川崎重工業 の歴史

創業

1878年

創業者

川崎正蔵

創業地

東京都中央区

直近売上高(2026/3)

23,113億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1886年に、東京築地で始めた造船所を神戸へ移したのか
A 造船は受注できる場所に近いほど強く、立地が受注力を直接左右する。東京築地は敷地拡張に限界がある一方、海運の中心は東京から神戸へ移りつつあり、関西に拠点を構えるほうが将来の船舶需要を取り込みやすかった。そこで川崎正蔵氏は、1881年に兵庫東出町へ第二拠点を設けたうえで、1886年に官営兵庫造船所を借り受けて併合し、商号を川崎造船所と改めて事業一切を神戸へ移した。この立地の選び直しが、後年に三菱と並ぶ二大造船所へ伸びる土台となった
Q なぜ1931年に経営破綻した川崎造船所は、解散を免れて存続できたのか
A 艦艇を建造できる大規模造船所は国内に数えるほどしかなく、解散させれば帝国海軍の建造能力ごと失われる。政府はそれを国益に反すると判断し、特別融資で存続を支えた。海軍受注に依存した稼ぎ方は、1922年のワシントン軍縮条約と1927年の金融恐慌が重なって半期利益の大赤字へ反転し、1万7,000名の従業員を抱える川崎造船所は1931年7月に和議を申請していた。会社は救われた一方で軍需への依存は一段と深まり、1937年に川崎航空機を分離、1939年に川崎重工業へ改称して戦時の巨大軍需企業へ進んだ
Q なぜ2013年に、現職の長谷川聰社長は取締役会で解任されたのか
A 三井造船との統合に企業価値を高めるシナジーが見えず、むしろ重荷になると役員の多くが見たためである。川崎重工で造船は売上の1割に満たない一方、三井造船は造船への依存度が高く、統合報道のあとに株価も下げていた。それでも長谷川聰社長が統合ありきで進め、社内会議の議事を操作して反対意見を退けたことに、村山滋氏らは取締役会を軽視する行動と不信を募らせた。2013年6月の臨時取締役会は賛成十・反対三で解任動議を可決し、村山滋氏が後任社長に就いて統合交渉を白紙へ戻した

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1878年〜 築地の造船所から、「陸海空」の総合重工業という構想へ

  1. 1878年 川崎築地造船所を創業
  2. 1881年 川崎兵庫造船所を開設
  3. 1886年 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所に商号変更
  4. 1896年 川崎造船所を設立
  5. 1919年 川崎汽船を設立
  6. 1927年 昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立 十五銀行の取り付けで資金繰りが詰まった川崎造船所は、なぜ比較的よく稼いでいた部門から先に切り出したのか

官営造船所の払下げと株式会社への改組

1878年4月、貿易商であった川崎正蔵氏[1]は東京築地で造船業を始めた。和船に比べて格段に優れた西洋型船の建造こそ国家の急務である[2]、という考えが出発点にあった。1881年3月には兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設[3]し、1886年には東京から事業の一切を神戸へ移している[4]。同年5月には官営兵庫造船所を借り受けて川崎兵庫造船所を併合し、川崎造船所へ商号を変更[5]した。翌1887年7月にはその官営兵庫造船所の払下げを受け[6]、築地と兵庫に分かれていた二つの造船所をここへ集約している。正蔵氏は岩崎弥太郎氏とともに日本の造船業の始祖と称された[7]人物であった。

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を開始
    • [3]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設
    • [5]1886年5月 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所へ商号変更
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]西洋型船の建造を国家の急務とする創業の動機
    • [4]1886年 東京から事業一切を神戸へ移転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [6]1887年7月 官営兵庫造船所の払下げを受け二造船所を集約
    • [7]川崎正蔵は岩崎弥太郎とともに造船業の始祖と称された

1896年10月15日、個人経営から資本金200万円の株式会社へ改組[8]し、株式会社川崎造船所が発足した。初代社長には松方正義氏の三男である松方幸次郎氏を迎え、副社長に川崎芳太郎氏[9]が就き、創業者の正蔵氏は顧問となっている。松方氏は、陸海空にわたる総合重機械工業を築くことが企業の安定した成長を促し、それが日本の発展にも寄与するという信念[10]を抱いていた。新発足とともに懸案であった6,000総トン級の大乾ドック構築に着手[11]し、設備を新たにした。社章は創業者である正蔵氏の「川」の字を図案化し、はためく旗の中央に配したもので、積極と前進を表している[12]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [8]1896年10月15日 資本金200万円の株式会社川崎造船所を設立
    • [9]初代社長 松方幸次郎(松方正義の三男)、副社長 川崎芳太郎、正蔵は顧問
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [10]松方幸次郎の「陸海空にわたる総合重機械工業」の信念
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]新発足とともに6,000総トン級大乾ドックの構築に着手
    • [12]社章は川崎正蔵の「川」を図案化し旗の中央に配したもので積極と前進を表す
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を開始
    • [3]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設
    • [5]1886年5月 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所へ商号変更
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]西洋型船の建造を国家の急務とする創業の動機
    • [4]1886年 東京から事業一切を神戸へ移転
    • [11]新発足とともに6,000総トン級大乾ドックの構築に着手
    • [12]社章は川崎正蔵の「川」を図案化し旗の中央に配したもので積極と前進を表す
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [6]1887年7月 官営兵庫造船所の払下げを受け二造船所を集約
    • [7]川崎正蔵は岩崎弥太郎とともに造船業の始祖と称された
    • [8]1896年10月15日 資本金200万円の株式会社川崎造船所を設立
    • [9]初代社長 松方幸次郎(松方正義の三男)、副社長 川崎芳太郎、正蔵は顧問
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [10]松方幸次郎の「陸海空にわたる総合重機械工業」の信念

欧米技術の導入と、艦船国産化の達成

株式会社への改組後は欧米の造船技術の摂取に努め、政府の施策に応じて優秀船の建造へ主力を注いだ[13]。1897年には造船奨励法の適格第一船である伊予丸を建造[14]している。1904年には民間として初めて海軍から潜水艇2隻を受注[15]し、これがのちに潜水艦建造技術で優位を得るきっかけとなった。1905年には日本の潜水艦建造の嚆矢とされる第六号潜水艦を建造[16]している。1902年から1912年にかけては外国船数隻も手がけており[17]、技術が海外からも認められていたことを示す。往復動蒸気機関や主要な舶用補助機械の自給態勢[18]もこの時期に整った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [13]株式会社改組後は欧米造船技術の摂取に努め政府施策に応じて優秀船建造へ主力を注いだ
    • [14]1897年 造船奨励法適格第一船「伊予丸」を建造
    • [16]1905年 日本の潜水艦建造の嚆矢である第六号潜水艦を建造
    • [18]往復動蒸気機関・主要舶用補助機械の自給態勢が整う
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]1904年 民間で初めて海軍から潜水艇2隻を受注
    • [17]1902〜1912年 外国船数隻を建造

1907年5月にはカーチス式蒸気タービンの製造実施権を獲得[19]し、1911年にはドイツのマン社とディーゼル機関の第一次技術契約を結んだ[20]。船体の設計と工作の面でも先進国の技術を採り入れた結果、戦艦・巡洋艦から優秀貨客船までを国産できる態勢[21]が整っている。1913年には巡洋戦艦榛名を、1916年には戦艦伊勢を建造[22]し、いずれも良好な成績で引き渡した。設備の面では1906年9月に兵庫工場を開設[23]して翌1907年7月に操業を始め[24]、1918年7月には製鈑工場を新設して造船用鋼材の自給[25]を図り、船台は小型3基から大小11基へ増えた[26]。第四船台のガントリークレーン架構など近代的な設備の増強によって建造期間は縮まり、社船来福丸は起工から竣工まで30日という世界記録[27]を残している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [19]1907年5月 カーチス式蒸気タービンの製造実施権を獲得
    • [20]1911年 ドイツのマン社とディーゼル機関の第一次技術契約
    • [21]船体の設計工作面に先進国技術を採り入れ戦艦・巡洋艦・優秀貨客船の国産態勢を確立
    • [22]1913年 巡洋戦艦榛名、1916年 戦艦伊勢を建造
    • [25]1918年7月 製鈑工場を新設し造船用鋼材の自給を図る
    • [26]船台が小型3基から大小11基へ増加
    • [27]社船来福丸(5,857総トン)は起工から竣工まで30日の世界記録
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1906年9月 兵庫工場を開設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
    • [24]1907年7月 兵庫工場が操業開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [13]株式会社改組後は欧米造船技術の摂取に努め政府施策に応じて優秀船建造へ主力を注いだ
    • [14]1897年 造船奨励法適格第一船「伊予丸」を建造
    • [16]1905年 日本の潜水艦建造の嚆矢である第六号潜水艦を建造
    • [18]往復動蒸気機関・主要舶用補助機械の自給態勢が整う
    • [19]1907年5月 カーチス式蒸気タービンの製造実施権を獲得
    • [20]1911年 ドイツのマン社とディーゼル機関の第一次技術契約
    • [21]船体の設計工作面に先進国技術を採り入れ戦艦・巡洋艦・優秀貨客船の国産態勢を確立
    • [22]1913年 巡洋戦艦榛名、1916年 戦艦伊勢を建造
    • [25]1918年7月 製鈑工場を新設し造船用鋼材の自給を図る
    • [26]船台が小型3基から大小11基へ増加
    • [27]社船来福丸(5,857総トン)は起工から竣工まで30日の世界記録
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]1904年 民間で初めて海軍から潜水艇2隻を受注
    • [17]1902〜1912年 外国船数隻を建造
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1906年9月 兵庫工場を開設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
    • [24]1907年7月 兵庫工場が操業開始

