ピアノ製造が本業のヤマハが「二輪車」への進出を決めた理由は、戦時中に導入した工作機械の有効活用にあった。
戦時中のヤマハは、本業の楽器製造ではなく、軍用航空機向けプロペラの生産の従事していた。最初は、木製のプロペラの製造に従事しており、ピアノなどの楽器製造で培った木工技術が生かされた。その後、金属製のプロペラ製造を開始し、加工のために工作機械などを約1000台を導入した。
その後、ヤマハは陸軍の航空機向けの金属プロペラの量産に従事して、1939年には国内シェア60%(月産1300本)を確保。1945年の終戦時点でヤマハの従業員数は工場従事者を中心に1万名に及んだ。
終戦間際の1944年には、工場疎開のために佐久良工場を新設。工作機械800台を佐久良工場に移転することでプロペラの生産を継続した。しかし、1945年に終戦を迎えると、米軍によってこれらの設備が賠償指定され、ヤマハは工作機械の活用を封じられた。
その後、1950年の朝鮮戦争の勃発を契機に米軍は日本に対する締め付けを緩和し、1951年にヤマハが保有する800台に及ぶ工作機械の賠償指定を解除した。これにより、大量の工作機械を再び使用可能な状態となり、戦時中に閉鎖されていた浜北工場も復旧が可能となった。そこで、ヤマハの社長であった川上源一氏は資産の有効活用を考えた。
そのころ、1950年前後に日本国内で二輪車が急速に普及し、市場規模が拡大していた。特に、浜松市内を中心に全国にオートバイメーカーが約200社ほど乱立し、本田技研などのベンチャー企業が急成長を遂げていた。
そこで、浜松に本社を構えるヤマハでの川上源一氏は、工作機械を「二輪車の製造」に活用することを決めた。この意思決定は、204社の競合が存在する市場への後発参入を意味する。
1954年にヤマハは二輪車への後発参入を決定し、1955年に浜北工場を稼働。1955年2月に125ccの二輪車「ヤマハ125」を発売して、ホンダなど約100社がひしめく二輪車市場に後発参入した。
ヤマハ発動機における特色は「二輪車の大量生産を支える工作機械」にあった。二輪車市場では最盛期に204社の国内メーカーが乱立したものの、工作機械を導入して量産体制を構築していたのはホンダや東京発動機など数社に限られていた。このため、ヤマハ発動機は後発参入の不利を挽回するために、工作機械による大量生産によってコストダウンを図ることに注力した。
なお、ヤマハとヤマハ発動機は別会社として運営し、1955年のヤマハ発動機の会社発足時点で、ヤマハは工作機械などを7000万円でヤマハ発動機に売却している。工作機械の市場価格からは大きく低い価格帯であり、このテクニックによってヤマハ発動機は「償却負担の少ない工作機械の導入」に成功した。
1950年代におけるヤマハ発動機の二輪車製造の損益分岐点は「月産500台」であった。すなわち、1957年度までに「月産1000台」体制を確立したことで、黒字化したと推察される。
製品開発面では、1955年に125ccの「YA-1」、1956年に175ccの「YC-1」をそれぞれ発売して対応した。
1955年にヤマハは「二輪車製造」の事業を、子会社(100%出資と推定)として分離することを決定。1955年7月にヤマハ発動機(従業員数約150名)を会社設立し、楽器製造を行うヤマハとは運営会社を分ける体制をとった。
この理由は、二輪車製造には巨額の設備投資が必要であったため、ヤマハ本社の負担が増えないように独立会社として運営するためであった。
1957年前後の短期借入金は4億円前後であり、当時の資本金3億円を超過した水準であった。この頃の自己資本比率は10%未満であり、財務体質は脆弱でリスクを伴った。
このため、1950年代を通じてヤマハ発動機は第三者割当による増資を実施し、借入金を返済することで自己資本比率を改善した。1959年10月末時点(当時非上場)で、自己資本比率を33.9%まで改善する代償として、親会社のヤマハが保有する株式の保有比率は45.0%まで希薄化し、子会社から関連会社に位置付けが変化した。
その後、1961年にヤマハ発動機は東京証券取引所第一部に株式上場を行い、ヤマハによる持ち分はさらに希薄化。ヤマハとヤマハ発動機は「子会社」でありながらも、資本関係については徐々に距離を置く施策をとった。
2000年代以降にヤマハの財務状況が悪化した際に、ヤマハはヤマハ発動機の株式持分を売却する道を選択。2023年3月時点におけるヤマハ発動機において、ヤマハが株式を4.62%保有しており、長期的に資本関係は解消されつつある。
1955年の会社設立当時において、ヤマハ発動機の社長は、ヤマハ社長でもあった川上源一氏であり、意思決定は実質的に「ヤマハ」がコントロールする形となっていた。この体制は、川上源一氏がヤマハでの影響力を失う1992年まで続いており、1992年までのヤマハ発動機は「ヤマハ社長の川上源一氏」によって経営が支配された。
| 株主名 | 保有株数(千株) | 保有比率(%) |
| 日本楽器製造(ヤマハ) | 270 | 45.0% |
| 川上源一(ヤマハ社長) | 23.7 | 3.9% |
| 浜松経済同友会 | 19.5 | 3.2% |
| 第百生命保険相互 | 13.9 | 2.3% |
| 住友海上火災保険 | 9.0 | 1.5% |
| 東海銀行 | 9.0 | 1.5% |
| 富士銀行 | 9.0 | 1.5% |
| 日本管楽器 | 9.0 | 1.5% |
販売面においても、ヤマハ発動機は全国に特約店を整備。具体的な整備方法は不明だが、1960年1月までに国内173店の特約店を確保することで販路を確保した。これらの特約店をケアするために、親会社のヤマハの営業所内に、ヤマハ発動機の販売所を設置したが、いずれも4名前後の体制であり強力な営業網ではなかった。
急速に販路を確保できた理由は、ヤマハ発動機の二輪車が国内の主要レースで優勝したことによる評判形成や、コストダウン効果により販売店からの引き合いが強かったこと、親会社であるヤマハが楽器の全国展開培った販路を生せたことが挙げられる。
この結果、ヤマハ発動機は1960年前後までは「ヤマハの販売網」「特約店」を介した販売網を国内に形成したが、ヤマハ発動機から小売店に対する「直販」ではないという弱みを伴っていた。よって、新製品の売り出しで失敗した1961年ごろには、特約店契約の解除などの問題に悩まされる形となった。
| 事業所 | 所在地 | 従業員数 |
| 本社工場 | 静岡県浜名郡浜北 | 428名 |
| 浜松研究所 | 静岡県浜松市八幡町 | 20名 |
| 東京販売所 | 東京都中央区銀座 | 8名 |
| 大阪販売所 | 大阪市南区心斎橋 | 6名 |
| 名古屋販売所 | 名古屋市中区栄町 | 5名 |
| 北海道販売所 | 札幌市南三条西 | 4名 |
| 仙台販売所 | 仙台市大町 | 4名 |
| 広島販売所 | 広島市鉄砲屋町 | 4名 |
| 九州販売所 | 福岡県上店屋町 | 4名 |
1960年までにヤマハ発動機は、二輪車の国内生産シェアで「ホンダ」と「スズキ」に次ぐ第3位を確保した。1955年に後発参入したヤマハにとっては、乱戦が続く二輪車市場で数十社の競合をごぼう抜きした形となった。
なお、1960年代以降の国内の二輪車市場では、ヤマハ発動機はシェア2位で固定化した。この理由は、1960年代以降の国内市場が成熟して、すでに量産設備を稼働している競合の優位が確立され、新規参入の余地がなくなったためである。
また、2位争いでスズキとヤマハ発動機が競り合い、1970年代以降はヤマハ発動機の優勢が定着した理由は、国内生産による輸出の積極化にあった。ヤマハ発動機は国内市場の成熟化を見越して、北米への二輪車の輸出積極化。国内の工場稼働率を維持することで、国内生産量2位のシェアを安定的に確保するに至った。
エンジンの製造技術を応用して、ボート・船外機に参入
船舶(ボート)の製造拠点を拡充
1960年代を通じて日本国内では、二輪車の市場成長が鈍化した。理由は、日本人の所得上昇により、自動車の需要が「四輪車(乗用車)」にシフトしてことにより、そもそも生活必需品としての二輪車の需要が低迷したことにある。
この結果、1960年代前半を通じて二輪車メーカーは「二輪車の次」の事業を生み出すべく多角化を志向した。このうち、ホンダとスズキは四輪車への参入を目指し、二輪車の収益を四輪車の開発に充当した。一方、ヤマハ発動機は四輪車への本格参入は見送り、自動車と比較して設備投資が少ない「マリン事業(船舶・船外機)」に参入するなど、各社で多角化の方向性に違いが生じた。
1966年10月にヤマハ発動機は二輪車への設備投資を決定し、静岡県磐田市にて「磐田工場」を新設した。狙いは量産拠点の新設によりコストダウンを図り、北米・欧州向けの二輪車におけるコスト競争力を確立することにあった。
このため、従来の二輪車製造の主力拠点は本社工場(浜北工場)であったが、磐田工場では広大な敷地を確保することで将来の増床に備えた。1970年時点で、浜北工場の敷地面積6.9万㎡(うち建物4.4万㎡)に対して、磐田工場は同51万㎡(うち建物5.6万㎡)を確保し、大幅な増床に対応して土地を確保している。
また、磐田工場の稼働後に、ヤマハ発動機は本社を浜北工場から磐田工場に移転するなど、ヤマハ発動機の基幹工場と位置付けられた。
1960年からヤマハ発動機は北米市場向けの輸出を開始していたが、当時はホンダが北米市場への輸出でシェア50%以上を確保していた。そこで、ヤマハは磐田工場の稼働に合わせて、1967年からはスポーツ用とのRDシリーズの開発を本格化。従来のホンダが50cc(主にレジャー用途)を北米での主力車種に据えた一方で、ヤマハ発動機は50cc以上の領域(主にスポーツ用途)に注力した。
| 年度 | 浜北工場(旧本社) | 磐田工場(新本社) |
| FY1965 | 約2000名 | 0名(新設前) |
| FY1970 | 2987名 | 580名 |
| FY1975 | 1504名 | 3073名 |
| FY1980 | 1417名 | 3484名 |
今後は国際的な商品を作る。そのためには、技術力を向上させ、コスト面も国際レベルに低減させる。そして、需要の創造を図るとともに新製品の開発も行う方向で進みたい。(略)国際的な商品なら、日本はもちろん世界のどこでも、誰にでも売れますよ。だから、まず第一に全製品を国際的な商品にしなければならない。
1960年代後半から、ヤマハ発動機は二輪車の輸出を本格化。北米市場と欧州市場の先進国を中心に展開し、大排気量(750cc)の二輪車を輸出することによって、現地におけるシェアを確保。1967年の時点でヤマハ発動機はスズキを抜き、二輪車で世界シェア2位を確保した(1位はホンダ)。ただし地域別の輸出比率は非開示。
特に、北米市場において、1977年度時点でヤマハ発動機は二輪車でシェア2位(21.2%)を確保し、シェア1位のホンダ(40.5%)に追随。ホンダが確保していたシェアを、ヤマハ発動機と川崎重工が奪うことによって、シェアが変動した。
| 年度 | 輸出台数 | 備考 |
| FY1965 | 4万台 | |
| FY1966 | - | 磐田工場を新設稼働 |
| FY1966 | - | 世界シェア2位を確保 |
| FY1969 | 22万台 | |
| FY1974 | 80万台 | |
| FY1977 | 130万台 | 北米シェア2位を確保 |
生産規模をとってみると、欧州メーカーの月産規模1000台程度と比べて、わが国メーカーは1万台とコストの面で問題にならない。加えて大市場のアメリカには有力な国内メーカーがないに等しい。そのため輸入が市場の90%を占めるアメリカ市場向けを中心に輸出が国内以上の伸びを続けている。アメリカの二輪車ブームは750cc級の大排気量化、スポーツ化に傾斜しており、これが単価の上昇と収益力の向上ともなっている。
インドネシアで二輪車の現地生産を開始。ノックダウン(日本から部品輸出)により月産1万代替しえへ
1982年、ヤマハのモーターサイクルの生産累計は2000万台の大台を突歯した。(略)ヤマハ発動機は、それまで業界トップの本田技研工業に「追いつき、追い越せ」をスローガンに増産策をとってきた。一時は国内シェアが本田と並ぶところまでになり、成功するかに見えたこともあった。
当時、ホンダはヤマハと、二輪車のシェア1位の座をめぐって壮絶な戦いを繰り広げていた。世に言う「HY戦争」である。首位の座を狙うと宣言し、大規模な攻勢をかけてくるヤマハに対して危機感を抱いたホンダは、ヤマハを叩きのめすために我々BCGを雇ったのである。ホンダの2代目社長・河島喜好氏からの命令は、まさに「激烈」とでもいうしかないものだった。
1、ヤマハを赤字で無配の会社に転落させる
2、子会社の1社か2社を倒産させる
3、向こう10年間はホンダの尻尾を踏むのも怖くて何もできない会社にする
4、そのために多少の無茶も厭わないし、金に糸目はつけない
この方針のもと、本田と我々はそれこそ無数の戦略を立案していった。
だが、本田の逆襲は凄まじかった。ヤマハの主力二輪車、パッソルに対抗するホンダ・スカイの投入にあたっては、発売初日から30%以上の値引き作戦を断行してきたものだ。本田がこれほど強引な方策を打ち出したの初めてではなかろうか。世にいう「H・Y戦争」であった。この戦いの陣頭指揮に立っていたのはもちろん小池社長である。
ホンダの逆襲だけではなく、悪いことに米国や中東向け輸出も激減し、みるみるうちに大量の在庫を抱えてしまった。大幅減収減益、無配転落へと急降下した。(略)
国内二輪史上で本田技研に(注:シェアで)3.5%差までに縮め、「トップを奪う」とまで豪語したヤマハであったが、ホンダに完敗し、以後は再度の再建に向かうことになる。
当社が経営危機を迎えていた11年前、私は社長になりました。二輪車の安値販売で拡大策をとった当社は、市場の冷え込みもあり、窮地に追い込まれました。当社から遠ざかっていた私に、再建の役目が回ってきたのです。
私は社員に向かって「2年で再建する」と宣言しました。目処が立っていたわけではありませんが、損を出さずに先の見通しを立てられる時期を2年後としたのです。そのため、かなりの荒療治を行いました。当時、二輪車の生産規模は年産350万台で過剰生産体制にありました。さらに増やそうという計画まであったのです。それを一気に半分以下の150万台体制に縮小することを目標にしました。それで食べていけるのか、見通しがあったわけではありません。しかし、こっちを削り、あっちを削りの生半可なやり方では再建はおぼつかないと、判断したのです。
使わない機械には縄を張って、この工場は休止していることをあえて強調しました。隠れていた損もいっぺんに表に出しました。この結果、社長に就任した1年目の決算は350億円もの赤字を出しました。やらなくてもいいだろうと言われるぐらいのところまで、ウミを出し切ったのです。
ヤマハ発動機のマリン事業は、創業者である川上源一氏によって推進された経緯があり、低収益であっても事業にテコ入れをせずに継続していた。1980年代のバブル期には「レジャー向けボート」の需要が増大した恩恵を受けたが、バブル崩壊後は需要が低迷。川上源一氏も「ヤマハ(楽器)における経営問題」によって1992年に表舞台から去るなど、マリン事業を取り巻く環境は変化した。
