ヤマハ発動機の出発点は、新しい市場を見つけたことではなく、使い道の無くなった機械が手元にあったことだった。日本楽器製造が軍需で抱え込んだ工作機械は、楽器を作るだけでは余る。その余りを二輪車へ振り向けたのが1955年2月のYA-1であり、会社はその五か月後に資本金3,000万円で切り出された。後発が30数社の乱立する市場へ入るには、自前で抱える範囲を狭くするしかない。基礎研究は親会社の研究所へ預け、加工は外注へ出し、販売は全国六区分の販売所と特約店に任せた。従業員484人の会社が半期で19億円を売れたのは、持たないことを選んだからである。
その身軽さは、当たりが外れたときの脆さと裏表だった。1960年に売り出したモペットが売れず、上場から一年で配当が消える。立て直しの答えは、二輪車でもう一度当てることではなく、同じ小型エンジンを載せる先を増やすことだった。船外機、漁船、スノーモビル、汎用エンジン、発電機、ゴルフカー。載せる先が増えれば、一つの市場が失速しても会社全体は止まらない。そのうえで、増やした品目をすべて輸出に載せた。1974年の売上構成は国内22%に対し輸出78%である。国内で当てるのではなく世界のどこかで当てればよい構造へ、この20年で組み替わっていた。
二輪車への進出は、まず母体である日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)が1954年にオートバイ部門へ乗り出し125ccの生産に着手したことに始まる。当時の日本楽器には戦時中の軍需用プロペラ製造拠点として政府の指示のもと大量導入されていた約1,000台規模の工作機械群が、終戦後の民需転換期に遊休資産として残されており、楽器製造だけでは活用しきれない生産設備の有効な転用策を模索することが経営陣の喫緊の課題だった。1955年2月に最初の125cc車"YA-1"を市販したのち、同年7月1日に二輪車製造部門を資本金3,000万円で分離独立させる形で、ヤマハ発動機株式会社が静岡県浜松市に設立された。初代社長に就任した川上源一氏は日本楽器の社長を兼任しつつ新会社の経営にあたり、このYA-1を皮切りに本格的な二輪車事業への参入を参入した。
当時の二輪車業界では30数社が乱立して競り合い、新規のメーカーが割り込む余地はほとんどないと見られていた。それでも踏み込んだのは、新しい分野を切り開かずにはおれない進取の気風と、高い技術を存立の支えとする"ヤマハ"の方針による。YA-1はワンタッチで始動でき、"赤トンボ"の名で親しまれて、不況続きの業界をよそに走り回った。参入後は技術と販売の両方で業界の先頭に立ち、1957年にオートバイとして初めてグッドデザイン(Gマーク)に選ばれ、1958年には日本製オートバイとして初の海外遠征で入賞した。1961年のロータリーバルブ実用化、1964年のオートルーブ機構の開発はいずれも世界で最初のもので、後から来た会社ながら"技術のヤマハ"として独自の地位を示す企業文化が、この時期にできあがった。
後発の会社が量を積むために選んだのは、自前で抱える範囲を狭く保つことだった。1959年11月、ヤマハ発動機は浜松研究所を日本楽器製造の技術研究所へ併合し、基礎研究および新製品研究の一切を親会社へ委嘱した。加工の工程も外へ出し、一般的な工作機械加工は藤田鉄工所ほかに、プレスと鈑金・溶接は北川自動車に、塗装とメッキは三井工業に依存して、自社にはエンジン組立と車体組立を残した。販売は全国を六区分し、東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を置いてその管下に特約店を並べ、商品の引渡しと同時に代金の25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、残る50%を末端購入者振出しの約束手形で決済した。1957年10月末の従業員は484人にすぎず、この半期の売上高は19億4,451万円であった。
1960年、ヤマハ発動機はFRP(強化プラスチック)製のヤマハボートと小型船外機の生産を開始し、二輪車に続く新事業として舶用エンジン事業の立ち上げに入った。二輪車で培った小型エンジン技術を海の上の乗り物である船外機に応用するという発想は、単一事業への依存を避けて事業ポートフォリオを多角化するという川上源一社長の長期経営ビジョンから生まれた戦略判断で、以後のヤマハ発動機の事業構造の基本型を形作る歴史的な原点となった。1966年10月には磐田工場が二輪車生産工場として完成し、この新拠点では二輪車と船外機の両方で大量生産の可能な体制が整備された。
多角化の歩みは舶用にとどまらず、四輪車でも長年の研究開発の成果としてトヨタ自動車と共同開発した"トヨタ2000GT""トヨタ7"を世に送り出し、1968年にはわが国初の雪上車"ヤマハスノーモビル"を発表して"技術のヤマハ"を全世界に印象づけた。1960年代後半から1970年代にかけてヤマハの船外機事業は北米市場を中心に成長を遂げ、1970年代には既存の米国メーカーを押しのけて世界市場で有力な地位を獲得し、二輪車とマリンの"二本柱経営"という独自の事業構造が形になった。
船外機やボートには、二輪車のときと違って、売り先となる市場そのものがまだ存在しなかった。1960年に参入した発端は、川上源一社長が欧米のマリーナに並ぶ多数のボートやヨットを目にし、四方を海に囲まれたこの国にもいずれ同じような時代が訪れると見込んだことにある。日本楽器製造と組んでFRPの加工技術を開発し、二輪車用のエンジンを改造した船外機をモーターボートに搭載した。売り方の面でも、完成品を流通に流すのではなく、乗る人そのものを増やすところから組み立てる方式をとった。自前で直営マリーナを建設し、第三セクター方式のマリーナにも出資して、船舶免許やヨットの教室を全国で展開した。楽器を売る前に音楽教室を開いた親会社の型を、そのまま海へ移したものである。品目も広げ、1965年に漁船、1968年に和船の販売を始め、1966年には日本楽器の新居工場のボート生産業務を生産設備ごと譲り受けた。
東京証券取引所第一部への上場は1961年9月だが、その直後から業績は崩れた。1961年4月期に193億円だった売上高は1962年4月期に170億円、1963年4月期には148億円まで落ち、当期純利益は3億7,000万円から7,000万円へ縮んだ。配当率は年2%から1%へ下がり、1962年10月期には株主への配当が消えた。要因は、1960年4月に生産を始めた第一種原動機付自転車ヤマハモペットの不振だった。スクーターの販売実績は1961年4月期の1,013台から1962年4月期には6台へ落ちている。株価も1961年の高値2,255円から1962年には安値850円まで下げた。のちに川上源一氏は、夜眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけだと語っている。
立て直しの手は、新しい市場を探すことではなく、持っているエンジンを載せる先を増やすことだった。1965年に漁船、1968年にスノーモビル、1969年に汎用エンジン、1973年に発電機、1975年にゴルフカーと、小型エンジンを核にした品目が数年おきに加わっていく。作る場所と売る場所も国内に置いたままにせず、1968年に欧州、1970年にブラジル、1974年にインドネシアへ現地法人を設け、需要のある土地の近くへ販売と生産を寄せた。売上高は1965年4月期に245億円だったものが、1970年4月期に526億円、1975年4月期には1,767億円となった。二輪車を量産する拠点となったのは、1966年10月に完成した磐田工場である。1972年2月には本社も浜松市から磐田市へ移した。社長の小池久雄氏は、オートバイと雪上車に続く輸出の柱としてボートと船外機を育てる意向を示していた。
1974年にヤマハ発動機の社長を務めていた小池久雄氏は、1938年に静岡県立袋井商業を出て日本楽器製造に入り、東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として移り、取締役・常務・専務を歴任して社長に就いた人物である。この時点で年間の売上構成は国内22%に対し輸出78%に達していた。小池氏はこの比率の高さを問題として扱わず『輸出比率が高いという問題は考えたこともないし、それはそれでいいと思っています』、作る製品のすべてを品質で国際水準に上げれば世界のどこでも売れると述べた。同時に、技術力が国際水準に届いてもコストが高くては意味がないとして、技術とコストの双方を国際水準へ引き下げることを条件に置いた。情勢の変化が激しいときは少なくとも五年先を見通して現在の意思決定を行わねばならない、というのが判断の立て方だった。この考えは、需要に応じて海外のどこにでも工場を置けるという見通しへ続いていた。
