| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 578億円 | 13億円 | 2.2% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 662億円 | 16億円 | 2.4% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 746億円 | 17億円 | 2.3% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 841億円 | 27億円 | 3.3% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 974億円 | 32億円 | 3.3% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,120億円 | 39億円 | 3.4% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,247億円 | 39億円 | 3.1% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,352億円 | 29億円 | 2.1% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,435億円 | 25億円 | 1.7% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,877億円 | 50億円 | 2.6% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,461億円 | -43億円 | -1.8% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,884億円 | 15億円 | 0.5% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,327億円 | 185億円 | 5.5% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,790億円 | 199億円 | 5.2% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,721億円 | 83億円 | 2.2% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,057億円 | -182億円 | -6.0% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,718億円 | 77億円 | 2.0% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,839億円 | 209億円 | 4.3% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,829億円 | -60億円 | -1.3% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,689億円 | -81億円 | -1.8% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,063億円 | 24億円 | 0.4% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,384億円 | 241億円 | 3.7% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,309億円 | 289億円 | 3.9% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,228億円 | 548億円 | 6.6% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,557億円 | 754億円 | 7.8% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,797億円 | 280億円 | 3.1% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,854億円 | -126億円 | -1.7% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,875億円 | 273億円 | 3.0% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,186億円 | 593億円 | 6.4% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,104億円 | 424億円 | 4.1% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,805億円 | 468億円 | 4.7% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,577億円 | 183億円 | 2.1% |
| 2016/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 8,410億円 | 299億円 | 3.5% |
| 2017/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,492億円 | 39億円 | 0.5% |
| 2018/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,170億円 | 347億円 | 4.8% |
| 2019/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,086億円 | 665億円 | 9.3% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,910億円 | 76億円 | 1.2% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,512億円 | -344億円 | -7.7% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,396億円 | 426億円 | 7.8% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 6,281億円 | 432億円 | 6.8% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,172億円 | 321億円 | 4.4% |
三菱財閥が海軍の要請で設立した日本光学は、軍需光学機器の独占的供給者として急速に規模を拡大し、終戦時には2万5000名を擁する巨大企業となった。しかし軍需100%という事業構造は、終戦と同時に全需要を喪失する脆弱性を内包していた。光学ガラスの量産に10年を要したことが示すように、技術蓄積には長期間を要する一方、軍需依存の事業モデルは構造的に終戦リスクを排除できなかった。
第一次世界大戦の勃発により、日本海軍が依存していたドイツ製の軍需光学機器(双眼鏡・潜望鏡・照準器など)の輸入が途絶した。当時の日本には光学ガラスの製造技術を持つ企業がほぼ存在せず、海軍にとって光学機器の国産化は喫緊の課題であった。この状況を受けて三菱財閥の創業家である岩崎小弥太は、海軍の要請に応える形で光学機器メーカーの設立を決断した。
三菱財閥としては精密光学機器の製造に関する知見を持っていなかったため、既存企業の買収を通じて技術基盤を確保する方針をとった。1917年に藤井レンズ製造所を取得して光学レンズの製造技術を獲得し、1918年には東京・大井に工場を新設して光学機器の量産体制を構築した。
1917年に三菱財閥の出資により日本光学工業株式会社が設立された。主な生産品目は双眼鏡をはじめとする海軍向けの光学機器であり、光学ガラスの自社製造から完成品の組み立てまでを一貫して手がける体制を目指した。光学ガラスの量産には10年を要し、1927年にようやく安定的な製造に成功した。
軍需依存の事業構造のもとで日本光学は急速に規模を拡大し、1945年の終戦時には従業員約2万5000名、国内20工場を擁する巨大な軍事企業となった。しかしこの軍需100%という事業構造は、終戦と同時に全需要を喪失するリスクを内包しており、戦後の民需転換において2万名規模の整理解雇を余儀なくされる伏線となった。
三菱財閥が海軍の要請で設立した日本光学は、軍需光学機器の独占的供給者として急速に規模を拡大し、終戦時には2万5000名を擁する巨大企業となった。しかし軍需100%という事業構造は、終戦と同時に全需要を喪失する脆弱性を内包していた。光学ガラスの量産に10年を要したことが示すように、技術蓄積には長期間を要する一方、軍需依存の事業モデルは構造的に終戦リスクを排除できなかった。
