| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 15億円 | 1億円 | 8.2% |
| 1960/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 20億円 | 1億円 | 6.7% |
| 1961/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 28億円 | 1億円 | 6.2% |
| 1962/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 41億円 | 3億円 | 8.1% |
| 1963/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 57億円 | 3億円 | 6.2% |
| 1964/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 79億円 | 3億円 | 4.1% |
| 1965/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 82億円 | 3億円 | 4.1% |
| 1966/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 79億円 | 3億円 | 3.8% |
| 1967/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 95億円 | 3億円 | 3.8% |
| 1968/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 117億円 | 4億円 | 4.0% |
| 1969/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 143億円 | 6億円 | 4.4% |
| 1970/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 189億円 | 7億円 | 3.9% |
| 1971/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 184億円 | 2億円 | 1.2% |
| 1972/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 206億円 | 2億円 | 1.3% |
| 1973/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 265億円 | 6億円 | 2.3% |
| 1974/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 380億円 | 12億円 | 3.1% |
| 1975/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 459億円 | 26億円 | 5.8% |
| 1976/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 535億円 | 31億円 | 5.9% |
| 1977/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 639億円 | 39億円 | 6.1% |
| 1978/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 655億円 | 33億円 | 5.1% |
| 1979/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 810億円 | 49億円 | 6.0% |
| 1980/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 963億円 | 63億円 | 6.5% |
| 1981/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,031億円 | 67億円 | 6.5% |
| 1982/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,089億円 | 72億円 | 6.6% |
| 1983/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,058億円 | 35億円 | 3.3% |