1980年代前半のヤマハ発動機は、自分で組み上げた構造を自分で崩した。輸出比率60%台、約30か国の海外工場、二輪車で世界第2位という位置は、二輪車以外の柱を増やしてきた20年の産物である。その位置にいながら、国内シェアの首位を本田技研工業から取りに行った。週に1車種という頻度で新型を出し、売上高は1982年4月期に5,158億円まで膨らむ。だが伸びていたのは売れた台数ではなく作った台数だった。相手が同じ規模で反撃すれば、差は在庫として残る。1983年4月期の最終赤字106億円は、その差が帳簿の表へ出た数字である。
江口秀人社長が選んだのは、規模を取り戻すことではなく、規模を先に捨てることだった。年産350万台を150万台以下へ落とし、使わない機械には縄を張って休止を目に見える形にし、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出す。決算の見栄えは最悪になるが、翌期以降の損益分岐点は下がる。同時に、収益の柱を二輪車の外へ散らす作業が始まった。産業用ロボット、サーフェスマウンター、産業用無人ヘリコプター。エンジンを載せない製品が並び始めたのは、二輪車の一本足では同じことがもう一度起きると分かったからである。円高で採算が削られれば、作る場所を米国へ移す。この十年でヤマハ発動機が身につけたのは、伸ばし方ではなく縮め方だった。
1977年1月、ヤマハ発動機は米国に販売会社Yamaha Motor Corporation, U.S.A.を設立した。翌1978年には除雪機の販売も始めている。この時期の姿は、創立25周年に当たる1980年の記録に残っている。二輪車で世界第2位、舟艇部門では国内首位、船外機と雪上車を含めて輸送機器に特化し、約30か国に海外工場を持ち、輸出比率は60%台に達していた。売上高は1977年4月期の2,204億円から1980年4月期には3,384億円へ、経常利益は75億円から143億円へ伸びた。国内で作って世界へ運ぶ形から、需要のある土地の近くで作る形へ、生産の置き場所そのものが動き始めていた。
石油不安からのインフレが続けばコストが膨らみ、円高に振れれば輸出が落ち込むので、どちらになっても苦しい立場にあると小池久雄社長は読んでいた。1980年の年頭、社長は足元の浮揚感について、情勢の移り変わりがもたらした一時のものにすぎないと言い切っている。そのうえで打ち出したのが、労働集約型の体質を早く抜け出し、資本と技術を集約した企業へ移るという方針である。人の力を機械と設備へ置き換えてシステム化を図り、空いた人の能力を新しい商品の企画・開発・生産・販売へ振り向ける。モーターサイクルについては、現有能力のまま生産性を30%高めてコスト面の国際競争力をつけ、そのうえで高付加価値化を図ることを一つの目安に置いた。1980年4月期の経常利益143億円は前期の72億円から倍近く戻っており、余力のあるうちに体質を組み替える構えであった。
体質の改革より先に動いたのは、数量だった。1980年代の前半、ヤマハ発動機は首位の本田技研工業に対して新型車を相次いで投入する乱売合戦を仕掛けた。会長の川上源一氏は後年、小池社長に対し、本田技研を刺激せず、本田技研が手がけない商売をせよと機会あるごとに言い続けてきたと語っている。船外機やボートの開発も、本田技研と競合しない製品であることを前提にしていた。ところが売上高を1981年4月期の4,280億円から1982年4月期の5,158億円へと二期で2割以上伸ばしたこの攻勢は、社内で一致した方針のもとにあったわけではない。二輪車の国内シェアを真正面から奪い合う消耗戦に入ったことで、その前提は崩れた。
増産の反動は決算に現れた。1983年4月期の売上高は前期の5,158億円から4,199億円へ落ち、経常利益は149億円から2億円へ、最終損益は106億円の赤字となった。翌1984年4月期はさらに深く、売上高3,288億円に対し経常損失197億円、最終赤字350億円である。川上源一会長がヤマハ発動機の異変に気づいた時点で、借入金は3,000億円に達していた。市場では、ヤマハがオートバイ部門を売り渡すのではないかという観測まで出た。売れ残った車両が在庫として積み上がり、稼働しない設備が損失を抱えたまま帳簿に残っていた。数量で首位に並ぼうとした攻勢が、相手の反撃余力を読み違えたまま過剰在庫へ行き着いたことになる。
1983年8月、江口秀人氏がヤマハ発動機の社長に就任した。1927年に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を出て日本楽器製造に入り、1968年からヤマハ発動機の取締役を務めてきた人物である。江口社長が選んだのは、損失を数期に分けて薄める道ではなかった。年産350万台の生産体制を一気に150万台以下へ縮め、使わない機械には縄を張って休止を目に見える形にし、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出した。川上会長も、少しでも軽く見せようと粉飾すれば役員の刑事責任を問われかねないとして、あるがままを決算に出したうえで再建計画を作る方針を取ったと述べている。その処理の結果が、1984年4月期の350億円の最終赤字であった。
