1936年に日本政府(商工省)は「自動車製造事業法」を制定し、自動車メーカーに対して優遇措置をとることを公表した。ただし、適応条件として「単独企業として年産3000台の自動車を製造する」という条件が付与されており、東京瓦斯電気工業だけでは要件を満たせなかった。加えて設備投資を十分に行うことができなかっため、同業の自動車メーカーと合併することで「年産3000台」の条件をクリアする必要が生じた。
この過程で、首都圏に自動車工場を構える「自動車工業(現いすゞ自動車)」との合併が検討された。
1938年9月に東京自動車工業(現いすゞ自動車)は、戦車および装甲車両の量産のために日野製造所の新設を決定。陸軍の相模陸軍造兵廠に近いという理由で、20万坪の大規模工場用地を東京日野市に確保した。1941年の日野製造所の稼働にあたっては、機密性の保持にあたって、開所の披露宴は質素に行われたという。
この時に問題になったのが「商工省」と「陸軍」という、2つの異なる機関からの補助金であった。東京自動車工業は商工省による「自動車製造事業法」による補助を受けた一方で、日野製作所は陸軍向けの戦略の量産を目的としており陸軍が大口顧客であった。したがって、日野製作所は独自に陸軍の補助政策「軍用保護自動車法」を受けた方が良いという判断で、日野製作所が東京自動車工業から分離独立されることが決まった。
この結果、1942年に東京自動車工業から分離独立される形で「日野重工業」が発足し、現在の日野自動車として独立するに至った。資本政策の面では、設立当初は東京自動車工業の完全子会社100%として設立されたが、同社が株式売却の意向を表明しため、政府機関「戦時金融公庫」が日野重工業の株式80%を取得。このため、戦後の1949年に株式上場するまでの間は、資本面においては政府系企業として運営された。
なお、1945年8月の終戦時点において、日野製造所には学徒動員を中心とした7,000名が仕事に従事していた。
「日野製造所」の新設には2つの大きな意味が込められていた。一つは戦雲が色濃くなるに従がって急増する軍需に対応するためであり、もう一つは商工省を中心に進められていた自動さh製造事業法の指定を受け、東京自動車工業の一段の発展拡充を図るという目的であった。先にも触れたが商工省の指定を受け、補助政策を仰ぐためには、陸軍が監督する軍用自動車法に支えられていたり、軍用車を製造していなくてはならないという基準が設けられていた。
松方らはこれにどう対処すべきか思案の結果、軍用自動車工場を一本化し、やがて分離独立することによって、商工省の補助を受けようという作戦が浮かび上がったのであった。つまり陸軍特殊車両の専門工場として新設されたこの「日野製造所」は、早晩、東京自動車工業から別離しなければならない運命を背負っていたのである。
1945年8月の終戦により戦車製造を中心とした日野重工業は存亡の危機に陥った。そこで、1945年9月に日野重工業は解散を決定し、約7000名の全社員の解雇通告を実施した。このうち1500名は東京瓦斯電気工業時代からの社員であり、再就職の斡旋や、退職金の支払いを実施した。
その後、再建のために会社の再発足を決定。1945年10月に社員300名で日野工業として再発足して平和産業への転換を目論んだ。
1946年8月には大型トレーラートラック「T10・20型」を開発し、トラックメーカーとしての生き残りを図った。
製造と販売は考え方が異なると考え、大久保社長(日野ヂーゼル工業)は販売部門の独立を決定。全額出資により日野ヂーゼル販売を設立し、日野ヂーゼル工業が製造する大型トラックおよび大型バスの販売を担った。分離には高額商品を販売する上で、金融機関との連携(割賦販売)が必要であり、販売会社が独立していた方が円滑に金融できるという理由もあった。
販路に乏しく不採算であった乗用車の自社開発から撤退。1964年に乗用車「コンテッサ1300」を発表していたが、これらの後継車種の開発を中止し、日野自動車としては商用車に特化する方針を決定した。
1968年3月に羽村工場を新設。当初予定していた乗用車の量産は事業撤退により頓挫したため、提携先であるトヨタ向けに乗用車のOEM生産を開始した。
普通トラックで国内シェア35%を獲得目標とした「D号作戦」を開始しトップシェアを確保。商用車の領域において、それまでトップであったいすゞ自動車を抜き、日野自動車がシェアトップに躍り出た。
なお、いすゞ自動車としては乗用車の量産に投資しており、商用車への投資が不十分になっていたという事情があり、日野自動車としては競合の弱体化のチャンスを見逃さず、シェアを確保した。
日野モータース・マニュファクチャリング・インドネシアを設立
日野モータース マニュファクチャリング U.S.A.株式会社を設立
トラックの国内需要の低迷で最終赤字に転落し、上場後初の無配に転落。1999年内に希望退職制度を実施して300名が退職へ
北米・タイ・インドネシアでの現地生産に投資
2020年までに東京都日野市の本社工場について閉鎖を決定。生産機能を新設予定の古河工場に移転する方針を決定した。これに伴い、旧本社工場の敷地面積は30万平方メートルで随時売却する意向を表明した。
日野市内の本社工場の閉鎖を受けて、日野市長は「大変ショック」という懸念を表明した。
大変ショックであり、身体の一部をもぎとられるような寂しさを感じる。日野という名前を持つ会社の主要工場が日野からなくなる。一つの工場がなくなるということを超えた影響が出てくるのではないか
本社工場の閉鎖に伴い、生産移管先として古河工場の新設を決定。投資予定額は500億円で2011年に着工した。旧本社工場からの機能移転を通じて、古河工場を「マザー工場」として位置付け、完成車および部品の製造に従事。海外に対しては部品の供給拠点として位置付けた。
2017年10月に古河工場における大型・中型車両の組立生産を開始し、本格始動に至った。組み立てラインを集約することで、従来の旧本社工場における生産と比較し、20%の効率向上を図った。
2003年から日野自動車において、商用車における「エンジン認証申請」における不正行為を開始。長らく不正は明るみに出なかったが、2020年に北米においてエンジンの認証申請の不正を確認した。
これを受けて、日野自動車はグローバルで対象車種の出荷停止およびリコールを決定。2021年3月期から2023年3月期にかけて、特別損失として「認証損失」を計上し、3期連続の最終赤字に転落した。
エンジンの認証試験の不正が露呈したことを受けて、日野自動車の親会社であるトヨタ自動車は、日野自動車に対する経営支援の中止を決定した。これにより、日野自動車は単独での存続が困難となり、同業の商用車メーカーとの経営統合・合併を模索した。
親会社のトヨタ自動車は、日野自動車の経営再建を断念。2023年5月に三菱ふそう(親会社はダイムラー社)との経営統合を発表した。
ところが、統合計画は予定通りに進まず、2024年2月に経営統合の無期限延期を発表。日野自動車による損失額が決定しないため、ダイムラー社が統合に対して悲観的となったと言われる。
商用ビジネスについて、我々が日野自を支えるのには限界がある