ヤマハ発動機 の歴史

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創業 1955年
創業者 川上源一
創業地 静岡県浜名郡浜北町
創業 1955年7月、日本楽器製造から二輪車製造部門が分離独立し、静岡県浜松市でヤマハ
1955年7月、日本楽器製造から二輪車製造部門が分離独立し、静岡県浜松市でヤマハ発動機が発足した。戦時中に軍需用プロペラを加工するため導入した約1,000台の工作機械が楽器づくりだけでは使いきれず、その転用先として川上源一氏が初代社長に就任した。初号機YA-1は同年に市販され、1957年にはオートバイとして初のGマークを受けている。1960年7月にボートと船外機の販売を開始し、1961年9月に東京証券取引所第一部へ上場した。1966年10月には磐田工場が完成し、1972年2月に本社を磐田市へ移している。ただし30数社が乱立する市場での参入は後発で、先行するホンダとの差は開いたままだった。
決断 増やした量を先に半減させ、そこから立て直す順序を繰り返してきた。1979年から打
増やした量を先に半減させ、そこから立て直す順序を繰り返してきた。1979年から打倒ホンダを掲げて生産を拡大した反動で1983年に戦後初の営業赤字へ落ち、同年8月に江口秀人社長のもとで年産を半減させた。年産350万台を150万台以下へ縮め、不稼働設備の損失を初年度に一括計上して350億円の赤字を計上した。2009年12月には工場再編と希望退職で損益分岐点型の経営へ移し、リーマン後の需要急減で膨らんだ固定費と在庫を清算する。2021年2月には創業地の浜北工場を閉鎖して国内二輪生産を本社工場へ集約した。規模を追った1度の失敗が、以後40年の危機対応をすべて縮小から始めさせた。
現況 四輪バギーの減損が、二輪とマリンで作った利益の大半を消した。2025年12月期の
四輪バギーの減損が、二輪とマリンで作った利益の大半を消した。2025年12月期の売上収益2兆5,342億円は、ランドモビリティ1兆6,151億円、マリン5,276億円、金融サービス1,140億円、アウトドアランドビークル1,485億円、ロボティクス1,115億円で構成される。前の3つが1,087億円・536億円・211億円のセグメント利益を出す一方、四輪バギーを扱うアウトドアランドビークルは398億円、ロボティクスは6億円の損失を計上した。営業利益1,264億円に対し当期純利益は161億円で、前期の1,193億円から8割以上減っている。2025年12月には汎用エンジンと発電機の事業からも撤退した。
競合 国内で数量を競った相手とは、東南アジアでは市場を分け合っている。1970年代のヤ
国内で数量を競った相手とは、東南アジアでは市場を分け合っている。1970年代のヤマハ発動機は輸出で世界2位に立ち、北米の二輪車シェアを1971年度の15.4%から1977年度に21.2%へ伸ばした。同じ市場で40.5%を占めるホンダに国内で並ぼうとした1979年からの数量競争は、過剰在庫と戦後初の営業赤字で終わる。以後は主戦場をインドネシア・タイ・ベトナムへ移し、現地生産と販売網を整えて二大ブランドの一角に入った。マリンでは1998年にボート工場を5から3へ集約して船外機へ資源を集中し、北米の船外機で高いシェアを保つ。台数で並ぶことをやめ、相手の手薄な市場と工程を選び直したことが、二輪以外に2つの収益源を残した。
長期業績の推移 1957〜2025年
ヤマハ発動機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年3月期2025年12月期

第1章 1955年〜 日本楽器からの分離独立とマリン事業への多角化遊休工作機械の転用から輸出比率78%の輸送機器メーカーへ

筆者考察y.sugiura, author

ヤマハ発動機の出発点は、新しい市場を見つけたことではなく、使い道の無くなった機械が手元にあったことだった。日本楽器製造が軍需で抱え込んだ工作機械は、楽器を作るだけでは余る。その余りを二輪車へ振り向けたのが1955年2月のYA-1であり、会社はその五か月後に資本金3,000万円で切り出された。後発が30数社の乱立する市場へ入るには、自前で抱える範囲を狭くするしかない。基礎研究は親会社の研究所へ預け、加工は外注へ出し、販売は全国六区分の販売所と特約店に任せた。従業員484人の会社が半期で19億円を売れたのは、持たないことを選んだからである。

その身軽さは、当たりが外れたときの脆さと裏表だった。1960年に売り出したモペットが売れず、上場から一年で配当が消える。立て直しの答えは、二輪車でもう一度当てることではなく、同じ小型エンジンを載せる先を増やすことだった。船外機、漁船、スノーモビル、汎用エンジン、発電機、ゴルフカー。載せる先が増えれば、一つの市場が失速しても会社全体は止まらない。そのうえで、増やした品目をすべて輸出に載せた。1974年の売上構成は国内22%に対し輸出78%である。国内で当てるのではなく世界のどこかで当てればよい構造へ、この20年で組み替わっていた。

売上高(単体・4月期) 1957年〜1976年(億円)

24.7 1957 193 1961 148.2 1963 526 1970 1,767 1975 1,666 1976
  • 出所は株式会社年鑑・ダイヤモンド会社要覧・会社年鑑(いずれも単体)。
  • 1961年4月期から1963年4月期にかけての減少がモペットの販売不振にあたる。

1955年〜戦時遊休資産の転用で後発参入した決断

二輪車への進出は、まず母体である日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)が1954年にオートバイ部門へ乗り出し125ccの生産に着手したことに始まる。当時の日本楽器には戦時中の軍需用プロペラ製造拠点として政府の指示のもと大量導入されていた約1,000台規模の工作機械群が、終戦後の民需転換期に遊休資産として残されており、楽器製造だけでは活用しきれない生産設備の有効な転用策を模索することが経営陣の喫緊の課題だった。1955年2月に最初の125cc車"YA-1"を市販したのち、同年7月1日に二輪車製造部門を資本金3,000万円で分離独立させる形で、ヤマハ発動機株式会社が静岡県浜松市に設立された初代社長に就任した川上源一氏は日本楽器の社長を兼任しつつ新会社の経営にあたり、このYA-1を皮切りに本格的な二輪車事業への参入を参入した。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1954年 日本楽器製造がオートバイ部門へ進出し125ccの生産に着手
    • [3]初号機YA-1は1955年2月に市販された125cc車
    • [4]設立時の資本金は3,000万円(企業の歴史:明治百年)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [2]日本楽器の戦後遊休工作機械は約1,000台規模
    • [7]初代社長は川上源一(日本楽器社長を兼任)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [5]設立地は静岡県浜松市。有報【沿革】は『静岡県浜松市において発足』とし、本文の表記と一致(旧本文の『浜名郡浜北町』は今回の改修で浜松市へ訂正)
    • [6]1955年7月1日 日本楽器製造から資本金3,000万円で分離独立しヤマハ発動機株式会社を設立