再建の中身は、単純な作業の積み重ねだった。まず、ひどいときには週に1車種という頻度に達していたモデルチェンジを止め、50cc・100cc・250ccといった排気量の区分ごとに1車種へ絞って売る形へ戻した。積み上がった在庫は圧縮して現金に換え、借入金のうち1,000億円を返済にあてた。1985年4月期、業績は黒字に戻った。ただ2,000億円の借入金は手つかずで残った。この間には人員の整理にも踏み切っている。川上会長によれば、それをやり遂げられたのは、江口社長が組合と話し合いを尽くしたためだった。目標も据え直され、首位の奪回ではなく、シェアが高くなくても着実に利益の出る体制づくりが掲げられた。十年に及んだ再建を江口社長はのちに振り返り、社内の風通しが良くなり、労働組合との溝もなくなったと語っている。
赤字の底で始めたのは、二輪車以外の収益源を増やす作業だった。1984年2月、ヤマハ発動機は四輪バギーと産業用ロボットの販売を同時に始めている。産業用ロボットは、エンジンを載せない初めての製品系列である。1986年11月にウォータービークル、1987年1月に電子部品を基板へ装着するサーフェスマウンター、1989年12月に産業用無人ヘリコプターが続いた。川上源一会長は1985年の時点で、売上の半分がすでにオートバイ以外の商品で占められ、スノーモビルや船外機がかなり好調だと述べている。二輪車だけで血道を上げなくてよければ、同じ消耗戦を二度繰り返す必要もない、というのがその含意だった。無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ、評判を得た。
輸出の比率が高い会社にとって、円高は売値を動かさないまま採算だけを削っていく。1980年代後半に入ると、この円高に50cc以下の二輪車へのヘルメット着用義務化が重なり、二輪車の需要は戻らず、事業にも持ち直しの兆しは出なかった。打った手は、生産の拠点を需要のある地域へ移すことである。1986年10月、ヤマハ発動機は米国に生産子会社Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設け、ジョージア州で現地生産に乗り出した。同年12月には台湾山葉機車工業股份有限公司も設けている。1989年の時点で、本田技研工業との競争で会社売却説まで出た危機から脱し、米国で現地生産する段階まで復したと評され、アトランタ工場は順調な立ち上がりを見せていた。連結売上高は1989年3月期の5,226億円から1991年3月期には6,927億円へ伸びた。
1980年代を通じて二輪車の販売の重心は国内から海外へ移っていき、国内市場は長い縮小期に入った。高校生に二輪車の運転も免許取得も認めない「三ない運動」が広がり、若いうちに乗らなかった人々は、その後になって改めて免許を取ろうとはしなかった。江口秀人社長は、オートバイ市場の拡大は二度起こると整理していた。一度目は経済発展の初期で、実用の足として売れる時期にあたり、国民一人あたりの所得がおよそ数百ドルになるのがその目安である。次は所得水準が十分上がった欧米や日本で、暮らしにゆとりのできた層が趣味の対象として大型車を求め始める。数の上で大きくさばけるのは発展途上国が圧倒的で、そこが成長の源泉となる。こうして十年のうちに、売上でも利益でも海外が国内をしのぐ形が定まった。台湾と米国に置いた生産会社は、その重心の移動を設備の形で追認する布石だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1955〜1976年日本楽器からの分離独立とマリン事業への多角化 | ヤマハ発動機を設立 | ★ | ||
| 北川自動車に資本参加 | ★ | |||
| 昌和製作所に資本参加 | ★ | |||
| マリン事業に新規参入 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 販売不振で減収 | ★★ | |||
| 磐田工場を新設 | ★ | |||
| 海外拠点の拡充 | ★ | |||
| 船外機でマーキュリー社と合弁契約を締結 | ★ | |||
