日本電装の出発点は、親会社が背負いきれなかった工場と負債を引き受けたことにあった。1949年に切り出されたこの会社は、資本金1500万円に対して1.4億円の累積赤字を借入金として承継し、トヨタの商号も名乗れない。設立3か月で資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇している。取りうる選択肢は2つしかなかった。親会社の注文が増えるのを待つか、系列の外へ売るかである。日本電装は後者を選び、1956年の時点でトヨタ向けを5割から6割に抑え、残りを一般の需要に充てていた。系列の外へ売る会社は、値段ではなく品質で相手を納得させるほかない。ボッシュとの提携は、その説得の材料を外から借りる手段だった。
借りた基準を自前の基準へ置き換えるまでに、四半世紀を要した。1953年の提携で受け取ったのは製品の図面と検査の合否であって、設計の考え方ではない。ドイツへ送った製品が3度返ってくる関係は、教わる側の立場をそのまま映していた。1960年の貿易自由化を前に林虎雄社長が掲げたのは、設備の高水準化と内外製の区分である。買える技術を減らし、作れる技術を増やす方向だった。工機部が工場設備の7割を自前で作り、日本電装学園が技能工を送り出す体制は、外から買えば仕様も納期も他社と同じになるという判断から出ている。1979年、特許の申請件数がボッシュを超え、電装品の技術導入は打ち切られた。
デンソーの源流は、1933年7月に豊田喜一郎氏が自動車の国産化を目的として豊田自動織機製作所内に設けた自動車部の電装部門にある。1937年8月に自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立した際も、電装部門は刈谷町にとどまって同社の刈谷工場となった。戦後の日本では1948年まで乗用車の製造が禁じられ、解禁後も各社は何の援助もなく細々と生産を続けていた。トヨタ自動車工業は1949年11月に企業再建整備計画の認可を受け、12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯、翌1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた。豊田自動織機製作所の石田退三社長は財閥指定を避けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外の全社の社名を変更した。日本電装は資本金1500万円で発足し、電装工場長だった林虎雄氏が社長に就任、ラジエータ部門から引き継いだ1.4億円の累積赤字を借入金として承継した。
1949年に始まったドッジ・ラインの金融引き締めは自動車業界を直撃した。親会社のトヨタ自動車工業も基礎物資の値上がりによるコスト高が重なって1950年に人員整理へ踏み切り、2か月にわたるストライキに発展した。日本電装も設立3か月後の1950年3月に資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表し、同年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を実施した。6月の朝鮮戦争の勃発が転機となり、トヨタ自動車工業は7月以降に車両4679台の特需を受注、日本電装の社業も好調に転じた。日本電装は1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据え付けを進め、国有賠償機械も取得して設備を拡充し、電装品の生産高で全国の4割を占めるに至った。
日本電装は設立当初から技術面の向上について独自の研究を重ね、欧米各国の自動車工業界を数次にわたって視察したうえで、1953年に世界有数の電装品メーカーであるドイツのロバート・ボッシュ社と提携し、株式の10%を割り当てた。1954年4月には技術習得のため技師2名をドイツへ派遣し、同年8月にボッシュの技術者2名が刈谷へ着任した。検査は厳しく、『作り上げた製品をドイツに送り検査を受ける』ことを繰り返し、『かくすること3回もあってようやく合格する』状態が続いた。1954年にカーヒーターの製造を始め、1955年2月には噴射ポンプと点火プラグを提携品目に追加し、1957年にカーエアコンへ広げた。1957年に点火栓生産のため愛知電装を設立し、1959年に吸収合併した。
