第一次世界大戦の勃発によりドイツ製(ツァイス社やライツ社などが製造)の光学機器の輸入が途絶し、日本国内では顕微鏡などの国産化の機運が高まった。この風潮を受けて、大正8年(1919年)10月12日に山下長(たけし)氏は、顕微鏡の国産化を目的として、株式会社高千穂製作所(現オリンパス)を資本金30万円で設立した。
このため、山下長氏がオリンパスの創業者に相当する。創業時点で山下長氏は30歳であった。
山下長氏は政治家・松方正義氏の縁戚にあたる人物であった。山下氏は東京帝国大学の在学中から起業に関心があり、大企業の就職ではなく独立を志向。大学卒業後は、下積みとして松方家が経営する貿易会社「常盤商会」で働いたのちに、1919年にオリンパスの起業に至った。
オリンパス創業時の出資者は松方幸次郎氏(常盤商会を経営)や鈴木泰一氏などであり共同設立の形態をとった。これは、常盤商会時代に山下氏が砂糖の貿易に従事し、第一次世界大戦の好況もあって利益をもたらしたことから、オーナーである松方幸次郎氏が「何か褒美をやろう」と言い、山下氏がオリンパスの設立の後押しとなった経緯が影響している。
この資本政策によってオリンパスは創業者である山下氏の同族ではなく、共同出資による会社経営を選択した。会社設立後も山下長氏は株式を買い集めなかったため、オリンパスの株主は上場前から分散する構造となった。
会社設立と同時に顕微鏡の制作経験がある技術者の寺田枠吉氏を技師長としてスカウト。また、寺田氏が経営していた「寺田製作所」から、製造設備一式を5.2万円で取得した。
山下氏は大学在学中から寺田氏が顕微鏡製作に従事していることを知っており、旧知の関係性であった。また、寺田氏は体温計の製造工場を起業しようとするものの、宅地に工場を建設しようとしたところ、警視庁の認可がおりなかったため、暗礁に乗り上げていた。このため、寺田氏がオリンパスに合流する形となり、オリンパスは創業時点で「体温計の製造設備」と「顕微鏡の開発ノウハウ」を取得した。
1919年の会社設立時点で、オリンパスは「光学部・計器部」の2部門で発足した。このうち計器部では寺田氏が開発していた体温計の製造に従事した。一方、光学部では顕微鏡の国産化の開発を開始。1920年3月にオリンパスは国産顕微鏡「旭号」を開発し、顕微鏡メーカーとして事業を開始した。
顕微鏡の主な販売先は、養蚕業の試験場であり、「旭号」は群馬県・福島県・茨城県などの原蚕種試験場に出荷された。
1919年の会社設立とともに、寺田枠吉氏の知人であった川上謙三郎氏が社長に就任し、山下長氏が専務に就任した。ただし実際の経営は山下氏が意思決定を行なっており、川上社長の経営関与は限定的となり、名義貸しとしての社長であった。
オリンパスの設立にあたって新工場の建設を決定。常盤商会のグループ会社であった「帝国合金」という企業が幡ヶ谷駅付近にあった縁で、同じ幡ヶ谷に工場を新設することを決めた。1919年夏から工場の建設を開始して、同年10月に工場が完成。工場の完成をもって会社創立の総会を開催し、オリンパスは事業を開始した。
会社設立時点の従業員数は約80名であり、生産技術を担う職工が中心であった。特に顕微鏡の製造には、精密部品の加工や、レンズの研磨といった高度な生産技術が必要な工程が多く、専門職である職人を確保する必要があったためである。創業期のレンズの生産は秘匿化され、関係者以外は入室できない部屋で研磨していたという
1920年にオリンパスは顕微鏡「旭号」を発売したものの、ドイツ製(ツァイスなど)の輸入品との競争に直面。日本国内では欧米からの輸入品が重視される時代であり、国産品であった「旭号」は販売で苦戦した。そこで、1920年10月に「オリンパス」の商標を取得。海外風の商標を採用するが、国産品への評判が悪い状態は続き、戦前を通じて顕微鏡の販売に苦戦した。
つくる方は顕微鏡の素人であり、使う方は外国製品を基準にして、少しの不具合があっても、すぐ返品してくる。しかも、相手のいうことが容易に理解できない。例えば、納入した顕微鏡が視野動揺ということで返品されても、その視野動揺というのがわからない有様だった
