第一次世界大戦勃発時に「ドイツ製の軍需光学機器(双眼鏡・潜望鏡など)」の輸入が途絶し、これらの製品に頼っていた日本海軍は代替製品の必要性に迫られた。この状況を受けて、三菱財閥の創業家である岩崎小弥太氏は、海軍の要請に応えるために「日本光学工業株式会社」を設立した。
主な生産予定品目は、双眼鏡などの光学機器であったが、三菱財閥としては精密機器の製造に関する知見を持っていなかった。そこで、日本光学は買収を通じて技術を習得。1917年に藤井レンズ製造所を取得し、1918年に東京・大井工場を新設して光学機器の量産体制を構築した。
このため、戦前のニコンは海軍向けの軍需光学機器を生産するメーカーとして発展し、日本有数の軍需品生産メーカーの1社(1945年の終戦時における従業員数が2万名)であった。
軍需依存という事業の性格上、1922年に海軍軍縮条約が決まるとニコンは経営危機に陥る。解雇に反対する労働者との壮絶な労働争議に直面したが、1930年代の軍事拡張の流れに乗り業績を回復。1933年からは設備投資を積極化し、首都圏(平塚・溝の口)を中心に大規模な軍需工場を新設。爆撃照準器などの光学機器の量産をすることで、1945年の終戦時点でニコンは2.5万人・20工場を擁す巨大な軍事企業となった。
1945年の終戦に伴い軍需を喪失したため、ニコン(斯波孝四郎・当時会長)は、大井工場を除く19工場の閉鎖を決断。従業員約2万名を整理回顧し、1724名を残して再起を図った。ニコンとしては思い切った生産規模の縮小を決断した。
ニコンは民需転換のために、精密機械であるカメラ(ボディー)に新規参入を決定。戦時中のニコンは光学機器(レンズ)の製造が中心であり、カメラへの参入は初となった。参入当初は部品製造や量産の確立に苦労し、毎月のように給料は遅配であったという。
当社は100%軍需生産によって膨張してきた会社である。今日の事態に直面してこれから、現在の事業をそのまま継続することは不可能であろう。それで一時休業して事態を静観し、その推移を見てできればこのままの形でいくとか、あるいは従業員を解雇するのは社会問題や社会不安を醸成するから一時に縮小は無理だという意見の人もいるだろうが、そんなあまい考えは断じて許されない。会社は解散を覚悟し、思い切った人員整理、事業縮小を即時断行して、将来の再建をはかるべきである
1960年代以降、ニコンは「カメラ・レンズ」の輸出が本格化するために国内の生産体制を増強。国内における工場新設に加えて、外注先企業への資本参加を推進し、量産体制を確立した。
外注先の買収は、桜電子(栃木ニコン)、橘製作所(水戸ニコン)であり、これに仙台ニコンを加えて3社が「ニコンの御三家」と呼ばれ、生産拠点として活用された。なお、別会社として運営した理由は、地方における賃金体系に合わせるため(人件費の抑制)であったと推定される。
1970年代を通じて日本政府は最先端技術であった半導体産業の育成目指して、通産省(現・経済産業省)が主導する形で民間企業への支援体制を強めていた。その一つは電機メーカーなどから形成される「超LSI技術研究組合」であった、
1976年にニコンは「超LSI技術研究組合」に参画し、半導体に関する研究開発に参入。電機メーカーが半導体そのものを研究したのに対して、ニコンは光学・精密技術を生かして半導体製造装置の研究を遂行。電機メーカーと協業して、ステッパー(半導体製造装置の露光装置)の開発にあたった。
1980年にニコンは半導体製造装置(ステッパー)でありNSR-1010Gの開発に成功。ステッパーは、シリコンウエハーに回路を焼き付けるための装置であり、ニコンは光学技術(レンズ)と精密技術(位置決め)を活用することによって、微細加工が可能な高精度なステッパーの開発に成功した。
1981年にニコンはNSR-1010Gの納入を開始。1号機を日本電気(NEC)、2号機を東芝にそれぞれ納入し、日本の半導体メーカーに対して製造装置(ステッパー)を「開発・製造・販売」するビジネスに参入した。1983年には横浜製作所にNSR1-1010Gの専用工場を約30億円で新設し、増産ニーズに対応した。
NSR-1010Gの価格は1台あたり1.3億円に設定された。このため、ステッパーは高単価な機器を、特定の企業に対して、少量生産によって組み立て、顧客の設備投資タイミングに合わせて納品するビジネスとなった。おりしも、DRAMで日本メーカーが集中投資するタイミングと重なり、装置需要が増大した。
