1949年〜 トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得
デンソーの業績推移:単体
- 1949年 日本電装を設立
- 1950年 企業再建案を発表。473名の解雇
- 1950年 朝鮮特需により業績好転
- 1953年 東京証券取引所1部に株式上場
- 1953年 ロバート・ボシュとの業務資本提携——品質と製品領域を借りて築いた技術自立の土台 独立まもない日本電装は、なぜ電装品で世界最大手のボシュに株式を渡してまで技術を借りたのか
- 1958年 電気洗濯機から撤退
- 1980年 冷暖房機器(カーエアコン)の売上が急拡大
企業再建整備計画で切り出された第二会社
デンソーの源流は、1933年7月に豊田喜一郎氏が[1]自動車の国産化を目的として豊田自動織機製作所内に設けた自動車部の電装部門にある。1937年8月に自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立[2]した際も、電装部門は刈谷町にとどまって同社の刈谷工場となった。戦後の日本では1948年まで乗用車の製造が禁じられ[3]、解禁後も各社は何の援助もなく細々と生産を続けていた。トヨタ自動車工業は1949年11月に企業再建整備計画の認可を受け[4]、12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯、翌1950年5月に刈谷南工場を民成紡績[5]として分離独立させた。豊田自動織機製作所の石田退三社長は財閥指定を避けて[6]豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外の全社の社名を変えた。日本電装は資本金1500万円で発足し、電装工場長だった林虎雄氏[7]が社長に就任、ラジエータ部門から引き継いだ1.4億円の累積赤字を借入金として承継した。
- [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
- [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
- [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
- [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
- [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
- [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
- [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした
1949年に始まったドッジ・ラインの金融引き締め[8]は自動車業界を直撃した。親会社のトヨタ自動車工業も基礎物資の値上がりによるコスト高が重なって1950年に人員整理[9]へ踏み切り、2か月にわたるストライキに発展した。日本電装も設立3か月後の1950年3月に資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表し、同年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備[10]を実施した。6月の朝鮮戦争の勃発が転機となり[11]、トヨタ自動車工業は7月以降に車両4679台の特需を受注[12]、日本電装の社業も好調に転じた。日本電装は1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据え付けを進め、国有賠償機械も取得[13]して設備を拡充し、電装品の生産高で全国の4割を占める[14]に至った。
- [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
- [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
- [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
- [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
- [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
- [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
- [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された
- [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
- [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
- [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
- [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
- [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
- [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
- [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
- [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
- [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
- [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
- [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
- [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
- [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした
- [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された
ボッシュ提携で広げた品質管理と製品領域
日本電装は設立当初から技術面の向上について独自の研究を重ね、欧米各国の自動車工業界を数次にわたって視察[15]したうえで、1953年に世界有数の電装品メーカー[16]であるドイツのロバート・ボッシュ社と提携[17]し、株式の10%を割り当てた。1954年4月には技術習得のため技師2名をドイツへ派遣[18]し、同年8月にボッシュの技術者2名が刈谷へ着任[19]した。検査は厳しく、「作り上げた製品をドイツに送り検査を受ける[20]」ことを繰り返し、「かくすること3回もあってようやく合格する」(ダイヤモンド 1956/10/9)状態が続いた。1954年にカーヒーターの製造を始め[21]、1955年2月には噴射ポンプと点火プラグを提携品目に追加[22]し、1957年にカーエアコンへ広げた[23]。1957年に点火栓生産のため愛知電装を設立[24]し、1959年に吸収合併した。
- [15]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
- [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
- [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
- [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
- [16]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
- [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
- [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
- [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
- ダイヤモンド 1956年10月9日号「ドイツの会社と提携で社格をあげた日本電装」
- [17]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
- [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
日本電装の販売先はトヨタ自動車工業に限らず、1956年時点でトヨタ向けは5割から6割[25]、残る4割から5割は一般の需要に応じていた[26]。系列外のメーカーへ売るには品質で納得させる必要があり、日本電装は創業直後から社内に技能者養成所を設けて技能工を自前で育て[27]、ボッシュから受け取った品質管理の手法[28]を全社の作業へ落とし込んだ。1961年には自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞[29]し、技術移転を受ける立場から自ら品質を設計する立場へ移った[30]。「ここ3〜4年のうちには『日本のデンソー』から『世界のデンソー』への飛躍[31]がなされるであろう」(ダイヤモンド 1967/9/18)という評価を受けた1967年、トヨタ自工とトヨタ自販向けは57.1%を占め[32]、日産自動車を除く各社へ軒並み供給していた[33]。
- ダイヤモンド 1956年10月9日号「ドイツの会社と提携で社格をあげた日本電装」
- [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
- [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
- [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
- 日経ビジネス 1979年12月3日号「日本電装。トヨタのワク越え“高収益の快走”」
- [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
- [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
- [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
- ダイヤモンド 1967年9月18日号「自動車関連40社の業績調査」
- [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
- [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
- [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた
- [15]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
- [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
- [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
- [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
- [16]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
- [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
- [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
- [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
- [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
- ダイヤモンド 1956年10月9日号「ドイツの会社と提携で社格をあげた日本電装」
- [17]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
- [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
- [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
- [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
- [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
- 日経ビジネス 1979年12月3日号「日本電装。トヨタのワク越え“高収益の快走”」
- [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
- [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
- ダイヤモンド 1967年9月18日号「自動車関連40社の業績調査」
- [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
- [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
- [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた