ホンダ創業者である本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)氏は、明治39年に静岡県磐田にて生まれた。生家は鍛冶屋を営んでおり、本田宗一郎氏は幼少期から機械を見て育ち、地元の精米屋に取り付けられた発動機(エンジン)に興味を抱いたという。小学2年生の時には浜松連隊に飛来した飛行機を見て感激するなど、機械好きな人物であった。このため、将来は機械に関する職業を希望し、自動車修理工場で働くことを考えていたという。
1922年には東京の自動車修理工場であるアート商会(本郷湯島5丁目)に丁稚奉公し、奉公先である家族の子供の子守りといった下働きをしつつ、自動車修理に関する知見を獲得。翌年に関東大震災が発生したことで東京では自動車が急速に普及し、これらの自動車を修理することでエンジンに関する修理ノウハウを習得した。
1928年にはアート商会からの「のれんわけ」によって、本田宗一郎氏(当時22歳)は「アート商会浜松支店」を設立して独立した。浜松では自動車の修理店は珍しく、修理の評判が高まるにつれて業績を拡大。本田宗一郎氏が25歳の頃には、工員50名を抱えつつ、毎月1000円の利益(現在換算約1,000万円)を確保したという。
このため、この頃の本田宗一郎氏は、芸者遊びなどの浪費を重ねて、浜松では若くして豪遊する人物として知られた。
ところが、アート商会浜松支店では、工員による独立の問題に直面した。浜松市内に自動車修理工場が増えて競合することを快く思わず、本田宗一郎氏は修理業から撤退を決定。代わりに、エンジン部品のピストンリングを製造する会社の設立を決め、1938年に東海精機を設立した。
ところが、ピストンリングの製造には鋳物(ダイガスト)に関する技術が必要であったが、本田宗一郎氏は機械職人であり鋳物に関する知識に不足していた。そこで、本田宗一郎氏は遊びを全て辞め、浜松高等工業学校に通って技術を習得しつつ東海精機の経営に従事した。この結果、約9ヶ月間の開発期間を経て、1937年11月にピストンリングの製造に成功した。
ピストンリングの主な販売先はトヨタ自動車であり、この縁から、1942年にはトヨタ自動車の親会社だった豊田自動織機が東海精機の株式40%を取得。戦時中を通じて、トヨタ系の部品メーカーとして、東海精機は自動車向けをはじめ、船舶、航空機向けのピストンリングの製造に従事した。
しかし、戦時中に発生した三河地震で東海精機の工場が被災たことや、終戦によって軍需を喪失したことを受け、1945年に本田宗一郎氏は東海精機の株式を豊田自動織機に売却。トヨタ系列ではなく、独立した事業を創ることを意図した。
株式の売却によって本田宗一郎氏は45万円の現金を確保した。しかし、終戦後は物資の調達が「ヤミ」が中心であり、露呈すれば逮捕される可能性もあった。このため、すぐに次の事業展開をすることはせず「休業」を宣言。自家用合成酒などを作って過ごしたという。
終戦直後の1946年10月に本田宗一郎氏が浜松市内にて「本田技術研究所」を創業。終戦によって不要になった軍需用途のエンジン(通信機用エンジン)を仕入れて、自転車向けの付属エンジンとして製造販売をを開始した。
創業の時点では、二輪車の製造には取り掛からずエンジンの生産に特化。終戦後の貴重な移動手段として重宝され、エンジンの販売台数は好調に推移した。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1906年 | 生まれ(静岡県磐田郡) | 地元鍛冶屋の長男 |
| 1922年 | アート商会・丁稚奉公 | 自動車修理工場に勤務(東京) |
| 1928年 | アート商会浜松支店・創業 | のれん分けで独立 |
| 1938年 | 東海精機重工業・社長 | ピストンリング生産 |
| 1939年 | アート商会浜松支店を譲渡 | - |
| 1942年 | 東海精機重工業・専務 | 豊田自動織機から出資 |
| 1945年 | 東海精機重工業・退任 | 豊田自動織機へ株式売却 |
| 1948年 | 本田技術研究所・創業 | 個人創業 |
| 1948年 | 本田技研工業・社長 | 法人化により社長就任 |
| 1973年 | 本田技研工業・取締役最高顧問 | 社長退任 |
| 1983年 | 本田技研・終身最高顧問 | 取締役を退任 |
| 1991年 | 逝去 | 84歳にて逝去 |
