創業から66年。5回の決断
| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1980/6 | 売上高 / 当期純利益 | 19億円 | - | - |
| 1981/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1982/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1983/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1984/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1985/6 | 売上高 / 当期純利益 | 41億円 | - | - |
| 1986/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/6 | 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/6 | 売上高 / 当期純利益 | 11億円 | 0億円 | 7.4% |
| 1989/6 | 売上高 / 当期純利益 | 18億円 | 1億円 | 6.0% |
| 1990/6 | 売上高 / 当期純利益 | 26億円 | 3億円 | 11.3% |
| 1991/6 | 売上高 / 当期純利益 | 28億円 | 2億円 | 10.4% |
| 1992/6 | 売上高 / 当期純利益 | 22億円 | -1億円 | -7.4% |
| 1993/6 | 売上高 / 当期純利益 | 14億円 | -6億円 | -45.6% |
| 1994/6 | 売上高 / 当期純利益 | 19億円 | 0億円 | 3.1% |
| 1995/6 | 売上高 / 当期純利益 | 31億円 | 5億円 | 16.7% |
| 1996/6 | 売上高 / 当期純利益 | 41億円 | 5億円 | 12.6% |
| 1997/6 | 売上高 / 当期純利益 | 50億円 | 6億円 | 12.2% |
| 1998/6 | 売上高 / 当期純利益 | 59億円 | 5億円 | 9.8% |
| 1999/6 | 売上高 / 当期純利益 | 44億円 | 2億円 | 6.2% |
| 2000/6 | 売上高 / 当期純利益 | 47億円 | 4億円 | 8.9% |
| 2001/6 | 売上高 / 当期純利益 | 65億円 | 8億円 | 12.4% |
| 2002/6 | 売上高 / 当期純利益 | 65億円 | 7億円 | 10.9% |
| 2003/6 | 売上高 / 当期純利益 | 61億円 | 6億円 | 10.9% |
| 2004/6 | 売上高 / 当期純利益 | 75億円 | 7億円 | 10.0% |
| 2005/6 | 売上高 / 当期純利益 | 99億円 | 12億円 | 12.1% |
| 2006/6 | 売上高 / 当期純利益 | 120億円 | 18億円 | 15.6% |
| 2007/6 | 売上高 / 当期純利益 | 158億円 | 23億円 | 15.0% |
| 2008/6 | 売上高 / 当期純利益 | 141億円 | 18億円 | 13.3% |
| 2009/6 | 売上高 / 当期純利益 | 92億円 | -6億円 | -7.1% |
| 2010/6 | 売上高 / 当期純利益 | 89億円 | 3億円 | 4.0% |
| 2011/6 | 売上高 / 当期純利益 | 127億円 | 15億円 | 11.8% |
| 2012/6 | 売上高 / 当期純利益 | 123億円 | 17億円 | 14.5% |
| 2013/6 | 売上高 / 当期純利益 | 113億円 | 16億円 | 14.2% |
| 2014/6 | 売上高 / 当期純利益 | 136億円 | 19億円 | 14.4% |
| 2015/6 | 売上高 / 当期純利益 | 151億円 | 29億円 | 19.5% |
| 2016/6 | 売上高 / 当期純利益 | 152億円 | 32億円 | 21.1% |
| 2017/6 | 売上高 / 当期純利益 | 173億円 | 35億円 | 20.5% |
| 2018/6 | 売上高 / 当期純利益 | 212億円 | 43億円 | 20.5% |
