1924年〜 輸出特化型音響機器メーカーとしての成長を遂げた確立期
- 1924年赤井電機製作所を個人創業
- 1929年赤井電機株式会社を設立
- 1935年自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始
- 1947年赤井電機(2代目)を創業
- 1947年本社を東京都大田区に移転
- 1948年汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始
- 1951年テープレコーダーに参入。輸出に特化
赤井電機の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
ソケットラジオ部品から始まった創業と戦後における事業再興の道筋
同社の起源は1924年、赤井舛吉が東京港区で当時需要が急拡大していたソケットラジオ部品の製造を始めたことに遡る。ラジオ放送の黎明期に合わせた部品事業の立ち上げは、当時としては先見性に富んだ選択だったといえる。しかし戦時中の企業統合の波のなかで、初代の赤井電機は一度その姿を消した。戦後の1947年には創業者の子である赤井三郎が事業を再興し、レコード向け小型モーターの製造で新たな歩みを始めている。戦前の知見と戦後の技術が二代目によって受け継がれた形である。創業期のソケットラジオ部品事業そのものは、当時の日本で芽生えつつあった大衆向け電子機器需要を的確に見据えたものだった。先駆性と時代の波が重なった絶妙の船出だった。 [1][2]
- インベストメント 22(2)(132)(1969年5月)
- [1]1924年4月 赤井舛吉が東京都港区でソケットラジオ部品の製造を個人創業(赤井電機製作所)
- [2]本文は所在地を「東京港区」と表記。資産は「東京都港区」
フォノモーターでは国内市場を一時的に席巻したが、松下電器をはじめとする大手家電メーカーの本格参入を前に、価格競争が激化した。部品事業だけで継続的に収益を確保することは日に日に難しくなり、同社は次なる事業の柱を模索せざるを得ない状況に追い込まれた。戦後復興期の電子機器需要の拡大を追い風としつつ、独立系の中小メーカーがどう大手との差別化を図るかという命題に、同社の経営陣は取り組む必要に迫られた。モーターで培った技術を次の事業に繋げる工夫が求められていた。部品事業の限界を見切り、次の柱を模索する姿勢が、1950年代前半から経営の基調となった。
- インベストメント 22(2)(132)(1969年5月)
- [1]1924年4月 赤井舛吉が東京都港区でソケットラジオ部品の製造を個人創業(赤井電機製作所)
- [2]本文は所在地を「東京港区」と表記。資産は「東京都港区」
縦型テープレコーダーの開発と米国市場への海外輸出の本格化
1951年、赤井三郎はフォノモーターで培った技術を応用できる分野としてテープレコーダーへの参入を決断した。当時の国内市場では横型のテープレコーダーが主流だったのに対し、同社は省スペース設計の縦型テープレコーダーを独自に開発し、大手との競合を避ける位置取りで縦型に特化した。国内の限られた需要では事業の成長に限界があると見切った三郎は、早い段階から海外輸出に活路を求める方針を示し、1956年には自ら渡米して現地の販売網を直接開拓する行動に踏み切った。カリスマ的経営者自らが販路を開拓する姿勢は、当時の日本企業のなかでは異例だった。
渡米した三郎は米国のキャリアフォン・ロバーツ社との納入契約を現地で勝ち取り、同社のテープレコーダーを米国市場に送り出す最初の足掛かりを築いた。従来の日本の家電メーカーが商社経由で海外展開を進めていたのに対し、同社は現地販売代理店と直接契約を結ぶことで、中間マージンを削減しつつ高収益構造を維持するという独自の輸出モデルを組み立てた。1950年代後半の米国市場での成功が、後年の欧州やアフリカ、中東など世界各地への販売網拡大へと連なる重要な出発点となった。独自の輸出モデルが、後年の高収益体質を支える基盤として確かな形を取り始めた画期的な時期だった。現地主義を徹底する姿勢が同社の最大の強みへと育った。 [3]
- 証券 新規上場会社紹介(1968年12月)
- [3]米国市場を足掛かりに、後年は欧州・アフリカ・中東等へ販売網を拡大(代理店制による輸出特化)
- 証券 新規上場会社紹介(1968年12月)
- [3]米国市場を足掛かりに、後年は欧州・アフリカ・中東等へ販売網を拡大(代理店制による輸出特化)
高収益体質に支えられた東京証券取引所第二部への株式上場
1965年以降を通じて同社は高学歴のエンジニアを業界水準を上回る破格の待遇で採用し、製品開発力を一段と強化した。東京大学や東京工業大学の出身者に対して年収200万円という当時としては破格の条件を提示し、500名以上の応募者を集めて技術陣を組織化している。販売先は米国にとどまらず欧州やアフリカ、中東、東南アジアなど世界各地に広がり、170店にのぼる代理店網を構築することで、特定の取引先への過度な依存を回避する仕組みを整えた。技術力への惜しみない投資と、世界各地にまたがる分散型の販売網構築とが同時並行で推し進められた特異な時期だった。独立系中堅らしい思い切った経営方針だった。 [4][5]
- 現代トップ経営者の事業哲学(1968年12月)
- [4]高学歴エンジニアに年収200万円を提示して技術陣を採用(赤井三郎の証言)
- オール大衆(1969年11月)
- [5]代理店網は約170店(欧州・アフリカ・中東・東南アジア等へ販売先を拡大)
1969年時点で売上高に占める輸出比率は約9割にまで達し、国内市場にほとんど依存しない輸出特化型の事業構造へ移行した。1968年には東京証券取引所第二部への株式上場を実現し、上場時の売上高純利益率は12.8%を示している。「猛烈高収益会社」と業界内で呼ばれ、株式公開は証券市場に異様な興奮を巻き起こした。ただし輸出比率9割という極端な事業構造は為替変動への脆弱性を内包しており、この構造そのものが後年に同社の経営を直撃する宿命を抱え込んでいた。後年に同社の命運を左右するこの宿命的な弱点は、上場時点ではまだ強みとしか映っていなかった。高収益の輝きに覆い隠されていた構造上の危うさが、輪郭を帯び始めた。 [6][7]
- 大阪経済評論(1968年12月)
- [6]本文「1969年時点 輸出比率約9割」は、上場時 輸出比率 約95% と整合(おおむね一致)
- [7]上場時の売上高純利益率は12.8%
- 現代トップ経営者の事業哲学(1968年12月)
- [4]高学歴エンジニアに年収200万円を提示して技術陣を採用(赤井三郎の証言)
- オール大衆(1969年11月)
- [5]代理店網は約170店(欧州・アフリカ・中東・東南アジア等へ販売先を拡大)
- 大阪経済評論(1968年12月)
- [6]本文「1969年時点 輸出比率約9割」は、上場時 輸出比率 約95% と整合(おおむね一致)
- [7]上場時の売上高純利益率は12.8%