1868年に職人であった石田才次郎は、銅版印刷のための「石田旭山印刷所」を京都市内で個人創業した。京都の名所図絵をカラーで再現できる銅版を製造し、紙媒体への画像印刷に必要なハードウェアを提供した。
当社の歴史は、明治初年に私の祖父が石田旭山を京都に設立し、銅版の腐食による製版技法を開発。精密画像の腐食彫刻という難事を成功させたのに端を発する。以来、この精密画像技術はさまざまに展開され、今や電子工学、機械工学、化学、自然科学、工学、冶金学など、あらゆる近代科学の分野を網羅するまでに至った。
石田旭山印刷所を継承した石田敬三氏は、1920年代(大正時代〜戦前)において、写真の普及に着眼。従来の彫刻を前提とした事業の行末を悲観し、写真印刷に必要な「ガラススクリーン」の研究に着手した。
戦前における写真印刷は白黒であり「微細な点の大小」によって画像を表現することが必須であった。ところが、ガラスをエッチングするには精密さが求められ、ガラススクリーンの開発は困難を極めたという。
1934年に石田敬三は「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を開発。化学的なエッチングにより写真製版向けのスクリーンを製造することに成功し、従来は輸入品に頼っていた写真製版用スクリーンの国産化が期待できた。
1934年に商工省は補助金(工業研究奨励金)として7000円を交付し、スクリーンの量産のための研究を開始した。
ところが、スクリーンへのエッチングにおいて精密さが求められたため、量産に難航。1943年までに量産に目処を立てたが、ガラススクリーンへの参入決定から約20年の歳月が「研究開発および生産技術の確立」に費やされた。
1943年10月には株式会社として大日本スクリーン製造所を設立。初代社長には石田敬三氏が就任した。これにより、国内での出版物において、国産技術によって写真印刷が可能になった。戦時中は軍が広報のために写真を活用することから、国産スクリーンを軍需品として供給した。
ガラス面に微細な平行線を引き、蝕刻して、そこに黒色の不透明物質を充填する。この平行線が直交するように、2枚のガラスを貼り合わせたのがガラススクリーンだ。当社のレーザー光源干渉式線引機は、0.1ミクロン単位で作動し、1インチ間に2,500本以上の平行線を等間隔に引くことができる。また、ガラス面を覆う耐蝕膜上に引かれたこの微細な線を、わずかの狂いもなく化学的に蝕刻するのがケミカルエッチング技術だ。この2つの技術が、極微な画像を作り出すアートワークを可能にした。当社の数々の技術は、この画像を創るミクロン単位の技術を厳選として、マクロな展開を遂げたと言える。
白黒テレビは日本国内で普及したものの、カラーテレビは普及率はごくわずかであった。そこで、ソニーはカラーテレビの開発を決め、重要部品であるシャドーマスクの開発を大日本スクリーンとともに推し進めた。この結果、大日本スクリーンはシャドーマスクの開発に成功し、ソニーのカラーテレビの販売拡大とともに業容を拡大する。
業績安定化のために多角化を遂行。1975年に半導体製造装置(ウエハー腐食機)を開発し、半導体業界向けのビジネスを開始した。
ただし、1970年代の時点では「洗浄」には特化しておらず、さまざまな半導体製造装置(フォトレジストの塗布機・エッチング装置・洗浄装置)、および半導体生産に関わる装置(プリント配線板製造装置)を展開した。
半導体製造装置のうち、ウエハ洗浄装置への本格展開を決定。1992年にウェットステーション「WS-820L」を発売
ウエハ洗浄装置の販売拡大により、写真印刷関連機器の売り上げを凌駕。業態転換を達成する
SCREEN HDは300mmウエハー対応の洗浄装置の量産を本格化。1997年にFC-3000を発表して300mmウエハ対応機種を市場に投入し、2001年3月から彦根事業所において新棟(S-1)を新設。2000年代を通じてSCREEN HDは半導体製造装置のうち、洗浄装置においてシェアを確保して業容を拡大するに至った
フラットパネルディスプレイの普及(液晶・プラズマ)によりブラウン管テレビの需要が減少。大日本スクリーンはブラウン管向けマスク事業の縮小を決定し、2001年9月に希望退職者300名の募集を発表
SCREEN HDでは、主力の半導体製造装置(ウエハ洗浄装置)が成長し、祖業に相当する「印刷関連機器」とともに2つの事業から構成されることから、持ち株会社へ移行を決定。2014年10月に商号をSCREENホールディングス(SCREEN HD)に変更し、各事業を傘下子会社で運営する組織に移行した。