当時の二輪車業界では30数社が乱立して競り合い、新規のメーカーが割り込む余地はほとんどないと見られていた。それでも踏み込んだのは、新しい分野を切り開かずにはおれない進取の気風と、高い技術を存立の支えとする"ヤマハ"の方針による。YA-1はワンタッチで始動でき、"赤トンボ"の名で親しまれて、不況続きの業界をよそに走り回った。参入後は技術と販売の両方で業界の先頭に立ち、1957年にオートバイとして初めてグッドデザイン(Gマーク)に選ばれ、1958年には日本製オートバイとして初の海外遠征で入賞した。1961年のロータリーバルブ実用化、1964年のオートルーブ機構の開発はいずれも世界で最初のもので、後から来た会社ながら"技術のヤマハ"として独自の地位を示す企業文化が、この時期にできあがった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [8]当時の二輪車業界は30数社が乱立し新規参入は困難視されていた。ヤマハはフロンティア精神と高度な技術を生命力とする企業方針で進出
    • [9]YA-1は『赤トンボ』の愛称で親しまれ、不況の業界を尻目に走りまわった
    • [10]1957年にオートバイで初のGマーク受賞、1958年に日本製オートバイ初の海外遠征で初入賞
    • [11]1961年に世界初のロータリーバルブを実用化、1964年に世界にさきがけオートルーブ機構を開発

後発の会社が量を積むために選んだのは、自前で抱える範囲を狭く保つことだった。1959年11月、ヤマハ発動機は浜松研究所を日本楽器製造の技術研究所へ併合し、基礎研究および新製品研究の一切を親会社へ委嘱した。加工の工程も外へ出し、一般的な工作機械加工は藤田鉄工所ほかに、プレスと鈑金・溶接は北川自動車に、塗装とメッキは三井工業に依存して、自社にはエンジン組立と車体組立を残した。販売は全国を六区分し、東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を置いてその管下に特約店を並べ、商品の引渡しと同時に代金の25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、残る50%を末端購入者振出しの約束手形で決済した。1957年10月末の従業員は484人にすぎず、この半期の売上高は19億4,451万円であった

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [12]1959年11月 浜松研究所を日本楽器の技術研究所に併合し、基礎研究および新製品研究の一切を日本楽器に委嘱
    • [13]外注では一般的な工作機械加工を藤田鉄工所その他に、プレス・鈑金・溶接加工を北川自動車に、塗装・メッキ加工を三井工業に主として依存。自社ではエンジン組立・車体組立を行う
    • [14]販売方法は全国を6区分し東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を設け管下に特約店を設置。販売条件は引渡しとともに25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、50%を末端購入者振出しの約束手形で決済
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
    • [15]1957年10月末の従業員は484人。1957年10月期(半期)の売上高は1,944,519千円
参考文献[1]-[15]
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1954年 日本楽器製造がオートバイ部門へ進出し125ccの生産に着手
    • [3]初号機YA-1は1955年2月に市販された125cc車
    • [4]設立時の資本金は3,000万円(企業の歴史:明治百年)
    • [8]当時の二輪車業界は30数社が乱立し新規参入は困難視されていた。ヤマハはフロンティア精神と高度な技術を生命力とする企業方針で進出
    • [9]YA-1は『赤トンボ』の愛称で親しまれ、不況の業界を尻目に走りまわった
    • [10]1957年にオートバイで初のGマーク受賞、1958年に日本製オートバイ初の海外遠征で初入賞
    • [11]1961年に世界初のロータリーバルブを実用化、1964年に世界にさきがけオートルーブ機構を開発
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [2]日本楽器の戦後遊休工作機械は約1,000台規模
    • [7]初代社長は川上源一(日本楽器社長を兼任)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [5]設立地は静岡県浜松市。有報【沿革】は『静岡県浜松市において発足』とし、本文の表記と一致(旧本文の『浜名郡浜北町』は今回の改修で浜松市へ訂正)
    • [6]1955年7月1日 日本楽器製造から資本金3,000万円で分離独立しヤマハ発動機株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [12]1959年11月 浜松研究所を日本楽器の技術研究所に併合し、基礎研究および新製品研究の一切を日本楽器に委嘱
    • [13]外注では一般的な工作機械加工を藤田鉄工所その他に、プレス・鈑金・溶接加工を北川自動車に、塗装・メッキ加工を三井工業に主として依存。自社ではエンジン組立・車体組立を行う
    • [14]販売方法は全国を6区分し東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を設け管下に特約店を設置。販売条件は引渡しとともに25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、50%を末端購入者振出しの約束手形で決済
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
    • [15]1957年10月末の従業員は484人。1957年10月期(半期)の売上高は1,944,519千円

1960年〜マリン事業の参入が二本柱経営の原点となる転換

1960年、ヤマハ発動機はFRP(強化プラスチック)製のヤマハボートと小型船外機の生産を開始し、二輪車に続く新事業として舶用エンジン事業の立ち上げに入った。二輪車で培った小型エンジン技術を海の上の乗り物である船外機に応用するという発想は、単一事業への依存を避けて事業ポートフォリオを多角化するという川上源一社長の長期経営ビジョンから生まれた戦略判断で、以後のヤマハ発動機の事業構造の基本型を形作る歴史的な原点となった。1966年10月には磐田工場が二輪車生産工場として完成し、この新拠点では二輪車と船外機の両方で大量生産の可能な体制が整備された。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [16]1960年(7月)マリン事業に新規参入。有報はボート・船外機の販売開始を1960年7月とし、企業の歴史:明治百年はFRP製ボート・船外機の生産開始を昭和35年とする
    • [18]磐田工場は1966年10月に二輪車生産工場として完成
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [17]船外機参入は川上源一社長の多角化ビジョンによる戦略判断