第一次大戦の好況と、昭和金融恐慌による経営難

1914年7月に第一次世界大戦が起こると船舶需要が増し、海運・造船界は空前の好況[28]を迎えた。艦艇の建造能力と技術の両面で、同社は日本の二大造船所の一つに数えられる[29]ようになる。1919年4月には川崎汽船を、同年7月には国際汽船を設立[30]した。1920年5月にはマン社と第二次の舶用ディーゼル機関建造契約を結び[31]、1924年に竣工した大型潜水艦伊第一号[32]以降、日本の潜水艦性能の向上に寄与している。造機・製缶・電気の各部門に加え、車両・航空機・製鉄の分野へも事業を広げ[33]、総合重工業としての形が整いつつあった。一方で1922年のワシントン海軍軍縮条約は艦艇建造需要を直撃し、加賀・愛宕の工事中止の代償として特務艦2隻の建造が内命[34]された。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [28]1914年7月 第一次世界大戦の勃発で海運・造船界が空前の好況
    • [29]造船能力と技術で日本の二大造船所の一つとなる
    • [33]造機・製缶・電気の各部門に加え車両・航空機・製鉄分野へ事業を拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [30]1919年4月 川崎汽船、同年7月 国際汽船を設立
    • [31]1920年5月 マン社と第二次舶用ディーゼル機関建造契約
    • [32]1924年竣工の大型潜水艦伊第一号
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
    • [34]1922年 ワシントン海軍軍縮条約で加賀・愛宕の工事中止、代償に特務艦2隻の建造を内命

好況の反動は厳しく、1927年には昭和金融恐慌の余波を受けて同社は経営難[35]に陥る。半期利益は1926年下期の356万円から、1927年下期には3,346万円の損失[36]へ転落した。主取引銀行であった十五銀行に取り付け騒ぎが起こり、未曾有の金融難に直面[37]したためである。1927年の経営行き詰まりに際しては、主たる債務が優先株となり、主たる債権者であった十五銀行はこの優先株40万株を日本銀行に担保として差し入れて借り入れ、整理資金に充てた[38]。この40万株は全株式の25%にあたる[39]。松方氏が抱いた陸海空の構想は、恐慌を前にいったん潰えた[40]。再建の手段としては、川崎車輌の分離などが図られた[41]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [35]1927年 昭和金融恐慌の余波で経営難
    • [41]再建策として川崎車輌の分離などが図られた
  • 川崎重工業株式会社社史(1959年)年表・諸表
    • [36]半期利益は1926年下期356万円から1927年下期に3,346万円の損失へ転落
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]主取引銀行の十五銀行の取り付け騒ぎによる金融難
    • [38]優先株40万株を日銀に担保として差し入れ整理資金に充当
    • [39]日銀保有の40万株は全株式の25%
    • [40]松方の陸海空構想は昭和恐慌の前に頓挫
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [28]1914年7月 第一次世界大戦の勃発で海運・造船界が空前の好況
    • [29]造船能力と技術で日本の二大造船所の一つとなる
    • [33]造機・製缶・電気の各部門に加え車両・航空機・製鉄分野へ事業を拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [30]1919年4月 川崎汽船、同年7月 国際汽船を設立
    • [31]1920年5月 マン社と第二次舶用ディーゼル機関建造契約
    • [32]1924年竣工の大型潜水艦伊第一号
    • [35]1927年 昭和金融恐慌の余波で経営難
    • [41]再建策として川崎車輌の分離などが図られた
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
    • [34]1922年 ワシントン海軍軍縮条約で加賀・愛宕の工事中止、代償に特務艦2隻の建造を内命
  • 川崎重工業株式会社社史(1959年)年表・諸表
    • [36]半期利益は1926年下期356万円から1927年下期に3,346万円の損失へ転落
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]主取引銀行の十五銀行の取り付け騒ぎによる金融難
    • [38]優先株40万株を日銀に担保として差し入れ整理資金に充当
    • [39]日銀保有の40万株は全株式の25%
    • [40]松方の陸海空構想は昭和恐慌の前に頓挫

1928年〜 分離の連鎖と、経営権をめぐる攻防の十五年

車輌の分離と、和議法適用による再建

1928年5月18日、川崎造船所は兵庫工場を独立分離し、資本金1,200万円で川崎車輌を設立[42]した。この工場の起こりは1906年9月の創設[43]にさかのぼる。当時の日本の鉄道車輌は輸入でまかなわれており、その国産化に乗り出した[44]ものであった。1914年に全国の鉄道国有化が実施されて車輌規格が統一されると量産作業が可能[45]となり、大正末期には国内自給の域を脱して一部をアジア地域へ輸出[46]するまでになっている。分離の目的は事業の育成ではなく、恐慌で危殆に瀕した造船所からの危険の分散と金融上の操作[47]にあった。比較的業績の安定していた兵庫工場を切り出し、これを担保として再建資金の融資を受けている[48]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
    • [42]1928年5月18日 兵庫工場を分離し資本金1,200万円で川崎車輌を設立
    • [43]兵庫工場の創設は1906年9月
    • [44]当時の日本の鉄道車輌は輸入でまかなわれ、その国産化に乗り出した
    • [45]1914年 全国鉄道国有化による車輌規格統一で量産が可能に
    • [46]大正末期に国内自給を脱し一部をアジアへ輸出
    • [47]分離の目的は危険の分散と金融上の操作
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [48]兵庫工場を担保として再建資金の融資を受けた

分離は形のうえのものにとどまり、資本の面では依然として川崎造船所の支配下[49]にあり、社長も初代の鹿島房次郎氏をはじめ平生釟三郎氏、鋳谷正輔氏と、終戦直後まで川崎造船所の社長が兼ねて[50]いる。本体の再建はさらに難航し、1928年5月に松方幸次郎社長が辞任し、鹿島房次郎氏が後任に、石井清氏が社長代理[51]に就いて社業の挽回にあたる。それでも収まらず、1931年7月には和議を申請[52]するに至った。従業員1万7,000名の死活と神戸の盛衰に直結する問題であったため政府が救済の斡旋[53]に動いている。1932年には和議法の適用を受けて再建[54]を図ることとなり、1933年3月に平生釟三郎氏が社長へ就任[55]した。1935年12月には鋳谷正輔氏が後を継いで[56]いる。1930年代に入ると、海運業の船舶拡充策である優秀船建造助成施設の実行と、海軍が無条約状態への移行を前に新艦艇の建造を始めたことで受注が戻り[57]、1936年には業績が好転した[58]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
    • [49]川崎車輌は資本的に川崎造船所の支配下にあり社長も兼任
    • [50]川崎車輌の社長は鹿島房次郎・平生釟三郎・鋳谷正輔と終戦直後まで川崎造船所社長が兼任
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [51]1928年5月 松方幸次郎社長が辞任、鹿島房次郎が後任、石井清が社長代理
    • [54]1932年 和議法の適用を受けて再建
    • [55]1933年3月 平生釟三郎が社長に就任
    • [56]1935年12月 鋳谷正輔が社長に就任
    • [57]1930年代の業績回復は優秀船建造助成施設と海軍の新艦艇建造による
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [52]1931年7月 和議を申請
    • [53]従業員1万7,000名の死活と神戸の盛衰に直結するため政府が救済を斡旋
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
    • [58]1936年 業績が好転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
    • [42]1928年5月18日 兵庫工場を分離し資本金1,200万円で川崎車輌を設立
    • [43]兵庫工場の創設は1906年9月
    • [44]当時の日本の鉄道車輌は輸入でまかなわれ、その国産化に乗り出した
    • [45]1914年 全国鉄道国有化による車輌規格統一で量産が可能に
    • [46]大正末期に国内自給を脱し一部をアジアへ輸出
    • [47]分離の目的は危険の分散と金融上の操作
    • [49]川崎車輌は資本的に川崎造船所の支配下にあり社長も兼任
    • [50]川崎車輌の社長は鹿島房次郎・平生釟三郎・鋳谷正輔と終戦直後まで川崎造船所社長が兼任
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [48]兵庫工場を担保として再建資金の融資を受けた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [51]1928年5月 松方幸次郎社長が辞任、鹿島房次郎が後任、石井清が社長代理
    • [54]1932年 和議法の適用を受けて再建
    • [55]1933年3月 平生釟三郎が社長に就任
    • [56]1935年12月 鋳谷正輔が社長に就任
    • [57]1930年代の業績回復は優秀船建造助成施設と海軍の新艦艇建造による
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [52]1931年7月 和議を申請
    • [53]従業員1万7,000名の死活と神戸の盛衰に直結するため政府が救済を斡旋
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
    • [58]1936年 業績が好転