| 1984/10 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,159億円 | 40億円 | 3.4% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,601億円 | 50億円 | 1.9% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,677億円 | 38億円 | 1.4% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,395億円 | 5億円 | 0.2% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,520億円 | 31億円 | 1.2% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,561億円 | 20億円 | 0.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,104億円 | 23億円 | 0.7% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,649億円 | 93億円 | 2.5% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,137億円 | 88億円 | 2.1% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,286億円 | 18億円 | 0.4% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,667億円 | 117億円 | 2.5% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,284億円 | 102億円 | 1.9% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,643億円 | 243億円 | 4.3% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,336億円 | 335億円 | 5.2% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,135億円 | -118億円 | -1.5% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,781億円 | 285億円 | 2.9% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,617億円 | 477億円 | 4.4% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,288億円 | 579億円 | 5.1% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,808億円 | -1,148億円 | -11.8% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,830億円 | 525億円 | 5.9% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,471億円 | 38億円 | 0.4% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,485億円 | -489億円 | -5.8% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,438億円 | 80億円 | 1.0% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,132億円 | 136億円 | 1.9% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,646億円 | -87億円 | -1.2% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,045億円 | 625億円 | 7.7% |
| 2017/3 | 連結IFRS 売上高 / 当期純利益 | 7,405億円 | 427億円 | 5.7% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,864億円 | 570億円 | 7.2% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,938億円 | 81億円 | 1.0% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,552億円 | 516億円 | 6.8% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,305億円 | 129億円 | 1.7% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,501億円 | 1,157億円 | 15.4% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,819億円 | 1,434億円 | 16.2% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,362億円 | 2,425億円 | 25.9% |
