タケダ理研工業株式会社を設立
武田郁夫氏が創業・計測器期に後発参入
政府機関である「通信省電気試験所」に勤務していた武田郁夫氏(当時30歳)は、日立や三菱などの大企業が出がけない「計測分野」に着目。1954年に研究開発型ベンチャー企業としてタケダ理研工業(現アドバンテスト)を創業。創業地は武田氏の出身地である豊橋市内とした。
武田氏は1975年に社内クーデータによって解任されるまで、タケダ理研の創業者として経営トップを歴任した。この間、研究開発型ベンチャー企業として経営し、ICテスターの開発に成功するなど、現在のアドバンテストの主力事業を創出した。
ただし、1954年の創業時点において、すでに日本国内では横河電機・山武ハネウェル・北辰電機の3社が戦前から工業計器の領域に参入しており、タケダ理研は後発参入に相当した。このため、1970年代にICテスタを開発して半導体製造装置(検査装置)に参入するまでは、計測器の中堅企業として成長を遂げた。
豊橋の名門実業家の家系に生まれた武田郁夫氏
武田郁夫氏の祖父は明治時代に豊橋鉄道や発電会社を創業した実業家・武田賢治氏であり、実家からの金銭的な支援もあったものと推察される。
日時 | 経歴 | 備考 |
1923年4月 | 生まれ(愛知県出身) | 祖父は武田賢治氏・鉄道会社や電力会社を創設 |
1945年9月 | 日本大学理学部電気工学科卒業 | - |
1945年10月 | 通信省電気研究所・入所 | - |
1948年 | 電電公社電気通信研究所・転籍 | |
1954年 | タケダ理研工業・社長 | 3現アドバンテストを創業・当時30歳 |
1975年 | ダケダ理研工業・会長 | クーデターにより社長から失脚 |
2012年7月 | 逝去 | 89年にて逝去 |
昭和29年に私を含めて3人でスタートしたタケダ理研は、今でいう研究開発型企業として、急成長しました。測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな製品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました。広い世の中で他にない商品なら、価格競争する必要もありません。商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いしたのです。
零細企業なのに米国GEの副社長が訪れてきたり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました。タケダ理研の技術は高く評価されていたのです。
東京に本社移転
1957年2月にタケダ理研工業は本店を愛知県豊橋市から東京都板橋区に移転。1959年には改めて本社および工場を東京都練馬区旭町(1-32-1)に移転し、創業地である愛知県豊橋ではなく、首都圏における生産販売体制を構築した。
ミニコンピュータによる計測器の開発に投資
国産初のICテスタ「T320」を発売
集積回路(IC)の普及に合わせ、アドバンテストは半導体のテスタ装置に着目。通産省からの補助金をえて、4年の研究を経て1972年に国産初となる集積回路向けのテストシステム「T320」を発売。電卓やカラーテレビに使用される半導体のテスタとして注目を集める。
コンピュータ計測事業で失敗・最終赤字に転落
1973年のオイルショックによって、1975年3月期にアドバンテストは創業後初となる赤字(売上高80億円・最終赤字1億円・有利子負債50億円)に転落。
武田郁夫氏が解任(社内クーデター)
創業者の武田郁夫はコンピューター分野に着目して研究開発投資を行っていたが、メインバンクは財務リスクが高いことや、銀行から派遣されたアドバンテストの常務と武田郁夫のコミュニケーションがうまくいかなかったことも災いし、メインバンクは融資を拒んで創業者の退任を要求するに至った。
富士通が救済支援・ICテスタに注力
富士通の清宮社長が救済を決定
1976年に武田郁夫氏はアドバンテストを研究開発型の企業として存続させるために、電機試験所時代の元上司であった清宮博氏(せいみや・ひろし|富士通・当時社長)に相談。1950年代に武田氏は清宮氏からエレクトロニクスに関する研究開発で、研究姿勢などの指導を受けており、長年にわたって信頼関係が存在した。
なお、清宮氏は1974年から1976年まで富士通の社長を歴任したが、持病の悪化により1976年4月に逝去した人物であった。すなわち、武田氏がタケダ理研の救済を相談した段階で、清宮氏は病床に伏しており、残されたタイムリミットに限られた状況であった。
富士通の清宮社長は、元部下であり起業家でもある武田郁夫氏を評価。富士通としてタケダ理研の救済を決定し、同社への出資を決定した。富士通の支援によってタケダ理研は信用を回復し、銀行からの救済融資を受けて倒産を回避するに至った。
富士通による経営再建・原価計算の精緻化とICテスタへの集中投資
1976年2月にタケダ理研の社長として、富士通から派遣された海輪利正氏が就任した。以後、タケダ理研は、実質的に富士通によって経営再建に着手した。
社長就任直後に海輪社長は、従来のタケダ理研において原価計算が存在しなかったことを問題視した。そこで、採算を明確にするために、機種別の原価管理を開始。販売面においても営業人員による値引きを禁止し、原価管理および販売の改革を実施した。