| 2019/6 | 売上高 / 当期純利益 | 287億円 | 59億円 | 20.6% |
| 2020/6 | 売上高 / 当期純利益 | 425億円 | 108億円 | 25.4% |
| 2021/6 | 売上高 / 当期純利益 | 702億円 | 192億円 | 27.4% |
| 2022/6 | 売上高 / 当期純利益 | 903億円 | 248億円 | 27.5% |
| 2023/6 | 売上高 / 当期純利益 | 1,528億円 | 461億円 | 30.1% |
| 2024/6 | 売上高 / 当期純利益 | 2,135億円 | 590億円 | 27.6% |
| 2025/6 | 売上高 / 当期純利益 | 2,514億円 | 846億円 | 33.6% |
1960年に内山康が設立した有限会社東京ITV研究所は、工場を持たず研究開発に特化する企業として出発した。従業員30人、売上高19億7千万円(1980年度)という規模の会社が、半導体フォトマスク検査という技術的参入障壁の高い市場で世界初の製品を次々と生み出した。この構造の背景には、工場を持たないがゆえに研究開発に経営資源を集中できるというファブライト経営の特性がある。大企業であれば生産設備の稼働率維持が経営課題となるが、レーザーテックにはその制約がなく、開発テーマの選択そのものが最大の経営判断であった。内山はこれを「選ぶ力」と表現し、経営者に最も必要な能力と位置づけた(出所:技術と経済 1981年5月号)。
この「選ぶ力」は、65年間にわたって一貫したパターンを描いている。1975年のフォトマスク欠陥検査装置、1985年の走査型カラーレーザー顕微鏡、1994年の位相シフト量測定装置、2000年のマスクブランクス欠陥検査装置、そして2017年のEUVマスクブランクス欠陥検査装置。いずれも「世の中にないもの」であり、市場に先行者がいない領域に中堅企業が先んじて参入するパターンである。大企業にとって市場規模が不透明な領域こそ、レーザーテックの主戦場であった。設計と現場が近い中堅企業の組織構造が、大企業より半年から1年早い開発サイクルを可能にし、先行者優位を確保する条件となった。
2009年の岡林理による事業再編は、この構造をさらに先鋭化させた。売上の約半分を占めるFPD事業を縮小して半導体に集中し、2011年にはEUV検査装置という最も困難なテーマに着手した。従業員100人規模の企業がNEDOの国家プロジェクトに参加し、6年をかけて世界初の装置を完成させた。大手装置メーカーがEUV検査装置に投資しなかった理由は、市場規模の不確実性にあった。レーザーテックにとっては、半導体集中戦略の帰結として参入する以外の選択肢がなかったとも言える。「選ぶ力」というよりも、事業構造が参入を必然にしたと考える方が正確かもしれない。
2025年6月期の売上高2,514億円、営業利益率48.8%という数字は、ファブライト経営が高収益をもたらす条件が揃ったときの帰結を示している。EUVマスク検査装置の世界シェア100%は、技術力だけでなく、中堅企業が意思決定の速度と開発テーマの選択で大企業に先行できるという構造的条件に支えられている。しかしこの構造は、顧客3社(TSMC・サムスン電子・インテル)への集中度の高さ、受注の急変動(2025年6月期の受注高は前期比57.2%減)という脆弱性も内包している。世界に唯一の装置を作る企業は、世界に唯一の顧客構成にも依存するという非対称性が、この企業の将来を規定する論点となっている。
1992年8月、レーザーテックの創業者・内山康は61歳で急逝した。内山は1960年の創業から32年間にわたり社長を務め、フォトマスク欠陥検査装置の世界初開発、自社製品100%の達成、社名変更とレーザー顕微鏡事業の立ち上げ、そして店頭公開まで、すべての主要な意思決定を自ら行ってきた。内山の死は計画的な承継ではなく、突然の断絶であった。後継者育成のプログラムが存在したかどうかは確認できないが、当時の同社は従業員数100人に満たない規模であり、創業者の個人的な技術力と経営判断力への依存度は極めて高かった。
内山の後任には粟村大吉が就いた。粟村は内山と同じ広島工業専門学校の出身であり、社内の技術系幹部からの内部昇格であった。以後、小杉健一(大阪大学卒)、渡壁弥一郎(大阪大学卒)と、いずれも社内の技術者から社長が選ばれた。レーザーテックは創業家による同族経営ではなく、内山の死後は一貫して技術者出身の内部昇格者が経営を担ってきた。粟村・小杉・渡壁の3代の社長在任中、同社は液晶関連事業の立ち上げ、位相シフト量測定装置やMAGICSシリーズの開発、韓国法人設立、JASDAQ上場と、着実に事業基盤を拡大したが、売上高は100億円前後にとどまり、創業者時代の成長曲線を大きく超えることはなかった。
