創業から148年。3回の決断

概要- Historical Summary -
1878年創業。川崎築地造船所として出発し、川崎汽船の設立や航空機・鉄道車両への多角化で総合重工メーカーに発展した。軍縮による和議申請や財閥解体による3社分割を経験したが、1969年に川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の3社合併で再統合。二輪車Kawasakiブランドの世界展開に成功し、産業用ロボットにも早期参入した。NY市向け地下鉄車両や防衛省向け哨戒機の製造で実績を積み、防衛・航空・二輪・ロボットを柱とする重工メーカーに。
概要- Historical Summary -
1878年創業。川崎築地造船所として出発し、川崎汽船の設立や航空機・鉄道車両への多角化で総合重工メーカーに発展した。軍縮による和議申請や財閥解体による3社分割を経験したが、1969年に川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の3社合併で再統合。二輪車Kawasakiブランドの世界展開に成功し、産業用ロボットにも早期参入した。NY市向け地下鉄車両や防衛省向け哨戒機の製造で実績を積み、防衛・航空・二輪・ロボットを柱とする重工メーカーに。
1878
決断
川崎築地造船所を創業
築地から神戸へ——立地選択が造船業の命運を分けた
1896
決断
株式会社川崎造船所を設立
海軍依存の事業構造が生んだ好況と危機の振り子
1919
川崎汽船株式会社を設立
1919川崎汽船株式会社を設立
1928
鉄道車両事業を分離・川崎車輛を設立(担保設定)
1928鉄道車両事業を分離・川崎車輛を設立(担保設定)
1931
決断
軍縮を受けて和議申請
国策としての存続——政府が造船所を潰せなかった構造
人員整理
3000
1937
航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立
1937航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立
1939
商号を川崎重工業に変更
1939商号を川崎重工業に変更
1949
再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)
1949再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)
1961
事業部制を採用
1961事業部制を採用
1966
国内生産拠点を拡充
1966国内生産拠点を拡充
1966
二輪車の北米展開を開始
1966二輪車の北米展開を開始
1969
川崎重工・川崎航空機・川崎車輛のが3社合併
1969川崎重工・川崎航空機・川崎車輛のが3社合併
1969
産業ロボットに参入
1969産業ロボットに参入
1971
汽車製造株式会社を合併
1971汽車製造株式会社を合併
1976
産業用ガスタービンの民需営業を開始
1976産業用ガスタービンの民需営業を開始
1977
経営合理化に着手
1977経営合理化に着手
1978
P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
1978P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
1990
ボーイング向け航空機部品生産を本格化
1990ボーイング向け航空機部品生産を本格化
1997
NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
1997NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
2001
IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
2001IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
2013
長谷川氏が社長解任
2013長谷川氏が社長解任
2015
建設機械事業から撤退
2015建設機械事業から撤退
2017
船舶海洋事業の構造改革
2017船舶海洋事業の構造改革
2020
グループビジョン2030を策定
2020グループビジョン2030を策定
2024
防衛省向け販売が好調
2024防衛省向け販売が好調
業績を見る
売上川崎重工業:売上高
単体 | 連結(単位:億円)
18,492億円
売上収益:2024/3
利益川崎重工業:売上高_当期純利益率
単体 | 連結(単位:%)
1.3%
利益率:2024/3
業績を見る
区分売上高利益利益率
1950/3単体 売上高 / 当期純利益---
1951/3単体 売上高 / 当期純利益---
1952/3単体 売上高 / 当期純利益---
1953/3単体 売上高 / 当期純利益---
1954/3単体 売上高 / 当期純利益---
1955/3単体 売上高 / 当期純利益---
1956/3単体 売上高 / 当期純利益---
1957/3単体 売上高 / 当期純利益---
1958/3単体 売上高 / 当期純利益---
1959/3単体 売上高 / 当期純利益---
1960/3単体 売上高 / 当期純利益---
1961/3単体 売上高 / 当期純利益---
1962/3単体 売上高 / 当期純利益---