光学機器の輸入途絶という外部環境の変化が起業の契機となった点は、創業者の個人的な構想と市場機会の一致を示している。注目すべきは資本政策の設計であり、創業者の山下氏が同族支配を選ばず共同出資の形態を採った点にある。上場前から株主が分散する構造は、所有と経営の分離を早期に確立させた一方、のちの経営ガバナンスにおける監視機能の脆弱性にもつながる構造的な伏線を含んでいた。
第一次世界大戦の勃発により、ドイツのツァイス社やライツ社が製造する光学機器の日本への輸入が途絶した。戦前の日本は顕微鏡をはじめとする精密光学機器の大半を欧州からの輸入に頼っており、大戦の長期化に伴い国産化の必要性が各方面で認識され始めた。とりわけ顕微鏡は医学や農学の研究現場で不可欠な基盤機器であったため、研究機関や各地の試験場において機器不足が顕在化し、代替となる国産品の供給が求められた。こうした環境が、山下長氏による顕微鏡の国産化事業を後押しする社会的な背景となった。
山下長氏は政治家・松方正義氏の縁戚にあたる人物であった。東京帝国大学の在学中から起業に関心を持ち、大企業への就職ではなく独立した事業の立ち上げを志向した。大学卒業後は松方家が経営する貿易会社「常盤商会」に入り、砂糖の貿易業務に従事した。第一次世界大戦の好況もあって山下氏は常盤商会に利益をもたらし、オーナーの松方幸次郎氏から「何か褒美をやろう」と声がかかることになる。
山下氏はこの申し出を活かし、かねてから構想していた顕微鏡の国産化事業の支援を求めた。松方幸次郎氏のほか鈴木泰一氏らが出資者として名を連ね、共同出資の形態で会社設立が具体化した。山下氏が起業を決断した当時の年齢は30歳であり、常盤商会での実務経験と松方家との人脈が、事業の立ち上げにおける基盤となった。
1919年10月12日、山下長氏は株式会社高千穂製作所を資本金30万円で設立した。設立にあたり、顕微鏡の製作経験を有する技術者の寺田枠吉氏を技師長として招聘した。山下氏は大学在学中から寺田氏が顕微鏡製作に従事していることを知っており、旧知の関係にあった。寺田氏が経営していた「寺田製作所」から製造設備一式を5.2万円で取得し、技術と設備の両面を確保した。
寺田氏がオリンパスに合流した背景には、同氏自身の事情も絡んでいた。寺田氏は体温計の製造工場の起業を計画していたが、宅地に工場を建設しようとしたところ警視庁から認可が下りず、計画が頓挫していた。この結果、寺田氏は自らの体温計製造の構想をオリンパスに持ち込む形となり、オリンパスは創業時点で「体温計の製造設備」と「顕微鏡の開発ノウハウ」という二つの技術基盤を同時に獲得した。
資本政策において、オリンパスは創業者の山下氏による同族経営ではなく、共同出資に基づく会社運営の形態を採用した。設立後も山下氏は自社株式を買い集めることをせず、上場前の段階から株主構成が分散する構造が形成された。この資本政策の選択は、のちのオリンパスの経営における所有と経営の分離を方向づけるものとなった。
1919年の会社設立時点で、オリンパスは「光学部」と「計器部」の二部門構成で発足した。計器部では寺田氏が開発を進めていた体温計の製造に従事し、光学部では顕微鏡の国産化に向けた研究開発を開始した。翌1920年3月にはオリンパス初の国産顕微鏡「旭号」を完成させ、精密光学機器メーカーとしての事業を本格的に始動させた。
「旭号」の主な販売先は養蚕業の試験場であった。群馬県・福島県・茨城県などの原蚕種試験場に出荷され、蚕の品種改良や病害研究に用いられた。当時の日本では養蚕業が主要な輸出産業の一つであり、研究用の顕微鏡に対する需要が存在していた。ただし、市場ではドイツ製の輸入品が品質の基準として定着しており、国産品に対する評価は厳しく、販売面では苦戦が続いた。
経営体制としては、寺田枠吉氏の知人である川上謙三郎氏が社長に就任し、山下長氏は専務に就任した。ただし、実際の経営判断は山下氏が担っており、川上社長の経営関与は限定的で名義上の社長であった。創業時の従業員数は約80名であり、精密部品の加工やレンズの研磨など高度な生産技術を持つ職工が組織の中核を占めた。レンズの生産工程は秘匿化され、関係者以外は立ち入れない部屋で研磨が行われていたという。
光学機器の輸入途絶という外部環境の変化が起業の契機となった点は、創業者の個人的な構想と市場機会の一致を示している。注目すべきは資本政策の設計であり、創業者の山下氏が同族支配を選ばず共同出資の形態を採った点にある。上場前から株主が分散する構造は、所有と経営の分離を早期に確立させた一方、のちの経営ガバナンスにおける監視機能の脆弱性にもつながる構造的な伏線を含んでいた。
