日東電気工業は1918年10月、東京・大崎で既存の絶縁材料メーカーの事業を引き継いで発足した。資本金は20万円で、手がけたのはワニスクロスとワニスペーパーの製造販売であった。当時、国内の電気絶縁材料は輸入に依存しており、第1次世界大戦でその輸入が途絶えたことが設立のきっかけであった。後年の有価証券報告書の沿革も、設立の目的を電気絶縁材料の国産化と記している。創業期の品目には、布や紙の絶縁材に加えて電気絶縁用の塗料も含まれていた。会社は1963年の記事で、創立の年を国内の電気産業がようやく発展に向かおうとした時期と位置づけた。絶縁材料は電気機器に欠かせない部材であり、輸入が止まれば機器の生産も滞るため、国産の供給元には買い手が見込めたと考えられる。
日東電気工業の資本金は、設立時の20万円のまま1941年12月まで増えなかった。1958年10月の創業40周年式典では、日立製作所の高尾直三郎が祝辞に立ち、苦難の続いた40年として会社の歩みを位置づけた。高尾はその原因を主力品に求め、『主たる取扱品目がワニスであったためでして、ワニスは良品を作るに困難で、良否の見分けがつけにくく、したがって売るにも困難であるからであります。』と述べた。一方、電気機器メーカーの日立製作所は社内に絶縁部門を持ち、横田兼吉がその創業者であった。戦前の日東電気工業が作っていたのは、ワニスコンパウンドやワニスクロスといった絶縁材料であった。大手の電機メーカーが絶縁材料を自前で作れる中で、品質を見極めにくい材料の納入を広げるのは難しかったと推察される。
1937年、日東電気工業は日立製作所の経営下に入った。両社の関係は、日立の平井政一の骨折りで始まったという。経営を引き受けたのは、1914年に日立へ入社し、試験・検査の部門を担ってきた鎌居大蔵であった。鎌居は絶縁物の製造を経験していなかったが、日立の検査で貫いた考え方をこの会社にも当てはめようとし、高尾直三郎の家で一日かけて話し合った。鎌居が日東電気についてたびたび口にした言葉は、『これは神の思召しにかなうような工場にするから、見ていてくれ』というものだった。良否の見分けにくいワニスの作り手に、買い手側の検査の担い手を送り込んだ人選には、品質の管理から立て直す狙いがあったと思われる。
1941年12月、日東電気工業はワニスペイント会社の茨木工場を買収し、西日本に生産の足場を得た。同じ月に資本金を20万円から75万円へ増やした。1944年には日立の社員だった皆川利男が、この茨木工場の工場長として移ってきた。1945年5月、大崎の本社工場が戦火で焼け、跡地はのちに売却された。1946年7月に本社を茨木へ移し、生産は茨木工場だけで続けた。同じ年の10月にはブラックテープの製造を始め、テープ事業に踏み出した。これで従来の絶縁布管紙と絶縁塗料にテープ類が加わり、絶縁材料をまとめて供給する体制が整った。東京の拠点を失ったあとも生産を続けられたのは、戦前に西日本の工場を手に入れていたためとみられる。
1948年7月、日立製作所が持っていた日東電気工業の株式は、持株整理委員会の手で会社へ移された。移った株式は従業員などが持つことになり、日立との資本のつながりは薄れた。資本金は1948年12月に225万円、1949年8月に500万円へと続けて増やした。それでも1970年の時点で、重役のほとんどは日立出身者が占めていた。日立の高尾直三郎も、終戦後の苦しい時期の会社の様子を書類や報告で聞き続けていた。1940年代後半から1950年代にかけての経営も、日立の後ろ盾に依存していたという。資本の上での独立は会社の選択ではなく、財閥解体に伴う持株整理が外からもたらしたものだったのだろう。
1950年8月、日東電気工業はマクセルの名で乾電池の製造を始め、のちに録音機と録音テープへ品目を広げた。これで会社は、絶縁材料とマクセル製品という二つの部門を抱える体制になった。その2年前の1948年7月、日立製作所の持つ株式は持株整理委員会を通じて会社へ移り、資本のつながりは薄れていた。1959年にはトランジスタラジオの専用電池として「マクセル」乾電池が市場に出回り、売上の約30%を占めた。1957年には録音テープから一歩進めて、小型録音機の製造にも着手した。1959年の小型録音機は、北米と豪州への輸出を主な狙いとしていた。電機メーカーにしか売れない絶縁材料と異なり、一般の消費者へ売れる商品として、乾電池には独立後の収益源を増やす役が託されたとみられる。