1963/3単体 売上高 / 当期純利益---
1964/3単体 売上高 / 当期純利益---
1965/3単体 売上高 / 当期純利益---
1966/3単体 売上高 / 当期純利益---
1967/3単体 売上高 / 当期純利益---
1968/3単体 売上高 / 当期純利益---
1969/3単体 売上高 / 当期純利益---
1970/3単体 売上高 / 当期純利益---
1971/3単体 売上高 / 当期純利益---
1972/3単体 売上高 / 当期純利益---
1973/3単体 売上高 / 当期純利益---
1974/3単体 売上高 / 当期純利益---
1975/3単体 売上高 / 当期純利益---
1976/3単体 売上高 / 当期純利益4,901億円106億円2.1%
1977/3単体 売上高 / 当期純利益5,399億円130億円2.4%
1978/3単体 売上高 / 当期純利益5,660億円96億円1.6%
1979/3単体 売上高 / 当期純利益5,014億円-58億円-1.2%
1980/3単体 売上高 / 当期純利益5,015億円27億円0.5%
1981/3単体 売上高 / 当期純利益6,475億円28億円0.4%
1982/3単体 売上高 / 当期純利益7,643億円42億円0.5%
1983/3単体 売上高 / 当期純利益6,868億円-58億円-0.9%
1984/3単体 売上高 / 当期純利益7,026億円-68億円-1.0%
1985/3単体 売上高 / 当期純利益7,150億円58億円0.8%
1986/3単体 売上高 / 当期純利益---
1987/3単体 売上高 / 当期純利益---
1988/3単体 売上高 / 当期純利益---
1989/3単体 売上高 / 当期純利益---
1990/3単体 売上高 / 当期純利益---
1991/3単体 売上高 / 当期純利益---
1992/3単体 売上高 / 当期純利益---
1993/3連結 売上高 / 当期純利益10,905億円143億円1.3%
1994/3連結 売上高 / 当期純利益10,702億円171億円1.5%
1995/3連結 売上高 / 当期純利益10,704億円102億円0.9%
1996/3連結 売上高 / 当期純利益10,862億円165億円1.5%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益12,242億円225億円1.8%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益12,972億円185億円1.4%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益12,021億円-61億円-0.6%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益11,496億円-186億円-1.7%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益10,604億円-103億円-1.0%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益11,445億円62億円0.5%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益12,395億円130億円1.0%
2004/3連結 売上高 / 当期純利益11,602億円63億円0.5%
2005/3連結 売上高 / 当期純利益12,415億円114億円0.9%
2006/3連結 売上高 / 当期純利益13,224億円164億円1.2%
2007/3連結 売上高 / 当期純利益14,386億円297億円2.0%
2008/3連結 売上高 / 当期純利益15,010億円351億円2.3%
2009/3連結 売上高 / 当期純利益13,385億円117億円0.8%
2010/3連結 売上高 / 当期純利益11,734億円-108億円-1.0%
2011/3連結 売上高 / 当期純利益12,269億円259億円2.1%
2012/3連結 売上高 / 当期純利益13,037億円153億円1.1%
2013/3連結 売上高 / 当期純利益12,888億円308億円2.3%
2014/3連結 売上高 / 当期純利益13,854億円386億円2.7%
2015/3連結 売上高 / 当期純利益14,861億円516億円3.4%
2016/3連結 売上高 / 当期純利益15,410億円460億円2.9%
2017/3連結 売上高 / 当期純利益15,188億円262億円1.7%
2018/3連結 売上高 / 当期純利益15,742億円289億円1.8%
2019/3連結 売上高 / 当期純利益15,947億円274億円1.7%
2020/3連結 売上高 / 当期純利益16,413億円186億円1.1%
2021/3連結 売上高 / 当期純利益14,884億円-193億円-1.3%
2022/3連結 売上収益 / 当期利益15,008億円126億円0.8%
2023/3連結 売上収益 / 当期利益17,256億円530億円3.0%
2024/3連結 売上収益 / 当期利益18,492億円253億円1.3%
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1878
4月

