二輪車への進出は、まず母体である日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)が1954年にオートバイ部門へ乗り出し125ccの生産に着手したこと[1]に始まる。当時の日本楽器には戦時中の軍需用プロペラ製造拠点として政府の指示のもと大量導入されていた約1,000台規模の工作機械群[2]が、終戦後の民需転換期に遊休資産として残されており、楽器製造だけでは活用しきれない生産設備の有効な転用策を模索することが経営陣の喫緊の課題だった。1955年2月に最初の125cc車『YA-1』を市販したのち[3]、同年7月1日に二輪車製造部門を資本金3,000万円で分離独立させる形で[4]、ヤマハ発動機株式会社が静岡県浜松市に設立された[5]。[6]初代社長に就いた川上源一氏は日本楽器の社長を兼任しつつ新会社の経営にあたり[7]、このYA-1を皮切りに本格的な二輪車事業への参入を果たした。
ワンタッチでスタートするYA-1は『赤トンボ』の愛称で親しまれ、不況にあえぐ業界を尻目に走りまわった[8]。当時の二輪車業界は30数社がしのぎをけずる乱立時代で、新しいメーカーの参入は非常に困難視されていたが、あえて進出したのは、常に新分野を開拓せずにはいられないフロンティア精神と、高度な技術を生命力とする『ヤマハ』の企業方針[9]からであった。参入後のヤマハは技術と販売の両面で業界をリードし、1957年にはオートバイで初のグッドデザイン(Gマーク)を受賞、1958年には日本製オートバイ初の海外遠征で初入賞を果たした[10]。さらに1961年に世界初のロータリーバルブを実用化、1964年には世界にさきがけてオートルーブ機構を開発し[11]、後発ながら『技術のヤマハ』として独自の存在感を示す企業文化を、この時期に形づくった。
1960年、ヤマハ発動機はFRP(強化プラスチック)製のヤマハボートと小型船外機の生産を開始し[12]、二輪車に続く新事業として舶用エンジン事業の立ち上げに入った。二輪車で培った小型エンジン技術を海の上の乗り物である船外機に応用するという発想は、単一事業への依存を避けて事業ポートフォリオを多角化するという川上源一社長の長期経営ビジョンから生まれた戦略判断で[13]、以後のヤマハ発動機の事業構造の基本型を形作る歴史的な原点となった。1966年10月には磐田工場が二輪車生産工場として完成し、この新拠点では[14]二輪車と船外機の両方で大量生産の可能な体制が整備された。
多角化の歩みは舶用にとどまらず、四輪車でも長年の研究開発の成果としてトヨタ自動車と共同開発した『トヨタ2000GT』『トヨタ7』を世に送り出し[15]、1968年にはわが国初の雪上車『ヤマハスノーモビル』を発表して『技術のヤマハ』を全世界に印象づけた[16]。1960年代後半から1970年代にかけてヤマハの船外機事業は北米市場を中心に成長を遂げ、1970年代には既存の米国メーカーを押しのけて世界市場で有力な地位を獲得し、二輪車とマリンの『二本柱経営』という独自の事業構造が形になった。独立系メーカーが事業多角化によって大手とは異なる競争力を築く、浜松の独立系メーカー文化を体現する経営戦略の成功事例とされた。
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|---|---|---|---|---|
| 1955〜1976年日本楽器からの分離独立とマリン事業への多角化 | ヤマハ発動機を設立 | ★ | ||
| 北川自動車に資本参加 | ★ | |||
| 昌和製作所に資本参加 | ★ | |||
| マリン事業に新規参入 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 販売不振で減収 | ★★ | |||
| 磐田工場を新設 | ★ | |||
| 海外拠点の拡充 | ★ | |||
| 船外機でマーキュリー社と合弁契約を締結 | ★ | |||
| 1977〜2008年HY戦争の惨敗と東南アジア展開、多角化の深化 | Yamaha Motor Corporation, U.S.Aを設立 | ★ | ||
| HY戦争の敗北と年産半減の再建計画 1983年、ホンダとの国内シェア争い『HY戦争』で過剰生産に陥り戦後初の営業赤字に沈んだヤマハ発動機が、同年8月に就任した江口秀人社長のもとで、二輪車の年産規模を350万台から150万台以下へ半減し、不稼働設備の隠れ損失を初年度に一括処理した再建計画。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 赤字転落・再建計画を策定 | ★★★ | |||
| 産業用ロボットに新規参入 | ★ | |||
| Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設立 | ★ | |||
| フォード向け自動車エンジンの製造を開始 | ★ | |||
| 親会社ヤマハとの合併観測の否定と経営の独立堅持 1992年12月、ヤマハ発動機の江口秀人社長が、親会社ヤマハ(旧・日本楽器製造)との合併観測を否定し、独立経営を守る考えを日経ビジネスの編集長インタビューで示した判断。江口はこの年2月から親会社ヤマハの会長を兼ね、二つのヤマハを同時に率いる立場にありながら、合併より先に各社の事業を立て直すべきだと述べた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 梶川隆 | Yamaha Motor Vietnamを設立 | ★ | ||
| 梶川隆 | 国内4販社を統合 | ★ | ||
| 梶川隆 | マリン事業の構造改革と船外機への集中 1998年9月、ヤマハ発動機が、創業以来赤字を垂れ流してきたマリン(舟艇)事業の構造改革を発表した経営判断。国内のボート製造工場を5から3へ集約し、志度工場(香川県)を閉鎖、ボート製造の面積と人員を半減する一方、需要が伸びる船外機へ資源を集中した。長谷川武彦社長の主導による。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 梶川隆 | トヨタ自動車と業務提携を締結 | ★ | ||
| 梶川隆 | 決算期を3月31日から12月31日に変更 | ★ | ||
| 梶川隆 | Yamaha Motor Philippines を設立 | ★ | ||
| 梶川隆 | ヤマハマリン袋井工場を新設 | ★ | ||
| 2009〜2023年多角化の再整理と「感動創造企業」の深化 | 梶川隆 | リーマン後の構造改革と損益分岐点型経営への転換 2008年秋のリーマンショックで先進国の二輪車と北米の船外機の需要が急減し、2009年12月期に戦後2度目の営業赤字と2,161億円の最終赤字を計上したヤマハ発動機が、2010年3月に就任した柳弘之社長のもとで、工場再編・希望退職・在庫の圧縮を進め、損益分岐点を下げる経営へ転換した再建。 詳細を読む | ★★★ | |
| 柳弘之 | 四輪車に参入(凍結) | ★★ | ||
| 柳弘之 | 浜松ロボティスク事務所を開設 | ★ | ||
| 日髙祥博 | 新川・アピックヤマダを買収 | ★ | ||
| 日髙祥博 | 創業地・浜北工場の閉鎖と国内二輪生産の本社工場への集約 2021年2月12日、ヤマハ発動機が、創業の地である浜北工場(浜松市)と中瀬工場の二輪車生産機能を磐田市の本社工場へ集約し、浜北工場を移管完了後に閉鎖・売却する方針を、2020年12月期決算とあわせて発表した経営判断。日髙祥博社長の主導による国内二輪生産の構造改革の一環である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 設楽元文 | ヤマハロボティクスHDが新川等を吸収合併・商号変更 | ★★ | ||
| 設楽元文 | シルチェスターが株式追加を取得 | ★ | ||
| 設楽元文 | 汎用エンジン事業・発電機事業から撤退 | ★★ |
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事実根拠:出所(ヤマハ発動機)