1億枚の打ち抜きに対応できるタングステン・カーバイドによる金型を開発。珪素鋼板からモーター鉄心の打ち抜きに成功。既に家電製品が普及していたアメリカ市場に着目し、モーターの鉄心部品を輸出により採用することで業容を拡大
三井孝昭氏は製品開発をする中で「ICのリードフレーム」に着目した。1960年当時、IC(集積回路)は世界で実用化されたばかりの最先端の技術であり、コンピュータの心臓部分を担う半導体として注目を集めていた。当時の三井ハイテックは年商20億円未満の中小企業でありながらも最先端の半導体部品を手がけた点で、ユニークな存在であった。
ICには「リードフレーム」が必要であったが、1960年代はエッチングによってリードフレームを製造する手法が一般的であった。ところが、エッチングは薬品などを使用することから、量産のためのコストが高くなる問題に直面していた。これに対して、三井孝昭氏は「プレス加工でリードフレームを量産できる」と考えて、研究開発を遂行した。
プレス加工によるリードフレームの量産に成功し、従来のエッチング方式と比べて量産コストを1/10に削減した。劇的なコスト改善によって、三井ハイテックは半導体業界において革命をもたらした。
半導体のリードフレームを実用化した一方、販売先をどうするかという問題に直面した。当時、中小企業に過ぎなかった三井ハイテックは、国内の半導体メーカーはICの量産に乗り出しておらず、リードフレームを大量販売することが難しかった。また、別の側面として、国内の半導体メーカーは中小企業の三井ハイテックを格下とみなし、話を聞かなかった。国内半導体メーカーは中小企業で開発された部品を採用することはリスクと考えた可能性がある。
そこで、三井ハイテックはリードフレームの販売先を海外に求めるために、アメリカを中心に営業活動を実施。この結果、当時、急成長していたアメリカの半導体メーカー「テキサスインスツルメンツ」からリードフレームについて、約10億円に及ぶ大量受注に成功した。これを契機に、日本の半導体メーカーからも三井ハイテックは信頼されるようになり、リードフレームの量産体制を整えていった。
1971年12月のニクソンショックによる円高ドル安を受けて、北米輸出向けのリードフレームの量産コストを下げるために東南アジアに進出した。
1980年代までに三井ハイテックはリードフレームにおいて、トップシェアを握る企業に発展した。取引先の企業は、三菱電機、東芝、日立製作所、テキサスインスツルメンツ、モトローラ、フェアチャイルドなど、当時、世界を代表した半導体メーカーにリードフレームを納入した。
また、三井ハイテックは本社を九州に構えており、1980年代を通じて九州に半導体産業が集積して「シリコンアイランド」として発展する際に、リードフレームの供給を担うことで産業集積の一翼をに担うことになった。この経緯により、1980年代の三井ハイテックの売上高のうち、25%は九州地区向けの出荷で占められていた。
FY1984における売上高は290億円(前年比+70.8%)・営業利益48億円(利益率16.8%)を計上。業績も好調に推移した。
赤字経営に陥っていた三井ハイテックの経営改革に着手。赤字の原因となっていた半導体リードフレームに次ぐ事業として、既に育ちつつあった「車載向けコアモーター」への集中投資を開始