川崎築地造船所を創業

築地から神戸へ——立地選択が造船業の命運を分けた

川崎正蔵氏の造船業参入において注目すべきは、東京築地から神戸への拠点移転の決断にある。明治期の海運業は神戸が中心となりつつあり、立地の優劣が受注力を左右する構造であった。官営兵庫造船所の払い下げを50ヵ年分割で獲得できたことは明治政府の信認の証であり、この移転によって三菱に次ぐ地位を確立した。造船業において立地選択が競争力の源泉となることを示す事例である。

背景

貿易商から造船業への参入

明治維新後の日本では、富国強兵・殖産興業の国策のもとで海運の近代化が推進されており、造船業は将来の成長が見込まれる産業として注目されていた。1853年のペリー来航を契機に大船建造禁止令が撤廃されて以降、三菱をはじめとする有力資本家が造船事業に相次いで参入し、近代造船所の設立が活発化していた。

こうしたなかで、貿易業に従事していた川崎正蔵氏は、海上輸送の拡大に伴う船舶需要の将来性に商機を見出し、造船事業への参入を決断。1878年(明治11年)4月に東京築地にて川崎築地造船所を創業した。新規造船と修繕業務に従事し、明治20年の時点で従業員数は約600名に達するなど、民間造船所としての基盤を着実に固めた。

決断

官営兵庫造船所の取得と神戸進出

しかし、東京築地の造船所は拡張に限界があった。海運業は神戸を中心に発展する見通しが強まっており、川崎正蔵氏は事業の飛躍に向けて拠点移転を決断した。1896年に明治政府から「官営兵庫造船所」の払い下げを受け、東京から神戸に拠点を移転。払い下げは50ヵ年の分割払いに設定されており、明治政府が川崎正蔵氏の造船事業への貢献と信用力を高く評価した結果であった。

神戸移転後の業容は着実に拡大した。明治20年から明治29年までの10年間において新造船80隻・修繕船589隻に携わり、日本国内では三菱に次ぐ第2位の造船所として頭角を現した。この時期に培った造船技術と顧客基盤が、のちの株式会社川崎造船所の設立、さらには現在の川崎重工業への発展を支える礎となった。

築地から神戸へ——立地選択が造船業の命運を分けた

川崎正蔵氏の造船業参入において注目すべきは、東京築地から神戸への拠点移転の決断にある。明治期の海運業は神戸が中心となりつつあり、立地の優劣が受注力を左右する構造であった。官営兵庫造船所の払い下げを50ヵ年分割で獲得できたことは明治政府の信認の証であり、この移転によって三菱に次ぐ地位を確立した。造船業において立地選択が競争力の源泉となることを示す事例である。

年表川崎築地造船所を創業に関する出来事
18784月川崎築地造船所を創業
1887川崎兵庫造船所を新設(官営払い下げ)
分割払い50
1896
10月

株式会社川崎造船所を設立

海軍依存の事業構造が生んだ好況と危機の振り子

川崎造船所は株式会社化と大型ドック建設によって海軍艦艇の建造能力を確立し、造船業の主力企業へと成長した。しかし、この成長は海軍需要への高い依存を伴うものであり、軍拡期には業績が急伸する一方で軍縮期には需要が激減する振り子構造を抱えた。松方幸次郎を社長に据えた人事も官需獲得の合理性を示すが、裏を返せば海軍との関係に依存した経営であった。1931年の和議申請に至る経営危機の根因は、この時期に形成された事業構造にあった。

背景

事業承継を見据えた株式会社化

川崎正蔵氏は造船事業の永続的な発展を図るため、1896年10月に個人経営から法人化への転換を決断し、株式会社川崎造船所(現・川崎重工業)を設立した。設立時点の川崎正蔵氏の株式保有比率は21.48%に留められており、創業者への資本集中を避けつつ事業を承継する意図が明確であった。会社設立時の従業員数は1,800名を数え、すでに相当規模の造船所として稼働していた。

初代社長には、当時の日本国首相であった松方正義氏の三男・松方幸次郎氏が就任した。松方家の政界・財界における人脈と信用力を活用することで、海軍を中心とする官需の獲得を有利に進める狙いがあった。川崎正蔵氏は経営を次世代に委ねることで、創業者に依存しない組織的な経営体制の構築を図った。

