1945年の終戦時に18歳だった船井哲良は、自分で商売を立ち上げることを決意し、ミシン事業に注目した。船井哲良の両親がミシン関連の事業に従事していたこともあり、1951年に「船井ミシン商会」を創立して卸売りに参入した。
しかし、開業直後に不渡手形の事故に遭うなど、順風満帆とは言えなかった。ただし、不渡の経験から現金の重要性を痛感し、輸出事業であれば「輸出時に代金回収できる」ことを知り、ミシンの輸出に注力することを決めた。
輸出は順調だったものの、競合を含めて、日本からのミシンが大量にアメリカに輸出されたことで貿易摩擦が発生するなど、ミシン輸出を取り巻く環境は厳しくなっていった。
従来のミシンではなく、当時普及しつつあった「トランジスタラジオ」などの電機製品の製造・輸出にシフトするため、船井ミシン商会から「製造部門」を独立させる形で、船井電機を大阪市生野区設立した。この時、トランジスタラジオでも貿易摩擦が問題視されつつあったが、船井電機は「アメリカ統治下の沖縄で生産する」という奇策を実行し、トランジスタの製造・輸出を軌道に乗せた。
その後、労働力が豊富で人件費の安い日本国内の地方に、子会社として複数の工場を新設して生産を移管した。1964年に中国船井電機(広島県)、、1966年に徳島船井電機(県内に3工場を新設)、1969年に岡山船井電機(岡山県津山)をそれぞれ設立している。
販売面ではGEなどの海外メーカーのOEMに徹し、創業者が裸一貫で取引先を開拓した。
この結果、日本国内で生産したラジオやオーディオ機器を、北米に輸出するOEMメーカーに転身した。
1971年のニクソンショックによって円高ドル安が進行すると、北米輸出のために日本国内に製造拠点を7工場(従業員約1600名)運営していた船井電機の経営に大きな影響を与えた。
そこで、創業者の船井哲良は国内工場におけるリストラを含めた再編を実施した。
しかし、労働組合が工場の閉鎖に反対するなど、企業経営に大きな支障となった。このため、1990年代に問題が解決するまで、船井電機は労働組合との闘いを強いられた。
労務問題に苦労する一方で、このリストラの過程で、船井電機には「危機体質」が組織に染み渡ったという。
工場の生産性を向上させるために、船井電機は幹部100名をトヨタ自動車の工場に派遣した。この取り組みを経て、船井電機で独自の生産システム(Funai Production System = FPS)が構築されるきっかけとなった。
1983年度に船井電機は主力のオーディオ機器(売上高の89%を占めていた)の販売が不振となり、4億円の計上赤字に転落した。
そこで、1983年からはオーディオ機器ではなく、VTR(ビデオ機器)に注力する方針を決定した。1980年代を通じて船井電機はVTRの製造を進め、1987年には売上高の65%をVTRが占めるようになった。部品を内製化することによって、コストダウンも目論んだ。
販売面では、1987年からは国内での販売に参入したが、こちらはすでに大手電機メーカーが流通網を掌握しており、販売拡大に苦戦した。
労働組合との問題が決着し、国内の製造拠点を1990年代までに300名に縮小。船井電機は再び事業経営にコミットした。すでに、円高ドル安が進行していたため、船井電機は生産拠点として中国・広東省を選択し、委託加工工場を3つ新設してVTRの生産を開始した。
以降、船井電機は中国における工場を拡大し、最盛期の2005年頃には委託工場で1.9万名を擁するメーカーとなった。
船井電機はウォルマートとの取引を開始し、1999年には全米2500店舗でビデオデッキ100万台をわずか5時間で完売させたことにより、ウォルマートからの信頼を獲得した。これ以降、船井電機はウォルマートとの取引を本格化させ、同社の収益事業に育て上げた。以後、船井電機はテレビ・液晶テレビなどの競争の激しい製品ではなく、DVDなどの付属品を中心に製品展開することで、競合他社との住み分けを図った。
船井電機はOEM生産のために、ブランドが弱いという弱点があったため、米国の老舗家電メーカー「エマーソン」(1993年破綻)の商標を取得してテレビを売り出すなど、ブランドを自前で用意するOEMメーカーとして支持された。
生産面では、船井電機は中国の生産拠点に、FPS(Funai・Production・System)を導入することで、生産現場の改善を継続した。この結果、巨大流通業者の納入要望にもスピーディーに対処できるようになり、船井電機がウォルマートと取引を継続できる1つの強みとなった。
ウォルマート向けのDVD関連機器などのAV機器が順調に販売を重ね、2005年3月期に船井電機は売上高3830億円、経常利益366億円を計上し、過去最高収益を達成した。この時期には、液晶テレビや、DVDレコーダーといった新製品が次々と世の中に送り出されており、旺盛な需要が存在したことが功を奏した。
日本国内では老舗家電メーカーの三洋電機が同じ時期に経営危機に陥る一方、躍進を遂げる船井電機に注目が集まり、経済雑誌などでは「世界のフナイ」として賞賛された。
リーマンショックによる経済不況や、DVDなどの新型のAV機器の需要が一巡したことを受けて、2009年以降の船井電機は売上の低迷に悩んだ。
船井電機は創業者のトップダウンで、液晶テレビの製造販売に注力する方針を示したが、この領域はサムスンなどの競合が多く、船井電機が容易にシェアを確保できる市場ではなかった。加えて、DVD関連機器では100%の部品内製化を達成していたが、液晶テレビの部品内製比率は半分以下であり、収益性が低いことも問題であった。
このため、船井電機は減収減益の傾向に歯止めがかからなくなり、2010年代を通じて業績が極度に悪化した。船井電機を称賛する声は消え去り、業績悪化とともに企業存続の危機に陥る。