転機となったのは、2009年の岡林理の社長就任であった。岡林は外資系企業(横河ヒューレット・パッカード)出身で、2001年にセールスマーケティング強化のためにレーザーテックに入社した。技術者出身の歴代社長とは異なるキャリアを持つ岡林が、FPD事業の縮小と半導体集中という構造的な意思決定を行い、売上高を86億円から2,514億円へと拡大させた。岡林が持ち込んだのは技術ではなく、「会社には個性があり、得意不得意がある」(出所:日興フロッギー 2024年4月24日)という経営の視座であった。創業者の理念をそのまま復唱するのではなく、「技術で差別化できる市場に集中する」という経営戦略に翻訳し直したことが、事業再編の実行力を支えた。
2024年の仙洞田哲也への交代は、岡林が計画的に設計した承継であった。仙洞田はエンジニア出身で営業も統括し、技術とマーケットの双方を理解する人材として選ばれた。47歳での就任は6年の中期経営計画を完遂するのに十分な在任期間を確保する設計でもある。内山の急逝から32年、レーザーテックは創業家を持たない企業として5代の社長交代を経験した。理念の継承は、創業家の血統や株式保有ではなく、「世の中にないものをつくる」という行動原則が繰り返し製品開発で具現化されることによって維持されてきた。その意味で、この企業の理念の担い手は社長個人ではなく、製品そのものであるとも言える。
EUVマスク検査装置の世界シェア100%という数字は、レーザーテックの技術的優位性を象徴する指標として語られることが多い。しかしこの数字は、同社の収益構造が特定の顧客と特定の技術サイクルに強く依存していることも同時に意味している。TSMC・サムスン電子・インテルの3社向け売上が全体の約6割を占め、海外売上比率は約90%に達する。顧客が3社に集中しているということは、そのうち1社の設備投資計画が変更されるだけで、受注高が大幅に変動する構造にあるということである。
2025年6月期の業績は、この構造の両面を端的に示した。売上高2,514億円(前期比17.8%増)、営業利益1,228億円(同51.0%増)と過去最高を更新した一方で、受注高は1,052億円と前期比57.2%減に落ち込んだ。主要な半導体メーカーにおける先端半導体への設備投資減速が直接的な要因であり、一部受注のキャンセルも発生した。2026年6月期は売上高2,200億円、営業利益1,000億円と減収減益を予想しており、12年連続増収の記録が途切れる可能性がある。独占企業であっても、顧客の投資サイクルから自由にはなれないという半導体装置産業の構造的制約がここに表れている。
レーザーテックの事業モデルは、ファブライト経営による低い固定費と、高付加価値製品による高い営業利益率(2025年6月期48.8%)の組み合わせで成り立っている。受注が減少しても工場の稼働率低下という問題は発生しないが、外注費を賄えなくなれば赤字に転じやすい構造は2009年の赤字転落で経験済みである。同社が2022年に約167億円を投じてInnoPa(新研究開発拠点)を取得したのは、開発・生産キャパシティの拡大が目的であるが、同時にファブライト経営の固定費構造を変化させる判断でもあった。売上高が2,000億円を超え、顧客の技術要求も高度化する中で、創業以来のファブライトモデルがどこまで維持可能かという問いが浮上している。
独占の持続可能性についても論点がある。半導体の微細化はIMECのロードマップによれば1nm以下まで計画されており、EUV検査装置への需要は中長期で継続すると見込まれる。しかし技術的な参入障壁がいつまで他社の参入を阻むかは不確実である。また、2026年6月期の受注減速が示すように、需要の時期的なずれは独占企業であっても避けられない。レーザーテックが中期経営計画で掲げるサービスビジネスの売上構成比20%以上(2025年6月期実績17%)という目標は、装置販売の受注変動に対するバッファとしてのメンテナンス収益を厚くする意図を含んでいる。世界に唯一の装置を作る企業は、その装置の需要変動に対する耐性をどう設計するかという課題に常に向き合うことになる。
