赤井電機 の歴史

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創業 1924年
創業者 赤井舛吉
創業地 東京都港区
創業 1924年4月、赤井舛吉氏が東京でソケットラジオ部品の製造を個人創業し(赤井電機
1924年4月、赤井舛吉氏が東京でソケットラジオ部品の製造を個人創業し(赤井電機製作所)、1929年7月に赤井電機を設立した。1935年3月からは自動車電装品やモーターへも品目を広げ、戦後の1947年に二代目の赤井三郎氏が事業を興し直している。1948年から電蓄用の小型モーターを量産したが、松下電器産業など量産で勝る大手が入ると利益が残らず、1951年にテープレコーダーへ移った。部品の下請けから完成品へ転じたその時点で、販路はすでに輸出に求めていた。
決断 利幅を守るため、売り先との間に商社を置かなかった。1956年、赤井三郎氏は自ら渡
利幅を守るため、売り先との間に商社を置かなかった。1956年、赤井三郎氏は自ら渡米して米キャリホン・ロバーツ社との納入契約を取りつけ、商社を通さず現地代理店と直接契約する輸出網を敷いた。中間マージンを負わない販路は利益率を高く保ち、1969年時点で輸出比率は約95%、代理店は世界170店に達した。先発のソニーと重ならない縦型のテープレコーダーへ絞ったことも、この販路を支えている。一方で1975年11月には家庭用ビデオへ参入したが、テープ駆動の技術は近くても規格は自前で持てず、売り先との距離を詰めて得た利幅は守れなかった。
現況 現在は法人が消え、商標だけが別々の持ち主のもとで動いている。1985年のプラザ合
現在は法人が消え、商標だけが別々の持ち主のもとで動いている。1985年のプラザ合意後の円高は輸出比率の高い赤井電機を直撃し、単体売上高は1982年11月期の908億円を頂点に縮んだ。支援の担い手は1995年に香港のセミ・テック、1999年に同じ香港のグランデへと移り、2000年3月期は1,026億円の最終赤字で債務超過に転落した。同年11月に東京地裁へ民事再生手続の開始を申請し、株式は市場から消えている。民生オーディオのAKAIはグランデが、AKAI Professionalは米国資本が引き継いだ。
競合 音質の優劣ではなく、規格を決める側に回れるかが道を分けた。テープレコーダーでは自
音質の優劣ではなく、規格を決める側に回れるかが道を分けた。テープレコーダーでは自社ブランドで米国へ輸出したソニーが先発したが、縦型という別の形をとることで市場を分け合えている。家庭用ビデオではVHSを競合他社へ供与した日本ビクターが陣営を広げて標準を確定させ、規格を持たない各社は量産の規模だけで並ぶことになった。輸出に偏った構造は円高局面でそのまま採算の薄さに変わり、1986年からは三菱電機の資本と事業支援を受け入れた。自社ブランドを海外に根づかせたソニーが本体を保ったのに対し、赤井電機は名前だけを残して法人を失った。
長期業績の推移 1965〜2001年
赤井電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1965年11月期〜1984年11月期

第1章 1924年〜 部品製造から輸出専業への転換電蓄用モーターから高級テープレコーダー輸出への特化

筆者考察y.sugiura, author

赤井電機が1968年に売上高純利益率12.8%という水準を達成したのは、テープレコーダーの技術が抜きん出ていたからではない。売る相手を国内から外したからである。先発の大手が低価格品の量産を固めていた国内では、10万円を超える機器を買う客がそもそも薄かった。赤井三郎はその市場を諦め、高級機を買う層が厚い米国へ製品を送る。商社を挟まず各国170の代理店と直接組んだのも同じ理屈で、間に立つ者が減れば、同じ製品から手元に残る利ざやが増える。ヘッドの特許を積み上げたのは、その値段を買い手に納得させるためだった。技術は高値を正当化する道具であって、高値そのものを作ったのは販路の設計である。

この設計には、利益の源が自社の外にあるという弱さが裏側に付いていた。輸出比率94.2%とは、売上高のほぼ全部を為替と各国の市況が決めるという意味である。1969年の仕向地は米国25%、東南アジア30%、欧州20%と散らしてあり、一国の不振には耐えられた。しかし、すべての国に等しく効く変数には、散らしても効き目がない。借入金を持たず、自己資本比率69.2%のうち払込資本を9.7%に抑えて内部留保を積んだ財務は、その変数が動くまでは崩れようがなく見えた。1968年の東証二部上場は、その堅さが最も高く評価された時点にあたる。従業員1,331名の会社が、輸出だけでその評価を得ていた。

