1959年〜 信用を持たない技術者が、市場のある国へ出るまで
京セラの業績推移:単体
- 1959年 京都セラミックの設立と、持株第4位の技術者が経営の実権を握るまで 所有では主導権を持てない27歳の技術者は、どの順序で発言力を手にしたか
- 1966年 IC向け基板をIBMに納入
- 1969年 販売会社Kyocera International, Inc.を設立
- 1969年 積層パッケージの量産投資・世界シェア70%を確保
株主順位第4位の技術者として発足した京都セラミック
1959年4月1日、稲盛和夫氏は資本金300万円をもって京都市中京区西ノ京原町101番地に本社と工場を置き[1]、ファインセラミックスの専門メーカーとして京都セラミック株式会社を設立[2]した。稲盛氏は松風工業でアルミナ磁器やフォルステライト磁器の開発にあたった技術者で、設立時は27歳[3]だった。出資の中核となったのは宮木電機の宮木男也氏ら京都の実業家で、株式の引き受けと借入の個人保証[4]を担った。創業時の筆頭株主は宮木男也氏の4,300株、稲盛氏の持株は3,500株で株主順位は第4位[5]にとどまった。稲盛氏が社長に就いたのは、量産と利益を積み上げた7年後の1966年5月[6]である。
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1959年4月 資本金300万円で京都市中京区西ノ京原町101番地に本社及び工場を設立
- [2]ファインセラミックスの専門メーカー「京都セラミック㈱」として発足
- 私の履歴書 稲盛和夫(日本経済新聞社, 2004)
- [3]稲盛和夫氏は松風工業出身・設立時27歳
- [4]出資の中核は宮木電機の宮木男也氏ら京都の実業家。株式引き受けと借入の個人保証
- [5]創業時の筆頭株主 宮木男也氏4,300株/稲盛和夫氏3,500株で株主第4位
- [6]稲盛和夫氏の社長就任 1966年5月
創業期の主力は、ブラウン管テレビに組み込む絶縁部品「U字ケルシマ」[7]だった。松下電子工業向けに月産20万本の量産体制[8]を早期に築き、値段も納期も引き受けてから技術を開発する受注の重ね方[9]で実績を積んでいる。初年度に300万円の利益を出したところで税負担に驚き、税金を経費と捉え直して残りを再投資へ回す資金の設計[10]に切り替えた。1962年度には売上高8,400万円、当期純利益400万円[11]を計上している。拠点も広げ、1960年4月には東京出張所を、1963年5月には滋賀蒲生工場を設けた[12]。もっともベンチャーとして始めたファインセラミックスの事業は、国内ではなかなか信用を得られなかった[13]。
- 私の履歴書 稲盛和夫(日本経済新聞社, 2004)
- [7]創業期の主力製品はブラウン管テレビ向け絶縁部品「U字ケルシマ」
- [8]U字ケルシマを松下電子工業向けに月産20万本で量産
- [10]初年度に300万円の利益。税金を経費と捉え直して残りを再投資に回す資金設計へ
- 日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」
- [9]値段も納期も引き受けてから技術を開発する「ご用聞き」の受注
- 会社総鑑 1963年版
- [11]1962年度 売上高8,400万円・当期純利益400万円
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1960年4月 東京出張所開設/1963年5月 滋賀蒲生工場を建設
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [13]ベンチャーで始めたファインセラミックス事業が国内ではなかなか信用を得られなかった
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1959年4月 資本金300万円で京都市中京区西ノ京原町101番地に本社及び工場を設立
- [2]ファインセラミックスの専門メーカー「京都セラミック㈱」として発足
- [12]1960年4月 東京出張所開設/1963年5月 滋賀蒲生工場を建設
- 私の履歴書 稲盛和夫(日本経済新聞社, 2004)
- [3]稲盛和夫氏は松風工業出身・設立時27歳
- [4]出資の中核は宮木電機の宮木男也氏ら京都の実業家。株式引き受けと借入の個人保証
- [5]創業時の筆頭株主 宮木男也氏4,300株/稲盛和夫氏3,500株で株主第4位