ニコンのステッパーは社内傍流の特機部門から着想され、光学ガラスと精密位置決めの技術蓄積を活かして急速に事業化された。日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係を基盤に開発3年で売上100億円を突破したが、この国内顧客依存の構造は、1990年代以降の半導体産業の地理的シフトに対して脆弱性を内包していた。
1970年代の日本政府は半導体産業の育成を国策として推進し、通産省(現・経済産業省)が主導する「超LSI技術研究組合」を1976年に発足させた。NEC・東芝・日立・富士通・三菱電機の電機5社が参画し、次世代半導体の共同研究が開始された。ニコンはこの研究組合に光学・精密技術の供給者として参画し、半導体製造装置の研究開発に着手した。
ニコンにとって半導体製造装置への参入は、既存事業の行き詰まりに対する突破口でもあった。小秋元隆輝社長は「カメラ、顕微鏡、眼鏡といった光学製品はいずれもすでに成熟段階に達した製品だ。将来に向けて飛躍的に伸びるものはない」と危機感を示し、カメラ以外の成長事業の育成を明確に打ち出していた。半導体製造装置は、ニコンが蓄積した光学技術(レンズ)と精密技術(位置決め)を直接活用できる領域であった。
ステッパーの発想は、ニコン社内の傍流部門から生まれた。吉田庄一郎(後に社長就任)が所属した特機部は、大学・研究機関向けの特注品を手がける受注生産部門であり、ルーリングエンジンやマイクロニッコールレンズといった主流ではない技術を扱っていた。1972年にレーザー干渉計を取り込んだ座標測定器を開発したことが、ステッパーの着想につながった。
1980年にニコンはステッパー(半導体露光装置)NSR-1010Gの開発に成功した。ステッパーはシリコンウエハーに回路パターンを焼き付ける装置であり、光学レンズの解像力と位置決めの精密さが製品性能を直接規定する。ニコンが数十年にわたって蓄積した光学ガラスの製造技術と精密加工技術は、ステッパーが要求する技術要素と本質的に合致していた。
1981年にNSR-1010Gの納入を開始し、1号機を日本電気(NEC)、2号機を東芝にそれぞれ納入した。1台あたりの価格は1.3億円に設定され、高単価の装置を特定顧客の設備投資タイミングに合わせて少量生産する事業モデルが確立された。1983年には横浜製作所にステッパー専用工場を約30億円で新設し、増産体制を構築した。
ステッパーの事業化は、日本の半導体メーカーがDRAMへの集中投資を本格化する時期と重なった。NEC・東芝・日立・富士通といった大手電機メーカーが相次いで半導体の量産ラインを増設し、ステッパーへの旺盛な需要が生まれた。ニコンのステッパーは、国内半導体メーカーとの緊密な協業関係を基盤として受注を拡大した。
ステッパー事業は急速に立ち上がり、FY1982にはニコンの半導体製造装置の売上高が108億円に到達した。FY1984には同450億円(推定)へと拡大し、FY1985には半導体関連機器の売上高が567億円を記録した。開発から5年で売上高500億円を超える事業に成長し、カメラ事業に並ぶ収益の柱となった。
ニコンはステッパー参入直後の1983年に世界シェア1位を確保した。日本国内の半導体メーカーが主要顧客であり、電機メーカーとの技術的な協業関係がシェア獲得の基盤となった。競合はキヤノンであったが、ニコンは先発参入の優位性を活かしてシェアで上回った。
傍流部門の技術から生まれたステッパーが、ニコンの業態を「カメラメーカー」から「カメラ+半導体製造装置」の二本柱へと転換させた。ただし、この時期のステッパー事業は日本の半導体メーカーとの協業に依存する構造であり、1990年代以降の半導体産業の地理的シフト(日本から台湾・韓国へ)に対する脆弱性を内包していた。
ニコンのステッパーは社内傍流の特機部門から着想され、光学ガラスと精密位置決めの技術蓄積を活かして急速に事業化された。日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係を基盤に開発3年で売上100億円を突破したが、この国内顧客依存の構造は、1990年代以降の半導体産業の地理的シフトに対して脆弱性を内包していた。
ステッパーを開発する上で、基礎になった技術は3つある。科学実験に使う回折格子を作るための「ルーリングエンジン」、印刷向けの特殊な「マイクロニッコールレンズ」、それと「光学センサー」の技術だ。私は1956年に入社してすぐ、ルーリングエンジンの仕事を担当した。所属は特機部、大学や研究部門向けの特注品を作る部門だった。(中略)ルーリングエンジンもマイクロニッコールレンズも、社内では主流の技術ではなかった。
ルーリングエンジンはアルミ箔(はく)をつけたガラス表面に1mm当たり1000本単位で平行な溝を刻んでいく。ほんのわずかな機械の動きを制御する必要がある。当時は、社内でも知る人はほとんどなく、これが後に半導体の超精密加工技術の基礎になるとは、夢にも重合わなかった。(中略)日本は高度成長期だったが、特機部門は受注の1品生産が主体で技術的には面白いが、あまり儲かる仕事ではなかった。
「われわれも業績に貢献するようなもうかる仕事がしたい」。こんな気持ちから、若手が自発的に集まって、何をすべきか議論したものだ。事務所があった東京・大井町の安い居酒屋で、仕事の後遅くまで議論した。(中略)そこに営業から「半導体メーカーが高性能の測定器を欲しがっている」という話がきた。当時は珍しかったレーザー干渉計を取り込んだ座標測定器を開発したのが1972年。ここからステッパーの発想が出てきた。
ニコンは熊谷製作所の新設と継続的な研究開発投資により、1998年頃まで世界シェア1位を維持した。しかしその競争力は日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係に依存しており、半導体産業の重心が台湾・韓国にシフトした局面で、国内顧客基盤という強みが構造的な弱点に転じた。ASML社が海外顧客との協業でシェアを拡大する間に、顧客転換の遅れが表面化した。
1980年のNSR-1010G発売以降、日本の半導体メーカーによるDRAMへの集中投資を背景に、ニコンのステッパーは急速に受注を拡大した。横浜製作所に設置した専用工場では増産要請に対応しきれなくなり、ステッパーの量産体制を本格的に構築する必要に迫られた。ステッパーは1台あたりの価格が数億円に達する高額装置であり、クリーンルーム内での精密な組み立てが求められることから、専用の生産拠点の確保が不可欠であった。
ニコンの精機事業(半導体製造装置)は、参入からわずか数年で売上高500億円規模に到達し、カメラ事業に匹敵する収益の柱に成長していた。小秋元社長が掲げた「カメラ以外の成長事業の育成」という方針は、ステッパーによって具体化されつつあった。
一方で、ステッパーの事業特性として、半導体メーカーの設備投資サイクルに業績が大きく左右されるという構造的な課題も顕在化しつつあった。半導体の好況期には旺盛な需要が発生するが、不況期には受注が急減する。この景気変動への感応度の高さは、量産体制の規模設計において重要な論点であった。
1984年にニコンは埼玉県に熊谷製作所を新設し、ステッパー専用の量産拠点として稼働を開始した。1989年から1998年にかけて4回の増設工事を実施し、クリーンルームの拡充を重ねた。2000年には7号館のクリーンルームを増床し、生産能力を段階的に引き上げた。栃木ニコンでもステッパー用レンズの生産棟を1991年に竣工させ、レンズ供給体制を強化した。
研究開発投資も本格化し、精機事業では年間数十億円から100億円規模の研究開発費を継続的に投下した。設備投資も年間100億円から200億円の水準を維持し、次世代ステッパーの開発と量産能力の拡大を並行して進めた。光学レンズの解像力と位置決め精度の向上が製品競争力に直結するため、研究開発投資の継続が不可欠であった。
ニコンのステッパーは1983年の世界シェア1位を維持し、1998年頃まで30〜50%のシェアを確保した。主要顧客はNEC・東芝・日立・富士通といった日本の半導体メーカーであり、これらの企業の設備投資がニコンの業績を支えた。競合のキヤノンに対しては先発参入の優位性を維持していた。
1990年代を通じて、ニコンの事業構造はカメラ中心から半導体製造装置(精機事業)中心へと転換した。カメラ及びレンズのコンシューマー事業が慢性的な赤字に苦しむ一方、精機事業が売上と利益の両面で全社業績を支えた。好況期には500億円以上の営業利益を計上し、ニコンの収益の大半を精機事業が稼ぐ構造が定着した。
ただし精機事業は半導体の景気サイクルに強く連動するため、不況期には200億円超の営業赤字を計上することもあった。ステッパーは半導体メーカーのライン新設に合わせて納入される性格上、需要の変動幅が大きく、業績のボラティリティは避けられなかった。好況期の利益で不況期の赤字を吸収するという事業構造は、ステッパーの世界シェアを維持できることが前提であった。
