デンソーの歴史

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沿革

1949〜2026年 1949年にトヨタ自動車工業の刈谷北工場を切り出して発足した日本電装が起源。1953年に独ロバート・ボシュと提携して技術を吸収し、1961年に自動車部品メーカーとして初のデミング賞を受けた。
ボッシュと競う部品大手で、売上収益7兆5,399億円のほぼ半分をトヨタグループ向けが占める。

沿革

1949年にトヨタ自動車工業の刈谷北工場を切り出して発足した日本電装が起源。

1953年に独ロバート・ボシュと提携して技術を吸収し、1961年に自動車部品メーカーとして初のデミング賞を受けた。
ボッシュと競う部品大手で、売上収益7兆5,399億円のほぼ半分をトヨタグループ向けが占める。

創業期1949年〜トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得

  1. 日本電装を設立
  2. 企業再建案を発表。473名の解雇
  3. 朝鮮特需により業績好転
  4. 名古屋証券取引所に株式を上場
  5. 東京・大阪の各証券取引所に株式を上場
  6. ロバートボシュと資本業務提携を締結
  7. 電気洗濯機から撤退
  8. 本社工場を増設(北工場竣工)
  9. 池田工場を新設(刈谷市)
  10. 安城工場を新設(安城製作所)
  11. 西尾製作所を新設(エアコン増産)
  12. 初の海外子会社を設立
  13. 子会社を設立
  14. 欧州子会社を設立
  15. 高棚製作所を新設(安城市)
  16. 冷暖房機器(カーエアコン)の売上が急拡大
  17. エレクトロニクス本部を発足
歴史「第1章」を読む企業再建整備計画で切り出された第二会社
デンソー1981年12月期売上高5,791億円売上高当期純利益率4.3%

1982年〜電子部品の優位と親会社トヨタの内製化・超円高への対応

  1. 売上高1兆円計画
  2. ニッポンデンソー・アメリカを設立
  3. 豊橋製作所を新設
  4. 北米向け売上高を拡大
  5. 北米メキシコの生産拠点を拡充
  6. 2期連続減益
歴史「第2章」を読む部品専業のまま1兆円へ届いた収益構造
デンソー1995年3月期売上高3,393億円売上高当期純利益率2.2%

安定成長期1996年〜デンソーへの改称と「部品ビッグ3」入りの方針

  1. 社名をデンソーに変更
  2. 善明製作所を新設
  3. 「部品ビッグ3」入りを目指す方針を表明
  4. 電装投資有限公司を設立
  5. デンソースピリットを制定
  6. デンソー・インターナショナル・アジアを設立
デンソー2009年3月期売上高31,426億円売上高当期純利益率-2.7%

安定成長期2010年〜デンソーグループ2030年長期方針と富士通テンの買収

  1. 大阪証券取引所を上場廃止
  2. デンソーグループ2030年長期方針・2025年長期構想を策定
  3. 富士通テンを買収
デンソー2019年3月期売上高53,627億円売上高営業利益率5.9%

転換期2020年〜スパークプラグ事業の日本特殊陶業への譲渡とロームへの買収提案

  1. 燃料ポンプのリコール
  2. トヨタ自動車から広瀬製作所を譲受
  3. トヨタグループ向けが売上収益の49%
  4. ルネサス株式の一部売却で売却益を計上
  5. ルネサス株式の一部売却で売却益を計上
  6. スパークプラグ・排気ガスセンサー事業を日本特殊陶業に譲渡
  7. ロームに株式公開買付けによる子会社化を提案
  8. 保有の豊田自動織機株を全て売却
デンソー2026年3月期売上高75,400億円売上高営業利益率7.3%

第1章 1949年〜 トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得

筆者考察y.sugiura, author

日本電装の出発点は、親会社が背負いきれなかった工場と負債を引き受けたことにあった。1949年に切り出されたこの会社は、資本金1500万円に対して1.4億円の累積赤字を借入金として承継し、トヨタの商号も名乗れない。設立3か月で資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇している。取りうる選択肢は2つしかなかった。親会社の注文が増えるのを待つか、系列の外へ売るかである。日本電装は後者を選び、1956年の時点でトヨタ向けを5割から6割に抑え、残りを一般の需要に充てていた。系列の外へ売る会社は、値段ではなく品質で相手を納得させるほかない。ボッシュとの提携は、その説得の材料を外から借りる手段だった。

借りた基準を自前の基準へ置き換えるまでに、四半世紀を要した。1953年の提携で受け取ったのは製品の図面と検査の合否であって、設計の考え方ではない。ドイツへ送った製品が3度返ってくる関係は、教わる側の立場をそのまま映していた。1960年の貿易自由化を前に林虎雄社長が掲げたのは、設備の高水準化と内外製の区分である。買える技術を減らし、作れる技術を増やす方向だった。工機部が工場設備の7割を自前で作り、日本電装学園が技能工を送り出す体制は、外から買えば仕様も納期も他社と同じになるという判断から出ている。1979年、特許の申請件数がボッシュを超え、電装品の技術導入は打ち切られた。

売上高(単体) 1950年12月期〜1980年12月期(億円)

4.79 50 18.41 55 110.3 60 278 65 930 70 2,266 75 5,173 80
  • 5年ごとの12月期。出所は会社年鑑(1976年版・1986年版)。