オートバイを始めたのは戦後です。戦時中はずっとピストンリングの工場をやっておったんだが、終戦になったので、その会社、東海精機という資本金250万くらいの会社だけれども、その会社の株を全部トヨタへ売った。で、僕は社長を辞めて、その売った金で1年間遊んで暮らしたんですよ。というのは、あの当時のことだから、何をやっていいかわからんし、何か仕事をやると言っても、それが直接ヤミにつながるようになる。そんなことでは、しょうがないからね。だから、思い切って遊んだわけですよ。で、昭和21年に本田技術研究所を設立し、さらに23年に、それを今の本田技研工業株式会社と改めて社長になったんです。(略)
最初は他のものを研究しようと思ったんだけれども、なかなか適当な物がないんだよ。結局、小さい時に自動車の修理工場に奉公した関係もあって、軍で使っていた通信機の小型エンジンがあったので、そのエンジンを自転車に取り付けたわけだ。
自転車向けエンジンおよび二輪車への本格参入のため、株式会社として「本田技研工業」を設立。本田宗一郎氏が社長に就任
ドリーム号の生産を開始。自転車据付型のエンジンメーカーから、オートバイの完成品メーカーに転身
ホンダではモーターバイクの販売が好調に推移していたが、終戦直後の混乱の中で、販売代金の回収業務に苦戦。この時に、当時常務であった竹島氏の紹介により、本田宗一郎氏が藤沢武夫氏と接触した。この邂逅によって、藤沢武夫氏がホンダの経営陣として参画。本田宗一郎氏が「開発・生産」といった技術周りを担当し、藤沢武夫氏が「販売・財務」を担当する分業体制を敷いた。
藤沢武夫氏の参画を機に、ホンダは東京進出を決定。1950年に東京営業所を新設するとともに、東京都北区(十条)に組立工場を設置。消費地である首都圏向けに生産および販売の体制を整えた。また、この頃にメインバンクである三菱銀行(京橋支店)との取引を開始したと推定される。
実際、本田技研が今みたいに大きくなるなんて、ボクも藤沢もまるで考えてみたこともなかった。せいぜい「いずれは1億くらいの会社にしよう」などと2人で言っていたくらいだから・・・(笑い)。結局、夢なんてものは、あんまりデカすぎると潰れちゃいますよ。やっぱり身分相応のやり方でコツコツやってきて、だんだんと石段を登りつめていくというのが大事なことだと思う。
1952年の時点で本田宗一郎氏は「ホンダを世界一にする」目標を設定。経営上の焦点となったのが、高性能な工作機械の導入であった。
従来の日本では国産の安価な工作機械が切削などの現場で用いられたが、工作機械の精度が低く、結果として生産には熟練工が必要であった。この状況に対して、本田宗一郎氏は欧米から輸入した高性能な工作機械を導入することで、誰もが均質な部品加工を行うことができる仕組みを作り、二輪車の量産によるコストダウンで世界シェアを握ることを狙いとした。
私たちには世界一になるか、潰れるか、2つに1つしか無い。工業日本といっても、外国車専用の観がある日本の道路をみよ。私たちは優秀な機械と卓越な理論によって、ホンダを世界のホンダにするのだ。世界一にならなければ日本一とはならぬ。中途半端では製造し得ない。私たちは世界一にならなければならぬ。私の目的はホンダが世界一になり、皆が幸福になることだ。会社は諸君のものだ。
1952年に本田宗一郎氏は大規模な設備投資を決定。埼玉県和光および静岡県浜松に二輪車の生産工場を新設するとともに、欧米から輸入した高額な工作機械を導入することを決定した。工作機械の発注額は約4.5億円におよび、ホンダの資本金6000万円を大幅に超過する投資であり、財務リスクを伴う意思決定であった。
輸入した工作機械は、マーグ社、リースブラドナー社の製品も含まれており、当時としては最上される工作機械であった。これらは国産の工作機と比べて性能が2〜3倍であり、二輪車のほかに、四輪車や航空機の部品加工に要求される精度を発揮した。
高品質な工作機械を導入した第1の理由は、二輪車の輸出であった。
ホンダとしては二輪車の大量生産について、国内市場のみならず、海外市場への輸出を考慮することで、工作機械の輸入を正当化した。すなわち、終戦直後の日本では外貨が貴重であり、まだ無名企業であったホンダが外貨を活用して工作機械を輸入することは、政府が納得する相応の理由が必要であり、ホンダとしては二輪車の輸出を最終目的とすることで設備投資で外貨を活用する説得材料とした。