内山康がX線テレビの開発で独立した1960年、日本の製造業は高度成長期に入りつつあった。大企業では組織の規模が開発の迅速性を阻害する一方、中堅企業には設計と現場の近さという構造的な優位があった。内山は松下通信工業での経験からこの非対称性を認識し、工場を持たず研究開発に特化する経営モデルを選択した。この判断は資金制約からの消極的選択に見えるが、結果として65年後の現在まで続くファブライト経営の基盤を形成した。
1950年代後半、日本の製造業は高度経済成長の入り口に立っていた。工場の生産ラインでは品質管理の自動化が課題となり、X線や工業用テレビジョン(ITV)を用いた非破壊検査の需要が生まれつつあった。内山康は1931年に広島県広島市で生まれ、広島工業専門学校(現・広島大学工学部)を卒業後、肺結核を患い国立広島療養所で約5年間の闘病生活を送った。療養後、松下通信工業に臨時雇いで入社し、無線部でX線テレビの開発に従事していた。
松下通信工業での経験を通じて、内山はX線テレビジョンカメラの技術と、それを必要とする製造現場のニーズの両方を把握していた。しかし大企業の組織の中では、自らのアイデアを迅速に製品化することに限界を感じていた。内山は後に、大企業では開発に2年かかる案件でも中堅企業なら半年で仕上げにかかれると語っており(出所:技術と経済 1981年5月号)、設計と現場が近い少人数の組織であれば顧客ニーズに即応した製品開発が可能であるという確信が、独立への動機となった。
1960年7月、内山康は29歳で松下通信工業を離れ、東京都目黒区に「有限会社東京ITV研究所」を設立した。ITVは工業用テレビジョンの略で、X線テレビジョンカメラの開発・製造を主たる事業とした。創業時の資本は限られており、製造設備を自前で持つ余裕はなかった。そのため、工場を持たず研究開発に経営資源を集中する体制を最初から選択した。製品の製造は協力会社に委託し、自社は設計と光学系の調整などコアとなる工程に注力する分業体制であった。
1962年8月には資本金100万円で「日本自動制御株式会社」を設立し、事業を法人化した。X線テレビジョンカメラおよび工業用テレビジョンカメラの開発・設計・製造・販売を主業務とし、大手メーカーからの受注を含む形で事業基盤を築いた。創業当初は下請け的な仕事も含まれていたが、内山は自社ブランド製品の比率を高めることを意識していた。工場を持たないファブライト経営は、創業時の資金制約から生まれた消極的な選択に見えるが、結果として65年後の現在に至るまで同社の競争優位の源泉となる経営モデルの原型を形成した。
内山康がX線テレビの開発で独立した1960年、日本の製造業は高度成長期に入りつつあった。大企業では組織の規模が開発の迅速性を阻害する一方、中堅企業には設計と現場の近さという構造的な優位があった。内山は松下通信工業での経験からこの非対称性を認識し、工場を持たず研究開発に特化する経営モデルを選択した。この判断は資金制約からの消極的選択に見えるが、結果として65年後の現在まで続くファブライト経営の基盤を形成した。
従業員30人の工業用テレビメーカーが半導体フォトマスク検査という市場に参入した判断は、技術的な偶然ではなく、創業者・内山康の開発テーマを「選ぶ力」に基づく意図的な選択であった。大企業が手を出さないニッチ市場で、中堅企業ならではの開発スピードと設計・現場の近さを武器に世界初の製品を生み出した。この構造は、後のEUV検査装置開発に至るまで同社が繰り返してきたパターンの原型であり、企業の方向性を不可逆的に規定した転換点であった。
1960年代から1970年代にかけて、日本自動制御は工業用テレビジョンカメラやX線テレビの開発・製造を手がけていたが、事業の多くは大手メーカーからの受注に依存する下請け的な構造であった。受注は安定しているものの、価格決定権は発注元にあり、利益率の向上には限界があった。従業員は30人程度の小所帯であり、量産品で大手と正面から競合できる体力は持ち合わせておらず、技術的な差別化が可能な市場を自ら開拓する必要があった。
1970年代に入ると、日本の半導体産業は集積回路(IC)からLSIへの移行期を迎えていた。LSIの製造にはフォトマスクと呼ばれる回路パターンの原版が必要であり、その品質管理が歩留まりを左右する重要工程となっていた。しかしフォトマスクの欠陥検査は人間の目視に頼っており、回路パターンの微細化が進むにつれて目視では対応しきれない精度が要求されるようになり、自動検査装置への需要が顕在化しつつあった。