この結果、1982年度においてニコンは半導体製造装置で売上高108億円、1984年度においては同450億円(推定)を確保し、新規事業として急速な立ち上げに成功した。
ステッパーを開発する上で、基礎になった技術は3つある。科学実験に使う回折格子を作るための「ルーリングエンジン」、印刷向けの特殊な「マイクロニッコールレンズ」、それと「光学センサー」の技術だ。私は1956年に入社してすぐ、ルーリングエンジンの仕事を担当した。所属は特機部、大学や研究部門向けの特注品を作る部門だった。(中略)ルーリングエンジンもマイクロニッコールレンズも、社内では主流の技術ではなかった。
ルーリングエンジンはアルミ箔(はく)をつけたガラス表面に1mm当たり1000本単位で平行な溝を刻んでいく。ほんのわずかな機械の動きを制御する必要がある。当時は、社内でも知る人はほとんどなく、これが後に半導体の超精密加工技術の基礎になるとは、夢にも重合わなかった。(中略)日本は高度成長期だったが、特機部門は受注の1品生産が主体で技術的には面白いが、あまり儲かる仕事ではなかった。
「われわれも業績に貢献するようなもうかる仕事がしたい」。こんな気持ちから、若手が自発的に集まって、何をすべきか議論したものだ。事務所があった東京・大井町の安い居酒屋で、仕事の後遅くまで議論した。(中略)そこに営業から「半導体メーカーが高性能の測定器を欲しがっている」という話がきた。当時は珍しかったレーザー干渉計を取り込んだ座標測定器を開発したのが1972年。ここからステッパーの発想が出てきた。
1984年にニコンは熊谷製作所(埼玉県)を新設し、半導体製造装置の専用棟を設置。ステッパーの量産拠点として、1998年までに増設を実施。1990年代におけるステッパーの量産拠点として活用した。
ステッパーを扱うニコンの精機事業では、研究開発および設備投資を本格化。研究開発では年間数十億円〜100億円、設備投資では年間100〜200億円を継続的に投資することによって、ステッパーの開発体制を維持した。
ニコンのステッパーは技術力(光学・精密)が高く評価され、参入直後の1983年に世界シェア1位を確保。その後も半導体の需要増加に合わせて量産体制を確立し、1998年頃まで世界シェア1位を(30〜50%)確保した。
顧客はNECや東芝などの日本の半導体メーカーであり、これらのメーカーの設備投資に支えられてニコンは業績を維持した。競合は、同じくステッパーの参入したキヤノンであったが、ニコンは先発参入に相当しており、ステッパーのシェアで優位を確保した。
ただし、1998年以降はオランダ・ASLM社の台頭により、シェアを落とすに至っている。
ステッパーは高額な装置(1台あたり数十億円〜数百億円)であり、半導体メーカーのライン新設に合わせて納入されるため、半導体の好況・不況の影響を受けやすいビジネスとなった。このため、ニコンは1990年代から2000年代前半を通じて、半導体製造装置(精機事業)において、好況期には500億円以上の営業利益を確保しつつも、不況期には200億円超の赤字を計上するなど、景気に左右されつつ、トータルでは収益を確保した。
1990年代を通じて、ニコンはコンシューマー向けのカメラ及びレンズにおいて、慢性的な赤字に悩む一方、ステッパーなどの精機事業が売上と利益を確保。精機事業はニコンの全社業績を支える事業に育ち、この時期のニコンは「産業装置」への業態転換を果たした。
カメラ、顕微鏡、眼鏡といった光学製品はいずれもすでに成熟段階に達した製品だ。この中には、将来に向けて飛躍的に伸びるものはないだろう。これまで、新しいものに手を出すことについて、我が社はコンサバティブな面があった。しかし、カメラ以外の製品を育てねば、会社の飛躍的な成長は望めない。神話はすでに過去の存在であるとの認識を持って、我が社の持つポテンシャルを十分に生かしてゆくことが必要な時代に入っている。
その意味で我が社が力を注ぐべき分野は、半導体産業や情報処理産業だと考えている。半導体製造装置については我が社が最も得意とする光学技術を生かした新製品の受注活動を去年から始めており、大きな需要を期待できると思う。(中略)このほかにも新聞屋での成果が少しずつ芽を出し始めており、カメラの構成比は徐々に下がってゆくことになるだろうとみている。