1998年以降、オランダのASML社が台頭しニコンのシェアを侵食し始めた。ASML社は台湾・韓国で急成長する半導体メーカーとの協業体制を確立し、300mmウエハ対応機種の投入でシェアを急速に拡大した。ニコンが日本国内の半導体メーカーとの協業に軸足を置き続けた間に、半導体産業の重心は東アジアへとシフトしていた。
ニコンは熊谷製作所の新設と継続的な研究開発投資により、1998年頃まで世界シェア1位を維持した。しかしその競争力は日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係に依存しており、半導体産業の重心が台湾・韓国にシフトした局面で、国内顧客基盤という強みが構造的な弱点に転じた。ASML社が海外顧客との協業でシェアを拡大する間に、顧客転換の遅れが表面化した。
カメラ、顕微鏡、眼鏡といった光学製品はいずれもすでに成熟段階に達した製品だ。この中には、将来に向けて飛躍的に伸びるものはないだろう。これまで、新しいものに手を出すことについて、我が社はコンサバティブな面があった。しかし、カメラ以外の製品を育てねば、会社の飛躍的な成長は望めない。神話はすでに過去の存在であるとの認識を持って、我が社の持つポテンシャルを十分に生かしてゆくことが必要な時代に入っている。
その意味で我が社が力を注ぐべき分野は、半導体産業や情報処理産業だと考えている。半導体製造装置については我が社が最も得意とする光学技術を生かした新製品の受注活動を去年から始めており、大きな需要を期待できると思う。(中略)このほかにも新聞屋での成果が少しずつ芽を出し始めており、カメラの構成比は徐々に下がってゆくことになるだろうとみている。
プラザ合意後の円高を契機としたタイ進出は、当初は為替リスクへの対処であったが、30年をかけて国内カメラ生産の全量をタイに移管する結果となった。2007年時点でタイ現法の従業員は7964名に達し、ニコンの映像事業を支える唯一の生産拠点に成長した。生産移管の判断は為替対応を超え、ニコンの製造体制を構造的に転換させた。
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が急進し、ニコンのカメラ・レンズ事業は国内生産による欧米輸出の採算が大幅に悪化した。カメラは精密機器であり、組み立て工程に多くの労働者を必要とすることから、国内の人件費上昇が直接的にコストを押し上げた。ニコンはカメラ・レンズの売上の多くを海外市場に依存しており、円高による価格競争力の低下は事業存続に関わる課題であった。
1960年代から1980年代にかけて、ニコンは国内に栃木ニコン・水戸ニコン・仙台ニコンなどの生産子会社を展開し、地方の低廉な労働力を活用する体制を構築してきた。しかしプラザ合意後の為替変動は、国内のどの拠点でも吸収しきれない水準に達しており、海外への生産移管が不可避となった。
1990年にニコンはタイに現地法人を設立し、翌1991年にタイに工場を新設してカメラの現地生産を開始した。東南アジアの中でタイを選定した背景には、比較的安定した政治環境と豊富な労働力の確保が可能であった点がある。タイ工場はニコンの海外における主力生産拠点として位置づけられ、カメラ本体とレンズの量産を段階的に移管した。
タイ拠点は急速に規模を拡大し、2007年3月期には現地法人の従業員数が7964名に達した。カメラの海外生産比率は年々上昇し、ニコンの映像事業における生産体制はタイを中心とする構造に転換した。
2021年にニコンは日本国内におけるカメラの生産(仙台ニコンが担当)を終了し、タイへの生産移管を完了した。タイでの現地生産開始から30年を経て、カメラの国内生産は終了し、タイが唯一の生産拠点となった。2024年時点でもこの体制は維持されている。
1990年のタイ進出は、ニコンのカメラ事業における最も重要な意思決定の一つであった。円高対応という当初の動機を超えて、タイ拠点はニコンの映像事業を支える生産インフラとして定着した。一方で、タイへの一極集中は洪水などの自然災害リスクを伴い、2011年のタイ大洪水ではニコンの生産にも影響が及んだ。
プラザ合意後の円高を契機としたタイ進出は、当初は為替リスクへの対処であったが、30年をかけて国内カメラ生産の全量をタイに移管する結果となった。2007年時点でタイ現法の従業員は7964名に達し、ニコンの映像事業を支える唯一の生産拠点に成長した。生産移管の判断は為替対応を超え、ニコンの製造体制を構造的に転換させた。