航空機の分離と、経営権の買い占め

飛行機部門は1918年に設けられ、おもに陸軍機の製作[59]にあたっていた。1937年11月、この部門を分離して資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立[60]している。分離の理由は事業の成熟ではなく軍との関係にあり、飛行機部門は陸軍と、造船部門は海軍と密接に結びついており[61]、双方の要請に一つの会社で応じることが難しくなっていたためである。1939年12月1日には社名を川崎重工業[62]へ改めた。1943年4月には資本金を6億円へ増やして[63]事業施設の拡充を図った。日華事変の後は泉州工場の新設など国策による拡充態勢[64]に入っている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [59]1918年 飛行機部門を設置し主に陸軍機を製作
    • [63]1943年4月 資本金6億円へ増資
    • [64]日華事変後は泉州工場の新設など国策による拡充態勢に入った
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1937年11月 航空機事業を分離し資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [61]飛行機部門は陸軍、造船部門は海軍と密接で双方の要請への同時対応が困難だった
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [62]1939年12月1日 社名を川崎重工業へ変更

1939年4月、山下汽船社長の山下亀三郎氏が大阪商船社長の村田省蔵氏と組み、日本銀行が保有していた川崎造船所株40万株の買い取りを計画[65]した。狙いは造船所の経営そのものより、傘下の川崎汽船を収めて海運界で首位に立つこと[66]にあったとみられる。当時の川崎造船所は川崎汽船の全株に加えて川崎航空機工業と川崎車輌の全株も保有[67]していた。驚いた幹部は反対運動を起こし、幹部社員は社員会を結成して関係方面へ陳情[68]する。掲げた大義名分は、臨戦体制のもとで航空機の生産に影響を与えてはならない[69]、というものであった。結果として、新株主は向こう3年間、役員人事その他の経営に介入しないという契約が成立[70]している。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [65]1939年4月 山下亀三郎と村田省蔵が日銀保有の川崎造船所株40万株の買取を計画
    • [66]狙いは川崎汽船を収めて海運界に君臨することにあった
    • [67]川崎造船所は川崎汽船・川崎航空機工業・川崎車輌の全株を保有していた
    • [68]幹部社員が社員会を結成し関係方面へ反対陳情
    • [69]反対の大義名分は臨戦体制下で航空機生産に影響を与えないこと
    • [70]新株主が3年間は役員人事その他の経営に介入しない契約が成立

休戦は3年で切れ、1942年5月に山下氏と村田氏[71]は自分たちの力では足りないとして住友を引き込む。当時の住友の総理事は古田俊之助氏[72]であった。鋳谷正輔氏をはじめ幹部は今度こそ軍門に降ろうと観念しかけたが、第一回戦を勝利に導いた根本専務と大久保専務が食い下がる[73]。臨戦体制のもとで従業員に動揺を与えてはならないという理由は、戦争に突入した今こそ強まりこそすれ消えていない[74]、いま手を上げれば社員会から一層の突き上げがあり、天下に向かって面目が立たない、と社長を突き上げた。鋳谷正輔氏はさっそく考えを改め[75]、買い占め側の企ては潰えた。砂野仁氏は後年、これを43年の在職中で最も大きな衝撃を受けた事件として書き残している[76]

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [71]1942年5月 3年の休戦明けに山下・村田が住友を引き込む
    • [72]当時の住友の総理事は古田俊之助
    • [73]根本専務と大久保専務が鋳谷社長を突き上げて撤回させた
    • [74]根本・大久保両専務は臨戦体制下の従業員の動揺と社員会の突き上げ、面目を理由に社長を説得した
    • [75]鋳谷社長が考えを改め買い占め側の企てを退けた
    • [76]砂野仁は43年の在職中で最も衝撃を受けた事件と記した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [59]1918年 飛行機部門を設置し主に陸軍機を製作
    • [63]1943年4月 資本金6億円へ増資
    • [64]日華事変後は泉州工場の新設など国策による拡充態勢に入った
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1937年11月 航空機事業を分離し資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [61]飛行機部門は陸軍、造船部門は海軍と密接で双方の要請への同時対応が困難だった
    • [65]1939年4月 山下亀三郎と村田省蔵が日銀保有の川崎造船所株40万株の買取を計画
    • [66]狙いは川崎汽船を収めて海運界に君臨することにあった
    • [67]川崎造船所は川崎汽船・川崎航空機工業・川崎車輌の全株を保有していた
    • [68]幹部社員が社員会を結成し関係方面へ反対陳情
    • [69]反対の大義名分は臨戦体制下で航空機生産に影響を与えないこと
    • [70]新株主が3年間は役員人事その他の経営に介入しない契約が成立
    • [71]1942年5月 3年の休戦明けに山下・村田が住友を引き込む
    • [72]当時の住友の総理事は古田俊之助
    • [73]根本専務と大久保専務が鋳谷社長を突き上げて撤回させた
    • [74]根本・大久保両専務は臨戦体制下の従業員の動揺と社員会の突き上げ、面目を理由に社長を説得した
    • [75]鋳谷社長が考えを改め買い占め側の企てを退けた
    • [76]砂野仁は43年の在職中で最も衝撃を受けた事件と記した
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [62]1939年12月1日 社名を川崎重工業へ変更

財閥解体を経て、造船一本からの再出発

1945年初頭から施設への爆撃が激しくなり[77]、3月以降は生産が事実上止まった。1946年12月に鋳谷正輔氏が社長を辞任すると、新しい役員は合議制のもとで再建整備計画を立案[78]した。まず川崎製鉄を分離設立し、泉州工場を閉鎖して、造船部門だけで再出発[79]する道を選んだ。1949年10月には再建整備計画が認可され、残された事業は造船・造機・電機の3部門のみ[80]となっている。1950年8月に製鉄事業を分離して川崎製鐵が発足[81]した。松方幸次郎氏が構想した陸海空の総合重工業は、車輌・航空機・製鉄と順に切り離され、この時点で祖業の造船だけが手元に残った[82]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [77]1945年初頭から施設が被爆し3月以降は生産が停滞
    • [78]1946年12月 鋳谷社長が辞任、新役員が合議制で再建整備計画を立案
    • [79]川崎製鉄を分離設立し泉州工場を閉鎖して造船部門のみで再出発
    • [82]車輌・航空機・製鉄が順に切り離され造船のみが残った
  • 川崎重工業 05-timeline(1949/10 再建整備計画が認可)
    • [80]1949年10月 再建整備計画が認可され造船・造機・電機の3部門のみとなる
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1950年8月 製鉄事業を分離し川崎製鐵を設立