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行し、国内生産による欧米への輸出の採算が悪化した。特にカメラが精密機器であるため、組み立てに労働者の確保が必要であり、国内の人件費の高騰により採算が悪化した。
これを受けて、1990年からニコンはカメラ・レンズなどの輸出品について、東南アジアへの生産移管を本格化。タイにおける現地生産を決定し、1991年にタイに工場を新設。ニコンにおける東南アジアの主力生産拠点として活用した。
ニコンはカメラ生産についてタイを中心に展開し、2007年3月期には現地法人における従業員数7,964名の大規模な拠点となった。
2021年にニコンは日本国内におけるカメラの生産(仙台ニコンが担当)を終了し、生産をタイに移管。タイでの現地生産を開始してから30年を経て、カメラの生産移管を完了した。
2024年時点で、ニコンのカメラ生産はタイが主力となっている。このため、1990年におけるニコンのタイ進出は、海外進出の中も重要な意思決定となった。
1998年前後にオランダのASML社がステッパーを含めた半導体製造への積極投資を開始。300mmウエハーの対応機種を投入するとともに、日本企業ではなく、台湾・韓国で急成長しつつあった半導体メーカーとの協業体制を確立した。
一方、1990年代を通じて日本国内の半導体メーカー(NEC・東芝・日立・三菱電機など)は貿易摩擦の問題から積極投資を行えず、この間、台湾・韓国のメーカが台頭するに至った。ニコンは日本企業とともに協業体制を構築することでステッパーのシェアを拡大した経緯があり、この間、海外顧客へのスイッチをなかなか行えず、シェアを落とすに至ったと推定される。
なお、顧客のスイッチに関しては、東京エレクトロン(半導体製造装置メーカー)が国内企業から海外企業にスイッチして世界シェアを維持しており、ニコンと対照的な動きをとった。
半導体メーカーの国内優位から海外優位という構造変化に対して、ニコンは有効な施策を打てず、1998年を機にステッパーにおけるシェアを喪失。2000年台前半までに半導体製造装置(ステッパー)の収益性が悪化し、FY1998・FY2001・FY2002の3回にわたってニコンは最終赤字に転落した。
2000年代以降のニコンは、半導体製造装置において苦戦を続けた。これは、ASLM社が顧客と協業体制を敷いて、最先端の製造装置の開発ニーズを汲み取る体制を確立し、さらに販売中の製造装置の収益によって研究開発費を賄うことで、巨額な研究開発投資を確保した点にあった。ニコンはすでに顧客を逃しており、巨額な研究開発費を捻出することができず、次世代機の開発に資金面で苦慮し、結果としてASLMに追随することが難しくなった。
2000年以降、カメラは破壊的な技術革新の荒波に見舞われた。当時フィルムカメラが二十一世紀初頭にここまで激減するとは多くの人が思わなかったはずだ。前にも述べたようにニコンはフィルムカメラで圧倒的な強さを持っていたがゆえに、デジタル戦略への腰が重かった。「冒険をしない保守的でおっとりした社風」がニコン低迷の原因とよく指摘されたが、もっと掘り下げれば、そんなのんびりした社風を維持できたのは、ステッパーが数年おきにもたらす巨額の利益のおかげでもあるといえた。
デジタルカメラの普及に対応するため、ニコンは中国におけるカメラの現地生産を決定。2002年に現地法人Nikon Imaging Chinaを設立し。中国におけるデジタルカメラの量産を開始した。対象機種は汎用的なコンパクトデジカメであった。
すでに1990年に進出したタイに加えて、中国での生産を開始し、ニコンにおけるアジアの生産体制は「タイ・中国」の2拠点体制となった。
2008年のリーマンショックを受けて、中国における生産を一時縮小した。この時点では景気変動の影響であり、生産縮小は一時的なものと考えられていた。
ところが、2010年代前半を通じてスマートフォンが全世界的に普及。高性能なイメージセンサーを搭載したスマホの台頭により、低価格帯のデジタルカメラの需要が減少。この結果、2010年代後半にはコンパクトデジタルカメラという品種が、市場からほぼ絶滅する状態に陥った。
