財閥の資本を持たない造船所が生き延びる条件は、誰よりも先に手を出すことだった。1876年に石川島平野造船所を個人経営として引き受けた平野富二は、三井・三菱・住友が海運や商事で得た収益を機械部門へ充当したのに対し、重機械の生産ひとすじに打ち込んだ。日本最初の蒸汽船、ボイラ、製糸機械、破砕機、鉄橋、エレベーター。国産化の一覧がそのまま事業の一覧になったのは、工業基盤の薄い国で造船所が素材から部品まで自給せざるをえなかったからでもある。のちに機械のデパートと呼ばれる性格は、選んで多角化した結果ではなく、他に頼れなかった結果として身についた。
広げた機種は、そのまま切り離す対象にもなった。1925年の飛行機、1929年の自動車、1936年のタービン、1941年の航空工業と、石川島は部門を子会社として外へ出し続け、そのうち自動車部門はいすゞ自動車になる。分離が可能だったのは、各部門が自給の体制のなかで一通りの工程を抱えていたからだろう。第一次世界大戦では対払込資本利益率が89.2%に達したが、続く反動不況と恐慌、賃上げを求める同盟罷業が、その膨らんだ体を締め直した。1945年8月に5台だけ完成したネ二〇は、分離した石川島芝浦タービンで育った技術が本体へ戻ってきた最初の形であった。
石川島の始まりは、幕府の命令で隅田川口の石川島に建てられた、わが国で最初の造船所である。嘉永六年(1853年)に米国の水師提督ペルリが来朝し、同年9月に200年にわたる大船建造禁止令が解かれたのを受けて、12月に建設された。1876年、同造船所は機関技師平野富二氏の個人経営に移って石川島平野造船所を名乗り、民営としては国内で最初の造船所となった。平野氏は民営初の汽船建造を進める一方で活字製造や印刷業にも手を広げ、日本最初の蒸汽船のほか、ボイラ、製糸機械、破砕機、鉄橋、エレベーターといった機械類をはじめて国産化した。三井・三菱・住友は海運や商事、鉱山の収益を機械部門へ回したが、平野氏は重機械の生産だけに力を注ぎ続け、47歳で世を去った。
財閥の後ろ盾を持たない石川島は、強力な財閥企業と渡り合うため、経営と技術の両面で常に他社の一歩先を行く必要があった。出発点は1889年1月の組織変更で、平野富二氏や渋沢栄一氏らが資本金17万5,000円の有限責任石川島造船所を設け、いまの第一工場の位置で造船と陸舶用の諸機械をつくった。1893年9月、商法の施行に合わせて株式会社東京石川島造船所へ社名を改め、渋沢栄一氏が初代会長となったことで、以後長く続く第一銀行との固い結びつきが生まれた。工業の土台が弱いなかで、造船所は材料も部品も自前でまかなうしかなく、その傾向が石川島ではとくに強く表れた。この過程で身についた性格が、後に"機械のデパート"と呼ばれるもとになった。
わが国の運搬荷役機械は1897年の同社製の手動起重機に始まり、その後の製作台数は約5,600台・百数十種におよんだ。そのなかには1934年の三百五十屯旋回式埠頭起重機、1936年の鴨緑江に架けたわが国最大径間九百三十米のケーブルクレーン、世界最大級の四百屯共吊り八百屯天井起重機がある。わが国の起重機船と浚渫船は、ほとんどが同社で建造された。圧縮機は高圧合成用として知られ、1939年のアンモニア合成用四千五百馬力八百気圧六段圧縮機は容量において東洋一であった。水門の製作数は八百余を数えてわが国最高であり、造船部門では創業以来各種艦艇約800隻を建造している。造機部門では1921年にスイスのエツシャ・ウィス社と提携してツェリー式舶用蒸気タービンの製造販売権を獲得し、独自の考案と改良を加えた石川島式舶用蒸気タービンで質量ともにわが国最大のメーカーとなった。
第一次世界大戦は、この会社の規模を一段変えた。1918年の業績を大戦前の1913年と並べると、売上高は約11倍、純利益は約17倍に膨らんでいた。それ以前、1913年から1915年までは同業との競争で利の薄い工事が多く、売上高は年230万円から270万円、純利益は20万円以下と、横ばいが続いていた。1916年、大戦の影響で海運業が活気づくと、新たな受注は約800万円に増え、翌1917年には3,014万円という巨額に及び、会社はやむなく引き受けるもの以外は断って、抱えた受注をこなすだけで手一杯になったという。売上高は1917年に949万円、1918年に2,605万円と最高を塗り替え、1918年の純利益は300万円を超えた。対払込資本利益率は1915年まで20%以下だったものが、1916年25.1%、1917年49.2%、1918年には89.2%という高率に達した。この反動は大きく、1920年から昭和初年にかけて、戦後反動不況・震災恐慌・金融恐慌・世界恐慌と続く波が造船業界を襲った。
