下丸子へ投じた2億円は、注文が積み上がってから設備を足す順序ではなく、器を先に作って製品を後から入れる順序を選んだ投資だった。資本金2000万円の10倍という規模は、当時のカメラ工場の常識を外れている。その賭けが3年で回収できたのは、高級機に絞って売上高利益率10%超を保てたからであり、快心の作が出るまで量産を自重するという御手洗毅氏の方針と表裏をなしていた。品質で選ばれる市場にとどまる限り、数量と価格の競争に引き込まれずに済む。ジャーデンマセソンとの総代理店契約もニューヨーク支店も、その前提の上に置かれた輸出の装置である。
その前提を自ら崩したのがキヤノネットだった。1万9,800円という値付けはカメラ業界の一斉の反発を招き、公正取引委員会の調査にまで及んでいる。9か月で21万台、2年半で100万台という数量は、高級機の商売とは原価の作り方が違う。注文に追われて取手用地の旧工場棟へ急ぎ組立てラインを敷いたのは、量産の器が足りないことを認めた手続きだった。同じ時期に踏み出した磁気録音装置のシンクロリーダーは850台で終わったが、そこへ投じた人員と材料の技術は消えず、電卓と複写機へ充当された。カメラで確立した輸出の装置は、カメラ以外の商品を載せる器として次の10年に試されることになる。
1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ、はじめ千手観音にちなむ"Kwanon"と名付けたものの、まもなく"Canon"へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組した。1939年にはレンズの内製を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している。
戦時統制は、創業の商品である高級カメラを市場から締め出した。横須賀海軍病院の横倉誠次郎軍医大佐は、海軍で結核の集団検診を実現しようとしており、その要望を聞いて1940年6月にX線間接撮影カメラの設計へ入り、大佐の示した仕様をもとに同年12月に仕上げた。同じ1940年の7月には奢侈品等製造販売制限規則が出され、1台500円を超える写真機は売ることができなくなった。同じ年の12月に決まった公定価格は、キヤノン最新型で卸384円、小売480円である。1941年には月産70台から74台という最高の生産能力に届いたものの、ほとんどは軍部向けで、民間へはもう回らなかった。写真機に代わって主力の座に据えられたのが、このX線間接撮影カメラだった。1942年上半期には、国民厚生上必須の製品として軍部をはじめ各方面からの需要が多く、X線間接撮影カメラは主要製品の地位を占めるまでに育っていた。
取締役社長に御手洗毅氏が就いたのは1942年9月で、これに先立つ同年2月、最高責任者だった内田三郎氏が公用でシンガポールへ発つにあたり、全従業員を集めた場で取締役の御手洗氏に後事を託していた。敗戦翌月の1945年10月には早くも生産を立て直し、翌1946年に世に出たキヤノンS型は進駐軍の将兵や日本を訪れた買い付け人から評判を得て、海外でキヤノンの名が知られるきっかけになった。産婦人科医を辞めて経営に打ち込むようになったのもこのころで、御手洗氏は外国製品と張り合える国産カメラを完成させることを事業の目的に掲げた。商号をキヤノンカメラ株式会社に改めたのが1947年9月、東京証券取引所に株式を上場したのが1949年5月で、これで資本市場から資金を集める道が開けた。1950年の欧米視察で御手洗氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。
1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出に着手した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し、国内の顧客対応にも拠点を開設した。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍したと当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。
高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を構築し、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。
カメラで積んだレンズ設計の蓄積は、カメラ以外の光学機器へも向けられた。1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表している。1959年には焦点距離45ミリから200ミリの自社初のスタジオズームIS-I型を出し、外国製を含む他社製品に比べて性能が高かったため、国内の市場占有率は95%を超えた。1960年にはズームとフォーカスを1本の棒で動かす一軸二操作方式のIS-III型を発表し、以後の日本のズームレンズの大半がこの方式を採ることになった。同じ年に始まったカラー放送に対しても分解光学系の研究を早くから進め、各放送局の要望に応えている。1961年5月には、ズームレンズの開発が映画とテレビに果たした功績に対して日本映画技術協会賞が贈られた。