1990年代後半の時点で、ヤマハ発動機のマリン事業は、安定した需要が見込める「船外機」がある一方、「和船・漁船・ボート」といった需要が低迷する問題事業を抱えていた。和船・漁船は漁業の低迷、ボートはバブル崩壊によるブームの終焉で、共に需要を喪失しており、市場が盛り返す見込みは薄かった。
わが社のマリン事業は、日本にもマリンレジャーを広げることを創業以来の使命としてきた。欧米の高いボート普及率を根拠に、日本でも大きく成長できるはずだと期待した。しかし、現実は違った。日本の海は漁業、工業などを優先に整備され、マリーナなどの建設は後回しにされた。マリン事業が成長するための基盤が欧米に比べてあまりにも遅れていた。
我々も独自にマリーナを建設、運営したり、免許教室を開くなど、インフラ整備に力を尽くしたが、いかんせんメーカー1社では限界がある。マリン事業の理念と現実のギャップは広がる一方だった。「いつかは成長するはず」との思い込みが先行したマリン事業は、多少の赤字には目をつぶる「聖域」と化してしまったのだ。
1998年にヤマハ発動機はマリン事業について「舟艇事業の構造改革・国内ボート製造工場の再編成について」という方針を公表した。国内の舟艇事業の生産規模の縮小に合わせて、人員削減と国内工場の統廃合を実施し、赤字体質から脱却することが目的であった。
ヤマハ発動機のマリン事業(船舶製造)の国内子会社において、507名の希望退職者を募集した。国内の船舶製造に従事する人員を半数削減することで、固定費の削減を目論んだ。基本的に配置転換により雇用を維持すること方針であったが、船舶子会社は地方に点在することもあり、多くの社員が退職を選択した。
工場の稼働率60%という低水準を是正するために、需要縮小に合わせて国内工場の統廃合を実施。5工場体制から3工場体制(北海道工場・蒲郡工場・浜松工場)に縮小し、香川県の志度工場については閉鎖を決定した。
従業員には配置転換を促したが、志度工場の場合、転換に応じたのはわずか12名であり、ほとんどの社員が退職を選んだ。これは、ヤマハの事業拠点が静岡県に集中しており、香川県に居住する社員の移動が難しかったためと推定される。
残りの熊本県の八代工場については、閉鎖を避けつて生産品目を「船外機」に転換し、存続を決定した。
| 子会社名 | 工場名 | 生産品目 |
| ヤマハマリン製造(株) | 天草工場 | 漁船・和船 |
| ヤマハマリン製造(株) | 八代工場 | 生産中止=船外機に転換 |
| ヤマハマリン製造(株) | 志度工場 | 生産中止=工場閉鎖 |
| ヤマハ蒲郡製造(株) | (愛知県) | 中型・大型ボート |
| ヤマキ船舶化工(株) | (北海道) | 漁船・和船 |
マリン事業のリストラを決断したのも、赤字を垂れ流し続けてきたマリン事業をそのまま放置すれば、負担が大きくなり、取り返しがつかなくなると考えたからだ。(略)
当社にとってマリン事業が二輪車に次ぐ収益の柱であることに変わりはない。船外機への経営資源集中など、打つべき手は打った。行政の側も、短期間で習得できる新たな免許制度をこの5月に設けるなど、マリンレジャーへの理解を深めつつある。あとは、一刻も早く利益の出る体質にして、どう成果を上げていくかだ。
2000年以降のヤマハ発動機のマリン事業は、北米向けを中心とした「船外機」の販売によって業績を好転させた。船外機は「大量生産によるスケールメリットがききやすい」点があり、ヤマハ発動機が量産体制を整えることでシェアを確保した。北米向けが中心となった理由は、海洋レジャーの市場が大きいためであった。
2008年のリーマンショックを受けて、ヤマハ発動機の各事業で大幅な減収・減益となった。新興国向けが中心の二輪車はセグメント黒字を確保したものの、北米に依存している「マリン事業」と「特記事業」は特に厳しい状況に陥った。