1949年〜企業再建整備計画で切り出された第二会社

デンソーの源流は、1933年7月に豊田喜一郎氏が自動車の国産化を目的として豊田自動織機製作所内に設けた自動車部の電装部門にある。1937年8月に自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立した際も、電装部門は刈谷町にとどまって同社の刈谷工場となった。戦後の日本では1948年まで乗用車の製造が禁じられ、解禁後も各社は何の援助もなく細々と生産を続けていた。トヨタ自動車工業は1949年11月に企業再建整備計画の認可を受け、12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯、翌1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた。豊田自動織機製作所の石田退三社長は財閥指定を避けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外の全社の社名を変更した。日本電装は資本金1500万円で発足し、電装工場長だった林虎雄氏が社長に就任、ラジエータ部門から引き継いだ1.4億円の累積赤字を借入金として承継した。

  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年第7巻第3号
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした

1949年に始まったドッジ・ラインの金融引き締めは自動車業界を直撃した。親会社のトヨタ自動車工業も基礎物資の値上がりによるコスト高が重なって1950年に人員整理へ踏み切り、2か月にわたるストライキに発展した。日本電装も設立3か月後の1950年3月に資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表し、同年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を実施した。6月の朝鮮戦争の勃発が転機となり、トヨタ自動車工業は7月以降に車両4679台の特需を受注、日本電装の社業も好調に転じた。日本電装は1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据え付けを進め、国有賠償機械も取得して設備を拡充し、電装品の生産高で全国の4割を占めるに至った。

  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された
参考文献[1]-[14]
    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された

1953年〜ボッシュ提携で拡充した品質管理と製品領域

ドイツのロバート・ボッシュ社は世界有数の電装品メーカーで、日本電装は1953年に同社と提携し、株式の10%を割り当てた。提携までに日本電装は、設立時から技術を高めるための研究を自力で積み、欧米各国の自動車工業界へ何度も視察に出ていた。技術の習得に向け、1954年4月に技師2名がドイツへ渡り、同年8月にはボッシュ側の技術者2名が刈谷に赴任した。厳しい検査のもとで『作り上げた製品をドイツに送り検査を受ける』ことが繰り返され、『かくすること3回もあってようやく合格する』状態が続いた。1954年にはカーヒーターの製造を開始し、1955年2月に噴射ポンプと点火プラグが提携品目に加わり、1957年にはカーエアコンに及んだ。1957年に点火栓生産のため愛知電装を設立し、1959年に吸収合併した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)
    • [15]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [16]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [17]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ

日本電装の販売先はトヨタ自動車工業に限らず、1956年時点でトヨタ向けは5割から6割、残る4割から5割は一般の需要に応じていた。系列外のメーカーへ売るには品質で納得させる必要があり、日本電装は創業直後から社内に技能者養成所を設けて技能工を自前で育て、ボッシュから受け取った品質管理の手法を全社の作業へ落とし込んだ。1961年には自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞し、技術移転を受ける立場から自ら品質を設計する立場へ移った。『ここ3〜4年のうちには"日本のデンソー"から"世界のデンソー"への飛躍がなされるであろう』という評価を受けたのが1967年である。同年のトヨタ自工とトヨタ自販向けは57.1%を占め、日産自動車を除く各社へ軒並み供給していた。

  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
  • 企業の歴史 明治百年(1968)
    • [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
    • [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた

創業当時の日本電装は外国製の点火プラグを写生するところから始め、その写生さえ容易には運ばなかった。ボッシュが日立製作所や東京芝浦電気ではなく日本電装を提携相手に選んだ背景には、日本電装が相手なら主導権を握れるという読みがあったという。技術導入は発電機や始動電動機のライセンス生産として続き、日本電装はその過程で先端技術の吸収に努めた。特許の申請件数がボッシュ社を上回った1979年、日本電装は電装品に関するボッシュからの技術導入を打ち切る方針を決めた。提携が与えたのは製品の図面と検査の基準であり、それを自前の設計へ置き換えるまでに四半世紀を要した。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [34]1949年にトヨタから分離独立して以来在籍する戸田憲吾相談役が、創業当時は外国製のプラグをスケッチすることから始め、そのスケッチさえ簡単にはいかなかったと述べている
    • [35]ボッシュが日立や東芝と組まずに日本電装を選んだのは、日本電装が相手なら主導権を握れると考えたからではないかと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [36]1953年にボッシュ社と提携関係を結び、発電機や始動電動機など様々なボッシュ製品をライセンス生産した
    • [37]ライセンス生産を進めながら先端技術の吸収に努めた
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [38]1979年時点で特許申請数がボッシュ社の件数を上回っており、過去数度にわたって更改してきた電装品に関するボッシュからの技術導入を1979年で打ち切る予定だった
参考文献[15]-[38]
    • [15]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
    • [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [16]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
    • [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [17]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
    • [38]1979年時点で特許申請数がボッシュ社の件数を上回っており、過去数度にわたって更改してきた電装品に関するボッシュからの技術導入を1979年で打ち切る予定だった
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
    • [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [34]1949年にトヨタから分離独立して以来在籍する戸田憲吾相談役が、創業当時は外国製のプラグをスケッチすることから始め、そのスケッチさえ簡単にはいかなかったと述べている
    • [35]ボッシュが日立や東芝と組まずに日本電装を選んだのは、日本電装が相手なら主導権を握れると考えたからではないかと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [36]1953年にボッシュ社と提携関係を結び、発電機や始動電動機など様々なボッシュ製品をライセンス生産した
    • [37]ライセンス生産を進めながら先端技術の吸収に努めた