| 1977〜1991年増産競争の清算と縮小再建 | Yamaha Motor Corporation, U.S.Aを設立 | ★ | ||
| 敗北の代償として受け入れた、年産半減までの縮小再建 1983年、ホンダとの国内シェア争い"HY戦争"で過剰生産に陥り戦後初の営業赤字に沈んだヤマハ発動機が、同年8月に就任した江口秀人社長のもとで、二輪車の年産規模を350万台から150万台以下へ半減し、不稼働設備の隠れ損失を初年度に一括処理した再建計画。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 赤字転落・再建計画を策定 | ★★★ | |||
| 産業用ロボットに新規参入 | ★ | |||
| Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設立 | ★ | |||
| フォード向け自動車エンジンの製造を開始 | ★ | |||
| 1992〜2008年ヤマハとの合併説の否定、国内販社統合とマリン構造改革、トヨタとの提携 | 親会社への吸収観測を退けての経営の独立維持 1992年12月、ヤマハ発動機の江口秀人社長が、親会社ヤマハ(旧・日本楽器製造)との合併観測を否定し、独立経営を守る考えを示した判断。江口氏はこの年2月から親会社ヤマハの会長を兼ね、二つのヤマハを同時に率いる立場にありながら、合併より先に各社の事業の立て直しを優先した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 梶川隆 | Yamaha Motor Vietnamを設立 | ★ | ||
| 梶川隆 | 国内4販社を統合 | ★ | ||
| 梶川隆 | 広げすぎた事業の整理と、船外機を軸に据えた資源の集中 1998年9月、ヤマハ発動機が、創業以来赤字を垂れ流してきたマリン(舟艇)事業の構造改革を発表した経営判断。国内のボート製造工場を5から3へ集約し、志度工場(香川県)を閉鎖、ボート製造の面積と人員を半減する一方、需要が伸びる船外機へ資源を集中した。長谷川武彦社長の主導による。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 梶川隆 | トヨタ自動車と業務提携を締結 | ★ | ||
| 梶川隆 | 決算期を3月31日から12月31日に変更 | ★ | ||
| 梶川隆 | Yamaha Motor Philippines を設立 | ★ | ||
| 梶川隆 | ヤマハマリン袋井工場を新設 | ★ | ||
| 2009〜2026年リーマン後の赤字と構造改革、四輪参入の凍結と新川買収によるロボティクス再編 | 梶川隆 | リーマン後の構造改革と損益分岐点型経営への転換 2008年秋のリーマンショックで先進国の二輪車と北米の船外機の需要が急減し、2009年12月期に戦後2度目の営業赤字と2,161億円の最終赤字を計上したヤマハ発動機が、2010年3月に就任した柳弘之社長のもとで、工場再編・希望退職・在庫の圧縮を進め、損益分岐点を下げる経営へ転換した再建。 詳細を読む | ★★★ | |
| 柳弘之 | 四輪車に参入(凍結) | ★★ | ||
| 柳弘之 | 浜松ロボティスク事務所を開設 | ★ | ||
| 日髙祥博 | 新川・アピックヤマダを買収 | ★ | ||
| 日髙祥博 | 創業地・国内二輪生産の本社工場への集約 2021年2月12日、創業の地である浜北工場(浜松市)と中瀬工場の二輪車生産機能を磐田市の本社工場へ集約し、浜北工場を移管完了後に閉鎖・売却する方針を、2020年12月期決算とあわせて発表した。 移管の対象となった浜北工場は、2020年12月末時点で従業員540人、土地面積115,464㎡、帳簿価額8,315百万円。中瀬工場は従業員139人、帳簿価額1,580百万円で、いずれもランドモビリティ事業の輸送用機器部品を製造していた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 設楽元文 | ヤマハロボティクスHDが新川等を吸収合併・商号変更 | ★★ | ||
| 設楽元文 | シルチェスターが株式追加を取得 | ★ | ||
| 設楽元文 | 汎用エンジン事業・発電機事業から撤退 | ★★ |
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事実根拠:出所(ヤマハ発動機)