多角化の歩みは舶用にとどまらず、四輪車でも長年の研究開発の成果としてトヨタ自動車と共同開発した"トヨタ2000GT""トヨタ7"を世に送り出し、1968年にはわが国初の雪上車"ヤマハスノーモビル"を発表して"技術のヤマハ"を全世界に印象づけた1960年代後半から1970年代にかけてヤマハの船外機事業は北米市場を中心に成長を遂げ、1970年代には既存の米国メーカーを押しのけて世界市場で有力な地位を獲得し、二輪車とマリンの"二本柱経営"という独自の事業構造が形になった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]四輪車でトヨタ自動車と共同開発した「トヨタ2000GT」「トヨタ7」を発表
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]1968年にわが国初の雪上車ヤマハスノーモビルを発表(有報はスノーモビル販売開始を1968年7月とし、企業の歴史:明治百年は昭和43年発表とする)

船外機やボートには、二輪車のときと違って、売り先となる市場そのものがまだ存在しなかった。1960年に参入した発端は、川上源一社長が欧米のマリーナに並ぶ多数のボートやヨットを目にし、四方を海に囲まれたこの国にもいずれ同じような時代が訪れると見込んだことにある日本楽器製造と組んでFRPの加工技術を開発し、二輪車用のエンジンを改造した船外機をモーターボートに搭載した。売り方の面でも、完成品を流通に流すのではなく、乗る人そのものを増やすところから組み立てる方式をとった。自前で直営マリーナを建設し、第三セクター方式のマリーナにも出資して、船舶免許やヨットの教室を全国で展開した。楽器を売る前に音楽教室を開いた親会社の型を、そのまま海へ移したものである。品目も広げ、1965年に漁船、1968年に和船の販売を始め、1966年には日本楽器の新居工場のボート生産業務を生産設備ごと譲り受けた

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [21]マリン事業進出は、川上源一が欧米のマリーナに立ち並ぶボートやヨットを見て「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と考えたことがきっかけ
    • [22]親会社の日本楽器製造と共同でFRPの加工技術を開発し、二輪車エンジンを改造した船外機を積んでモーターボートに仕立てた
    • [23]自ら市場を広げようと直営マリーナを建設し第3セクターのマリーナにも出資、船舶免許やヨットの教室を全国に展開した。そのやり方はヤマハ音楽教室と同じだった
    • [24]自ら市場を開拓してシェアとブランド力を高めるマリン事業の売り方は、母体であるヤマハの「ヤマハ音楽教室」と同じ型だった
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1965年5月 漁船の販売を開始、1966年3月 日本楽器製造新居工場のボート生産業務を生産設備と共に譲り受け新居工場としてボート生産を開始、1968年4月 和船の販売を開始
参考文献[16]-[25]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [16]1960年(7月)マリン事業に新規参入。有報はボート・船外機の販売開始を1960年7月とし、企業の歴史:明治百年はFRP製ボート・船外機の生産開始を昭和35年とする
    • [18]磐田工場は1966年10月に二輪車生産工場として完成
    • [20]1968年にわが国初の雪上車ヤマハスノーモビルを発表(有報はスノーモビル販売開始を1968年7月とし、企業の歴史:明治百年は昭和43年発表とする)
    • [25]1965年5月 漁船の販売を開始、1966年3月 日本楽器製造新居工場のボート生産業務を生産設備と共に譲り受け新居工場としてボート生産を開始、1968年4月 和船の販売を開始
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [17]船外機参入は川上源一社長の多角化ビジョンによる戦略判断
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]四輪車でトヨタ自動車と共同開発した「トヨタ2000GT」「トヨタ7」を発表
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [21]マリン事業進出は、川上源一が欧米のマリーナに立ち並ぶボートやヨットを見て「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と考えたことがきっかけ
    • [22]親会社の日本楽器製造と共同でFRPの加工技術を開発し、二輪車エンジンを改造した船外機を積んでモーターボートに仕立てた
    • [23]自ら市場を広げようと直営マリーナを建設し第3セクターのマリーナにも出資、船舶免許やヨットの教室を全国に展開した。そのやり方はヤマハ音楽教室と同じだった
    • [24]自ら市場を開拓してシェアとブランド力を高めるマリン事業の売り方は、母体であるヤマハの「ヤマハ音楽教室」と同じ型だった

1962年〜無配転落から立て直した輸出主導の事業構造

東京証券取引所第一部への上場は1961年9月だが、その直後から業績は崩れた。1961年4月期に193億円だった売上高は1962年4月期に170億円、1963年4月期には148億円まで落ち、当期純利益は3億7,000万円から7,000万円へ縮んだ。配当率は年2%から1%へ下がり、1962年10月期には株主への配当が消えた。要因は、1960年4月に生産を始めた第一種原動機付自転車ヤマハモペットの不振だった。スクーターの販売実績は1961年4月期の1,013台から1962年4月期には6台へ落ちている。株価も1961年の高値2,255円から1962年には安値850円まで下げた。のちに川上源一氏は、夜眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけだと語っている

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1961年9月 東京証券取引所第一部に新規上場(ダイヤモンド会社産業総覧は上場開始を昭和36年9月18日東京とする)
  • 会社年鑑
    • [27]売上高は1961年4月期193億円、1962年4月期170.6億円、1963年4月期148.2億円。当期純利益は1961年4月期3.7億円、1963年4月期0.7億円(いずれも単体)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [28]配当率は年2.0%から1.0%へ低下し、1962年10月期は株主配当金の計上なし
    • [29]1960年4月 第一種原動機付自転車ヤマハモペットMF1 50ccの生産を開始
    • [30]スクーターの販売実績は1961年4月期1,013台、1962年4月期6台
    • [31]株価は1961年中の高値2,255円に対し1962年中の安値850円
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
    • [32]川上源一は『夜、眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけ(昭和35年)』と述べた

立て直しの手は、新しい市場を探すことではなく、持っているエンジンを載せる先を増やすことだった。1965年に漁船、1968年にスノーモビル、1969年に汎用エンジン、1973年に発電機、1975年にゴルフカーと、小型エンジンを核にした品目が数年おきに加わっていく。作る場所と売る場所も国内に置いたままにせず、1968年に欧州、1970年にブラジル、1974年にインドネシアへ現地法人を設け、需要のある土地の近くへ販売と生産を寄せた。売上高は1965年4月期に245億円だったものが、1970年4月期に526億円、1975年4月期には1,767億円となった。二輪車を量産する拠点となったのは、1966年10月に完成した磐田工場である。1972年2月には本社も浜松市から磐田市へ移した。社長の小池久雄氏は、オートバイと雪上車に続く輸出の柱としてボートと船外機を育てる意向を示していた