ニコンのステッパー事業は日本の半導体メーカーとの協業で世界シェア1位を維持したが、半導体産業の重心が台湾・韓国にシフトした局面で顧客転換に後手を踏んだ。ASML社が海外顧客との協業で好循環を確立する一方、ニコンはシェア喪失により研究開発費の原資を失い、次世代機開発で資金的に劣後する悪循環に陥った。東京エレクトロンとの明暗が、顧客転換の実行力の差を示す。
1990年代を通じて半導体産業の地理的構造が大きく変化した。日本の半導体メーカー(NEC・東芝・日立・三菱電機など)は日米半導体協定に伴う貿易摩擦の影響もあり、DRAM事業への積極投資を抑制した。この間にサムスン電子(韓国)やTSMC(台湾)が急速に台頭し、半導体の設備投資の重心は東アジアへとシフトした。ニコンのステッパーは日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係を基盤に世界シェア1位を維持してきたが、主要顧客の投資縮小により、その競争力の前提が揺らぎ始めた。
オランダのASML社は、日本企業ではなく台湾・韓国で急成長する半導体メーカーとの協業体制を確立した。300mmウエハ対応機種を積極的に投入し、顧客の開発ニーズを直接汲み取る体制を構築した。ASML社は装置の販売収益を研究開発費に再投資する好循環を確立し、ニコンに対する技術的優位を拡大していった。
ニコンは海外顧客への対応を模索したが、長年の国内顧客との協業体制を基盤とした事業モデルからの転換は容易ではなかった。ステッパーの開発では顧客の製造プロセスに合わせた装置のカスタマイズが不可欠であり、新規顧客との信頼関係の構築には時間を要した。ASML社がすでに台湾・韓国の主要顧客との協業を確立していた状況で、ニコンが後発として割り込む余地は限られていた。
同じ半導体製造装置メーカーである東京エレクトロンは、この時期に国内企業から海外企業への顧客転換を実行し、世界シェアを維持した。東京エレクトロンとニコンの明暗は、顧客基盤の地理的転換を実行できたか否かという一点に帰着する。吉田庄一郎(当時相談役)も「ステッパーが数年おきにもたらす巨額の利益のおかげで、のんびりした社風を維持できた」と述べており、好況期の利益が社内の変革意識を鈍らせた可能性を示唆している。
1998年を機にニコンはステッパーの世界シェアを急速に落とし、FY1998に182億円、FY2001に60億円、FY2002に81億円の最終赤字を計上した。5年間で3回の最終赤字は、ステッパー事業の収益構造が根本的に変化したことを示していた。シェアを失ったことで装置の販売収益が減少し、研究開発費の原資が縮小するという悪循環に陥った。
ASML社は顧客との協業で得た収益を巨額の研究開発投資に充て、次世代機の開発で技術的優位を確立した。ニコンは顧客を失ったことで研究開発費を十分に確保できず、次世代のステッパー開発において資金面で劣後した。装置の性能向上には光学系と制御系の両面で多額の投資が必要であり、シェアの縮小と研究開発費の不足が相互に強化する構造的な劣位に陥った。
ニコンのステッパー事業は日本の半導体メーカーとの協業で世界シェア1位を維持したが、半導体産業の重心が台湾・韓国にシフトした局面で顧客転換に後手を踏んだ。ASML社が海外顧客との協業で好循環を確立する一方、ニコンはシェア喪失により研究開発費の原資を失い、次世代機開発で資金的に劣後する悪循環に陥った。東京エレクトロンとの明暗が、顧客転換の実行力の差を示す。
2000年以降、カメラは破壊的な技術革新の荒波に見舞われた。当時フィルムカメラが二十一世紀初頭にここまで激減するとは多くの人が思わなかったはずだ。前にも述べたようにニコンはフィルムカメラで圧倒的な強さを持っていたがゆえに、デジタル戦略への腰が重かった。「冒険をしない保守的でおっとりした社風」がニコン低迷の原因とよく指摘されたが、もっと掘り下げれば、そんなのんびりした社風を維持できたのは、ステッパーが数年おきにもたらす巨額の利益のおかげでもあるといえた。
ニコンの中国進出はデジタルカメラ普及期のコンパクト機量産を目的としたが、スマートフォンの台頭でコンパクトデジカメ市場自体が消滅し、15年で撤退に至った。イメージセンサーをソニーに依存していたニコンはスマホ需要を自社に取り込めず、市場の構造変化が中国拠点の存在意義を根本から消失させた。生産拠点の立地選択が市場の前提変化で無効化される構造を示す事例である。
2000年代初頭はデジタルカメラが急速に普及し、フィルムカメラからデジタルへの移行が本格化した時期であった。デジタルカメラはフィルムカメラに比べて部品点数が多く、電子部品の調達コストが製品価格に直結するため、低価格帯の量産には東南アジアよりもさらに人件費の低い生産拠点が求められた。ニコンはすでにタイでカメラの現地生産を行っていたが、コンパクトデジタルカメラの量産には中国の労働力とサプライチェーンが適していると判断した。