創業期に二事業を並行運営した結果、資本金と同額の開発費を投じてもなお事業化の見通しが立たず、体温計事業の売却に至った。注目すべきは事業売却そのものよりも、本社工場を物理的に分割してテルモに譲渡した点であり、この決定が敷地境界問題として数年にわたる訴訟を招いた。事業撤退時の資産処理の設計が、その後の経営リスクとして残存した事例である。
創業時からオリンパスは顕微鏡のほかに体温計の製造にも従事していたが、体温計は消費者向けの製品であり広告宣伝費が嵩む構造にあった。加えて、森下仁丹が体温計製造を目的に設立されたテルモ(当時の商号は赤線検温器株式会社)に出資し、体温計市場における販売競争の激化が見込まれた。一方、顕微鏡においてもレンズの研究開発に多額の投資が必要であり、会社設立から3年間で開発費は合計30万円に達した。この金額は設立時の資本金と同額であり、コストが先行する事業構造が財務を圧迫していた。
体温計と顕微鏡という二つの事業を同時に遂行するための資金的余裕がなくなり、オリンパスは事業の取捨選択を迫られる状況に追い込まれた。いずれの事業も収益化までに時間を要する段階にあり、限られた資本のもとで両立させることは現実的でなくなっていた。
1923年にオリンパスはテルモに対して、体温計事業およびその事業拠点である渋谷区幡ヶ谷の本社工場の一部を売却し、体温計事業から撤退した。売却にあたり負債を同時に譲渡したことで、オリンパスの財務状況は改善された。この決定により、オリンパスは顕微鏡の一事業に経営資源を集中させる体制へ移行した。
ただし、体温計事業の売却に際しては経営上の混乱が発生した。オリンパスの川上社長が辞任して社長不在の状態となったほか、監査役が事業譲渡の決議について無効化を求める訴訟を提起するなど、社内の係争が表面化した。創業からわずか数年で、オリンパスは事業再編と経営体制の動揺を同時に経験することとなった。
体温計事業の売却に伴い、オリンパスが1919年に建設した幡ヶ谷工場は分割された。旧計器部の敷地と設備はテルモの本社工場として活用され、旧光学部は引き続きオリンパスの拠点として運用された。こうして、オリンパスとテルモの本社工場が幡ヶ谷の同一地区内に隣接する形が生まれた。
この工場分割は、のちに資産の帰属をめぐる紛争の火種となった。工場敷地の境界決定や設備の所有権について、オリンパスとテルモの大株主である森下仁丹との間で見解の相違が生じ、1928年に訴訟に発展した。この訴訟は翌1929年に和解で決着したが、創業期に行った事業売却の処理が、長期にわたって経営上の負担として残ることとなった。
創業期に二事業を並行運営した結果、資本金と同額の開発費を投じてもなお事業化の見通しが立たず、体温計事業の売却に至った。注目すべきは事業売却そのものよりも、本社工場を物理的に分割してテルモに譲渡した点であり、この決定が敷地境界問題として数年にわたる訴訟を招いた。事業撤退時の資産処理の設計が、その後の経営リスクとして残存した事例である。
事業譲渡をきっかけに資本関係が生まれた二社の関係が、震災時の支援拒絶を境に対立へ転じた構図である。森下仁丹が5年の沈黙を経て突如として資産の追加譲渡と事業撤退を迫った点は、当時の株主権行使のあり方を映している。オリンパスが司法の場を選択して和解に至り、顕微鏡事業の存続を確保した判断は、祖業を守るための創業者の意志が法的手段として具体化された事例といえる。
1923年にオリンパスが体温計事業の「計器部」をテルモに譲渡した経緯から、テルモの大株主であった森下仁丹はオリンパスにも出資する関係にあった。しかし同年に発生した関東大震災によってオリンパスが経営危機に陥った際、森下仁丹は財務支援を拒絶し、オリンパスの倒産を許容する立場をとった。この対応により、オリンパスは存続の危機に直面し、両社の関係は決裂に近い状態に至った。
その後、1928年に森下仁丹は突如として、1923年の計器部譲渡に際してテルモに継承されるべき資産が未譲渡であると主張し始めた。オリンパスに対する債権者であることを掲げ、追加の資産譲渡に加えて顕微鏡事業からの撤退を要請した。震災時の支援拒絶から5年を経ての要求であり、オリンパスとしては合理性を欠く主張として受け止めた。
森下仁丹の要求に対し、オリンパスは不服を申し立て、1928年に東京地方裁判所への提訴を決定した。創業者の山下長氏は大阪に赴いて森下仁丹側と直接交渉し、書簡を通じた反省の促進も試みたが、交渉は不調に終わった。やむなく司法の場での解決を選択し、本社工場と顕微鏡事業の存続をかけた法的手続きに踏み切った。
提訴から1年が経過した1929年に、オリンパスと森下仁丹の間で和解が成立した。森下仁丹がオリンパスに対する一切の債権を放棄し、オリンパスは使用中の工場および工場敷地、機械器具、事務所建物の全てを確保した。これにより工場の完全譲渡は回避され、幡ヶ谷における工場敷地の境界も確定した。オリンパスは顕微鏡事業の継続基盤を維持し、その後の事業展開へとつなげた。
