トヨタ自動車工業株式会社を設立
1936年に日本政府は軍需拡張のために自動車の国産化政策を決定し、豊田自動織機の自動車部を政府の助成対象に選定。これを受けて1937年にトヨタ自動車工業が設立された。
本社工場を竣工
豊田自動織機の時代から生産を続けてきた自動車組立工場(刈谷)が手狭となったことから、工場の移転新設を決定。挙母町(現豊田市)からの誘致の要請を受けて、1935年に約200万m2の土地を工場用地として取得した。すでに稼働していた刈谷自動車組立工場の50倍の規模であった。
1938年11月に挙母工場(現在の本社工場)を竣工し、トラックを中心とした四輪自動車の量産を開始した。
人員削減・工販分離で再建
1600名の希望退職者を募集
終戦後の不況を受けて、1949年までにトヨタ自動車は工場の稼働率低下という問題に直面した。余剰となった人員を削減するために、1600名の希望退職者の募集を発表したところ、社員からの反発として労働争議が発生した。
トヨタ自動車は金融支援が受けられなければ倒産する恐れがあっため、人員削減の実施を決断した。この時、住友銀行はトヨタ自動車への融資を拒んだ一方、日本銀行は融資を融資を実施した。これらの経緯から、トヨタ自動車にとって、住友銀行は信用できない銀行という位置づけとなり、全社を挙げて無借金経営を目指す原動力となった。住友銀行としては、トヨタ自動車という将来の大企業との取引チャンスを失った。
創業者の豊田喜一郎氏が社長退任
豊田喜一郎氏は人員削減の責任を取る形で、自らも社長を退任した。トヨタ自動車の後任社長には、豊田自動織機出身の石田退三氏が就任し、経営再建に奔走した。
石田氏による主な再建策は、製造と販売の分離(トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の発足)、製造におけるコストダウンの徹底、米軍からのトラック受注に全力をあげることであった。
朝鮮特需による急速な経営再建
トヨタ自動車の経営再建に対して追い風となったのが、朝鮮特需である。1950年に勃発した朝鮮戦争において、米軍は日本を物資の調達拠点として位置付けた。これに応じて、米軍はトヨタ自動車に軍用トラックの大量発注を開始した。
1950年7月には米軍向けトラック1,000台を受注し、翌月の8月には同トラック2329台を受注した。これらのトラックの大量受注によって工場の稼働率が工場し、トヨタ自動車は急速に業績を回復させていった。
東京証券取引所に株式を上場
小型乗用車の展開を本格化
元町工場を新設(乗用車専門)
1950年代を通じて日本人にとって乗用車は高嶺の花であり、富裕層や、タクシー会社、医者が乗用車の主な顧客であった。そこで、トヨタは日本人に自動車を普及させるために「コストダウン」を徹底する方針を打ち出し、その第一弾として乗用車専用の元町工場を新設した。
従来の工場はトラックとの混成ラインによる生産が主体であったが、元町工場では乗用車に生産ラインを特化することでコストダウンを目論む。
かんばん方式を導入
トヨタ生産方式の実践
トヨタ生産方式と呼ばれる生産技術は、は1950年代から1960年代にかけて、自動車の生産工場において生産技術を磨く中てボトムアップで確立されていった。生産技術の重要性に気づいたのは、創業者の豊田喜一郎氏であったが、現場の社員がトヨタ生産方式として結実させていった。
トヨタ自動車としては、1950年に1600名のリストラという苦い経験を経たばかりであり、できるだけ人を増やさずに工場の稼働を円滑に行うことを意識するようになった。この意味で、大規模なリストラという失敗経験が、トヨタ生産方式の確立に向けたモチベーションになっていると言える。
大野耐一氏によるトヨタ生産方式の確立
トヨタ自動車において、大野耐一氏が「ジャストインタイム」「かんばん方式」といった生産方式の定着に大きな役割を果たした。大野耐一氏は豊田自動織機からトヨタ自動車に配属転換され、自動車工場に残っていた「ブラックボックスな職人芸」を追放。誰でも均質に自動車が生産できるように、生産技術を均質化して行くことに時間をさいた。
大野耐一氏は、トヨタ自動車における生産技術の実質的なトップとして振る舞い、トヨタにおける社風形成に大きな影響をもたらした。現場の社員からは「オヤジ」として恐れられた存在であったという。
高岡工場を竣工(カローラ専門)
1960年代を通じて乗用車市場では日産とトヨタがシェア争いで死闘を繰り広げたが、両社の競争に終止符を打つべく、1966年にトヨタは大衆乗用車「カローラ」を発売するとともに、カローラの専用工場として高岡工場を稼働した。1工場1車種というリスクを伴う奇策によって大幅なコストダウンを実現し、乗用車のシェア争いでトヨタが優勢になる決定打となった。加えて、カローラは日本人に自動車を普及させたモータリゼーションの立役者として、社会変化の一翼を担う存在となる。
カローラの北米輸出を本格化
豊田英二氏が代表取締役社長に就任
三河地区に工場を新設
住宅事業部を発足
トヨタ自工とトヨタ自販が合併
GMと合弁会社NUMMIを発足
カナダで単独現地生産を開始
アメリカへの現地生産に合わせ、カナダでも現地生産を決定
米国で単独現地生産を開始
北米への単独現地生産を決定し、工場誘致に熱心だったケンタッキー州に進出
高級車「レクサス」を北米で発売
北米におけるトヨタ=大衆車というイメージを払拭するために、北米市場で高級乗用車「レクサス」の展開を決定
国内メーカーと協業
中国での現地生産を本格化
欧州全域を統括するTMEを発足
欧州の統括会社3社(TMME、TMEM、TME)を統合してTMEを発足。欧州における製造・販売の効率化を目論む
最終赤字に転落
2008年のリーマンショックの影響を受けて、2009年3月期にトヨタは4369億円の最終赤字を計上し、終戦直後の経営危機に次ぐ約60年ぶりの最終赤字に転落した。優良企業と言われたトヨタが赤字に転落したことで、リーマンショックの影響の大きさが世間に改めて認知されるきっかけとなった。
3代目プリウスを発売
発売から1ヶ月で18万台の受注でヒット。3代目プリウスは、トヨタのHVにおける業容拡大の牽引役になった
燃料電池車「トヨタ・ミライ」を発売
カンパニー制に移行
機能ごとの組織を壊し、製品を軸としたカンパニー制に組織体制を移行。ソフトウェアを中心とした開発に従事する専門部署「「コネクティッドカンパニー」」などをを発足して車の高度化に対応