単体売上高の推移 昭和40年11月期から昭和44年11月期まで(億円)

26.9 1965 52.1 1966 76 1967 107 1968 142 1969
  • 出所は赤井電機 会社年鑑(単体業績)。決算期は11月20日で年1回。
  • 1968年11月期の当期純利益は13億8,000万円で、売上高に対する比率は12.8%。

1924年〜ラジオ部品と電蓄用モーターに置いた事業の出発点

ソケットとラジオ部品の製造で創業する

赤井電機の起点は、赤井舛吉が大正13年に従業員15名ほどで興した赤井電機製作所にある。扱ったのはソケットとラジオ部品で、完成した機器ではなく、他社の製品に組み込まれる部材だった。昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社へ改め、資本金60万円の株式会社に改組する。昭和10年3月からは自動車電装品やモーター、ラジオ部品の製造へ範囲を広げた。しかし戦災で設備は失われ、事業は一度ゼロに戻った。株式会社となってからも資本金は60万円に据え置かれ、引き上げに動くのは戦後の昭和22年5月、200万円への増資を待つことになる。部品を作る会社が部品のまま終わらなかったのは、この焼け跡からの再出発が、何を作るかを選び直す機会になったからである。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [1]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [2]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [3]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [6]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [4]昭和10年3月に自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始した
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [5]赤井舛吉は大正13年からラジオ部品・ソケット等を製造していたが、戦災ですべてを失った
電蓄用モーターで戦後の生産を立て直す

戦後の再出発を率いたのは、創業者赤井舛吉の養子となった赤井三郎で、昭和22年に24歳で経営の前面へ立った。本社を東京都大田区へ移し、翌23年2月から汎用モーターと電蓄用の小型モーターの製造を始めている。テープレコーダーの駆動に使うモーター技術と、中核部品であるヘッドの開発は、同じ昭和22年から始まっている。それまで作っていた電蓄用モーターは、レコードプレーヤーを回す役目の部品である。完成機を持つ大手の調達先という位置から出られない商材だった。赤井三郎は後年、終戦直後の電蓄用モーターの生産を続けていれば今日のアカイはおそらくなかったと回想している『終戦直後には電蓄のモーターの生産をしていたが、そのままでいたら今日のアカイはまず存在していなかっただろう』。部品の納入先にとどまるのか、完成機を自前で作るのかという分かれ道は、再出発の段階でもう引かれていた。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [7]赤井三郎は創業者赤井舛吉の甥にあたる養子で、戦後の昭和22年に24歳で陣頭に立って再出発した
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [8]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [10]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [9]昭和22年よりテープレコーダーの駆動パーツであるモーター技術と、心臓部分のヘッドの開発を進めた
部品メーカーからセットメーカーへ転じる

昭和26年、赤井電機はテープレコーダーの製造に手を染め、「テープの赤井」と呼ばれる足場を得た。昭和28年には製造を本格化させ、部品メーカーから完成機メーカーへ転換する。転換を支えたのは自社で開発したヘッドの技術で、部品から一貫して作る体制が単なる組立との差になった。同じ昭和28年7月に赤井商事を設立し、国内販売を切り離して担わせた。昭和29年4月にはテープメカニズムのAT-1を世に出している。以後も昭和33年6月にステレオテープレコーダーのMS-60を投入する。昭和37年10月にはクロスフィールドヘッドを備えたM-7を出し、製品の等級を段階的に引き上げた。作る力を先に持ち、販売先を後から探すという順序が、次の輸出特化を呼び込むことになる。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [11]昭和26年にテープレコーダーを製造し、「テープの赤井」と呼ばれた
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [12]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [13]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [14]昭和28年7月に赤井商事株式会社を設立し、国内販売を担当させた
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [15]昭和29年4月にテープメカニズム AT-1 を発売した
    • [16]昭和33年6月にステレオテープレコーダー MS-60 を発売した
    • [17]昭和37年10月にクロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売した
参考文献[1]-[17]
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [1]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [2]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [3]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [6]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [9]昭和22年よりテープレコーダーの駆動パーツであるモーター技術と、心臓部分のヘッドの開発を進めた
    • [12]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [13]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [14]昭和28年7月に赤井商事株式会社を設立し、国内販売を担当させた
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [4]昭和10年3月に自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始した
    • [8]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [10]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [15]昭和29年4月にテープメカニズム AT-1 を発売した
    • [16]昭和33年6月にステレオテープレコーダー MS-60 を発売した
    • [17]昭和37年10月にクロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売した
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [5]赤井舛吉は大正13年からラジオ部品・ソケット等を製造していたが、戦災ですべてを失った
    • [7]赤井三郎は創業者赤井舛吉の甥にあたる養子で、戦後の昭和22年に24歳で陣頭に立って再出発した
    • [11]昭和26年にテープレコーダーを製造し、「テープの赤井」と呼ばれた

