノンの命題であり付加価値の高い製品差別化ができるかどうかが問われる[48]、という厳しい見方も示されている(週刊東洋経済 1977/07/30)。

  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
    • [44]電卓事業は1970年代の値下げ競争で採算が悪化し、多角化の絞り込みの甘さに市場も疑問を向けた
    • [45]1972年時点で「キメ手を欠く多角化路線」と評された
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
    • [46]1977年 賀来龍三郎が常務から社長へ抜擢(副社長・専務を飛ばす異例の人事)
    • [48]就任直後に「事務機の総合化は、キヤノンの命題だが、その場合は、それだけ付加価値の高い、製品差別化ができるかどうか」と指摘された
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
    • [47]賀来龍三郎は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業に損益責任を負わせた

複写機事業は1970年代後半から急拡大し、1982年には売上高が1000億円を超えた[49]。伸び率が一桁成長へ落ちる兆しを見て、同年にはデスクに載る小型・低価格のミニコピアを市販し、複写機のパーソナル化という市場を開いている[50]。1975年5月にはレーザープリンターの開発に成功しており[51]、1985年に米ヒューレット・パッカードと業務協力提携を結んでレーザービームプリンターをOEM供給した。自社ブランドの販路を独自に築くのではなく、販売の前面をパートナーへ譲って規模を取る選択であり、レーザービームプリンターの世界シェアは1990年に70%へ達した。HP社向けの販売高はのちに6110億円の規模まで伸びている。1981年10月に開発したバブルジェット記録方式[52]は、1990年発売の個人向けプリンター『BJ-10v』へ結実している。

  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
    • [49]1982年に複写機の売上高が1000億円を突破。その少し前から伸び率が一桁成長に低下
    • [50]1982年 ミニコピアを市販しPPCのパーソナル化を開いた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [51]1975年5月 レーザープリンターの開発に成功
    • [52]1981年10月 バブルジェット記録方式の開発に成功

生産の海外展開も並行して進み、1982年2月に大分キヤノン[53]、1985年11月に米国のCanon Virginia,Inc.[54]、1988年12月にマレーシアのCanon Opto[55]、1989年9月に中国の佳能大連事務機有限公司[56]、1990年8月にタイのCanon Hi-Techを相次いで設けている[57]。賀来氏が社長を務めた1977年からの十年[58]で、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへ主力を移し替えた。1990年には連結経常利益で国内5位の超優良企業へ成長したと報じられ[59]、売上高は1兆円を超えている(日経ビジネス 1990/01/01)。

  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [53]1982年 大分キヤノン(株)を設立
    • [54]1985年 米国にCanon Virginia,Inc.を設立
    • [55]1988年 マレーシアにCanon Opto(Malaysia)Sdn.Bhd.を設立
    • [56]1989年9月 中国に佳能大連事務機有限公司を設立
    • [57]1990年8月 タイにCanon Hi-Tech(Thailand)Ltd.を設立
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
    • [58]賀来龍三郎の社長在任は1977年からの10年間
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
    • [59]1990年元日号が「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」と報道
  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
    • [44]電卓事業は1970年代の値下げ競争で採算が悪化し、多角化の絞り込みの甘さに市場も疑問を向けた
    • [45]1972年時点で「キメ手を欠く多角化路線」と評された
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
    • [46]1977年 賀来龍三郎が常務から社長へ抜擢(副社長・専務を飛ばす異例の人事)
    • [48]就任直後に「事務機の総合化は、キヤノンの命題だが、その場合は、それだけ付加価値の高い、製品差別化ができるかどうか」と指摘された
    • [58]賀来龍三郎の社長在任は1977年からの10年間
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
    • [47]賀来龍三郎は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業に損益責任を負わせた
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
    • [49]1982年に複写機の売上高が1000億円を突破。その少し前から伸び率が一桁成長に低下
    • [50]1982年 ミニコピアを市販しPPCのパーソナル化を開いた
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
    • [51]1975年5月 レーザープリンターの開発に成功
    • [52]1981年10月 バブルジェット記録方式の開発に成功
    • [53]1982年 大分キヤノン(株)を設立
    • [54]1985年 米国にCanon Virginia,Inc.を設立
    • [55]1988年 マレーシアにCanon Opto(Malaysia)Sdn.Bhd.を設立
    • [56]1989年9月 中国に佳能大連事務機有限公司を設立
    • [57]1990年8月 タイにCanon Hi-Tech(Thailand)Ltd.を設立
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
    • [59]1990年元日号が「連結経常利益で国内5位の超優良企業に成長した」と報道

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キヤノンの沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1933〜1966年御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立キヤノン創業——医・証券・技術の三者結合が興した国産高級カメラ

1933年11月、映写機技術者・吉田氏五郎氏、証券マン・内田氏三郎氏、産婦人科医・御手洗氏毅氏の三者が東京六本木のアパートで精機光学研究所を興し、舶来品が独占していた高級小型カメラの国産化に挑んだ創業。試作機『Kwanon』は1935年に『Canon』へ改められた。

