トヨタ自動車 の歴史

創業

1933年

創業者

豊田喜一郎

創業地

愛知県刈谷市

直近売上高(2026/3)

506,850億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1959年に、月販2000台程度にとどまっていた乗用車市場でトヨタは月産1万台対応の元町工場を建てたのか
A 需要が確実になってから設備を増強したのでは、量産効果による原価低減で他社に先行され、供給力でも見劣りする。英二専務は月産1万台規模の乗用車専門工場を提案したが、石田退三社長は月産5000台の設備投資にとどめつつ、建屋だけは将来の月産1万台に対応する規模で設計させた。1959年8月に着工から11カ月で竣工した元町工場は、同年12月に目標の月産1万台を達成した。数年遅れて1962年に完成した日産自動車の追浜工場やいすゞ自動車の藤沢工場に対し、トヨタは量産で先行する形になった
Q なぜ1967年に社長へ就任した豊田英二氏は、需要が確定する前から量産工場への投資を続けたのか
A 新工場は稼働直後こそ稼働率が低く利益も薄いが、需要の伸びに他社より先んじて応えられれば量産効果で原価と供給力の両面において優位に立てると豊田英二氏は考えた。1967年10月に社長へ就任した英二氏は「目標はGM(ゼネラル・モーターズ)」と照準を定め、「ふだんはケチに徹するが、いざというときには、ほかに一歩先んじてパッと投資する」と語った。元町・上郷・高岡と積み重ねてきた専門工場の建設は、この経営哲学の実践であった
Q なぜ2025年に、源流企業の豊田自動織機を約4.7兆円で非公開化する道を選んだのか
A 親子上場と株式の持ち合いに資本市場の批判が強まり、政策保有株を抱えたままでは資本効率を上げにくくなっていた。そこでトヨタは2025年、源流にあたる豊田自動織機を約4.7兆円で非公開化する計画を決めた。トヨタ不動産が受け皿の持株会社へ約1,800億円を出資し、トヨタ自動車が無議決権の優先株で約7,000億円、豊田章男会長も個人で10億円を入れる。株式公開買付で上場を取りやめ、グループが相互に株式を持ち合う関係を解いて所有構造を一つにまとめる

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1890年〜 織機の発明から自動車事業の分離独立まで

佐吉氏の発明と自動織機事業の確立

豊田佐吉氏は1867年2月14日、遠江国敷知郡山口村[1](現・静岡県湖西市)に生まれた。1870年刊行の啓発書『西国立志編』に触発され[2]、1885年の専売特許条例の公布[3]を機に織機の発明を志した。1890年に木製人力織機を出願し、翌1891年5月14日に特許第1195号[4]として登録を受けた。喜一郎氏は1894年6月11日に佐吉氏の長男として生まれ[5]、父の工場の敷地内でものづくりを間近に見ながら育った。喜一郎氏は後年、幼時から機械に接した経験を「エンジニアーは機械を身内と考へ[6]何時も機械にタッチしていることが最も肝要である」と振り返っている。

1926年、佐吉氏の意向を受けた喜一郎氏は愛知県碧海郡刈谷町に新工場の建設を立案し、同年11月18日に資本金100万円の株式会社豊田自動織機製作所を設立[7]した。社長には豊田利三郎氏が、常務取締役には喜一郎氏[8]が就いた。喜一郎氏は父の発明した無停止杼換式自動織機の改良に携わり[9]、その英国特許を1929年に英国のプラット社へ譲渡[10]した。この譲渡金が自動車研究の原資[11]となった。当時の日本ではフォードとゼネラル・モーターズが国内に組立工場を構え[12]てノックダウン生産を行っており、国産自動車の量産は緒についていなかった。

1933年9月1日、喜一郎氏は豊田自動織機製作所の社内に自動車製作部門を設置[13]した。同年10月には米国製シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ[14]し、試作用の図面を起こす形で研究に着手した。エンジンの鋳造では織機用の鋳物技術を応用し、シリンダーブロックの試作[15]を重ねている。有価証券報告書の沿革はこの時点を「自動車の研究を開始」と記録している[16]。取締役会の正式な承認は事後に得る形をとり[17]、喜一郎氏は先行きの見えない新事業を既成事実として進めた。織機で得た資金と工作機械の技術が、そのまま自動車部品の加工へ転用できる見込み[18]が、この判断を支えていた。

    • [13]1933年9月1日 豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設置
    • [14]1933年10月 米国製シボレー乗用車を分解し部品をスケッチ
    • [15]織機用の鋳物技術を応用しシリンダーブロックを試作
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [16]有報【沿革】1933年9月「自動車の研究を開始」
  • 有価証券報告書
    • [17]取締役会の承認は事後、既成事実として推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [18]織機の工作機械技術が自動車部品加工へ転用可能との見込み
    • [1]豊田佐吉氏 1867年2月14日 遠江国敷知郡山口村に生誕
    • [2]1870年刊行『西国立志編』に触発され発明を志す
    • [3]1885年 専売特許条例の公布
    • [4]1891年5月14日 木製人力織機が特許第1195号として登録
    • [5]豊田喜一郎氏 1894年6月11日 佐吉氏の長男として生誕
    • [6]喜一郎氏の講話「エンジニアーは機械を身内と考へ…」
    • [9]喜一郎氏 無停止杼換式自動織機の改良に従事
    • [10]1929年 自動織機の英国特許を英プラット社へ譲渡
    • [7]1926年11月18日 資本金100万円で株式会社豊田自動織機製作所を設立
    • [8]社長 豊田利三郎氏/常務取締役 豊田喜一郎氏
  • 有価証券報告書
    • [11]織機特許の譲渡金が自動車研究の原資
    • [17]取締役会の承認は事後、既成事実として推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [12]当時の日本ではフォードとGMが国内に組立工場を設置
    • [18]織機の工作機械技術が自動車部品加工へ転用可能との見込み
    • [13]1933年9月1日 豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設置
    • [14]1933年10月 米国製シボレー乗用車を分解し部品をスケッチ
    • [15]織機用の鋳物技術を応用しシリンダーブロックを試作
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [16]有報【沿革】1933年9月「自動車の研究を開始」

試作から自動車製造事業法による許可会社指定まで

1935年、自動車部はA1型試作乗用車とG1型トラックを完成させ[19]、試作の段階を抜けた。同年11月にはトラックの発売[20]にこぎ着け、翌1936年9月には乗用車を発売[21]した。1936年4月に豊田自動織機製作所自動車部へ入社[22]した豊田英二氏は、喜一郎氏の命を受けて東京・芝浦に研究所を開設[23]し、ラジエーターやドイツ車DKWの分解調査などを担当した。英二氏は喜一郎氏の従弟にあたり、東京帝国大学工学部の出身[24]であった。芝浦の研究所は基礎技術の蓄積を担い、量産に必要な要素技術を社内へ取り込む役割[25]を負った。

1936年、日本政府は自動車の国産化を進める自動車製造事業法を公布し、豊田自動織機製作所の自動車部門を許可会社に指定[26]した。許可会社となれば軍需を背景とする保護を受けられる一方、量産投資の規模は織機本体の財務を超えた[27]。喜一郎氏は自動車部を織機事業から切り離す必要に迫られ、分離独立の準備に入った[28]。この法律は外国資本の組立会社を国内市場から締め出す効果[29]を持ち、国産メーカーに量産の機会を与えた。保護と統制を引き換えに国産化を進める産業政策のもとで、トヨタは軍需という確実な需要を得た[30]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]1936年 自動車製造事業法の公布、豊田自動織機の自動車部門が許可会社に指定
    • [27]量産投資の規模が織機本体の財務を超過
    • [28]喜一郎氏 自動車部の分離独立の準備に着手
    • [29]自動車製造事業法は外国資本の組立会社を市場から締め出す効果
    • [30]保護と統制を引き換えとする産業政策のもとで軍需という確実な需要を獲得

1937年8月28日、トヨタ自動車工業株式会社が資本金1,200万円で設立[31]された。社長には豊田利三郎氏が、副社長には喜一郎氏[32]が就いた。有価証券報告書の沿革は1937年8月を「豊田自動織機製作所より分離独立(会社創立)」と記し、資本金を12,000千円[33]と記録している。独立直後、喜一郎氏は全国のトヨタ車販売店の代表を前に、廉価で優秀な車をつくるという企業理念を語る挨拶[34]を行っている。芝浦の研究所も同社の研究部となり[35]、英二氏は同年5月に刈谷の本社へ転勤して新設の監査改良部[36]を任された。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [31]1937年8月28日 トヨタ自動車工業株式会社を資本金1,200万円で設立
    • [32]社長 豊田利三郎氏/副社長 豊田喜一郎氏
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [33]有報【沿革】1937年8月 分離独立(会社創立)/資本金 12,000千円
    • [34]喜一郎氏 販売店代表を前に廉価で優秀な車をつくる理念を表明
    • [35]芝浦の研究所が同社研究部へ移行
    • [36]1937年5月 英二氏が刈谷本社へ転勤、新設の監査改良部を担当
    • [19]1935年 A1型試作乗用車とG1型トラックを完成
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [20]有報【沿革】1935年11月 トラックを発売
    • [21]有報【沿革】1936年9月 乗用車を発売
    • [33]有報【沿革】1937年8月 分離独立(会社創立)/資本金 12,000千円
    • [22]1936年4月 豊田英二氏が豊田自動織機製作所自動車部へ入社
    • [24]豊田英二氏は喜一郎氏の従弟、東京帝国大学工学部出身
    • [36]1937年5月 英二氏が刈谷本社へ転勤、新設の監査改良部を担当
    • [23]東京・芝浦に研究所を開設、ラジエーター・独DKWの分解調査を担当
    • [25]研究所は量産に必要な要素技術を社内へ取り込む役割
    • [34]喜一郎氏 販売店代表を前に廉価で優秀な車をつくる理念を表明
    • [35]芝浦の研究所が同社研究部へ移行
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]1936年 自動車製造事業法の公布、豊田自動織機の自動車部門が許可会社に指定
    • [27]量産投資の規模が織機本体の財務を超過
    • [28]喜一郎氏 自動車部の分離独立の準備に着手
    • [29]自動車製造事業法は外国資本の組立会社を市場から締め出す効果
    • [30]保護と統制を引き換えとする産業政策のもとで軍需という確実な需要を獲得
    • [31]1937年8月28日 トヨタ自動車工業株式会社を資本金1,200万円で設立
    • [32]社長 豊田利三郎氏/副社長 豊田喜一郎氏