議論に決着をつけたのは、設計課員の構想による自動露出機構の試作が成功したことだった。そこへ至るまでに、会社としての方針が固まらないうちから、とにかく試作は進めてみようと技術部長が道筋を示し、開発の側が先に動いていた。発端は1958年秋で、高級機に特化してきた路線を崩すかどうかをめぐり、社内は二つに割れた。すでに高級機メーカーの地位を得ている以上、わざわざ泥沼に踏み込むことはないとする慎重派と、危うくとも中級機に打って出てカメラ全般を手がけるメーカーを目指すべきだとする推進派がぶつかり、対立は開発設計の担当者の間にも及んでいた。1960年8月、予告した新製品の発売価格を2万円未満とすると明らかにすると、業界から激しい反発が起きた。国内での発売は1961年春へ先送りし、それまでに作った分は残らず輸出に回して収めた。
キヤノネットの生産は下丸子工場で立ち上げたが、注文が押し寄せたため、先に手に入れていた茨城県取手の用地に残る旧工場棟へ組立てラインを急いで設け、そこからの最初の出荷は1961年3月となった。国内での販売はそれより前の1961年1月に始まっており、本体価格1万9,800円の同機は、明るさに合わせて絞りが自動で決まるシャッター速度優先式の自動露出機構と、45ミリF1.9のレンズを組み合わせており、売れ行きは同年11月までに21万台を上回り、1963年7月には生産の累計が100万台に届いた。カメラ業界がそろって非難の声を上げた件では、のちに公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調べに乗り出したが、安値ダンピングを疑われて喚問された会社側は、原価の構成を示して嫌疑を晴らした。1960年12月期に42億7,000万円だった売上高は1963年12月期には141億円となり、3年で3倍を上回った。
東京工業大学の星野豊教授が考え出した磁気録音装置を、シンクロリーダーの名で世に出したのは1959年5月で、紙の印刷物に目を通しながら音声を耳で確かめられる点が売り物だった。時期を同じくして踏み込んだこの新分野では、結末が異なった。製品にすると決めてから発売までは約2年で、途中入社の人員も含めて多くの人手を新しい技術領域に振り向けたにもかかわらず、同年上期の販売は合計850台に終わり、前評判には届かなかった。13万5,000円の本体価格が割高と見られたうえ、その年の秋には他社から安い類似品も現れたうえ、東京芝浦電気と共同で開発し1960年1月に出したシートレコーダーも、販売台数が見込みに達せず、生産の打ち切りに至った。当期純利益は1963年12月期の10億5,000万円から1965年12月期の3億5,000万円へ減少した。異分野へ投じた人員と材料の技術は社内に残り、1964年10月の電子式卓上計算機の発売で事務機分野へ向け直されることになる。
1967年から1975年までの9年で、売上高は181億円から749億円へ4倍になった。ところが当期純利益は1970年12月期の23億6,000万円を頂点に、1975年12月期には8億2,000万円まで減少している。事務機は売上を作ったが、利益を作ったとは言い難い。電卓は年率およそ30%の値下げに追われ、部品の合理化では吸収できず、開発のモデルチェンジでしか原価を下げられない商売になっていた。複写機は独自方式を立てるまでに8年を要し、その間に部門は累積10億円の赤字を出している。号令として掲げた二本柱は、載せた二つの商品の性格がまるで違った。
それでも複写機だけが残ったのは、方式を自前で持ったからである。ゼロックスの600件を超える特許を迂回できないと判じた田中宏氏は、カメラの受光素子として研究されていた硫化カドミウムに絶縁層を重ね、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けた。電卓は他社と同じ部品を同じように組む商売で、値下げの速さが競争の焦点になる。複写機は方式そのものが他社と違い、参入したい企業へ特許を与える側に回れた。1975年上期の1億7,177万円の損失と、転換社債の条項が確定させた無配は、右手と左手に載せた商品の違いが決算に表れた結果だった。
創立30周年を迎えた1967年の年頭挨拶で、社長の御手洗毅氏は『今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません』と述べた。以後この言葉は社業の進路を表すものとして社内外で繰り返し使われた。前年の1966年に事務機と光学特機の売上は全体の16.5%にとどまっていたが、電卓や複写機といった新製品が加わった1968年には22%、1969年には42%に達している。売上高そのものも1966年12月期の162億円から1969年12月期の333億円へ伸びた。1969年3月1日、カメラ専業という印象を払い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため、商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ改めている。3年で事業構成の4割を新しい分野が占めるに至った変化は、号令が数字を作ったというより、事務機の需要が会社の想定を超えて立ち上がったことを示している。
多角化を本格的に広げること、需要の伸びに合わせて生産能力を増やすこと、自社製品を自社ブランドのまま自社の販路で世界へ売る輸出体制をつくること、という三つの狙いを据えたのが第2次長期経営計画で、多角化は第1次計画でまいた種を育てるものだった。期間は1968年から1972年までの5年間とされ、第1次長期経営計画が終わってから1年を空けて策定されて、5年後に社員6,000人・売上高400億円へ届くことを目指した。売上高の目標は新製品の寄与と景気の持ち直しに押されて計画3年目の1970年度に448億円となって早々と上回り、1970年12月期の決算でも経常利益53億5,000万円・当期純利益23億6,000万円と、どちらも前年を超えている。計画の枠組みは、売上の規模よりも、誰のブランドで誰の手を通じて売るかに重心を置いていた。