1946年秋に始めたブラックテープに続き、会社は1951年8月、塩化ビニルを基材とするビニルテープの製造に参入した。会社の沿革は、この年のビニルテープを初の国産化と記す。ビニルテープで業界の先頭に立ったのは、1949年に専務となった皆川利男だったという。1963年の経済情報は、会社が伸びた要因を絶縁テープで培った絶縁・粘着・接着の技術の応用に求めた。副社長の土方三郎は1972年、テープが伸びた契機を電線の絶縁材料がプラスチックへ移ったことに置いた。電線の被覆材が変わる流れに、既存の顧客と塗工の技術をそのまま載せ替えられたことが、テープ参入の足場になったと推察される。
1959年の日東電気工業は、年4〜5割の売上増を続けており、以後も最低3割増を保つ方針を掲げた。談話に立った土方常務は、1957年に常務取締役となった土方三郎だった。土方は当面の伸びを、在来製品の新しい用途と技術の進歩に見合う新製品に求めた。その談話の一節は『やはり当面は在来製品の新需要、新用途の開拓を中心に、関連技術の進歩に伴うより高度な要求に応じられる新製品を提供できるよう努めたい。(当社では三新運動と称している)』というものだった。将来は電気絶縁材料から、それに関連する化学工業製品へ進む考えも示した。1957年秋からは長期5カ年計画を進め、独立した研究機関に毎期売上の5%見当を充てた。1974年時点の三新運動の中身は、新製品の開発・新用途の開拓・新需要の創造の3つだった。1975年に数値目標を伴って掲げる三新活動は、1959年にすでにあったこの呼び名を引き継いだものと思われる。
1961年2月、日東電気工業はマクセル部門を切り出し、事業を絶縁材料とテープの二つに絞り込んだ。分離した乾電池・録音テープ・小型録音機の部門には日立製作所の資本が入り、日立マクセルとなった。1973年時点でも会社は一部の株を持っていたが、資本のほとんどは日立が握っていた。1959年6月に吹田工場を建てて絶縁塗料部門を移し、1960年8月には千里丘工場へマクセル部門を移した。千里丘の乾電池工場に要る約1億5,000万円は、1960年1月払込みの倍額増資で賄った。1963年の経済情報は、分離後の会社が電気絶縁材料と化学工業材料を主力に据えて出発したと記した。家電の販売網を持つかつての親会社へ消費者向けの部門を渡すほうが、双方の事業の筋に合ったのだろう。
1962年5月、豊橋市に建てた3万坪の新工場が第一期工事を終えて動き出した。豊橋工場はテープ部門を広げるための主力工場となった。同じ1962年8月、株式を東京・大阪両証券取引所の第2部に上場した。上場の年には公募40万株を含む増資を行い、資本金を3億円から5億円に増やした。社長の皆川利男は、吹田・豊橋の新工場に続いてニューヨークに駐在所を設け、販路を海外にも求めた。この時期、電線・重電機業界の在庫調整でワニスとクロスは伸び悩んだが、粘着テープ類が工業用・家庭用・事務用に伸びた。売上に占める一般化工材料の比率は、1963年には30%まで高まっていた。電機向けの絶縁材料が足踏みするなかで、伸びるテープへ量産の設備と上場で得た資金を寄せた構図と考えられる。
1967年9月、日東電気工業は埼玉県に関東工場を建て、関東にも生産の拠点を持った。関東工場は、絶縁材料・テープに続く第三の柱として樹脂成形品部門を担った。成形品の核は、1966年3月に米国のアライドプロダクツ社と結んだEP製品の技術提携だった。このEパックシステムはエポキシ樹脂でシリコンダイオードなどを密封する方法で、1966年3月に専用機を輸入して本格生産に入った。関東工場は、弱電・通信機メーカーから急増したEパックの需要に応える場とされた。1966年9月期には一般化工材の比率が53.3%となり、初めて絶縁材を上回った。1968年の社長は皆川利男で、従業員は1,500名に増えていた。重電・電線に偏った顧客を、成長の早い弱電・電子部品の側へ広げる狙いがあったと推測される。
1968年2月、戦後12回目の増資で資本金は15億7,500万円となり、月商10億円プランを達成した。このプランは不況の1963年に打ち出したもので、不況期を通じて実現した。1966年9月期の平均月商は5億4,400万円強で、そこから2倍近くまで伸ばした計算になる。1967年度にはテープ類が売上の68%を占め、業界での比率も約50%に達した。1966年9月期の輸出は約4億4,000万円で、売上の13.5%を占めていた。1969年1月には米国に現地法人のアメリカ日東電気工業を設けた。1970年に皆川利男は、西ドイツにも販売会社を置き、輸出比率を9%から20%に上げる考えを示した。テープで国内の半分を押さえたことで、次の伸びしろを国外の市場に求めたものと読める。