創業時には顕微鏡のほかに体温計の製造にも従事していたが、消費者向けの事業であり、広告宣伝費が嵩む問題に直面した。特に、森下仁丹が体温計製造のために設立されたばかりのテルモ(当時の商号は赤線検温器株式会社)に出資をし、体温計を取り巻く販売競争の激化が予想された。加えて、顕微鏡においてもレンズの研究開発に莫大な投資が必要であり、コストが先行する事業であった。会社設立から3年間で、合計30万円の開発費を投じており、これは会社設立の資本金に相当する金額であった。
このため、オリンパスの財務状況が悪化し「体温計・顕微鏡」の2事業を遂行することが資金的に困難となった。
そこで、1923年にオリンパスはテルモに対して、体温計事業および事業拠点(渋谷区幡ヶ谷社工場の一部)を売却し、体温計事業から撤退。負債を同時に譲渡したことによって、オリンパスは財務状況を改善した。
なお、体温計事業の売却にあたっては経営に混乱が発生。オリンパスの川上社長が辞任して社長不在の状況が発生したことや、監査役によって譲渡決議の無効化の訴訟が起こされるなど、係争が発生している。
オリンパスは体温計事業の売却にあたって、本社工場の計器部の敷地および設備をテルモに譲渡した。これにより、オリンパスが1919年に建設した幡ヶ谷工場のうち、旧計器部がテルモ本社工場として活用され、旧光学機部が引き続きオリンパスの事業要地として活用された。よって、オリンパスとテルモの本社工場が、幡ヶ谷にて隣接する形となった。
なお、分割資産である工場の所有権の帰属(工場敷地の境界決定など)をめぐって、オリンパスとテルモ(同社の大株主である森下仁丹)で、1928年に訴訟が発生(1929年に和解)するなど、経営上のボトルネックの火種になっている。
1923年にオリンパスが「計器部」をテルモ(森下仁丹が出資者)に譲渡したことにより、テルモの大株主であった森下仁丹はオリンパスにも出資。ところが、1923年の関東大震災によってオリンパスが経営危機に陥った際に、森下仁丹はオリンパスに対する財務支援を拒絶して倒産を許容する立場をとった。この結果、オリンパスは倒産危機に直面し、オリンパスと森下仁丹の関係性は冷え切った。
その後、1928年に森下仁丹は突如として、1923年の計器部の譲渡(オリンパスからテルモに売却)に際して、継承されるべき資産(土地や設備)がテルモに譲渡されていないと主張。オリンパスに対する債権者であることを主張し、譲渡資産の追加と顕微鏡からの撤退(現金の確保と推定)を要請した。これに対してオリンパスは、合理性がない主張として不服を申し立て、森下仁丹に対する告訴を決定。1928年に東京地裁に提訴した。
提訴から1年が経過した1929年にオリンパスと森下仁丹の間で和解が成立し、森下仁丹がオリンパスに対する債権放棄を決定。オリンパスは、本社工場の完全譲渡を阻止し、顕微鏡事業の存続に至った。
わが社は、計器部を赤線検温器に委譲して、顕微鏡生産と販売に全力を傾注してきたが、技術の進歩にも関わらず経営は容易に好転するに至らなかった。しかも、計器部委譲に伴い、大株主となった森下仁丹とわが社の間に、工場建物、工場敷地、機械器具等の所有権の帰属をめぐって重大な紛争が発生し、これに関連して、利益の上がらない顕微鏡の生産中止を要請されたのである。
山下長の回想によれば「驚いた私は、高千穂製作所の経営を委ねた時の契約を盾にとって、大阪に行って同氏(注:森下仁丹の創業者)と会見し、あるいは手紙を持って交渉し(中略)大いにその反省を促したが、その甲斐なく、やむなく告訴する決心を固め、東京地方裁判所に提訴した」。
この提訴は昭和3年に行われ、1年後の4年、ようやく和解による解決をみた。この結果、森下仁丹は、わが社に対する債権一切を放棄し、わが社は使用中の工場および工場敷地、機械器具、事務所建物および敷地一切を取り戻し、地域境界を確定することができた。
戦前の軍備増強を受けて、1933年に海軍はオリンパスについて指定工場に登録。オリンパスは顕微鏡を全国に点在した「海軍病院」に納入することで、販売数量を安定させた。