決断

大型ドック建設と海軍需要への傾斜

設備投資の面では、1902年11月に神戸造船所において約6年の工期を経て「6,000トンの乾ドック」を新設した。当時としては国内最大規模の建造設備であり、大型船舶や海軍艦艇の建造に対応する能力を備えた。1915年には神戸造船所において巡洋戦艦榛名を竣工するなど、海軍向けの艦艇建造を主力事業として確立した。

以後、川崎造船所は主に海軍からの艦艇受注によって造船メーカーとしての業容を拡大した。しかし、売上の多くを海軍需要に依存する構造が形成されたことで、軍拡と軍縮の政策動向によって業績が大きく変動する課題を内包するようになった。この海軍依存の事業構造は、のちの昭和恐慌期における経営危機の伏線となった。

海軍依存の事業構造が生んだ好況と危機の振り子

川崎造船所は株式会社化と大型ドック建設によって海軍艦艇の建造能力を確立し、造船業の主力企業へと成長した。しかし、この成長は海軍需要への高い依存を伴うものであり、軍拡期には業績が急伸する一方で軍縮期には需要が激減する振り子構造を抱えた。松方幸次郎を社長に据えた人事も官需獲得の合理性を示すが、裏を返せば海軍との関係に依存した経営であった。1931年の和議申請に至る経営危機の根因は、この時期に形成された事業構造にあった。

年表株式会社川崎造船所を設立に関する出来事
189610月株式会社川崎造船所を設立
1906兵庫工場を新設(鉄道車両)
192212月岐阜工場を新設(航空機)
19409月明石工場を新設
1931
7月

軍縮を受けて和議申請

国策としての存続——政府が造船所を潰せなかった構造

川崎造船所の和議申請は、海軍需要への過度な依存がもたらした経営危機であった。しかし、海軍艦艇を建造する技術と設備を持つ大規模造船所は国内に限られており、日本政府はその解散を国益に反するものと判断して特別融資で存続を支えた。経営としては破綻しながらも国策として存続が許された構造は、軍需産業が持つ政治的な不可分性を示している。皮肉にも、その後の軍拡により業績は好転し、軍需依存はさらに深化した。

背景

昭和恐慌と軍縮による経営危機

1920年代後半から昭和恐慌の影響が日本経済全体に波及するなかで、川崎造船所の経営は急速に悪化した。とりわけ海軍軍縮条約の締結によって艦艇の新規建造需要が大幅に縮小し、海軍向け売上に依存していた川崎造船所の収益基盤は根底から揺らいだ。1928年5月には経営責任を問われる形で松方社長が引責辞任に追い込まれた。

当時の川崎造船所は従業員数1.3万名を抱えていたが、受注の激減により工場の稼働率が低迷し、非稼働の人件費が収益を圧迫する状況に陥った。慢性的な赤字が続くなかで資金繰りは逼迫し、自力での経営再建は困難な状態であった。

決断

和議申請と政府融資による存続

1931年7月、川崎造船所は和議を申請し、従業員3,000名の人員整理に踏み切った。事実上の経営破綻であったが、日本政府としては海軍艦艇を建造できる大規模造船所を解散させることが国益に反すると判断し、特別の融資を決定。川崎造船所は和議を経ながらも会社の存続を果たした。

和議申請後、川崎造船所は経営再建に着手した。折しも1930年代には日中戦争の勃発や軍縮条約の廃棄により、日本国内で軍拡の流れが鮮明化。川崎造船所は海軍向け艦艇の建造を再び拡大することで業績を好転させ、1945年の終戦まで軍需によって事業を再拡大した。経営危機を乗り越えた一方で、軍需依存の構造はより一層深化する結果となった。

国策としての存続——政府が造船所を潰せなかった構造

川崎造船所の和議申請は、海軍需要への過度な依存がもたらした経営危機であった。しかし、海軍艦艇を建造する技術と設備を持つ大規模造船所は国内に限られており、日本政府はその解散を国益に反するものと判断して特別融資で存続を支えた。経営としては破綻しながらも国策として存続が許された構造は、軍需産業が持つ政治的な不可分性を示している。皮肉にも、その後の軍拡により業績は好転し、軍需依存はさらに深化した。

年表軍縮を受けて和議申請に関する出来事
19285月松方社長が引責辞任
19317月和議申請・人員整理
人員整理3000