1970年時点の売上構成は、絶縁材料13%、テープ類69%、成形品18%だった。社長の皆川利男はテープの比重を認めつつ、総合的な多角経営を方針に掲げた。今後の製品について皆川は、『あらゆる成型品をくみ合わせて加工度の高いものを中心に手がけていく』と語った。1972年には、電機業界向けの販売の比率が35%まで下がっていた。1973年には電機向けは28%となり、7割強が包装・自動車・住宅・医療などの一般産業資材に広がった。技術者は全従業員の13〜14%を占め、材料開発から加工まで一貫して手がける体制を取った。社名について問われた土方は、『当社の出発が電気絶縁材料なので「日東電気工業」となっているが、中身は化学工業である。』と答えた。電機業界の設備投資の波をそのまま受けない顧客構成が、この数年で形になったとうかがえる。
1973年、日東電気工業は耐熱性に優れた安価な基板用フィルムを得て、フレキシブルなプリント基板に取り組んだ。副社長の土方三郎は、基板を単体で売れば、先に参入した各社と価格で競り合うことになるとみていた。そこで米国のサンダース社から技術を入れ、顧客ごとの仕様に応じて仕上げ工程まで自社で請け負う方針を取った。三重県の亀山地区には4万坪ほどを買い増し、電子材料の専門工場にする構想も示した。1973年10月の土方は、1974年9月期の景気の減速に備え、新製品の開発などで補う対策を急いでいた。1974年3月期の売上高は234億3,300万円と前期比32.7%増えた。原材料の高騰が響き、税引後利益の伸びは4.9%にとどまった。1974年6月、副社長の土方三郎が取締役社長に就任した。
石油危機を経た1975年3月期、日東電気工業は減収となり、経常利益はほぼ半減した。社長の土方三郎は、売上が住宅・家電・自動車向けに寄っていたことを原因に挙げた。かつて売上の3割を占めた新製品は、石油危機のころ2割まで低下していた。土方は1975年12月の講演で三新運動の展開を語り、『当社は今後新製品比率30%以上を堅持しなければならないと考えている』と述べた。新製品は3年前に売上がなかった品と定め、手元の設備と技術者で用途を広げるものとした。それでも比率は伸び悩み、1977年4月に営業・工場・研究所の人員で組むSPGを置いた。1980年3月期の新製品比率は30.1%に達した。研究開発費には売上高の約5%を充てていた。
1975年4月、日東電気工業は液晶表示用の偏光フィルムの製造を始めた。その年の暮れには、偏光フィルムは月産4,000万〜5,000万円の規模になっていた。翌1976年4月には高分子分離膜の製造を始めた。土方は、汚水処理向けの薄い膜が食品や医療、化学へ広がると見込んでいた。1979年度からは、電子材料・防食材料・医療衛生材料・膜の4分野に多角化を絞った。4分野の設備投資はほぼ無条件で認め、1983年に各分野で月商10億円を目指した。1980年時点で、技術研究所の研究員180人のうち60人が膜の研究に当たっていた。医療衛生材料では、トーアエイヨーと狭心症薬のテープ製剤を共同で開発した。経皮吸収型テープ製剤の製造は1983年12月に始まった。
1971年のドル・ショックで円高が進み、経営陣は日本からの輸出だけでは先細るとみて欧州での生産を決めた。1974年、ベルギーのゲンクに現地法人を設けた。米国には3Mという強い競争相手がいたため、販売経験のある欧州を土方が選んだという。1975年12月に生産を始めたが、日本から半加工品を送る方式では、損益分岐となる月商2億円を下回った。土方は撤退せずに再投資を決め、1979年に原反からの一貫生産へ切り替えた。ベルギーの拠点は1980年3月期に初めて黒字となった。1980年1月にはシンガポールにも現地法人を置いた。1984年10月にはシンガポールの現地法人に半導体封止樹脂の技術拠点を新設した。
1984年、日東電工アメリカは膜モジュールの組立を始め、米国での本格生産も視野に入れていた。超純水用の膜モジュールは、海外で新事業に育てる候補に挙がっていた。国内では1986年4月、草津市に高分子膜とバイオリアクターを造る滋賀工場を建てた。翌1987年11月、社長の鎌居五朗のもとで米国の分離膜メーカー、ハイドロノーティクスを買収した。サンディエゴにあるこの工場は、のちに特許の争いで販売を縛られ赤字に陥った。制約が解けたのは1993年10月の米最高裁の判決で、買収から6年近くを要した。組立の延長では米国の販路に届かず、製造元ごと取り込んだとみられる。