1950年6月にいったん資本金を6,000万円へ減資[83]し、同年8月には5億6,000万円へ増資して、手塚敏雄氏が5代社長に就任[84]した。技術の回復と先進技術の導入が再建の柱となり、1951年2月にスイスのエッシャウィス社[85]と発電用水車タービンの、1954年6月には同じくスイスのエリコン社と発電機の製作技術援助契約を結び、水力発電機の分野へ進出[86]した。1953年には1万7,000トン浮船渠を完成[87]させている。同じ1953年には川崎機械など旧航空機関係の3社が合併して川崎航空機が再現[88]し、1955年6月には資本金が33億6,000万円[89]となった。1959年には川崎電機製造も分離独立[90]している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [83]1950年6月 資本金6,000万円へ減資
    • [85]1951年2月 エッシャウィス社と発電用水車タービンの技術援助契約
    • [86]1954年6月 エリコン社と発電機の製作技術援助契約を結び水力発電機分野へ進出
    • [87]1953年 1万7,000トン浮船渠を完成
    • [88]1953年 川崎機械など旧航空機関係3社が合併し川崎航空機が再現
    • [89]1955年6月 資本金33億6,000万円
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [84]1950年8月 資本金5億6,000万円へ増資し手塚敏雄が5代社長に就任
    • [90]1959年 川崎電機製造を分離独立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [77]1945年初頭から施設が被爆し3月以降は生産が停滞
    • [78]1946年12月 鋳谷社長が辞任、新役員が合議制で再建整備計画を立案
    • [79]川崎製鉄を分離設立し泉州工場を閉鎖して造船部門のみで再出発
    • [82]車輌・航空機・製鉄が順に切り離され造船のみが残った
    • [83]1950年6月 資本金6,000万円へ減資
    • [85]1951年2月 エッシャウィス社と発電用水車タービンの技術援助契約
    • [86]1954年6月 エリコン社と発電機の製作技術援助契約を結び水力発電機分野へ進出
    • [87]1953年 1万7,000トン浮船渠を完成
    • [88]1953年 川崎機械など旧航空機関係3社が合併し川崎航空機が再現
    • [89]1955年6月 資本金33億6,000万円
  • 川崎重工業 05-timeline(1949/10 再建整備計画が認可)
    • [80]1949年10月 再建整備計画が認可され造船・造機・電機の3部門のみとなる
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1950年8月 製鉄事業を分離し川崎製鐵を設立
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [84]1950年8月 資本金5億6,000万円へ増資し手塚敏雄が5代社長に就任
    • [90]1959年 川崎電機製造を分離独立

1960年〜 三度の合併失敗を経た、松方の初志への回帰

川崎重工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1961年 事業部制を採用
  2. 1966年 国内生産拠点を拡充
  3. 1966年 二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜 国内で原付を追うか、海外で大型車を売るか——重工業の会社が消費者に顔を持つまで
  4. 1969年 産業ロボットに参入
  5. 1969年 陸海空にわたる総合重工業をめざした川崎3社の合併 財閥解体で分かれた川崎の造船・航空・車両を、砂野仁氏はなぜ一つの重工業へ束ね直したのか
  6. 1971年 汽車製造を合併
  7. 1976年 産業用ガスタービンの民需営業を開始

規模の拡大を求めて、合併に三度失敗する

1957年4月のスエズ運河再開を契機に海運市況は急速に悪化[91]した。造船ブーム時の大量の受注残があったため当面の操業低下は避けられた[92]が、新造船の受注は次第に減った。そこで陸上部門の生産を強化すべく、生産機種の多角化と規模の拡大を進めた[93]。折しも日本経済は岩戸景気へ向かっており、陸上部門の拡充が時機に合った[94]。1961年11月には事業部制を採用して造船・機械・精機・鉄構の4事業部を発足[95]させ、同年12月に副社長の砂野仁氏が6代社長へ就いて[96]いる。加藤専務らは経費の削減にあたり、間接費を頭から4割削るという大鉈[97]をふるった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [91]1957年4月 スエズ運河再開を契機に海運市況が急速に悪化
    • [92]造船ブーム時の受注残により当面の操業低下は回避
    • [93]陸上部門の生産強化のため生産機種の多角化と規模拡大を推進
    • [94]岩戸景気へ向かう局面で陸上部門の拡充が時機に合った
    • [95]1961年11月 事業部制を採用し造船・機械・精機・鉄構の4事業部を発足
    • [96]1961年12月 砂野仁が6代社長に就任
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [97]加藤専務らが間接費を4割削減

規模の拡大は合併でも試みられ、三度続けて失敗している[98]。1961年4月ごろ、第一銀行の勧めで播磨造船所との合併を手がけた[99]が、造船界が不況であるうえ造船部門の強い二社が一緒になっても大したメリットは期待できないという考えが社内で大勢を占め[100]、話は1か月余り停滞した。返事が長引くうちに第一銀行常務の長谷川重三郎氏が石川島重工社長の土光敏夫氏へ話を持ち込み、土光氏は三日間待ってくれと言って三日後にすべてを第一銀行へ白紙一任した[101]。砂野氏は後年、機が熟さなかったのだろう、長い間の習慣で社内の態勢が積極的に動こうとしなかった結果である[102]、と振り返っている。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [98]合併による規模拡大を三度試みていずれも失敗した
    • [99]1961年4月ごろ 第一銀行の勧めで播磨造船所との合併を手がけたが失敗
    • [100]造船部門の強い二社の合併にメリットを見出せず社内で話が停滞
    • [101]第一銀行常務の長谷川重三郎が石川島重工社長の土光敏夫に持ち込み、土光は三日で白紙一任
    • [102]砂野仁は社内の態勢が動かなかったことを敗因とした

同じ年、東海銀行頭取の鈴木享市氏の意向として、川崎汽船専務で東海臨港社長の山本寅夫氏が名古屋造船との合併話を持ち込んだ[103]手塚敏雄氏とともに名古屋へ出向いて話を進めたものの、福原名古屋造船社長が病気であったこともあり同意は得られず[104]、これも土光氏の側へ渡っている。強く押せなかった背景には、名古屋造船という地元を象徴する名称を残してほしいという銀行筋の意向[105]があり、業務提携にとどまる心配もあった。三度目は社長就任直後の浦賀船渠で、これも第一銀行からの話[106]であった。何度か浦賀の多賀社長と会って協議していた最中、日本経済新聞に浦賀は修繕ドックにして川重が新造船を受け持つという記事が出て、浦賀側の感情がこじれ白紙還元[107]となった。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [103]東海銀行頭取 鈴木享市の意向で山本寅夫が名古屋造船との合併話を持ち込む
    • [104]福原名古屋造船社長の病気もあり同意を得られず土光側へ渡った
    • [105]名古屋造船の名称存続を求める銀行筋の意向と業務提携止まりの懸念
    • [106]三度目は社長就任直後の浦賀船渠で第一銀行からの話
    • [107]日本経済新聞の報道で浦賀側の感情がこじれ白紙還元
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [91]1957年4月 スエズ運河再開を契機に海運市況が急速に悪化
    • [92]造船ブーム時の受注残により当面の操業低下は回避
    • [93]陸上部門の生産強化のため生産機種の多角化と規模拡大を推進
    • [94]岩戸景気へ向かう局面で陸上部門の拡充が時機に合った
    • [95]1961年11月 事業部制を採用し造船・機械・精機・鉄構の4事業部を発足
    • [96]1961年12月 砂野仁が6代社長に就任
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [97]加藤専務らが間接費を4割削減
    • [98]合併による規模拡大を三度試みていずれも失敗した
    • [99]1961年4月ごろ 第一銀行の勧めで播磨造船所との合併を手がけたが失敗
    • [100]造船部門の強い二社の合併にメリットを見出せず社内で話が停滞
    • [101]第一銀行常務の長谷川重三郎が石川島重工社長の土光敏夫に持ち込み、土光は三日で白紙一任
    • [102]砂野仁は社内の態勢が動かなかったことを敗因とした
    • [103]東海銀行頭取 鈴木享市の意向で山本寅夫が名古屋造船との合併話を持ち込む
    • [104]福原名古屋造船社長の病気もあり同意を得られず土光側へ渡った
    • [105]名古屋造船の名称存続を求める銀行筋の意向と業務提携止まりの懸念
    • [106]三度目は社長就任直後の浦賀船渠で第一銀行からの話
    • [107]日本経済新聞の報道で浦賀側の感情がこじれ白紙還元

坂出という代替と、最新鋭ドックの獲得

失敗は結果として設備の刷新につながり[108]、砂野氏は合併すれば技術者の数は増えるが旧態依然の設備ではどうにもならない、三度流れたことはその点で幸運だった[109]、と記している。1962年秋ごろから海運市況が立ち直り[110]、船型の巨大化がいちだんと進む。他社が新しい造船所を次々に建て始めるなか、川崎重工業も同年夏ごろから候補地を探していた[111]。川崎製鉄の西山社長に相談すると、すでに造成を進めていた岡山県水島の高梁川西側E地区を勧められる[112]。土地の値段は格安であったが、調査の結果ヘドロ層が比較的厚く工事は相当に困難であることが判明[113]した。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [108]三度の失敗が結果として設備の刷新につながった
    • [109]砂野仁は合併三度の失敗を設備刷新の機会として幸運と評した
    • [110]1962年秋ごろから海運市況が立ち直り船型巨大化が進む
    • [111]1962年夏ごろから造船所の候補地を物色
    • [112]川崎製鉄の西山社長の勧めで岡山県水島の高梁川西側E地区を検討
    • [113]水島はヘドロ層が厚く工事が困難と判明