1960年〜貿易自由化に備えた設備と人材の自前化

林虎雄社長は1960年1月の年賀式で、貿易自由化に対処する体質改善を課題に掲げ、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内製と外注の区分と外注工場の育成、事務の単純化、人間関係の重視という5項目を示した。翌1961年に発表した第2次5カ年計画は、1963年末までに国際品質と国際価格を実現し、1965年に総生産額の10%を輸出へ充てること、国内の市場占拠率を5年で20%高めることを目標に置いた。刈谷の本社には地下1階地上5階・延べ8,931平方米の技術センターが1960年8月に着工され、延べ42,094平方米の北工場が1961年6月に竣工した。売上高は1961年12月期の140.4億円から、1965年12月期には278億円へ伸びた。自由化の期限が、投資の順序を決めていた。

  • 日本電装のあゆみ(1964)「技術センターの建設」
    • [39]1960年1月5日の年賀式で林虎雄社長が、貿易自由化に対処する体質改善として、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内外製の区分と外注工場の育成方針の確立、事務の単純化、人間関係の重視の5項目を示した
    • [41]技術センターと事務本館は鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階・延べ8,931平方米で、1960年8月22日に第1期工事の地鎮祭が行なわれ着工された
    • [42]北工場(第5および第6工場)は地上3階建・延べ42,094平方米で、1961年6月に竣工した
  • 日本電装のあゆみ(1964)「第2次5カ年計画」
    • [40]第2次5カ年計画(昭和36年から40年)は、昭和38年末までに国際品質・国際価格を実施して国際的電装品メーカーとなり昭和40年には総生産額の10%を輸出する状態に持って行くこと、国内競争で優位の態勢を確立し市場占拠率を5年間に20%高めることを目標とした
  • 会社年鑑
    • [43]1961年12月期の売上高は140.4億円
    • [44]1965年12月期の売上高は278億円

設備と人の供給も社内で賄った。日本電装は工機部と呼ぶ部署を高棚製作所(愛知県安城市)に置き、一部の汎用工作機械を除く生産設備のほとんどをそこで製造し、保守と点検まで自ら行った。1979年時点では専用設計のスタッフ約140人を含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製しており、各工場の機械設備は7割近くを自家製が占めた。創業直後に設けた技能者養成所は社内に実習工場を備え、日本電装学園となって年間約100人を送り出し、その卒業生の7割が工機部へ重点的に配属された。設備を自社で開発したことが、合理化の進んだ大きな要因だった。外から買えば仕様も納期も他社と等しくなり、原価で差をつける余地は残らない。

  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [45]工機部は高棚製作所(愛知県安城市)の一角にあり、一部の汎用工作機械を除いてほとんどの生産設備をここで製造し、保守・点検も行っている
    • [46]工機部は約140人の専用設計スタッフを含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製している
    • [47]各工場・製作所の機械設備の7割近くが工機部の自家製機械で占められている
    • [49]技能者養成所は日本電装学園と呼ばれ、年間約100人の卒業生を送り出している
    • [50]学園卒業者の一般作業現場への配属は全体の30%程度に抑え、残りの70%は工機部へ重点的に投入されている
    • [51]設備の自社開発がわが社の合理化が進んだ大きな要因だと平野史社長が述べている
  • 日本電装のあゆみ(1964)「機械・設備」
    • [48]1964年時点で技能者養成所の実習工場を社内に備えていた

