マツダ の歴史

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創業 1920年
創業者 松田重次郎
創業地 広島県広島市
創業 1920年1月、広島県広島市で東洋コルク工業が設立され、コルク板の製造から出発し
1920年1月、広島県広島市で東洋コルク工業が設立され、コルク板の製造から出発した。第一次世界大戦によるコルク代替需要を当て込んだ会社だったが、大戦の終結で当ての外れた需要は消える。外から迎えられた松田重次郎氏は、設備も部品も他社から調達できない以上、機械から自前でそろえ直すほかないとして工作機械の内製と自動車事業への転身を決断した。1927年9月に東洋工業へ社名を変更し、1929年に工作機械、1931年には四輪より安い三輪トラック"マツダ号DA型"の生産を開始した。エンジンなど内燃機関も内製し、需要が消えたら機械から作り直すという広島の流儀は、この最初のつまずきから生まれている。
決断 後ろ盾は三度替わったが、エンジンの開発は一度も外へ出していない。1961年、規模
後ろ盾は三度替わったが、エンジンの開発は一度も外へ出していない。1961年、規模で劣る東洋工業は独NSU社・バンケル社と技術提携を締結し、2.8億円の技術導入料で未完成の回転式エンジンの特許を取得した。1963年に山本健一氏ら約47名の研究部を立ち上げ、アペックスシールの摩耗を越えて1967年5月に世界初のロータリーエンジン量産にこぎつけた。ただし1973年のオイルショックで燃費の弱点が表面化して1975年に経常赤字へ落ち、1979年11月には住友銀行の主導でフォードとの資本提携を受け入れる。1996年5月にはフォードが出資比率を24.5%から33.4%へ引き上げて経営権を握った、2015年の完全撤退までの19年を傘下で過ごす。三度の資本の入れ替えを通じて開発の中身を渡さなかったことが、後ろ盾を失ったあとも自社設計の車を出し続けられる状態を残した。
現況 利益は北米が出し、車を作る日本は1,618億円の損失を計上した。2026年3月期
利益は北米が出し、車を作る日本は1,618億円の損失を計上した。2026年3月期の売上高は4兆9,182億円で、所在地別では北米が2兆5,617億円の売上に対し1,675億円の利益を上げた一方、国内販売と輸出向けの生産を担う日本は9,002億円の売上で1,618億円の損失となった。米国向けの追加関税と原価の上昇がここへ集中している。全社の営業利益は516億円で、前期の1,861億円から7割減った。仕向地別では米国が1兆9,041億円と全体の4割弱を占め、日本は6,160億円にとどまる。2015年にフォードとの36年の資本提携が解消してから10年、生産の負担を国内に、収益を北米に置く構造が定着した。
競合 規模で劣る国産メーカーは、受け入れる出資の深さで進む先が分かれた。マツダは198
規模で劣る国産メーカーは、受け入れる出資の深さで進む先が分かれた。マツダは1989年9月に国内販売を5チャネル体制へ拡大し、トヨタの10分の1に満たない台数をトヨタ並みの5系列で売ろうとして、バブル崩壊後に販売網と開発の負担を抱え込む。規模の不足を資本で埋めたのがSUBARUで、2008年4月にトヨタの出資を16.5%まで受け入れ、実質的なグループ入りで後ろ盾を固めた。マツダが2017年にトヨタと結んだのは相互に約500億円ずつを出す提携で、トヨタ側の持株比率は5.05%に抑えられている。出資を浅く保ったことが、商品と販売の決定権を残す代わりに、電動化ではトヨタと中国・長安に規模を借りる"意志あるフォロワー"の立場を確定させた。
長期業績の推移 1949〜2026年
マツダ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1920-1959 (気が向いたら執筆します!) 東洋コルク工業から東洋工業へ、工作機械と三輪トラックで四輪参入まで

第2章 1960-1978 (気が向いたら執筆します!) ロータリーエンジンに賭けた乗用車進出と石油危機後の経営危機

第3章 1979-1995 (気が向いたら執筆します!) フォードとの資本提携と防府工場、マツダ改称と国内5チャンネル体制

第4章 1996-2026 (気が向いたら執筆します!) フォード主導の再建から提携解消、メキシコ工場とトヨタとの資本提携

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歴史年表 1920〜2022年

マツダの沿革1920〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1920〜1959年東洋コルク工業から東洋工業へ、工作機械と三輪トラックで四輪参入まで創業から三輪トラック「マツダ号」へ至る自動車事業への踏み出し