挙母工場の建設と流れ作業という構想

1938年11月3日、愛知県挙母町(現・豊田市)に本社工場が竣工[37]し、トヨタはこの日を創業記念日と定めた。敷地は約200万平方メートルで、刈谷の織機工場の約50倍[38]にあたる規模であった。大衆車の量産を一貫して行う体制を、需要が育つ前に用意した投資[39]である。挙母工場は鋳造から機械加工、組立までを一つの敷地に収め[40]、部品を工場間で運ぶ手間を省いた。喜一郎氏は工場の設計にあたり、機械の配置を工程の順に並べる方式[41]を採った。部門ごとに同種の機械を集める当時の一般的な工場[42]とは、考え方が逆であった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]1938年11月3日 挙母町に本社工場竣工、創業記念日と制定
    • [38]挙母工場の敷地 約200万平方メートル(刈谷の約50倍)
    • [39]需要に先行して大衆車の量産一貫体制を整備
    • [40]鋳造から機械加工・組立までを一つの敷地に集約
    • [41]機械を工程順に配置する方式を採用
    • [42]部門ごとに同種の機械を集める当時の一般的な工場とは逆の配置

喜一郎氏は挙母工場への移転に際し、流れ作業の導入を企図した克明なパンフレットを自ら作成[43]した。刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れてから機械で削る生産方式[44]が主流であったのに対し、喜一郎氏は「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ[45]」という考え方を掲げた。英二氏はこれを和製英語で「ジャスト・イン・タイム」と呼んだ[46]。ただし戦時下の資材統制のもとでは必要な部品が必要なときに届く前提が崩れ[47]、この方式は定着しないまま終わった。倉庫を経由しない生産は仕掛品の資金拘束を減らし[48]、資本の乏しい後発メーカーには切実な要請でもあった。

    • [43]喜一郎氏 挙母工場移転に際し流れ作業導入のパンフレットを自作
    • [44]刈谷工場は半製品を倉庫経由で加工する方式が主流
    • [45]喜一郎氏の方針「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」
    • [46]英二氏が和製英語「ジャスト・イン・タイム」と命名
    • [47]戦時下の資材統制で流れ作業は定着せず
    • [48]倉庫を経由しない生産は仕掛品の資金拘束を圧縮

日中戦争の長期化でトラックの需要が急増し、挙母工場は月産500台の目標を達成[49]した。生産は軍用トラックの増産に振り向けられ[50]、乗用車の開発は事実上止まった。1940年3月には豊田製鋼(現・愛知製鋼)[51]を、1941年5月には豊田工機(現・ジェイテクト)を設立[52]して、鋼材と精密工作機械を社内で賄えるようにした。1945年8月には自動車車体の製造事業をトヨタ車体工業[53](現・トヨタ車体)へ移管した。1943年11月には中央紡績を吸収合併[54]して事業基盤を広げたが、資材不足で戦争後半には生産が急激に落ち込んだ[55]

    • [49]日中戦争でトラック需要が急増、挙母工場が月産500台を達成
    • [50]生産は軍用トラックの増産へ、乗用車開発は事実上停止
    • [55]資材不足で戦争後半に生産が急落
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [51]有報【沿革】1940年3月 豊田製鋼(現・愛知製鋼)設立
    • [52]有報【沿革】1941年5月 豊田工機(現・ジェイテクト)を設立し精密工作機械の製造事業を移管
    • [53]有報【沿革】1945年8月 トヨタ車体工業を設立し自動車車体の製造事業を移管
    • [54]有報【沿革】1943年11月 中央紡績を吸収合併
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]1938年11月3日 挙母町に本社工場竣工、創業記念日と制定
    • [38]挙母工場の敷地 約200万平方メートル(刈谷の約50倍)
    • [39]需要に先行して大衆車の量産一貫体制を整備
    • [40]鋳造から機械加工・組立までを一つの敷地に集約
    • [41]機械を工程順に配置する方式を採用
    • [42]部門ごとに同種の機械を集める当時の一般的な工場とは逆の配置
    • [43]喜一郎氏 挙母工場移転に際し流れ作業導入のパンフレットを自作
    • [44]刈谷工場は半製品を倉庫経由で加工する方式が主流
    • [45]喜一郎氏の方針「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」
    • [46]英二氏が和製英語「ジャスト・イン・タイム」と命名
    • [47]戦時下の資材統制で流れ作業は定着せず
    • [48]倉庫を経由しない生産は仕掛品の資金拘束を圧縮
    • [49]日中戦争でトラック需要が急増、挙母工場が月産500台を達成
    • [50]生産は軍用トラックの増産へ、乗用車開発は事実上停止
    • [55]資材不足で戦争後半に生産が急落
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [51]有報【沿革】1940年3月 豊田製鋼(現・愛知製鋼)設立
    • [52]有報【沿革】1941年5月 豊田工機(現・ジェイテクト)を設立し精密工作機械の製造事業を移管
    • [53]有報【沿革】1945年8月 トヨタ車体工業を設立し自動車車体の製造事業を移管
    • [54]有報【沿革】1943年11月 中央紡績を吸収合併

1939年〜 敗戦と資金繰りの破綻、工販分離を経ての再出発

トヨタ自動車の業績推移:単体

売上高(億円)
  1. 1940年 豊田製鋼を設立
  2. 1941年 豊田工機を設立
  3. 1945年 トヨタ車体工業を設立
  4. 1949年 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場
  5. 1949年 愛知工業を設立
  6. 1950年 トヨタ自動車販売を設立
  7. 1959年 日本初の乗用車専門工場・元町工場の建設と量産体制への転換 需要が定まらぬうちに供給能力を先に築く——トラック専業のトヨタは、乗用車量産への転換をどこで決めたか

空襲による損壊から、トラック生産の再開まで

1945年8月14日、挙母工場は米軍機B29の空襲を受け、工場の約4分の1が破壊[56]された。翌15日の終戦を経て、8月16日に赤井久義副社長[57]は幹部を前に、トヨタには復興を支えるトラックをつくって供給する責任があると述べ、再出発を促した。工場は8月17日から生産を再開し、資材を節約した戦時規格を廃止[58]して標準規格のトラック生産に切り替えた。設備の多くは空襲を免れており[59]、資材さえ手に入れば動かせる状態にあった。焼け残った工作機械を数え直す[60]ところから、戦後の生産計画は組み直された。占領下では乗用車の生産が禁じられ[61]、当面はトラックだけが事業の柱となった。

喜一郎氏は自動車生産が全面的に禁止される事態を想定し、従業員の生活を守るため瀬戸物業や竹輪づくりなど衣食住に関わる新規事業[62]を模索した。1945年11月に乗用車を除くトラック・バスの生産継続が認められる[63]と、これらの構想は立ち消えとなった。1946年4月には関東電気自動車製造(現・トヨタ自動車東日本)を設立[64]し、東日本に生産の足場を置いた。1948年7月には日新通商(現・豊田通商)を設立[65]して資材の調達機能を分けている。1949年5月、トヨタは東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ株式を上場[66]した。

    • [62]喜一郎氏が瀬戸物業・竹輪づくりなど衣食住関連の新規事業を模索
    • [63]1945年11月 乗用車を除くトラック・バスの生産継続が認可
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [64]有報【沿革】1946年4月 関東電気自動車製造(現・トヨタ自動車東日本)設立
    • [65]有報【沿革】1948年7月 日新通商(現・豊田通商)設立
    • [66]有報【沿革】1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場

1949年、GHQのドッジ・ラインによる超緊縮財政のもとで自動車需要が急減[67]した。月賦販売の代金回収が滞り[68]、製造資金を直接に圧迫した。トヨタは1,600名の希望退職の募集[69]と、製造と販売を別法人に分ける再建策に踏み切った。喜一郎氏は人員整理の責任を負って1950年6月に社長を退任し、後任には豊田自動織機出身の石田退三氏[70]が就いた。倒産寸前まで追い込まれた資金繰りは、日本銀行名古屋支店長の音頭による銀行団のシンジケート融資[71]で救われた。英二氏は後年、この経験を「倒産寸前までいった経験から[72]その後の経営者は再びそのようなことにならないようにしようと、一所懸命貯めた」と振り返っている。