内山康は、こうした検査自動化のニーズの中から、半導体フォトマスクの欠陥検査を開発テーマとして選定した。内山は開発課題の「選ぶ力」が経営者にとって最も重要な能力であるという持論を持っており(出所:技術と経済 1981年5月号)、多数ある開発候補から間違ったものを選ぶと会社にとって致命的であると認識していた。X線テレビで培った光学技術と画像処理の知見を半導体検査に応用できるという技術的な見通しが、この選択を後押しした。
1975年2月、日本自動制御はLSIフォトマスクのピンホール検査装置を開発した。半導体のフォトマスクに生じる微細な欠陥を光学的に検出する装置であり、X線テレビで培った光学技術を応用した製品で、同社が半導体業界に初めて参入した製品となった。翌1976年10月には、さらに高度なLSIフォトマスク欠陥検査装置「1MD1」を完成させた。1ミクロンの精度でLSIのマスクパターン欠陥を自動検査する世界初の装置であり、それまで人間の目視に依存していた検査工程を自動化するものであった。
開発は社内で完結させた。内山は外注に試作品を作らせる方式では、設計者の頭の中にまだ十分にまとまっていない技術的課題を解決できないとして、商品化は困難であるという考えを持っていた(出所:技術と経済 1981年5月号)。設計と現場が物理的に近い中堅企業の強みを最大限に活かし、開発から商品化までを自社内で一貫して行った。大企業であれば開発に2年を要する案件でも、日本自動制御は半年で仕上げにかかるスピード感を強みとしていた。顧客のスペック要望を受けてから納品までの速度で競争相手を上回ることが、同社の営業戦略の核であった。
半導体メーカーにとって、フォトマスクの欠陥検査は歩留まり向上の鍵であり、自動化のニーズは切実であった。回路パターンの微細化が進むほど、目視検査では見落としが増え、歩留まり低下の原因となる。1MD1は業界の要求に応える製品として評価され、大手半導体メーカーからの受注につながった。内山が「ニーズは空気のごとく充満している」と表現したように(出所:技術と経済 1981年5月号)、市場には検査自動化への潜在需要が存在しており、それを製品として具現化したのが日本自動制御であった。
1977年、「1MD1」は日刊工業新聞社の「十大新製品賞」を受賞した。1979年には「科学技術庁長官賞」も受賞し、フォトマスク欠陥検査装置の技術的優位性が公的にも認められた。同年、米国カリフォルニア州サンマテオに初の海外拠点となる駐在員オフィスを設立し、世界最大の半導体製造装置展示会であるSEMICON Westに初出展した。国内の半導体メーカーだけでなく、海外市場への進出も視野に入れた動きであった。
1980年には「大河内記念技術賞」「中小企業庁長官賞」を相次いで受賞し、同年、自社製品100%を達成した。これは大手メーカーの下請けから完全に脱却し、自社ブランド製品のみで事業を構成するに至ったことを意味する。昭和55年度(1980年度)の売上高は19億7千万円、従業員30人という規模であったが(出所:技術と経済 1981年5月号)、フォトマスク欠陥検査装置という技術的参入障壁の高い市場を確保した。
この参入は、単にX線テレビから半導体検査への事業転換にとどまらず、同社の事業モデルの本質を確立した出来事であった。「世の中にないものをつくり、世の中のためになるものをつくる」という内山の理念は、フォトマスク検査装置の開発において初めて具体的な製品として体現され、以後の製品開発の基本方針となった。この方針は65年後の現在に至るまで企業理念として受け継がれ、EUV検査装置の開発に至る道筋を規定した。
従業員30人の工業用テレビメーカーが半導体フォトマスク検査という市場に参入した判断は、技術的な偶然ではなく、創業者・内山康の開発テーマを「選ぶ力」に基づく意図的な選択であった。大企業が手を出さないニッチ市場で、中堅企業ならではの開発スピードと設計・現場の近さを武器に世界初の製品を生み出した。この構造は、後のEUV検査装置開発に至るまで同社が繰り返してきたパターンの原型であり、企業の方向性を不可逆的に規定した転換点であった。
工場を持たないファブライト経営は、売上減少時に赤字に転落しやすいという脆弱性を持つ一方、事業撤退時の固定費負担が軽いという構造的特性も持つ。岡林理がFPD事業を縮小できた背景には、工場閉鎖や設備の減損処理といった撤退コストが発生しないファブライトモデルの柔軟性があった。売上の半分を失う決断の重さは変わらないが、その判断を実行に移せる構造を創業者が60年前に設計していたという点が、この転換の本質的な興味深さである。
