東條英機首相の要請を受けて、軍需向けの光学ガラス製造を開始。クリスタルガラスの第一人者であった山中正一氏が、兄弟の山中茂氏とともに個人創業する形をとった。創業地は東京の保谷であった。
戦時中における光学メーカーは日本に6社存在しており、ニコンとHOYAの2社が海軍向け、その他4社(富士写真フイルム・小原光学・ミノルタ・小西六)が陸軍向けを担当。このうち、海軍向けの中では、ニコンが軍艦(船舶)向けを担当し、HOYAは双眼鏡・爆撃照準器・航空カメラのレンズ製品を担当した。
1945年の終戦によりHOYAは軍需向けレンズの顧客を失った。そこで、企業存続のためにクリスタルへの参入を決定。1945年にクリスタル食器、1947年にはシャンデリア(照明)の製造を開始した。特に、1947年からはシャンデリアの海外輸出を本格化し、米国に輸出されるようになった。背景にはシャンデリアの特産地であったチェコが共産圏となり、米国におけるシャンデリアの供給不足を回避するために、HOYAが代替として輸出を担う形となった。この結果、1949年ごろには全社売上高の約90%が米国むけ輸出(シャンデリア)を占めるようになった。
1955年の経済不況により業績が悪化。1956年に創業家の社長だった山中茂氏は心労により脳溢血に倒れ、事業経営の遂行が難しい状況に陥った。後任社長には娘婿の鈴木哲夫氏が就任し、山中家はHOYAの経営から一歩遠ざかる形となった。
創業期のHOYAの経営状態は苦しく、1957年に創業者の山中正一が資金繰りの苦労を発端とする病気で急逝。このため、山中氏の娘婿であった鈴木哲夫(当時32歳・技師長)が、HOYAの社長に就任した。
HOYAはクリスタルガラスに次ぐ新事業として、アイケア用品であるメガネに着目した。当時のメガネ業界は流通網が問屋に握られていたため、HOYAは直販化によってシェアを確保できると考えた。
しかし、直販化のためのコストが想定の6倍かかったことでHOYAの業績は悪化。日本経済の不況もあって、1966年3月期に売上高42億円・最終赤字7億円を計上して無配に転落した。そして社内でクーデターが発生し、鈴木哲夫は社長を解任された。
ただし、直販化によって、HOYAの業績は徐々に上向いていった。
1987年の時点でHOYAの主力製品は、眼鏡レンズがシェア36%、クリスタル食器がシェア65%、光学レンズがシェア60%、マスクブランクスが世界シェア75%を確保しており、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成した。
この結果、1990年3月期のHOYAは売上高1,233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。
HOYAの鈴木哲夫は、アメリカの知人経営者から「ROEが低い」と指摘され、経営改革を決意した。まずは「事業の整理」、次に「資産の圧縮」、最後に「組織のスリム化(リストラ)」を実施し、経営効率を高める方針に舵を切った。
事業面では、HOYAは競争力を失いつつあったクリスタルガラス事業を中心に、子会社の再編を実施した。22の子会社・関連会社を、7つの子会社に集約した。
資産面では、事業縮小によって不要不急となった土地・建物を売却してバランスシートを圧縮した。
組織面では、余剰人員の整理を実行し、人員の1/3削減や、55歳以上の選択定年制を導入した。
これらの改革を1994年から2年にわたって実施し、一般的な日本企業と比較すると早いタイミングで「リストラ」を完了した。この結果、2000年代以降の事業のグローバル化を推進するための布石になった。
HOYAは持ち株会社への移行を見据えて、「事業ポートフォリオの経営」を本社の業務として定義し、大規模な組織改革を実施した。本社部門は全社戦略とファイナンスを担当し、人事権は5つの事業別の子会社に委譲することによって、権限分離を図った。この結果、HOYAの本社の人員は「2020名」から「50名」に削減された。
同時に取締役の減員を主軸とした、ボード改革を実施。1990年代前半の時点で16名の社内人材が取締役を占めていたが、1997年までに取締役の総数を8名に削減するとともに、社外取締役1名の登用を開始した。当時の日本企業では社外取締役という存在は珍しく、HOYAの取締役会の改革は大きな注目を浴びた。
2000年代を通じてHOYAは、生産拠点の国内から海外への移転を推し進め、タイを中心とした東南アジアでの生産を増強した。
この結果、HOYAはグローバル競争において、メガネレンズなどのアイケア用品を中心に、コスト競争力を持続するメーカーとして業容を拡大した。