良品計画は、1980年に関東を中心に展開する大手スーパーマーケット西友(西武セゾングループ)がプライベートブランドとして無印良品を企画したことがきっかけとして誕生した。
当時はバブル景気全盛期で、消費者はわかりやすい「ブランド」を支持する風潮があったが、あえて西友は「ブランドがないブランド」として無印良品を展開した。主に雑貨屋、衣服、加工食品を東京の青山で「無印良品」として売り出したところ、今までにない「ブランド」として認知されるようになった。
この結果、1985年の時点で無印良品のブランドは140億円の売り上げを計上する。
1つのブランドが100億円規模の売り上げに達したため、1989年には西友から独立する形で良品計画が設立された。
1990年代の良品計画の成長を支えたのが、POSの活用による商品の徹底した商品の入れ替えにある。当初、良品計画は西友からの仕入れに頼っていたが、問屋経由の取引を絞り、メーカーからの直接仕入れに切り替えるとともに、海外調達を推進することで売上原価を低減。POS情報をもとに、売れ筋の商品を迅速に店頭に並べる体制を構築したことで、バブル崩壊時にも関わらず増収増益を続けた。
1990年代を通じてバブル景気が崩壊し、西友などの大手スーパーマーケットが売上高の低迷に直面するなか、1994年に良品計画は売上高308億円・経常利益10億円を計上。好調なスタートを切り、西武グループの中でも異色の成長を続ける小売業となった。
2000年にファッション業界では「ユニクロ」の台頭によって大変革が起きた。1998年に東京の原宿に出店されたユニクロは、目玉商品であるフリースを武器に消費者から熱烈な支持を受け、対照的にユニクロ以外のファッションが売れなくなるという非常事態に陥った。
2000年当時、良品計画の売上の大半を占めていた衣料品も「フリース旋風」によって大打撃を受けた。この結果、2002年2月期に良品計画は売上高純利益率0%という壊滅的な決算を計上し、当時の社長(有賀馨)は責任を取って辞任した。
2001年の時点で業界関係者は、良品計画が再起不能が状態にあると思われており、当時のメディアは「「無印神話」に溺れ過剰出店、商品力低下」(2001/2/26日経ビジネス)と報道するなど、バブル崩壊期から続く勢いを完全に失った。
松井忠三が2001年に良品計画の新社長に就任し、店舗から在庫の一斉処分を決断。約30億円の在庫となった衣料を新潟県で焼却処分する方針を決め、当時の良品計画の社員は大きなショックを受けたという。そして、松井忠三は「社内に驕りがある」と発破をかけ、良品計画の経営再建に着手した。
松井忠三が良品計画の再建で重視したのが、従来のセゾン流の「個人戦」ではなく、良品計画を組織として強くすることであった。そこで、良品計画では膨大なマニュアルを「MUJIGRAM(ムジグラム)」として作成し、現場の従業員にノウハウを共有し、毎月改定することで使える業務マニュアルを整備した。これらの施策によって、良品計画は店舗におけるサービス向上に結びつけ、徐々に店舗のサービスの質を向上させた。