電子部品への投資はさらに早かった。日本電装は1968年に電子事業部を設立し、1970年には集積回路の社内生産へ本格的に着手した。当時は社内にも、あのような石まで手がけなくてもよいという疑問の声があった。それでも続けた結果、高温と振動という自動車特有の条件のもとで機能する集積回路と電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積した。研究開発費は1979年時点で売上高の5%を目安に置き、トヨタ自動車工業の3%強、業界平均の2%前後を大きく上回った。技術スタッフは1973年の2000人から1979年に2800人へ増え、1978年夏には本社工場内でC-MOS型のLSI生産を始めた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [52]日本電装は1968年に電子事業部を設立した
    • [53]1970年には本格的にICの社内生産に乗り出した
    • [54]IC の社内生産に乗り出した当時は、あんな石までやらなくてもという疑問の声が社内にもあった
    • [55]高温・振動という自動車特有の条件の中で機能するICと電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積していった
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [56]1979年時点の研究開発費は売上高の5%をメドとしており、トヨタ自工の3%強や業界平均の2%前後をはるかに上回っていた
    • [57]技術スタッフは1973年の2000人から1979年時点で2800人まで強化された
    • [58]1978年夏から本社工場内でC-MOS型のLSI生産をスタートさせた
参考文献[39]-[58]
    • [39]1960年1月5日の年賀式で林虎雄社長が、貿易自由化に対処する体質改善として、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内外製の区分と外注工場の育成方針の確立、事務の単純化、人間関係の重視の5項目を示した
    • [41]技術センターと事務本館は鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階・延べ8,931平方米で、1960年8月22日に第1期工事の地鎮祭が行なわれ着工された
    • [42]北工場(第5および第6工場)は地上3階建・延べ42,094平方米で、1961年6月に竣工した
    • [40]第2次5カ年計画(昭和36年から40年)は、昭和38年末までに国際品質・国際価格を実施して国際的電装品メーカーとなり昭和40年には総生産額の10%を輸出する状態に持って行くこと、国内競争で優位の態勢を確立し市場占拠率を5年間に20%高めることを目標とした
  • 会社年鑑
    • [43]1961年12月期の売上高は140.4億円
    • [44]1965年12月期の売上高は278億円
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [45]工機部は高棚製作所(愛知県安城市)の一角にあり、一部の汎用工作機械を除いてほとんどの生産設備をここで製造し、保守・点検も行っている
    • [46]工機部は約140人の専用設計スタッフを含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製している
    • [47]各工場・製作所の機械設備の7割近くが工機部の自家製機械で占められている
    • [49]技能者養成所は日本電装学園と呼ばれ、年間約100人の卒業生を送り出している
    • [50]学園卒業者の一般作業現場への配属は全体の30%程度に抑え、残りの70%は工機部へ重点的に投入されている
    • [51]設備の自社開発がわが社の合理化が進んだ大きな要因だと平野史社長が述べている
    • [56]1979年時点の研究開発費は売上高の5%をメドとしており、トヨタ自工の3%強や業界平均の2%前後をはるかに上回っていた
    • [57]技術スタッフは1973年の2000人から1979年時点で2800人まで強化された
    • [58]1978年夏から本社工場内でC-MOS型のLSI生産をスタートさせた
    • [48]1964年時点で技能者養成所の実習工場を社内に備えていた
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [52]日本電装は1968年に電子事業部を設立した
    • [53]1970年には本格的にICの社内生産に乗り出した
    • [54]IC の社内生産に乗り出した当時は、あんな石までやらなくてもという疑問の声が社内にもあった
    • [55]高温・振動という自動車特有の条件の中で機能するICと電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積していった

第2章 1982年〜 電子部品の優位と親会社トヨタの内製化・超円高への対応

筆者考察y.sugiura, author

部品メーカーの優位は、完成車メーカーが自分で作れない領域を持てるかどうかで決まる。日本電装が1990年12月期に売上高経常利益率8%と業界平均の倍を確保できたのは、高温と振動に耐える車載の集積回路を、総合電機が見向きもしない時期から積み上げたからだった。日立製作所や東京芝浦電気には自動車以外の市場があり、日本電装には自動車しかない。選択肢の狭さが、結果として一点集中の蓄積になった。ただしその優位は、原価の見えない相手をトヨタの側に作ることでもある。鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがやっかいだというトヨタ役員の言葉は、力関係が動きかけていたことを示している。

1989年の広瀬工場は、親会社が原価の物差しを取り戻す動きだった。日本電装が返した手は値下げではなく、開発体制をもう一段深くすることである。270億円を投じた基礎研究所とグループ初の年俸制は、追われる速度より先へ出るための投資だった。しかし1990年代前半に効いたのは技術ではなく、為替と需要である。売上高の伸びは年14.9%から5.9%へ落ち、1991年12月期には設立以来はじめての減収減益となる。トヨタが示した20%の原価低減要求を受け、日本電装は9年間の計画を最終年の前に捨てた。不採算の10品目を切り、事業本部制を廃したのは、優位を製品ごとの採算へ分解して初めて、どこが赤字かが見えたからである。

売上高(連結) 1990年12月期〜1994年12月期(億円)

15,116 90 14,813 91 14,246 93 14,122 94
  • 1992年12月期は手元の資料に連結の値がない。

1982年〜部品専業のまま1兆円へ届いた収益構造

1990年12月期の売上高は1兆3793億円、経常利益は1102億円へ達し、いずれも前期比12.1%の増加となった。このときの売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍に当たった。売上構成は冷暖房機器4914億円、電装品・制御製品3914億円、燃料噴射装置2218億円の順で、上位3分野が売上高の8割を占めた。1兆4000億円弱という規模は、スズキやいすゞ自動車といった完成車メーカーを上回っていた。それでも一般にはあまり知られておらず、石丸典生社長は知名度を懸案に挙げている。部品を納める立場のまま、納入先である完成車メーカーと並ぶ規模へ達していた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [59]1990年12月期は売上高1兆3793億円、経常利益1102億円で、それぞれ前年と比べて12.1%の増加だった
    • [60]1990年12月期の売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍の水準だった
    • [61]1990年12月期の売上高構成は冷暖房機器4914億円(35.6%)、電装品・制御製品3914億円(28.4%)、燃料噴射装置2218億円(16.1%)、ラジエーター836億円、メーター716億円、フィルター443億円
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [62]売上高1兆4000億円弱という規模はスズキやいすゞ自動車など完成車メーカーをしのいでいた
    • [63]一般にはあまり知られていない企業であることを石丸典生社長が懸案に挙げていた

