| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 83億円 | 4億円 | 4.8% |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 103億円 | 4億円 | 3.9% |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 162億円 | 6億円 | 3.7% |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 231億円 | 14億円 | 6.0% |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 273億円 | 23億円 | 8.4% |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 311億円 | 28億円 | 9.0% |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 437億円 | 32億円 | 7.3% |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 570億円 | 36億円 | 6.3% |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 743億円 | 41億円 | 5.5% |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 905億円 | 39億円 | 4.3% |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,131億円 | 33億円 | 2.9% |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,373億円 | 28億円 | 2.0% |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,740億円 | 28億円 | 1.6% |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,215億円 | 32億円 | 1.4% |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,813億円 | 44億円 | 1.5% |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,365億円 | 70億円 | 2.0% |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,727億円 | 86億円 | 2.3% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,030億円 | 48億円 | 1.1% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,354億円 | 45億円 | 1.0% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,803億円 | 83億円 | 1.7% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,326億円 | 67億円 | 1.0% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,249億円 | 94億円 | 1.5% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,961億円 | 117億円 | 1.6% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,634億円 | 57億円 | 0.7% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,981億円 | 19億円 | 0.2% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,913億円 | 38億円 | 0.5% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,811億円 | 60億円 | 0.8% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,776億円 | 96億円 | 1.2% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,890億円 | 112億円 | 1.4% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 9,108億円 | 106億円 | 1.1% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 8,024億円 | 86億円 | 1.0% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,689億円 | -212億円 | -2.8% |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,147億円 | 15億円 | 0.2% |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,154億円 | 107億円 | 1.7% |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,537億円 | 246億円 | 2.3% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,378億円 | 177億円 | 1.7% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,809億円 | 116億円 | 1.0% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,232億円 | 143億円 | 1.3% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,851億円 | 195億円 | 1.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,718億円 | 137億円 | 1.2% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,893億円 | 155億円 | 1.4% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,538億円 | 58億円 | 0.5% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,950億円 | -789億円 | -8.0% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,148億円 | 92億円 | 0.8% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,824億円 | 55億円 | 0.5% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,190億円 | -96億円 | -1.0% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,474億円 | -383億円 | -3.7% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,890億円 | 21億円 | 0.1% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,270億円 | 42億円 | 0.3% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 12,210億円 | -45億円 | -0.4% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,505億円 | 251億円 | 1.8% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,880億円 | -74億円 | -0.6% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 12,427億円 | 173億円 | 1.3% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,872億円 | 297億円 | 2.5% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 12,218億円 | 238億円 | 1.9% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 12,560億円 | 333億円 | 2.6% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,040億円 | 331億円 | 2.5% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,558億円 | 90億円 | 0.6% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,393億円 | 15億円 | 0.0% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,863億円 | 52億円 | 0.3% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,903億円 | 82億円 | 0.5% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,834億円 | 398億円 | 2.6% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 12,631億円 | 82億円 | 0.6% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 11,129億円 | 130億円 | 1.1% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 11,729億円 | 660億円 | 5.6% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 13,529億円 | 445億円 | 3.2% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 13,225億円 | -682億円 | -5.2% |