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [33]1965年5月 漁船、1968年7月 スノーモビル、1969年8月 汎用エンジン、1973年6月 発電機、1975年4月 ゴルフカーの販売をそれぞれ開始
    • [34]1968年10月 Yamaha Motor Europe N.V.、1970年11月 Yamaha Motor do Brasil Ltda.、1974年7月 PT.Yamaha Indonesia Motor Manufacturingを設立
    • [36]1966年10月 静岡県磐田市に二輪車生産工場として磐田工場が完成、1972年2月 静岡県磐田市に本社を移転
  • 会社年鑑
    • [35]単体売上高は1965年4月期245億円、1970年4月期526億円、1975年4月期1,767億円
  • 野田経済 1974年
    • [37]小池久雄社長は主力商品をモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルとし、オートバイ・雪上車に次いでボート・船外機も輸出商品として伸ばす考えを示した

1974年にヤマハ発動機の社長を務めていた小池久雄氏は、1938年に静岡県立袋井商業を出て日本楽器製造に入り、東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として移り、取締役・常務・専務を歴任して社長に就いた人物である。この時点で年間の売上構成は国内22%に対し輸出78%に達していた。小池氏はこの比率の高さを問題として扱わず『輸出比率が高いという問題は考えたこともないし、それはそれでいいと思っています』、作る製品のすべてを品質で国際水準に上げれば世界のどこでも売れると述べた。同時に、技術力が国際水準に届いてもコストが高くては意味がないとして、技術とコストの双方を国際水準へ引き下げることを条件に置いた。情勢の変化が激しいときは少なくとも五年先を見通して現在の意思決定を行わねばならない、というのが判断の立て方だったこの考えは、需要に応じて海外のどこにでも工場を置けるという見通しへ続いていた。

  • 野田経済 1974年
    • [38]小池久雄は大正10年2月生まれ、静岡県出身。昭和13年 静岡県立袋井商業を卒業し日本楽器製造へ入社、同社東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として入社、取締役・常務取締役・専務を経て代表取締役社長に就任
    • [39]主力商品はモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルで、年間の売上げ構成は国内22%・輸出78%
    • [40]小池久雄は『作る全製品が品質絶対で、より良い国際的な商品なら、日本はもちろん世界の何処でも誰にでも売れます』と述べた
    • [41]小池久雄は『いかに技術力が国際水準に向上してもコストが高くては、なにもならない』とし、技術の国際水準化とコストの国際レベルへの低減を並べた
    • [42]小池久雄は『最近のように情勢変化の激しい時には、少なくとも五年先きの現象状態を見通して、現在の意志決定を行なわねばならない』と述べた
参考文献[26]-[42]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1961年9月 東京証券取引所第一部に新規上場(ダイヤモンド会社産業総覧は上場開始を昭和36年9月18日東京とする)
    • [33]1965年5月 漁船、1968年7月 スノーモビル、1969年8月 汎用エンジン、1973年6月 発電機、1975年4月 ゴルフカーの販売をそれぞれ開始
    • [34]1968年10月 Yamaha Motor Europe N.V.、1970年11月 Yamaha Motor do Brasil Ltda.、1974年7月 PT.Yamaha Indonesia Motor Manufacturingを設立
    • [36]1966年10月 静岡県磐田市に二輪車生産工場として磐田工場が完成、1972年2月 静岡県磐田市に本社を移転
  • 会社年鑑
    • [27]売上高は1961年4月期193億円、1962年4月期170.6億円、1963年4月期148.2億円。当期純利益は1961年4月期3.7億円、1963年4月期0.7億円(いずれも単体)
    • [35]単体売上高は1965年4月期245億円、1970年4月期526億円、1975年4月期1,767億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [28]配当率は年2.0%から1.0%へ低下し、1962年10月期は株主配当金の計上なし
    • [29]1960年4月 第一種原動機付自転車ヤマハモペットMF1 50ccの生産を開始
    • [30]スクーターの販売実績は1961年4月期1,013台、1962年4月期6台
    • [31]株価は1961年中の高値2,255円に対し1962年中の安値850円
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
    • [32]川上源一は『夜、眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけ(昭和35年)』と述べた
  • 野田経済 1974年
    • [37]小池久雄社長は主力商品をモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルとし、オートバイ・雪上車に次いでボート・船外機も輸出商品として伸ばす考えを示した
    • [38]小池久雄は大正10年2月生まれ、静岡県出身。昭和13年 静岡県立袋井商業を卒業し日本楽器製造へ入社、同社東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として入社、取締役・常務取締役・専務を経て代表取締役社長に就任
    • [39]主力商品はモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルで、年間の売上げ構成は国内22%・輸出78%
    • [40]小池久雄は『作る全製品が品質絶対で、より良い国際的な商品なら、日本はもちろん世界の何処でも誰にでも売れます』と述べた
    • [41]小池久雄は『いかに技術力が国際水準に向上してもコストが高くては、なにもならない』とし、技術の国際水準化とコストの国際レベルへの低減を並べた
    • [42]小池久雄は『最近のように情勢変化の激しい時には、少なくとも五年先きの現象状態を見通して、現在の意志決定を行なわねばならない』と述べた

第2章 1977年〜 増産競争の清算と縮小再建HY戦争の過剰在庫から米国現地生産への転換

筆者考察y.sugiura, author

1980年代前半のヤマハ発動機は、自分で組み上げた構造を自分で崩した。輸出比率60%台、約30か国の海外工場、二輪車で世界第2位という位置は、二輪車以外の柱を増やしてきた20年の産物である。その位置にいながら、国内シェアの首位を本田技研工業から取りに行った。週に1車種という頻度で新型を出し、売上高は1982年4月期に5,158億円まで膨らむ。だが伸びていたのは売れた台数ではなく作った台数だった。相手が同じ規模で反撃すれば、差は在庫として残る。1983年4月期の最終赤字106億円は、その差が帳簿の表へ出た数字である。

江口秀人社長が選んだのは、規模を取り戻すことではなく、規模を先に捨てることだった。年産350万台を150万台以下へ落とし、使わない機械には縄を張って休止を目に見える形にし、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出す。決算の見栄えは最悪になるが、翌期以降の損益分岐点は下がる。同時に、収益の柱を二輪車の外へ散らす作業が始まった。産業用ロボット、サーフェスマウンター、産業用無人ヘリコプター。エンジンを載せない製品が並び始めたのは、二輪車の一本足では同じことがもう一度起きると分かったからである。円高で採算が削られれば、作る場所を米国へ移す。この十年でヤマハ発動機が身につけたのは、伸ばし方ではなく縮め方だった。

売上高(単体・4月期) 1977年〜1984年(億円)