この収益力を支えたのは電子部品だった。日立製作所や東京芝浦電気のような総合電機は、先の見えない自動車の分野に深入りする理由を持たなかったが、日本電装には自動車のほかに頼れる事業がなかった。研究開発費は売上高の6.5%前後で推移し、1990年12月期には905億円に達した。自動車部品業界の平均が売上高の3%、最大手のトヨタ自動車でも5%だったから、際立って大きな配分である。やがて自動車市場が急速に膨らむと日本電装の地盤は盤石になり、1992年時点の株価は1400円前後とトヨタ自動車に並んで本田技研工業を上回った。道が限られていたことが、かえって一点に集中した蓄積を生んだ。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [64]総合電機メーカーである日立や東芝は、海のものとも山のものとも分からない自動車に力を注ぐ必要はなかったが、日本電装は車をやるしか手がなかったと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [65]日本電装は常に売上高の6.5%前後を研究開発費に回しており、1990年12月期は売上高の6.6%に当たる905億円を投じた
    • [66]自動車部品業界の平均では研究開発費はせいぜい売上高の3%、トヨタでも5%だった
    • [67]その後に自動車市場が一気に拡大し、日本電装の基盤が揺るぎないものとなった
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [68]1992年時点の日本電装の株価は1400円前後とトヨタに並ぶ高い水準で推移しており、本田技研工業を上回り、日産自動車や三菱自動車工業の2倍強だった

優位はやがて取引関係の緊張を生む種になった。トヨタ自動車はそれまで、車に使う部品はすべて自前で作れる力量を備えているとされ、部品メーカーへの技術指導と原価引き下げの要求は他社に比べても手厳しかった。いくらの原価でどれほどの品質を実現できるかを自ら数字で示せる立場にあったからである。ところが電子部品となると勝手が違った。トヨタにとって日本電装が手がけるそれは触れたことのない領域で、技術も原価も見当がつかず、このままでは相手の言い値で買わされかねないという警戒心を招いた。トヨタにとって日本電装は、鉄鋼メーカー相手の値上げ交渉よりも扱いにくい価格交渉の相手になっていた。売上高の5割強をトヨタに頼る構造が、この緊張をさらに深めた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [69]従来トヨタは自動車に使うすべての部品を内製できる技術を持っていると言われ、部品メーカーに対する技術指導、コスト引き下げ要求は他社と比較しても厳しかった
    • [70]トヨタではこれだけのコストでこれだけの品質のものを作れると具体的に示すことが可能だったため、要求が厳しかった
    • [71]日本電装の作る電子部品はトヨタにとって手付かずの分野であり、技術もコストも分からず、このままでは言い値で買うことにもなりかねないという警戒感をトヨタが募らせた
    • [72]トヨタの役員が、鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがずっとやっかいだと漏らした
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [73]1992年時点で日本電装は売上高の5割強をトヨタに依存していた
参考文献[59]-[73]
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [59]1990年12月期は売上高1兆3793億円、経常利益1102億円で、それぞれ前年と比べて12.1%の増加だった
    • [60]1990年12月期の売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍の水準だった
    • [61]1990年12月期の売上高構成は冷暖房機器4914億円(35.6%)、電装品・制御製品3914億円(28.4%)、燃料噴射装置2218億円(16.1%)、ラジエーター836億円、メーター716億円、フィルター443億円
    • [64]総合電機メーカーである日立や東芝は、海のものとも山のものとも分からない自動車に力を注ぐ必要はなかったが、日本電装は車をやるしか手がなかったと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [65]日本電装は常に売上高の6.5%前後を研究開発費に回しており、1990年12月期は売上高の6.6%に当たる905億円を投じた
    • [66]自動車部品業界の平均では研究開発費はせいぜい売上高の3%、トヨタでも5%だった
    • [67]その後に自動車市場が一気に拡大し、日本電装の基盤が揺るぎないものとなった
    • [69]従来トヨタは自動車に使うすべての部品を内製できる技術を持っていると言われ、部品メーカーに対する技術指導、コスト引き下げ要求は他社と比較しても厳しかった
    • [70]トヨタではこれだけのコストでこれだけの品質のものを作れると具体的に示すことが可能だったため、要求が厳しかった
    • [71]日本電装の作る電子部品はトヨタにとって手付かずの分野であり、技術もコストも分からず、このままでは言い値で買うことにもなりかねないという警戒感をトヨタが募らせた
    • [72]トヨタの役員が、鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがずっとやっかいだと漏らした
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [62]売上高1兆4000億円弱という規模はスズキやいすゞ自動車など完成車メーカーをしのいでいた
    • [63]一般にはあまり知られていない企業であることを石丸典生社長が懸案に挙げていた
    • [68]1992年時点の日本電装の株価は1400円前後とトヨタに並ぶ高い水準で推移しており、本田技研工業を上回り、日産自動車や三菱自動車工業の2倍強だった
    • [73]1992年時点で日本電装は売上高の5割強をトヨタに依存していた