2002年にニコンは現地法人Nikon Imaging Chinaを設立し、中国におけるデジタルカメラの量産を開始した。対象機種は汎用的なコンパクトデジタルカメラであり、タイが一眼レフを中心に担当し、中国がコンパクト機を担当するという品目別の分業体制が構築された。
2008年のリーマンショックで中国における生産を一時縮小したが、この時点では景気変動の影響として一時的な調整と認識されていた。しかし2010年代前半にスマートフォンが全世界的に普及し、高性能なイメージセンサーを搭載したスマホカメラの台頭により、コンパクトデジタルカメラの需要が構造的に減少した。2010年代後半にはコンパクトデジタルカメラという品種自体が市場からほぼ消滅する事態に至った。
2017年にニコンは中国におけるカメラの現地生産の中止を決断した。中国工場が担当していたコンパクトデジタルカメラの需要が消滅したことで、拠点を維持する合理性が失われた。海外生産は一眼レフ・ミラーレスを中心とするタイを残す形となった。
中国進出から撤退までは約15年であった。デジタルカメラの普及期に量産拠点として設置した中国工場は、スマートフォンの登場によりコンパクトデジカメ市場が消滅したことで存在意義を失った。ニコンの海外生産体制はタイ一極集中に回帰し、中国進出以前の構造に戻る形となった。
中国撤退は、カメラ市場における構造変化の深刻さを象徴する出来事であった。ニコンはスマートフォンのイメージセンサーについても自社開発ではなくソニーからの供給に依存しており、スマホの普及による需要の構造変化を自社の成長に取り込むことができなかった。カメラメーカーとして市場の縮小に直面する中で、映像事業の抜本的な見直しが不可避となった。
ニコンの中国進出はデジタルカメラ普及期のコンパクト機量産を目的としたが、スマートフォンの台頭でコンパクトデジカメ市場自体が消滅し、15年で撤退に至った。イメージセンサーをソニーに依存していたニコンはスマホ需要を自社に取り込めず、市場の構造変化が中国拠点の存在意義を根本から消失させた。生産拠点の立地選択が市場の前提変化で無効化される構造を示す事例である。
ニコンのインテル提携は、ASML社がシェア80%を確保する寡占構造の中で、単独では研究開発費を賄えなくなったニコンが事業存続を図る選択であった。インテル側にはASMLへの依存度を下げる牽制の意図があり、双方の利害が一致した。ただし450mmウエハ規格自体の不透明さもあり、提携の戦略的効果は限定的であった。
2000年代を通じてASML社は半導体露光装置(ステッパー・スキャナー)の世界シェアを80%まで拡大し、事実上の寡占状態を構築した。ニコンはシェアを大幅に落とし、装置の販売収益が縮小したことで研究開発費の原資が不足する構造的な問題に直面していた。半導体の微細化が進むにつれて露光装置の開発費は高騰し、次世代機の開発には数千億円規模の投資が必要とされた。ニコン単独ではこの投資負担を賄うことが困難な状況に追い込まれていた。
ASML社の寡占が進めば、半導体メーカーにとっても装置調達における交渉力が低下するリスクがあった。特にインテルは世界最大の半導体メーカーとして、露光装置の調達先が1社に集中することへの懸念を強めていた。
2012年8月にニコンは米インテルと半導体製造装置に関する提携を発表した。具体的には、次世代の450mmウエハ対応ステッパーについて、ニコンとインテルが開発費を共同負担する枠組みであった。インテルにとってはASML社への依存度を下げるための牽制策であり、ニコンにとっては世界最大の半導体メーカーを顧客として確保し、製造装置事業の存続を図る意味があった。
ただし450mmウエハへの移行自体が業界の合意を得られておらず、この提携が想定した次世代規格の実現可能性には不透明さが伴っていた。ニコンの精機事業にとってインテルとの協業は事業存続への数少ない選択肢であったが、ASML社との技術格差が拡大する中で、提携だけでは構造的な劣位を覆すことは容易ではなかった。
ニコンのインテル提携は、ASML社がシェア80%を確保する寡占構造の中で、単独では研究開発費を賄えなくなったニコンが事業存続を図る選択であった。インテル側にはASMLへの依存度を下げる牽制の意図があり、双方の利害が一致した。ただし450mmウエハ規格自体の不透明さもあり、提携の戦略的効果は限定的であった。