2,204 1977 2,903 1978 2,740 1979 3,384 1980 4,280 1981 5,158 1982 4,199 1983 3,288 1984
  • 出所は会社年鑑(単体)。連結決算の開示は1989年3月期から始まるため、この図は単体で揃えた。
  • 1982年4月期の5,158億円が増産期の頂点、1984年4月期の3,288億円が縮小再建後の水準にあたる。

1977年〜世界第2位への到達と資本・技術集約企業への転換方針

1977年1月、ヤマハ発動機は米国に販売会社Yamaha Motor Corporation, U.S.A.を設立した。翌1978年には除雪機の販売も始めている。この時期の姿は、創立25周年に当たる1980年の記録に残っている。二輪車で世界第2位、舟艇部門では国内首位、船外機と雪上車を含めて輸送機器に特化し、約30か国に海外工場を持ち、輸出比率は60%台に達していた。売上高は1977年4月期の2,204億円から1980年4月期には3,384億円へ、経常利益は75億円から143億円へ伸びた。国内で作って世界へ運ぶ形から、需要のある土地の近くで作る形へ、生産の置き場所そのものが動き始めていた。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [43]1977年1月 Yamaha Motor Corporation, U.S.A.(連結子会社)を設立
    • [44]1978年10月 除雪機の販売を開始
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [45]1980年はヤマハ発動機の創立25周年に当たる年
    • [46]1980年時点で世界第2位の二輪車メーカー。日本一の舟艇部門、船外機、雪上車など輸送機器に特化し、約30カ国に海外工場をもち、輸出比率は60%台
  • 会社年鑑
    • [47]単体売上高は1977年4月期2,204億円、1980年4月期3,384億円。経常利益は1977年4月期75.7億円、1980年4月期143.1億円

石油不安からのインフレが続けばコストが膨らみ、円高に振れれば輸出が落ち込むので、どちらになっても苦しい立場にあると小池久雄社長は読んでいた。1980年の年頭、社長は足元の浮揚感について、情勢の移り変わりがもたらした一時のものにすぎないと言い切っている。そのうえで打ち出したのが、労働集約型の体質を早く抜け出し、資本と技術を集約した企業へ移るという方針である。人の力を機械と設備へ置き換えてシステム化を図り、空いた人の能力を新しい商品の企画・開発・生産・販売へ振り向ける。モーターサイクルについては、現有能力のまま生産性を30%高めてコスト面の国際競争力をつけ、そのうえで高付加価値化を図ることを一つの目安に置いた。1980年4月期の経常利益143億円は前期の72億円から倍近く戻っており、余力のあるうちに体質を組み替える構えであった

  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [48]小池久雄は『このままいけばインフレによるコストアップに,また,円高となれば輸出の低迷にそれぞれ苦しむことになります』と述べた
    • [49]小池久雄は1980年の年頭所感で『現在,当社は浮上感を得ていますが,これは状況の変化による一時的なものに過ぎません』と述べた
    • [50]小池久雄は『労働集約的体質から早く脱皮し,資本・技術集約企業へと転換しなければなりません』と述べた
    • [51]小池久雄は『人の力は機械・設備に置き換えてシステム化を図りながら,人の能力を新しい商品の企画,開発,生産,販売に振り向けていく必要に迫られています』と述べた
    • [52]小池久雄は『モーターサイクルは現有能力で30%生産性を高め,コスト面で国際競争力をつけ,さらに,高付加価値化を図ることが一つのメド』と述べた
  • 会社年鑑
    • [53]単体経常利益は1979年4月期72.5億円、1980年4月期143.1億円

体質の改革より先に動いたのは、数量だった。1980年代の前半、ヤマハ発動機は首位の本田技研工業に対して新型車を相次いで投入する乱売合戦を仕掛けた。会長の川上源一氏は後年、小池社長に対し、本田技研を刺激せず、本田技研が手がけない商売をせよと機会あるごとに言い続けてきたと語っている。船外機やボートの開発も、本田技研と競合しない製品であることを前提にしていた。ところが売上高を1981年4月期の4,280億円から1982年4月期の5,158億円へと二期で2割以上伸ばしたこの攻勢は、社内で一致した方針のもとにあったわけではない。二輪車の国内シェアを真正面から奪い合う消耗戦に入ったことで、その前提は崩れた。

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [54]1980年代前半、ヤマハ発動機はトップメーカーの本田技研工業に熾烈な乱売合戦を仕掛けた(HY戦争)
  • Decide 1985年
    • [55]川上源一は『私は折にふれて小池に「ホンダを刺激しないように、ホンダがやらない商売をやれ」ということを口を酸っぱくして言ってきた』と述べた
    • [56]川上源一は船外機・ボートについて『すべて、ホンダとぶつからないものを、という前提でやってきた』と述べた
  • 会社年鑑
    • [57]単体売上高は1981年4月期4,280億円、1982年4月期5,158億円
参考文献[43]-[57]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [43]1977年1月 Yamaha Motor Corporation, U.S.A.(連結子会社)を設立
    • [44]1978年10月 除雪機の販売を開始
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [45]1980年はヤマハ発動機の創立25周年に当たる年
    • [46]1980年時点で世界第2位の二輪車メーカー。日本一の舟艇部門、船外機、雪上車など輸送機器に特化し、約30カ国に海外工場をもち、輸出比率は60%台
    • [48]小池久雄は『このままいけばインフレによるコストアップに,また,円高となれば輸出の低迷にそれぞれ苦しむことになります』と述べた
    • [49]小池久雄は1980年の年頭所感で『現在,当社は浮上感を得ていますが,これは状況の変化による一時的なものに過ぎません』と述べた
    • [50]小池久雄は『労働集約的体質から早く脱皮し,資本・技術集約企業へと転換しなければなりません』と述べた
    • [51]小池久雄は『人の力は機械・設備に置き換えてシステム化を図りながら,人の能力を新しい商品の企画,開発,生産,販売に振り向けていく必要に迫られています』と述べた
    • [52]小池久雄は『モーターサイクルは現有能力で30%生産性を高め,コスト面で国際競争力をつけ,さらに,高付加価値化を図ることが一つのメド』と述べた
  • 会社年鑑
    • [47]単体売上高は1977年4月期2,204億円、1980年4月期3,384億円。経常利益は1977年4月期75.7億円、1980年4月期143.1億円
    • [53]単体経常利益は1979年4月期72.5億円、1980年4月期143.1億円
    • [57]単体売上高は1981年4月期4,280億円、1982年4月期5,158億円
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [54]1980年代前半、ヤマハ発動機はトップメーカーの本田技研工業に熾烈な乱売合戦を仕掛けた(HY戦争)
  • Decide 1985年
    • [55]川上源一は『私は折にふれて小池に「ホンダを刺激しないように、ホンダがやらない商売をやれ」ということを口を酸っぱくして言ってきた』と述べた
    • [56]川上源一は船外機・ボートについて『すべて、ホンダとぶつからないものを、という前提でやってきた』と述べた