このため、2017年にニコンは中国におけるカメラの現地生産の中止を決断。海外生産は一眼レフが中心のタイを残す形となり、中国から撤退した。
2000年代を通じて半導体製造装置(ステッパー)において、ASLM社が世界シェア80%を確保する一方、ニコンはシェアを落とし事業不振に陥った。半導体の微細加工が進行する中で、製造装置への開発研究費用が高騰しており、ニコンとしては莫大な投資が必要な半導体製造装置への投資を継続できるかが重要論点となった。
そこで、2012年にニコンは米インテルと半導体製造装置に関して提携を決定。次世代のステッパーについて、具体的には450mmウエハーの対応機種について、ニコンとインテルが開発費を共同負担する方針で決まった。
インテルとしては、高額なステッパーをニコンと共同開発することでASLMへ牽制する狙いがあり、ニコンとしては優良顧客であるインテルを確保することで、製造装置の事業存続を図った。
メディカルにおける新規事業の展開を決定し、海外の眼底カメラメーカーのオプトスを買収。
2010年代を通じて、ニコンの主力事業であった「映像」について、スマートフォンのカメラの高性能化により、カメラ需要の減少という影響を受けた。
スマホカメラに搭載されるイメージセンサーについても、ニコンは自社開発ではなく、ソニーからの供給に頼っていた。結果としてスマホの普及によって伸びたイメージセンサーの需要を取り込むことができず、業績悪化に直結した。
また、半導体製造装置についても、依然としてASLMの1強体制を崩すことができず苦境が続いた。この結果、ニコンの主力2事業が不振となり、業績と株価が低迷する事態に陥った。特に映像事業における売上高の落ち込みが大きく、FY2012からFY2016にかけて、急激に縮小した。
2016年にニコンの副社長(CFO)として、三菱東京UFJ銀行出身の岡昌志氏が就任した。ニコン叩き上げではなく外部出身者の登用として注目された。
岡副社長は、大株主を中心とした機関投資家との対話を重視し、ニコンの経営課題の把握に努めた。この過程で、今までのニコンの経営計画(中期経営計画)が信頼されていないことを把握し、推進中だった中計の撤回を決め、構造改革の実施へと踏み切った。
2016年11月にニコンは「構造改革の実施」を公表した。全社方針として事業ポートフォリオを重視し、「選択と集中」による不採算事業の縮小・撤退を決定。半導体製造装置については開発費用の削減、映像事業ついては生産販売体制の最適化を決定し、中国における現地法人での生産撤退を決定した。その他の事業面では三次元測定機からの撤退を決定。
構造改革では事業縮小が基本路線となったことから、ニコンは日本国内における人員削減を決定。1000名の希望退職者を募集し、年間200億円の固定費削減を目論んだ。退職金に加えて特別加算金の支給もあったことから、退職募集に応じた社員は、予定を超過する1143名となった。
この結果、2017年3月期にニコンは連結ベースの特別損失として合計613億円を計上。単体ベースでも特別損失を計上し、主な内訳は「構造改革関連費用497億円」であった。構造改革関連費用の大半は、希望退職者に対する退職金の支払いと推定される。
この結果、2017年3月期にニコンは71億円の最終赤字(国内基準・連結ベース)に転落した。ただし、連結IFRSベースでは、当期利益71億円のプラスであり、黒字を確保した。
今回の構造改革は、当社を取り巻く厳しい事業環境と主力事業の収益性低下という現実を直視し決断したものです。
まず、慢性的な赤字を余儀なくされていた半導体装置事業では、販売方針の抜本的見直しとお客様とのリレーション強化を進めるとともに、固定費の削減、棚卸資産の廃棄評価損の抑制、研究開発費の適正化を進めました。採算性重視を徹底した結果、2018年3月期には事業の黒字化を実現することができました。また、映像事業では、中国にある生産子会社の操業停止により事業規模に見合った生産体制に転換するとともに、採算性重視の観点から高付加価値製品への選択と集中を進めました。さらに産業機器事業では、製品群の戦略的な見直しを行い、その結果CMM事業(注:接触式三次元測定機)からの撤退を決断しました。