好況の裏側で、職場は荒れた。大戦中の物価と賃金の上昇にずれがあり、労働者の生活はかえって苦しくなって、労働運動は急速に組織化された。1919年は全国の同盟罷業が497件に上り、それまでにない件数を記録した年で、争議は石川島に限ったことではなかった。石川島では前年1918年8月、社会主義思想の研究と実践を掲げる労働団体の啓成会が社内にでき、1919年のはじめには会員が200名を超えていた。同年7月19日、鉄工約700名が賃金の3割引き上げを求めて同盟罷業に入った。その後も1921年、1926年に賃金制度を争点とする争議が起こり、大正末期に相次いだ争議は経営を大きく妨げたため、会社は工場協議会と職場懇談会を設けて対処した。
社運の進展にともない、同社は各種の生産部門を分離して子会社を設立している。1925年の石川島飛行機製作所、1929年の石川島自動車製作所、1936年の石川島芝浦タービン、1937年の奉天製作所、1941年の石川島航空工業、1943年の東京造船所、1944年の満州石川島重工業がそれであり、このうち石川島自動車製作所はのちのいすゞ自動車にあたる。百年の歩みは企業の分離と統合の歴史であった。分離した石川島芝浦タービンには、1936年に土光敏夫氏が本社から移っている。同氏は1929年に特許番号八三〇八二"推力軸承の改良"を得たのを皮切りに蒸気タービンの特許と実用新案を重ねた技術者で、1929年の石川島の技術陣は年間16件の特許を取り、この記録は1952年まで破られなかった。
1933年10月、東京市の勝鬨橋架設計画を機会に、第一工場の造船部門を移転拡張する目的で深川豊洲に第二工場を増設し、1939年2月に造船および製缶関係の操業を開始した。1940年3月には陸舶用諸機械の需要増大に対処するため、タービン部門と鋳造部門を移転し、産業設備営団の援助を一部得て第三工場を建設している。太平洋戦争に入ると石川島芝浦タービンは軍需工場に指定され、1943年には東芝の首脳陣を説得して長野県松本市に敷地30万坪・建物5万坪の大工場を建設した。ここでは航空機用排ガスタービンと過給機を製造し、続いて辰野工場・木曾工場・伊那工場と工場網を広げた。
ジェットエンジンの開発は、石川島芝浦タービンが1942年ごろからプロペラ併用タービン噴進機を目標に着手し、海軍の種子島時休大佐の指導と技術院の参加を得て進んだ。ドイツから資料を潜水艦で運ぶ途中に一隻が撃沈され、かろうじて到着した一隻から1944年に見取図を入手している。これをもとに航空本部・海軍航空技術廠・石川島が協力し、"ネ二〇"と名付けられたエンジンが完成した。特別戦闘攻撃機"橘花"に装備されて1945年8月7日に飛翔し、六百メートルを十二分間飛んだが、工場を挙げて量産体制に入った一週間後に終戦を迎えた。同社はネ二〇を終戦直前に五台完成させ、民間会社として唯一の実績を残している。この間の1945年6月、商号を石川島重工業株式会社と改称した。
1950年の石川島重工業を立て直したのは、朝鮮戦争の需要そのものではなく、需要の測り方を変えたことだった。社長に就任した土光敏夫は、代表権を自分一人に集め、役員を平の取締役に戻して、その報酬を部長の上位5人の平均に据えた。そのうえで能率調査班を組み、国家予算の部門別の枠から鉄鋼と造船への配分を割り出し、過去5年の自社の取り分を掛けて、取れるはずの受注量を先に数字にした。景気が来たときにどれだけ取れるかを、営業個人の勘に委ねない。目標管理と呼ばれたこの仕組みは、好況を偶然にしないための装置であった。
装置が回っても、船台の長さは変えられなかった。1960年の石川島重工業が造れる最大の船は22,000GT級で、三菱造船の81,000GT級には遠く、隅田川河口という立地では大型船台を築く余地もない。一方の播磨造船所は造船に9割を依存し、2年で売上高を半分に減らしていた。陸上機械が7割の会社と、造船が9割の会社。合併で入れ替わったのは資本金でも従業員の数でもなく、どの大きさの船まで受注できるかという上限である。1963年に13万5,000重量トン級のタンカーを引き受けられる造船所が国内に2社しかなかったことが、その交換の値打ちを示した。