1964年7月、砂野氏は加藤専務・長谷川専務とともに三木知事を県庁に訪ね[114]、工期も長くかかり申し出の値段では造成できそうにないと断りを入れた。知事は「高くかかろうがなんであろうが、おたくへは申し出の値段で造成して差しあげるので、心配はいりません[115]」と応じたが、造船所の建設には陸地との接続を含めて120万平方メートル近い土地が要り、西風が強いため防波堤も必要で、4億円の漁業補償費を立て替え[116]ねばならない。三木知事はその3か月ほど後の10月に急逝[117]した。三木知事はその後も西山社長を訪ねて再考を求めていた[118]

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [114]1964年7月 砂野仁が加藤・長谷川両専務と三木知事を訪ね水島を辞退
    • [115]三木知事は申し出の値段での造成を約したが辞退した
    • [116]造船所建設には120万平方メートル近い土地と防波堤、4億円の漁業補償費の立替が必要だった
    • [117]三木知事は1964年10月に急逝
    • [118]三木知事はその後も西山社長を訪ねて再考を求めた

代わりに浮上したのが香川県の番ノ州で、四国電力の中川以良氏を通じて誘致の話があり[119]、当初見た塩田の跡地は水島同様にヘドロ層が厚かったが、たまたま進出を予定していた大協石油が中止したため番ノ州が検討対象となる[120]。ここは洲であるから潮が引けば土も出るうえ、埋め立てには備讃瀬戸を浚渫した土砂を使えるので工費が安く、面積も水島より小さい77万平方メートル[121]で足りた。香川県が造船所のレイアウトに合わせて埋め立てるという条件[122]も付いている。1964年の暮れも押し詰まって進出を決め[123]、1967年4月に第一船となる川崎汽船の12万重量トンタンカーの起工式[124]を挙げた。坂出工場は建造ドック35万トン、修繕ドック50万トン[125]を備えている。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [119]四国電力の中川以良を通じて香川県から誘致の話があった
    • [120]大協石油の進出中止により番ノ州が検討対象となった
    • [121]番ノ州は備讃瀬戸の浚渫土砂を使え面積も77万平方メートルで足りた
    • [122]香川県が造船所のレイアウトに合わせて埋め立てる条件が付いた
    • [123]1964年暮れに坂出進出を決定
    • [124]1967年4月 第一船となる川崎汽船の12万重量トンタンカーを起工
    • [125]坂出工場は建造ドック35万トン・修繕ドック50万トン
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [108]三度の失敗が結果として設備の刷新につながった
    • [109]砂野仁は合併三度の失敗を設備刷新の機会として幸運と評した
    • [110]1962年秋ごろから海運市況が立ち直り船型巨大化が進む
    • [111]1962年夏ごろから造船所の候補地を物色
    • [112]川崎製鉄の西山社長の勧めで岡山県水島の高梁川西側E地区を検討
    • [113]水島はヘドロ層が厚く工事が困難と判明
    • [114]1964年7月 砂野仁が加藤・長谷川両専務と三木知事を訪ね水島を辞退
    • [115]三木知事は申し出の値段での造成を約したが辞退した
    • [116]造船所建設には120万平方メートル近い土地と防波堤、4億円の漁業補償費の立替が必要だった
    • [117]三木知事は1964年10月に急逝
    • [118]三木知事はその後も西山社長を訪ねて再考を求めた
    • [119]四国電力の中川以良を通じて香川県から誘致の話があった
    • [120]大協石油の進出中止により番ノ州が検討対象となった
    • [121]番ノ州は備讃瀬戸の浚渫土砂を使え面積も77万平方メートルで足りた
    • [122]香川県が造船所のレイアウトに合わせて埋め立てる条件が付いた
    • [123]1964年暮れに坂出進出を決定
    • [124]1967年4月 第一船となる川崎汽船の12万重量トンタンカーを起工
    • [125]坂出工場は建造ドック35万トン・修繕ドック50万トン

三社大合同と、総花的な資源配分からの脱却

1959年12月に川崎航空機から川崎重工業へ復帰した砂野氏[126]は、両社は合併すべきだという考えを固めていた。川崎製鉄の西山社長には、川崎グループがばらばらでは今後の発展は難しい、資本金も一番多く先輩でもあるあなたが旗を振って川崎系の大合同を推し進めるべきだ[127]、と進言している。西山氏は千葉への進出に注力しており[128]耳を傾けなかった。1966年、資本自由化を控えて欧州企業の体制を視察する大屋ミッションに加わる[129]と、従来の一国単位の企業の力ではEEC経済圏でも生き残れず米国の巨大資本には対抗できない[130]、という見方が各国の要人に共通していた。砂野氏も同行した長谷川専務も、企業の巨大化が要ることを痛感[131]する。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [126]1959年12月 砂野仁が川崎航空機から川崎重工業へ復帰
    • [127]砂野は川崎製鉄の西山社長に川崎系大合同の主導を進言したが応じられなかった
    • [128]西山は千葉進出に注力しており砂野の進言に応じなかった
    • [129]1966年 資本自由化を控えた大屋ミッションで訪欧
    • [130]一国単位の企業ではEEC経済圏でも米国資本にも対抗できないという欧州要人の共通見解
    • [131]砂野と長谷川専務は企業の巨大化が必要と痛感した

1968年1月、砂野氏が川崎航空機工業社長の四本潔氏に、いよいよ合併の時期がきたようだな、と持ちかけたところ、四本氏は車輛はどうしますか、と尋ねた[132]。砂野氏がもし上田社長が一緒になるというのならその方が一層望ましい、と答え、四本氏がその旨を川崎車輌社長の上田将雄氏へ伝えると上田氏も同意する[133]。3人が1時間あまり話し合った結果、合併は一挙に内定[134]した。川崎車輌は当時1割2分の配当をしており[135]経営も安定していたため、参加は難しかろうと見られていた。1968年1月から具体的な協議に入り、3月19日に合併を正式発表[136]、1969年4月1日に実現[137]している。合併後の年間売上高は約1,700億円[138]が見込まれた。

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [132]砂野の打診に四本は「車輛はどうしますか」と尋ねた
    • [133]砂野の返答を受け四本が上田将雄へ伝え上田も同意した
    • [134]1968年1月 砂野仁が四本潔に合併を持ちかけ、上田将雄も同意して3人の1時間の協議で内定
    • [135]川崎車輌は1割2分の配当をしており参加は難しいと見られていた
    • [136]1968年3月19日 合併を正式発表
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [137]1969年4月1日 川崎航空機工業・川崎車輌を合併
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [138]合併後の年間売上高見込みは約1,700億円

合併の初期は融和が優先され、1969年に立てた1973年までの5か年計画について四本社長は3社の融和を図ることを主眼に置いたため経営資源の配分も総花的にせざるをえなかった[139]、と述べている。そこで1971年度から始まる新たな計画では重点主義へ改め、船舶とプラント・エンジニアリングに加えて、自動制御装置・産業ロボット・NCマシン・自動搬送機・無人倉庫といった省力化機械を重点部門[140]に据えた。育成する戦略部門には航空機・海洋開発・大型土木建設機械・原子力の4分野を選んでいる[141]。1975年度の売上高は1970年度実績2,461億円の2.54倍にあたる6,264億円[142]を掲げ、1972年4月には汽車製造を合併した[143]。1976年には産業用ガスタービンの民需向け営業[144]を始め、1977年から本格的な経営合理化に着手[145]し、1978年6月にはP-3C対潜哨戒機のライセンス生産[146]を開始している。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻6号「川崎重工業の現状と将来」(四本潔社長講演)
    • [139]合併当初の5か年計画は3社の融和を主眼とし資源配分が総花的だった
    • [140]1971年度起点の計画で省力化機械(自動制御装置・産業ロボット・NCマシン・自動搬送機・無人倉庫)を重点部門に
    • [141]戦略部門に航空機・海洋開発・大型土木建設機械・原子力を選定
    • [142]1975年度売上高6,264億円(1970年度実績2,461億円の2.54倍)を計画
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [143]1972年4月 汽車製造を合併
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [144]1976年 産業用ガスタービンの民需向け営業を開始
    • [145]1977年 本格的な経営合理化に着手
    • [146]1978年6月 P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [126]1959年12月 砂野仁が川崎航空機から川崎重工業へ復帰
    • [127]砂野は川崎製鉄の西山社長に川崎系大合同の主導を進言したが応じられなかった
    • [128]西山は千葉進出に注力しており砂野の進言に応じなかった
    • [129]1966年 資本自由化を控えた大屋ミッションで訪欧
    • [130]一国単位の企業ではEEC経済圏でも米国資本にも対抗できないという欧州要人の共通見解
    • [131]砂野と長谷川専務は企業の巨大化が必要と痛感した
    • [132]砂野の打診に四本は「車輛はどうしますか」と尋ねた
    • [133]砂野の返答を受け四本が上田将雄へ伝え上田も同意した
    • [134]1968年1月 砂野仁が四本潔に合併を持ちかけ、上田将雄も同意して3人の1時間の協議で内定
    • [135]川崎車輌は1割2分の配当をしており参加は難しいと見られていた
    • [136]1968年3月19日 合併を正式発表
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [137]1969年4月1日 川崎航空機工業・川崎車輌を合併
    • [143]1972年4月 汽車製造を合併
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [138]合併後の年間売上高見込みは約1,700億円
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻6号「川崎重工業の現状と将来」(四本潔社長講演)
    • [139]合併当初の5か年計画は3社の融和を主眼とし資源配分が総花的だった
    • [140]1971年度起点の計画で省力化機械(自動制御装置・産業ロボット・NCマシン・自動搬送機・無人倉庫)を重点部門に
    • [141]戦略部門に航空機・海洋開発・大型土木建設機械・原子力を選定
    • [142]1975年度売上高6,264億円(1970年度実績2,461億円の2.54倍)を計画
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [144]1976年 産業用ガスタービンの民需向け営業を開始
    • [145]1977年 本格的な経営合理化に着手
    • [146]1978年6月 P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始