1987年の時点で、日東電気工業は工業用粘着テープで首位、IC封止材料で5割近いシェアを持っていた。1988年4月、人事部長の岡勝之は、自社の海外展開が1980年代後半に現地化の段階へ入ったと整理した。その例に挙げたのがハイドロノーティクスの買収で、輸出と海外生産を合わせた比率は売上の20%強だった。同じ4月に海外営業本部を国際事業本部へ改め、M&Aを担う企画部を新設した。7月には米国の粘着テープメーカー、パーマセルを買収した。9月、商号を日東電気工業から日東電工へ改めた。日東電工の名は、1984年の時点ですでに略称として使われていた。電気絶縁の会社という見え方を外し、通り名を正式な名に据えたのだろう。
1989年、日東電工は工場別の組織を改め、利益責任を負う製品別の事業部制に移った。狙いは技術・生産・販売を一つの組織に収め、事業の速さを上げることにあった。1992年10月には、中央研究所などの技術者約100人を事業部の商品開発センターへ移した。社長の鎌居五朗は、製品の選び方を『最終商品の市場は大きくても、それぞれの材料の市場は小さい。そこでなくてはならない機能を持った材料を作って、トップを目指す』と説明した。常務の浅田常夫も1993年に、封止材料は約500億円の市場で40%のシェアを持つと示した。偏光フィルムも、1兆円近い液晶市場に対し年間350億円程度の市場であった。ただ1993年上期には、偏光膜などへの値下げ要請が約22億円の減益要因となった。
液晶用偏光フィルムの需要が伸びるなか、鎌居五朗は1994年に広島県尾道市で新工場を建てると決めた。TFT液晶向けに生産能力を2倍にする計画で、約100億円の投資は年間の設備投資総額に匹敵した。尾道事業所は、1996年2月に液晶表示関連材料の専門工場として操業した。1998年10月には、海外の関係会社を米国・欧州・東アジア・南アジアの4極に分けた。1999年に社長を務めた山本英樹は、日本の事業部が海外まで統括すると日本偏重になると考えた。当時、偏光板と位相差板は世界首位のシェアを持っていた。同年11月には韓国に光学製品の子会社を設けた。2000年の年報で山本は、液晶用偏光フィルムを急成長の分野と位置付けた。韓国の子会社は、パネルの生産地で顧客の隣に供給の拠点を置く狙いだったと推察される。
2001年4月、半導体材料事業部長などを経た竹本正道が社長に就任した。IT不況の2002年3月期も、液晶関連の製品は安定した利益を生んだ。会長の山本英樹と竹本は2002年の年報で『The upturn in the LCD segment was largely due to the opportune timing of forward-looking investment in new plant and equipment, namely the completion of the third facility at the Onomichi Plant in time to capitalize on an upswing in demand.』(訳:液晶部門の持ち直しは、尾道工場の第3棟が需要の回復に間に合って完成した投資の時機によるところが大きい)と記した。2003年4月には台湾に光学の子会社を設けた。2004年3月期、液晶用光学フィルムを含む電子製品の売上高は32.9%増の2,197億900万円となった。翌期の投資は過去最大の590億円とし、韓国と台湾の新工場を主な対象に据えた。国内工場は技術流出を防ぐため前工程に絞り、手間のかかる後工程はアジアの工場が担った。2005年7月には上海にも光学の子会社を置いた。
2004年の年報で会長の山本と社長の竹本は、液晶関連が主力事業に育った一方で競争は激しくなると見通した。『Newcomers from among the materials manufacturers are entering into this market, which already can no longer be termed a niche.』(訳:素材メーカーからの新規参入が相次ぎ、この市場はもはやニッチとは呼べない)とも記した。2005年には売上の70%超がエレクトロニクス市場に連なり、価格競争で好況は続かないとみた。それでも2006年には光学フィルムの投資を1年早め、2007年3月期に1,000億円を投じる計画とした。2007年3月期の連結売上高は6,798億2,200万円に増えたが、営業利益は892億2,400万円から690億3,700万円に減った。竹本は、光学フィルムの想定以上の値下がりと画面の大型化に追いつけなかったことを要因に挙げた。市場のコモディティ化を受け、光学では首位の追求から隙間での首位へ方針を改めた。