日本の重工メーカーのなかで、IHIは祖業である造船からクリーンな撤退を完了した点で際立っている。三菱重工業が客船プロジェクトで巨額損失を被り、川崎重工業が造船部門の分離をめぐって社長解任を含む内紛に陥ったのに対し、IHIは海洋事業の分社化→住友重機械との統合(IHIマリンユナイテッド)→ユニバーサル造船との統合(ジャパンマリンユナイテッド、出資比率30%)という段階的なステップを経て、2013年までに実質的に造船から撤退した。大規模な減損処理も社内の権力闘争も伴わない、構造的に整理された撤退であった。
IHIがこの撤退を実行できた理由を理解する鍵は、売上構成にある。1960年の播磨造船所との合併時点で、石川島の陸上事業(機械・エンジン・タービン)はすでに売上高の約80%を占めていた。造船は収益の柱ではなく、多角化したポートフォリオのなかで構造的にマイナー事業であった。これは、造船部門が自らの分離に抵抗するだけの組織的重みを持たなかったことを意味する。土光敏夫社長が1960年に播磨と合併した際、表向きの理由は播磨の大型ドック取得であったが、実態としては「造船会社を陸上機械会社に吸収した」のであって、その逆ではなかった。
この売上構成が、撤退のタイミングにおいて決定的な優位を生んだ。造船が創業のアイデンティティであり売上の大きな割合を占める企業——たとえば長崎造船所が会社の象徴である三菱重工——では、造船部門の分離はアイデンティティに根ざした組織的抵抗を引き起こす。IHIの場合、造船は正式な分離が行われるはるか以前に、売上構成上すでに組織的に周縁化されていた。撤退は痛みを伴うリストラではなく、既存の現実の追認であった。
さらに、2001年の豊洲造船所閉鎖は、不動産再開発によって同社有数の高収益な意思決定へと転換された。有楽町線延伸により駅前一等地となった豊洲の旧造船所跡地は、オフィスビルとマンションに再開発され、2008年3月期だけで営業利益123億円を計上した。造船からの撤退を不動産価値の解放として再定義できたことで、すべてのステークホルダーにとって受け入れ可能な判断となった。
IHIの造船撤退の成功は、経営判断の卓越性というよりも、「祖業がすでにポートフォリオのマイナーになっていた」という構造的条件によって可能になった。このケースが示すより広い原則は、企業は組織内ですでに経済的に周縁化された事業からもっともクリーンに撤退できるということである——感情的な愛着やアイデンティティの政治が撤退を不可能にする前に。
IHIの現在の戦略は航空エンジンに大きく集中している。GEのGE90やGEnx、プラット・アンド・ホイットニーのPW1100G(A320neo用ギアードターボファン)、ロールス・ロイスのトレントシリーズといった主要民間エンジンプログラムの部品を製造し、日本のF-15J向けのF110エンジンも生産している。航空エンジンはIHIにとって戦略的に最も重要な事業であり、鶴ヶ島工場(245億円)を含む設備投資の大部分がこの分野に充てられている。
しかし、IHIの航空エンジンへの集中は、能動的な戦略ビジョンの結果ではなかった。それは消去法の帰結であった。1980年代から1990年代を通じて、IHIは他の主要事業を体系的に喪失・撤退してきた。造船は分社化を経て最終的に出資比率30%のマイナー株主となった。自動車事業はいすゞ自動車としてはるか以前に分離済み。航空機製造部門は1929年に立川飛行機として分離。建設機械は売却。小型原動機はキャタピラーに譲渡。プラント事業は子会社に切り出し。戦略的な柱になりえた事業がひとつずつポートフォリオから除かれていった。
残ったのが航空エンジンだった——1957年の田無工場設立によるジェットエンジン製造で参入した事業である。韓国・中国との競争で構造的に衰退した造船や、グローバルに競争するために巨大なスケールを要する建設機械とは異なり、航空エンジンは参入障壁が極めて高い市場で事業を展開していた。技術は複雑で、認証要件は厳格であり、機体メーカーや航空会社との顧客関係は数十年単位に及ぶ。認定サプライヤーとして一度地位を確立すれば、整備・修理・オーバーホール(MRO)からの反復収益が自己強化型の収益フローを生む。
IHIの航空エンジンへの集中は、防御可能な競争ポジションと長期的な成長ポテンシャルの双方を備えた唯一残された事業であったという構造的論理を反映している。鶴ヶ島のMRO施設への投資、相馬工場の拡張、2000年の日産自動車からの宇宙航空事業買収はすべて、IHIが持続的な競争優位を有する唯一の事業へのコミットメントを深める動きであった。
ただし、この集中にはリスクも伴う。2021年度に航空エンジン部品の追加検査が必要となった際、IHIは682億円の最終赤字を計上した——単一事業への依存が品質問題のインパクトを増幅することを示す事例である。IHIの航空エンジン戦略は、強みのある立場からの集中ではなく、代替手段の枯渇によってたどり着いた集中のケースである。消去法によって集中した企業が、意図的に集中を選んだ企業と同等の投資強度とリスク許容度を維持できるかが、今後の問いとなる。