映像事業と半導体製造装置の二本柱が同時に不振に陥ったニコンは、外部から登用した岡副社長の主導で構造改革を実行し、1143名の希望退職と特別損失613億円を計上した。半導体装置事業の黒字化と映像事業の選択と集中という短期的な成果を上げたが、構造改革は既存事業の縮小均衡であり、次の成長事業の確立という本質的な課題は残された。
2010年代に入り、ニコンの主力2事業が同時に苦境に直面した。映像事業ではスマートフォンのカメラの高性能化によりデジタルカメラの需要が構造的に減少し、FY2012からFY2016にかけて売上高が急激に縮小した。ニコンはイメージセンサーを自社開発せずソニーからの供給に依存していたため、スマホ普及に伴うイメージセンサー需要の成長を自社の収益に取り込むことができなかった。
半導体製造装置(精機事業)についてもASML社の1強体制は揺るがず、ニコンはシェアの回復に至らなかった。カメラとステッパーの二本柱がいずれも縮小する中で、ニコンの業績と株価は低迷した。推進中の中期経営計画は機関投資家からの信認を得られておらず、経営の立て直しが急務となっていた。
2016年にニコンは副社長(CFO)として三菱東京UFJ銀行出身の岡昌志氏を外部から登用した。岡副社長は機関投資家との対話を重視し、ニコンの経営課題の把握に努めた。その過程で中期経営計画が市場の信頼を得ていないことを認識し、推進中の中計を撤回して構造改革の実施に踏み切る判断を下した。
2016年11月にニコンは「構造改革の実施」を公表した。全社方針として事業ポートフォリオの見直しを掲げ、「選択と集中」により不採算事業の縮小・撤退を推進する方針を明示した。半導体製造装置については研究開発費の削減と採算性重視への転換、映像事業については生産販売体制の最適化と中国現地法人での生産撤退を決定した。産業機器事業では接触式三次元測定機(CMM事業)からの撤退を決定した。
事業縮小に伴い、ニコンは日本国内で1000名の希望退職者を募集し、年間200億円の固定費削減を計画した。退職金に加えて特別加算金が支給されたことから、募集に応じた社員は予定を超過する1143名に達した。岡副社長は「慢性的な赤字を余儀なくされていた半導体装置事業では、販売方針の抜本的見直しとお客様とのリレーション強化を進めた」と述べ、採算性重視への転換を明確にした。
構造改革の実行は、ニコンにとって「成長投資」ではなく「縮小均衡」を選択する判断であった。カメラも半導体製造装置も市場環境の変化により拡大が見込めない中で、固定費の削減と事業の選別によって収益性を回復させるという方針であった。
FY2016にニコンは連結ベースで特別損失613億円を計上した。単体ベースでは構造改革関連費用497億円を計上し、その大半は希望退職者への退職金の支払いと推定される。国内基準の連結ベースでは71億円の最終赤字に転落したが、連結IFRSベースでは当期利益71億円の黒字を確保した。
構造改革の効果として、半導体製造装置事業はFY2017に黒字化を実現した。採算性重視への方針転換と固定費の削減が奏功し、慢性的な赤字体質からの脱却を果たした。映像事業についても高付加価値製品への集中が進み、コンパクトデジタルカメラからの撤退と一眼レフ・ミラーレスへの選択と集中が実行された。
外部から登用された岡副社長が主導した構造改革は、ニコンの事業ポートフォリオを抜本的に見直す契機となった。ただし構造改革は既存事業の縮小均衡であり、次の成長事業の確立という課題は残された。2022年のSLM Solutions買収(3Dプリンター)など、新規事業への模索が続いている。
映像事業と半導体製造装置の二本柱が同時に不振に陥ったニコンは、外部から登用した岡副社長の主導で構造改革を実行し、1143名の希望退職と特別損失613億円を計上した。半導体装置事業の黒字化と映像事業の選択と集中という短期的な成果を上げたが、構造改革は既存事業の縮小均衡であり、次の成長事業の確立という本質的な課題は残された。
今回の構造改革は、当社を取り巻く厳しい事業環境と主力事業の収益性低下という現実を直視し決断したものです。
まず、慢性的な赤字を余儀なくされていた半導体装置事業では、販売方針の抜本的見直しとお客様とのリレーション強化を進めるとともに、固定費の削減、棚卸資産の廃棄評価損の抑制、研究開発費の適正化を進めました。採算性重視を徹底した結果、2018年3月期には事業の黒字化を実現することができました。また、映像事業では、中国にある生産子会社の操業停止により事業規模に見合った生産体制に転換するとともに、採算性重視の観点から高付加価値製品への選択と集中を進めました。さらに産業機器事業では、製品群の戦略的な見直しを行い、その結果CMM事業(注:接触式三次元測定機)からの撤退を決断しました。