売上
赤井電機:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
n/a億円
売上高:2001/11
利益
赤井電機:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
%
利益率:2001/11
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1924
4月

赤井電機製作所を個人創業

赤井舛吉氏がソケットラジオ部品を製造するために東京都港区で創業

1924年
4月
赤井電機製作所を個人創業
1929年
7月
赤井電機株式会社を設立
1947

赤井電機(2代目)を創業

戦時中に赤井電機(初代)は同業他社のとの合併により消滅した。そこで、終戦直後の1947年に赤井三郎氏(実父が赤井舛吉氏)は、赤い電機を復活させて、再び独立起業をはかった。

赤井三郎氏は1947年から1973年に急逝するまで赤井電機の経営に従事。1968年に株式上場を果たすなど、終戦直後は町工場であった赤井電機の業容拡大に貢献した。

1951
4月

テープレコーダーに参入。輸出に特化

背景

小型モータの競争激化

赤井電機はレコードプレーヤー向けの小型モーターで国内シェア90%を確保していたが、この領域に大企業(松下電器)が参入して競争が激化。部品で収益を確保することが難しくなり、赤井電機は最終製品であるテープレコーダーへの進出を決めた。

ただし、テープレコーダーには先発企業として、当時ベンチャー企業だったソニーが存在しており、赤井電機は後発参入となった。

証言
赤井三郎

戦後の再建期には、1馬力、2馬力という汎用モーターを非常に少人数でやり出したんですが、資材面で困りまして、電蓄用のフォノモーターに転向したんです。この辺は、私の独壇場の技術でして・・・。それがずいぶん当たって、日本中を席巻していたわけです。ところが、やはり松下さんあたりの安い製品に追われて、アメリカに逃げたわけですが、アメリカでは製品が非常に良いということで評判をとった。

次にテープレコーダーをやりましたが、これも形は高級品ですが、内容は大衆品という安いものが出てきたので、これもアメリカへ逃げていった。アメリカなら日本と生活レベルが違いますから、高級品に対する需要もあるわけです。

開発

縦型のレコーダーを開発

従来のテープレコーダーが横型でスペースを圧迫していたことに着眼し、赤井電機では省スペースで設置できる「縦型」のテープレコーダーを開発。先発のソニーが横型のテープレコーダーを展開していため、黄髪ながらも赤井電機の縦型の方が市場でヒットした。

この結果、赤井電機はソニーをテープレコーダー市場で凌駕した。なお、ソニーはテープレコーダーへの投資を抑制し、1955年ごろにトランジスタラジオに業態転換した。

証言
大阪経済評論 51(12)(611)

当時はソニーが「東通工」と言っていた頃で、当社がソニーをおいまくっていたもので、ソニーは次第にトランジスターラジオに生産転換していったような状況だった、と言われている。

販売

輸出に特化

テープレコーダーは高額商品であり、経済復興の過程にあった国内での需要は限られていた。そこで、赤井電機はテープレコーダーを欧米などの先進国に輸出する体制の構築を目指した。1953年に設立した赤井商事は、日本国内に駐留していた米軍向け(PX)に販売することを目論んだ。

1956年に赤井三郎氏はアメリカを訪問して、視聴覚教育を行う現地企業「キャリアフォン・ロバーツ社」への売り込みに成功した。

また、赤井電機はアメリカ向け輸出の比率が向上して値下げ圧力が高まると、アメリカ以外の欧州やアフリカなどに対する輸出も強化。特定顧客への依存度を下げることで収益を確保した。

証言
証券20(12)(237)

輸出については米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結び、高級品「アカイ」の名を広く海外に示すとともに高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。現在各国に170の代理店を設け、代理店制による販売網を確立し、戦後の民生用機器発展の時流に乗って、同社も堅実な発展を遂げ、テープレコーダー専門メーカーとしての地位を固めている。

採用

エンジニアを高待遇採用

テープレコーダーの開発および製造のために、1960年代を通じて高学歴なエンジニアを高待遇で採用。このため、赤井電機は給与水準が高い電機メーカーとして週刊誌などから注目を集めた。

証言
赤井三郎

私が人を集めようとしたときには、東大や東工大を優秀な成績で出て、大企業の研究所に入ったけれど、3年も研究に没頭していて2.5万円の給与で嫁さんももらえない、というのがたくさんいました(笑)。だから、オレのところに来い。年収200万円払うぞと宣伝したら、500人以上きました。優秀なのが・・・。そこからセレクトして良いのをとったんですが、それでうちの技術陣は確立したんです。

販売

セールスエンジニアの育成

赤井電機は自社でセールスエンジニアを育成して、顧客に対してテープレコーダーの修理をグローバルで迅速に行う体制を構築。当時のテープレコーダーはプロ向けで故障しやすい製品であったため、アフターサービスによる修理体制があることは、顧客が赤井電機のテープレコーダーを選ぶ理由になった。