電卓の最初の機種は、演算素子にトランジスターとダイオードを使ったため、机に載る型といいながら大柄だった。それが1964年5月に発表したキヤノーラ130で、テンキー式の卓上電子計算機としては世界で初めてのものだった。集積回路の技術を身につけさせるため、1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ送った。その成果が表れたのが1968年5月のキヤノーラ163と161Sで、集積回路が全面的に使われた。同年12月に売り出したキヤノーラ1200は、12桁表示で重さは4キログラムだった。定価12万6,000円というこの機械は、同じくらいの性能の品に数十万円の値が付いていた市場を揺さぶった。この機種のために取手工場へ一貫大量生産体制を設け、設計と性能の簡略化とあわせて1桁1万円という価格帯を成立させた。1970年10月には大規模集積回路を用いた世界初の携帯機ポケトロニクを国内で発売した。
経営陣が電子複写機を製品にすると決め、開発と生産を担うEプロジェクトを組んだのは1964年9月である。本体だけでなく現像剤や複写用紙などの消耗品が売れる点に、この製品への期待がかかっていた。複写の方式の中で、仕上がりの質が最も高いのは電子写真方式だった。ただしその一種で、感光板にできた像を普通紙に移す間接式のゼロックス方式は、ゼロックス社が600件を超える特許で押さえており、似た製品を作ることはほぼ望めないと見られていた。最初に製品化したのは、特許導入のめどがついていた酸化亜鉛感光紙のエレクトロファックス方式で、1966年5月に70万円前後のキヤノファックス1000を売り出した。複写の速さは毎分6枚だった。ところが3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙機BS-1を29万8,000円で出し、市場は高画質よりも低価格の簡易型へ傾いている。
普通紙複写機の自社開発は、1962年に設けられた製品研究課で田中宏氏が担った。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機の開発に加わり、会社が開発事業をやめたために一度は職を離れた経歴を持つ技術者である。ゼロックスの特許を徹底的に調べた結果、小手先の迂回では製品化できないと判じ、カメラの受光素子として研究が進んでいた硫化カドミウムに目を付けた。硫化カドミウムは抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化すれば、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けられる。この構成をNP(New Process)方式と呼び、まず特許の確立に努めた。実用化までの道のりは長く、複写機部門は累積で10億円の赤字を出し、社内には撤退を求める強硬な意見も出た。それでも部門は一時、全員が中央研究所へ移り、本社の費用で開発を続けている。
NP方式の第1号機であるNP-1100が市販されたのは1970年、開発に取り組み始めて8年目であった。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、黒い部分の周囲だけが写るエッジ効果がない点が評価されている。複写機部門が事業の土台を固めたのは、1972年11月に世界で最初に実用化した普通紙複写機NP-L7からである。液体の現像剤を使う液乾式で、画質が高いのに原価は安く、これが新しい市場を開いた。売り方は完全保証方式で、1枚7.5円の料金の中に消耗品、交換部品、保守サービスの一切を含めた。販売先はサービス拠点を中心に半径30キロメートル以内、もしくは2時間で駆けつけられる地域に絞っている。社内で複写機を売り込む営業部隊が十分に育っていなかったので、海外で参入を望む企業には進んで特許を与え、技術料も並行して収入の柱にした。
ベル・アンド・ハウエル社は1962年から10年余り北米の総代理店を務めたが、自社製品を売ることを優先し、キヤノン製品には力を割かなかった。欧州での伸びと比べると、市場として最も大きいアメリカの成績は見込みに届いていなかった。提携を解くことは1973年3月、業界の関係者を招いた場で公表された。同年7月、アメリカとカナダ向けのカメラ販売はキヤノンU.S.A.による直販に切り替わり、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、トロントには約50名の販売員が置かれた。電卓でも、同じ年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー社とのOEM契約を打ち切り、自社ブランドと代理店のブランドがぶつかり合う状態をなくした。第2次長期経営計画が掲げた自前の販売網は、まず北米で形になった。
電卓の価格は1970年代を通じて下がり続け、10年でおよそ100分の1になった。年率およそ30%の値下げは各生産現場の合理化で吸収できる幅を超えており、開発のモデルチェンジで原価を落とすほかなかった。年間の開発モデルが増えたのはそのためで、日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦の様相を呈している。1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社を含む数社にすぎない。1973年の石油危機による物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇も重なり、経常利益の鈍化は1974年上期に表れて、同期の利益は前年下期と同じ21億円で横ばいに終わった。1974年8月には御手洗毅氏が会長へ退き、1934年に前身の研究所へ入った副社長の前田武男氏が社長に就任している。創業以来はじめての社長交代であった。