1956年〜米キャリホン・ロバーツ社との直接契約による輸出専業化

先発大手を避けて高級機へ絞る

輸出に傾いた理由は、国内に売り場が無かったことにある。テープレコーダーでは先発の大手が既に低価格品の大量生産を確立しており、同じ製品で並べば価格以外に競争の焦点が残らなかった。赤井電機はヘッド技術の特許を多数握っていた。部品から一貫して高度な製品を作る高級品専門メーカーとして発足したため、需要先は海外に限られた。国内で10万円を超えるテープレコーダーを買う層は薄く、高級品メーカーの少ない米国を狙ったことが当たったと赤井三郎は述べている。販売経路は赤井電機から直接海外の代理店へ渡るものと、赤井商事を経て在日米軍のPXへ納めるものの二通りに分かれた。市場を選んだというより、選べる市場が一つしか残っていなかった。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [18]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [19]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [20]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [22]販売経路は赤井電機から直接海外代理店へ販売されるものと、赤井商事へ販売されPXに納入されるものの二通りがあった
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [21]赤井三郎は、国内に10万円以上のテープレコーダーを買う層が少なく、高級品メーカーの少ないアメリカを狙ったことが図に当たったと述べた
米キャリホン・ロバーツ社と販売契約を結ぶ

赤井電機の海外展開は、米国のキャリホン・ロバーツ社との販売契約から始まり、商社を通さずに輸出だけで売る経路を得るとともに、「アカイ」を高級品の名として海外に知らしめた。高級品に絞れば業界順位はソニーに続く第2位で、シェアは年々上がった。先発との差は製品の形にも表れた。オープンリールのテープデッキは横置きが普通だったが、同社が縦置きに改めた機種は受けがよく、各国から注文が集まった。名前が海外で通るようになったことで値を高く保てるようになり、経常利益は昭和42年11月期に14億6,000万円、売上高比で19.1%を記録した。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [23]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [24]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [25]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [26]従来は横置きだったオープンリール・テープデッキを縦置きにした製品が当たり、世界中から注文が殺到して輸出企業としての基盤を築いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [27]昭和42年11月期の売上高は76億0,000万円、経常利益は14億6,000万円だった
170の代理店で販売先を世界へ散らす

販路は商社を介さず、各国に置いた代理店で組んだ。代理店の数は170に達し、代理店制による販売網が固まっている。輸出比率は昭和43年5月期の実績で94.2%を占め、国内向けは端数にすぎなかった。仕向地の構成も動いた。米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年には米国25%、東南アジア30%、欧州20%となり、世界100数カ国へ散った。昭和44年以降は輸出一辺倒の販売政策を改めて国内販売にも人手を割き、国内を担う赤井商事が同年11月に新規上場している。単一の代理店に依存した状態から、地域を分けた網へ移したことで、一国の市況が収益を左右する度合いは下がったとみられる。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [28]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
    • [29]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [30]米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年時点では米国25%・東南アジア30%・欧州20%など世界100数カ国に分散した
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [31]輸出一辺倒の販売政策から国内販売にも力を注ぐようになり、子会社の赤井商事は昭和44年11月に新規上場した
参考文献[18]-[31]
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [18]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [19]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [20]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [22]販売経路は赤井電機から直接海外代理店へ販売されるものと、赤井商事へ販売されPXに納入されるものの二通りがあった
    • [23]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [24]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [25]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [28]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
    • [29]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [21]赤井三郎は、国内に10万円以上のテープレコーダーを買う層が少なく、高級品メーカーの少ないアメリカを狙ったことが図に当たったと述べた
    • [30]米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年時点では米国25%・東南アジア30%・欧州20%など世界100数カ国に分散した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [26]従来は横置きだったオープンリール・テープデッキを縦置きにした製品が当たり、世界中から注文が殺到して輸出企業としての基盤を築いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [27]昭和42年11月期の売上高は76億0,000万円、経常利益は14億6,000万円だった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [31]輸出一辺倒の販売政策から国内販売にも力を注ぐようになり、子会社の赤井商事は昭和44年11月に新規上場した