結果

輸出比率95%

1969年時点で赤井電機は売上高の95%を輸出により確保。高収益な電機メーカーとして株式上場を果たした。

証言
オール大衆

猛烈高収益会社。人は赤井電機のことをそう呼ぶ。(略)

このような超優良会社も、株式公開まで、あまり国内では知られていなかった。それは製品の高旧テープレコーダーが95%まで、輸出向けで、国内市場にはあまり出回っていなかったせいである。急に有名になったのは、従業員の待遇がとびきりいい会社ということで、週刊誌などに書き立てられるようになってからで、それから海外市場で大変な人気のあるテープレコーダー・メーカーということが知られてきた。

有名になる過程がソニーなどとは大分対照的だったので、それだけにアカイの株式公開は、最近の株式市場に異様な興奮を巻き起こしたのである。

1957
8月

生産設備に積極投資。輸出に注力

1957年
8月
第2次工場拡張計画(本社工場に新棟)
1959年
8月
第3次工場拡張計画(本社工場に新棟)
1961年
8月
第4次工場拡張計画(本社工場に増設)
1967年
4月
第5次工場拡張計画(本社工場に新棟)
1968
11月

東京証券取引所第2部に株式上場

企業経営の透明性を高めるために株式上場を選択。財務体質は良好で、売上高純利益率12.8%(FY1968)の高収益企業として注目を集めた。

1973
12月

赤井三郎氏が社長在任中に急逝

実質創業者である赤井三郎氏が年末のスキー旅行の際に急逝。後任社長をめぐる後継争いなどが発生し、赤井電機の経営は迷走。1981年に三菱銀行出身の社長が就任して銀行支援を受けに至った。

1975
11月

ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化

背景

オーディオ輸出の競争激化

1970年代を通じて、赤井電機以外の日本企業もオーディオ機器の海外輸出に注力。ソニー、パイオニア、トリオ、山水電気、ケンウッド、日本ビクターなど、様々な電機メーカーが輸出競争を本格化させたため、オーディオ業界の競争が激化した。

証言
証券20(12)(237)

今後も高級品のテープレコーダーを事業の中心とし、すでに米国から2500台の注文を受けているVTRテープレコーダーの生産体制確立を急ぎ、事業規模の拡大拡充を図っており、旺盛な需要に支えられ今後の見通しは明るいといえるが、輸出比率が各メーカーともに高く、将来の課題としては景気変動下においても比較的左右されない国内販売の需要にあると思われる。

投資

ビデオに本格参入

赤井電機はオーディオに次ぐ事業の柱としてビデオに注目。テープレコーダーと同じく、テープを小型モーターによって回転させる機構を持つため、技術的な親和性が高かった。

証言
赤井三郎

ますますノウハウで勝負したいと思います。物理的な労働では、台湾とかその他、かなわない国がいくらでもありますからね。これは、世界中の人が常識で考えていることでしょう。製品も、一般用のVTR(ビデオテープレコーダー)を今ではやっていますが、将来は伸びると思います。うちでは、基礎資材からやっていますから、世界的にポンと飛び出したような状態でいますが・・・。あるいは、将来はテープレコーダーがだんだん廃れて、VTRになるかもしれないけど、要するに磁気関係から外へは出ません。あるいは電算機があまりにも進歩してくれば、同じものですからああ言ったものに移るかもしれませんが、2〜3年はテープレコーダーとVTRでいくつもりです。

結果

利益率の低迷

1970年代を通じてビデオ事業に参入するが、日本ビクター陣営(VHS規格)とソニー(ベータマックス規格)が激しい競争を繰り広げる中で、赤井電機は規格の策定競争で出遅れたため、ライセンス付与による高収益を確保することができなかった。

赤井電機はVHSによるビデオ売上高を増出させたが、利益を確保できなかった。赤井電機の製造拠点は国内が主体であり円高ドル安の進行が収益性を圧迫した。1971年のニクソンショックに続き、1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行すると、赤井電機は赤字計上と人員削減を余儀なくされるなど、危機的な状況に陥った。

結果

赤字転落。人員削減へ

赤井電機の製造拠点は国内(大田区の本社向上)が主体であり円高ドル安の進行が収益性を圧迫した。

1971年のニクソンショックに続き、1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行すると、赤井電機の業績が悪化。1980年代を通じて人員削減や減給を余儀なくされるなど、危機的な状況に陥った。

1981
1月

三菱銀行が経営支援

円高の進行でビデオとオーディオ機器の輸出が不振。資産売却が要に

1981年
11月
三菱銀行出身の社長就任
1983年
11月
減収減益
1986年
2月
三菱電機への第三者割当増資を発表
1985年
11月
最終赤字67億円を計上
1990年
5月
人員削減
1995
2月

セミテックグループが経営支援

三菱電機が再建を断念。香港系企業のセミテック社が支援へ

2000
民事再生法の適用申請(倒産)
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