    • [67]1949年 ドッジ・ラインの超緊縮財政で自動車需要が急減
    • [68]月賦販売の代金回収が滞り製造資金を圧迫
  • 有価証券報告書
    • [69]1,600名の希望退職募集と製販分離による再建
    • [70]1950年6月 喜一郎氏が社長を退任、後任に豊田自動織機出身の石田退三氏
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [71]日本銀行名古屋支店長の音頭で銀行団のシンジケート融資が成立
    • [72]英二氏の回顧「倒産寸前までいった経験から…一所懸命貯めた」
    • [56]1945年8月14日 B29の空襲で挙母工場の約4分の1が破壊
    • [57]1945年8月16日 赤井久義副社長が復興を支えるトラック供給の責任を表明
    • [58]1945年8月17日 生産再開、戦時規格を廃止し標準規格のトラック生産へ
    • [61]占領下で乗用車生産が禁止され、トラックのみが事業の柱
    • [62]喜一郎氏が瀬戸物業・竹輪づくりなど衣食住関連の新規事業を模索
    • [63]1945年11月 乗用車を除くトラック・バスの生産継続が認可
    • [67]1949年 ドッジ・ラインの超緊縮財政で自動車需要が急減
    • [68]月賦販売の代金回収が滞り製造資金を圧迫
    • [59]設備の多くは空襲を免れ、資材さえあれば稼働可能
    • [60]焼け残った工作機械の棚卸しから戦後の生産計画を再編
    • [70]1950年6月 喜一郎氏が社長を退任、後任に豊田自動織機出身の石田退三氏
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [64]有報【沿革】1946年4月 関東電気自動車製造(現・トヨタ自動車東日本)設立
    • [65]有報【沿革】1948年7月 日新通商(現・豊田通商)設立
    • [66]有報【沿革】1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場
  • 有価証券報告書
    • [69]1,600名の希望退職募集と製販分離による再建
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [71]日本銀行名古屋支店長の音頭で銀行団のシンジケート融資が成立
    • [72]英二氏の回顧「倒産寸前までいった経験から…一所懸命貯めた」

工販分離と、部品会社の切り出しによる分業

1950年4月、トヨタは販売部門をトヨタ自動車販売として独立[73]させ、製造資金と販売資金が混在する状態を制度的に断ち切った。販売会社の社長には神谷正太郎氏[74]が就いた。同年5月には紡績事業を民成紡績(現・トヨタ紡織)へ移管[75]している。生産と販売を別法人に分けるこの体制は、資金繰りの破綻という代償を払って選ばれた[76]ものであった。この分離は1982年の再合併まで32年間[77]続いた。販売会社は全国の販売店網を束ね[78]、生産側は原価と品質に責任を負う分担が定着し、両社が別々に資金を調達する体制[79]が敷かれた。

  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [73]有報【沿革】1950年4月 トヨタ自動車販売を設立し販売業務を移管
    • [75]有報【沿革】1950年 民成紡績(現・トヨタ紡織)を設立し紡績事業を移管
    • [77]工販分離は1982年の再合併まで32年間継続
    • [74]トヨタ自動車販売の社長に神谷正太郎氏
    • [76]工販分離は資金繰りの破綻を代償に選択
    • [78]販売会社が販売店網を束ね、生産側が原価と品質に責任を負う分担
    • [79]工販それぞれが別に資金を調達する体制

1949年の企業再建整備計画に基づき、トヨタは電装工場・刈谷南工場・中川工場の3工場を第二会社として分離独立[80]させた。同年12月に設立された日本電装(現・デンソー)[81]はトヨタの商号使用を禁じられ、1.4億円の借金返済[82]を求められる厳しい条件のもとで出発した。初代社長の林虎雄氏[83]は、喜一郎氏からグループの信用を損なうことは許されないと厳しく釘を刺されたと回顧している。1949年6月には愛知工業(現・アイシン)と名古屋ゴム(現・豊田合成)[84]が設立された。完成車メーカーと専門化された部品メーカーが分業する構造[85]は、この時期に形づくられた。

  • 有価証券報告書
    • [80]1949年 企業再建整備計画により電装・刈谷南・中川の3工場を第二会社化
    • [85]完成車メーカーと専門部品メーカーの分業構造がこの時期に成立
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [81]有報【沿革】1949年 日本電装(現・デンソー)を設立し自動車用電装品の製造事業を移管
    • [82]日本電装は商号使用禁止・1.4億円の借金返済という条件で発足
    • [83]日本電装初代社長 林虎雄氏の回顧(喜一郎氏からグループの信用を損なうなと戒め)
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [84]有報 1949年 愛知工業(現・アイシン)・名古屋ゴム(現・豊田合成)設立

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は米軍向けトラックの大量受注[86]をもたらし、トヨタの再建を後押しした。同じ時期、トヨタ自動車販売の神谷正太郎社長はフォード社との技術提携交渉を進め調印の直前まで[87]至ったが、朝鮮戦争を受けた米政府の禁足令で技術者の派遣が不可能となり、交渉は白紙に戻った。代わってフォード社はトヨタからの研修者受け入れを了承し、英二常務が1950年7月から約1カ月半にわたりルージュ工場[88]などで研修を受けた。英二氏は帰国後、フォードの規模の大きさを認めたうえで「フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった[89]」と振り返っている。提携によらず自力で量産技術を組み上げる方針[90]は、この確認から定まった。

  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [73]有報【沿革】1950年4月 トヨタ自動車販売を設立し販売業務を移管
    • [75]有報【沿革】1950年 民成紡績(現・トヨタ紡織)を設立し紡績事業を移管
    • [77]工販分離は1982年の再合併まで32年間継続
    • [81]有報【沿革】1949年 日本電装(現・デンソー)を設立し自動車用電装品の製造事業を移管
    • [74]トヨタ自動車販売の社長に神谷正太郎氏
    • [76]工販分離は資金繰りの破綻を代償に選択
    • [78]販売会社が販売店網を束ね、生産側が原価と品質に責任を負う分担
    • [79]工販それぞれが別に資金を調達する体制
    • [90]提携によらず自力で量産技術を構築する方針が確定
  • 有価証券報告書
    • [80]1949年 企業再建整備計画により電装・刈谷南・中川の3工場を第二会社化
    • [85]完成車メーカーと専門部品メーカーの分業構造がこの時期に成立
    • [82]日本電装は商号使用禁止・1.4億円の借金返済という条件で発足
    • [83]日本電装初代社長 林虎雄氏の回顧(喜一郎氏からグループの信用を損なうなと戒め)
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [84]有報 1949年 愛知工業(現・アイシン)・名古屋ゴム(現・豊田合成)設立
    • [86]1950年6月 朝鮮戦争勃発、米軍向けトラックの大量受注
    • [87]神谷正太郎社長のフォード社との技術提携交渉が米政府の禁足令で白紙化
    • [88]1950年7月から約1カ月半 英二常務がフォードのルージュ工場で研修
    • [89]英二氏の回顧「フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった」

生産方式の確立とクラウン、そして元町工場

戦時にいったん定着を阻まれたジャスト・イン・タイムの考え方は、戦後、豊田自動織機出身の大野耐一氏の手で「かんばん」として蘇った[91]。後工程が前工程へ必要な数量を伝える仕組み[92]は、標準化と現場改善を軸とするトヨタ生産方式へ発展した。1951年5月には一般従業員から改善提案を募る創意くふう提案制度[93]が始まった。1951年度に789件・参加率8%だった提案は、1965年度には1万5968件・参加率30%[94]まで拡大している。設備投資に回す資金の乏しさ[95]が、現場の工夫で生産性を上げる方法を選ばせた。

    • [91]戦後 大野耐一氏が「かんばん」として生産方式を復活
    • [92]後工程が前工程へ必要数量を伝える仕組みがトヨタ生産方式へ発展
    • [95]設備投資資金の乏しさが現場の工夫による生産性向上を選ばせた
    • [93]1951年5月 創意くふう提案制度の運用を開始
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [94]提案件数 1951年度789件・参加率8% → 1965年度1万5968件・参加率30%

1955年、トヨタは本格的な乗用車として初代クラウンとトヨペット・マスターを発売[96]し、乗用車市場への参入を果たした。クラウンは前輪独立懸架を備え、国産技術だけで設計[97]した乗用車であった。もっとも当時の需要はタクシー事業者と富裕層が中心で、月販は2000台程度[98]にとどまっていた。1956年3月にはトヨタ自動車販売が産業車両を発売[99]し、1957年10月には米国トヨタ自動車販売を設立[100]し、対米輸出の窓口を米国内に置いた。同年に輸出した小型車クラウンは高速走行の性能が足らず[101]、米国市場では受け入れられなかった。乗用車を量産する専用の工場は、まだどの国産メーカーも持っていなかった[102]

    • [96]1955年 初代クラウン・トヨペット・マスターを発売
    • [97]クラウンは前輪独立懸架を備え国産技術のみで設計
    • [98]クラウンの月販は2000台程度、需要はタクシー事業者と富裕層が中心
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [99]有報【沿革】1956年3月 トヨタ自動車販売が産業車両を発売
    • [100]有報【沿革】1957年10月 米国トヨタ自動車販売を設立
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [101]1957年輸出のクラウンは高速走行性能が不足し米国市場で不評
    • [102]当時の国産メーカーに乗用車専用の量産工場は存在せず

英二専務は月産1万台の乗用車専門工場を提案したが、当時としては規模が大きすぎるとして、石田退三社長は月産5000台で建設を決断[103]した。1958年7月に社内へ乗用車専門工場建設委員会が設けられ、委員長には豊田章一郎氏[104]が就任した。設備は月産5000台に抑えながら、建屋だけは将来の月産1万台に対応する規模[105]で設計するという判断が下された。元町工場は着工から11カ月の1959年8月に竣工[106]し、同年9月18日から19日にかけて完成披露式が催された。創業以来の生産累計50万台目となるクラウン・デラックス[107]のラインオフ式も併せて行われた。式辞に立った石田退三社長は元町工場を「2割程度の完成」と位置づけ、「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」[108]への拡大を掲げた。同年12月、元町工場は目標としていた月産1万台を達成[109]した。

