創業から72年。3回の決断
| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 77億円 | 5億円 | 7.1% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 75億円 | 5億円 | 7.2% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 83億円 | 2億円 | 2.7% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 120億円 | 5億円 | 4.5% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 176億円 | 12億円 | 6.9% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 209億円 | 14億円 | 6.9% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 273億円 | 20億円 | 7.3% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 392億円 | 38億円 | 9.7% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 647億円 | 77億円 | 11.9% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 665億円 | 70億円 | 10.6% |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 419億円 | 23億円 | 5.5% |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 541億円 | 30億円 | 5.5% |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 807億円 | 37億円 | 4.5% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 619億円 | 0億円 | 0.0% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 620億円 | 3億円 | 0.4% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 804億円 | 31億円 | 3.8% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,463億円 | 199億円 | 13.6% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,612億円 | 247億円 | 15.3% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,574億円 | 435億円 | 16.8% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,417億円 | 188億円 | 13.2% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,671億円 | 223億円 | 13.3% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,622億円 | 470億円 | 17.9% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 952億円 | -229億円 | -24.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 977億円 | -129億円 | -13.3% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,724億円 | 173億円 | 10.0% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,394億円 | 380億円 | 15.8% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,539億円 | 413億円 | 16.2% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,350億円 | 355億円 | 15.1% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,827億円 | 165億円 | 9.0% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 766億円 | -749億円 | -97.8% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 532億円 | -114億円 | -21.5% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 996億円 | 31億円 | 3.1% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,410億円 | -21億円 | -1.6% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,329億円 | -38億円 | -2.9% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,118億円 | -355億円 | -31.8% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,638億円 | 167億円 | 10.1% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,621億円 | 66億円 | 4.1% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,559億円 | 142億円 | 9.1% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,072億円 | 181億円 | 8.7% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,824億円 | 569億円 | 20.1% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,758億円 | 535億円 | 19.3% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,127億円 | 697億円 | 22.2% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,169億円 | 873億円 | 20.9% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,601億円 | 1,712億円 | 30.5% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,865億円 | 781億円 | 16.0% |
アドバンテストの70年史を貫くのは、「代替不可能な技術を持ちながら、自社の業績を自ら制御できない」という逆説である。1954年に武田郁夫氏が3名で創業したタケダ理研工業は、大企業が手がけない計測器のニッチ市場に特化し、「商売が下手だったから技術を武器にするしかなかった」という創業者の述懐通り、価格競争を避けて独自製品を高価格で販売するモデルを構築した。この技術偏重の経営は、1972年に国産初のICテストシステム「T320」を生み出すという成果をもたらした一方で、原価計算すら存在しないという経営管理の欠如を放置した。技術への傾斜が事業を創出し、同時に経営を蝕むという構図は、創業から20年で最初の破綻を招いた。
1975年の赤字転落とクーデターを経て、富士通から派遣された海輪社長が発見したのは、採算管理の仕組みが一切存在しない企業であった。再建策の核心は、新製品の開発以前に原価管理と値引き禁止という経営の基本インフラを構築することにあった。そのうえで、ミニコンピュータ計測器事業からの撤退とICテスタへの集中投資を断行し、新製品比率を4%から45%へ引き上げた。この再建は機能したが、同時にアドバンテストの事業構造を決定的に規定した。ICテスタという単一の製品カテゴリに経営資源を集中し、富士通・日立という大手半導体メーカー2社で売上の過半を占める顧客構造が確立された。技術偏重ベンチャーの欠陥を修正する過程で、半導体投資サイクルに業績が連動するという新たな構造的制約が埋め込まれたのである。
この構造は、その後50年間にわたってアドバンテストの業績を規定し続けた。1996年に世界シェア約40%を確保し、半導体検査装置のグローバルリーダーとしての地位を不動のものとした。だが、その市場支配力にもかかわらず、業績は顧客の半導体投資サイクルに完全に従属した。2009年3月期には半導体市況の悪化で729億円の赤字に転落し、2012年から2014年にかけては3期連続の赤字を記録した。一方で2023年3月期には台湾・中国・韓国の半導体生産拡大を追い風に1712億円の過去最高益を達成している。赤字729億円と最高益1712億円の振幅は、世界シェア40%を持つ企業の業績変動としては異例の大きさである。
つまり、アドバンテストが体現しているのは、「不可欠であること」と「自律的であること」はまったく別の概念だという事実である。半導体の微細化が進むほど検査工程の重要性は増し、テスタなくして半導体は出荷できない。アドバンテストの製品は文字通り代替不可能な存在であり、顧客はテスタを買わざるを得ない。しかし、顧客がいつ・どれだけの半導体を作るかという意思決定は、アドバンテストの手の届かないところにある。TSMCの設備投資計画、サムスンの生産戦略、AIチップの需要予測——アドバンテストの業績を左右する変数は、すべて他者の手中にある。創業者が「商売下手」と語った1954年から、世界シェア首位に立った現在に至るまで、技術で市場を制しながら市場に翻弄されるという構造は変わっていない。世界で最も必要とされる装置を作る会社が、自らの業績の行方を決められない。これがアドバンテストの70年が示す、技術特化型企業の構造的宿命である。
タケダ理研の創業は、技術者が大企業の空白地帯を突くベンチャーの原型といえる。横河電機ら先発3社が占める市場に3名で参入し、ニッチ製品の高価格販売で生存圏を確保した構図は、後のハイテクベンチャーに共通する。だが、研究開発偏重モデルはICテスタという主力事業を生む一方で、原価管理の不在という構造的弱点も内包していた。技術で市場を拓き経営管理で躓く展開は、創業者主導の研究開発型企業が直面する典型的課題を示している。
1954年、通信省電気試験所に勤務していた武田郁夫氏は30歳で独立し、タケダ理研工業(現アドバンテスト)を愛知県豊橋市に創業した。創業メンバーは武田氏を含む3名であり、事業領域には日立や三菱など大手メーカーが積極的に手がけていなかった電子計測器の分野を選定した。武田氏の祖父は明治時代に豊橋鉄道や発電会社を創業した実業家・武田賢治氏であり、実家からの資本的な支援が創業を後押ししたと推察される。
ただし、創業時点の国内計測器市場には横河電機・山武ハネウェル・北辰電機の3社が戦前から参入しており、タケダ理研は後発の位置づけであった。こうした環境下で武田氏は、大手が関心を示さないニッチ領域に特化し、他に類似品がない独自製品を高価格で販売する研究開発型の経営モデルを構築した。その技術力は米国GEの副社長が来訪するほど高く評価され、通産省からも多額の研究開発補助金を獲得するに至った。