1937年からは軍需品の生産を本格化。砲鏡・双眼鏡・測定器の生産を開始するとともに、各種工作機械を導入して量産体制を敷いた。終戦間際の1943年12月には諏訪工場、1944年2月には伊那工場をそれぞれ長野県内に新設し、東京への空襲に備えてこれらの疎開工場に設備を移転した。その後、1945年の空襲により本社工場(渋谷区幡ヶ谷)が被災したことから、信州地区の疎開工場をオリンパスの主力工場として稼働した。
特に、諏訪工場は戦後のオリンパスの復興において、いち早くカメラの量産体制を確立し、業容拡大に寄与した。このため、オリンパスの生産体制は1930年代から1945年までを通じた戦時中に、その基盤が確立された。
戦時中の生産増強に対して、オリンパスは工場新設のための資金難に直面。そこで、国内の有力商社である安宅商会(のちの安宅産業)から財務支援を受けることを決め、創業者である山下氏を含めた経営陣の入れ替えを実施した。
安宅商会によるオリンパスの支援に際しては、穏便に行われ、目立った混乱は生じなかった。この結果、オリンパスの創業者である山下長氏は社長を穏便に退任し、安宅商会から派遣された後任者に経営を譲った。
戦前を通じてオリンパスは病院向けに顕微鏡を納入していた縁により、東大第一内科の医師が「胃カメラ(のちの内視鏡)」の開発をオリンパスに要請した。オリンパスの社員が乗っている中央線の列車に医師が乗り込み、旅程の数時間にわたって胃カメラの開発を要請するなど、熱量を持った説得を行った。
これを受けてオリンパスでは1950年までに胃カメラを開発。1952年には内視鏡を開発するなど、医療機器としての内視鏡に参入した。オリンパスとしては顕微鏡事業を通じて光学系と精密機械の技術を持っており、同じような技術が必要な胃カメラは類似領域であった。
ただし、1950年代を通じて医療機器のニーズは限定的であり、オリンパスとしては成長市場であるカメラに経営資源を集中させたことから、内視鏡への本格投資は見送りとなった。オリンパスが会社として内視鏡に本格投資を行ったのは、1969年の「第三事業部」の発足以降であり、1950年代の事業展開は限定的だった。
医師とのコネクションは1950年代を通じて完成された。1955年に全国胃カメラ研究会(のちに日本消化器内視鏡学会へ発展)が各地の医師によって発足すると、オリンパスが事務局を担当。全国の内視鏡のユーザーである医師とのコネクションを「学会」を軸に確保し、医師に対する製品知名度の向上や、製品改良のフィードバックを受ける構造が成立。オリンパス製品による内視鏡が、市場を独占する契機となった。
このため、オリンパスの内視鏡事業は、全社戦略として医療機器に参入するという意図は一切なく、むしろ一部の熱意を持った医師により推進された事例であり、顧客(部外者)によって推進された特殊な新事業となった。
1960年からオリンパスは「グラスファイバー」による紡糸の研究に着手し、ファイバースコープによる内視鏡の開発に着手。コーティングや結束などの技術的困難を克服し、1963年にオリンパスはファイバースコープによる内視鏡を開発した。この開発を通じて、オリンパスはファイバー系の技術を蓄積した。
ファイバースコープの革新性は、写真撮影や現像といった手間を省き、リアルタイムで患者の胃を診断できる点であった。これにより、従来の胃カメラの市場は消滅し、ファイバースコープの内視鏡にリプレイスされるきっかけとなった。オリンパスは試作機を「大阪医学会」「内視鏡学会」へ展示。従来とは次元が異なる医学成果を生むことが期待されたため、学会に所属する医師に大きなインパクトを与えた。
反響の大きさを受けて、1964年からオリンパスはファイバースコープによる内視鏡の量産を八王子事業所(1963年新設)にて開始。内視鏡の大量生産の体制を整えることで、外国製品の内視鏡を駆逐。ファイバー系の生産技術の難易度の高さもあり、技術面でも競合他社に対する障壁として機能した。
医師に要請されて研究開発を続けている状態で、経営的な戦略などは何もなかった