1965年〜無借金の収益構造と、東証二部への株式公開

借入金を持たずに内部留保を積む

輸出専業の代理店直販は、収益の形にそのまま表れた。昭和40年11月期に26億9,000万円だった売上高は、昭和44年11月期には142億円へ伸びている。昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%に達した。同じ期間に当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増えた。財政の姿はさらに際立つ。借入金を持たず、現金仕入によって期末の債務が僅少であったため他人資本比率は低かった。自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%にとどまり、内部留保はきわめて厚い。資本金も昭和38年11月の4,000万円から昭和43年10月の15億円へ、5年で37倍に膨らんでいる。

  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [32]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [34]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [33]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [35]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [36]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [37]資本金は昭和38年11月に4,000万円、昭和41年10月に1億5,000万円、昭和42年7月に5億円、昭和43年10月に15億円と推移した
東証二部へ株式を公開する

昭和43年11月21日、赤井電機は東京証券取引所第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は15億円、上場株式数は3,000万株、公開株数は500万株で、公開価格は330円だった。従業員は同年5月20日現在で1,331名を数える。同期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円で、売上高に対する純利益の比率は12.8%に達した。大株主には赤井三郎の663万6,100株に次いで、専務の斎藤己之吉が116万8,000株を持った。取引金融機関は三菱銀行を筆頭に富士・大和・第一の4行が並ぶ。翌44年4月には大阪と名古屋の両市場にも公開し、昭和45年4月には東証第一部へ指定替えとなった。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [38]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [39]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [40]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [42]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [43]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [41]昭和43年11月期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円だった
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [44]昭和44年4月から大阪・名古屋市場に公開し、昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
持株の1割を幹部社員へ分ける

上場は赤井三郎個人の資産を一挙に膨らませた。持株は時価で100億円を超え、昭和45年時点の資産は260億円から270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ全国第2位の高所得者に並んだ。その持株の1割にあたる10億円相当を、上場記念として約100人の幹部社員へ贈った。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を持った。待遇も平均23歳で月額6万6,000円、賞与は年間7カ月と国内で最も高い水準にあった。報酬を株式で配ることは、成果を測る尺度を給与から外へ出す仕組みでもあった。

  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [45]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [47]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [48]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [46]昭和43年11月の株式公開時、赤井三郎は時価100億円を超える持株の1割にあたる約10億円相当を、約100人の幹部社員へ贈与した
技術を更新し続ける前提を置く

昭和44年に独自方式の「アカイフォーマット」を開発して、磁気記録装置で積んだ蓄えを映像にも広げ、翌昭和45年の時点で特許権と実用新案は国内193件、国外155件を数えた。赤井三郎は、技術革新の足が速いエレクトロニクスの分野で同じ製品を五、六年も作り続ければ自滅するしかないと述べ『エレクトロニクス業界では技術革新のテンポがはやい。同じ製品を五、六年もつづけていたら自滅を待つよりない』、技術開発とマーケティングの研究を経営の二本柱とした。高い利益率の源は、製品を入れ替えるこの速さにあった。上場した段階ではすでに米国から2,500台のVTRテープレコーダーを受注しており、それを作る体制づくりを急いでいた。この年、売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円に達している。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [49]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発した。オープンリールから始まり、磁気による記録装置に伝統的に強くノウハウを蓄積していた
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [50]昭和45年時点で特許権および実用新案は国内193件、国外155件を数え、売上げの85%がテープレコーダー、売上げの95%を輸出していた
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [51]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けており、その生産体制の確立を急いでいた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [52]昭和44年11月期の売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円だった
参考文献[32]-[52]
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [32]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [34]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [41]昭和43年11月期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円だった
    • [52]昭和44年11月期の売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円だった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [33]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [35]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [36]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [37]資本金は昭和38年11月に4,000万円、昭和41年10月に1億5,000万円、昭和42年7月に5億円、昭和43年10月に15億円と推移した
    • [38]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [39]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [40]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [42]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [43]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [51]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けており、その生産体制の確立を急いでいた
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [44]昭和44年4月から大阪・名古屋市場に公開し、昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [45]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [47]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [48]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [50]昭和45年時点で特許権および実用新案は国内193件、国外155件を数え、売上げの85%がテープレコーダー、売上げの95%を輸出していた
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [46]昭和43年11月の株式公開時、赤井三郎は時価100億円を超える持株の1割にあたる約10億円相当を、約100人の幹部社員へ贈与した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [49]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発した。オープンリールから始まり、磁気による記録装置に伝統的に強くノウハウを蓄積していた