石川島造船所の歴史は、幕府の官営造船所から個人経営を経て株式会社へと組織形態が進化した過程として捉えることができる。転換点は渋沢栄一氏の経営参画であり、個人経営では調達困難な巨額資本を第一銀行からの融資で確保し、設備拡張を可能にした。造船業が要求する重厚長大な資本投下に対して、銀行融資を軸とする会社形態で応えた点は、明治期における産業近代化のモデルケースとなった。
1853年6月のペリー来航を受けて、江戸幕府は大型船舶の建造を決定し、218年続いた「大船建造禁止令」を解除した。攘夷派の水戸藩が幕府からの委託を受け、1853年に隅田川河口の石川島(佃地区)に国内初の洋式造船所を新設した。1854年4月には洋式大型船「旭日丸」の建造に着手し、西洋船舶の調査を重ねた末、1856年3月に進水・同年11月に幕府への引渡しを完了した。
明治政府の発足後、幕府が運営していた石川島の造船所は官営として接収された。しかし、1880年に明治政府が不採算の官営工場の整理売却を決定したことで、石川島造船所も払い下げの対象となった。これを取得したのが平野富二氏である。平野氏は幕臣の家系に生まれ、長崎奉行所で船舶関連の業務に従事した経歴を持ち、明治政府がその手腕を信頼して払い下げを決定した。
平野氏の経営のもとで造船所は運営されたが、造船業は材料調達や設備投資に巨額の資金を要する産業であり、個人経営では資本力に限界があった。そこで平野氏は財界人の渋沢栄一氏に融資を通じた経営支援を依頼し、1889年に組織変更を実施して「有限責任石川島造船所」を発足。渋沢氏の経営参画により、個人経営から近代的な会社組織への移行が進められた。
1890年には商法の制定を受けて株式会社「東京石川島造船所」に改組し、初代会長として渋沢栄一氏が就任した。渋沢氏が創業した第一銀行(のちの第一勧銀)から融資を受ける体制を整え、銀行資本を活用した設備投資によって造船会社として発展させる会社形態を構築した。
渋沢栄一氏による資本増強と銀行融資の体制が整ったことで、石川島造船所は本格的な設備拡張に着手した。1909年までに本社工場(東京第一工場=東京佃)の土地を随時拡張して取得し、敷地面積3.0万坪を確保するに至った。
官営造船所の払い下げから始まり、個人経営を経て株式会社へと組織形態を進化させた過程は、明治期の造船業における近代化の典型的な事例であった。渋沢栄一氏という財界の重鎮を経営に迎え入れたことで、のちの航空エンジン・ターボチャージャーへの多角化を支える資本基盤が形成された。
石川島造船所の歴史は、幕府の官営造船所から個人経営を経て株式会社へと組織形態が進化した過程として捉えることができる。転換点は渋沢栄一氏の経営参画であり、個人経営では調達困難な巨額資本を第一銀行からの融資で確保し、設備拡張を可能にした。造船業が要求する重厚長大な資本投下に対して、銀行融資を軸とする会社形態で応えた点は、明治期における産業近代化のモデルケースとなった。
石川島播磨重工業の合併は、両社が抱える課題の相互補完によって成立した。石川島は大型船建造に必要なドックを持たず、播磨は造船依存の事業構成から脱却できずにいた。石川島が播磨の大型ドックを、播磨が石川島の陸上部門を獲得するという構図は、設備と事業ポートフォリオの交換に等しい。土光敏夫社長が半年をかけて播磨の実態を調査した慎重さも、合併の成功を支えた要因であった。
1950年代を通じて中東産油国からの石油輸送が拡大し、大型タンカーの建造ニーズが急速に高まった。三菱重工・川崎重工・日立造船などの競合メーカーは大型ドックを新設して50,000GT級の大型船建造に対応したが、石川島重工業は主力の東京工場(第2工場)が隅田川河口に立地していたため、ドックの拡張が困難であり、22,000GT級が建造可能な最大規模にとどまっていた。
一方、播磨造船所は業界3位の造船メーカーであったが、売上高の大半を造船事業が占めており、1958年以降の造船不況の影響を強く受けていた。陸上部門(機械)の拡充が遅れていたため、造船需要の変動に対して経営の安定性を欠いていた。両社はそれぞれ異なる課題を抱えつつ、かねてよりタービン機関とディーゼル機関を相互供給する友好関係にあった。
1960年7月に石川島重工業の土光敏夫社長と播磨造船所の六岡周三社長が合併の基本合意を締結。同年12月1日に石川島重工業を存続会社として合併を実施し、「石川島播磨重工業」を発足した。合併後の従業員数は約1.5万名(石川島重工業約9,000名+播磨造船所約6,000名)となり、造船業界では三菱重工に次ぐ第2位の建造量を確保した。
石川島にとっては播磨の大型ドックを獲得することで40,000GT級の大型船建造に対応でき、船舶大型化の競争に参入する基盤が整った。播磨にとっては売上高の70%を陸上部門が占める石川島との合併により事業の多角化が実現し、造船不況期における「陸上部門への人員移動」が可能となる経営安定化のメリットがあった。
石川島播磨重工業の合併は、両社が抱える課題の相互補完によって成立した。石川島は大型船建造に必要なドックを持たず、播磨は造船依存の事業構成から脱却できずにいた。石川島が播磨の大型ドックを、播磨が石川島の陸上部門を獲得するという構図は、設備と事業ポートフォリオの交換に等しい。土光敏夫社長が半年をかけて播磨の実態を調査した慎重さも、合併の成功を支えた要因であった。
当時、石川島の造船設備は、三菱や日立が8万トン、5万トン級のものを有していたのに比べ、わずか3万トン級に限られていた。私は、昭和20年代の末ごろから、エネルギーはゆくゆく石炭から石油に転換し、タンカーの需要が高まると判断した。そこで、タンカーの建造に乗り出したが、これもゆくゆくは10万トン以上の大型船必須と見ていた。ところが、石川島は隅田川の河口にあり、立地条件からも大型タンカー建造の設備はもてない。いきおい、ほかに敵地を求めざるを得ない状態であった。