1920年1月、広島県内のコルク製造業者を再建する目的で地元の有力者が東洋コルク工業株式会社を設立したが、大戦終結でコルク代替需要が縮小し設立直後から経営難に陥った。翌1921年に機械発明家の松田重次郎氏が2代目社長として再建を引き受け、1927年9月に東洋工業株式会社へ改称して工作機械と三輪自動車を二本柱とする機械メーカーへ転じた。1931年10月に三輪トラック"マツダ号DA型"を投入し、後の自動車メーカーへの道を開いた。

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松田重次郎東洋工業に商号変更★
松田重次郎工作機械の生産開始★
松田重次郎三輪トラックの生産開始★★
松田重次郎東京証券取引所に株式上場★
松田恒次松田恒次氏が社長就任★
松田恒次三輪車トラックの増産投資★
松田恒次四輪車に参入★★
1960〜1978年ロータリーエンジンに賭けた乗用車進出と石油危機後の経営危機松田恒次軽乗用車を発売★
松田恒次NSU・バンケル社とロータリーエンジン業務提携★★
松田恒次小型乗用車を発売★
松田恒次宇品工場を新設★
松田恒次外資との資本提携を退けて選んだ独自技術による単独路線

1961年に西独NSU・バンケル両社からロータリーエンジンの技術を導入した東洋工業(現マツダ)が、資本自由化と業界再編の圧力のなか、外資との資本提携や合併ではなく独自技術による単独路線を選び、1967年5月のコスモスポーツで世界初のロータリー量産を実現した経営判断。本文は当時社名の東洋工業で表記する(マツダへの改称は1984年)。

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松田耕平販売子会社を設立★
松田耕平赤字転落・経営危機★★
1979〜1995年フォードとの資本提携と防府工場、マツダ改称と国内5チャンネル体制山崎芳樹フォードの資本を受け入れ、銀行の手で進めた経営の立て直し

1979年、オイルショックとロータリー不振で経営危機に陥った東洋工業が、メインバンクの住友銀行の主導で、在日法人フォード工業を吸収合併する方式により米フォードへ発行済み株式の約25%を放出し、資本提携によって再建を図った経営判断。

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山崎芳樹防府工場を新設★
山崎芳樹防府西浦乗用車工場を新設★
山本健一マツダに商号変更★
山本健一現地生産子会社を新設★
古田徳昌国内販売網の一挙拡大と、バブル崩壊で招いた行き詰まり

輸出依存の体質を国内販売の倍増で改める「B-10」計画のもと、規模で劣るマツダがトヨタ並みの5系列体制へ拡大し、異業種提携で店舗を倍増させた拡張。バブル崩壊で過剰な販売網と開発負担が収益を圧迫し、拡大策は数年で撤回に追い込まれた

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和田淑弘防府第二工場を新設★
和田淑弘フォードと米AAI社を均等出資合弁化★
和田淑弘フォードと戦略的協業を発表★
和田淑弘現地生産子会社を設立★
1996〜2026年フォード主導の再建から提携解消、メキシコ工場とトヨタとの資本提携ヘンリー・ウォレス経営権を外資の手に委ねる資本関係への移行

1996年、5チャネル体制の失敗と円高で再び窮地に立ったマツダが、筆頭株主の米フォードによる出資比率の24.5%から33.4%への引き上げを受け入れ、フォード出身のヘンリー・ウォレス氏を社長に迎えて経営権を委ねた資本の異動。

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井巻久一現地生産子会社を設立★
山内孝フォードの提携解消へ★★
山内孝最終赤字転落・構造改革プランを策定★★
小飼雅道現地生産から撤退★★
小飼雅道メキシコ工場で量産車生産を開始★
小飼雅道36年に及ぶ資本関係の終了と、自主独立路線への転換

リーマンショックで自らも経営危機に陥ったフォードが2008年以降マツダ株を段階的に売却し、2015年に残存の約2%強を売り切って1979年以来36年の資本提携が解消された資本の異動。マツダはその過程で公募増資と独自技術により自力再建を進め、大株主の後ろ盾を失っても倒れない体力を先に整えた。

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小飼雅道米アラバマ折半合弁の設立

2017年8月4日、マツダはトヨタ自動車と業務資本提携に関する合意書を締結し、両社が約500億円ずつを持ち合ってトヨタがマツダ株の5.05%、マツダがトヨタ株の0.25%を相互取得した。米国での完成車合弁・EV共同開発・コネクテッド・先進安全・商品補完の5分野で協業し、アラバマ州に折半出資の合弁工場を新設する経営判断であった。

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丸本明TMT合弁で新工場を稼働・CX-50を量産★
丸本明東京証券取引所プライム市場へ移行★
出典・参考

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