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東京目黒に精機光学工業として創立。カメラ製造販売開始
御手洗毅商号をキヤノンカメラに変更
御手洗毅キヤノンカメラと商号変更
御手洗毅東京証券取引所に株式上場
御手洗毅本社工場を新設。北米輸出を本格化
御手洗毅目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立
御手洗毅秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
御手洗毅ニューヨーク支店開設
御手洗毅カメラ不況により減収決算へ
御手洗毅事務機分野に本格参入★★
御手洗毅Canon U.S.A.,Inc.を設立
1967〜1994年事務機への経営転換と売上高1兆円突破という飛躍御手洗毅「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定
御手洗毅普通紙複写機(PPC)分野に参入★★
御手洗毅キヤノンと商号変更
御手洗毅半導体製造装置を発表★★
御手洗毅キヤノン販売に商号変更
前田武男レーザープリンターの開発に成功★★
前田武男無配転落。電卓事業の撤退
賀来龍三郎賀来氏龍三郎氏の社長抜擢と事業部制による事務機集中

1977年、電卓事業の採算悪化で無配に転落したキヤノンが、前田武男社長の急逝を受けて常務の賀来氏龍三郎氏を社長に抜擢した経営判断。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業の損益を見えるようにして、多角化を整理し事務機へ研究開発を集中させた。

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賀来龍三郎バブルジェット記録方式の開発に成功★★
賀来龍三郎大分キヤノンを設立
賀来龍三郎HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ
賀来龍三郎Canon Virginia,Inc.を設立
山路敬三中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立
山路敬三BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け)
1995〜2026年デジタル化対応とM&Aによる事業領域の拡張御手洗冨士夫御手洗氏冨士夫氏の社長就任と連結経営・自前主義への転換

1995年9月、御手洗氏冨士夫氏が代表取締役社長に就任し、事業部ごとの採算から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ改めた。技術と販路の自前主義を徹底し、セル生産で在庫を絞って『稼ぐ会社』へ作り替えた経営判断。

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御手洗冨士夫中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立
御手洗冨士夫セル生産方式を導入
御手洗冨士夫大分キヤノンマテリアルを設立
御手洗冨士夫ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止)
御手洗冨士夫アネルバ(現キヤノンアネルバ)の株式を取得
御手洗冨士夫NECマシナリー(現キヤノンマシナリー)の株式を取得
御手洗冨士夫原価改善により過去最高収益へ
内田恒二リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに
内田恒二「自前主義」を返上した初の大型買収——蘭オセの連結子会社化

2009年11月、キヤノンはオランダの印刷機大手オセ(Océ)を株式公開買付け(TOB)で連結子会社化すると発表した。1株8.6ユーロ、総額約730百万ユーロ(当時のレートでおよそ1,000億円)で、同社にとって過去最大の買収だった。独自技術にこだわる自前主義を看板としてきたキヤノンが、初めて大型のM&Aで他社の技術と欧米の販路を買い、成長領域の商業印刷へ進んだ転換にあたる。

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御手洗冨士夫Axis Communicationsを買収発表★★
真栄田雅也東芝メディカルシステムズの6655億円買収と医療への本格参入

2016年、キヤノンは経営再建中の東芝から医療機器子会社の東芝メディカルシステムズを6655億円で買収した。富士フイルムやコニカミノルタとの入札を制し、CTや超音波診断装置などの医療事業を主力の一角に据える事業転換であった。ただ、独占禁止法の事前届出の前に代金を東芝へ払い込む複雑な手法を用いたため、公正取引委員会は買収そのものは承認しつつ、その手法に異例の『注意』を行った。

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御手洗冨士夫Redlen Technologies Inc.の株式を取得
御手洗冨士夫取締役候補を全員男性としたキヤノンと、御手洗会長の賛成率50.59%

2023年3月のキヤノン定時株主総会で、会長兼社長CEOの御手洗氏冨士夫氏の取締役再任議案への賛成率が50.59%にとどまった。取締役候補5名が全員男性で多様性を欠くとして、議決権行使助言会社のISSと海外機関投資家が反対に回った結果である。前年の75.3%から24.71ポイント下げ、可決に必要な過半をわずかに上回る薄氷の再任となった。翌2024年、初の女性社外取締役を迎えると賛成率は90.86%へ戻した。

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御手洗冨士夫医療機器事業ののれん1651億円減損と本社一体化による立て直し

2025年1月30日、キヤノンは2024年12月期決算で、2016年に6655億円で買収した医療機器子会社キヤノンメディカルシステムズを中心に、のれんの減損損失1651億円を計上したと発表した。売上高は過去最高を更新しながら、純利益は前の期比40%減の1600億円に落ち込み、4期ぶりの減益となった。御手洗氏冨士夫会長兼社長CEOは、これに前後して医療事業を本社と一体化する構造改革に踏み込んだ。

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御手洗冨士夫3度目の社長交代と、御手洗氏冨士夫会長による「並走」体制

2026年1月29日、キヤノンは小川一登取締役副社長が社長COO(最高執行責任者)へ昇格する人事を発表した。会長兼社長CEO(最高経営責任者)を務めてきた御手洗氏冨士夫氏は社長職を譲るものの、会長CEOとしてグループ全体の陣頭指揮を続ける。小川氏の社長就任は3月27日の定時株主総会後で、御手洗氏が社長交代会見を開くのは2006年、2016年に続く3度目となった。

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出典・参考
  • キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド(1956年10月23日)
  • 週刊東洋経済(1972年1月15日)
  • 週刊東洋経済(1977年7月30日)
  • 日経ビジネス(1983年10月31日)
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 東洋経済新報社, 1986)5章「5普通紙複写機」
  • 日経ビジネス(1990年1月1日)
  • 新日本経済(1950年10月20日)

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