デンソー の歴史

更新:

1949年、林虎雄氏が愛知県刈谷市で日本電装として創業。1953年のボッシュとの資本提携、カーエアコンの拡大、2020年の燃料ポンプ大量リコール、ローム買収提案までの沿革と経緯を執筆。

創業

1949年

創業者

林虎雄

創業地

愛知県刈谷市

直近売上高(2026/3)

75,400億円

デンソー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期
Q なぜ1949年の設立は「独立」ではなく親会社からの「放出」に近かったのか
A 戦後の金融引き締めで経営危機に陥ったトヨタ自動車は、再建のため不採算の電装品部門を切り離す必要に迫られた。倒産しても本体のブランドへ傷がつかないよう距離を置くのが親会社の狙いであり、1949年12月に設立された日本電装には社名へ『トヨタ』を冠することが許されず、ラジエータ部門の累積赤字1.4億円を借入金として継承させられた。資本金1,500万円に対し自己資本比率5%という財務で発足し、独立というより放出に近い船出となった
Q なぜ1953年に、独立直後の零細企業がドイツのボシュ社へ株式10%とロイヤリティーを差し出してまで提携したのか
A 親会社の発注に頼るだけでは下請けの域を出ず、自前の技術と品質をもたなければ総合部品メーカーへ脱皮できなかった。そこでデンソーは1953年、ドイツのボシュ社へ株式10%とロイヤリティーを差し出す対価として、特許と技術の全面公開を受けた。製品をドイツへ送り返されること三度という品質指導に耐え、1954年のカーヒーターから1957年のカーエアコンまで4年で製品領域を広げ、1961年には機械工業で国内初のデミング賞を受賞する。外から技術を買い、自力で稼ぐ基盤を確かにした。
Q なぜ2024年に、トヨタグループの相互保有に支えられてきた戦後以来の資本構造を見直したのか
A トヨタグループの相互保有に守られた株式は持ち合いで固定され流動性が乏しく、資本コストを高め株主との対話を鈍らせていた。そこでデンソーは2024年、政策保有株を数年内にほぼゼロへ減らす方針のもと、4,500億円の自社株買いと2,000億円の株式売出しを同時に決めた。豊田自動織機株を10分割で売り、ルネサスエレクトロニクス株もロックアップ解除後に処分を判断する林新之助社長は資本コストの低減と個人株主比率の引き上げを掲げ、技術と発注で一体だった親会社からの自立を株主構成の面でも進めている

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1949年〜 トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得

デンソーの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1949年 日本電装を設立
  2. 1950年 企業再建案を発表。473名の解雇
  3. 1950年 朝鮮特需により業績好転
  4. 1951年 名古屋証券取引所に株式を上場
  5. 1953年 ロバート・ボシュとの業務資本提携——品質と製品領域を借りて築いた技術自立の土台 独立まもない日本電装は、なぜ電装品で世界最大手のボシュに株式を渡してまで技術を借りたのか
  6. 1958年 電気洗濯機から撤退
  7. 1980年 冷暖房機器(カーエアコン)の売上が急拡大

企業再建整備計画で切り出された第二会社

デンソーの源流は、1933年7月に豊田喜一郎氏が[1]自動車の国産化を目的として豊田自動織機製作所内に設けた自動車部の電装部門にある。1937年8月に自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立[2]した際も、電装部門は刈谷町にとどまって同社の刈谷工場となった。戦後の日本では1948年まで乗用車の製造が禁じられ[3]、解禁後も各社は何の援助もなく細々と生産を続けていた。トヨタ自動車工業は1949年11月に企業再建整備計画の認可を受け[4]、12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯、翌1950年5月に刈谷南工場を民成紡績[5]として分離独立させた。豊田自動織機製作所の石田退三社長は財閥指定を避けて[6]豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外の全社の社名を変えた。日本電装は資本金1500万円で発足し、電装工場長だった林虎雄[7]が社長に就任、ラジエータ部門から引き継いだ1.4億円の累積赤字を借入金として承継した。

    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした

1949年に始まったドッジ・ラインの金融引き締め[8]は自動車業界を直撃した。親会社のトヨタ自動車工業も基礎物資の値上がりによるコスト高が重なって1950年に人員整理[9]へ踏み切り、2か月にわたるストライキに発展した。日本電装も設立3か月後の1950年3月に資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表し、同年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備[10]を実施した。6月の朝鮮戦争の勃発が転機となり[11]、トヨタ自動車工業は7月以降に車両4679台の特需を受注[12]、日本電装の社業も好調に転じた。日本電装は1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据え付けを進め、国有賠償機械も取得[13]して設備を拡充し、電装品の生産高で全国の4割を占める[14]に至った。

    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された
    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された

ボッシュ提携で広げた品質管理と製品領域

日本電装は設立当初から技術面の向上について独自の研究を重ね、欧米各国の自動車工業界を数次にわたって視察[15]したうえで、1953年に世界有数の電装品メーカー[16]であるドイツのロバート・ボッシュ社と提携[17]し、株式の10%を割り当てた。1954年4月には技術習得のため技師2名をドイツへ派遣[18]し、同年8月にボッシュの技術者2名が刈谷へ着任[19]した。検査は厳しく、『作り上げた製品をドイツに送り検査を受ける』[引用元]ことを繰り返し、『かくすること3回もあってようやく合格する』[引用元]状態が続いた。1954年にカーヒーターの製造を始め[20]、1955年2月には噴射ポンプと点火プラグを提携品目に追加[21]し、1957年にカーエアコンへ広げた[22]。1957年に点火栓生産のため愛知電装を設立[23]し、1959年に吸収合併した。