日本電装の販売先はトヨタ自動車工業に限らず、1956年時点でトヨタ向けは5割から6割、残る4割から5割は一般の需要に応じていた。系列外のメーカーへ売るには品質で納得させる必要があり、日本電装は創業直後から社内に技能者養成所を設けて技能工を自前で育て、ボッシュから受け取った品質管理の手法を全社の作業へ落とし込んだ。1961年には自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞し、技術移転を受ける立場から自ら品質を設計する立場へ移った。『ここ3〜4年のうちには"日本のデンソー"から"世界のデンソー"への飛躍がなされるであろう』という評価を受けたのが1967年である。同年のトヨタ自工とトヨタ自販向けは57.1%を占め、日産自動車を除く各社へ軒並み供給していた。
創業当時の日本電装は外国製の点火プラグを写生するところから始め、その写生さえ容易には運ばなかった。ボッシュが日立製作所や東京芝浦電気ではなく日本電装を提携相手に選んだ背景には、日本電装が相手なら主導権を握れるという読みがあったという。技術導入は発電機や始動電動機のライセンス生産として続き、日本電装はその過程で先端技術の吸収に努めた。特許の申請件数がボッシュ社を上回った1979年、日本電装は電装品に関するボッシュからの技術導入を打ち切る方針を決めた。提携が与えたのは製品の図面と検査の基準であり、それを自前の設計へ置き換えるまでに四半世紀を要した。
林虎雄社長は1960年1月の年賀式で、貿易自由化に対処する体質改善を課題に掲げ、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内製と外注の区分と外注工場の育成、事務の単純化、人間関係の重視という5項目を示した。翌1961年に発表した第2次5カ年計画は、1963年末までに国際品質と国際価格を実現し、1965年に総生産額の10%を輸出へ充てること、国内の市場占拠率を5年で20%高めることを目標に置いた。刈谷の本社には地下1階地上5階・延べ8,931平方米の技術センターが1960年8月に着工され、延べ42,094平方米の北工場が1961年6月に竣工した。売上高は1961年12月期の140.4億円から、1965年12月期には278億円へ伸びた。自由化の期限が、投資の順序を決めていた。
設備と人の供給も社内で賄った。日本電装は工機部と呼ぶ部署を高棚製作所(愛知県安城市)に置き、一部の汎用工作機械を除く生産設備のほとんどをそこで製造し、保守と点検まで自ら行った。1979年時点では専用設計のスタッフ約140人を含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製しており、各工場の機械設備は7割近くを自家製が占めた。創業直後に設けた技能者養成所は社内に実習工場を備え、日本電装学園となって年間約100人を送り出し、その卒業生の7割が工機部へ重点的に配属された。設備を自社で開発したことが、合理化の進んだ大きな要因だった。外から買えば仕様も納期も他社と等しくなり、原価で差をつける余地は残らない。
電子部品への投資はさらに早かった。日本電装は1968年に電子事業部を設立し、1970年には集積回路の社内生産へ本格的に着手した。当時は社内にも、あのような石まで手がけなくてもよいという疑問の声があった。それでも続けた結果、高温と振動という自動車特有の条件のもとで機能する集積回路と電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積した。研究開発費は1979年時点で売上高の5%を目安に置き、トヨタ自動車工業の3%強、業界平均の2%前後を大きく上回った。技術スタッフは1973年の2000人から1979年に2800人へ増え、1978年夏には本社工場内でC-MOS型のLSI生産を始めた。
部品メーカーの優位は、完成車メーカーが自分で作れない領域を持てるかどうかで決まる。日本電装が1990年12月期に売上高経常利益率8%と業界平均の倍を確保できたのは、高温と振動に耐える車載の集積回路を、総合電機が見向きもしない時期から積み上げたからだった。日立製作所や東京芝浦電気には自動車以外の市場があり、日本電装には自動車しかない。選択肢の狭さが、結果として一点集中の蓄積になった。ただしその優位は、原価の見えない相手をトヨタの側に作ることでもある。鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがやっかいだというトヨタ役員の言葉は、力関係が動きかけていたことを示している。
1989年の広瀬工場は、親会社が原価の物差しを取り戻す動きだった。日本電装が返した手は値下げではなく、開発体制をもう一段深くすることである。270億円を投じた基礎研究所とグループ初の年俸制は、追われる速度より先へ出るための投資だった。しかし1990年代前半に効いたのは技術ではなく、為替と需要である。売上高の伸びは年14.9%から5.9%へ落ち、1991年12月期には設立以来はじめての減収減益となる。トヨタが示した20%の原価低減要求を受け、日本電装は9年間の計画を最終年の前に捨てた。不採算の10品目を切り、事業本部制を廃したのは、優位を製品ごとの採算へ分解して初めて、どこが赤字かが見えたからである。