- [6]稲盛和夫氏の社長就任 1966年5月
- [7]創業期の主力製品はブラウン管テレビ向け絶縁部品「U字ケルシマ」
- [8]U字ケルシマを松下電子工業向けに月産20万本で量産
- [10]初年度に300万円の利益。税金を経費と捉え直して残りを再投資に回す資金設計へ
- 日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」
- [9]値段も納期も引き受けてから技術を開発する「ご用聞き」の受注
- 会社総鑑 1963年版
- [11]1962年度 売上高8,400万円・当期純利益400万円
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [13]ベンチャーで始めたファインセラミックス事業が国内ではなかなか信用を得られなかった
創業3年目に始めた米国市場の開拓
京セラが米国市場の開拓に着手したのは創業3年目、従業員100名以下で年間売上が5,000万円から1億円の間[14]という段階だった。日本の電子機器メーカーが米国企業から技術を導入している以上、その技術の大本にあたる米国で採用されれば日本でも販売しやすくなる[15]、という読みがその理由である。創業から10年目の1968年には、サンフランシスコ南部のクーパティーノに初めての販売拠点を置いた[16]。翌1969年7月には販売会社Kyocera International, Inc.を設立し、同年10月には国内販売会社として京セラ商事を設けている[17]。
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [14]創業3年目・従業員100名以下・年間売上5,000万〜1億円の段階で米国市場開拓に着手
- [15]日本の電子機器メーカーが米国から技術導入している以上、大本の米国で採用されれば日本でも売りやすいという判断
- [16]1968年 サンフランシスコ南部クーパティーノに初の販売拠点を設立
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [17]1969年7月 米国に販売会社Kyocera International,Inc.を設立/同年10月 国内販売会社 京セラ商事㈱を設立
1960年代初頭の米国では、ゲルマニウム・トランジスタに代わるシリコン・トランジスタが開発され、ベル研究所の研究者が西海岸に集まっていた[18]。京セラはフェアチャイルド社にシリコン・トランジスタ用のセラミック・ヘッダーを納め[19]、米国のセラミックメーカーと競いながら日本で量産を始めた。1970年にはテキサス・インスツルメンツが集積回路を発表[20]し、これをどのパッケージに実装するかが問題になった。京セラがフェアチャイルド社と相談して決めたのは、セラミックのベースとキャップを低融点ガラスでリードフレームに接合する構造[21]で、通称サーディップと呼ばれるセラミック・パッケージの最初の形[22]がここでできた。低融点ガラスはオーエンス・イリノイス社が供給[23]している。
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [18]1960年代初頭 シリコン・トランジスタの開発とベル研究者の西海岸集結
- [19]フェアチャイルド社へシリコン・トランジスタ用セラミック・ヘッダーを納入し日本で量産
- [20]1970年 テキサス・インスツルメンツが集積回路を発表
- [21]サーディップ=セラミックのベースとキャップを低融点ガラスでリードフレームに接合する構造
- [22]サーディップが現在のICセラミック・パッケージの最初のコンセプト
- [23]低融点ガラスはオーエンス・イリノイス社が供給
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [14]創業3年目・従業員100名以下・年間売上5,000万〜1億円の段階で米国市場開拓に着手
- [15]日本の電子機器メーカーが米国から技術導入している以上、大本の米国で採用されれば日本でも売りやすいという判断
- [16]1968年 サンフランシスコ南部クーパティーノに初の販売拠点を設立
- [18]1960年代初頭 シリコン・トランジスタの開発とベル研究者の西海岸集結
- [19]フェアチャイルド社へシリコン・トランジスタ用セラミック・ヘッダーを納入し日本で量産
- [20]1970年 テキサス・インスツルメンツが集積回路を発表