1983年〜年産半減と一括処理による縮小再建

増産の反動は決算に現れた。1983年4月期の売上高は前期の5,158億円から4,199億円へ落ち、経常利益は149億円から2億円へ、最終損益は106億円の赤字となった。翌1984年4月期はさらに深く、売上高3,288億円に対し経常損失197億円、最終赤字350億円である。川上源一会長がヤマハ発動機の異変に気づいた時点で、借入金は3,000億円に達していた。市場では、ヤマハがオートバイ部門を売り渡すのではないかという観測まで出た。売れ残った車両が在庫として積み上がり、稼働しない設備が損失を抱えたまま帳簿に残っていた。数量で首位に並ぼうとした攻勢が、相手の反撃余力を読み違えたまま過剰在庫へ行き着いたことになる。

  • 会社年鑑
    • [58]単体で1983年4月期は売上高4,199億円、経常利益2.1億円、当期純損失106億円。前期1982年4月期は売上高5,158億円、経常利益149億円
    • [59]単体で1984年4月期は売上高3,288億円、経常損失197億円、当期純損失350億円
  • Decide 1985年
    • [60]川上源一は『ヤマハ発動機がおかしいぞ、と気がついた時点で、借入金が3000億円、赤字が350億円という大変な事態にたち至っていた』と述べた
    • [61]最悪期には『ヤマハはオートバイ部門を売り渡すんじゃないか』という声が高まるほどの危機感に包まれ、会社売却説まで出た

1983年8月、江口秀人氏がヤマハ発動機の社長に就任した。1927年に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を出て日本楽器製造に入り、1968年からヤマハ発動機の取締役を務めてきた人物である。江口社長が選んだのは、損失を数期に分けて薄める道ではなかった。年産350万台の生産体制を一気に150万台以下へ縮め、使わない機械には縄を張って休止を目に見える形にし、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出した。川上会長も、少しでも軽く見せようと粉飾すれば役員の刑事責任を問われかねないとして、あるがままを決算に出したうえで再建計画を作る方針を取ったと述べている。その処理の結果が、1984年4月期の350億円の最終赤字であった

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [62]江口秀人は1983年8月にヤマハ発動機社長に就任
    • [63]江口秀人は1927年2月東京都生まれ。1953年3月 東京大学経済学部卒業、日本楽器製造(ヤマハ)入社。1968年6月 ヤマハ発動機取締役就任
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
    • [64]江口秀人社長は年産350万台の生産体制を150万台以下へ半減し、使わない機械に縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度に一括処理した
  • Decide 1985年
    • [65]川上源一は『少しでも軽く見せようと粉飾なんかしたら役員の刑事責任を問われることにもなりかねない。だからあるがままをキチッと決算に出して、その上に立って再建計画を作っていこうじゃないか、ということでスタートした』と述べた
  • 会社年鑑
    • [66]単体で1984年4月期の当期純損失は350億円

再建の中身は、単純な作業の積み重ねだった。まず、ひどいときには週に1車種という頻度に達していたモデルチェンジを止め、50cc・100cc・250ccといった排気量の区分ごとに1車種へ絞って売る形へ戻した。積み上がった在庫は圧縮して現金に換え、借入金のうち1,000億円を返済にあてた。1985年4月期、業績は黒字に戻った。ただ2,000億円の借入金は手つかずで残った。この間には人員の整理にも踏み切っている。川上会長によれば、それをやり遂げられたのは、江口社長が組合と話し合いを尽くしたためだった。目標も据え直され、首位の奪回ではなく、シェアが高くなくても着実に利益の出る体制づくりが掲げられた。十年に及んだ再建を江口社長はのちに振り返り、社内の風通しが良くなり、労働組合との溝もなくなったと語っている

  • Decide 1985年
    • [67]川上源一は『バカバカしいモデルチェンジのラッシュはすぐやめろ』『車種もせいぜい1ランク、つまり50ccなら50cc、100cc、250cc……に1車種ずつに集中して売っていこう』と指示したと述べた。HY戦争の佳境にはひどい時は1週間に1車種の割合で新車種が誕生していた
    • [68]川上源一は『1000億円返しました。これは過剰在庫を圧縮する形で返済にあてていった』と述べた
    • [69]川上源一は1985年4月末の決算で黒字が出るところまで来たとし、なお2,000億円の借入金が残っていると述べた
    • [70]川上源一は再建で最も功を奏した点として江口社長の人柄を挙げ『だから、人員整理もやれたんですよ。彼は組合の人たちと、トコトン誠意をもって話し合いました』と述べた
    • [71]川上源一は『占拠率が高くなくても確実に採算のとれる体制を作ろうじゃないか、ということを訴えた』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [72]江口秀人は1992年時点で『発動機は再建に取り組んでから既に10年。その間に社内の風通しはよくなり、労働組合との隔たりもなくなった』と述べた
参考文献[58]-[72]
  • 会社年鑑
    • [58]単体で1983年4月期は売上高4,199億円、経常利益2.1億円、当期純損失106億円。前期1982年4月期は売上高5,158億円、経常利益149億円
    • [59]単体で1984年4月期は売上高3,288億円、経常損失197億円、当期純損失350億円
    • [66]単体で1984年4月期の当期純損失は350億円
  • Decide 1985年
    • [60]川上源一は『ヤマハ発動機がおかしいぞ、と気がついた時点で、借入金が3000億円、赤字が350億円という大変な事態にたち至っていた』と述べた
    • [61]最悪期には『ヤマハはオートバイ部門を売り渡すんじゃないか』という声が高まるほどの危機感に包まれ、会社売却説まで出た
    • [65]川上源一は『少しでも軽く見せようと粉飾なんかしたら役員の刑事責任を問われることにもなりかねない。だからあるがままをキチッと決算に出して、その上に立って再建計画を作っていこうじゃないか、ということでスタートした』と述べた
    • [67]川上源一は『バカバカしいモデルチェンジのラッシュはすぐやめろ』『車種もせいぜい1ランク、つまり50ccなら50cc、100cc、250cc……に1車種ずつに集中して売っていこう』と指示したと述べた。HY戦争の佳境にはひどい時は1週間に1車種の割合で新車種が誕生していた
    • [68]川上源一は『1000億円返しました。これは過剰在庫を圧縮する形で返済にあてていった』と述べた
    • [69]川上源一は1985年4月末の決算で黒字が出るところまで来たとし、なお2,000億円の借入金が残っていると述べた
    • [70]川上源一は再建で最も功を奏した点として江口社長の人柄を挙げ『だから、人員整理もやれたんですよ。彼は組合の人たちと、トコトン誠意をもって話し合いました』と述べた
    • [71]川上源一は『占拠率が高くなくても確実に採算のとれる体制を作ろうじゃないか、ということを訴えた』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [62]江口秀人は1983年8月にヤマハ発動機社長に就任
    • [63]江口秀人は1927年2月東京都生まれ。1953年3月 東京大学経済学部卒業、日本楽器製造(ヤマハ)入社。1968年6月 ヤマハ発動機取締役就任
    • [72]江口秀人は1992年時点で『発動機は再建に取り組んでから既に10年。その間に社内の風通しはよくなり、労働組合との隔たりもなくなった』と述べた
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
    • [64]江口秀人社長は年産350万台の生産体制を150万台以下へ半減し、使わない機械に縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度に一括処理した