    • [103]英二専務が月産1万台を提案、石田退三社長は月産5000台で決断
    • [104]1958年7月 乗用車専門工場建設委員会を設置、委員長 豊田章一郎氏
    • [105]設備は月産5000台、建屋は月産1万台対応で設計
    • [109]1959年12月 元町工場が月産1万台を達成
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [106]元町工場 着工から11カ月・1959年8月に竣工
    • [107]1959年9月18-19日 完成披露式、生産累計50万台目のクラウン・デラックスをラインオフ
    • [108]石田社長の式辞「2割程度の完成」「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」
    • [91]戦後 大野耐一氏が「かんばん」として生産方式を復活
    • [92]後工程が前工程へ必要数量を伝える仕組みがトヨタ生産方式へ発展
    • [95]設備投資資金の乏しさが現場の工夫による生産性向上を選ばせた
    • [98]クラウンの月販は2000台程度、需要はタクシー事業者と富裕層が中心
    • [103]英二専務が月産1万台を提案、石田退三社長は月産5000台で決断
    • [104]1958年7月 乗用車専門工場建設委員会を設置、委員長 豊田章一郎氏
    • [105]設備は月産5000台、建屋は月産1万台対応で設計
    • [109]1959年12月 元町工場が月産1万台を達成
    • [93]1951年5月 創意くふう提案制度の運用を開始
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [94]提案件数 1951年度789件・参加率8% → 1965年度1万5968件・参加率30%
    • [101]1957年輸出のクラウンは高速走行性能が不足し米国市場で不評
    • [102]当時の国産メーカーに乗用車専用の量産工場は存在せず
    • [106]元町工場 着工から11カ月・1959年8月に竣工
    • [107]1959年9月18-19日 完成披露式、生産累計50万台目のクラウン・デラックスをラインオフ
    • [108]石田社長の式辞「2割程度の完成」「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」
    • [96]1955年 初代クラウン・トヨペット・マスターを発売
    • [97]クラウンは前輪独立懸架を備え国産技術のみで設計
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [99]有報【沿革】1956年3月 トヨタ自動車販売が産業車両を発売
    • [100]有報【沿革】1957年10月 米国トヨタ自動車販売を設立

1960年〜 大衆車カローラと量産投資、北米生産への転換

トヨタ自動車の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1960年 豊田中央研究所を設立
  2. 1966年 大衆車カローラの投入と高岡工場への集中投資 販売力の競争から設備投資の競争へ——資本自由化を前に、トヨタは大衆車量産をどう先取りしたか
  3. 1966年 大衆車カローラの投入と高岡工場への集中投資 販売力の競争から設備投資の競争へ——資本自由化を前に、トヨタは大衆車量産をどう先取りしたか
  4. 1967年 ダイハツ工業と業務提携
  5. 1982年 トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併(1982年成立) 経営危機で分けた生産と販売を、なぜトヨタは32年ぶりに一つの会社へ戻したのか?
  6. 1984年 トヨタとGMの世界提携とNUMMIの設立 対米摩擦のなか、世界最大の競合GMとの折半合弁で北米生産を検証した判断
  7. 1986年 北米での単独現地生産の決断とケンタッキー工場(TMM)の建設 合弁で確かめ、単独で賭ける——貿易摩擦のなか、トヨタは北米生産へどう踏み込んだか

カローラの開発と高岡工場への集中投資

1960年代前半、所得水準の上昇を背景に乗用車は富裕層だけでなく一般の勤労世帯にも手が届く実用品[110]になりつつあった。トヨタは社用車やタクシー向けのクラウンでは成功していたものの、1960年のコロナと1961年のパブリカは不具合が多く[111]、大衆車ではつまずきを重ねていた。1962年半ば、初代カローラの開発主査となる長谷川龍雄氏[112]は、パブリカをもう少し大きくした排気量1000cc級の新大衆車を構想し始めた。当時のトヨタには次々と新車を出す余裕がなく[113]、長谷川氏は経営トップの強い支持が要ると判断した。そこでトヨタ自動車販売の神谷正太郎氏に構想を語り、「自動車大衆化の時代は間違いなく、月産一万台はいけます[114]」と説くと、神谷氏は「いや輸出を含めて三万台」と応じた。

1963年に車両開発が認められ、「179A」の試作番号[115]が与えられた。長谷川氏は「大衆車は、あらゆる面で80点以上の合格点でなくてはならない[116]」との設計方針を掲げ、突出よりも全域での高い水準を追求した。マクファーソン式ストラットの前輪サスペンションは国内に前例がなく、長谷川氏は外注を考えたが、豊田英二専務は技術を蓄積するために社内でやれ[117]と一言で退けた。1966年3月、ラインオフまで半年という時期[118]に、英二副社長は排気量を1100ccへ引き上げる指示を出した。日産が計画していた新大衆車が1000ccと判明したためで、100ccだけ大きくして差別化[119]を図る狙いであった。設計陣は変更指示から56日で全変更部の図面[120]を書き直している。

1965年5月、トヨタは高岡町・三好町・刈谷市にまたがる約125万平方メートルの丘陵地の買収に着手[121]し、同年12月に取締役・野口正秋氏を委員長とする高岡工場建設委員会[122]を発足させた。高岡工場は電気泳動塗装と自動静電塗装を組み合わせた塗装工程や、電子計算機によるオンライン・コントロール・システム[123]など、国際水準の生産技術を集めた乗用車量産専門工場として設計された。1966年9月24日、カローラ(KE10型)の第1号車がラインオフ[124]して高岡工場が稼働し、10月20日の正式発表を経て、11月の全国発表会には130万人が来場[125]した。1工場1車種の集中生産は原価を切り下げ、乗用車のシェア争いを販売網の競争から設備投資の規模と速度の競争へと変えた[126]。カローラは1983年3月1日に累計1000万台目[127]を高岡工場のラインから送り出している。

  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [121]1965年5月 約125万平方メートルの用地買収に着手、12月に野口正秋氏を委員長とする建設委員会を発足
    • [122]高岡工場建設委員会 委員長 野口正秋氏
    • [123]電気泳動塗装・自動静電塗装、電子計算機によるオンライン・コントロール・システムを採用
    • [124]1966年9月24日 カローラ(KE10型)第1号車がラインオフ、高岡工場が稼働
    • [125]1966年10月20日 正式発表、11月の全国発表会に130万人が来場
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [126]1工場1車種の集中生産で原価を切り下げ、競争軸が販売網から設備投資へ移行
    • [127]1983年3月1日 カローラ累計1000万台目を高岡工場でラインオフ
    • [110]1960年代前半 所得上昇で乗用車が勤労世帯の実用品へ
    • [116]長谷川龍雄氏の設計方針「あらゆる面で80点以上の合格点」
    • [125]1966年10月20日 正式発表、11月の全国発表会に130万人が来場
    • [111]1960年コロナ・1961年パブリカは不具合が多く大衆車で不振
    • [112]1962年半ば 長谷川龍雄氏が1000cc級の新大衆車を構想
    • [113]当時のトヨタに新車を続けて出す余裕はなく、経営トップの支持が必要と判断
    • [114]長谷川氏「月産一万台はいけます」→ 神谷正太郎氏「いや輸出を含めて三万台」
    • [115]1963年 車両開発を承認、試作番号「179A」
    • [117]マクファーソン式ストラット前輪サスペンションの外注を英二専務が拒否し内製化
    • [118]1966年3月 英二副社長が排気量1100ccへの引き上げを指示
    • [119]日産の新大衆車1000ccに対し100ccの差で差別化
    • [120]変更指示から56日で全変更部の図面を改訂
    • [127]1983年3月1日 カローラ累計1000万台目を高岡工場でラインオフ
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [121]1965年5月 約125万平方メートルの用地買収に着手、12月に野口正秋氏を委員長とする建設委員会を発足
    • [122]高岡工場建設委員会 委員長 野口正秋氏
    • [123]電気泳動塗装・自動静電塗装、電子計算機によるオンライン・コントロール・システムを採用
    • [124]1966年9月24日 カローラ(KE10型)第1号車がラインオフ、高岡工場が稼働
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [126]1工場1車種の集中生産で原価を切り下げ、競争軸が販売網から設備投資へ移行

英二社長の量産投資哲学と、規制・石油危機への対応

1961年、月産5万台計画を検討していたトヨタ[128]は、本社工場をトラック、元町工場を乗用車と専門化してもいずれ能力の限界に達するとの見通しから、エンジン専門工場の建設構想を固めた。愛知県碧海郡上郷町(現・豊田市)の新工場は1964年6月に「上郷工場」と命名され、1965年11月に完成式典[129]を迎えた。1966年10月には日野自動車工業と、翌1967年11月にはダイハツ工業と業務提携[130]を結び、商用車と小型車の分野で協業体制を広げた。カローラの人気で生産が追いつかなくなると、1967年7月には高岡工場の第2組立工場に着手し、翌1968年1月に完成[131]させた。1967年10月、社長の中川不器男氏が急逝したことを受け、副社長の英二氏が社長に就任[132]した。就任会見で「豊田家の人だから選ばれたのか」と問われた英二氏は、「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う[133]」と答えている。

  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [128]1961年 月産5万台計画の検討からエンジン専門工場の構想
    • [129]1964年6月 上郷工場と命名、1965年11月に完成式典
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [130]有報【沿革】1966年10月 日野自動車工業と業務提携、1967年11月 ダイハツ工業と業務提携
    • [131]1967年7月 高岡工場の第2組立工場に着手、1968年1月完成
    • [132]1967年10月 中川不器男社長の急逝により副社長の豊田英二氏が社長就任
    • [133]就任会見での応答「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う」