高品質な工作機械を導入した第2の理由は、四輪車への参入計画にあった。四輪車への参入を見据えることで、高性能な工作機械の導入に踏み切った側面もある。1950年代当時の四輪車の業界は、国内では日産自動車とトヨタ自動車の2強体制であり、量産ラインの構築に巨額投資が必要な産業であった。本田宗一郎氏は自動車修理工からキャリアをスタートしたため、四輪車の思い入れが強かったが、当時のホンダの経営体力では四輪車への参入は現実的に難しかった。
そこで、ホンダは二輪車の大量生産と輸出によって企業としての財務基盤を充実させ、その上で四輪車に参入することを意図した。このため、二輪車の量産段階で四輪車の生産にも耐える工作機械を導入することで、量産に関する生産技術のノウハウを蓄積し、将来の四輪車への参入に備えた。
| 購入先 | 所在地 | 用途 |
| ジョージフィッシャー社 | スイス | 旋盤 |
| マーグ社 | スイス | 歯切盤 |
| シンシナティ・ダイミーリング社 | アメリカ | 型削盤 |
| シンシナティ社 | アメリカ | 万能研削盤 |
優秀な外国製の機械を購入しても、私は国内同業者各位の販路を奪い尽くそうというような小さな考えは毛頭持ちません。私の会社では機械を買うドルは国のドルであります。国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごうというのが私の願いであります。
こうは申しても私の会社は輸出のみを目論むものではありません。一定量の国内需要を満たせば、その余力を挙げて輸出貿易に振り向け、世界的視野に立って技術者として国家に貢献し、今日まで私の会社を育ててくださった皆様方にお報いしたいと思うのであります
1952年3月に埼玉県和光市に遊休工場(敷地面積3600坪)を取得。1953年に二輪車の量産拠点として「大和工場(埼玉製作所・和光工場)」を新設した。生産品目は二輪車「ドリーム号」の一貫生産であり、従来の生産拠点だった浜松からも設備を移管した。この結果、自転車据付型エンジン部品の「カブ」は浜松、二輪車の「ドリーム号」を埼玉で生産し、品種別の生産体制を構築した。
大和工場では、ベルトコンベアを活用した量産体制を構築。1953年の時点で日産120台(ドリーム号を月産3000台)の体制をとった。
| 時期 | ドリーム号 | カブ号 |
| 1952年1月 | 279台 | 0台 |
| 1952年6月 | 674台 | 1500台 |
| 1953年1月 | 1229台 | 5511台 |
| 1953年5月 | 2872台 | 8000台 |
1953年8月時点でホンダ技研の従業員数は1891名(男性1284名・女性607名)に達した。1949年時点の従業員数は約40名であり、約4年間で約40倍以上の人員に拡大した。採用は、東上線沿線に在住する中学卒業・高校卒業生を中心に募集し、仕事熱心であることを条件に採用。この結果、未経験者が大半をしめた。
また、1953年の大和工場の稼働時点で、同工場には1000名の従業員が従事。工員の半数が女性で、平均年齢は20歳前後であった。
このため、従来の一般的な機械工場が「男性の職人中心」であったのに対して、ホンダは「若い男女の素人」によって構成した。この構成が可能なのは、高性能な工作機械を導入することで、熟練工の技が不要となり、品質の均質化が可能になったためである。
生産現場では徹底した分業体制を敷き、女性工員は3日で作業に習熟できるように仕組みを作り上げたという。すなわち、工場運営では、それまでの常識であった「熟練工を重視する」という方法を無視し、素人集団でスケーラビリティーを実現したことに、本田技研の革新性があった。
なお、工場運営にあたって、本田宗一郎氏が工場を歩き回り、工員の名前を全員把握し、技術指導を直々に行っていたという。
| 時期 | 全社 | 大和工場 |
| 1949年12月 | 40名 | - |
| 1952年6月 | n/a | 256名 |
| 1952年9月 | n/a | 427名 |
| 1952年12月 | n/a | 730名 |
| 1953年3月 | n/a | 978名 |
| 1953年6月 | 1600名 | n/a |
| 1953年9月 | 1891名 | 1145名 |
記者が初めて本田技研を訪れたのは24年(注:1949年)の秋であった。本誌の前身「生産能率(24年12月号)」に探訪記を綴ったその当時は、わずか40名あまりの町工場(在浜松市)に過ぎなかった。その後、わずか4年足らずのうちに、従業員1600余名の近代工場に発展し、まさに膨張率40余倍という記録破りの伸長を見るに至ったのである。(略)40名から1600名の大規模向上に発展したところに、本田技研の真面目があるのである。