1990年〜 提案型への転換と、統合破談から水素事業へ

川崎重工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1990年 ボーイング向け航空機部品生産を本格化
  2. 1997年 NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
  3. 2002年 船舶事業と精密機械事業を分社
  4. 2010年 造船・精密機械・プラント子会社を再合併
  5. 2013年 川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談) なぜ大手造船会社における経営統合が破談に至り、川崎重工の社長が解任されたのか?
  6. 2022年 液化水素サプライチェーンへの集中と、世界初の液化水素運搬船の建造 まだ市場のない燃料へ、造船で培った極低温の技術をどこまで振り向けるか——2010年から2026年までの投資先行
  7. 2024年 潜水艦事業の裏金と舶用エンジン検査データ改ざんの露呈、そして統治の立て直し 確実に受注できる案件で、なぜ癒着と不正が令和まで残ったか——防衛の中核企業が問われた統治

受注型からの脱却と、二輪出身社長の四方針

海外での事業は1990年代を通じて広がり、1990年3月にはボーイング向けの航空機部品生産が本格化[147]し、1997年にはニューヨーク市交通局向け地下鉄車両の製造を始めて[148]いる。2000年6月、二輪車事業の生え抜きとして初めて田崎雅元氏が社長[149]へ就いた。田崎氏は1958年に川崎航空機工業へ入社し、1965年に渡米してシカゴに二輪車の部品・サービスセンターを立ち上げ、1981年にKawasaki Motors Corp.,U.S.A.の社長[150]を務めた人物である。重機の商売は仕様も納期も値段も顧客が決め、それに生産技術力でコスト面から応じる[151]ものであった。これに対し二輪車を中心とする汎用機はカタログ商売で、商品力とマーケット指向、世界に展開する販売・サービス網がものを言う[152]

  • 川崎重工業 05-timeline
    • [147]1990年3月 ボーイング向け航空機部品生産が本格化
    • [148]1997年 ニューヨーク市交通局向け地下鉄車両の製造を開始
  • 週刊東洋経済 2000年9月2日号「トップの履歴書 川崎重工業社長 田崎雅元 二輪車の文化生かし“柔”工業への進化を」
    • [149]2000年6月 二輪車事業の生え抜きとして初めて田崎雅元が社長就任
    • [150]田崎雅元は1958年川崎航空機工業入社、1965年渡米、1981年 Kawasaki Motors Corp.,U.S.A. 社長
    • [151]重機は顧客が仕様・納期・値段を決め生産技術力で応じる商売
    • [152]二輪中心の汎用機はカタログ商売で商品力・マーケット指向・販売サービス網が要

田崎氏は就任直後、全社員へメールを送って四つの基本方針を訴えた[153]。低価格で受動的に製品を供給する事業から提案力を武器に市場を開拓する事業へ移ること、経営資源を全社で水平展開すること、受注量を追わず質を重視して損益分岐点を引き下げること、そして提携・工場集約・分社化とM&Aを積極的に進める[154]ことである。前社長の亀井俊郎氏が田崎氏に期待したのも、受注型企業から提案型企業への体質転換[155]であった。事業の組み替えは実際に動き出し、2001年9月にはIHIとの造船事業統合を白紙撤回[156]し、2002年10月には船舶事業を分離して川崎造船を設立、精密機械事業をカワサキプレシジョンマシナリへ承継[157]させた。

  • 週刊東洋経済 2000年9月2日号「トップの履歴書 川崎重工業社長 田崎雅元 二輪車の文化生かし“柔”工業への進化を」
    • [153]田崎は就任直後に全社員へメールで四つの基本方針を提示
    • [154]方針は提案型へのシフト・資源の水平展開・質重視と損益分岐点引下げ・提携やM&A
    • [155]前社長の亀井俊郎が受注型から提案型への体質転換を期待した
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [156]2001年9月 IHIとの造船事業統合を白紙撤回
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [157]2002年10月 船舶事業を分離し川崎造船を設立、精密機械事業をカワサキプレシジョンマシナリへ承継
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [147]1990年3月 ボーイング向け航空機部品生産が本格化
    • [148]1997年 ニューヨーク市交通局向け地下鉄車両の製造を開始
    • [156]2001年9月 IHIとの造船事業統合を白紙撤回
  • 週刊東洋経済 2000年9月2日号「トップの履歴書 川崎重工業社長 田崎雅元 二輪車の文化生かし“柔”工業への進化を」
    • [149]2000年6月 二輪車事業の生え抜きとして初めて田崎雅元が社長就任
    • [150]田崎雅元は1958年川崎航空機工業入社、1965年渡米、1981年 Kawasaki Motors Corp.,U.S.A. 社長
    • [151]重機は顧客が仕様・納期・値段を決め生産技術力で応じる商売
    • [152]二輪中心の汎用機はカタログ商売で商品力・マーケット指向・販売サービス網が要
    • [153]田崎は就任直後に全社員へメールで四つの基本方針を提示
    • [154]方針は提案型へのシフト・資源の水平展開・質重視と損益分岐点引下げ・提携やM&A
    • [155]前社長の亀井俊郎が受注型から提案型への体質転換を期待した
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [157]2002年10月 船舶事業を分離し川崎造船を設立、精密機械事業をカワサキプレシジョンマシナリへ承継

統合の破談と、その後の事業の絞り込み

分社は続き、2005年4月にプラント事業をカワサキプラントシステムズへ、破砕機事業をアーステクニカへ承継[158]し、2009年4月には建設機械事業をKCMへ移して[159]いる。ところが2010年10月、川崎造船・カワサキプレシジョンマシナリ・カワサキプラントシステムズの3社を再び合併[160]した。2013年、造船不況といわゆる2014年問題を背景に重工各社が再編を迫られ[161]、JFE系とIHI系によるJMUの発足など業界再編が連鎖するなかで、川崎重工業は三井造船との経営統合を交渉した。川重主導で両社の造船部門をJMUへ合流させる構想[162]であった。

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [158]2005年4月 プラント事業をカワサキプラントシステムズ、破砕機事業をアーステクニカへ承継
    • [159]2009年4月 建設機械事業をKCMへ承継
    • [160]2010年10月 川崎造船・カワサキプレシジョンマシナリ・カワサキプラントシステムズを合併
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、三井造船との統合白紙に 社長を解任」
    • [161]造船不況と2014年問題で重工再編が連鎖しJMUが発足した
    • [162]川重主導で両社の造船部門をJMUへ合流させる構想だった

交渉は社内の反対に阻まれ、2013年6月13日、臨時取締役会が10対3で長谷川聡社長ら3人を解任[163]し、交渉を打ち切っている。統合の経済合理性より、社内の統治と事業ポートフォリオの見方が決着を左右した[164]形であった。後任の村山滋社長は投下資本利益率を重視する経営へ舵を切り[165]、事業の絞り込みを進めた。2015年10月にはKCMの全株式を日立建機へ譲渡して建設機械事業から撤退[166]し、2017年3月には船舶海洋事業の構造改革に着手[167]している。解任は定時株主総会を前にした造反であり[168]、重工業界では異例の決着となった。