第2章 1970年〜 ビデオへの多角化と資本再編VHS後発参入の薄利から三菱電機による資本再編へ

筆者考察y.sugiura, author

赤井電機が1980年代に失ったのは採算であって、売上高ではない。1975年に290億円だった売上高は、1980年には778億円と5年で2.7倍になっている。同じ5年で経常利益は15億円から11億円へ減った。伸ばしたのは家庭用ビデオだが、赤井電機はVHSの規格を供与する側ではなく、供与を受けて作る側に回っている。規格を握らなければ技術の使用料は入らず、残るのは量産して売った差額だけである。オーディオ時代に高値を支えたヘッドの特許は、ビデオの陣営の外に置かれた。1984年にビデオはオーディオを抜いて主力になったが、売上の順位が変わっても利益の出どころは戻らなかった。

もう一つの綻びは、売り方を変えたのに見る仕組みを変えなかったことにある。1980年前後、赤井電機は欧州の販路を代理店から自社の販売子会社へ切り替えた。代理店は売り切りの相手だが、子会社は在庫を抱え、代金の回収まで負う。それでも本社は、各子会社が出した販売計画をそのまま積んで生産計画を組み続けた。1982年11月期に海外7社のうち5社が債務超過となり、本社が32億円の特別損失を負ったのは、その帰結である。1985年に計上した67億8,000万円の赤字は1ドル240円のもとで出ており、円高はその後に止めを刺したにすぎない。三菱電機を筆頭株主に迎えた1986年の再建策は、この二つの綻びを同時に縫おうとする試みだった。

売上高経常利益率の推移 昭和50年11月期から昭和55年11月期まで(%)

5.2 1975 6 1976 4.5 1977 2.7 1978 1.3 1979 1.4 1980
  • 経常利益を売上高で除した値。出所は赤井電機 会社年鑑(単体業績)。
  • 同じ6期で売上高は290億円から778億円へ2.7倍になった一方、経常利益は15億円から11億円へ減少した。

1970年〜創業者の急逝と、人に預けた経営が残した空白

高収益の頂点で幹部が抜ける

昭和45年4月、赤井電機は東京証券取引所第一部へ指定替えとなり、同年6月の増資で資本金を30億円へ引き上げた。同期の売上高は172億円、経常利益は31億円と、いずれも創業以来の最高を記録している。しかし足元では人が抜けていた。上場記念に株式を受け取った営業部長や総務部長を含む部課長4人が、昭和44年暮れに相次いで退職している。株価が1,000円を超えたところで持株を売り、1人あたり1,500万円から6,000万円を手にしての離脱だった。報酬を株式で配る仕組みは、社員を会社に縛るどころか、辞める資金を与える装置にもなった。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [53]昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [54]昭和45年4月割当・6月払込の3分の1増資により、資本金は22億5,000万円から30億円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [55]昭和45年11月期の売上高は172億円、経常利益は31億0,000万円、当期純利益は22億2,000万円だった
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [56]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [57]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
代理店契約を打ち切り自前の販売へ移る

昭和46年11月期は、ドルショックの直撃で配当を5分下げて3割とした。売上高は187億円と伸びたものの、経常利益は前期の31億円から23億3,000万円へ後退している。同年12月には、輸出の起点だった米キャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカと赤井商事による自前の販売へ切り替えた。中途採用による即戦力の補充も続け、昭和47年には技術者を年俸250万円から400万円で募る求人を新聞に出した。売る仕組みを他社から自社へ引き取る選択は、為替と現地の在庫を自ら背負う選択でもあった。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [58]昭和46年11月期はドルショックの影響で5分減配し、配当は年3割となった
    • [61]昭和47年、技術者を年俸250万円から400万円、貿易部を月給9万円から14万円で募る求人広告を新聞に掲載した
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [59]昭和46年11月期の売上高は187億円、経常利益は23億3,000万円。前期の経常利益は31億0,000万円だった
  • 実業往来 1974年
    • [60]昭和46年12月に米国のキャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカ・赤井商事による独自の米国販売へ移行した
創業者の急逝が業績と資本の両方を動かす

昭和48年12月、赤井三郎は志賀高原でスキー中に急逝した。後任には専務の斎藤己之吉が昇格する。翌49年11月期の売上高は247億円と、中間期の見通し275億円を下回る。経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円へ半減した。欧州向けの輸出が輸入規制とコスト高で伸び悩み、材料手当ての借入金が膨らんで金利負担も倍増したためで、配当は1割の減配となる。現金払いで通していた支払いも、同年8月から3割を翌月へ繰り延べた。赤井三郎が持っていた全株の36.3%にあたる2,176万株は、3分の1が三菱グループへ渡った。三菱銀行の526万株を含む940万株が同グループの手に入る。

