トヨタ自動車の歴史
1926年〜豊田自動織機製作所の自動車研究とトヨタ自動車工業の設立
- 豊田紡織の株主総会で豊田自動織機製作所の設立が了承[2]
- 豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始[3]
- トラックを発売[3]
- 乗用車を発売[3]
- 豊田自動織機からの独立[3]
- 挙母工場の建設に着手[4]
- 天津工場の組立工場とボデー工場が竣工[4]
- 月産能力1,500台の挙母工場が竣工[4]
- 芝浦工場を開設[4]
- 蓄電池研究所を設立[4]
- 豊田製鋼を設立[3]
- 豊田工機を設立[3]
- 月産2,000台を達成[4]
- 鍛造工場と熱処理工場の増築が完成[4]
- 川崎航空機との合弁で東海航空工業を設立[4]
- 中央紡績を吸収合併[3]
- トヨタ車体工業を設立[3]
- 鍛造工場を新設[4]
- 関東電気自動車製造を設立[3]
- 日新通商を設立[3]
筆者所見
豊田喜一郎氏の自動車参入は、技術で挑む前に、先行者が築いた市場を自社の足場に変える発想から始まった。国内に普及していたフォード車・シボレー車と部品の互換を持たせた設計は、自前の部品網も販売網も持たない後発が、競合の資産を自社の供給網として借りる仕組みだった[1]。日本GMに在籍した神谷正太郎氏らを招聘したのも、同じ考え方による[1]。相手の土俵に乗って参入する手法は、国産の後発各社のなかで最も周到だったと言える。
- [1]『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
1949年〜経営危機による工販分離と元町工場の竣工
- 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場[3]
- 愛知工業を設立[8]
- 日本電装を設立[8]
- トヨタ自動車販売を設立[3]
- 月産3,000台を目標に生産設備近代化5か年計画を策定[4]
- 約10億円の工作機械の設備合理化計画が完了[4]
- 設備近代化5か年計画の第2期に着手[4]
- 東和不動産(現トヨタ不動産)を設立[3]
- スーパーマーケット方式の工場展開によるトヨタ生産方式の本格化[4]
- 組立工場の設備改造が完了(月産3,000台体制)[4]
- 試作工場(技術第1工場)が完成[4]
- 設備近代化5か年計画が完了(設備投資額47億円)[4]
- トヨタ自動車販売が産業車両を発売[3]
- 月産1万台体制の設備計画に着手[4]
- テストコースの第1期工事が完成(周回路約200m)[4]
- 熱処理工場が完成[4]
- トヨタ自動車販売を設立[3]
- ブラジルトヨタを設立[4][9]
- 土橋工場(仮称)の建設計画を決定[4]
- 元町工場の建設[10]
- 機械工場の増産整備が完了(月産能力1万5,000台)[4]
- 月産1万台を達成[11]
- 元町工場の第2期工事に着手[4]
- 元町工場の第2期工事が完成[4]
- 豊田中央研究所を設立[3]
- 元町第2組立工場の建設に着手[4]
- パブリカ専用の元町第2組立工場が完成[4]
- タイトヨタを設立[4][9]
- ブラジルトヨタの工場が完成(月産能力250台)[4]
- テストコースを1周2,800mに延長[4]
- 月産3万台を達成[4]
- タイトヨタの組立工場が完成(月産能力300台)[4]
- 工場用地約67万m2を取得[4]
- 知多鍛造工場が完成[4]
筆者所見
トヨタの自主独立は、選んだ方針というより、選択肢を失った結果として始まった。フォードとの技術提携は米国政府の禁足令で白紙に戻り、パブリカの合弁生産案もフォードの役員会が否決した[5][6]。同業4社が外資の技術で乗用車の組立を始めるなか、トヨタは自前で量産を立ち上げるほかなかった[7]。この不利な出発が、外資に頼らない原価低減の仕組みを社内に根づかせた。
- [5]『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
- [6]豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [7]『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
1965年〜カローラの量産と対米輸出の自主規制
- 上郷工場の建設に着手[4]
- 1周約4kmのテストコースの建設に着工[4]
- 上郷工場の第1期工事が完成(月産能力3,000台)[4]
- 高岡工場の建設に着手[4]
- 月産5万台を達成[4]
- カローラの本格投入[10]
- 日野自動車工業と業務提携[3]
- 東富士工場の自動車性能試験場が完成[4][9]
- トヨタデルペルーの組立工場が完成[4]
- 三好工場の建設に着手(用地約333万m2)[4]
- ダイハツ工業と業務提携[3]