ホンダの方針は、銀行からの借入によって資金調達を行い、その大半を工作機械の購入に充てる(有形固定資産)ものであった。本田の創業期を支援したのが、三菱銀行の京橋支店であり、メインバンクとしてホンダへの融資を決定している。1956年時点のホンダに対する三菱銀行への融資額は7億円に及んでおり、自己資本比率6.7%という危うい水準にあった。
推察であるが、ホンダが輸入した工作機械は日本でも珍しい新鋭の機械であり、これらの工作機械を担保にして、融資していたものと思われる。三菱銀行からの借入金は、その大半が返済期限の短い「短期借入金」であり、この借入計画がホンダの経営を苦しめることになった。
このため、1955年頃の経済不況により二輪車の売り上げが減少すると、借入金(大半が短期借入金)の返済期限が迫り、債務超過寸前に陥るなど、危うい財務政策となった。この危機に関しては、三菱銀行がホンダへの支援継続を決定したことで、ホンダは倒産を免れた。
その後、ホンダは1957年に株式上場を果たして、資本市場からの資金調達を実施。また、二輪車の増産によって、増収増益の業績基調となったため、利益剰余金の増加が借入依存体質の財務を改善した。1960年8月には自己資本比率44.1%まで向上し、ホンダの財務体質は安定化した。
| 時期 | 資産の部 | 負債の部 | 資本の部 | 自己資本比率 |
| 1953/2 | 17.7億円 | 16.5億円 | 1.2億円 | 6.7% |
| 1954/2 | 38.9億円 | 33.0億円 | 5.9億円 | 15.1% |
| 1955/2 | 37.8億円 | 33.8億円 | 3.9億円 | 10.7% |
| 1956/8 | 37.1億円 | 30.5億円 | 6.6億円 | 17.7% |
| 1957/8 | 41.9億円 | 31.1億円 | 10.8億円 | 25.7% |
| 1959/2 | 61.9億円 | 39.7億円 | 22.2億円 | 35.8% |
| 1960/8 | 197億円 | 110億円 | 87億円 | 44.1% |
吹けば飛ぶような小資本で、3億円、4億円という高価な機械をアメリカ、ドイツ、スイスの3国から買い込んだのだから、他の業者はみんな「本田は気が違った」とびっくりしてしまった。二輪車業者ばかりでなく四輪業者もあっけにとられて見守るばかりであった。
その結果、案の定支払いには、うんと苦労をした。これは前項でも述べたが、回収が思うようにゆかないので手形を連発したことが経理を苦しくし、専務は銀行からの借入、債務の支払いの両面で塗炭の苦しみをなめた。私は技術屋の方で金は扱っていないから、本当の苦しみは味合わなかったが、専務の苦しみが身にしみてわかった。
「本田もあれでおしまいだ。バカなことをやったものだ」と業界も社会も言う中で、私たちは本当に苦しんだが、その苦しみを耐えて次の好況期を迎えた時、あの本田の命取りと言われた巨額な輸入工作機械が、どんな働きを示したか、これはもう述べる必要はあるまい。
1955年の経済不況期を乗り切ると、ホンダは再び増収増益基調に回帰した。主に農村における好景気が需要の牽引役となり、ホンダの二輪車の販売を押し上げた。
この結果、1957年にホンダは東京証券取引所に株式上場を実施。資金調達によって懸案だった自己資本比率を改善した。
1959年6月にホンダは北米に販売現地法人を設立し、二輪車の北米輸出を本格化した。量産によるコストダウンを志向するために、1960年に鈴鹿製作所を新設した。
鈴鹿製作所の稼働によって二輪車の量産体制を確立。ホンダは二輪車において国内シェアトップを確保した。
燃費性能の良いCVCCを搭載したシビックが、国内および北米市場でヒット。四輪車では最後発だったが、1977年までに国内3位メーカーに浮上(1位トヨタ・2位日産・3位ホンダ)
二輪車の海外輸出拠点として熊本製作所を新設
1970年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、二輪車および四輪車においても日本車の北米輸出が政治問題に発展しつつあった。
そこでホンダの社内で若手の有志が集まって、1974年から「生産拠点の世界戦略」に関する勉強会を開始。現地生産の検討を本格化していた。