事業譲渡をきっかけに資本関係が生まれた二社の関係が、震災時の支援拒絶を境に対立へ転じた構図である。森下仁丹が5年の沈黙を経て突如として資産の追加譲渡と事業撤退を迫った点は、当時の株主権行使のあり方を映している。オリンパスが司法の場を選択して和解に至り、顕微鏡事業の存続を確保した判断は、祖業を守るための創業者の意志が法的手段として具体化された事例といえる。
わが社は、計器部を赤線検温器に委譲して、顕微鏡生産と販売に全力を傾注してきたが、技術の進歩にも関わらず経営は容易に好転するに至らなかった。しかも、計器部委譲に伴い、大株主となった森下仁丹とわが社の間に、工場建物、工場敷地、機械器具等の所有権の帰属をめぐって重大な紛争が発生し、これに関連して、利益の上がらない顕微鏡の生産中止を要請されたのである。
山下長の回想によれば「驚いた私は、高千穂製作所の経営を委ねた時の契約を盾にとって、大阪に行って同氏(注:森下仁丹の創業者)と会見し、あるいは手紙を持って交渉し(中略)大いにその反省を促したが、その甲斐なく、やむなく告訴する決心を固め、東京地方裁判所に提訴した」。
この提訴は昭和3年に行われ、1年後の4年、ようやく和解による解決をみた。この結果、森下仁丹は、わが社に対する債権一切を放棄し、わが社は使用中の工場および工場敷地、機械器具、事務所建物および敷地一切を取り戻し、地域境界を確定することができた。
全社戦略ではなく、顧客である医師の要請と熱意によって事業が形成された点が構造的に特異である。学会の事務局を担うことで、製品開発のフィードバックと販路構築を同時に実現した仕組みは、メーカーが顧客コミュニティの基盤インフラを担うことで市場を形成する手法として注目に値する。ファイバースコープの技術蓄積が参入障壁として機能した点も、技術選択と市場支配の連動を示す事例である。
戦前を通じてオリンパスは病院向けに顕微鏡を納入しており、医療現場との接点を持っていた。この縁から、東京大学第一内科の医師がオリンパスに対して「胃カメラ」の開発を要請した。要請の手法は型破りであり、オリンパス社員が乗る中央線の列車に医師が乗り込み、旅程の数時間にわたって胃カメラの構想と開発の必要性を説くものであった。顕微鏡メーカーに過ぎなかったオリンパスに医療機器の開発を求めた背景には、光学系と精密機械の技術が胃カメラの開発に転用可能であるという医師側の見立てがあった。
オリンパスはこの要請を受けて胃カメラの開発に着手し、1950年までに試作機を完成させた。1952年には内視鏡の開発にも進み、医療機器としての製品化を進めた。ただし、1950年代を通じて医療機器のニーズは限定的であり、当時の成長市場はカメラであった。オリンパスの経営判断としてはカメラに経営資源を集中させる方針を採り、内視鏡への本格投資は見送りとなった。
社内において内視鏡の開発は一部の技術者と医師の協力関係に依存しており、全社戦略として医療機器に参入するという意思決定は存在しなかった。のちにオリンパスの経営幹部が「経営的な戦略などは何もなかった」と振り返っているように、医療機器事業は顧客である医師の側から推進された事例であった。
1955年に全国胃カメラ研究会が各地の医師によって発足すると、オリンパスはその事務局を担当した。同研究会はのちに日本消化器内視鏡学会へと発展し、内視鏡を使用する全国の医師が集まる場となった。オリンパスが事務局を務めたことで、ユーザーである医師とのコネクションを組織的に確保する構造が生まれ、製品の知名度向上と改良のためのフィードバックを得る回路が確立された。
この学会を軸とした医師ネットワークの形成は、オリンパスの内視鏡が市場を占有する契機となった。新型機の展示や臨床報告を通じて、医師の間でオリンパス製品が標準的な選択肢として定着していった。市場の形成段階から学会運営に関与することで、製品開発と販路構築を同時に進める仕組みが構築された。
1960年からオリンパスはグラスファイバーによる紡糸の研究に着手し、ファイバースコープを用いた内視鏡の開発に取り組んだ。コーティングや結束などの技術的課題を克服し、1963年にファイバースコープ内視鏡を完成させた。この技術の蓄積が、のちの内視鏡市場におけるオリンパスの技術的優位の源泉となった。
ファイバースコープの内視鏡は、従来の胃カメラで必要だった写真撮影と現像の工程を省き、リアルタイムで患者の胃の状態を観察できる点で従来型とは本質的に異なる製品であった。これにより、従来型の胃カメラ市場はファイバースコープ内視鏡に置き換えられる流れが生まれた。オリンパスは試作機を大阪医学会や内視鏡学会に展示し、従来とは次元の異なる医学的成果が期待されたことから、学会に所属する医師に大きな反響を呼んだ。
この反響を受けて、1964年からオリンパスは八王子事業所でファイバースコープ内視鏡の量産を開始した。大量生産体制を整えることで外国製品の内視鏡に対する価格競争力を確保するとともに、ファイバー系の生産技術が持つ難易度の高さが、他社にとっての参入障壁として機能した。オリンパスは光学技術に加えてファイバー系の製造技術という二重の技術基盤を確立した。