石川島重工業は終戦直後の1945年9月、資本金4,800万円を増資して1億円とし、はやくも事業を再開した。当座はナベやカマの類、日用品や農機の製造で糊口をしのぎ、やがて石炭・肥料・海運への傾斜生産によって造船と機械の受注が戻り始めた。ところが政府は戦時補償を全額打ち切る方針を採り、これに先立つ1946年8月15日、影響を受ける会社を特別経理会社とする会社経理応急措置法を公布した。石川島重工業も同月の指定を受け、8月10日現在で資産と負債を新旧両勘定へ分離し、事業の継続に必要なものだけを新勘定へ編入している。手元に残った資産は8,089万9,412円10銭であった。1948年7月には企業再建整備法にもとづく整備計画の認可を申請し、資本金を2,960万円へ減資して、減少額7,040万円を特別損失の補填に充てた。
経済民主化政策の下で、石川島重工業は1946年12月に準制限会社、1948年2月に過度経済力集中会社の指名を受けた。同年6月には過度経済力集中排除法にもとづき、保有他社株式の処分と、第一・第二・第三工場の分割とを命じられ、一時は将来が危ぶまれた。石川島重工業は三工場の地理的・技術的・経済的な関係を説いて各工場の一本化を要請し、この方針は認められて同年11月に指定を解除された。首脳陣は1948年、公職追放令の影響で下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務という若い顔ぶれに替わっており、集中排除法下の対応と戦後の特別損失の補填はこの三人の下で進んだ。翌1949年2月には1億40万円の増資を決め、3月の払込完了とともに旧債務を弁済して新旧勘定を合併し、特別経理会社の指定を解かれた。財閥の資本を持たない会社にとって、三つの工場を一つの生産体としてつなぎ続けられるかどうかは、再建の可否そのものだったのだろう。
1949年、石川島重工業は黒字に転じ、下期には3,000万円の利益を計上して資本金を1億3,000万円へ増資した。ところが1950年に受注した戦時標準船の改造工事、一重底を二重底へ造り替える工事で大赤字を出し、無配に転落する。大インフレーションの影響をまともに受けた結果であり、この年は倒産が続出して日本全国が不況にあえいだ年でもあった。造船部門の採算はもともと脆かった。1952年の業界観測は、船台を遊ばせる不利から赤字を承知で注文を争う各社の状態を伝え、石川島重工業についても『修繕、起重機、タービンであげた利益を造船部門で食われていた』と書いている。赤字は1億円を超え、経営は危機に瀕した。石川島重工業は役員人事の刷新によってこの危機を越えようとした。
1950年6月24日、土光敏夫氏が石川島重工業の社長に就任した。同氏は1936年に系列の石川島芝浦タービンへ移り、戦後はその社長として第一銀行と通商産業省を駆け回って資金と補助金を引き出し、親会社より早く立ち直らせていた技術者である。笠原逸二前社長が役員会へ乗り込んで話をつけ、有無を言わせず本社へ引き入れた。就任にあたって前役員は全員が辞表を出し、土光氏は田口連三・西崎鎮夫・志賀晃の三氏だけを残した。残る条件として決めたのは、代表権を社長だけが握り、ほかの役員は全員を平の取締役とすること、役員給与は部長職の上位五人の月給の平均値に据えること、そして役員の総数を減らすことである。経費の引き締めは、まず役員の報酬から始まった。社長就任の翌25日、朝鮮戦争が始まった。
土光敏夫氏が石川島重工業へ持ち込んだのは、受注量を見込みで語らせない仕組みであった。営業の組織は1949年11月の大改正で業務・第一営業・第二営業の三部に分かれ、生産機・起重機・電力機械と船舶・舶用機関をそれぞれ所管していた。土光氏は日本能率協会から技師を招いて中堅職員17人を加えた能率調査班を編成し、これが生産管理方式を軸とする改善案を出して、半年で数十回の会議を重ねる生産合理化委員会となった。組み立て方はこうである。当時約1兆円の国家予算から部門別の枠を割り出して鉄鋼と造船への配分を出し、そこへ過去五年間の自社の受注量が全体の何パーセントに当たるかを掛け、通常なら取れる受注量を算出して、目標額を上乗せしたうえで各部課へ、場合によっては個人へ割り当てた。陣頭指揮を執ったのは常務の田口連三氏である。予算から逆算した枠は、景気の波と営業個人の力量とを切り離して受注を計る物差しであった。
石川島重工業は、戦後の技術格差を欧米からの導入で埋めた。1952年4月に米国フォスターウィラー社から陸舶用蒸気発生装置、同年7月に米国コーリング社からバッチャープラントやパワーショベルの技術を受け、コーリング社とは合弁で石川島コーリングを設立している。1956年6月には米国ゼネラル・エレクトリック社からJ47-GE-27航空機用エンジンの導入認可を得た。件数はこのころ約80件に達している。航空はいっそう回り道であった。終戦後しばらくは航空生産そのものが禁じられていたため、研究会グループを作り、ゼネラル・エレクトリック社からジェットエンジンを借り受けて分解と組み立て、運転を繰り返した。1952年に航空工業の許可制が再開されると、翌1953年、関係各社との共同出資で日本ジェットエンジン株式会社を設立し、純国産エンジンの開発に入る。同社はのちに解散し、技術と職員は石川島重工業が引き取った。