- 三好工場が操業開始[14]
- 堤工場の建設に着手[15]
- 堤工場が操業開始[14]
- 明知工場の建設に着手[15]
- TABC, Inc.が生産を開始[16]
- 下山工場の建設に着手[15]
- 明知工場が操業開始[14]
- 下山工場が操業開始[14]
- 店舗用住宅を発売[3]
- 個人用住宅を発売[3]
- 衣浦工場の建設に着手[15]
- トヨタテクニカルセンターUSAを設立[14]
- 衣浦工場が操業開始[14]
- 田原工場が操業開始[14]
- ティース トヨタ(現TMCA)を株式取得により子会社化[3]
筆者所見
カローラが国内首位をもたらした要因は、商品の出来以上に、競合の動きを見極めた後発の戦略だった。日産自動車が先に1000ccのサニーを発売したのに対し、トヨタは1500cc級と800cc級のあいだの需要層に照準を定めた[12][7]。日産とプリンスの合併には、経営の自主性を保つ日野自動車・ダイハツ工業との業務提携で対抗した[12][13]。規模を追わず、資本関係を伴わない協力関係を積み重ねたことが、首位を長く保つ土台になった。
- [12]私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [7]『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- [13]『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第5項 ダイハツとの提携」(トヨタ自動車, 2012年)
1982年〜工販合併とGMとの合弁NUMMIによる米国生産
- 製造・販売部門の合併[3]
- トヨタモータークレジットを設立[8]
- GMとの提携でNUMMI設立[3]
- 士別試験場の第1期が完成[14]
- NUMMIが生産を開始[19]
- Canadian Autoparts Toyota Inc.が生産を開始[16]
- TMMの工場建設に着工[15]
- ケンタッキー工場の建設[3]
- 國瑞汽車が生産を開始[16]
- 貞宝工場が操業開始[14]
- 春日井住宅工場が操業開始[14]
- 欧州トヨタテクニカルセンターが完成[14]
- TMMが生産を開始[9][16]
- TMMCが生産を開始[9][16]
- 広瀬工場が操業開始[14]
- Siam Toyota Manufacturingが生産を開始[16]
- トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立[3]
- Sabanciとの合弁でToyotasaを設立[14]
- トヨタ自動車九州を設立[3]
- トヨタ自動車北海道が生産を開始[14]
- トヨタ自動車九州が生産を開始[14]
- TMUKが生産を開始[14]
- Toyotasaの工場が操業開始[16]
- RV出遅れ後の国内シェア40%死守[20]
筆者所見
NUMMIの本質は、最大の競合と資本を折半し、北米生産を小さな投資で試す検証の場を確保した点にある。GMは小型車開発の不振を、トヨタは現地生産の経験不足を抱えており、双方の弱みが合弁を成立させた[17]。トヨタはその手応えを確かめたうえで、1985年に米国とカナダへの単独進出を決定した[18]。巨額の投資に踏み切る前に、競合の工場で検証を済ませた慎重な順序だった。
- [17]『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第2項 GM社との合弁」(トヨタ自動車, 2012年)
- [18]『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第3項 北米へ単独進出―TMMとTMMCの設立」(トヨタ自動車, 2012年)
1996年〜奥田碩体制のダイハツ子会社化と海外生産の倍増
- トヨタ モーター マニュファクチャリング インディアナを設立[3]
- Toyota Motor Vietnamが生産を開始[16]
- Toyota Argentinaのサラテ工場が操業開始[9][16]
- 天津豊田汽車発動機が生産を開始[16]
- ダイハツ工業を子会社化[3]
- トヨタ自動車東北が生産を開始[14]
- 四川豊田汽車を設立[14]
- TMMWVが生産を開始[16]
- TMMIが生産を開始[16]
- 張富士夫氏が社長に就任[23]
- Toyota Kirloskar Motorが生産を開始[16]
- 金融統括会社トヨタファイナンシャルサービスを設立[3]
- TMMFが生産を開始[9][16]
- アイシン精機・デンソー・住友電気工業との合弁でADVICSを設立[14]
- 産業車両・物流システム事業を豊田自動織機製作所へ譲渡[3]
- 日野自動車を子会社化[8]
- PSAプジョー・シトロエンとチェコでの小型車共同生産に合意[14]
