江戸時代末期の1853年6月のペリーの来航を受けて、江戸幕府は大型船舶の建造を決定。218年続いた「大船建造禁止令」を解除した。そして、攘夷派の水戸藩が幕府からの委託を受けて、1853年に国内初の洋式造船所として石川島(隅田川河口の佃地区)に拠点を新設した。
1854年4月に石川島の造船所において、国内初となる洋式大型船「旭日丸」の建造に着手。造船技術が未熟であったため、日本に寄港した西洋船舶の調査の末、1856年3月に進水を含めた全ての工事を完了。同年11月に幕府への引渡しを完了した。
明治政府の発足を受けて、幕府が運営していた石川島の造船所を接収し、官営の造船所として運営した。しかし、1880年に明治政府は、不採算な官営工場の整理売却を決定し、石川島の造船所も払い下げか決まった。
そこで、個人の平野富二氏が取得。平野氏は幕臣の家系に生まれ、長崎奉行所で船舶関係の業務に従事し、明治維新後は活版製造所の経営をしていた。明治政府としては、平野氏の長崎奉行所における仕事ぶりを把握しており、信頼できる人物として払い下げを決定した。
1899年に組織変更を実施して「有限責任石川島造船所」を発足。財界人である渋沢栄一氏が経営に参画し、平野氏による経営体制から移行した。これは、造船業では材料調達や設備投資に巨額資金が必要であり、平野氏は財界人の渋沢栄一氏に融資を通じた経営支援を依頼したため、経営権が移り変わった。
1890年に商法の制定を受けて、株式会社「東京石川島造船所」として改組し、初代会長として渋沢栄一氏が就任。渋沢氏が創業した第一銀行(のちの第一勧銀)から融資を受ける体制を整え、資本投下によって造船会社として発展させる会社形態を構築した。
この結果、1909年までに本社工場(東京第一工場=東京佃)の土地を随時拡張のうえ取得し、敷地面積3.0万坪を確保した。
1960年7月に石川島重工業(土光敏夫・社長)と播磨造船所(六岡周三・社長)は、合併に関する基本合意を締結したことを発表。1960年12月1日に石川島重工業を存続会社として合併を実施し「石川島播磨重工業」を発足した。
播磨造船所は業界3位の大手造船メーカーであり、合併後の従業員数は1.5万名(石川島重工業約9000名+播磨造船所約6000名)となった。合併により、石川島播磨重工業は、造船業界で三菱重工に次ぐ2位の建造量となった。
1950年代を通じて船舶の大型化ニーズが増加し、中東石油の運搬などに必要な大型タンカーの建造が一般化した。このため、三菱重工・川崎重工・日立造船などの競合メーカーは、大型ドッグを新設することで、50,000GT級の大型船の建造に対応した。
ところが、石川島重工業は、東京工場(第2工場)が主力造船所であったが、大型船に対応するためのドッグの改修や新設が困難な状況であり、22,000GT級が対応できる最大規模であった。そこで、40,000GT級の大型船の建造に対応する播磨重工との合併により、船舶の大型化に対応することを意図した。
播磨造船所の売上高の大半は造船事業であり、陸上部門(機械)の拡充に遅れていた。そこで、売上高の70%を陸上部門(機械・タービンなど)が占める石川島重工業と合併することで、事業の多角化を期待できた。これにより、船舶販売の不況期に「陸上部門への人員移動」が可能となるため、播磨造船所にとっては経営安定化の合併メリットが存在した。
当時、石川島の造船設備は、三菱や日立が8万トン、5万トン級のものを有していたのに比べ、わずか3万トン級に限られていた。私は、昭和20年代の末ごろから、エネルギーはゆくゆく石炭から石油に転換し、タンカーの需要が高まると判断した。そこで、タンカーの建造に乗り出したが、これもゆくゆくは10万トン以上の大型船必須と見ていた。ところが、石川島は隅田川の河口にあり、立地条件からも大型タンカー建造の設備はもてない。いきおい、ほかに敵地を求めざるを得ない状態であった。