  • 実業往来 1974年
    • [62]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [63]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [66]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [67]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [68]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [69]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [64]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
    • [65]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
参考文献[53]-[69]
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [53]昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [54]昭和45年4月割当・6月払込の3分の1増資により、資本金は22億5,000万円から30億円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [55]昭和45年11月期の売上高は172億円、経常利益は31億0,000万円、当期純利益は22億2,000万円だった
    • [59]昭和46年11月期の売上高は187億円、経常利益は23億3,000万円。前期の経常利益は31億0,000万円だった
    • [64]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
    • [65]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [56]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [57]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [58]昭和46年11月期はドルショックの影響で5分減配し、配当は年3割となった
    • [61]昭和47年、技術者を年俸250万円から400万円、貿易部を月給9万円から14万円で募る求人広告を新聞に掲載した
  • 実業往来 1974年
    • [60]昭和46年12月に米国のキャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカ・赤井商事による独自の米国販売へ移行した
    • [62]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [63]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [66]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [67]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [68]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [69]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった

1975年〜家庭用ビデオへの参入と、規格を持たないままの量産

第二の柱を家庭用ビデオに求める

昭和50年11月、赤井電機は家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した。テープを走らせて磁気で記録する構造はオーディオと共通だった。昭和44年に開発した独自方式の「アカイフォーマット」をはじめ、固定ヘッドのビデオを手がけた蓄積もある。上場時点で米国から2,500台のVTRの注文を受けていたことも、この分野を次の収益源と見込む根拠になっていた。実際、昭和50年11月期の売上高は290億円と前期から2割近く伸びている。技術の連続性に依拠して市場を選んだ判断であり、市場の構造そのものを見て選んだ判断ではなかった。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [70]1975年11月に家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [71]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
    • [72]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [73]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けていた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [74]昭和50年11月期の売上高は290億円、経常利益は15億円だった
規格争いに後発で合流する

参入した市場では、規格の主導権を握る競争が先に始まっていた。日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を広げるのは昭和51年以降で、赤井電機の合流はそれよりも後になる。規格を供与する側に立てなければ、技術の使用料は入らず、収益は製品を量産して売った差額だけに絞られる。オーディオ時代に競争の焦点だったヘッドの特許は、家庭用ビデオでは陣営の外側に置かれた。昭和49年11月期に売上高の81%を占めていたテープレコーダーは、10年後に主力の座を明け渡すことになる。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [75]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
    • [76]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [77]赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有し、それを活かした高級品専門メーカーとして発足していた
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
    • [78]昭和49年11月期の単体売上構成はテープレコーダー200億1,900万円(81%)、スピーカー・アンプ43億9,200万円(18%)、その他3億0,200万円(1%)
売上を倍にしても利益が伸びない

量産で追う方針は売上高に表れた。昭和50年11月期の290億円は、昭和55年11月期には778億円へと5年で2.7倍に膨らんでいる。だが経常利益は同じ5年間で15億円から11億円へ減った。昭和54年11月期の経常利益は7億円まで落ち、売上高526億円に対する比率は1.3%にとどまる。昭和59年11月期にはビデオが436億6,900万円で売上高の55%を占め、オーディオの364億0,100万円を抜いて主力に立った。主力が入れ替わっても採算は戻らず、規模の拡大が利益の拡大につながらない構造がここで固まった。

  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [79]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [80]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [81]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
    • [82]昭和59年11月期の単体売上構成はビデオ436億6,900万円(55%)、オーディオ364億0,100万円
参考文献[70]-[82]
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [70]1975年11月に家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した
    • [75]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
    • [76]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [71]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
    • [72]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [73]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けていた
    • [77]赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有し、それを活かした高級品専門メーカーとして発足していた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [74]昭和50年11月期の売上高は290億円、経常利益は15億円だった
    • [79]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [80]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [81]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
    • [78]昭和49年11月期の単体売上構成はテープレコーダー200億1,900万円(81%)、スピーカー・アンプ43億9,200万円(18%)、その他3億0,200万円(1%)
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
    • [82]昭和59年11月期の単体売上構成はビデオ436億6,900万円(55%)、オーディオ364億0,100万円

1981年〜海外販売子会社の破綻と、円高が崩した輸出採算

代理店を販売子会社へ切り替える

昭和55年前後、赤井電機は主戦場の欧州で販売のかたちを変えた。それまでの代理店に代えて、自社の販売子会社を置いたのである。代理店は売り切りの相手だが、販売子会社は在庫を自ら抱え、代金の回収まで負う。現地化の形だけは整えており、昭和55年に設立したアカイ・ドイツでは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質の責任者に据えた。この切り替えは、売る力を手元に引き寄せる代わりに、現地の資金繰りと在庫の負担を本社の決算へ直結させるものだった。同じ昭和55年11月には転換社債の株式転換で資本金が32億1,100万円へ積み上がっている。経営の形を変えたのに、見る仕組みを変えなかったことが後に響く。