武田氏は「商売が下手だったから技術を武器にするしかなかった」と後に述懐しているが、この姿勢がタケダ理研の競争優位を形成した。価格競争を避けて技術の独自性で市場を切り拓く方針を徹底し、代替品のない計測器を高価格で販売することで、零細ながらも研究開発型ベンチャーとして着実に成長した。1960年代にはミニコンピュータを活用した計測器の開発にも着手し、コンピュータ計測という新領域の開拓を図った。
1972年には通産省の補助金を得て4年の開発期間を経た国産初のICテストシステム「T320」を発売し、半導体検査装置の分野に参入した。電卓やカラーテレビ向けICの検査需要を取り込み、計測器メーカーからICテスタメーカーへと事業構造を転換する足がかりとした。だが、研究開発偏重で経営管理を軽視した代償は大きく、1975年のオイルショックを契機に赤字へ転落し、武田氏自身も社内クーデターによって創業した会社を追われることとなった。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1923年4月 | 生まれ(愛知県出身) | 祖父は武田賢治氏・鉄道会社や電力会社を創設 |
| 1945年9月 | 日本大学理学部電気工学科卒業 | - |
| 1945年10月 | 通信省電気研究所・入所 | - |
| 1948年 | 電電公社電気通信研究所・転籍 | |
| 1954年 | タケダ理研工業・社長 | 3現アドバンテストを創業・当時30歳 |
| 1975年 | ダケダ理研工業・会長 | クーデターにより社長から失脚 |
| 2012年7月 | 逝去 | 89年にて逝去 |
タケダ理研の創業は、技術者が大企業の空白地帯を突くベンチャーの原型といえる。横河電機ら先発3社が占める市場に3名で参入し、ニッチ製品の高価格販売で生存圏を確保した構図は、後のハイテクベンチャーに共通する。だが、研究開発偏重モデルはICテスタという主力事業を生む一方で、原価管理の不在という構造的弱点も内包していた。技術で市場を拓き経営管理で躓く展開は、創業者主導の研究開発型企業が直面する典型的課題を示している。
昭和29年に私を含めて3人でスタートしたタケダ理研は、今でいう研究開発型企業として、急成長しました。測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな製品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました。広い世の中で他にない商品なら、価格競争する必要もありません。商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いしたのです。
零細企業なのに米国GEの副社長が訪れてきたり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました。タケダ理研の技術は高く評価されていたのです。
この再建劇で構造的に興味深いのは、富士通が出資者・経営指導者・最大顧客の三つの役割を同時に担った点である。通常の救済出資であれば資金注入と経営監視にとどまるが、富士通は自社の半導体事業でタケダ理研のICテスタを採用することで売上の確保まで保証した。海輪社長が発見した「原価計算が存在しない」という事実は、技術偏重ベンチャーの構造的欠陥を端的に示しており、再建の本質は新製品開発以前に、経営管理という基本インフラの構築にあった。
1975年のオイルショックを機に赤字転落したタケダ理研は、社内クーデターによる創業者・武田郁夫氏の解任を経て深刻な経営危機に陥った。メインバンクは財務リスクを問題視して融資を拒んでおり、独力での再建は困難な状況にあった。武田氏は窮余の策として、通信省電気試験所時代の元上司であった清宮博氏に救済を要請した。清宮氏は当時、富士通の社長を務めていたが、持病の悪化により自宅で療養中の身であった。
清宮氏と武田氏の間には1950年代からの師弟関係があり、エレクトロニクス分野の研究開発をめぐって長年にわたる信頼が築かれていた。清宮氏は富士通社内の反対意見を調整し、「銀行には資金面の協力を求め、富士通は経営の指導を行う」という方針でタケダ理研の救済を決定した。富士通は同社への出資と経営人材の派遣を決め、タケダ理研は信用を回復して銀行からの救済融資も確保することができた。
清宮氏は救済が正式に決定した後、川崎の富士通病院から武田氏を呼び「いろいろ大変だったよ」と語ったという。清宮氏は翌1976年4月に逝去しており、死に至る病床にあったからこそタケダ理研の再建を推したのだという声もあった。武田氏が30歳から50歳までの20年間を注いだ会社の存続が、かつての上司の最晩年の決断に懸かっていたことになる。
1976年2月、富士通から派遣された海輪利正氏がタケダ理研の社長に就任し、実質的な経営再建が始まった。海輪氏が就任直後に直面したのは、従来のタケダ理研には原価計算が存在しないという事実であった。研究開発型ベンチャーとしての技術偏重が、採算管理の欠如という形で経営の根幹を蝕んでいたことが明らかとなった。
海輪社長はまず機種別の原価管理を導入し、営業人員による値引きを禁止するなど、原価管理と販売体制の改革を推進した。事業面では、赤字転落の一因となったミニコンピュータによる計測器事業からの撤退を決定し、経営資源をICテスタの新製品開発に集中させた。ICの技術革新が加速する中で、新製品比率の向上を最重要指標として位置づけた。
この集中投資の成果は数字に表れた。売上高に占める新製品比率(発売後1年未満の製品)は、1976年時点の4%から1981年度には45%へと急伸した。ICテスタ分野で次々と新製品を投入することで半導体メーカーの技術革新に追従する体制が整い、タケダ理研は計測器の中堅メーカーからICテスタの専業メーカーへと事業構造の転換を果たした。
経営再建の過程で特徴的だったのは、富士通が出資者・経営指導者であると同時に、タケダ理研の主要顧客でもあった点である。1980年3月期の販売高のうち22.6%が富士通向けであり、富士通は自社の半導体事業にタケダ理研のICテスタを積極的に採用することで、製品の販路としても再建を下支えした。