一方、播磨造船の場合は、造船メーカーとしては第3位にあったが、(注:昭和)33年以降、造船業は長期不況に陥り、33年から35年(注:1958年〜1960年)の2年間に、受注残高は2/3、売上高は1/2に激減するという有様であった。造船比率90%という播磨にとって、この不況は特にこたえ、別途陸上部門の進出を図っていた。
石川島の陸上部門の比率は、80%である。つまり、両社は、あい補う部分を模索中であったわけである。そこへ来て、石川島と播磨は、以前から石川島がタービン機関を、播磨がディーゼル機関を互いに供給し合うか友好関係にあった。
そんな関係で、ある日、六岡社長と会食、話のついでに偶然、お互いの悩みが出た。六岡社長の陸上部門進出の意思を知った私は、密かに、播磨の実態を半年がかりで調査させた。
石川島播磨と川崎重工の造船統合は、円高下の国際競争力低下という合理的な動機に基づいていたが、基本合意からわずか5ヶ月で白紙撤回された。撤回理由は非開示だが、川崎重工では後年にも造船分離をめぐる社長解任が発生しており、造船部門の統合・分離は社内の強い抵抗を伴うテーマであった。経営判断の合理性と社内の合意形成が乖離しうることを示す事例である。
1990年代を通じた円高ドル安の進行により、労働集約型の国内造船業は国際競争力を大きく損なった。為替面で相対的に優位な韓国・中国の造船メーカーが急速に台頭し、日本の造船各社は価格競争で劣勢に立たされた。国内造船業の構造的な課題を解消するために再編機運が高まり、大手メーカー間での事業統合が模索されるようになった。
2000年9月には石川島播磨重工業・川崎重工業・三井造船の大手3社が造船事業に関する業務提携を締結し、連携を深めていた。この提携が布石となり、2001年4月3日に石川島播磨重工業と川崎重工業は「船舶海洋事業の統合に関する基本合意」を締結。2002年10月に両社の船舶海洋事業を折半出資の合弁会社に統合する計画を発表した。
しかし、2001年9月19日に石川島播磨重工業は、川崎重工との船舶事業統合の基本合意を白紙撤回したことを発表した。撤回の理由は非開示であったが、2013年に川崎重工では造船部門の分離をめぐって社長解任を含む社内対立が発生しており、この時点でも川崎重工の社内における合意形成が難航した可能性が指摘されている。
統合計画の破談を受けて、石川島播磨重工業は船舶海洋事業について別の統合相手を模索し、住友重機械工業との統合交渉を開始した。この方針転換は、翌2002年10月のIHIマリンユナイテッドの設立へとつながり、最終的にはジャパンマリンユナイテッドの発足を経て、国内造船業の再編が進展することとなった。
石川島播磨と川崎重工の造船統合は、円高下の国際競争力低下という合理的な動機に基づいていたが、基本合意からわずか5ヶ月で白紙撤回された。撤回理由は非開示だが、川崎重工では後年にも造船分離をめぐる社長解任が発生しており、造船部門の統合・分離は社内の強い抵抗を伴うテーマであった。経営判断の合理性と社内の合意形成が乖離しうることを示す事例である。

IHIによる豊洲再開発は、造船業の縮小に伴う遊休資産を高収益の不動産事業に転換した事例である。有楽町線の延伸により駅前一等地となった立地条件を活かし、自社主導で再開発を実施。分譲マンションの販売とオフィス賃貸により、2008年3月期には営業利益123億円を計上した。重工メーカーが不動産で大きな収益を上げた点は異例であり、造船からの事業転換の成功例として注目に値する。
2000年9月に石川島播磨重工業は、東京第一工場(江東区豊洲)において最後の建造船「護衛艦あけぼの」の進水式を実施した。造船所としての役割を終え、2001年4月に東京第一工場を閉鎖した。同工場は戦前の1939年から土地を取得して稼働しており、約60年にわたって石川島の造船拠点として機能してきた。
1988年に東京メトロ有楽町線が豊洲駅まで延伸開業したことで、東京第一工場の跡地は豊洲駅前の一等地となっていた。豊洲から銀座一丁目までは有楽町線で6分の距離であり、都心へのアクセスが良好な大規模用地として高い不動産価値を有していた。造船業の構造的な縮小が進むなかで、この立地を造船以外の用途に転換する機運が高まった。
IHIは東京第一工場跡地を「オフィスビル・商業施設・大学・マンション」として再開発する方針を決定した。一部の敷地は売却したものの、IHIが再開発全体を主導する形で事業を推進。2006年までに豊洲IHIビルなど一部施設を完成させ、オフィス賃貸による安定的な不動産収入を確保した。
さらに、2008年までに三井不動産と共同で総戸数1,476戸の分譲マンション「パークシティ豊洲」を完成。2008年3月期にIHIは不動産事業において売上高407億円・営業利益123億円を計上した。造船所の跡地を高収益の不動産事業に転換したことで、重工メーカーとしては異例の不動産収益を確保し、本業の業績変動を補う事業ポートフォリオの一角を形成した。
IHIによる豊洲再開発は、造船業の縮小に伴う遊休資産を高収益の不動産事業に転換した事例である。有楽町線の延伸により駅前一等地となった立地条件を活かし、自社主導で再開発を実施。分譲マンションの販売とオフィス賃貸により、2008年3月期には営業利益123億円を計上した。重工メーカーが不動産で大きな収益を上げた点は異例であり、造船からの事業転換の成功例として注目に値する。