1950年から翌年にかけてブラジルタンカー購入委員会が三隻のタンカーを発注し、1954年に納めた輸送船が運航中に岸壁へ接触してコンクリート壁のほうを破損させたことが、ブラジル海軍工廠からの提携の申し入れを呼んだ。1957年秋、ブラジル政府はリオデジャネイロ港内の埋立地40万平方メートルを提供すると伝え、入港税を財源に自国の船主と造船所へ低利融資する商船基金法を制定する。国内では政情の不安定を理由に無謀との声が多かったが、土光敏夫氏は責任は自分が負うとして押し切り、1958年1月に議定書へ調印した。現地で海員組合が外国資本による乗っ取りだとして上げた反対決議も、常務の下村礼輔氏らの説得で鎮まった。1959年1月、資本金17億6,000万クルゼイロの石川島ブラジル造船所が発足し、約3分の1をブラジル開発銀行とリオデジャネイロ港湾局が引き受け、日本からは技術者125人が送り込まれた。
合併の理由は建造能力の差にあった。1960年当時、三菱造船は八万一千GT級、三菱日本重工業は五万GT級、日立造船・川崎重工業・播磨造船所は四万ないし四万五千GT級の船を建造できたのに対し、石川島重工業が造れる最大の船は二万二千GT級に限られていた。隅田川河口という立地では大型船台を築けず、用地を外へ求めるほかなかった。石川島重工業では陸上機械部門の売上高が総額の7割前後を占め、造船業界の不況下でも利益は上昇していた。一方の播磨造船所は造船比率が9割を超え、1958年以降の長期不況によって1958年から1960年の二年間に受注残高は3分の2、売上高は2分の1へ減り、陸上部門への進出を探っていた。石川島重工業がタービン機関を、播磨造船所がディーゼル機関を互いに供給し合う関係は以前からあった。土光敏夫氏はこの組み合わせを『つまり"陸"と"海"との結婚である』と呼んでいる。
1960年7月1日、両社は合併趣意書と契約書を取り交わした。石川島重工業は資本金52億円・従業員約9,000名・年間生産能力約400億円、播磨造船所は資本金40億円・従業員約6,000名・年間生産能力約200億円である。石川島重工業が記名式普通株式4,800万株を発行し、播磨造船所の株式五株につき三株の割合で割り当てて、資本金は102億円となった。7月25日の臨時株主総会で承認を得て、同年12月1日、石川島播磨重工業が発足する。業界誌は、定評ある大型船建造工場を居ながらにして手に入れ、後顧の憂いを絶ったと評した。1963年には、出光興産の13万五千重量トン級タンカーを建造できるのは佐世保重工業と石川島播磨重工業だけという状態が生まれている。合併で交換されたのは工場でも株式でもなく、どの大きさの船まで受注できるかという上限であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1853〜1945年幕命の造船所と、財閥によらずに広げた重機械の裾野 | 有限責任石川島造船所を設立 | ★★ | ||
| 東京石川島造船所に商号変更 | ★★ | |||
| 航空機部門を分離(立川飛行機) | ★ | |||
| 自動車部門を分離(いすゞ自動車) | ★ | |||
| 芝浦製作所(東芝)と共同でタービン製造会社を設立 | ★ | |||
| 東京江東区豊洲で造船所を拡張 | ★ | |||
| 石川島重工業に商号変更 | ★ | |||
| 1946〜1964年経営危機からの再建と、陸と海を交換した合併 | 下島勝次 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 土光敏夫 | 田無工場を新設・ジェットエンジン製造を開始 | ★ | ||
| 土光敏夫 | 造船同業との一本化による石川島播磨重工業の発足と、事業規模の拡大 1960年12月、石川島重工業が業界第三位の播磨造船所を合併し、石川島播磨重工業を発足させた経営判断。陸上機械に厚い石川島と造船に偏った播磨が設備と事業構成を交換する形で結びつき、土光敏夫社長の主導で進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 土光敏夫 | 石川島芝浦精機・芝浦ミシンを合併 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | ジュロン造船所を新設 | ★ | ||
| 田口連三 | 名古屋造船・名古屋重工業を合併 | ★★ | ||