柳楽幸雄は2008年4月に取締役社長に就任した。直後に世界金融危機が起き、連結営業利益は2008年3月期の780億円から2009年3月期の138億円へ減少した。柳楽は費用を「無くす」「減らす」「代える」の3点から洗い直す「無・減・代」活動で、コスト構造の組み替えを立て直しの軸に置いた。2010年のトップメッセージでは、この活動を社内に定着させたうえで2010年度を「攻める年」と位置づけた。新たな成長分野には環境・新エネルギー・ライフサイエンスの3つを挙げ、『最初は小さくてもよいからたくさんのテーマ(軸)をたて、そこからいくつかを大きく成長させていきます。』という方針を示した。一つの需要の減少が全社の利益を圧迫する構造を改めたいという意識が、テーマを数多く立てる方針の背後にあったとみられる。
2011年2月、日東電工は米国のアビシアバイオテクノロジー(Avecia Biotechnology)を買収した。アビシアは1999年にマサチューセッツ州ミルフォードで設立され、核酸医薬の受託製造で世界シェア50%以上を持っていた。日東電工はそれまで、核酸医薬の合成に使うポリマービーズを東北事業所で作っていた。柳楽は2011年のトップメッセージで『メディカル事業は、新たに買収した米国「アビシアバイオテクノロジー社」を通して核酸医薬の事業開拓に挑みます。』とした。同じメッセージで2か年計画「Team-NITTO“Creation 2012”」を始め、2012年度に売上高7,500億円・営業利益1,000億円を目標に置いた。結果の2013年3月期は売上高6,712億円・営業利益685億円で、目標を下回った。
髙﨑秀雄は2014年4月に取締役社長に就任した。最初の中期経営計画は、2014年度からの3か年の「Nitto-2016」だった。最終年度の2016年度に売上高9,200億円・営業利益1,000億円を目指した。重点は、環境の変化に早く適応するための構造改革と、新事業を生む成長戦略を同時に進めることだった。インダストリアルテープでは開発から調達・生産・販売までを現地で一貫させる体制を進めた。その体制で、各地域の需要に合わせたエリア・ニッチ・トップ製品を生み出すとした。成長分野では、それまで育てたテーマの刈り取りへ力を移すとした。結果の2017年3月期は売上収益7,677億円・営業利益926億円で、どちらも目標を下回った。テーマを増やす段階から収益に変える段階への切り替えが、髙﨑体制の最初の課題だったのだろう。
2016年11月、日東電工はブリストル・マイヤーズスクイブと、臓器線維症の治療薬の世界での独占ライセンス契約を結んだ。対象は日東電工が長年開発してきた核酸医薬の肝硬変治療薬で、契約一時金を受け取った。同じ年度には米国での核酸医薬の受託製造も大きく伸びた。ライフサイエンスの営業利益は、前年度の22億8,700万円から213億5,700万円へ9倍余りに増えた。髙﨑は2017年のトップメッセージで、これらをライフサイエンスでの事業ポートフォリオ変革の取組みとして示した。あわせて、核酸医薬を治療が難しい病気の薬になりうる分野と位置づけた。受託製造の対価に加えて、自ら開発した薬の権利からも収益を得る狙いがあったと思われる。
髙﨑は2017年のトップメッセージで、偏光板を首位のシェアを持つ製品に挙げた。一方で、テレビやスマートフォンの画面が液晶から有機ELへ移る見通しを示した。同じ年に始めた3か年計画「Jitsugen-2019」では、事業ポートフォリオの変革を進め、高付加価値製品で事業を広げる方針を掲げた。この方針のもとで2017年11月、日東電工は杭州錦江集団と大型偏光板の業務提携契約を結んだ。2018年3月期の連結売上収益は8,573億円、営業利益は1,257億円となり、当時の過去最高を記録した。首位の製品であっても価格競争へ移った大型品は外へ渡し、自社は付加価値の高い品種に資源を寄せたと推察される。