英二社長は、不況下でも他社に先んじて設備投資に踏み切る経営[134]を貫いた。1977年の取材では「目標はGM(ゼネラル・モーターズ)[135]」と照準を定めていることを明かし、「ふだんはケチに徹するが[136]、いざというときには、ほかに一歩先んじてパッと投資する」と述べている。新工場は完成直後こそ稼働率が低く利益も薄いが、需要の伸びに他社より先んじて対応できれば有利になる[137]という判断であった。元町・上郷・高岡と積み重ねた専門工場の建設[138]は、この考え方に沿って進められた。設備投資を先に打つ手法は、需要が外れれば過剰設備を抱える賭け[139]でもあった。

  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [134]英二社長は不況下でも他社に先んじて設備投資
    • [135]1977年の取材で「目標はGM」と表明
    • [136]英二社長「ふだんはケチに徹するが、いざというときには…パッと投資する」
    • [137]需要の伸びに先行して能力を用意すれば有利という判断
    • [139]先行投資は需要が外れれば過剰設備を抱える賭け
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [138]元町・上郷・高岡の専門工場建設が同じ考え方で進行

1970年代に入ると排出ガス規制が焦点となり、1973年には乗用車メーカー9社が環境庁に呼び出されて聴聞会[140]が開かれた。日本自動車工業会会長を兼務していた英二氏は、業界の足並みをそろえる責任から「うちはできません[141]」という立場を取らざるを得なかったと振り返っている。走行1キロメートル当たりのNOx排出を0.25グラムに抑える1976年度規制[142]は、性能を落とさずに達成することを最低条件とし、実施時期の2年延長を経て全車種でクリアした。英二氏は、石油危機でガソリン価格が高騰する時期に対策を施せば燃費が悪化するとして、燃費の悪化を妨げる触媒で対応する方針[143]を語っている。同じ1973年10月の第1次石油危機で需要は急減し、トヨタは1974年1〜3月に生産を大幅に減らしたのち、4月から増産体制[144]に転じてカローラを旗頭に輸出を伸ばした。

    • [140]1973年 乗用車メーカー9社が環境庁の聴聞会に招集
    • [141]自工会会長を兼務する英二氏が業界の足並みから「うちはできません」の立場
    • [142]NOx 0.25g/km の1976年度規制を2年延長のうえ全車種で達成
    • [144]1973年10月 第1次石油危機、1974年1〜3月に減産、4月から増産へ転換
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [143]英二氏は燃費悪化を妨げる触媒での対応方針を表明(追悼記事)
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [128]1961年 月産5万台計画の検討からエンジン専門工場の構想
    • [129]1964年6月 上郷工場と命名、1965年11月に完成式典
    • [138]元町・上郷・高岡の専門工場建設が同じ考え方で進行
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [130]有報【沿革】1966年10月 日野自動車工業と業務提携、1967年11月 ダイハツ工業と業務提携
    • [131]1967年7月 高岡工場の第2組立工場に着手、1968年1月完成
    • [132]1967年10月 中川不器男社長の急逝により副社長の豊田英二氏が社長就任
    • [133]就任会見での応答「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う」
    • [140]1973年 乗用車メーカー9社が環境庁の聴聞会に招集
    • [141]自工会会長を兼務する英二氏が業界の足並みから「うちはできません」の立場
    • [142]NOx 0.25g/km の1976年度規制を2年延長のうえ全車種で達成
    • [144]1973年10月 第1次石油危機、1974年1〜3月に減産、4月から増産へ転換
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [134]英二社長は不況下でも他社に先んじて設備投資
    • [135]1977年の取材で「目標はGM」と表明
    • [136]英二社長「ふだんはケチに徹するが、いざというときには…パッと投資する」
    • [137]需要の伸びに先行して能力を用意すれば有利という判断
    • [139]先行投資は需要が外れれば過剰設備を抱える賭け
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [143]英二氏は燃費悪化を妨げる触媒での対応方針を表明(追悼記事)

フォード交渉の決裂からNUMMI、そして単独進出へ

1973年前半は好景気で自動車がつくるだけ売れる状態が続き、夏には部材の調達が追いつかず、トヨタは一時スペアタイヤなしの車を出荷[145]したこともあった。英二氏は排出ガス規制と石油危機が重なったこの時期、社業に全力投球できなかった分を花井正八氏が社内の切り盛りで支えた[146]と振り返っている。燃費性能の高い日本車への需要は石油危機を境に北米で拡大し、対米摩擦の火種[147]となった。1980年代初頭には日本車の対米輸出自主規制と、米国製部品の使用を義務づけるローカルコンテント法案の動き[148]が、トヨタに北米での現地生産の決断を迫った。1980年6月、トヨタは米フォードへ米国での小型車共同生産を提案[149]したが、どの車種を対象にするかという入口で調整がもつれ、1981年に交渉は決裂した。

    • [145]1973年前半の好景気で部材調達が逼迫し、スペアタイヤなしの車を出荷
    • [146]花井正八氏が社内の切り盛りを担当
  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [147]石油危機を境に燃費性能の高い日本車の需要が北米で拡大し対米摩擦の火種に
    • [148]対米輸出自主規制とローカルコンテント法案が北米現地生産の決断を迫る
    • [149]1980年6月 フォードへ米国での小型車共同生産を提案、1981年に決裂

単独で北米に工場を設ければ年産20万〜25万台規模で3000億円前後の投資[150]を要し、当時の平均時給は日本の11ドルに対し米国は19〜20ドル[151]という賃金格差から、操業後のコスト計算にも不安が残った。英二社長は「単独対米進出はありえない[152]」と断言している。交渉断念後、かつて日本GMに在籍した加藤誠之氏・トヨタ自販会長が1981年暮れにGM本社を訪ね[153]、ロジャー・スミス会長との糸口をつかんだ。1982年3月1日のトップ会談[154]で、GMの遊休工場でカローラを基にした小型車を共同生産する案がまとまり、折半出資で大枠合意に至った。両社の米国乗用車シェアの合計は5割を超える[155]ため、米独禁法の壁が最大の関門となった。同じ1982年7月、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併して現社名のトヨタ自動車株式会社が発足[156]し、自販株1株に自工株0.75株[157]が割り当てられた。会長には英二氏が、社長には豊田章一郎氏[158]が就いた。

  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [150]単独進出は年産20〜25万台規模で3000億円前後の投資
    • [151]平均時給 日本11ドル/米国19〜20ドル
    • [152]英二社長「単独対米進出はありえない」
    • [153]加藤誠之氏・トヨタ自販会長が1981年暮れにGM本社を訪問しロジャー・スミス会長との糸口を確保
    • [154]1982年3月1日 トップ会談でGM遊休工場での共同生産・折半出資に大枠合意
    • [155]両社の米国乗用車シェア合計が5割超で米独禁法が最大の関門
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [156]有報【沿革】1982年7月 トヨタ自動車販売と合併し社名をトヨタ自動車に変更
  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第3部 第1章 第2節 第2項「工販合併」
    • [157]合併比率 自販株1株に自工株0.75株
    • [158]合併後の会長 豊田英二氏/社長 豊田章一郎氏

1984年2月、トヨタとGMはカリフォルニア州の遊休工場に折半出資の合弁会社NUMMIを設立[159]した。交渉はフリーモント工場の評価をめぐって一時暗礁に乗り上げ、交渉団が白紙撤回を進言する場面もあったが、英二社長は「会長には拒否する権利がある。交渉とは粘り強くやるモノだ」と諭したという。NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する場[161]となった。手応えを得たトヨタは1985年2月に海外事業室へ北米生産検討チームを設け[162]、北米販売が年間100万台に達するなかで単独進出の検討を本格化させた。1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定[163]し、米国では2000cc級乗用車を年産20万台規模で生産する計画とした。米国29州・カナダ8州から寄せられた誘致を部品調達・物流・電力・労働力・治安の観点で分析し、同年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定[164]した。 [160]

  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [159]有報【沿革】1984年2月 GM社との合弁会社NUMMIを設立
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [160]英二社長「会長には拒否する権利がある。交渉とは粘り強くやるモノだ」
  • 有価証券報告書
    • [161]NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する場
    • [162]1985年2月 海外事業室に北米生産検討チームを設置、北米販売は年間100万台
    • [163]1985年7月 臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定、米国は2000cc級を年産20万台規模
    • [164]米国29州・カナダ8州の誘致を部品調達・物流・電力・労働力・治安で分析し1985年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定
    • [145]1973年前半の好景気で部材調達が逼迫し、スペアタイヤなしの車を出荷
    • [146]花井正八氏が社内の切り盛りを担当
  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [147]石油危機を境に燃費性能の高い日本車の需要が北米で拡大し対米摩擦の火種に
    • [148]対米輸出自主規制とローカルコンテント法案が北米現地生産の決断を迫る
    • [149]1980年6月 フォードへ米国での小型車共同生産を提案、1981年に決裂
    • [150]単独進出は年産20〜25万台規模で3000億円前後の投資
    • [151]平均時給 日本11ドル/米国19〜20ドル
    • [152]英二社長「単独対米進出はありえない」
    • [153]加藤誠之氏・トヨタ自販会長が1981年暮れにGM本社を訪問しロジャー・スミス会長との糸口を確保
    • [154]1982年3月1日 トップ会談でGM遊休工場での共同生産・折半出資に大枠合意
    • [155]両社の米国乗用車シェア合計が5割超で米独禁法が最大の関門
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [156]有報【沿革】1982年7月 トヨタ自動車販売と合併し社名をトヨタ自動車に変更
    • [159]有報【沿革】1984年2月 GM社との合弁会社NUMMIを設立
  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第3部 第1章 第2節 第2項「工販合併」
    • [157]合併比率 自販株1株に自工株0.75株
    • [158]合併後の会長 豊田英二氏/社長 豊田章一郎氏
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [160]英二社長「会長には拒否する権利がある。交渉とは粘り強くやるモノだ」
  • 有価証券報告書
    • [161]NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する場
    • [162]1985年2月 海外事業室に北米生産検討チームを設置、北米販売は年間100万台
    • [163]1985年7月 臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定、米国は2000cc級を年産20万台規模
    • [164]米国29州・カナダ8州の誘致を部品調達・物流・電力・労働力・治安で分析し1985年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定