2000年代のレーザーテックは、半導体の検査・計測装置と、フラットパネルディスプレイ(FPD)関連の検査・修正装置を二本柱とする事業構成であった。売上高に占めるFPD事業の比率は約半分に達しており、特に液晶用カラーフィルター修正装置が主力製品であった。2008年3月には新横浜に研究開発センター兼本社社屋を建設し、土地と建物の借入金も抱えていた。売上高は100億円前後で推移し、従業員は200人規模であった。
2008年9月のリーマン・ショックは、半導体・FPD双方の設備投資を急速に冷え込ませた。レーザーテックの2009年6月期決算は赤字に転落した。工場を持たないファブライト経営は固定費が相対的に低い一方、販売台数が減少すると製品の製造を委託する外注コストを上回る利益を確保できなくなるという構造的な脆弱性を抱えていた。売上が落ちると即座に赤字に転じるビジネスであったと、岡林自身が振り返っている(出所:日興フロッギー 2024年4月17日)。
FPD事業の中でも主力であった液晶用カラーフィルター修正装置は、求められる技術水準が競合他社でも達成できるレベルにあり、技術で差別化できない価格競争に陥っていた。薄利多売で販売台数が増えても、ファブライト経営の構造上、利益は大きく伸びなかった。岡林理は2001年にセールスマーケティング強化のためにレーザーテックに入社し、営業担当時代からこの事業の収益構造に問題意識を持っていた。
2009年7月、岡林理が5代目社長に就任した。就任直前の6月期決算は赤字であり、2期連続の赤字になれば辞任するしかないという覚悟での船出であった。岡林は社長就任前からレーザーテックの強みと弱みを考え抜いており、同社の強みは小回りの効くスピーディーな開発力と、困難な課題を克服して付加価値を出す技術力にあると結論づけていた。就任後、売上の約半分を占める液晶用カラーフィルター修正装置事業からの撤退を決断し、技術的に差別化可能なFPDマスク検査装置のみを残して、それ以外のFPD事業を大幅に縮小した。
この決断に対しては社内から反対の声もあった。財務的に厳しい状況下で、売上高の半分を失うことへの恐怖は岡林自身も認めている(出所:日興フロッギー 2024年4月17日)。新横浜の社屋建設に伴う借入金も抱えており、赤字が続けば資金繰りが逼迫するリスクがあった。しかし岡林は、薄利多売のFPD事業を続けていてはエンジニアの努力が報われないと判断した。困難であっても技術的な強みを活かせる分野に挑戦し、付加価値の高い製品を生み出す方が、レーザーテックの個性に合致すると考えた。
縮小で浮いたリソースは半導体関連事業に振り向けられた。岡林は海外の半導体デバイスメーカーへの営業を積極化し、顧客のもとにアポイントを取って自ら足を運ぶところから関係構築を始めた。エンジニアが営業と一緒に顧客の製造現場を訪問し、ニーズを直接聞き取って製品開発に反映する「マーケットイン」のアプローチを組織全体に浸透させた。顧客の近くにエンジニアが駐在できるよう、台湾・韓国・中国・シンガポールに現地法人や支店を設立し、海外での技術サポート体制を整備した。
FPD事業から半導体事業へのリソース集中は、就任翌期の2010年6月期から効果を現した。売上高86億円、営業利益7億円と小規模ながら黒字を回復し、以後12年連続の増収を記録することになる。半導体メーカーへの営業を積極化したことで、受注は着実に増加していった。2025年6月期には売上高2,514億円、営業利益1,228億円(営業利益率48.8%)に達し、就任時から売上は約29倍、営業利益は約175倍に拡大した。
海外売上比率は約90%に達し、TSMC・サムスン電子・インテルの3大半導体メーカー向け売上が約6割を占めるグローバル企業へと変貌した。資本市場での位置づけも大きく変わり、東証二部上場(2012年)、東証一部指定(2013年)、プライム市場移行(2022年)と上場市場を段階的に引き上げた。2022年と2023年には東証の年間売買代金で首位を独走し、日本の株式市場で最も活発に取引される銘柄となった。
FPD事業の縮小は、単なる不採算事業の整理にとどまらず、レーザーテックの事業モデルを再定義する転換点であった。創業者・内山康が掲げた「世の中にないものをつくり、世の中のためになるものをつくる」という理念への原点回帰であり、岡林はこれを「技術で差別化できる市場に集中する」という経営戦略として具体化した。ファブライト経営のもとでは技術力こそが唯一の競争優位であり、その技術力を最も発揮できる市場を選び直す判断であった。この方針が、次のEUV検査装置開発への布石となった。