1990年12月期の売上高は1兆3793億円、経常利益は1102億円へ達し、いずれも前期比12.1%の増加となった。このときの売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍に当たった。売上構成は冷暖房機器4914億円、電装品・制御製品3914億円、燃料噴射装置2218億円の順で、上位3分野が売上高の8割を占めた。1兆4000億円弱という規模は、スズキやいすゞ自動車といった完成車メーカーを上回っていた。それでも一般にはあまり知られておらず、石丸典生社長は知名度を懸案に挙げている。部品を納める立場のまま、納入先である完成車メーカーと並ぶ規模へ達していた。
この収益力を支えたのは電子部品だった。日本電装は売上高の6.5%前後を研究開発費へ充て、1990年12月期には905億円を投じている。自動車部品業界の平均は売上高の3%、トヨタ自動車でも5%であり、開発への配分は突出していた。総合電機メーカーである日立製作所や東京芝浦電気は、海のものとも山のものとも分からない自動車へ力を注ぐ必要がなく、日本電装には自動車をやるほかに手がなかった。その後に自動車市場が一気に拡大し、日本電装の基盤は揺るぎないものとなった。株式市場の評価も高く、1992年時点の株価は1400円前後とトヨタ自動車に並び、本田技研工業を上回った。選択肢の狭さが、結果として一点集中の蓄積を生んだ。
優位は取引関係の緊張へ転じた。トヨタ自動車は従来、自動車に使うすべての部品を内製できる技術を持つとされ、部品メーカーへの技術指導と原価引き下げの要求は他社と比べても厳しかった。自社ならこれだけの原価でこれだけの品質のものを作れると具体的に示せたためである。ところが日本電装の作る電子部品はトヨタにとって手付かずの分野で、技術も原価も分からず、このままでは言い値で買うことになりかねないという警戒を招いた。トヨタにとって日本電装は、鉄鋼メーカーとの値上げ交渉よりやっかいな価格交渉の相手になっていた。売上高の5割強をトヨタへ依存する構造が、その緊張をいっそう強めた。
1989年、トヨタ自動車は愛知県豊田市に広瀬工場を新設し、電子制御装置とセンサーの生産、集積回路の研究開発と試作へ参入した。内製の狙いは車の性能を左右する電子部品の技術と原価を把握することにあり、日本電装に影響が出るほど量産する計画は無かった。日本電装側の読みは違った。技術を統括する村山正雄専務は、集積回路と電子部品は開発から設計、生産のすべてを自前で行わなければ技術の水準が上がらず、トヨタも当初は開発だけの方針が生産まで広がったのだから、生産量も比例して伸びると見た。屋台骨である電子事業への親会社の参入が、日本電装の緊張を一気に高めた。村山専務は、完成車メーカーと部品メーカーの意見の食い違いがこれからいっそう大きくなると見ていた。
応じた手は開発体制の三階層化だった。1991年3月、日本電装は名古屋市郊外の日進町に敷地面積8万1000平方メートル・延べ床面積4万2000平方メートルの基礎研究所を完成させ、土地の購入代を含む投資額は270億円に上った。研究予算は年50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画を置いた。半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンを対象に、10年先をにらんだ研究へテーマを絞っている。これで技術部・開発部、総合技術本部、基礎研究所の三階層となり、豊田中央研究所と東富士研究所と本社技術部というトヨタの体制に並んだ。基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち80人をコアタイムのないフレックスタイムへ移して残業時間を把握しないことにした。石丸典生社長は定年退職者の再雇用とあわせ、トヨタグループの先陣を切って人事の新機軸を打ち出していた。
同じ時期、提携相手との距離も動いた。日本電装は海外展開にあたり、恩義のあるボッシュの市場を荒らさないよう競合しない商品を選んでおり、ボッシュの本拠である欧州では競争関係にないエアコンを中心に輸出していた。1992年の欧州共同体の市場統合を控えて日本の完成車メーカーの欧州現地生産が本格化する見通しとなり、日本電装は全体の需要が拡大するのだからボッシュの商売を邪魔せずに伸びる余地はあると割り切った。1992年から英国でエアコンの現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した。国内では日産自動車とだけ取引が無く、自動車の性能を左右する部品を売れば競合を利することになりかねないという理由からだった。完成車メーカーと資本関係を持たず取引先を世界へ散らすボッシュとは、立つ位置が違った。