1989年〜 世界販売首位への拡大と、品質・収益をめぐる立て直し

トヨタ自動車の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1995年 奥田碩体制による拡大改革 28年ぶりの非創業家社長が「強いトヨタ」の復活を託された
  2. 1998年 ダイハツ工業を子会社化
  3. 2001年 日野自動車を子会社化
  4. 2010年 米国リコール危機への対応と品質保証体制の再構築 全世界1000万台級のリコールと米公聴会のさなか、豊田章男社長は品質のガバナンスをどう立て直したか
  5. 2011年 系列生産子会社3社の統合とトヨタ自動車東日本の新設 東北を中部・九州に次ぐ第3の拠点へ——豊田章男社長は国内生産の三極化をどう固めたか
  6. 2023年 豊田章男氏から佐藤恒治氏への14年ぶり社長交代とEVシフトの本格化 「クルマ屋」を超える変革を、章男氏はなぜ非創業家の佐藤氏に託したのか
  7. 2026年 就任3年での社長交代と財務出身トップの起用 佐藤恒治体制はなぜ3年で幕を引き、財務のプロに「稼ぐ力」を託したのか

北米での単独生産の定着とレクサス、そして国内シェアの後退

1986年1月に設立したトヨタ・モーター・マニュファクチャリングUSA(TMM)[165]は、全従業員を自動車生産の未経験者から新規採用[166]し、日本製と同等の品質を実現することを絶対条件に掲げた。1988年5月にカムリの第1号車がラインオフし、同年10月には本格生産[167]へ入った。TMM社長を務めた張富士夫氏は1990年の取材で、進出当初は情報が地元に十分伝わらず「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました[168]」と振り返り、その後は地元との対話を重視する運営に転じたと述べている。工場内には「TOP QUALITY」の標語が掲げられ、J.D.パワーズの調査ではケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位[169]に入った。合弁で生産方式の適用を検証し、続けて単独工場で本格投資に踏み切る二段構え[170]は、その後の海外進出でも繰り返された。

  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [165]有報【沿革】1986年1月 トヨタ モーター マニュファクチャリング U.S.A. 設立
    • [166]全従業員を自動車生産の未経験者から新規採用、日本製と同等の品質を絶対条件に
    • [167]1988年5月 カムリ第1号車をラインオフ、同年10月に本格生産
    • [170]合弁で検証し単独工場で本格投資する二段構えを以後の海外進出でも反復
  • Decide = 決断(1990年10月号、サバイバル出版)
    • [168]張富士夫TMM社長の証言「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました」
    • [169]工場内に「TOP QUALITY」の標語、J.D.パワーズ調査でケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位

1989年、トヨタは高級車ブランド「レクサス」を北米市場で発売[171]し、独立した販売網を通じてメルセデス・ベンツやBMWが占めてきた高級車の領域に参入した。同年12月にはトヨタ・モーター・マニュファクチャリング(UK)を設立[172]して欧州での現地生産に着手し、北米で確立した単独進出の手法を欧州へ広げた。1991年2月にはトヨタ自動車九州を設立[173]し、国内の生産拠点を中部の外へ置いた。1996年2月にはトヨタ モーター マニュファクチャリング インディアナを設立[174]し、同年9月から10月にかけて北米の製造・販売統括会社を相次いで設け、地域単位で意思決定を行う仕組みへ移した。1998年10月には欧州の製造統括会社も設立[175]している。

    • [171]1989年 高級車ブランド「レクサス」を北米市場で発売
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [172]有報【沿革】1989年12月 トヨタ モーター マニュファクチャリング(UK)設立
    • [173]有報【沿革】1991年2月 トヨタ自動車九州を設立
    • [174]有報【沿革】1996年2月 トヨタ モーター マニュファクチャリング インディアナ設立、同年9〜10月に北米の販売・製造統括会社を設立
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [175]有報 1998年 欧州の製造統括会社トヨタ モーター ヨーロッパ マニュファクチャリング設立

1990年代前半、バブル崩壊後の国内乗用車市場でトヨタの登録車シェアは後退し、1994年12月には11年ぶりに40%を割り込んだ[176]。ホンダの多目的車「オデッセイ」など他社の人気車種に商品構成が追いつかず[177]、豊田家をトップに頂いた組織運営の長期化が意思決定の遅れを招いている[178]との指摘も強まった。1995年8月、病に倒れた豊田達郎氏に代わり、副社長の奥田碩氏が社長に就任[179]した。旧トヨタ自動車工業以来の歴代社長のうち豊田家と縁のない社長は石田退三氏と中川不器男氏の2人のみで、1967年の英二氏就任から数えて28年ぶりの非同族・生え抜き社長[180]であった。

  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [176]1994年12月 国内登録車シェアが11年ぶりに40%割れ
    • [177]ホンダ「オデッセイ」など他社の人気車種に商品構成が追随できず
    • [178]豊田家を頂点とする組織運営の長期化が意思決定の遅れを招くとの指摘
    • [180]非豊田家社長は石田退三氏・中川不器男氏に続き28年ぶり
  • 有価証券報告書
    • [179]1995年8月 豊田達郎氏の病により奥田碩氏が社長就任
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [165]有報【沿革】1986年1月 トヨタ モーター マニュファクチャリング U.S.A. 設立
    • [172]有報【沿革】1989年12月 トヨタ モーター マニュファクチャリング(UK)設立
    • [173]有報【沿革】1991年2月 トヨタ自動車九州を設立
    • [174]有報【沿革】1996年2月 トヨタ モーター マニュファクチャリング インディアナ設立、同年9〜10月に北米の販売・製造統括会社を設立
    • [166]全従業員を自動車生産の未経験者から新規採用、日本製と同等の品質を絶対条件に
    • [167]1988年5月 カムリ第1号車をラインオフ、同年10月に本格生産
    • [170]合弁で検証し単独工場で本格投資する二段構えを以後の海外進出でも反復
    • [171]1989年 高級車ブランド「レクサス」を北米市場で発売
  • Decide = 決断(1990年10月号、サバイバル出版)
    • [168]張富士夫TMM社長の証言「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました」
    • [169]工場内に「TOP QUALITY」の標語、J.D.パワーズ調査でケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [175]有報 1998年 欧州の製造統括会社トヨタ モーター ヨーロッパ マニュファクチャリング設立
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [176]1994年12月 国内登録車シェアが11年ぶりに40%割れ
    • [177]ホンダ「オデッセイ」など他社の人気車種に商品構成が追随できず
    • [178]豊田家を頂点とする組織運営の長期化が意思決定の遅れを招くとの指摘
    • [180]非豊田家社長は石田退三氏・中川不器男氏に続き28年ぶり
  • 有価証券報告書
    • [179]1995年8月 豊田達郎氏の病により奥田碩氏が社長就任

奥田改革による拡大路線と、世界販売首位への到達

奥田氏は就任にあたり「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる[181]」と公言した。就任直後にダイハツ工業の経営権取得をまとめ、1996年5月には常務以上19人のうち留任をわずか2人[182]にとどめる世代交代の人事を断行した。「登録車で40%の国内シェアは死守する[183]」と掲げ、1995年度の販売諸費・広告宣伝費を前年度比で約40%増の2348億円[184]まで積み増して新型車を相次いで投入した。1997年12月には世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売[185]し、環境技術で先手を取った。1998年9月にはダイハツ工業を株式取得により子会社化[186]し、軽自動車市場での競争力を確保した。国内登録車シェアは1997年時点でなお40%を割り込んでいた[187]が、円安を追い風に業績は増益へ転じ、奥田碩体制の拡大改革が世界販売の伸長につながった。

  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [181]奥田碩氏「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる」
  • 日経ビジネス 1996年8月26日号「販売揺さぶる奥田体制」
    • [182]1996年5月 常務以上19人中の留任は2人のみとする世代交代人事
    • [183]奥田氏「登録車で40%の国内シェアは死守する」
    • [184]1995年度の販売諸費・広告宣伝費 前年度比約40%増の2348億円
  • 日経ビジネス 1998年1月5日号「非創業家トップ、海外に環境に猛進『眠れる巨象』を叩き起こせるか」
    • [185]1997年12月 世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売
    • [187]国内登録車シェアは1997年時点でなお40%割れ、円安を追い風に業績は増益へ
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [186]有報【沿革】1998年9月 ダイハツ工業を株式取得により子会社化

1999年6月には張富士夫氏が社長に就任[188]し、中国事業の拡大と「トヨタウェイ」の体系化を進めた。2000年7月には金融統括会社トヨタファイナンシャルサービスを設立[189]し、2001年4月には産業車両および物流システム事業を豊田自動織機へ譲渡[190]して事業の輪郭を整理した。2001年8月には日野自動車を株式取得により子会社化[191]し、35年に及ぶ業務提携の実績を経て資本関係を深めている。2002年8月には中国第一汽車集団と自動車事業における協力関係の構築で基本合意し、2004年9月には広州汽車集団との合弁で広州トヨタ自動車を設立[192]して中国市場への参入を本格化させた。2006年3月には富士重工業(現・SUBARU)とも業務提携[193]を結んだ。