    • [15]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [21]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
    • [16]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [20]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [22]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [23]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [17]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った

日本電装の販売先はトヨタ自動車工業に限らず、1956年時点でトヨタ向けは5割から6割[24]、残る4割から5割は一般の需要に応じていた[25]。系列外のメーカーへ売るには品質で納得させる必要があり、日本電装は創業直後から社内に技能者養成所を設けて技能工を自前で育て[26]、ボッシュから受け取った品質管理の手法[27]を全社の作業へ落とし込んだ。1961年には自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞[28]し、技術移転を受ける立場から自ら品質を設計する立場へ移った[29]『ここ3〜4年のうちには『日本のデンソー』から『世界のデンソー』への飛躍がなされるであろう』[引用元]という評価を受けた1967年、トヨタ自工とトヨタ自販向けは57.1%を占め[30]、日産自動車を除く各社へ軒並み供給していた[31]

  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [24]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [25]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [27]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [26]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [28]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
    • [29]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [30]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [31]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた
    • [15]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [21]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
    • [16]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [20]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [22]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [23]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
    • [29]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [17]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [24]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [25]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [27]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [26]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [28]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [30]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [31]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた

1982年〜 1兆円計画とグローバル展開、親会社との事業領域をめぐる緊張

デンソーの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1982年 売上高1兆円計画
  2. 1985年 ニッポンデンソー・アメリカを設立
  3. 1987年 豊橋製作所を新設
  4. 1992年 北米向け売上高を拡大
  5. 1993年 北米メキシコの生産拠点を拡充
  6. 1993年 2期連続減益
  7. 1999年 トヨタの支配力強化と系列見直しのなかでの自立模索 親会社トヨタの支配を受け入れるか、系列を越えて自立するか——欧米サプライヤー大再編のなかでデンソーが迫られた生き残り戦略

2017年〜 電動化への転換と品質課題、2030年長期方針の策定

デンソーの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2017年 デンソーグループ2030年長期方針・2025年長期構想を策定
  2. 2017年 富士通テンを買収
  3. 2020年 燃料ポンプの樹脂製インペラ不具合に伴うグループ横断の大規模リコールと品質費用の計上 単価数千円の一部品の欠陥が数百万台の回収へ広がるとき、有馬浩二氏はTier1の品質責任にどう向き合ったか
  4. 2020年 トヨタ自動車から広瀬製作所を譲受
  5. 2023年 トヨタグループ向けが売上収益の49%

デンソーの沿革1949〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
林虎雄日本電装を設立★★
林虎雄企業再建案を発表。473名の解雇★★
林虎雄朝鮮特需により業績好転
林虎雄名古屋証券取引所に株式を上場
林虎雄東京・大阪の各証券取引所に株式を上場
林虎雄ロバート・ボシュとの業務資本提携——品質と製品領域を借りて築いた技術自立の土台独立まもない日本電装は、なぜ電装品で世界最大手のボシュに株式を渡してまで技術を借りたのか 詳細を読む★★★
林虎雄電気洗濯機から撤退★★
林虎雄本社工場を増設(北工場竣工)
林虎雄池田工場を新設(刈谷市)
岩月達夫安城工場を新設(安城製作所)
岩月達夫西尾製作所を新設(エアコン増産)
岩月達夫初の海外子会社を設立
白井武明子会社を設立
白井武明欧州子会社を設立
白井武明高棚製作所を新設(安城市)
平野史冷暖房機器(カーエアコン)の売上が急拡大★★
平野史エレクトロニクス本部を発足
戸田憲吾売上高1兆円計画
戸田憲吾ニッポンデンソー・アメリカを設立
田中太郎豊橋製作所を新設
石丸典生北米向け売上高を拡大
石丸典生北米メキシコの生産拠点を拡充
石丸典生2期連続減益
岡部弘社名をデンソーに変更
岡部弘善明製作所を新設
岡部弘トヨタの支配力強化と系列見直しのなかでの自立模索親会社トヨタの支配を受け入れるか、系列を越えて自立するか——欧米サプライヤー大再編のなかでデンソーが迫られた生き残り戦略 詳細を読む★★★
深谷紘一電装投資有限公司を設立
深谷紘一デンソースピリットを制定
深谷紘一デンソー・インターナショナル・アジアを設立
加藤宣明大阪証券取引所を上場廃止
有馬浩二デンソーグループ2030年長期方針・2025年長期構想を策定
有馬浩二富士通テンを買収★★
有馬浩二燃料ポンプの樹脂製インペラ不具合に伴うグループ横断の大規模リコールと品質費用の計上単価数千円の一部品の欠陥が数百万台の回収へ広がるとき、有馬浩二氏はTier1の品質責任にどう向き合ったか 詳細を読む★★★
有馬浩二トヨタ自動車から広瀬製作所を譲受★★
林新之助トヨタグループ向けが売上収益の49%
林新之助スパークプラグ・排気ガスセンサー事業の日本特殊陶業への譲渡——電動化集中に向けた内燃機関成熟事業の切り離し70年前にボシュから借りて始めたスパークプラグを、なぜ電動化のいま手放すのか——内燃機関の成熟事業の切り離しをめぐる選択 詳細を読む★★★
林新之助パワー半導体の垂直統合をめざしたローム買収提案とその取り下げ全株取得による内製化か、買収によらない協業か——車載パワー半導体の垂直統合をめぐる賭け 詳細を読む★★★
出典・参考

免責事項およびポリシー