- [21]サーディップ=セラミックのベースとキャップを低融点ガラスでリードフレームに接合する構造
- [22]サーディップが現在のICセラミック・パッケージの最初のコンセプト
- [23]低融点ガラスはオーエンス・イリノイス社が供給
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [17]1969年7月 米国に販売会社Kyocera International,Inc.を設立/同年10月 国内販売会社 京セラ商事㈱を設立
買わされた工場と、耐えて得た寡占
1970年、京セラは米国で半導体用セラミック・パッケージの生産を始めた[24]。当時、売上の小さな日本の部品メーカーが米国に生産拠点を置く例はほとんどなかった[25]。きっかけは、シリコンサイクルで工場の維持が難しくなったフェアチャイルド社から、サンディエゴのセラミック工場を買ってほしいと持ちかけられた[26]ことである。稲盛氏は一度は断ったものの、先方が飛行機を用意して現場を見せ[27]、改善点を指摘するとそれならば買ってほしいと重ねて求められ、顧客でもあったことから引き受けた。工場はスタートから赤字で、迎えた工場長も1年たたずに退いた[28]。
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [24]1970年 米国で半導体用セラミック・パッケージの生産を開始
- [25]売上の少ない中小の部品メーカーが海外で生産する例は当時なかった
- [26]フェアチャイルド社からサンディエゴのセラミック工場の買い取りを打診
- [27]一度断ったが飛行機を用意されて視察し、改善点を指摘したうえで買い取りを求められた
- [28]買収した工場はスタートから赤字。工場長は1年もしないうちに退任
半導体産業は初期から好不況を繰り返し、注文書を受けて在庫や仕掛品を用意した後で一方的にキャンセルされる[29]ことがあった。米国の同業各社はこれを訴訟で処理し、顧客との関係を損なって撤退[30]した。京セラは日本的な商習慣のまま耐え、30年にわたって取引を続けた結果、大きなシェアを持つに至っている[31]。国内では1969年7月に鹿児島川内工場を、1972年10月に鹿児島国分工場を建設[32]し、積層パッケージを量産した。1970年10月には株式の額面を500円から50円に変更するため、1946年11月設立の会社を形式上の存続会社として京都セラミックと京セラ商事を吸収合併[33]している。
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [29]注文書・在庫・出荷スケジュール確定後の一方的キャンセルが常態
- [30]米国の同業はキャンセルを訴訟で処理し関係が悪化して撤退
- [31]日本的な商習慣で耐え30年続けた結果、大きなシェアに至った
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [32]1969年7月 鹿児島川内工場を建設/1972年10月 鹿児島国分工場を建設
- [33]1970年10月 株式額面500円→50円の変更のため1946年11月6日設立の㈱四国食菌科学研究所を形式上の存続会社として吸収合併
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫・第10回日本証券アナリスト大会記念講演)
- [24]1970年 米国で半導体用セラミック・パッケージの生産を開始
- [25]売上の少ない中小の部品メーカーが海外で生産する例は当時なかった
- [26]フェアチャイルド社からサンディエゴのセラミック工場の買い取りを打診
- [27]一度断ったが飛行機を用意されて視察し、改善点を指摘したうえで買い取りを求められた
- [28]買収した工場はスタートから赤字。工場長は1年もしないうちに退任
- [29]注文書・在庫・出荷スケジュール確定後の一方的キャンセルが常態
- [30]米国の同業はキャンセルを訴訟で処理し関係が悪化して撤退
- [31]日本的な商習慣で耐え30年続けた結果、大きなシェアに至った
- 京セラ 有価証券報告書 第71期(2025年3月期)【沿革】
- [32]1969年7月 鹿児島川内工場を建設/1972年10月 鹿児島国分工場を建設
- [33]1970年10月 株式額面500円→50円の変更のため1946年11月6日設立の㈱四国食菌科学研究所を形式上の存続会社として吸収合併