  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [83]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [84]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [85]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [86]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [87]昭和55年11月20日の転換社債の転換により43万4,000株が増加し、資本金は32億1,100万円となった
海外子会社の債務超過が本社の決算を崩す

昭和57年11月期の決算で、海外子会社7社のうち5社が債務超過に陥った。米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェーの5社で、処理のため本社が32億円の特別損失を計上している。欧州では、後から参入した三洋電機、シャープ、松下電器などの日本メーカーが投げ売りに走り、VTRの価格は20%から30%下落し、赤井電機も値下げで対抗したが、本社は現地法人の売掛金も在庫も実態をつかめていなかったと鈴木礼三常務は述べている『現地の売掛金や在庫の状況が本社で全くつかめなかった』。海外の子会社が出す販売計画を本社は手を加えずに合算し、それを生産計画としていた。損益は昭和56年11月期にはもう経常段階で18億円の赤字に陥っており、続く昭和57年11月期の当期純損失は62億円まで拡大した。

  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [88]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [89]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [90]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [91]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [92]昭和56年11月期の経常損益は18億円の赤字、当期純損失は6億円。昭和57年11月期は経常損益14億円の赤字、当期純損失62億円だった
円高が輸出偏重の採算を崩す

昭和60年11月期、赤井電機は税引損益の段階で67億8,000万円の赤字を計上した。この期の為替は1ドル240円で、円高が本格化する前の水準である。輸出比率は87.0%に達しており、採算の前提そのものが海外市況に預けられていた。赤字を埋めるため本社工場の一部を売却し、15億2,200万円の売却益を立てて債務超過を回避した。同期を最後に配当は止まり、無配が続くことになる。前期にあたる昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円で、規模の割に薄い利益しか残っていなかった。円高は引き金であって原因ではなく、円高の前から赤字が出ていた事実が、採算の崩れは為替より前にあったことを示していた。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [93]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [94]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [95]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [96]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [97]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [99]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [98]昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円、当期純利益は7億円だった
三菱電機を筆頭株主に迎える

提携の下地は前年に敷かれていた。昭和60年10月、赤井電機は三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面へ広げると発表している。昭和61年2月には、三菱銀行の常務やダイヤモンドコンピューターサービス社長を務めた岡田眞が社長に就任し、再建策を示した。中核は、三菱電機を引受先とする第三者割当増資400万株で同社を筆頭株主に迎えることで、増資を含む再建計画は同年6月に発表される。1ドル160円で利益の出ない機種の生産を取りやめ、赤字の海外販社を閉鎖し、生産拠点を集約して人員規模を詰めることが再建策の内容だった。掲げた目標は、売上高の構成をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつに割り、国内販売比率を30%まで引き上げることである。輸出で伸びた会社が、輸出を減らす方向へ舵を切った。

  • 日本経済新聞 1985年10月23日
    • [100]1985年10月、三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面で強化すると発表した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [101]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [103]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [104]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
    • [102]1986年6月、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表した
海外の販社を畳み、国内は三菱電機の販売網へ載せる

昭和61年末、赤井電機はアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も引き上げた。減った輸出は国内で埋める算段だった。しかし国内のオーディオ市場はミニコンポやCDラジカセが主流となる。1ロット2万台で作る側と10万台から20万台で作る側とでは、金型への投資効率が違いすぎた。昭和62年4月には国内向けオーディオの開発と生産を三菱電機と統合した。9月から統一ブランド「A&D」で全国4,000店の販売網に載せたが、新ブランドの定着は進まない。輸出比率は昭和62年11月期に78.3%まで下がったが、翌63年11月期には82.3%へ戻っている。昭和63年12月には、かつて売上高の20%以上を占めた北米向けAV機器の輸出停止を決めた。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [105]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [106]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [107]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [108]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [109]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [110]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [111]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
    • [112]1988年12月、AV機器の北米向け輸出を1989年1月に停止する方針を決めた
参考文献[83]-[112]
  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [83]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [84]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [85]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [86]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [88]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [89]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [90]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [91]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [87]昭和55年11月20日の転換社債の転換により43万4,000株が増加し、資本金は32億1,100万円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [92]昭和56年11月期の経常損益は18億円の赤字、当期純損失は6億円。昭和57年11月期は経常損益14億円の赤字、当期純損失62億円だった
    • [98]昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円、当期純利益は7億円だった
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [93]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [94]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [95]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [96]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [97]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [99]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [101]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [103]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [104]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [105]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [106]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [107]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [108]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [109]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [110]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [111]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
  • 日本経済新聞 1985年10月23日
    • [100]1985年10月、三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面で強化すると発表した
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
    • [102]1986年6月、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表した
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
    • [112]1988年12月、AV機器の北米向け輸出を1989年1月に停止する方針を決めた