  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、10対3で解任決定 総会前に異例の造反劇」
    • [163]2013年6月13日 臨時取締役会が10対3で長谷川聡社長ら3人を解任し交渉打切り
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、三井造船との統合白紙に 社長を解任」
    • [164]経済合理性より社内統治と事業ポートフォリオ観が決着を左右した
    • [168]解任は定時株主総会前の造反で業界では異例の決着だった
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「この人に聞く 川崎重工業 社長 金花芳則 技術力を世界に向け発信」
    • [165]後任の村山滋がROIC重視の経営へ転換
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [166]2015年10月 KCMの全株式を日立建機へ譲渡し建設機械事業から撤退
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [167]2017年3月 船舶海洋事業の構造改革に着手

2016年6月、鉄道車両部門から金花芳則氏が社長へ就任[169]した。村山氏の方針を引き継ぎつつ、金花氏は自社の弱点を知名度に見ていた[170]。「私は英国に6年、米国に14年駐在していたが、海外での知名度は2輪車以外、それほどではない。イメージも地味だ」(週刊東洋経済2016年8月27日号)と語っている。技術の組み合わせによる発信力の強化を掲げ、電気モーターより大きな力を出せる油圧技術をロボットへ結びつける構想[172]を示した。原価低減では二輪車製造で用いていた生産効率化システムを航空機へ適用[173]している。ボーイング787の共同開発に参画した2004年から2005年当時は1ドル110円近辺であったが、その後80円程度まで円高[174]が進むなかで、この適用により90円の円高まで耐えられるようになった[175][171]

  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「この人に聞く 川崎重工業 社長 金花芳則 技術力を世界に向け発信」
    • [169]2016年6月 鉄道車両部門出身の金花芳則が社長就任
    • [170]金花芳則は村山滋の方針を引き継ぎ知名度を自社の弱点と見た
    • [171]金花芳則は海外での知名度の低さを課題に挙げた
    • [172]油圧技術をロボットへ結びつける構想
    • [173]二輪車製造の生産効率化システムを航空機へ適用して原価を下げた
    • [174]ボーイング787共同開発参画時の2004〜05年は1ドル110円近辺、その後80円程度まで円高
    • [175]二輪の生産効率化システムを航空機へ適用し90円の円高まで耐えられるようになった
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [158]2005年4月 プラント事業をカワサキプラントシステムズ、破砕機事業をアーステクニカへ承継
    • [159]2009年4月 建設機械事業をKCMへ承継
    • [160]2010年10月 川崎造船・カワサキプレシジョンマシナリ・カワサキプラントシステムズを合併
    • [166]2015年10月 KCMの全株式を日立建機へ譲渡し建設機械事業から撤退
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、三井造船との統合白紙に 社長を解任」
    • [161]造船不況と2014年問題で重工再編が連鎖しJMUが発足した
    • [162]川重主導で両社の造船部門をJMUへ合流させる構想だった
    • [164]経済合理性より社内統治と事業ポートフォリオ観が決着を左右した
    • [168]解任は定時株主総会前の造反で業界では異例の決着だった
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、10対3で解任決定 総会前に異例の造反劇」
    • [163]2013年6月13日 臨時取締役会が10対3で長谷川聡社長ら3人を解任し交渉打切り
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「この人に聞く 川崎重工業 社長 金花芳則 技術力を世界に向け発信」
    • [165]後任の村山滋がROIC重視の経営へ転換
    • [169]2016年6月 鉄道車両部門出身の金花芳則が社長就任
    • [170]金花芳則は村山滋の方針を引き継ぎ知名度を自社の弱点と見た
    • [171]金花芳則は海外での知名度の低さを課題に挙げた
    • [172]油圧技術をロボットへ結びつける構想
    • [173]二輪車製造の生産効率化システムを航空機へ適用して原価を下げた
    • [174]ボーイング787共同開発参画時の2004〜05年は1ドル110円近辺、その後80円程度まで円高
    • [175]二輪の生産効率化システムを航空機へ適用し90円の円高まで耐えられるようになった
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [167]2017年3月 船舶海洋事業の構造改革に着手

水素事業への集中と、防衛事業で露呈した不正

2020年6月、ロボット部門出身の橋本康彦氏が社長[176]へ就いた。2021年3月期は航空宇宙システム部門に加え、大型バイクを含むモーターサイクル&エンジン部門なども赤字へ転落する見通し[177]となった。橋本氏は2020年11月にグループビジョン2030を策定[178]し、2021年4月に船舶海洋部門をエネルギー・環境プラント部門へ統合[179]、同年10月には車両事業を川崎車両へ、モーターサイクル&エンジン事業をカワサキモータースへ承継[180]させた。分社にあたり財務担当の山本克也副社長は「来期の黒字化は必達だ[181]」(週刊東洋経済2021年1月23日号)と述べている。2030年度に営業利益率8%という目標に対し、2019年度の実績は3.7%[182]であった。就任から1年以内に施策を重ねたことについては、納期の長い仕事が多い現場から拙速ではないかという声も上がった[183]

  • 週刊東洋経済 2022年2月12日号「トップに直撃 川崎重工業 社長 橋本康彦「水素事業に全力シフト 世界基準を押さえに行く」」
    • [176]2020年6月 ロボット部門出身の橋本康彦が社長就任
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号「川崎重工業 新社長が矢継ぎ早の大変革 精密・ロボットに活路求める」
    • [177]2021年3月期は航空宇宙とモーターサイクル&エンジン部門なども赤字転落の見通し
    • [179]2021年4月 船舶海洋部門をエネルギー・環境プラント部門へ統合
    • [181]財務担当の山本克也副社長は分社後の黒字化を必達とした
    • [182]2030年度の営業利益率目標8%に対し2019年度実績は3.7%
    • [183]現場からは施策の速さを拙速とする声が上がった
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [178]2020年11月 グループビジョン2030を策定
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [180]2021年10月 車両事業を川崎車両へ、モーターサイクル&エンジン事業をカワサキモータースへ承継

エネルギー分野では水素への集中を鮮明にし、橋本氏は「原子力はほとんどやめたし、大型火力もない。そういう意味でうちは水素に完全に舵を切っている」(週刊東洋経済2022年2月12日号)と述べ、水素関連事業の規模を2030年に3,000億円、2050年に2兆円と見積もった[185]。同社は世界で唯一の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」を建造しており、国際海事機関が進める基準づくりもこの船をもとに検討[186]が進んでいる。1970年代にLNGの利用が始まった際には海外が押さえた技術を導入する立場であったが、水素では逆にライセンスを提供[187]して利益を得る形を狙う。人事制度も2021年度から改め、年齢に伴う昇給・降給の廃止と全社基準での役割等級査定を導入[188]した。橋本氏は2017年ごろにも同様の提案をしていたが進まず、コロナ禍が引き金になった[189]と振り返っている。 [184]

  • 週刊東洋経済 2022年2月12日号「トップに直撃 川崎重工業 社長 橋本康彦「水素事業に全力シフト 世界基準を押さえに行く」」
    • [184]橋本康彦は原子力と大型火力を持たず水素に完全に舵を切ったと明言
    • [185]水素関連事業の規模を2030年に3,000億円、2050年に2兆円と見積もる
    • [186]世界で唯一の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」を建造しIMOの基準づくりの土台となった
    • [187]1970年代のLNGでは技術導入側だったが水素ではライセンス提供側を狙う
    • [188]2021年度から年齢に伴う昇給・降給の廃止と全社基準の役割等級査定を導入
    • [189]橋本は2017年ごろにも同様の提案をしたが進まず、コロナ禍が引き金になったとした

2024年、防衛事業で不正が表面化した[190]。潜水艦修繕事業において取引先との架空取引で裏金をつくり、これを原資に海上自衛隊員へ工具や商品券、飲食を供与[191]していたものである。潜水艦は三菱重工業と隔年で交互に受注する寡占市場[192]で、神戸工場では海自の乗組員が数か月にわたり造船所で共同作業[193]にあたっていた。同年2月下旬の大阪国税局の税務調査で架空取引が判明し、2023年度の有価証券報告書に税金費用6億円を計上[194]している。防衛省は7月に特別防衛監察[195]を決めた。8月には舶用エンジンの検査データ改ざんも判明[196]し、11月に社長直轄の防衛事業管理本部を新設[197]した。2025年7月30日の最終報告では海上幕僚長ら90人超が処分され[198]、同年12月には防衛省が2.5か月の指名停止[199]を科している。