工場を持たないファブライト経営は、売上減少時に赤字に転落しやすいという脆弱性を持つ一方、事業撤退時の固定費負担が軽いという構造的特性も持つ。岡林理がFPD事業を縮小できた背景には、工場閉鎖や設備の減損処理といった撤退コストが発生しないファブライトモデルの柔軟性があった。売上の半分を失う決断の重さは変わらないが、その判断を実行に移せる構造を創業者が60年前に設計していたという点が、この転換の本質的な興味深さである。
EUV検査装置の開発において、レーザーテックの規模の小ささは制約ではなく条件であった。大手装置メーカーにとって市場規模が不透明なEUV検査装置は投資判断が難しいテーマであったが、レーザーテックにとっては半導体集中戦略の延長線上にある必然の選択であった。FPD事業を縮小してリソースを集中させた直後だからこそ、最も困難なテーマに人材と資金を投入できた。市場を独占した要因は技術力だけでなく、中堅企業の事業構造が大企業よりも早く意思決定できたという組織的条件にもあったと考えられる。
半導体の微細化はムーアの法則に沿って進展してきたが、2000年代後半には従来のArF(フッ化アルゴン)光源を用いたリソグラフィ技術が物理的な限界に近づいていた。回路線幅がArF光源の波長(193nm)を大きく下回るようになり、多重露光などの技術的な回避策は製造コストの上昇を招いていた。次世代のリソグラフィ技術として、波長13.5nmのEUV(極端紫外線)光源が有力視されていた。
EUVリソグラフィの実用化にあたっては、マスク(回路パターンの原版)の品質管理が決定的に重要であった。EUVはArFとは異なり、光を透過させるのではなく反射させる光学系を用いる。そのため従来の透過型マスク検査装置では原理的に対応できず、EUV光源そのものを使った新しい検査装置が必要であった。しかし波長13.5nmという極端に短い光を扱う検査装置は、世界のどの装置メーカーも開発に至っていなかった。
EUV技術の実用化には懐疑的な見方も根強かった。光源の出力不足、真空環境の維持、多層膜反射鏡の精度など技術的な課題が山積しており、業界内では「EUVの時代が本当に来るのか」と疑う声もあった(出所:日興フロッギー 2024年4月17日)。しかし半導体の微細化が今後も続くのであれば、いずれEUVリソグラフィは量産に適用され、それに伴って検査装置への需要は確実に生まれる。問題はそれを誰が、いつ開発するかであった。
2011年、レーザーテックは新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の国家プロジェクトに参加し、EUV光源を用いた検査装置の独自開発に着手した。当時の同社は従業員100人程度、売上高118億円の中堅企業であり、数十億円規模の研究開発投資は経営に対する大きなリスクであった。FPD事業を縮小し半導体に集中する方針を打ち出した直後であり、その集中戦略の帰結として最も困難なテーマに踏み込んだ。
開発の起点には、半導体メーカーとの関係構築があった。岡林社長が推進したマーケットインの営業活動を通じて、顧客の半導体メーカーから次世代検査装置への要望を直接聞き取っていた。エンジニアが営業と一緒に顧客の製造現場を訪問する体制が定着しており、技術的な課題を現場レベルで共有できる関係が構築されていた。顧客との信頼関係の中で、半導体メーカー側から「レーザーテックならできるのではないか」という声が寄せられたことが開発を後押しした(出所:日興フロッギー 2024年4月24日)。
EUV光源は従来の光学系とは根本的に異なる技術体系を必要とし、真空環境下での光学設計、多層膜反射鏡の精密な制御、極めて微弱な光の検出など、未踏の技術課題が連続していた。EUV光は大気中の酸素や窒素に吸収されるため、装置内部を真空に保つ必要があり、光学系の設計自体が従来とは全く異なるアプローチを要求された。レーザーテックは1976年のフォトマスク検査装置以来培ってきた光応用技術と検査アルゴリズムの蓄積を基盤としつつ、6年にわたる開発を継続した。
2017年3月、レーザーテックはEUVマスクブランクス欠陥検査/レビュー装置「ABICS E120」の開発に世界で初めて成功した。EUV光(波長13.5nm)を用いて、マスクブランクス(回路パターンを転写する前の原版基板)の微細な欠陥を検出する装置であり、最先端半導体の量産に不可欠な検査工程を担う。2018年には日刊工業新聞社の「十大新製品賞『日本力賞』」を受賞した。