第3章 1989-2000 (気が向いたら執筆します!) 北米向け輸出の停止とセミテック傘下入りから、債務超過と民事再生申請まで

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歴史年表 1924〜2000年

赤井電機の沿革1924〜2000年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1924〜1969年輸出特化型音響機器メーカーとしての成長を遂げた確立期赤井電機製作所を個人創業★
赤井電機を設立★
自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始★
赤井三郎赤井電機(2代目)を創業★
赤井三郎本社を移転★
赤井三郎汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始★
赤井三郎商社を通さぬ現地直販に着手した、輸出特化の事業モデルの確立

1956年、赤井三郎社長が自ら渡米して米キャリホン・ロバーツ社と販売契約を直接結び、商社を通さず現地代理店と結ぶ輸出特化モデルを敷いた経営判断。縦型テープレコーダーで先発のソニーと競合しない位置を取り、世界各国の代理店網で高収益を築いた。

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★★★
赤井三郎赤井商事を設立★
赤井三郎テープメカニズム AT-1 を発売★★
赤井三郎ステレオテープレコーダー MS-60 を発売★
赤井三郎第4次工場拡張で4階建組立工場を増築★
赤井三郎4階建プレス組立工場を新築★
赤井三郎クロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売★
赤井三郎第5次工場拡張で本社工場7階建を新築★
赤井三郎東京証券取引所第2部に株式上場★
1970〜1988年ビデオテープレコーダー参入の遅れと円高による収益悪化期赤井三郎東京証券取引所第1部に指定替え★
赤井三郎赤井三郎氏が社長在任中に急逝★
家庭用ビデオへの参入と、規格争いで後発として陣営に付く選択

1975年、輸出比率9割の音響機器メーカーだった赤井電機が、オーディオに次ぐ第2の柱として家庭用ビデオテープレコーダーに参入し、規格競争では後発でVHS方式を採用した経営判断。テープ駆動技術の延長線上で新市場を選んだが、規格を握る中核企業ではなかったため収益に結びつきにくい主力事業となった。

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★★★
三菱銀行が経営支援★★
三菱電機との提携を全面強化★★
岡田眞筆頭株主として大手を迎え入れることで描いた経営再建の道筋

プラザ合意後の円高で輸出偏重の採算構造が崩れた赤井電機が、1986年に三菱銀行出身の岡田眞社長のもとで三菱電機を引受先とする第三者割当増資を実施し、三菱電機を筆頭株主に迎えて開発・生産・販売まで統合していった経営判断。系列企業として支援を受けつつ再建と独自性の両立を目指した。

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★★★
岡田眞三菱電機からオーディオ製品の開発・生産を移管★
1989〜2000年北米向け輸出の停止とセミテック傘下入りから、債務超過と民事再生申請まで岡田眞AV機器の北米向け輸出を停止★★
岡田眞FY1994/11決算で経常赤字23億円を計上★
岡田眞セミテックグループが経営支援★★
ジェームス・H・ティンジェームス・H・ティン会長氏が社長兼務、種田公二社長が退任★
ジェームス・H・ティン主力VTRの国内生産から撤退する方針を決定★★
ジェームス・H・ティン香港グランデ・グループの子会社に★★
ジェームス・H・ティン1026億円の最終赤字を計上し債務超過に転落★★
ジェームス・H・ティン親会社アカイ・HDが香港で清算決定★
ジェームス・H・ティン延命と、独立電機メーカーとしての終焉

1995年、香港に本拠を置く多国籍企業グループのセミ・テックの第三者割当増資を受け入れて発行済み株式の約55%を握られ、赤井電機は事実上その傘下に入った。三菱電機が再建を断念した後の外資による延命策で、大量リストラと国内生産の撤退を進めたものの、2000年11月に民事再生法の適用を申請し、76年に及んだ独立電機メーカーの歴史を終えた経営判断。

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★★★
出典・参考 16件
出典・参考
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 日本経済新聞 1985年10月23日
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
  • 野田経済 1969年6月11日号
  • 野田経済 1970年4月15日号
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
  • 実業往来 1974年
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート

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