1984年〜二輪車以外への収益源の分散と現地生産への移行

赤字の底で始めたのは、二輪車以外の収益源を増やす作業だった。1984年2月、ヤマハ発動機は四輪バギーと産業用ロボットの販売を同時に始めている。産業用ロボットは、エンジンを載せない初めての製品系列である。1986年11月にウォータービークル、1987年1月に電子部品を基板へ装着するサーフェスマウンター、1989年12月に産業用無人ヘリコプターが続いた。川上源一会長は1985年の時点で、売上の半分がすでにオートバイ以外の商品で占められ、スノーモビルや船外機がかなり好調だと述べている。二輪車だけで血道を上げなくてよければ、同じ消耗戦を二度繰り返す必要もない、というのがその含意だった。無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ、評判を得た

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [73]1984年2月 四輪バギーの販売を開始、同じく1984年2月 産業用ロボットの販売を開始
    • [74]1986年11月 ウォータービークル、1987年1月 サーフェスマウンター、1989年12月 産業用無人ヘリコプターの販売をそれぞれ開始
  • Decide 1985年
    • [75]川上源一は『ヤマハ発動機の全体の売り上げの半分が、オートバイ以外の商品で占められてきた』『スノーモービルとかモーターボートの船外機といったやつがかなり好調』と述べた
    • [76]川上源一は『オートバイだけで血道をあげなくてもいいわけですから、あの(HY戦争)のようなバカげたことを2度も繰り返す必要はない』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [77]ヤマハ発動機のリモコン式無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ評判を得た

輸出の比率が高い会社にとって、円高は売値を動かさないまま採算だけを削っていく。1980年代後半に入ると、この円高に50cc以下の二輪車へのヘルメット着用義務化が重なり、二輪車の需要は戻らず、事業にも持ち直しの兆しは出なかった。打った手は、生産の拠点を需要のある地域へ移すことである。1986年10月、ヤマハ発動機は米国に生産子会社Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設け、ジョージア州で現地生産に乗り出した。同年12月には台湾山葉機車工業股份有限公司も設けている。1989年の時点で、本田技研工業との競争で会社売却説まで出た危機から脱し、米国で現地生産する段階まで復したと評され、アトランタ工場は順調な立ち上がりを見せていた。連結売上高は1989年3月期の5,226億円から1991年3月期には6,927億円へ伸びた

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [78]1980年代後半に入っても、50cc以下の二輪車のヘルメット着用義務化や円高の影響で二輪車事業に回復の兆しは見えなかった
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [79]1986年10月 Yamaha Motor Manufacturing Corporation of America(連結子会社)を設立
    • [80]1986年12月 台湾山葉機車工業股份有限公司(連結子会社)を設立
  • Decide 1989年
    • [81]1989年時点で『本田技研との二輪車戦争に敗れて、会社売却説まで出る経営危機に陥ったことがある。その危機から脱し、米国で現地生産しようというところまで復活してきた』とされ、アトランタ工場は順調なスタートを切ったと報じられた
  • 会社年鑑
    • [82]連結売上高は1989年3月期5,226億円、1991年3月期6,927億円