1977年にホンダは北米における二輪車の現地生産を決定。進出予定地である米国オハイオ州と誘致協定に調印し、二輪車生産のための工場の建設に着手。1978年3月に現地生産法人としてHonda Of America Manufacturing(HAM)を設立。約1年間の工場建設を経て、1979年9月にオハイオ工場(Marysville Plant)において二輪車の現地生産を開始した。
稼働当初の生産車種はオフロードタイプ「CR250」であった。
1980年1月にホンダは日本の乗用車メーカーとしては初となる米国における現地生産を決定。すでに二輪車の生産拠点だったオハイオ工場(Marysville Plant)を拡張し、1982年11月から四輪車の現地生産を開始した。稼働当初の生産車種は「アコード(4ドアセダン)」であり、1986年からはシビックの現地生産を開始して合計2車種を主力した。
現地生産の開始にあたって、エンジンおよびトランスミッションなどの基幹部品は日本から輸入しつつ、現地工場ではボディやプレスなどを内製。協力工場として日系の自動車部品メーカーの現地工場から部品を調達するなど、ホンダのサプライヤーの海外進出による支援を受けつつ、現地生産の調達体制を整えた。1986年9月にはエンジン工場(Annna Engine Plant)を増設し、現地生産体制を徐々に拡充した。
1980年代を通じてホンダはオハイオ州において四輪車の増産投資を実施。最初の進出拠点(Marysville Plant)では1989年までにラインを増設し、年産36万台の生産体制をとった。
1989年12月にはオハイオ州に新工場(East Liberty Auto Plant)の稼働を開始し、四輪車の増産を実現。シビックセダンおよびクーぺの生産を行い、1993年までに年産15万台の生産体制を確立した。この結果、ホンダはオハイオ州の2工場において完成車生産の量産に従事し、アコードおよびシビックの生産に注力。1992年度における北米の現地生産台数は累計45万台(うちアコード35万台 + シビック10万台)に達した。
1978年の現地法人設立から、1992年ごろまでの累計投資額は約25.7億ドル(推定)であり、ホンダとしては社運を賭けた現地生産であった。
| 工場名称 | 稼働年 | 年産台数 | 投資額 | 従業員数 | 生産品目 |
| Marysville Auto Plant | 1982年 | 36万台 | 13億ドル | 5,300名 | 四輪車(アコード等) |
| Marysville Motocycle Plant | 1979年 | 6万台 | 0.9億ドル | 400名 | 二輪車 |
| East Liberty Auto Plant | 1989年 | 15万台 | 5.1億ドル | 1,800名 | 四輪車(シビック等) |
| Annna Engine Plant | 1985年 | 50万基 | 6.7億ドル | 2,000名 | エンジン等部品 |
ホンダの北米進出を見たヤマハ発動機が、競合の手薄になると判断して価格競争を開始。だが、ホンダは競合のヤマハと国内で熾烈な価格競争を展開して対抗。BCGからコンサルティグを受けつつ、ヤマハ発動機を殲滅(同社を赤字転落)した
創業者の本田宗一郎氏(当時78歳)と、財務を支えてきた藤沢武夫氏(当時75歳)が、ともに同じタイミングでホンダの取締役を退任。経営は後任に任せて、ホンダの経営から退いた
ホンダは貿易摩擦の深刻化を考慮して、欧州での乗用車の現地生産を決定。1985年に英国にHonda of the U.K. Manufacturing(HUM)を設立し、現地生産の準備を開始した。工場用地について、熟練工が多い地域として知られたスウィンドンに決定して敷地を確保した。
1989年にスウィンドン工場を竣工し、英国における現地生産を開始した。まずはエンジンの生産を開始し、1992年から完成車として「アコード」の生産を開始した。
アジアでの現地生産を本格化。日本・北米・欧州・アジアのグローバル生産体制へ
旧大和工場(1953年新設)の閉鎖を決定。周辺地域の宅地化が進行して拡張が困難であった。工場跡地は「Honda和光ビル」として活用
2017年10月にホンダは四輪車の製造拠点である埼玉製作所狭山工場(年産25万台)について、2021年度内に四輪車の生産を中止する方針を発表。狭山工場は1964年に新設された拠点であり、ホンダが四輪車の量産拠点として初めて設置した工場であった。操業時における主力生産車種は「アコード」「シビック」であり、ホンダの四輪事業の参入期を支えた主力工場であった。閉鎖発表時点では「オデッセイ」を中心に多様な車種を生産していた。