2019年6月には、さらに発展させたアクティニックEUVパターンマスク欠陥検査装置「ACTIS A150」を開発した。回路パターンが形成された後のマスクを検査する装置であり、ABICS E120とともにEUVマスク検査の全工程をカバーする製品ラインナップが完成した。2020年には「グローバルニッチトップ企業100選」に選定され、2023年にはACTIS次世代機「A300」シリーズも発表された。
EUVマスク検査装置の市場において、レーザーテックの世界シェアは100%を維持している。他社は同等の装置の開発に至っておらず、TSMC・サムスン電子・インテルの3大半導体メーカーはすべてレーザーテックの装置を採用している。従業員100人規模の中堅企業が、半導体産業のサプライチェーン上で代替不可能な位置を占めるに至った。この事実は、「世の中にないものをつくる」という創業以来の理念が、最先端技術領域で実現された帰結であった。
EUV検査装置の開発において、レーザーテックの規模の小ささは制約ではなく条件であった。大手装置メーカーにとって市場規模が不透明なEUV検査装置は投資判断が難しいテーマであったが、レーザーテックにとっては半導体集中戦略の延長線上にある必然の選択であった。FPD事業を縮小してリソースを集中させた直後だからこそ、最も困難なテーマに人材と資金を投入できた。市場を独占した要因は技術力だけでなく、中堅企業の事業構造が大企業よりも早く意思決定できたという組織的条件にもあったと考えられる。
岡林理が仙洞田哲也を後任に選んだ判断は、レーザーテックの競争力の源泉が何であるかを反映している。同社の強みは技術開発力と顧客密着の営業であり、その両方を自ら経験した人物が経営を担うべきだという論理である。47歳という年齢は上場企業の社長としては若いが、中計の6年計画を完遂するには十分な在任期間を確保できる。成長企業の経営承継において、「成長の立役者」から「次の成長を設計する者」への委譲をどう設計するかという問いに対する一つの回答である。
岡林理は2009年の社長就任以来、FPD事業の縮小と半導体集中、EUV検査装置の開発という二つの構造的な意思決定を経て、レーザーテックを売上高86億円の中堅企業から2,000億円超のグローバル企業へと成長させた。5フェーズにわたる中期経営計画を策定・推進し、最終フェーズ「フェーズ3+」ではACTIS A300の開発に一定の成果を収めた。在任15年間で売上高は約29倍、営業利益は約175倍に拡大し、株価は100倍超となった。
一方、同社は経営の属人性が高い組織でもあった。創業者・内山康の急逝(1992年)以来、2代目の粟村大吉から岡林理まで4人の社長が順次経営を継承してきたが、いずれも社内からの昇格であった。売上高が2,000億円を超え、従業員も1,000人規模に拡大し、TSMC・サムスン電子・インテルという世界の3大半導体メーカーを顧客に持つグローバル企業となった中で、次世代への計画的な経営委譲が課題となっていた。
2024年4月、岡林理は自身の6月末での社長退任と、副社長の仙洞田哲也の社長昇格を発表した。仙洞田は1977年生まれ、学習院大学理学部卒業後にNECの半導体子会社でエンジニアとして勤務し、2008年にレーザーテックに入社した。フォトマスク検査装置の開発を担当し、米半導体装置大手KLAから市場シェアを奪還した実績を持つ。技術者でありながら営業も統括し、技術とマーケットの双方を理解するリーダーとして選ばれた。
2024年7月、仙洞田が6代目社長に就任し、岡林は代表取締役会長に就いた。就任1年目の2025年6月期は売上高2,514億円、営業利益1,228億円と過去最高を更新し、営業利益率は48.8%に達した。新体制のもとで発表された6カ年の中期経営計画は、2030年6月期に売上高4,000〜5,000億円、営業利益率35%以上を目標に掲げている。EUV以外の新規事業領域への投資拡大と、後工程やSiC材料検査など新たな成長分野の開拓を重点課題として位置づけた。
岡林理が仙洞田哲也を後任に選んだ判断は、レーザーテックの競争力の源泉が何であるかを反映している。同社の強みは技術開発力と顧客密着の営業であり、その両方を自ら経験した人物が経営を担うべきだという論理である。47歳という年齢は上場企業の社長としては若いが、中計の6年計画を完遂するには十分な在任期間を確保できる。成長企業の経営承継において、「成長の立役者」から「次の成長を設計する者」への委譲をどう設計するかという問いに対する一つの回答である。