1989年〜親会社の電子内製化に応じた三階層の開発体制

愛知県豊田市の広瀬工場は、トヨタ自動車が1989年に新設した拠点で、電子制御装置やセンサーを量産するとともに、集積回路については研究開発から試作までを担った。トヨタにとっての目的は、車の出来を左右する電子部品について技術とコストを手の内に置くことであり、日本電装への発注を減らすほどの生産量は想定していなかった。それでも、主力である電子事業の領域に親会社が入ってきたことで、日本電装の社内には一気に緊張が走った。技術を統べる村山正雄専務の読みはトヨタとは違っていた。開発に始まり設計・製造までを一社で抱えてこそ集積回路や電子部品の技術は育つというのが専務の持論で、開発にとどめるはずだった当初方針を越えてトヨタが製造まで事業を拡大した以上、数量も同じ道筋で膨らむと専務は判断した。完成車側と部品側の考えの食い違いはこれから一段と大きくなる、とも専務は予想していた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [74]1989年にトヨタが広瀬工場(愛知県豊田市)を新設し、電子制御装置やセンサーの生産、ICの研究開発、試作に乗り出した
    • [75]トヨタ東富士研究所副所長の井上恵太取締役が、内製を始めたのは車の性能を左右する電子部品の技術・コストを把握するためであり、日本電装に影響が出るほど量産するつもりはないと語った
    • [76]屋台骨である電子事業にトヨタが参入してきたことで、日本電装の緊張感が一気に高まった
    • [77]村山正雄専務が、ICや電子部品は開発から設計、生産のすべてを自前でやらないと技術の水準が上がらず、トヨタも当初は開発だけの方針だったのが生産まで行うようになったのだから生産量も比例して伸びると分析した
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [78]村山正雄専務が、完成車メーカーと部品メーカーとの意見の食い違いはますます大きくなっていくだろうと予測した

応じた手は開発体制の三階層化だった。1991年3月、日本電装は名古屋市郊外の日進町に敷地面積8万1000平方メートル・延べ床面積4万2000平方メートルの基礎研究所を完成させ、土地の購入代を含む投資額は270億円に上った。研究予算は年50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画を置いた。半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンを対象に、10年先をにらんだ研究へテーマを絞っている。これで技術部・開発部、総合技術本部、基礎研究所の三階層となり、豊田中央研究所と東富士研究所と本社技術部というトヨタの体制に並んだ。基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち80人をコアタイムのないフレックスタイムへ移して残業時間を把握しないことにした。石丸典生社長は定年退職者の再雇用とあわせ、トヨタグループの先陣を切って人事の新機軸を打ち出していた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [79]1991年3月19日に日本電装の基礎研究所が完成した。名古屋市郊外の日進町にあり、敷地面積8万1000平方メートル、延べ床面積4万2000平方メートル、土地の購入代を含めた投資額は270億円
    • [80]基礎研究所の年間の研究予算は50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画だった
    • [81]基礎研究所は半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンなど車に生かせる先端技術に取り組み、目先の利益にとらわれず10年先をにらんだ研究にテーマを絞った
    • [82]基礎研究所が加わったことで日本電装の開発体制は技術・開発部、総合技術本部、基礎研の3階層となり、豊田中央研究所・東富士研究所・本社技術部というトヨタの3体制に引けを取らなくなった
    • [83]基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち経験と実績を持つ80人をコアタイムのないフレックスタイムとし、残業時間は把握しないことにした
  • 日経ビジネス 1993年9月6日号
    • [84]石丸典生氏はトヨタグループの先陣を切って定年退職者の再雇用、技術者の年俸制など新機軸を打ち出してきた