1974年春に売り出したパンサーシリーズの電卓に不良問題が起き、電卓を中心とする在庫が急激に増えて経営を圧迫した。パーソナル計算機の需要が膨らむなかで参入の時機を逃し、製品自体も価格と技術の両方に問題を抱えていた。1975年上期の営業報告書は、これを業績悪化の最大の原因に挙げている。この期、売上高は前期より6%少ない337億8,453万円にとどまり、1億7,177万円の損失金を出して、株式上場後で初めての赤字に陥った。繰越利益を取り崩せば配当はできたものの、同年6月にロンドンで出した無担保転換社債に配当を制限する条項があり、これに触れるため配当を見送った。下期には売上高が412億円と過去最高に達し、年1割の配当に戻った。通期の着地は売上高749億円、当期純利益8億2,000万円である。1976年1月に提起された優良企業構想は、内外でどのような事態が起きても揺るがない企業を目指すもので、この無配が経営のあり方に投げかけた問いがきっかけになった。
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| 1933〜1966年御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立 | 創業——医・証券・技術の三者結合が興した国産高級カメラ 1933年11月、映写機技術者・吉田五郎氏、証券マン・内田三郎氏、産婦人科医・御手洗毅氏の三者が東京六本木のアパートで精機光学研究所を興し、舶来品が独占していた高級小型カメラの国産化に挑んだ創業。試作機"Kwanon"は1935年に"Canon"へ改められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京目黒に精機光学工業として創立。カメラ製造販売開始 | ★ | |||
| 御手洗毅 | 商号をキヤノンカメラに変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノンカメラと商号変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 本社工場を新設。北米輸出を本格化 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立 | ★ | ||
| 御手洗毅 | ニューヨーク支店開設 | ★ | ||
| 御手洗毅 | カメラ不況により減収決算へ | ★ | ||
| 御手洗毅 | 事務機分野に本格参入 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | Canon U.S.A.,Inc.を設立 | ★ | ||
| 1967〜1976年右手にカメラ左手に事務機、普通紙複写機参入と電卓撤退による無配転落 | 御手洗毅 | 「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定 | ★ | |
| 御手洗毅 | 普通紙複写機(PPC)分野に参入 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノンと商号変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 半導体製造装置を発表 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノン販売に商号変更 | ★ | ||
| 前田武男 | レーザープリンターの開発に成功 | ★★ | ||
| 前田武男 | 無配転落。電卓事業の撤退 | ★ | ||
| 1977〜1994年賀来龍三郎の再建とレーザー・バブルジェット、HPへのOEM供与と大連進出 | 賀来龍三郎 | 事業部制による組織の再編と、事務機事業への経営資源の集中 1977年、電卓事業の採算悪化で無配に転落したキヤノンが、前田武男社長の急逝を受けて常務の賀来龍三郎氏を社長に抜擢した経営判断。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業の損益を見えるようにして、多角化を整理し事務機へ研究開発を集中させた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 賀来龍三郎 | バブルジェット記録方式の開発に成功 | ★★ | ||
| 賀来龍三郎 | 大分キヤノンを設立 | ★ | ||
| 賀来龍三郎 | HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ | ★ | ||
| 賀来龍三郎 | Canon Virginia,Inc.を設立 | ★ | ||
| 山路敬三 | 山路敬三氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 山路敬三 | 中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立 | ★ | ||
| 山路敬三 | BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け) | ★ | ||