成長の型は1980年代半ばで変わっていた。1975年から1985年までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年から1992年までは年平均5.9%増へ低下した。主要な自動車部品メーカー29社の平均も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まっており、日本電装だけが低迷したわけではない。1991年12月期には1949年12月の設立以来はじめての減収減益に追い込まれる。冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置という売上高の8割を占める3分野は、他社に先駆けて市場へ投入し自ら市場を育てる型で伸びてきたが、先行者としての利益を食いつぶす間に、ほかの部品メーカーと同じ位置へ並ばれた。
石丸典生社長の危機感を決定づけたのは、売上高の5割以上を依存するトヨタからの原価低減要求だった。トヨタは取引のあるすべての部品メーカーへ1996年末までに部品価格を15%引き下げるよう求めたが、日本電装に示した数字は20%だった。石丸社長は静岡県三ヶ日町の浜名湖研修所へ34人の役員を集め、国内最大メーカーの地位に安穏としすぎたという認識のもとで打開策を募った。1994年2月、日本電装は1987年から9年間の中期経営計画を最終年の1995年を前に破棄し、期間3年の緊急経営計画へ切り替えた。計画の重点は1997年以降に売上高を毎年5%以上伸ばすことと、技術者7000人から1000人を選び出して製品ごとのチームへ編成することの2つである。1ドル100円を想定した事業体制も同じ計画が求めた。
拡販の裏で製品の整理も進んだ。日本電装はそれまでも生産性の向上や原価低減の特別委員会を三つ設けて収益の改善に取り組んでいたが、円高が進むなかで、その延長ではもう対応できなくなっていた。1993年初めには岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設け、不採算の製品を30品目挙げて生産方式の見直しで原価を下げられるかを調べた。値上げや汎用品への切り替えを完成車メーカーと交渉した結果、生産継続が決まったのは20品目強で、10品目近くを打ち切った。1994年12月には創立以来の事業本部制を廃止し、事業部ごとの採算を社内へ開いている。赤字でも続けるべき取引を切ったことが、改革の本気を社内へ伝えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1949〜1981年トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得 | 林虎雄 | 日本電装を設立 | ★★ | |
| 林虎雄 | 企業再建案を発表。473名の解雇 | ★★ | ||
| 林虎雄 | 朝鮮特需により業績好転 | ★ | ||
| 林虎雄 | 名古屋証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 林虎雄 | 東京・大阪の各証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 林虎雄 | 外部の品質基準と製品領域を借りることで築いた技術自立の土台 1953年、トヨタ自動車工業から分離独立してまもない日本電装が、電装品で世界最大手の独ロバート・ボシュ社と業務資本提携を締結した経営判断。ボシュへ株式10%を割り当て、配当連動型のロイヤリティーと引き換えに特許使用権と技術の全面公開を得て、品質管理と新たな製品領域を取り込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 林虎雄 | 電気洗濯機から撤退 | ★★ | ||
| 林虎雄 | 本社工場を増設(北工場竣工) | ★ | ||
| 林虎雄 | 池田工場を新設(刈谷市) | ★ | ||
| 岩月達夫 | 安城工場を新設(安城製作所) | ★ | ||
| 岩月達夫 | 西尾製作所を新設(エアコン増産) | ★ | ||
| 岩月達夫 | 初の海外子会社を設立 | ★ | ||