同じ時期、提携先ボッシュとの間合いも変わり始めた。日本電装は海外展開にあたり、世話になったボッシュの商圏を侵さないよう、ぶつからない商品を選んで進出していた。ボッシュの拠点である欧州へは、両社が競い合わない品目としてエアコンを軸に送り出していた。1992年の欧州共同体による市場統合を控え、日本の完成車メーカーが欧州で現地生産を本格化させる見通しが強まると、日本電装は需要全体が膨らむのだからボッシュの商売の邪魔をせずに伸びる余地はあるはずだと判断を割り切った。1992年から英国でエアコンの現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した。国内では日産自動車とだけ取引が無く、自動車の性能を左右する部品を売れば競合を利することになりかねないという理由からだった。完成車メーカーと資本関係を持たず取引先を世界へ散らすボッシュとは、立つ位置が違った。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [85]技術ではボッシュと対等になった後も、海外展開では恩義のあるボッシュの市場を荒らさないよう競合しない商品を選び、ボッシュの膝元である欧州では競争関係にないエアコンを中心に輸出を続けていた
    • [86]1992年の欧州共同体(EC)市場統合を控え、欧州での日本車メーカーの現地生産は1993年に年産40万台、1995年に60万台前後まで拡大する予定だった
    • [87]全体の需要が拡大するのだからボッシュの商売を邪魔しないで伸びる余地はあると割り切った
    • [88]それまで日本から運んでいたエアコンを1992年から英国での現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した
    • [89]国内のメーカーでは唯一日産との取引がなく、日本電装の製品は自動車の性能を左右する重要な部品であるため、部品を売って日産車の性能が上がれば敵に塩を送ることにもなりかねないと石丸典生社長が述べた
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [90]ボッシュは自動車メーカーと直接の資本関係を持たず、取引相手も世界各国に散らばっているのに対し、日本電装は売上高の5割がトヨタ自動車だと石丸典生社長が語った
参考文献[74]-[90]
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [74]1989年にトヨタが広瀬工場(愛知県豊田市)を新設し、電子制御装置やセンサーの生産、ICの研究開発、試作に乗り出した
    • [75]トヨタ東富士研究所副所長の井上恵太取締役が、内製を始めたのは車の性能を左右する電子部品の技術・コストを把握するためであり、日本電装に影響が出るほど量産するつもりはないと語った
    • [76]屋台骨である電子事業にトヨタが参入してきたことで、日本電装の緊張感が一気に高まった
    • [77]村山正雄専務が、ICや電子部品は開発から設計、生産のすべてを自前でやらないと技術の水準が上がらず、トヨタも当初は開発だけの方針だったのが生産まで行うようになったのだから生産量も比例して伸びると分析した
    • [79]1991年3月19日に日本電装の基礎研究所が完成した。名古屋市郊外の日進町にあり、敷地面積8万1000平方メートル、延べ床面積4万2000平方メートル、土地の購入代を含めた投資額は270億円
    • [80]基礎研究所の年間の研究予算は50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画だった
    • [81]基礎研究所は半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンなど車に生かせる先端技術に取り組み、目先の利益にとらわれず10年先をにらんだ研究にテーマを絞った
    • [82]基礎研究所が加わったことで日本電装の開発体制は技術・開発部、総合技術本部、基礎研の3階層となり、豊田中央研究所・東富士研究所・本社技術部というトヨタの3体制に引けを取らなくなった
    • [83]基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち経験と実績を持つ80人をコアタイムのないフレックスタイムとし、残業時間は把握しないことにした
    • [85]技術ではボッシュと対等になった後も、海外展開では恩義のあるボッシュの市場を荒らさないよう競合しない商品を選び、ボッシュの膝元である欧州では競争関係にないエアコンを中心に輸出を続けていた
    • [86]1992年の欧州共同体(EC)市場統合を控え、欧州での日本車メーカーの現地生産は1993年に年産40万台、1995年に60万台前後まで拡大する予定だった
    • [87]全体の需要が拡大するのだからボッシュの商売を邪魔しないで伸びる余地はあると割り切った
    • [88]それまで日本から運んでいたエアコンを1992年から英国での現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した
    • [89]国内のメーカーでは唯一日産との取引がなく、日本電装の製品は自動車の性能を左右する重要な部品であるため、部品を売って日産車の性能が上がれば敵に塩を送ることにもなりかねないと石丸典生社長が述べた
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
    • [78]村山正雄専務が、完成車メーカーと部品メーカーとの意見の食い違いはますます大きくなっていくだろうと予測した
  • 日経ビジネス 1993年9月6日号
    • [84]石丸典生氏はトヨタグループの先陣を切って定年退職者の再雇用、技術者の年俸制など新機軸を打ち出してきた
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [90]ボッシュは自動車メーカーと直接の資本関係を持たず、取引相手も世界各国に散らばっているのに対し、日本電装は売上高の5割がトヨタ自動車だと石丸典生社長が語った

1993年〜中期計画の途中破棄と拡販路線への転換

成長の型は1980年代半ばで変わっていた。1975年から1985年までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年から1992年までは年平均5.9%増へ低下した。主要な自動車部品メーカー29社の平均も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まっており、日本電装だけが低迷したわけではない。1991年12月期には1949年12月の設立以来はじめての減収減益に追い込まれる。冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置という売上高の8割を占める3分野は、他社に先駆けて市場へ投入し自ら市場を育てる型で伸びてきたが、先行者としての利益を食いつぶす間に、ほかの部品メーカーと同じ位置へ並ばれた。

  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [91]1975年度から1985年度までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年度から1992年度までは平均5.9%増に落ち込んだ
    • [92]主な自動車部品メーカー29社の平均伸び率も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まった
    • [94]売上高の8割を占める冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置の3分野は、製品を他社に先駆けて市場に投入し自ら市場を育ててきた
    • [95]先行者メリットを食いつぶしている間に、ほかの部品メーカーと同じスタートラインに立ってしまった
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [93]1991年12月期は1949年12月の設立以来はじめての減収減益となり、売上高が2%、経常利益が17%それぞれ減少する見通しだった

売上高の5割を超える部分をトヨタに依存する日本電装にとって、石丸典生社長の危機意識を決定づけたのは同社からのコスト削減の要請だった。部品メーカー各社に向けたトヨタの要求は1996年末を期限とする15%の値下げで、日本電装に対してだけは20%が課された。1994年2月、1987年に始動した9年間の中期経営計画は、最終年の1995年を迎える前に打ち切られ、期間3年の緊急経営計画に置き換えられた。これに先立ち石丸社長は、静岡県三ヶ日町にある浜名湖研修所へ役員34人を招集し、国内首位の座に長年安住してきたという自覚を全員で確かめたうえで、立て直しの案を出させていた。新計画が掲げた柱は2点である。1997年以降に年5%以上の増収を続けること、そして7000人いる技術者のうち1000人を選んで製品ごとのチームを組むことだった。1ドル100円を想定した事業体制も同じ計画が求めた。

  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [96]石丸典生社長の危機感を決定的にしたのは、売上高の5割以上を依存しているトヨタからの原価低減要求だった
    • [97]トヨタは取引関係のあるすべての部品メーカーに対し1996年末までに部品価格を15%引き下げるよう求めたが、日本電装に示した数字は20%だった
    • [98]1995年を最終年とする中期経営計画(1987年から9年間)を期間途中で破棄し、期間3年の緊急経営計画(中期経営方針)に切り替えたのは1994年2月だった
    • [99]石丸典生社長が静岡県三ヶ日町の浜名湖研修所に34人の役員を集め、国内最大メーカーの地位に安穏としすぎた、今の経営のやり方では利益が出なくなると述べて意見を求めた
    • [100]新しい計画の柱は、1997年以降に売上高を毎年5%以上伸ばすことと、技術者7000人の中から1000人を選び製品ごとのチームへ結集することの2つだった
  • 日経ビジネス 1994年5月16日号
    • [101]1994年2月に発表した3カ年計画で石丸典生社長はミニマム5%成長を実現できる事業体質と1ドル100円を想定した事業体制の2つを求めた