ただし、1960年代の時点でオリンパスが内視鏡を主力事業として位置づけていたわけではなかった。会社としての本格投資が開始されたのは1969年の「第三事業部」発足以降であり、1950年代から1960年代にかけての内視鏡事業は、全社戦略の枠外で医師と技術者の協力により推進された特殊な事業展開であった。
全社戦略ではなく、顧客である医師の要請と熱意によって事業が形成された点が構造的に特異である。学会の事務局を担うことで、製品開発のフィードバックと販路構築を同時に実現した仕組みは、メーカーが顧客コミュニティの基盤インフラを担うことで市場を形成する手法として注目に値する。ファイバースコープの技術蓄積が参入障壁として機能した点も、技術選択と市場支配の連動を示す事例である。
医師に要請されて研究開発を続けている状態で、経営的な戦略などは何もなかった
ペンEEの設計思想は、撮影の全工程を自動化するという明確な目的に基づいていた。自動露出装置の開発だけでなく、焦点距離の短いレンズを採用することで距離調節も省略した点に、ハードウェア設計と市場ニーズの統合がみられる。シャッター機構を外部調達から自社開発に切り替えた判断も、自動化という製品コンセプトの実現に不可欠な技術選択であった。
1961年以前のカメラは、撮影にあたってシャッター速度や絞りを撮影者が自ら計算して手動で設定する必要があった。この技術的なハードルが、アマチュア層へのカメラの普及を阻む要因となっていた。写真撮影には一定の知識と経験が求められ、手軽に使えるカメラへの潜在需要は存在していたものの、技術面での制約から実現には至っていなかった。
オリンパスはこの課題に対して、シャッター速度と絞りを自動的に決定する「自動露出決定装置」の開発に着手した。従来のカメラではセイコーやコパルが製造するシャッターを採用していたが、自動化を実現するためにシャッター機構そのものをオリンパスが自社で開発する方針を採った。「EE」は「エレクトリック・アイ」の略称であり、技術的な自動化をカメラの名称に反映させた。
1961年7月にオリンパスは小型カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売した。自動露出の搭載により、撮影者がシャッター速度や絞りを設定する手間が不要となり、シャッターボタンを押すだけで写真が撮れるカメラとして設計された。加えて、ペンシリーズで採用するレンズは焦点距離が短く、ピントの合う範囲が広いため距離調節も不要であった。これにより、撮影の全工程がほぼ自動化された。
発売と同時にオリンパスはマス・マーケティングを展開し、アマチュア層への訴求を本格化させた。カメラへの敷居を引き下げた機種として国内の評論家からも注目を集め、ペンEEに対する評判が広がった。1959年から発売を開始したペンシリーズ全体の販売台数は、1963年8月までに累計100万台を突破するに至った。これにより、オリンパスは顕微鏡や医療機器だけでなく、カメラメーカーとしても国内で広く認知されることとなった。
ペンEEの設計思想は、撮影の全工程を自動化するという明確な目的に基づいていた。自動露出装置の開発だけでなく、焦点距離の短いレンズを採用することで距離調節も省略した点に、ハードウェア設計と市場ニーズの統合がみられる。シャッター機構を外部調達から自社開発に切り替えた判断も、自動化という製品コンセプトの実現に不可欠な技術選択であった。
ただ、ボタンを押すだけで写したいものが綺麗に写るカメラ、これが夢だった。それにはペンが最適なのである。いや、ペンでなければ実現されない夢なのである。なぜかと言えば、絞りやシャッターはEE機構の開発で解決できる。しかし距離だけは自動化できない。幸いなことに、ペンを使うレンズの焦点距離は短い。それだけピントの合う範囲が広く、距離調節をしなくてもピンボケにならない。あとは、絞りとシャッターを自動化するEE機構を発明すれば良い。これこそ夢のカメラである。
1950年代から開発が続いていた内視鏡事業は、第三事業部の新設をもって初めて会社としての本格投資の対象となった。技術や製品の蓄積ではなく、事業体制の再編という経営判断が事業の成長フェーズを切り替えた構図である。医療と情報の二領域を一つの事業部にまとめた設計からは、ファイバー技術という共通基盤に基づいて新規事業を横展開する構想が読み取れる。
1950年代から1960年代にかけて、オリンパスは胃カメラと内視鏡の開発を推進していた。ただし、開発の中心は外部の医師であり、オリンパスとしての経営資源の投下は限定的であった。事業体制上は「第一事業部(顕微鏡・測定器・医療機器)」と「第二事業部(カメラなど)」の二部門構成にあり、内視鏡は第一事業部の一部として取り扱われていた。
1963年にファイバースコープによる内視鏡の開発に至ると、従来の胃カメラで必要だった写真の現像工程が不要となり、リアルタイムでの診断が可能になった。この技術革新により内視鏡に対する医療現場の需要が増加し始めたが、既存の事業体制では内視鏡への本格的な投資判断が行いにくい構造にあった。顕微鏡や測定器と同一の事業部に組み込まれており、独立した事業としての経営判断や資源配分が困難であった。