| 御手洗肇 | 御手洗肇氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 1995〜2008年御手洗冨士夫のセル生産と原価改善、ニューヨーク上場とアネルバ買収で最高益 | 御手洗冨士夫 | 連結経営への移行と、外部依存を排する自前主義への転換 1995年9月、御手洗冨士夫氏が代表取締役社長に就任し、事業部ごとの採算から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ改めた。技術と販路の自前主義を徹底し、セル生産で在庫を絞って"稼ぐ会社"へ作り替えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 御手洗冨士夫 | 中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | セル生産方式を導入 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 大分キヤノンマテリアルを設立 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止) | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | アネルバ(現キヤノンアネルバ)の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | NECマシナリー(現キヤノンマシナリー)の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 原価改善により過去最高収益へ | ★ | ||
| 2009〜2015年リーマンショックで頭打ちになった本業とオセ・アクシスの買収 | 内田恒二 | リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに | ★ | |
| 内田恒二 | 「自前主義」を返上した初の大型買収 2009年11月16日、キヤノンはオランダの印刷機大手オセ(Océ)を株式公開買付け(TOB)で連結子会社化することを取締役会で決議した。公開買付けは翌2010年3月9日に成立し、その後の追加買付けと優先株式の取得を合わせて持分は87.2%、取得価額は839億円に達した。独自技術にこだわる自前主義を看板としてきたキヤノンが、初めて大型のM&Aで他社の技術と欧米の販路を買い、成長領域の商業印刷へ進んだ転換にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | Axis Communicationsを買収発表 | ★★ | ||
| 2016〜2026年東芝メディカル買収と医療機器ののれん減損、御手洗解任支持と社長交代 | 真栄田雅也 | 6,655億円を投じた買収と、医療事業への本格的な参入 2016年、キヤノンは経営再建中の東芝から医療機器子会社の東芝メディカルシステムズを6,655億円で買収した。CT装置で国内首位の同社を得て、医療を次の主力に据える事業転換であった。ただ、各国の競争法当局の承認を待たずに代金を東芝へ払い込む手法を用いたため、公正取引委員会は買収そのものは承認しつつ、その手法に異例の"注意"を行った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 御手洗冨士夫 | Redlen Technologies Inc.の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 取締役候補を全員男性とした人事と、そのあとに続いた取締役会の組み替え 2023年3月30日の第122期定時株主総会で選任された取締役は5名で、全員が男性だった。内訳は代表取締役会長兼社長CEOの御手洗冨士夫氏、代表取締役副社長CFOの田中稔三氏、代表取締役副社長CTOの本間利夫氏と、社外取締役の齊田國太郎氏・川村雄介氏。取締役の任期は1年で、毎年の総会が信任を問う仕組みになっていた。取締役・監査役・執行役員を合わせた52名のうち女性は2名で、比率は3.8%。その2名はいずれも執行役員であり、取締役会に女性はいなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 医療機器事業ののれん1,651億円の減損と、本社との一体化への舵切り 2025年1月30日、2024年12月期決算でメディカル報告単位ののれんに減損損失1,651億円を計上した。2024年10月1日を基準日として実施した年次の減損テストで、報告単位の公正価値が帳簿価額を下回ったことによる。 売上高は4兆5,098億円と過去最高を更新しながら、営業利益は2,798億円へ25%減り、親会社株主に帰属する当期純利益は前期比40%減の1,600億円。4期ぶりの減益となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 3度目の社長交代と、CEOを残したままの並走体制 2026年1月29日、取締役副社長の小川一登氏が代表取締役社長COOへ昇格する人事が公表された。就任は3月27日の第125期定時株主総会の直後に開かれる取締役会の決議による。会長兼社長CEOを務めてきた御手洗冨士夫氏は社長を退き、代表取締役会長CEOとして取締役会の議長を続ける。御手洗冨士夫氏が社長を譲るのは2006年、2016年に続いて3度目となる。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(キヤノン)