- PSAとの合弁でトヨタ プジョー シトロエン オートモービル チェコを設立[3]
- TMMPが生産を開始[16]
- 2010年グローバルビジョンの策定
- 天津一汽豊田汽車が生産を開始[16]
- TMMALが生産を開始[16]
- TMMBCが生産を開始[16]
- 広州汽車集団との合弁で広州トヨタ自動車を設立[3]
- TPCAが生産を開始[16]
- 渡辺捷昭氏が社長に就任[8]
- 欧州の販売統括会社TMMEが製造統括会社・持株会社と合併[3]
- TMMTXの工場が稼働[24]
- 富士重工業と業務提携[3]
- 広州トヨタがカムリの生産を開始[24]
- 天津一汽トヨタの第3工場が生産を開始(20万台規模)[25]
- TMTのバンポー工場がハイラックスの生産を開始(年産10万台)[25]
- 高岡工場で革新生産技術のラインが稼働[26]
- TMMRがカムリの生産を開始(年間2万台規模)[26][27]
- TKM第2工場の建設を決定(年産10万台・約350億円)[28]
- 四川一汽トヨタが長春新工場を着工[29]
筆者所見
奥田碩氏の拡大路線は、国内で台数が利益を生まなくなった現実への処方箋だった。世界シェア15%を掲げた2010年グローバルビジョンは、市場予測の積み上げではなく、海外の生産能力を先に積む約束として機能した[21]。海外生産を5年でほぼ倍にする成長を体現した一方で、需要が縮んだときに拡大をどこで止めるかは決めていなかった[22]。その備えの欠如が、2009年3月期の営業赤字につながった。
- [21]トヨタ自動車 アニュアルレポート2003「社長インタビュー」
- [22]『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
2009年〜初の営業赤字と豊田章男体制の大規模リコール対応
- 初の営業赤字・純損失を計上[8]
- 豊田章男氏が社長に就任[8]
- 米国リコール危機対応
- 住宅事業をトヨタホームに承継[3]
- トヨタ自動車東日本の新設
- トヨタ車体と関東自動車工業の完全子会社化を発表[33]
- TMMINのカラワン第2工場の建設を決定(年産7万台)[34]
- TMTのゲートウェイ第2工場の建設を決定(約169億円)[35]
- TMMCのRX350の生産能力を年約1万5,000台増強[36]
- 関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北が合併(トヨタ自動車東日本)[3]
- STMのディーゼルエンジン生産能力増強を決定(約400億円)[37]
- TMMRの生産能力増強を決定(約180億円)[27]
- 四川一汽トヨタ成都工場の能力増強を決定(約50億円)[38]
- NUMMIの解散申請を米国の管轄裁判所が認可[3]
- スズキと業務提携に向けた覚書を締結[3]
- マツダと資本業務提携[3]
- マツダとの合弁でマツダトヨタマニュファクチャリングUSAを設立[3]
- SUBARUと資本業務提携を拡大[3]
- パナソニックとの合弁でプライムライフテクノロジーズを設立[3]
- パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立[39]
- 広瀬工場をデンソーに譲渡[40]
- いすゞ自動車と資本提携[3]
- トヨタバッテリーマニュファクチャリングの設備投資698億円を計画[41]
- 佐藤恒治氏が社長就任
- ダイムラートラック・三菱ふそう・日野自動車と商用車事業の協業で合意[3]
- TMMGTの設備投資1,044億円を計画[42]
- トヨタバッテリーマニュファクチャリングの設備投資4,675億円を計画[43]
- アカデミカーペンションの株主提案を定時株主総会で否決[44]
- ダイハツ・日野の認証不正対応
- SinoHytecとの共同拠点で燃料電池の生産を開始[45]
- 上海にレクサスBEVと電池の新会社を設立[44]
- 近健太氏が社長就任
- 日野自動車が特定子会社でなくなる予定[44]
- 豊田自動織機の保有株式をすべて譲渡[44]
筆者所見
豊田章男氏の体制が最初に変えたのは、成長の速さではなく、成長を測る物差しだった。4,610億円の営業損失の後、目標を台数ではなく、販売750万台でも営業利益1兆円を確保する損益の下限に置いた[30][31]。この物差しの転換が、他社と開発を分担する余力を生んだ。提携を広げた分だけ、統制の及ばない範囲も広がった。日野自動車とダイハツ工業の認証不正は、その代償である[32]。
- [30]トヨタ自動車 有価証券報告書 第106期(2010年3月期)【連結損益計算書】
- [31]『トヨタ自動車75年史 第3部第5章第4節』「第1項 グローバルビジョンの発表」(トヨタ自動車, 2012年)
- [32]トヨタ自動車 有価証券報告書 第120期(2024年3月期)【事業等のリスク】