ホンダの狙いは国内における乗用車の生産台数を「年産約106万台」から「年産約81万台」に下方修正することにあった。日本国内での四輪車の販売台数が伸び悩んでいることから、各工場における稼働率を維持するため、国内における生産拠点の再編を決定。このうち、四輪車生産拠点としては最も歴史が長い狭山工場の閉鎖を決定し、年産ベースで約25万台を減産した。
なお、狭山工場における完成車の生産については、2013年に新設した寄居工場に集約する形をとった。このため、狭山工場における社員は、寄居工場などに配置転換されたと推定されるが、減産を伴う移管であり余剰人員が発生したと推定される。
2021年度にホンダは狭山工場における四輪車の生産を停止し、寄居工場に生産を移管。狭山工場ではエンジン・プレス部品などの生産に従事したのち、2023年度までにこれらの部品生産についても寄居工場への移管を実施した。
狭山工場では完成車および部品の全ての生産活動を終了し、2024年6月に工場を閉鎖した。狭山工場の新設稼働から、約60年に及ぶ歴史に終止符を打った。
1985年の英国における現地生産の開始(スウィンドン工場の稼働)から約30年が経過した2010年代の時点で、欧州における四輪車の販売シェアでホンダは1%未満という厳しい状況にあった。
英国工場における生産台数のキャパシティは年間25万台であったが、フル稼働には至らず、実際の稼働ベースでは16万台(シビックを生産)に低迷。加えて生産台数のうち約60%を北米・日本に輸出する状況であり、欧州での販売拡大を意図した英国の現地生産は厳しい状況にあった。
英スウィンドン工場は北米および日本への完成車の輸出によって稼働率を維持していたが、2016年ごろからイギリス政府がEUの離脱を検討。輸出面における採算が悪化することが予想された。
ただし、ホンダとしては、英国のEU離脱という政治決定と、英国での生産縮小(英スウィンドン工場閉鎖)は無関係としている。
このため、欧州における四輪車の販売不振を受けて、2010年代から2021年にかけてホンダは英国の生産拠点である「スウィンドン工場」の段階的な閉鎖を実施した。
スウィンドン工場はホンダにおける欧州(英国)における四輪車の現地生産工場であり、1985年に欧州での現地生産を開始した最初の工場であった。このため、スウィンドン工場の閉鎖は、ホンダによる欧州での現地生産からの撤退を意味した。
2014年に工場の生産ライン1本を休止し、2019年には工場閉鎖の方針を決定。2021年7月30日にスウィンドン工場を閉鎖し、約3500名の従業員を解雇した。
2021年7月にホンダは一時的な早期退職の措置として「ライフシフトプログラム」を制定し、55歳以上の社員に対して退職時の割増退職金を提示。国内のホンダ本社を含む退職優遇措置であった。
当初は1000名の募集予定であったが、最終的に約2000名〜約3000名が早期退職優遇制度に応募してホンダを退職したと言われている。退職パッケージの内容は、55歳でLSPを利用した場合は「年収3年分」が退職金に加えてさらに加算される手厚いものであった。
早期退職優遇制度は約2年間にわたって実施され、退職者の募集が一巡したことを受けて、2023年9月に廃止された。
早期退職優遇制度の実施を受けて、ホンダ(単体決算)は特別損失として退職特別加算金を計上。2022年3月期に360億円、2023年3月期に68億円をそれぞれ計上し、退職特別加算金として累計428億円を計上した。
北米におけるリコール損失(リアビューモニター用ケーブルに関する品質問題)の計上で、FY2022における四輪車事業について166億円の営業損失を計上した
2024年12月23日にホンダ・日産自動車・三菱自動車の3社は、経営統合を目指す協議を開始したことを発表。共同持株会社を設立し、ホンダが経営の統括会社の主導権を握る構想した。すでに12月18日に経営統合に関する動きがメディアにリークされていたこともあり正式発表に至った。
経営統合に至る背景は、国内における四輪車の販売台数の低迷の一方で、EV/HEV/PHEVに対応するための研究開発コストの増大を、単独の完成車メーカー1社で対応することが難しいことが理由であった。このため、3社を統合することで、競争力を維持することを目的とした。
協議の公表とともに、ホンダは1.1兆円(発行済み株式数の23%に相当)の自社株買いの実施を公表。ホンダとしては現在の株価水準を割安と判断し、経営統合によって「企業価値が向上すること」を意図したと推定される。