事業面においては、赤字転落の原因となったミニコンピュータによる計測器事業から撤退し、ICテスタの新製品開発に注力。ICの技術革新に対応するために、新製品比率(発売後1ヶ月未満の製品と定義)の向上を目指し、1976年時点の売上高に占める新製品比率4%から、1981年度には同45%へと増加した。なお、1980年3月期時点における販売高のうち、22.6%が富士通向けであり、富士通が半導体事業の遂行にあたってタケダ理研の製品を採用することで、顧客としても経営再建を支援した。
ICテスターの販売拡大によって、タケダ理研は業績を改善。1983年2月に東京証券取引所第2部に株式上場し、富士通による再建を完遂するに至った。株式上場前の1982年3月期において、売上高の30%が日立製作所、同26%が富士通向けであった。
私は、手術のあと自宅で療養をしておられた清宮さんを訪ねました。そしてタケダ理研救済をお願いしました。しばらくして、清宮さんから「富士通の中にもいろいろ意見があったが、銀行には資金面の協力をしてもらい、富士通は経営の指導をやろう」という答をいただきました。清宮さんの尽力で、経営陣に人材を派遣していただくなど、タケダ理研の再建に富士通の協力を得られることになりました。清宮さんには、銀行との調整など、いろいろお骨折りを願いました。
タケダ理研を救っていただくことが正式に決まったあと、川崎の富士通病院におられた清宮さんに呼ばれました。「いろいろ大変だったよ」と言われた時の清宮さんの暖かい眼差しは今でも忘れられません。私が30歳から50歳までの20年間、精魂をこめたタケダ理研が、生き延びることになったのです。いくら感謝しても感謝し切れません。
清宮さんは、翌年亡くなられました。死に至る病の床にあったからこそ、タケダ理研の再建に手を貸そう、という清宮さんの意見が富士通の人たちを動かしたのだとも聞きました。
LSI向け検査装置「100MHzテストシステム」を開発
1979年にアドバンテストは、電電公社(現NTT)の武蔵野電気通信研究所と共同開発したICテスターとして「100MHzテストシステム」を開発した。
同システムによって、1981年までにアドバンテストはICのテスターにおいて先発のフェアチャイルド社に次ぐ世界2位(シェア12.8%)を確保。フェアチャイルド社は40.5%のシェアを確保しており独走していたが、タケダ理研は1975年時点のシェア4位から、1981年時点でのシェア2位へと台頭した。
東京証券取引所第2部に上場・再建完了
株式上場により再建を完遂・富士通は売却益1000億円超を確保
タケダ理研は1983年2月に東京証券取引所第2部に株式を上場。創業者である武田郁夫氏は1975年のクーデターによって株式の大半を放出しており、上場直前の1982年6月期における株主構成は筆頭株主が富士通(28.00%)であり、武田郁夫氏は5.68%を保有するに限られていた。
なお株式上場後も筆頭株主の富士通はアドバンテストの株式を保有。2005年に富士通はアドバンテストの一部の株式を売却(売却額899億円・売却前の保有比率20.45%)し、2017年に全株式を売却(売却額530億円・売却前の保有比率11.35%)し、1976年から続いていた資本関係を解消した。
富士通によるアドバンテスト株式の取得価額は不明だが、1000億円以上の売却益を確保したと推定される。
世界シェア3位を確保
1981年度の時点で、LSI向けテスターの市場(市場規模はグローバルで約1,000億円)において、タケダ理研は世界シェア3位(9.5%)を確保。世界トップシェアはフェアチャイルドが確保していたが、タケダ理研は世界市場に食い込んだ。
なお、電子計測器の国内メーカーとしては、タケダ理研(アドバンテスと)のほかに、横河電機、アンリツ、安藤電気、岩崎通信機、松下通信工業の6社が存在しており、アドバンテストは「ICテスター」の市場を確保することで、電子計測器業界の新興企業として認知された。
株主名称 | 保有比率 | 備考 |
富士通 | 28.00% | タケダ理研の再建を支援 |
兼松江商 | 10.80% | - |
埼玉電子研究所 | 9.79% | - |
東京リース | 8.00% | - |
タケダ理研従業員持株会 | 6.09% | |
武田郁夫 | 5.68% | アドバンテスト創業者 |
群馬工場を新設
商号を株式会社アドバンテストに変更
Advantest (Singapore) Pte. Ltd.を設立
アジア市場の重視を宣言
1990年代を通じて、DRAMを中心とした半導体生産の拠点は、日本から韓国・台湾に遷移しつつあった。そこで、アドバンテストはアジア市場を重視する「アジアへ思い切ったパワーシフトを」という方針を掲げ、アジアで販売拠点を充実させる方針を打ち出す。
半導体検査装置で世界シェア約40%
群馬R&Dセンターを新設
北九州R&Dセンターを新設
市況悪化により赤字転落
半導体の市況悪化により、729億円の赤字に転落。だが、2009年3月期時点のアドバンテストは無借金経営のため、財務体質に大きな影響は無し
3期連続の赤字転落
市況好転により過去最高益を達成
台湾・中国・韓国における半導体生産が拡大した結果、アドバンテストの業績も好転。2023年3月期には過去最高の純利益1712億円を記録した。