日東電工は2022年5月に米国のBend Labs, Inc.を、6月に英Mondi plcのパーソナルケア事業を買収した。髙﨑は2022年のトップメッセージで、次世代モビリティ・情報インターフェース・ヒューマンライフの3つを重点分野に置いた。Mondiの事業は、ヒューマンライフの新製品づくりに加え、ドイツに事業の拠点を得る意味を持つと位置づけた。オプトロニクスはキャッシュフローを生む事業とし、高付加価値品への移行で収益性を上げるとした。そのうえで原薬の受託製造、プリント回路基板の増産、新規事業、M&Aへ経営資源を投じる計画を示した。核酸医薬の取組みの強化については、『核酸医薬品に関する取組みを強化したことは、ESG経営におけるターニングポイントになりました。』とした。
2025年3月期の連結売上収益は1兆138億円、営業利益は1,857億円で、売上収益が初めて1兆円を超えた。セグメント別の売上はオプトロニクスが537,481百万円で全体の53%を占め、ヒューマンライフは12%にとどまった。髙﨑は2025年のトップメッセージで、伸びの要因を市場の拡大・採用モデルの拡大・最終需要の復調の3つに分けた。車載ディスプレイの大型化で光学フィルムが伸び、生成AIによるデータセンター需要でHDD向けの精密回路基板が伸びた。修理する権利の法制化を背景に、電池固定用の電気剥離テープも販売を増やした。一方、ヒューマンライフは核酸医薬市場が想定を下回り、前年度に続いて営業損失となった。髙﨑はこの年度を『重視している高い営業利益率を確保しながら売上収益も拡大できたことを高く評価しています。』と総括した。
2025年、赤木達哉が髙﨑秀雄の後を継いで取締役社長に就任した。赤木は1993年入社の生え抜きで、2019年から情報機能材料事業部門長を務めていた。2025年6月の株主総会では、社長の髙﨑が後継者計画を問われ、指名と報酬に特化した諮問委員会へ組み替えると答えた。そのうえで『今後は諮問委員会の場を活用して、後継者計画の議論を加速させていきます。』とした。2026年5月の中期経営計画「Nitto RISE 2028」は前計画を振り返った。2025年度の営業利益は1,836億円で、目標の1,700億円を上回った。一方でROEは12.2%で、目標の15%を下回った。新計画は2028年に営業利益2,200億円・営業利益率20%・ROE14%を掲げた。利益率の目標を前計画より3ポイント上げたことで、高付加価値品への入れ替えは赤木の代にも引き継がれたと考えられる。
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|---|---|---|---|---|
| 1918〜1949年絶縁ワニス国産化と日立傘下での再建から独立まで | 日東電気工業を東京・大崎で設立 | ★★ | ||
| 日立製作所と資本業務提携 | ★★ | |||
| 水谷ワニスペイントを買収、茨木工場を取得 | ★ | |||
| 空襲で東京・大崎工場(本社)を焼失 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 全額出資を受け入れていた関係の清算と独立経営への回帰 電気絶縁材料の主要顧客を失った日東電気工業が、1937年5月に日立製作所へ株式100%を渡して再建を託し、11年後の1948年7月に財閥解体に伴う日立の株式売却で資本提携を解消して独立系企業へ戻った経緯。空襲による本社工場の焼失と本拠の関西移転を挟む11年であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1950〜1974年マクセル乾電池とビニルテープ、マクセル電気工業の分離売却と上場、偏光フィルムまで | 乾電池の製造を開始、マクセルブランドで展開 | ★★ | ||
| ビニルテープの開発に成功 | ★ | |||
| ブラックテープの製造を開始 | ★ | |||
| テープ事業に参入 | ★ | |||
| 乾電池・磁気テープ部門の切り出しと、親会社への売却 1961年2月、日東電気工業は乾電池・磁気テープなどの消費者向け部門をマクセル電気工業として分離独立させ、かつて自社を傘下に置いた日立製作所へ売却した判断。絶縁材料と粘着テープの専門メーカーへ戻る選択で、翌1962年の豊橋工場の建設と株式上場が続いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 豊橋事業所操業 | ★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 半導体封止材料に参入 | ★★ | |||