| 1965〜1998年造船世界一からの転落と、二度にわたる人員削減 | 田口連三 | 呉造船所を合併 | ★ | |
| 真藤恒 | 愛知工場を新設 | ★ | ||
| 生方泰二 | 希望退職者を大量募集 | ★ | ||
| 稲葉興作 | 造船不況の直撃を受けた事業構成の抜本的な作り替え 1979年と1987年の二度にわたる大規模な人員削減とあわせて、石川島播磨重工業が造船一本の事業構成を陸上機械・産業機械へ組み替え、重工業と機械産業の中間を志向する"2.5次産業型企業"への脱皮を進めた経営判断。稲葉興作社長の下で対外的に明確化した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 武井俊文 | 航空分野に積極投資 | ★ | ||
| 1999〜2026年祖業の切り離しと、航空エンジンへの集中が招いた代償 | 武井俊文 | 他社事業の取り込みを通じた航空・宇宙への軸足の移動 1998年に航空分野への積極投資を決め、2000年7月に日産自動車から宇宙航空事業を譲り受けてアイ・エイチ・アイ・エアロスペースを設立した経営判断。造船が構造不況で細るなか、民間エンジン事業部長からの経歴を持つ伊藤源嗣社長が、航空エンジンと宇宙を次の主力に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 武井俊文 | 造船事業の切り出しによる、本体からの分離運営への移行 2002年10月、石川島播磨重工業が祖業の船舶・海洋事業を分社化し、住友重機械工業との合弁IHIマリンユナイテッドへ移管した経営判断。前年に川崎重工との統合で一度合意しながら五ヶ月で破談し、相手を住友重機械へ替えて実現した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 伊藤源嗣 | 豊洲2丁目土地区画整理事業に参入 | ★★★ | ||
| 伊藤源嗣 | 船舶海洋事業を分社化・IHIマリンユナイテッドを発足 | ★★★ | ||
| 釡和明 | 工事の見積誤りが招いた過年度決算の訂正と課徴金納付命令 エネルギー・プラント事業の工事進行基準で見積原価の過誤が生じ、2007年3月期の決算訂正、特設注意市場銘柄への指定、15億9,457万円の課徴金納付命令へと至った内部統制の失敗 詳細を読む | ★★★ | ||
| 斎藤保 | 造船子会社をユニバーサル造船と合併させ、祖業を持分法適用会社へ移した選択 2012年1月30日、IHIは連結子会社のIHIマリンユナイテッドを、JFEホールディングス傘下のユニバーサル造船と合併させる統合基本合意書を締結した。同年8月27日にJFEホールディングスとの間で最終的に合意し、2013年1月1日、ユニバーサル造船を存続会社とする合併でジャパン マリンユナイテッドが発足した。IHIの持株比率は45.93%で、2002年に本体から切り出した祖業の造船は、連結子会社から持分法適用関連会社へ退いた。 詳細を読む | |||
| 斎藤保 | ジャパンマリンユナイテッド発足 | ★★ | ||
| 斎藤保 | Steinmuller社を買収 | ★ | ||
| 満岡次郎 | 非注力事業の縮小 | ★ | ||
| 満岡次郎 | プラント事業をIHIプラントに承継 | ★★ | ||
| 井手博 | IHI原動機の大型エンジン事業を三井E&Sへ譲渡 | ★★ | ||
| 井手博 | 「技術を欺いた」不正の露見 子会社IHI原動機の船舶用・陸上用エンジンで試運転記録の不適切な修正が判明し、特別調査委員会の設置から再発防止策の策定、経営陣の報酬返上、顧客への燃費補償まで対応を迫られた品質統治の失敗 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井手博 | 航空エンジンへの経営資源の集中が招いた過去最大の損失計上 2024年3月期、IHIは米プラット・アンド・ホイットニーの民間エンジンPW1100G-JMの品質問題で応分の負担を迫られ、過去最大となる682億円の最終赤字を計上した。造船分社化と非注力事業の整理を重ねた末に中心軸となった航空エンジンへの集中が、その裏側にあるリスクを一度に露わにした一年であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井手博 | 業績好転の見込み | ★ |
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事実根拠:出所(IHI)