  • 週刊東洋経済 2024年7月20日号「裏金で海自隊員へ金品供与 川崎重工の防衛事業に冷水」
    • [190]2024年 防衛事業で不正が表面化
    • [191]潜水艦修繕事業の架空取引による裏金で海自隊員へ工具・商品券・飲食を供与
    • [192]潜水艦は三菱重工業と隔年で交互に受注する寡占市場
    • [193]神戸工場で海自乗組員が数か月にわたり共同作業にあたっていた
    • [194]2024年2月下旬の大阪国税局の税務調査で判明、2023年度有報に税金費用6億円を計上
  • 週刊東洋経済 2024年10月19日号「川崎重工『相次ぐ不正』で業界3位に凋落の危機」
    • [195]2024年7月 防衛省が特別防衛監察を決定
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年8月21日「舶用エンジンにおける検査不正について」
    • [196]2024年8月 舶用エンジンの検査データ改ざんが判明
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年12月27日「潜水艦修繕事業に関する特別調査委員会の調査報告書について」
    • [197]2024年11月 社長直轄の防衛事業管理本部を新設
  • 時事通信(2025年7月30日)「川重裏金、海幕長ら90人超処分 別の3社でも不正認定―特別防衛監察が最終報告」
    • [198]2025年7月30日 特別防衛監察の最終報告で海上幕僚長ら90人超を処分
  • 日本経済新聞(2025年12月)「防衛省、川崎重工を指名停止2.5カ月 潜水艦エンジン検査不正」
    • [199]2025年12月 防衛省が2.5か月の指名停止
  • 週刊東洋経済 2022年2月12日号「トップに直撃 川崎重工業 社長 橋本康彦「水素事業に全力シフト 世界基準を押さえに行く」」
    • [176]2020年6月 ロボット部門出身の橋本康彦が社長就任
    • [184]橋本康彦は原子力と大型火力を持たず水素に完全に舵を切ったと明言
    • [185]水素関連事業の規模を2030年に3,000億円、2050年に2兆円と見積もる
    • [186]世界で唯一の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」を建造しIMOの基準づくりの土台となった
    • [187]1970年代のLNGでは技術導入側だったが水素ではライセンス提供側を狙う
    • [188]2021年度から年齢に伴う昇給・降給の廃止と全社基準の役割等級査定を導入
    • [189]橋本は2017年ごろにも同様の提案をしたが進まず、コロナ禍が引き金になったとした
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号「川崎重工業 新社長が矢継ぎ早の大変革 精密・ロボットに活路求める」
    • [177]2021年3月期は航空宇宙とモーターサイクル&エンジン部門なども赤字転落の見通し
    • [179]2021年4月 船舶海洋部門をエネルギー・環境プラント部門へ統合
    • [181]財務担当の山本克也副社長は分社後の黒字化を必達とした
    • [182]2030年度の営業利益率目標8%に対し2019年度実績は3.7%
    • [183]現場からは施策の速さを拙速とする声が上がった
  • 川崎重工業 05-timeline
    • [178]2020年11月 グループビジョン2030を策定
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [180]2021年10月 車両事業を川崎車両へ、モーターサイクル&エンジン事業をカワサキモータースへ承継
  • 週刊東洋経済 2024年7月20日号「裏金で海自隊員へ金品供与 川崎重工の防衛事業に冷水」
    • [190]2024年 防衛事業で不正が表面化
    • [191]潜水艦修繕事業の架空取引による裏金で海自隊員へ工具・商品券・飲食を供与
    • [192]潜水艦は三菱重工業と隔年で交互に受注する寡占市場
    • [193]神戸工場で海自乗組員が数か月にわたり共同作業にあたっていた
    • [194]2024年2月下旬の大阪国税局の税務調査で判明、2023年度有報に税金費用6億円を計上
  • 週刊東洋経済 2024年10月19日号「川崎重工『相次ぐ不正』で業界3位に凋落の危機」
    • [195]2024年7月 防衛省が特別防衛監察を決定
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年8月21日「舶用エンジンにおける検査不正について」
    • [196]2024年8月 舶用エンジンの検査データ改ざんが判明
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年12月27日「潜水艦修繕事業に関する特別調査委員会の調査報告書について」
    • [197]2024年11月 社長直轄の防衛事業管理本部を新設
  • 時事通信(2025年7月30日)「川重裏金、海幕長ら90人超処分 別の3社でも不正認定―特別防衛監察が最終報告」
    • [198]2025年7月30日 特別防衛監察の最終報告で海上幕僚長ら90人超を処分
  • 日本経済新聞(2025年12月)「防衛省、川崎重工を指名停止2.5カ月 潜水艦エンジン検査不正」
    • [199]2025年12月 防衛省が2.5か月の指名停止

川崎重工業の沿革1878〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
川崎築地造船所を創業★★
川崎兵庫造船所を開設
官営兵庫造船所を借受け川崎造船所に商号変更
川崎造船所を設立
川崎汽船を設立★★
昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立十五銀行の取り付けで資金繰りが詰まった川崎造船所は、なぜ比較的よく稼いでいた部門から先に切り出したのか 詳細を読む★★★
軍縮を受けて和議申請★★
航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立
商号を川崎重工業に変更
再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)★★
手塚敏雄製鉄部門の分離独立と川崎製鉄の設立、造船・造機・電機3部門への集約造船と製鉄を一つの財布で抱えるか、外へ出して追わせるか——企業再建整備計画がつきつけた問い 詳細を読む★★★
砂野仁事業部制を採用
砂野仁国内生産拠点を拡充
砂野仁二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜国内で原付を追うか、海外で大型車を売るか——重工業の会社が消費者に顔を持つまで 詳細を読む★★★
四本潔産業ロボットに参入
四本潔陸海空にわたる総合重工業をめざした川崎3社の合併財閥解体で分かれた川崎の造船・航空・車両を、砂野仁氏はなぜ一つの重工業へ束ね直したのか 詳細を読む★★★
四本潔汽車製造を合併
梅田善司産業用ガスタービンの民需営業を開始
梅田善司経営合理化に着手
梅田善司P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
長谷川謙浩Kawasaki Motors Mfg.を設立
長谷川謙浩空調・ボイラ事業を川重冷熱工業に承継
大庭浩Kawasaki Rail Carを設立
大庭浩ボーイング向け航空機部品生産を本格化
亀井俊郎NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
田崎雅元IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
田崎雅元船舶事業と精密機械事業を分社★★
長谷川聰造船・精密機械・プラント子会社を再合併★★
村山滋川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談)なぜ大手造船会社における経営統合が破談に至り、川崎重工の社長が解任されたのか? 詳細を読む★★★
金花芳則建設機械事業から撤退
金花芳則船舶海洋事業の構造改革
橋本康彦グループビジョン2030を策定
橋本康彦車両事業と二輪事業を分社化
橋本康彦液化水素サプライチェーンへの集中と、世界初の液化水素運搬船の建造まだ市場のない燃料へ、造船で培った極低温の技術をどこまで振り向けるか——2010年から2026年までの投資先行 詳細を読む★★★
橋本康彦防衛省向け販売が好調
橋本康彦潜水艦事業の裏金と舶用エンジン検査データ改ざんの露呈、そして統治の立て直し確実に受注できる案件で、なぜ癒着と不正が令和まで残ったか——防衛の中核企業が問われた統治 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎車輌」の項
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
  • 川崎重工業株式会社社史(1959年)年表・諸表
  • 川崎重工業 05-timeline
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
  • 川崎重工業 05-timeline(1949/10 再建整備計画が認可)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻6号「川崎重工業の現状と将来」(四本潔社長講演)
  • 週刊東洋経済 2000年9月2日号「トップの履歴書 川崎重工業社長 田崎雅元 二輪車の文化生かし“柔”工業への進化を」
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、三井造船との統合白紙に 社長を解任」
  • 日本経済新聞 2013年6月14日「川重、10対3で解任決定 総会前に異例の造反劇」
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「この人に聞く 川崎重工業 社長 金花芳則 技術力を世界に向け発信」
  • 週刊東洋経済 2022年2月12日号「トップに直撃 川崎重工業 社長 橋本康彦「水素事業に全力シフト 世界基準を押さえに行く」」
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号「川崎重工業 新社長が矢継ぎ早の大変革 精密・ロボットに活路求める」
  • 週刊東洋経済 2024年7月20日号「裏金で海自隊員へ金品供与 川崎重工の防衛事業に冷水」
  • 週刊東洋経済 2024年10月19日号「川崎重工『相次ぐ不正』で業界3位に凋落の危機」
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年8月21日「舶用エンジンにおける検査不正について」
  • 川崎重工業 ニュースリリース 2024年12月27日「潜水艦修繕事業に関する特別調査委員会の調査報告書について」
  • 時事通信(2025年7月30日)「川重裏金、海幕長ら90人超処分 別の3社でも不正認定―特別防衛監察が最終報告」
  • 日本経済新聞(2025年12月)「防衛省、川崎重工を指名停止2.5カ月 潜水艦エンジン検査不正」

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