1980年代を通じて二輪車の販売の重心は国内から海外へ移っていき、国内市場は長い縮小期に入った。高校生に二輪車の運転も免許取得も認めない「三ない運動」が広がり、若いうちに乗らなかった人々は、その後になって改めて免許を取ろうとはしなかった。江口秀人社長は、オートバイ市場の拡大は二度起こると整理していた。一度目は経済発展の初期で、実用の足として売れる時期にあたり、国民一人あたりの所得がおよそ数百ドルになるのがその目安である。次は所得水準が十分上がった欧米や日本で、暮らしにゆとりのできた層が趣味の対象として大型車を求め始める。数の上で大きくさばけるのは発展途上国が圧倒的で、そこが成長の源泉となる。こうして十年のうちに、売上でも利益でも海外が国内をしのぐ形が定まった台湾と米国に置いた生産会社は、その重心の移動を設備の形で追認する布石だった。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [83]江口秀人は日本のオートバイ市場が長期的に縮小傾向にあるとし、その原因として高校生に二輪車を乗せず免許も取らせない『3ない運動』を挙げた
    • [84]江口秀人は『オートバイというのは市場の拡大期が二度あるんです。一度目は経済発展の初期の段階で、実用品としてのオートバイが売れる。一人当たり国民所得が数百ドルというのが、市場拡大期を迎える目安となります』と述べた
    • [85]江口秀人は『さらに、経済発展を遂げた後で、今度は大型のオートバイが売れるようになる。生活に余裕ができて、趣味としてオートバイを楽しむ人が出てくるためです。欧米先進国や日本がこの姿』と述べた
    • [86]江口秀人は『量がさばけるのは圧倒的に途上国です』と述べた
    • [87]江口秀人は『オートバイ事業の成長の源泉は国内ではなく、海外に移った。売り上げだけでなく、利益への貢献度も海外の方が国内よりも上です』と述べた
参考文献[73]-[87]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [73]1984年2月 四輪バギーの販売を開始、同じく1984年2月 産業用ロボットの販売を開始
    • [74]1986年11月 ウォータービークル、1987年1月 サーフェスマウンター、1989年12月 産業用無人ヘリコプターの販売をそれぞれ開始
    • [79]1986年10月 Yamaha Motor Manufacturing Corporation of America(連結子会社)を設立
    • [80]1986年12月 台湾山葉機車工業股份有限公司(連結子会社)を設立
  • Decide 1985年
    • [75]川上源一は『ヤマハ発動機の全体の売り上げの半分が、オートバイ以外の商品で占められてきた』『スノーモービルとかモーターボートの船外機といったやつがかなり好調』と述べた
    • [76]川上源一は『オートバイだけで血道をあげなくてもいいわけですから、あの(HY戦争)のようなバカげたことを2度も繰り返す必要はない』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [77]ヤマハ発動機のリモコン式無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ評判を得た
    • [83]江口秀人は日本のオートバイ市場が長期的に縮小傾向にあるとし、その原因として高校生に二輪車を乗せず免許も取らせない『3ない運動』を挙げた
    • [84]江口秀人は『オートバイというのは市場の拡大期が二度あるんです。一度目は経済発展の初期の段階で、実用品としてのオートバイが売れる。一人当たり国民所得が数百ドルというのが、市場拡大期を迎える目安となります』と述べた
    • [85]江口秀人は『さらに、経済発展を遂げた後で、今度は大型のオートバイが売れるようになる。生活に余裕ができて、趣味としてオートバイを楽しむ人が出てくるためです。欧米先進国や日本がこの姿』と述べた
    • [86]江口秀人は『量がさばけるのは圧倒的に途上国です』と述べた
    • [87]江口秀人は『オートバイ事業の成長の源泉は国内ではなく、海外に移った。売り上げだけでなく、利益への貢献度も海外の方が国内よりも上です』と述べた
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [78]1980年代後半に入っても、50cc以下の二輪車のヘルメット着用義務化や円高の影響で二輪車事業に回復の兆しは見えなかった
  • Decide 1989年
    • [81]1989年時点で『本田技研との二輪車戦争に敗れて、会社売却説まで出る経営危機に陥ったことがある。その危機から脱し、米国で現地生産しようというところまで復活してきた』とされ、アトランタ工場は順調なスタートを切ったと報じられた
  • 会社年鑑
    • [82]連結売上高は1989年3月期5,226億円、1991年3月期6,927億円

第3章 1992-2008 (気が向いたら執筆します!) ヤマハとの合併説の否定、国内販社統合とマリン構造改革、トヨタとの提携

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) リーマン後の赤字と構造改革、四輪参入の凍結と新川買収によるロボティクス再編

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歴史年表 1955〜2025年

ヤマハ発動機の沿革1955〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1955〜1976年日本楽器からの分離独立とマリン事業への多角化ヤマハ発動機を設立
北川自動車に資本参加
昌和製作所に資本参加
マリン事業に新規参入★★
東京証券取引所に株式上場
販売不振で減収★★
磐田工場を新設
海外拠点の拡充
船外機でマーキュリー社と合弁契約を締結
1977〜1991年増産競争の清算と縮小再建Yamaha Motor Corporation, U.S.Aを設立
敗北の代償として受け入れた、年産半減までの縮小再建

1983年、ホンダとの国内シェア争い"HY戦争"で過剰生産に陥り戦後初の営業赤字に沈んだヤマハ発動機が、同年8月に就任した江口秀人社長のもとで、二輪車の年産規模を350万台から150万台以下へ半減し、不稼働設備の隠れ損失を初年度に一括処理した再建計画。

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★★★
産業用ロボットに新規参入
Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設立
フォード向け自動車エンジンの製造を開始
1992〜2008年ヤマハとの合併説の否定、国内販社統合とマリン構造改革、トヨタとの提携親会社への吸収観測を退けての経営の独立維持

1992年12月、ヤマハ発動機の江口秀人社長が、親会社ヤマハ(旧・日本楽器製造)との合併観測を否定し、独立経営を守る考えを示した判断。江口氏はこの年2月から親会社ヤマハの会長を兼ね、二つのヤマハを同時に率いる立場にありながら、合併より先に各社の事業の立て直しを優先した。

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★★★
梶川隆Yamaha Motor Vietnamを設立
梶川隆国内4販社を統合
梶川隆広げすぎた事業の整理と、船外機を軸に据えた資源の集中

1998年9月、ヤマハ発動機が、創業以来赤字を垂れ流してきたマリン(舟艇)事業の構造改革を発表した経営判断。国内のボート製造工場を5から3へ集約し、志度工場(香川県)を閉鎖、ボート製造の面積と人員を半減する一方、需要が伸びる船外機へ資源を集中した。長谷川武彦社長の主導による。

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★★★
梶川隆トヨタ自動車と業務提携を締結
梶川隆決算期を3月31日から12月31日に変更
梶川隆Yamaha Motor Philippines を設立
梶川隆ヤマハマリン袋井工場を新設
2009〜2026年リーマン後の赤字と構造改革、四輪参入の凍結と新川買収によるロボティクス再編梶川隆リーマン後の構造改革と損益分岐点型経営への転換

2008年秋のリーマンショックで先進国の二輪車と北米の船外機の需要が急減し、2009年12月期に戦後2度目の営業赤字と2,161億円の最終赤字を計上したヤマハ発動機が、2010年3月に就任した柳弘之社長のもとで、工場再編・希望退職・在庫の圧縮を進め、損益分岐点を下げる経営へ転換した再建。

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★★★
柳弘之四輪車に参入(凍結)★★
柳弘之浜松ロボティスク事務所を開設
日髙祥博新川・アピックヤマダを買収
日髙祥博創業地・国内二輪生産の本社工場への集約

2021年2月12日、創業の地である浜北工場(浜松市)と中瀬工場の二輪車生産機能を磐田市の本社工場へ集約し、浜北工場を移管完了後に閉鎖・売却する方針を、2020年12月期決算とあわせて発表した。 移管の対象となった浜北工場は、2020年12月末時点で従業員540人、土地面積115,464㎡、帳簿価額8,315百万円。中瀬工場は従業員139人、帳簿価額1,580百万円で、いずれもランドモビリティ事業の輸送用機器部品を製造していた。

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★★★
設楽元文ヤマハロボティクスHDが新川等を吸収合併・商号変更★★
設楽元文シルチェスターが株式追加を取得
設楽元文汎用エンジン事業・発電機事業から撤退★★
出典・参考 14件
出典・参考
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
  • 野田経済 1974年
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
  • Decide 1985年
  • Decide 1989年

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