| 白井武明 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 白井武明 | 欧州子会社を設立 | ★ | ||
| 白井武明 | 高棚製作所を新設(安城市) | ★ | ||
| 平野史 | 冷暖房機器(カーエアコン)の売上が急拡大 | ★★ | ||
| 平野史 | エレクトロニクス本部を発足 | ★ | ||
| 1982〜1995年電子部品で築いた優位と、親会社の内製化・超円高への対応 | 戸田憲吾 | 売上高1兆円計画 | ★ | |
| 戸田憲吾 | ニッポンデンソー・アメリカを設立 | ★ | ||
| 田中太郎 | 豊橋製作所を新設 | ★ | ||
| 石丸典生 | 北米向け売上高を拡大 | ★ | ||
| 石丸典生 | 北米メキシコの生産拠点を拡充 | ★ | ||
| 石丸典生 | 2期連続減益 | ★ | ||
| 1996〜2009年デンソーへの改称と「部品ビッグ3」入りの方針、中国・アジア統括会社 | 岡部弘 | 社名をデンソーに変更 | ★ | |
| 岡部弘 | 善明製作所を新設 | ★ | ||
| 岡部弘 | 親会社の支配力強化と、系列見直しのなかでの独自路線の模索 1999年、世界の自動車部品業界で欧米勢の大再編が進むなか、デンソーの岡部弘社長が系列を越えた取引拡大と"部品ビッグ3"への復帰を掲げ、親会社トヨタの支配力と自立の間で生き残り戦略を探った経営判断。GMから独立した米デルファイのトヨタへの出資打診も重なり、親会社との距離が焦点になった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡部弘 | 電装投資有限公司を設立 | ★ | ||
| 深谷紘一 | デンソースピリットを制定 | ★ | ||
| 深谷紘一 | デンソー・インターナショナル・アジアを設立 | ★ | ||
| 2010〜2019年大証上場廃止と2030年長期方針、富士通テンの買収 | 加藤宣明 | 大阪証券取引所を上場廃止 | ★ | |
| 有馬浩二 | デンソーグループ2030年長期方針・2025年長期構想を策定 | ★ | ||
| 有馬浩二 | 富士通テンを買収 | ★★ | ||
| 2020〜2026年燃料ポンプのリコールと広瀬製作所の譲受、点火プラグ事業の譲渡とローム買収提案 | 有馬浩二 | 樹脂製インペラの不具合による回収と、2,297億円の製品保証引当金繰入 2020年、デンソー製燃料ポンプの樹脂製インペラの不具合を受け、有馬浩二社長のもとで複数の完成車メーカーにまたがる大規模リコールに応じた危機対応。2020年3月期に製品保証引当金へ2,297億円を繰り入れ、期末残高は前期末の678億円から2,543億円へ膨らんだ。 日本セグメントは888億円のセグメント損失に転じ、連結営業利益は前年度比80.7%減の611億円まで減少した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 有馬浩二 | トヨタ自動車から広瀬製作所を譲受 | ★★ | ||
| 有馬浩二 | トヨタグループ向けが売上収益の49% | ★ | ||
| 林新之助 | スパークプラグと排気センサの国内外事業を1,806億円で専業メーカーへ渡す判断 2025年9月1日、デンソーはスパークプラグ及び排気センサの国内外の開発・製造・販売事業を日本特殊陶業へ譲り渡す事業譲渡契約を締結した。排気センサは酸素センサ及び空燃比センサに限られ、デンソー及びその子会社が運営する事業が対象となる。譲受価額は2026年3月31日を価格算定基準日として合意した本事業譲受全体の対価額180,600百万円で、決済は現金による。デンソー及びその子会社の役員及び従業員、土地及び建物は譲受の対象から外れる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 林新之助 | パワー半導体の垂直統合をめざした株式取得提案と、その取り下げ 2026年3月6日、ロームはデンソーから株式取得の提案を受領した事実を公表した。ロームは独立社外取締役等による特別委員会を組成し、書面での質疑応答と複数回の協議を重ねたが、提案へ賛同する結論には至らなかった。デンソーは提案を継続することが自社の企業価値向上に必ずしも資さないと判断し、2026年4月28日に提案を取り下げた。同日、上限3,135億円の自己株式の取得を決議し、取得方法として公開買付けを選んでいる。取得をめざした株式数と価格は、両社とも公表していない。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(デンソー)