拡販の裏で製品の整理も進んだ。日本電装はそれまでも生産性の向上や原価低減の特別委員会を三つ設けて収益の改善に取り組んでいたが、円高が進むなかで、その延長ではもう対応できなくなっていた。1993年初めには岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設け、不採算の製品を30品目挙げて生産方式の見直しで原価を下げられるかを調べた。値上げや汎用品への切り替えを完成車メーカーと交渉した結果、生産継続が決まったのは20品目強で、10品目近くを打ち切った。1994年12月には創立以来の事業本部制を廃止し、事業部ごとの採算を社内へ開いている。赤字でも続けるべき取引を切ったことが、改革の本気を社内へ伝えた。

  • 日経ビジネス 1993年9月6日号
    • [102]生産性の向上や原価低減などの特別委員会を三つ設置して収益改善の取り組みを進めてきたが、この延長ではもう対応できないと石丸典生社長が述べ、1993年下期から特別委員会を新たに二つ作った
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [103]1993年初めに岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設置し、不採算製品を30品目リストアップして生産方式の見直しで原価低減ができるかを調べた
    • [104]生産方式の見直しや値上げなどで生産継続の決まった製品は20品目強で、10品目近くがどうしても採算の合わない製品として残り、打ち切られた
    • [105]1994年12月に事業本部制を廃止する創立以来の組織改革を行い、製品ごとの収益状況が社内のだれの目にもさらされることになった
    • [106]生産打ち切りの対象に挙がった製品をすべて切ったことで、社長は本気で経営改革をやる気だという意識が社内に浸透した
参考文献[91]-[106]
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号
    • [91]1975年度から1985年度までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年度から1992年度までは平均5.9%増に落ち込んだ
    • [92]主な自動車部品メーカー29社の平均伸び率も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まった
    • [94]売上高の8割を占める冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置の3分野は、製品を他社に先駆けて市場に投入し自ら市場を育ててきた
    • [95]先行者メリットを食いつぶしている間に、ほかの部品メーカーと同じスタートラインに立ってしまった
    • [96]石丸典生社長の危機感を決定的にしたのは、売上高の5割以上を依存しているトヨタからの原価低減要求だった
    • [97]トヨタは取引関係のあるすべての部品メーカーに対し1996年末までに部品価格を15%引き下げるよう求めたが、日本電装に示した数字は20%だった
    • [98]1995年を最終年とする中期経営計画(1987年から9年間)を期間途中で破棄し、期間3年の緊急経営計画(中期経営方針)に切り替えたのは1994年2月だった
    • [99]石丸典生社長が静岡県三ヶ日町の浜名湖研修所に34人の役員を集め、国内最大メーカーの地位に安穏としすぎた、今の経営のやり方では利益が出なくなると述べて意見を求めた
    • [100]新しい計画の柱は、1997年以降に売上高を毎年5%以上伸ばすことと、技術者7000人の中から1000人を選び製品ごとのチームへ結集することの2つだった
    • [103]1993年初めに岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設置し、不採算製品を30品目リストアップして生産方式の見直しで原価低減ができるかを調べた
    • [104]生産方式の見直しや値上げなどで生産継続の決まった製品は20品目強で、10品目近くがどうしても採算の合わない製品として残り、打ち切られた
    • [105]1994年12月に事業本部制を廃止する創立以来の組織改革を行い、製品ごとの収益状況が社内のだれの目にもさらされることになった
    • [106]生産打ち切りの対象に挙がった製品をすべて切ったことで、社長は本気で経営改革をやる気だという意識が社内に浸透した
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [93]1991年12月期は1949年12月の設立以来はじめての減収減益となり、売上高が2%、経常利益が17%それぞれ減少する見通しだった
  • 日経ビジネス 1994年5月16日号
    • [101]1994年2月に発表した3カ年計画で石丸典生社長はミニマム5%成長を実現できる事業体質と1ドル100円を想定した事業体制の2つを求めた
  • 日経ビジネス 1993年9月6日号
    • [102]生産性の向上や原価低減などの特別委員会を三つ設置して収益改善の取り組みを進めてきたが、この延長ではもう対応できないと石丸典生社長が述べ、1993年下期から特別委員会を新たに二つ作った

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出典・参考 16件
出典・参考
  • 日本電装のあゆみ(1964)「技術センターの建設」
  • 日本電装のあゆみ(1964)「第2次5カ年計画」
  • 日本電装のあゆみ(1964)「機械・設備」
  • 会社銀行八十年史(1955)
  • 企業の歴史 明治百年(1968)
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
  • 証券アナリストジャーナル 1969年第7巻第3号
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
  • 日経ビジネス 1993年9月6日号
  • 日経ビジネス 1994年5月16日号
  • 日経ビジネス 1995年3月27日号

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