1918年10月に日東商会製作所(沢崎氏が経営)を買収し、日東電気工業株式会社を設立。社長は稲村藤太郎氏であり従業員14名の体制であった。生産品目は「電気絶縁用ワニスクロス」であり、第一次世界大戦によって輸入品が途絶したことで、国産化を志向。東京大崎(谷山123番地)において製造を開始した。主な顧客は日立製作所などであった。
会社設立から戦前にかけて、日東電工は経営に苦戦した。絶縁用ワニスには競合品も多く、1930年頃からは顧客であった日立製作所もワニスの内製化を志向し、日東電工は主要顧客を失った。経営体制の面でも、1930年に稲村社長が逝去した。
そこで、1937年5月に日東電工は日立製作所と業務資本提携の締結を決定。日立製作所が日東電工の株式100%を取得することにより、日立製作所を通じて日東電工の経営再建に着手した。日立製作所と日東電工の資本関係は、終戦後の財閥解体まで続き、戦時中を通じて日東電工は日立製作所の子会社として経営された。
絶縁用ワニスの関西における製造拠点を確保するため、1941年に水谷ワニスペイントを買収。同社の「茨木工場(大阪府茨木市)」を取得し、日東電工の茨木工場として活用した。
その後、戦時中の1945年5月の空襲によって、東京の大崎工場(本社)を焼失したため、日東電工の主要生産拠点は「大阪・茨木」の1拠点体制となった。
日東電工は消費者向け(BtoC)の事業として「乾電池・磁気テープ」を経営していたが、国内向け販路開拓に苦戦していた。そこで、日東電工としては産業向け(BtoB)に特化するために、消費者向け事業の撤退を決定。1960年に乾電池・磁気テーブ部門について、別会社「マクセル電気」として分離した。
1961年に日東電工は「マクセル電気」を日立製作所に売却。1964年には商号が「日立マクセル株式会社」に変更され、日立製作所の子会社として経営され、乾電池・カセットテープの製造・販売に従事した。
なお、1977年12月の時点で日立マクセル株式会社について、日立製作所が株式93.3%、日東電工が6.7%を保有しており、日東電工は出資という形で数%の株式保有を持続。1970年代を通じて日立マクセルは「カセットテープ」の販売が好調に推移し、1977年に株式を上場した。
オイルショックにより、1975年3月期に日東電工は減収決算となった。製品の販売先が「製造業」などに偏在しており、景気悪化の影響を受けやすい体質となっており、顧客の拡大が経営課題となった。
そこで、1975年頃らか日東電工(土方三郎・社長)は新規事業による売上拡大のため「三新運動」を開始。過去3年以内に発売した新製品が占める、売上高の比率を「30%以上」にキープすることを目標とし、研究開発費として売上高対比で約5%を投下した。また、1978年には新規事業として「電子・医療・防食・膜」に注力する方針を打ち出した。