  • 有価証券報告書
    • [188]1999年6月 張富士夫氏が社長に就任
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [189]有報【沿革】2000年7月 金融統括会社トヨタファイナンシャルサービスを設立
    • [190]有報【沿革】2001年4月 産業車両および物流システム事業を豊田自動織機へ譲渡
    • [192]有報【沿革】2004年9月 広州トヨタ自動車を設立(第一汽車集団との基本合意は2002年)
    • [193]有報【沿革】2006年3月 富士重工業(現・SUBARU)と業務提携
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [191]有報 2001年 日野自動車を株式取得により子会社化

2005年6月に社長へ就いた渡辺捷昭[194]は原価低減を徹底する経営を進め、拡大路線を引き継いだ。2008年3月期には連結売上高26兆2892億円、営業利益2兆2703億円[195]を記録し、世界販売台数でゼネラル・モーターズに迫る規模まで成長した。ところが2009年3月期、リーマン・ショックの影響でトヨタは創業以来初となる営業赤字4610億円、純損失4369億円[196]を計上した。前期に26兆円を超えていた売上高は1年で20兆5295億円まで急落[197]した。トヨタは原価改善で3400億円を捻出[198]する一方、環境・安全分野の研究開発費は削減の対象から外して投資を続けた。

  • 有価証券報告書
    • [194]2005年6月 渡辺捷昭氏が社長に就任、原価低減を徹底
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2008年3月期・連結)
    • [195]2008年3月期 連結売上高26兆2892億円・営業利益2兆2703億円
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
    • [196]2009年3月期 創業以来初の営業赤字4610億円・純損失4369億円
    • [197]2009年3月期 売上高は20兆5295億円へ急落
  • 週刊東洋経済 2010年6月26日号「特集 トヨタ復活!? PART01 「強いトヨタ」は復活するか」
    • [198]原価改善で3400億円を捻出、環境・安全の研究開発費は削減対象外
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [181]奥田碩氏「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる」
  • 日経ビジネス 1996年8月26日号「販売揺さぶる奥田体制」
    • [182]1996年5月 常務以上19人中の留任は2人のみとする世代交代人事
    • [183]奥田氏「登録車で40%の国内シェアは死守する」
    • [184]1995年度の販売諸費・広告宣伝費 前年度比約40%増の2348億円
  • 日経ビジネス 1998年1月5日号「非創業家トップ、海外に環境に猛進『眠れる巨象』を叩き起こせるか」
    • [185]1997年12月 世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売
    • [187]国内登録車シェアは1997年時点でなお40%割れ、円安を追い風に業績は増益へ
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [186]有報【沿革】1998年9月 ダイハツ工業を株式取得により子会社化
    • [189]有報【沿革】2000年7月 金融統括会社トヨタファイナンシャルサービスを設立
    • [190]有報【沿革】2001年4月 産業車両および物流システム事業を豊田自動織機へ譲渡
    • [192]有報【沿革】2004年9月 広州トヨタ自動車を設立(第一汽車集団との基本合意は2002年)
    • [193]有報【沿革】2006年3月 富士重工業(現・SUBARU)と業務提携
  • 有価証券報告書
    • [188]1999年6月 張富士夫氏が社長に就任
    • [194]2005年6月 渡辺捷昭氏が社長に就任、原価低減を徹底
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [191]有報 2001年 日野自動車を株式取得により子会社化
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2008年3月期・連結)
    • [195]2008年3月期 連結売上高26兆2892億円・営業利益2兆2703億円
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
    • [196]2009年3月期 創業以来初の営業赤字4610億円・純損失4369億円
    • [197]2009年3月期 売上高は20兆5295億円へ急落
  • 週刊東洋経済 2010年6月26日号「特集 トヨタ復活!? PART01 「強いトヨタ」は復活するか」
    • [198]原価改善で3400億円を捻出、環境・安全の研究開発費は削減対象外

リコール危機からの再建と、認証不正・収益体質の立て直し

2009年6月、創業家出身の豊田章男氏が社長に就任[199]し、危機のさなかに経営の立て直しを託された。就任直後、フロアマットとアクセルペダルに端を発する全世界1000万台級の大規模リコール[200]が表面化した。2010年2月、豊田章男社長は米下院の公聴会に出席してリコール問題を「ひとえに私の責任[201]」と述べて謝罪し、「安全、次に品質、そして量」という優先順位を改めて示した。同年3月には社長を委員長とするグローバル品質特別委員会を発足[202]させ、地域ごとの品質統括や情報開示の強化を審議項目に掲げて品質保証体制を立て直した。情報開示をめぐる米当局との対立は、2014年3月に制裁金1200億円で合意[203]して決着した。

  • 有価証券報告書
    • [199]2009年6月 豊田章男氏が社長に就任
  • 週刊東洋経済 2010年6月26日号「特集 トヨタ復活!? PART03 「リコール問題」は終わったか」
    • [200]フロアマットとアクセルペダルに起因する全世界1000万台級の大規模リコール
  • レスポンス(2010年2月24日)「トヨタ自動車、豊田章男社長の冒頭説明全文…公聴会」
    • [201]2010年2月 米下院公聴会で「ひとえに私の責任」と謝罪、「安全、次に品質、そして量」を提示
  • 日本経済新聞(2010年3月30日)「豊田章男社長『品質管理、再出発の日』 トヨタが『特別委』初会合」
    • [202]2010年3月 社長を委員長とするグローバル品質特別委員会を発足
  • 日本経済新聞(2014年3月19日)「トヨタ、制裁金1200億円で合意 リコールで米当局と」
    • [203]2014年3月 米当局と制裁金1200億円で合意

2011年7月13日、トヨタは東北に生産拠点を置く関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北の3社を統合する方針を発表[204]した。1ドル70円台の円高と東日本大震災後の混乱[205]のなかで国内生産300万台の維持が課題となり、東北に分散する系列3社を一体化して小型車を一貫生産する体制の整備が急がれていた。2012年7月、関東自動車工業を存続会社としてセントラル自動車とトヨタ自動車東北を吸収合併[206]し、社名をトヨタ自動車東日本へ改めた。愛知を核に九州を高級車、東北を小型車の拠点とする国内三極[207]の構想が、これで形を得た。2016年にはカンパニー制を導入[208]し、車種・技術領域ごとの経営単位へ組織を再編した。2017年以降はスズキ・マツダ・SUBARUと業務資本提携を相次いで結び[209]、2021年3月にはいすゞ自動車とも資本提携[210]している。2020年4月にはパナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立[211]し、車載用角形電池の内製を進めた。

  • トヨタ自動車 ニュースリリース 2011年7月13日「トヨタグループ3社、統合の主要条件を基本合意」
    • [204]2011年7月13日 東北の系列3社(関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北)の統合方針を発表
  • 週刊東洋経済 2011年7月23日号「系列2社を完全子会社化 トヨタ国内再編へ一歩」
    • [205]1ドル70円台の円高と震災後の混乱で国内生産300万台の維持が課題
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [206]有報【沿革】2012年7月 関東自動車工業がセントラル自動車・トヨタ自動車東北と合併し社名をトヨタ自動車東日本へ変更
    • [209]有報【沿革】2017年2月 スズキと覚書(2019年8月資本提携)、2017年8月 マツダと業務資本提携、2019年9月 SUBARUと業務資本提携拡大
    • [210]有報【沿革】2021年3月 いすゞ自動車と資本提携
  • 週刊東洋経済 2014年3月7日号「工場異変 東北を第三の拠点化 トヨタ飽くなきカイゼン」
    • [207]愛知を核に九州=高級車・東北=小型車とする国内三極構想
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2017年3月期・連結)
    • [208]2016年 カンパニー制を導入、企画から生産までをカンパニー内で完結
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [211]有報 2020年 パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立

2024年3月期には連結営業利益5兆3529億円と過去最高[212]を記録したが、品質をめぐる問題が相次いだ。2022年には子会社の日野自動車で排出ガスおよび燃費の試験データ不正が発覚[213]し、2023年12月にはダイハツ工業で25の試験項目にわたる174件の認証不正が判明して64車種が出荷停止[214]に至った。第三者委員会の調査報告書は、上位下達の強い組織風土と過度にタイトな開発スケジュール[215]が不正を助長したと結論づけた。2023年4月、エンジニア出身の佐藤恒治氏が社長に就き、豊田章男氏は会長へ退いた[216]。佐藤氏は開発部門と認証部門の工程分離と第三者監査の導入[217]を進め、「550万人の自動車産業を守るわけじゃない[218]」と述べ、ハイブリッドから燃料電池車までを並行するマルチパスウェイ戦略[219]を採った。2025年3月には「稼ぐ力を失うのは一瞬」と語り[220]、賃金体系の見直しに踏み込んでいる。2026年3月期の売上高は50兆6849億円と初めて50兆円を超えた[221]一方、米関税の負担で営業利益は3兆7662億円へ減った[222]。2026年2月、トヨタはCFOの近健太氏の社長昇格と佐藤氏の副会長就任を発表[223]し、就任3年での社長交代となった。