ICテスタの販売拡大により業績は着実に改善し、タケダ理研は1983年2月に東京証券取引所第2部に株式上場を果たした。上場前の1982年3月期には、売上高の30%が日立製作所向け、26%が富士通向けであり、国内大手半導体メーカー2社が主要顧客として定着した。上場をもって富士通主導の経営再建は一つの区切りを迎えた。
この再建過程でタケダ理研は、研究開発型ベンチャーから管理体制を備えた上場企業へと脱皮を遂げた。原価計算の不在という創業期の欠陥が是正される一方、売上の過半を富士通・日立の2社に依存する顧客集中の構造が形成された。ICテスタという製品の特性上、顧客の半導体投資サイクルに業績が連動する事業構造は、この再建期に確立されたものであった。
この再建劇で構造的に興味深いのは、富士通が出資者・経営指導者・最大顧客の三つの役割を同時に担った点である。通常の救済出資であれば資金注入と経営監視にとどまるが、富士通は自社の半導体事業でタケダ理研のICテスタを採用することで売上の確保まで保証した。海輪社長が発見した「原価計算が存在しない」という事実は、技術偏重ベンチャーの構造的欠陥を端的に示しており、再建の本質は新製品開発以前に、経営管理という基本インフラの構築にあった。
私は、手術のあと自宅で療養をしておられた清宮さんを訪ねました。そしてタケダ理研救済をお願いしました。しばらくして、清宮さんから「富士通の中にもいろいろ意見があったが、銀行には資金面の協力をしてもらい、富士通は経営の指導をやろう」という答をいただきました。清宮さんの尽力で、経営陣に人材を派遣していただくなど、タケダ理研の再建に富士通の協力を得られることになりました。清宮さんには、銀行との調整など、いろいろお骨折りを願いました。
タケダ理研を救っていただくことが正式に決まったあと、川崎の富士通病院におられた清宮さんに呼ばれました。「いろいろ大変だったよ」と言われた時の清宮さんの暖かい眼差しは今でも忘れられません。私が30歳から50歳までの20年間、精魂をこめたタケダ理研が、生き延びることになったのです。いくら感謝しても感謝し切れません。
清宮さんは、翌年亡くなられました。死に至る病の床にあったからこそ、タケダ理研の再建に手を貸そう、という清宮さんの意見が富士通の人たちを動かしたのだとも聞きました。
富士通がアドバンテスト株から得た売却収入は合計1,429億円にのぼり、1,000億円超の売却益を確保したと推定される。病床の社長が情義で決断した救済出資が40年後に巨額のリターンを生んだが、当初は原価計算すら存在しない企業の再建という不確実性の高い案件であった。この投資回収は出資者が同時に最大顧客・経営指導者でもあったという特殊構造なくしては実現しがたく、事業シナジーを伴う戦略的出資だったからこそ成立した点に本質がある。
1983年2月、タケダ理研は東京証券取引所第2部に株式を上場し、富士通主導の経営再建を完遂した。上場直前の1982年6月期における株主構成は、筆頭株主の富士通が28.00%を保有する一方、創業者の武田郁夫氏はわずか5.68%にとどまっていた。1975年のクーデターで株式の大半を放出させられた結果であり、自ら創業した会社の支配権を既に喪失した状態での上場であった。
上場時の事業面では、1981年度時点でLSI向けテスター市場(グローバル市場規模約1,000億円)においてタケダ理研は世界シェア3位(9.5%)を確保していた。トップシェアは米フェアチャイルド社が握っていたが、タケダ理研は1975年時点のシェア4位から着実に順位を上げ、ICテスタの専業メーカーとして世界市場での地位を確立しつつあった。
上場前の1982年3月期における売上構成は、日立製作所向けが30%、富士通向けが26%を占め、国内大手半導体メーカー2社で売上の過半を占める顧客構造であった。ICテスタは半導体の製造工程に不可欠な検査装置であり、顧客の半導体投資サイクルに業績が連動する事業特性を持つ。この顧客基盤は、富士通による再建期に形成されたものであった。
国内の電子計測器メーカーとしては、タケダ理研のほかに横河電機、アンリツ、安藤電気、岩崎通信機、松下通信工業の5社が存在していた。この中でタケダ理研はICテスタという成長市場に特化することで差別化を図り、電子計測器業界の中で独自の地位を築いた。1985年9月には東京証券取引所第1部への昇格を果たしている。
上場後も富士通はアドバンテストの筆頭株主であり続けたが、2005年に保有比率20.45%のうち一部を売却して899億円を回収した。さらに2017年には残る11.35%の全株式を530億円で売却し、1976年から約40年にわたって続いた資本関係を完全に解消した。取得価額は非開示だが、合計1,429億円の売却収入から1,000億円を超える売却益を確保したと推定される。
富士通にとってアドバンテストへの出資は、病床の社長が決断した救済案件から始まったものであった。約40年の資本関係を通じて経営再建と事業成長を見届けた上での段階的な株式売却は、事業会社による長期投資の一つの形といえる。一方でアドバンテストにとっては、筆頭株主の離脱により名実ともに独立した経営体制への移行が進むこととなった。
| 株主名称 | 保有比率 | 備考 |
| 富士通 | 28.00% | タケダ理研の再建を支援 |
| 兼松江商 | 10.80% | - |
| 埼玉電子研究所 | 9.79% | - |
| 東京リース | 8.00% | - |
| タケダ理研従業員持株会 | 6.09% | |
| 武田郁夫 | 5.68% | アドバンテスト創業者 |
富士通がアドバンテスト株から得た売却収入は合計1,429億円にのぼり、1,000億円超の売却益を確保したと推定される。病床の社長が情義で決断した救済出資が40年後に巨額のリターンを生んだが、当初は原価計算すら存在しない企業の再建という不確実性の高い案件であった。この投資回収は出資者が同時に最大顧客・経営指導者でもあったという特殊構造なくしては実現しがたく、事業シナジーを伴う戦略的出資だったからこそ成立した点に本質がある。