1954年の国内業界全体におけるカメラ販売の不振をうけて、オリンパスはカメラ輸出に注力する方針を決定。1955年に「輸出基本方針」を策定し、オリンパス製品の最低30%を輸出する方針を発表。輸出先は北米(アメリカ・カナダ)に集中する方向を打ち出し、ニューヨークを起点に輸出品の現地企業への売り込みを狙った。輸出機種はオリンパスの主力カメラ「オリンパス35」と「オリンパスワイド」に絞り込んだ。
輸出を具現化するために、1956年にオリンパス社長(高橋氏)が渡米し、現地の販売企業の状況を施設。この結果、オリンパスのアメリカの販売総代理店としてブロックウェイ社を選定し、1956年9月に総代理店契約を締結した。契約期間は5ヵ年とし、オリンパスが宣伝費用として年間400万ドルの負担を決めた。
1961年にオリンパスは小型カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売した。それまでのカメラはシャッター速度や絞りを撮影者が計算して手動で設定する必要があり、アマニュア向けにカメラが普及し辛い原因となっていた。そこで、ペンEEでは、シャッター速度と絞りを自動的に決定する「自動露出決定装置」を搭載し、シャッター機構をオリンパスが自社開発(従来はセイコーやコパルのシャッターを活用)することで自動化を実現した。EEは「レクトリック・アイ」の略称とし、アマチュアでも手軽に写真撮影可能な機種として発売した。
ペンEEは手軽に写真撮影が可能なカメラとし開発された経緯から、発売と同時にマス・マーケティングを展開。カメラへの敷居を下げた機種であったことから、日本国内の評論家なども称賛し、EEに対する評判が高まった。
この結果、オリンパスは「ペンEE」の発売によってカメラの売上高を急増。1959年から発売を開始した「ペン」シリーズ全体で、1963年8月までに販売台数は累計100万台を突破した。これにより、オリンパスはカメラメーカーとして国内でも認知されるに至った。
ただ、ボタンを押すだけで写したいものが綺麗に写るカメラ、これが夢だった。それにはペンが最適なのである。いや、ペンでなければ実現されない夢なのである。なぜかと言えば、絞りやシャッターはEE機構の開発で解決できる。しかし距離だけは自動化できない。幸いなことに、ペンを使うレンズの焦点距離は短い。それだけピントの合う範囲が広く、距離調節をしなくてもピンボケにならない。あとは、絞りとシャッターを自動化するEE機構を発明すれば良い。これこそ夢のカメラである。
1950年代を通じてオリンパスは「顕微鏡・測定器・胃カメラ・カメラ」といった多品種を展開し、このうち特にカメラの需要が増大した。一方で、本社工場の周辺は宅地化が進行しており工場の拡張が困難であったため、関東圏における新しい生産拠点として八王子に工場を新設することを決定。1963年8月に八王子事業所を新設し、1967年までに本社工場の移転を完了した。生産品目は本社工場で担当していた医療機器(グラスファイバー)が中心であった。
1950年代から1960年代を通じてオリンパスは胃カメラ・内視鏡の開発を推進していたが、国内の医師が中心となって開発に尽力したため、オリンパスとしての関与は限定的であった。しかし、1963年にファイバースコープによる内視鏡の開発に成功すると、従来の胃カメラで必要だった現像が不要というメリットがあり需要が増加した。
そこで、1969年にオリンパスは従来の「第一事業部(顕微鏡・測定器・医療機器)と第二事業部(カメラなど)」に加えて、新規事業を推進する「第三事業部」を新設し、医療機器(内視鏡)及び情報機器(ファックス)に本格投資を行うことを決定した。この意思決定により、内視鏡は事業として本格投資が可能な状態となり、医療機器を「顕微鏡・カメラ」に次ぐ第三の柱として育てる体制が整った。
なお、第三事業部は新規事業全般を取り扱う体制とし、医療に加えて情報分野として「ファックス」の研究開発にも従事した。このため、医療機器専門の部署ではなく、2つの新事業(医療機器・情報機器)を推進するための体制として位置付けられた。
「ガストロカメラ、ファクシミリなど、オリンパスの新しい夢であるファイバーを育てるという意味で、第三事業部を発足させた。わが社の成長発展のためには、全社協力して、この新しいファイバー事業部を伸ばしてゆかねばならぬ。このため、第三事業部発足に関連して、社長直轄のもとに副社長の担当によりファクシミリプロジェクトを発足させ、新しいファイバー技術をさらに研究して、第三事業部の活動のバックアップを行うことにした」
「世界で、特にアメリカで、将来性のある産業分野として、医療機械産業を第一に上げている。次は情報産業、わが社でいえばファクシミリである。この2つに我が社は重点を置いている。世界が我が社に期待するところに。こたえねばならない。」
プラザ合意による円高によって輸出が中心であったオリンパスの収益性が悪化。利益確保のために、1987年5月20日のオリンパスの常務会において、金融資産の運用(債権・外国債権・株式先物取引・債権先物取引など)を積極化することを決定した。ただしバブル崩壊後に巨額の含み損(数百億円)を抱え、損失を取り戻すために1993年ごろからよりリスクの大きい金融商品の運用を積極化したが、状況は改善しなかった。1998年頃には損失額が950億円に達したという。
これらの含み損については、損失計上を先送りにして対処したが、1990年代後半の日本における時価会計の導入によって暗礁に乗り上げた。
2002年4月にオリンパス(菊川剛・社長)はFY2002〜FY2006の5ヵ年に及ぶ中期計画として「経営基本計画」を公表した。目標として「企業価値最大化」を掲げ、経営目標として最終年度における売上高8700億円・営業利益1200億円・ROE16%を数値目標に設定した。
売上面では、カメラを中心とした映像事業で3450億円、内視鏡を中心とした医療事業で4000億円を目標して設定し、オリンパスとして「医療・カメラ」の両方に積極投資を行う姿勢を鮮明に打ち出した。
映像分野においては、マーケティングを軸とするブランドへの積極投資により、グローバル展開を志向。20〜30代の若者をターゲットに、デジタルカメラの販売を拡大する計画を立案し、5年間で200億円規模のブランド投資を予定した。
医療分野においては、内視鏡に依存する体質の変換を目指し、新事業の創出を含めた事業展開を戦略目標とした。ただし、新規事業の領域は「バイオ」などの抽象的な言及にとどまり、具体的な事業展開の領域は開示しなかった。
2000年代を通じてデジタルカメラを取り巻く競争環境が激化。大手電機メーカーがコンパクトデジタルカメラに相次いで参入したことにより価格下落が進行し、オリンパスはデジタルカメラで収益を確保することが困難となった。この結果、デジタルカメラが主軸の映像事業はセグメント赤字に転落し、オリンパスの全社利益を毀損した。
2008年2月にオリンパスはGyrus Groupを2597億円で買収した。現預金控除後の取得による支出は2322億円に及び、オリンパスとしては大規模な買収となった。
Gyrus Groupは英国の医療機器メーカーであり、低侵襲治療における高周波技術をコアとし、泌尿器及び婦人科向けの機器を製造販売する企業であった。オリンパスとしては、医療機器分野において、内視鏡に次ぐ新領域として展開することを目論んだ。
なお、買収におけるフィナンシャルアドバイザーへの報酬額が6.8億に設定され、粉飾決算の帳尻を合わす細工が施された。このため、ジャイラスの買収は、ある面では医療機器の強化、別の面では粉飾決算の帳尻合わせとして利用され、2011年の粉飾決算露呈時に問題視された。
携帯電話端末の販売を手がける子会社ITX社(FY2011・売上高2294億円・営業利益53億円)の売却を決定。売却額は530億円で、売却先は日本産業パートナーを選定
医療機器に集中するために、祖業である顕微鏡に加えて、非破壊検査、X線分析計からの撤退を決定。これらの事業を担当していた完全子会社「株式会社エビデント」の株式を全て売却することを決定した。
売却先はベインキャピタル系の投資ファンド「株式会社BCJ-66」であり、売却の譲渡価格は4276億円となった。これに伴い、FY2023にオリンパスは子会社株式譲渡による売却益として2472億円を計上した。