1969年3月にオリンパスは第三事業部を新設し、医療機器(内視鏡)と情報機器(ファックス)の二領域に本格投資を行う体制を構築した。この意思決定により、内視鏡は顕微鏡や測定器から独立した事業として投資対象に位置づけられ、「顕微鏡・カメラ」に次ぐ第三の事業の柱として育成する方針が明示された。
第三事業部は医療機器専門の組織ではなく、新規事業全般を取り扱う体制として設計された。医療機器に加えて、情報分野として「ファックス」の研究開発にも従事する構成とし、ファイバー技術を共通基盤とした複数の新事業を一つの事業部で推進する方針を採った。当時の社長である内藤隆福氏は、医療機械産業と情報産業を世界が注目する有望分野として挙げ、この二領域にオリンパスの重点を置く方針を社内に示した。
1950年代から開発が続いていた内視鏡事業は、第三事業部の新設をもって初めて会社としての本格投資の対象となった。技術や製品の蓄積ではなく、事業体制の再編という経営判断が事業の成長フェーズを切り替えた構図である。医療と情報の二領域を一つの事業部にまとめた設計からは、ファイバー技術という共通基盤に基づいて新規事業を横展開する構想が読み取れる。
「ガストロカメラ、ファクシミリなど、オリンパスの新しい夢であるファイバーを育てるという意味で、第三事業部を発足させた。わが社の成長発展のためには、全社協力して、この新しいファイバー事業部を伸ばしてゆかねばならぬ。このため、第三事業部発足に関連して、社長直轄のもとに副社長の担当によりファクシミリプロジェクトを発足させ、新しいファイバー技術をさらに研究して、第三事業部の活動のバックアップを行うことにした」
「世界で、特にアメリカで、将来性のある産業分野として、医療機械産業を第一に上げている。次は情報産業、わが社でいえばファクシミリである。この2つに我が社は重点を置いている。世界が我が社に期待するところに。こたえねばならない。」
映像と医療の両方に積極投資するという経営基本計画の設計は、デジタルカメラ市場の急速な環境変化によって早期に修正を迫られた。大手電機メーカーの参入による価格下落は、カメラ事業単体での収益確保を困難にし、映像事業のセグメント赤字が全社業績の足かせとなる構造を生んだ。二事業を等しく成長させる戦略と、限られた経営資源のもとでの事業選択のジレンマが浮き彫りになった事例である。
2002年4月にオリンパスは菊川剛社長のもと、FY2002からFY2006までの5ヵ年中期計画として「経営基本計画」を公表した。「企業価値最大化」を経営目標に掲げ、最終年度の数値目標として売上高8700億円、営業利益1200億円、ROE16%を設定した。事業別には、カメラを中心とする映像事業で3450億円、内視鏡を軸とする医療事業で4000億円の売上を見込み、医療とカメラの両方に積極投資を行う方針を明示した。
映像分野ではマーケティングを軸としたブランドの積極投資によるグローバル展開を志向した。20代から30代の若年層をターゲットにデジタルカメラの販売拡大を計画し、5年間で200億円規模のブランド投資を予定した。医療分野では内視鏡に依存する体質の変換を掲げ、新事業の創出を含めた事業展開を戦略目標に設定したが、具体的な領域は「バイオ」などの抽象的な言及にとどまった。
経営基本計画に基づき、オリンパスは映像事業の成長を全社戦略の柱の一つに位置づけた。デジタルカメラのグローバル市場でシェアを拡大するため、ブランド構築と製品開発に経営資源を投下する方針を採った。カメラ事業は1961年のペンEE以来の歴史を持つオリンパスの主要事業であり、デジタル化の波に乗じて事業規模の拡大を図る意図があった。
しかし、2000年代に入るとデジタルカメラを取り巻く競争環境が大きく変化した。ソニーやパナソニックなどの大手電機メーカーがコンパクトデジタルカメラ市場に相次いで参入し、製品の価格下落が急速に進行した。オリンパスはデジタルカメラで安定的に収益を確保することが困難となった。
競争環境の変化を受けて、映像事業はセグメント赤字に転落した。経営基本計画では映像事業の売上高3450億円を目標に掲げていたが、大手電機メーカーとの価格競争のなかで目標の達成は困難となり、利益面では赤字が常態化する状況に陥った。映像事業の不振はオリンパスの全社利益を毀損する構造的な問題となった。
一方で、医療事業は内視鏡を中心に安定した収益基盤を維持していた。経営基本計画が掲げた「映像と医療の二軸投資」のうち、映像への積極投資が裏目に出る形となり、結果的にオリンパスの事業ポートフォリオは医療事業への依存度を高めていった。内視鏡事業の収益が映像事業の赤字を補填する構造は、のちのオリンパスの事業再編を方向づける要因となった。
映像と医療の両方に積極投資するという経営基本計画の設計は、デジタルカメラ市場の急速な環境変化によって早期に修正を迫られた。大手電機メーカーの参入による価格下落は、カメラ事業単体での収益確保を困難にし、映像事業のセグメント赤字が全社業績の足かせとなる構造を生んだ。二事業を等しく成長させる戦略と、限られた経営資源のもとでの事業選択のジレンマが浮き彫りになった事例である。