| Nitto Denko America, Inc.を設立 | ★ | |||
| フレキシブル回路基板の製造開始 | ★ | |||
| 1975〜2007年三新活動と分離膜・経皮吸収製剤、米Hydranautics買収と日東電工への改称、アジアの液晶材料拠点 | 新製品比率30%を常設の規律とした三新活動 1975年前後、日東電気工業の土方三郎社長が、過去3年以内に発売した新製品が売上の30%以上を占めることを目標に掲げ、研究開発費を売上高対比で約5%に保つ三新活動を経営の常設の規律に据えた判断。1977年には製・販・研を横断するSPG(セールス・プロモーション・グループ)を設け、新製品を生み続ける仕組みを組織に組み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 液晶表示用偏光フィルムの製造開始 | ★★ | |||
| 高分子分離膜の製造開始 | ★ | |||
| 新規事業として電子・医療・防食・膜の4領域に注力方針 | ★★ | |||
| Nitto Denko (Singapore) Pte. Ltd.を設立 | ★ | |||
| 経皮吸収型テープ製剤の製造開始 | ★★ | |||
| 滋賀事業所を操業、高分子分離膜の専門工場 | ★ | |||
| 米企業の取り込みを足がかりとした高分子分離膜事業への参入 1987年11月、日東電気工業は米ハイドロノーティクスを買収し、1976年4月に製造を開始した高分子分離膜を海外の販路ごと引き受ける形で水処理の事業に据えた。粘着と絶縁で培った高分子技術を、電気と関わりのない水の分野へ持ち出した投資であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 商号を日東電気工業より日東電工へ変更 | ★ | |||
| Nitto Denko (Shanghai Songjiang)を設立 | ★ | |||
| 尾道事業所を操業、液晶表示関連材料の専門工場 | ★ | |||
| Korea Nitto Optical Co., Ltd.を設立 | ★ | |||
| 竹本正道 | Taiwan Nitto Opticalを設立 | ★ | ||
| 竹本正道 | Shanghai Nitto Opticalを設立 | ★ | ||
| 竹本正道 | 本社機能を移転 | ★ | ||
| 2008〜2026年柳楽・髙﨑体制でのリーマンショックとAvecia買収、核酸医薬と売上収益1兆円 | 柳楽幸雄 | 柳楽幸雄氏が取締役社長に就任 | ★ | |
| 柳楽幸雄 | リーマンショックで営業利益が138億円へ急落 | ★ | ||
| 柳楽幸雄 | Avecia Biotechnologyを買収 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | 髙﨑秀雄氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | ブリストル・マイヤーズスクイブと臓器線維症治療薬のグローバル独占ライセンス契約 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | 大型偏光板技術の外部提供と、ボリュームゾーンからの離脱 2017年11月、日東電工は杭州錦江集団および関連各社と大型偏光板の技術提携契約を締結し、世界シェア首位級の主力製品の製造技術を中国の大手へ供与した。価格競争の側へ落ちた大型パネル向けから順次退き、高付加価値の領域へ資源を移す判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 髙﨑秀雄 | 売上収益8,574億円・営業利益1,257億円で過去最高 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | Bend Labs, Inc.を買収 | ★ | ||
| 髙﨑秀雄 | Mondi plcのパーソナルケア事業を買収 | ★ | ||
| 赤木達哉 | 連結売上収益が初の1兆円超え | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日東電工)