一方、播磨造船の場合は、造船メーカーとしては第3位にあったが、(注:昭和)33年以降、造船業は長期不況に陥り、33年から35年(注:1958年〜1960年)の2年間に、受注残高は2/3、売上高は1/2に激減するという有様であった。造船比率90%という播磨にとって、この不況は特にこたえ、別途陸上部門の進出を図っていた。
石川島の陸上部門の比率は、80%である。つまり、両社は、あい補う部分を模索中であったわけである。そこへ来て、石川島と播磨は、以前から石川島がタービン機関を、播磨がディーゼル機関を互いに供給し合うか友好関係にあった。
そんな関係で、ある日、六岡社長と会食、話のついでに偶然、お互いの悩みが出た。六岡社長の陸上部門進出の意思を知った私は、密かに、播磨の実態を半年がかりで調査させた。
2001年4月3日に石川島播磨重工業は川崎重工との間で「船舶海洋事業の統合に関する基本合意」の締結を発表。合意内容は、2002年10月に両社の船舶海洋事業を統合し、折半出資の合弁会社を設立することであった。
すでに2000年9月に石川島播磨・川崎重工・三井造船の3社は、各社の造船事業(海洋船舶)について業務提携を締結しており、連携を深めていた。これらの提携は、2001年に公表した造船部門の統合会社の設立の布石であった。
提携および統合の背景は、円高ドル安による韓国・中国における造船メーカーの台頭であった。1990年代を通じた円高ドル安の進行によって、労働集約産業である国内における造船業が苦境に陥り、為替相場の点で輸出に相対的に優位であった中国・韓国メーカーとの厳しい競争に陥っていた。
このため、国内では造船業の再編機運が高まり、石川島播磨と川崎重工の大手造船2社が統合に基本合意にするに至った。
2001年9月19日に石川島播磨重工業は、川崎重工との船舶事業の統合について、基本合意を白紙撤回したことを発表。撤回の理由は非開示だが、2013年に川崎重工は造船部門の分離をめぐって社長解任を含む社内対立が発生しており、川崎重工の社内において合意形成に失敗した可能性も考えられる。
統合計画の破談を受けて、石川島播磨重工業は船舶海洋事業について別の造船会社との統合を目指し、住友重機械との統合交渉を開始した。
2002年10月に石川島播磨重工業は、住友重機械工業と海洋船舶事業の統合を決定。1995年に石川島播磨と住友重機械が防衛庁の艦艇向けの合弁会社として折半出資により設立していた「IHIマリンユナイテッド(MU)」に造船事業を移管し、集約する方針を打ち出した。
IHIマリンユナイテッドの発足時点における出資比率は、石川島播磨重工業95.4%に対して住友重機械4.6%であり、IHIが主導権を握る出資比率とした。
2000年9月に石川島播磨重工業は「東京第一工場(江東区豊洲)」において最後の建造船となる「護衛艦あけぼの」の進水式を実施。造船所としての役目を終え、2001年4月に東京第一工場を閉鎖した。
石川島播磨は戦前の1939年から東京第一工場を土地取得のうえ稼働しており、1988年には東京メトロ有楽町線が豊洲駅まで開業し、豊洲駅前の一等地に工場が立地した。豊洲から銀座一丁目までは有楽町線で6分の距離であり、豊洲駅の立地条件は良好であった。
そこで、IHIは東京第一工場跡地を「オフィスビル・商業施設・大学・マンション」として再開発する方針を決定。一部の敷地は売却したが、IHIが再開発を主導して、分譲マンションの販売及び、オフィス賃貸による再開発を実施した。
2006年までに豊洲に一部の施設を完成させ、石川島播磨重工業は不動産賃貸収入を確保。また、2008年までに三井不動産と共同で総戸数1,476戸の分譲マンション「パークシティ豊洲」を完成。2008年3月期にIHIは不動産事業において分譲マンションの販売により売上高407億円・営業利益123億円を確保した。
会社更生法の適用申請を行なった新潟鐵工所から、原動機関連事業(ディーゼルエンジン・ガスタービンなど)の取得を決定。