この結果、2009年12月期にヤマハ発動機は約2000億円の最終赤字に転落した。利益の内訳は、下記の通りである。
営業損失▲625億円
経常損失▲683億円
特別損失1057億円(うち構造改革費1037億円)
当期純損失▲2161億円
すなわち、各事業の売上減少による営業赤字への影響に加え、構造改革費用1037億円を特別損失として計上したことにより、最終赤字が拡大した。
2010年に社長に就任した柳氏は、ヤマハは構造改革の開始を発表。従来の「規模依存型」ではなく「損益分岐点型」による経営に注力する方針を決定した。具体的には生産拠点を「12工場・25ユニット」から「7工場・14ユニット」への削減し、損益分岐点を下げる計画であった。
二輪車における損益分岐点の目標は「20万台」、船外機では「23万台」、ATVでは「10万台」が設定された。これらのコストダウンによって、2012年度に、年間750億円の削減効果を目論んだ。
構造改革の遂行に合わせて、ヤマハ発動機は希望退職者の募集を決定。2010年9月に932名が応募したことを発表した。人員削減に伴う特別損失(特別退職加算金)として110億円を計上した。
2009年12月期の時点で、ヤマハ発動機は構造改革に備えて「構造改革費用」を1037億円計上した。内訳は、先進国(日本・北米・欧州)における事業改革のための費用であり、減損損失や人員削減(早期退職)による支出に備えたものであった。
2009年度以降、マリン事業ではコストダウンのための構造改革を遂行した。マリン事業の売上高のうち、約70%が船外機を占めていたため、船外機におけるコストダウンの成否がマリン事業の収益性改善の鍵を握った。
生産面においては、国内工場の再編を実施。従来の体制は二輪車とマリン事業の製造工場が違うことで、似た技術を活用しているものの効率化の恩恵を受けられていなかったため、国内工場の生産体制を改編した。具体的には二輪車工場でも船外機の製造を行うことで、コストダウンを図った。
部品調達の面でも、取引先の絞り込みを遂行した。船外機では約400社から部品を仕入れていたが、約200社に集約。1社あたりの取引量を増加させることによって、下請け企業においてスケールメリットによる量産効果を付与できるようにした。
販売面においては、引き続きマリンレジャーが盛んな北米市場に注力した。
この結果、2010年代を通じてマリン事業の利益率が大きく改善。2015年時点でヤマハ発動機は主力の「船外機」において世界シェア40%を確保するなど、マリン事業で競争優位に立った。
2008年のリーマンショックによって特記事業は深刻な業績不振に直面した。売上高の中心が北米におけるスポーツ四輪たRVであり、これらは嗜好品であったことからリーマンショックによって販売が激減した。2010年12月期の特記事業の売上高は、前年比52.8%減少という致命的な結果となった。
このため、2010年度にヤマハ発動機は特記事業における人員削減を実施。セグメントにおける従事者数は1年間で273名減少し、その内訳は北米子会社における早期退職が中心であった。
構造改革を通じて売上原価および販管費を削減し、黒字を確保した。
事業面においては、マリン事業におけるコスト削減の効果が顕著であり、2010年代を通じてヤマハ発動機の全社利益を支える事業に育った。
四輪車への参入を決めるも、量産技術を確立できず2018年に中止を決定
ヤマハ発動機の創業地である浜北工場を2025年1月に閉鎖することを決定。静岡県内に分散している二輪車の製造拠点を、磐田市内の本社工場に集約することで原価改善を目論む。なお、浜北工場は生産品目の移管ではなく、工場閉鎖及び土地売却を決定しており、ヤマハ発動機としては「創業工場の閉鎖」という思い切った手を打った。