  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2024年3月期・連結・IFRS)
    • [212]2024年3月期 連結営業利益5兆3529億円(過去最高)
  • 週刊東洋経済 2023年4月15日号「トヨタ 急転のEV戦略 6人目の非創業家社長 『豊田』頼みを超えられるか」
    • [213]2022年 日野自動車で排出ガス・燃費試験データの不正が発覚
  • Bloomberg 2024年4月3日「トヨタの佐藤CEO、波乱に満ちた就任1年目-EV失速や不正対応」
    • [214]2023年12月 ダイハツ工業で25試験項目・174件の認証不正が判明、64車種が出荷停止
    • [215]第三者委員会は上位下達の組織風土と過度にタイトな開発日程が不正を助長と結論
  • 中日BIZナビ 2023年1月26日「【社長交代発表 主な発言】トヨタ社長に執行役員の佐藤恒治氏 豊田章男社長は会長に」
    • [216]2023年4月1日 佐藤恒治氏が社長・CEOに就任、豊田章男氏は会長へ
  • 有価証券報告書
    • [217]開発部門と認証部門の工程分離、第三者監査の導入
    • [218]佐藤恒治氏「550万人の自動車産業を守るわけじゃない」
  • トヨタ自動車「新体制方針説明会」2023年4月7日
    • [219]ハイブリッドから燃料電池車までを並行するマルチパスウェイ戦略
    • [220]佐藤恒治氏 2025年3月「稼ぐ力を失うのは一瞬」、賃金体系の見直しへ
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2026年3月期・連結・IFRS)
    • [221]2026年3月期 売上高50兆6849億円(初の50兆円超)・営業利益3兆7662億円
  • 週刊東洋経済 2026年2月21日号「ニュース&トピックス最前線 01 トヨタが3年でトップ交代 財務のプロが鍛える稼ぐ力」
    • [222]米関税の負担で2026年3月期の営業利益は3兆7662億円へ減益
  • 日本経済新聞(2026年2月6日)「トヨタ社長に近健太氏CFO、副会長に佐藤恒治社長 グループ再構築へ3年で交代」
    • [223]2026年2月 CFOの近健太氏の社長昇格と佐藤恒治氏の副会長就任を発表
  • 有価証券報告書
    • [199]2009年6月 豊田章男氏が社長に就任
    • [217]開発部門と認証部門の工程分離、第三者監査の導入
  • 週刊東洋経済 2010年6月26日号「特集 トヨタ復活!? PART03 「リコール問題」は終わったか」
    • [200]フロアマットとアクセルペダルに起因する全世界1000万台級の大規模リコール
  • レスポンス(2010年2月24日)「トヨタ自動車、豊田章男社長の冒頭説明全文…公聴会」
    • [201]2010年2月 米下院公聴会で「ひとえに私の責任」と謝罪、「安全、次に品質、そして量」を提示
  • 日本経済新聞(2010年3月30日)「豊田章男社長『品質管理、再出発の日』 トヨタが『特別委』初会合」
    • [202]2010年3月 社長を委員長とするグローバル品質特別委員会を発足
  • 日本経済新聞(2014年3月19日)「トヨタ、制裁金1200億円で合意 リコールで米当局と」
    • [203]2014年3月 米当局と制裁金1200億円で合意
  • トヨタ自動車 ニュースリリース 2011年7月13日「トヨタグループ3社、統合の主要条件を基本合意」
    • [204]2011年7月13日 東北の系列3社(関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北)の統合方針を発表
  • 週刊東洋経済 2011年7月23日号「系列2社を完全子会社化 トヨタ国内再編へ一歩」
    • [205]1ドル70円台の円高と震災後の混乱で国内生産300万台の維持が課題
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [206]有報【沿革】2012年7月 関東自動車工業がセントラル自動車・トヨタ自動車東北と合併し社名をトヨタ自動車東日本へ変更
    • [209]有報【沿革】2017年2月 スズキと覚書(2019年8月資本提携)、2017年8月 マツダと業務資本提携、2019年9月 SUBARUと業務資本提携拡大
    • [210]有報【沿革】2021年3月 いすゞ自動車と資本提携
  • 週刊東洋経済 2014年3月7日号「工場異変 東北を第三の拠点化 トヨタ飽くなきカイゼン」
    • [207]愛知を核に九州=高級車・東北=小型車とする国内三極構想
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2017年3月期・連結)
    • [208]2016年 カンパニー制を導入、企画から生産までをカンパニー内で完結
  • トヨタ自動車 有価証券報告書
    • [211]有報 2020年 パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2024年3月期・連結・IFRS)
    • [212]2024年3月期 連結営業利益5兆3529億円(過去最高)
  • 週刊東洋経済 2023年4月15日号「トヨタ 急転のEV戦略 6人目の非創業家社長 『豊田』頼みを超えられるか」
    • [213]2022年 日野自動車で排出ガス・燃費試験データの不正が発覚
  • Bloomberg 2024年4月3日「トヨタの佐藤CEO、波乱に満ちた就任1年目-EV失速や不正対応」
    • [214]2023年12月 ダイハツ工業で25試験項目・174件の認証不正が判明、64車種が出荷停止
    • [215]第三者委員会は上位下達の組織風土と過度にタイトな開発日程が不正を助長と結論
  • 中日BIZナビ 2023年1月26日「【社長交代発表 主な発言】トヨタ社長に執行役員の佐藤恒治氏 豊田章男社長は会長に」
    • [216]2023年4月1日 佐藤恒治氏が社長・CEOに就任、豊田章男氏は会長へ
    • [218]佐藤恒治氏「550万人の自動車産業を守るわけじゃない」
  • トヨタ自動車「新体制方針説明会」2023年4月7日
    • [219]ハイブリッドから燃料電池車までを並行するマルチパスウェイ戦略
    • [220]佐藤恒治氏 2025年3月「稼ぐ力を失うのは一瞬」、賃金体系の見直しへ
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(2026年3月期・連結・IFRS)
    • [221]2026年3月期 売上高50兆6849億円(初の50兆円超)・営業利益3兆7662億円
  • 週刊東洋経済 2026年2月21日号「ニュース&トピックス最前線 01 トヨタが3年でトップ交代 財務のプロが鍛える稼ぐ力」
    • [222]米関税の負担で2026年3月期の営業利益は3兆7662億円へ減益
  • 日本経済新聞(2026年2月6日)「トヨタ社長に近健太氏CFO、副会長に佐藤恒治社長 グループ再構築へ3年で交代」
    • [223]2026年2月 CFOの近健太氏の社長昇格と佐藤恒治氏の副会長就任を発表

トヨタ自動車の沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始★★
トラックを発売
乗用車を発売
トヨタ自動車の創業——豊田自動織機の自動車部による国産量産車の事業化織機で得た資金をなぜ自動車へ投じたのか——豊田喜一郎氏の量産思想と戦後再建 詳細を読む★★★
豊田製鋼を設立
豊田工機を設立
トヨタ車体工業を設立
東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場
愛知工業を設立
日本電装を設立
トヨタ自動車販売を設立★★
トヨタ自動車販売を設立
日本初の乗用車専門工場・元町工場の建設と量産体制への転換需要が定まらぬうちに供給能力を先に築く——トラック専業のトヨタは、乗用車量産への転換をどこで決めたか 詳細を読む★★★
豊田中央研究所を設立
大衆車カローラの投入と高岡工場への集中投資販売力の競争から設備投資の競争へ——資本自由化を前に、トヨタは大衆車量産をどう先取りしたか 詳細を読む★★★
大衆車カローラの投入と高岡工場への集中投資販売力の競争から設備投資の競争へ——資本自由化を前に、トヨタは大衆車量産をどう先取りしたか 詳細を読む★★★
ダイハツ工業と業務提携
トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併(1982年成立)経営危機で分けた生産と販売を、なぜトヨタは32年ぶりに一つの会社へ戻したのか? 詳細を読む★★★
トヨタモータークレジットを設立
トヨタとGMの世界提携とNUMMIの設立対米摩擦のなか、世界最大の競合GMとの折半合弁で北米生産を検証した判断 詳細を読む★★★
北米での単独現地生産の決断とケンタッキー工場(TMM)の建設合弁で確かめ、単独で賭ける——貿易摩擦のなか、トヨタは北米生産へどう踏み込んだか 詳細を読む★★★
トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立
トヨタ自動車九州を設立
奥田碩奥田碩体制による拡大改革28年ぶりの非創業家社長が「強いトヨタ」の復活を託された 詳細を読む★★★
張富士夫ダイハツ工業を子会社化★★
張富士夫張富士夫氏が社長に就任
張富士夫日野自動車を子会社化★★
渡辺捷昭渡辺捷昭氏が社長に就任
渡辺捷昭富士重工業と業務提携
豊田章男初の営業赤字・純損失を計上★★
豊田章男豊田章男氏が社長に就任
豊田章男米国リコール危機への対応と品質保証体制の再構築全世界1000万台級のリコールと米公聴会のさなか、豊田章男社長は品質のガバナンスをどう立て直したか 詳細を読む★★★
豊田章男系列生産子会社3社の統合とトヨタ自動車東日本の新設東北を中部・九州に次ぐ第3の拠点へ——豊田章男社長は国内生産の三極化をどう固めたか 詳細を読む★★★
豊田章男スズキと業務提携に向けた覚書を締結
豊田章男マツダと資本業務提携★★
豊田章男SUBARUと資本業務提携を拡大
豊田章男パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立★★
豊田章男いすゞ自動車と資本提携
佐藤恒治豊田章男氏から佐藤恒治氏への14年ぶり社長交代とEVシフトの本格化「クルマ屋」を超える変革を、章男氏はなぜ非創業家の佐藤氏に託したのか 詳細を読む★★★
就任3年での社長交代と財務出身トップの起用佐藤恒治体制はなぜ3年で幕を引き、財務のプロに「稼ぐ力」を託したのか 詳細を読む★★★
出典・参考

免責事項およびポリシー