| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1965/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 26億円 | 1億円 | 4.4% |
| 1966/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 52億円 | 6億円 | 11.9% |
| 1967/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 76億円 | 8億円 | 10.5% |
| 1968/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 107億円 | 13億円 | 12.8% |
| 1969/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 142億円 | 20億円 | 14.1% |
| 1970/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 172億円 | 22億円 | 12.9% |
| 1971/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 187億円 | 17億円 | 9.1% |
| 1972/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 195億円 | 17億円 | 8.8% |
| 1973/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 216億円 | 17億円 | 8.1% |
| 1974/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 247億円 | 7億円 | 2.8% |
| 1975/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 290億円 | 4億円 | 1.6% |
| 1976/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 368億円 | 11億円 | 3.0% |
| 1977/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 425億円 | 7億円 | 1.6% |
| 1978/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 475億円 | 3億円 | 0.7% |
| 1979/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 526億円 | 2億円 | 0.5% |
| 1980/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 778億円 | 3億円 | 0.3% |
| 1981/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 905億円 | -5億円 | -0.7% |
| 1982/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 908億円 | -62億円 | -6.9% |
| 1983/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 807億円 | 20億円 | 2.5% |
| 1984/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 800億円 | 4億円 | 0.5% |
| 1985/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1995/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1996/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1997/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1998/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1999/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 2000/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 2001/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
赤井舛吉氏がソケットラジオ部品を製造するために東京都港区で創業
戦時中に赤井電機(初代)は同業他社のとの合併により消滅した。そこで、終戦直後の1947年に赤井三郎氏(実父が赤井舛吉氏)は、赤い電機を復活させて、再び独立起業をはかった。
赤井三郎氏は1947年から1973年に急逝するまで赤井電機の経営に従事。1968年に株式上場を果たすなど、終戦直後は町工場であった赤井電機の業容拡大に貢献した。
赤井電機のテープレコーダー参入は、部品事業の競争激化を背景とした最終製品への業態転換だった。小型モーター技術を応用した縦型レコーダーの開発、国内需要の限界を見越した海外輸出への集中、セールスエンジニアの育成によるアフターサービス体制の構築という三段階の施策が、輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の収益構造を生んだ。後発参入でありながら製品設計と販売戦略の両面で先発企業との差別化に成功した点に、この時期の赤井電機の特徴がある。
赤井電機は戦後の再建期にレコードプレーヤー向け小型モーターの製造を手がけ、フォノモーター分野で国内市場の大半を占める地位を築いていた。しかし1950年代に入ると松下電器をはじめとする大手電機メーカーがこの分野に相次いで参入し、部品単体での価格競争が急速に激化した。小型モーターは汎用部品としての性格が強く、大手の量産体制に対して価格面での競争優位を維持することが困難になりつつあった。
部品事業での収益確保が難しくなる中、赤井電機は小型モーターで培った精密機構の技術を応用できる最終製品への事業転換を模索した。転換先として選んだのがテープレコーダーであった。テープレコーダーはモーターによるテープ駆動機構を核とする製品であり、赤井電機が蓄積してきた精密モーターの設計・製造技術をそのまま活かせる領域であった。
ただし、テープレコーダー市場にはソニーが先行メーカーとして既に存在していた。後発企業として大手と正面から競合するのではなく、製品設計と販売先の両面で独自の差別化戦略を構築する必要があった。
赤井電機は製品設計の面で先発企業との差別化を図った。当時のテープレコーダーは横型が主流であり広い設置場所を必要としていたが、赤井電機は省スペースで縦に設置できる独自の縦型テープレコーダーを開発した。先発のソニーが横型を展開する中、赤井電機の縦型は設置のしやすさという使い勝手の面で市場から支持を獲得し、後発ながらもテープレコーダー市場で着実に販売実績を積み上げた。
販売面では海外輸出への特化という方針を採った。戦後の日本国内ではテープレコーダーは高額商品であり十分な需要が見込めなかったため、欧米などの先進国市場への輸出に活路を求めた。1956年に赤井三郎が渡米し、アメリカの視聴覚教育企業キャリアフォン・ロバーツ社への納入契約を獲得して海外販路の本格的な開拓に着手した。
さらに自社でセールスエンジニアを育成し、海外顧客に対する修理・保守を迅速に行うアフターサービス体制を各地に整備した。製品の差別化と輸出特化という二つの戦略が、大手メーカーとの競合を回避しつつ収益を確保する基盤となった。
赤井電機は1960年代を通じて高学歴のエンジニアを業界水準を上回る待遇で積極的に採用し、テープレコーダーの製品開発力を段階的に引き上げた。大田区の本社工場を中心に段階的な設備拡張を実施し、増大する海外需要に対応できる製造能力を確保した。
販売先はアメリカだけでなく欧州やアフリカなど世界各地に広がり、170の代理店を展開した。特定の取引先への売上依存度を下げることで収益基盤の安定化を図った。1969年時点で売上高に占める輸出比率は95%に達し、国内市場に依存しない独自の事業構造が確立された。
この高い輸出比率に支えられた収益性を背景に、赤井電機は1968年に東京証券取引所第2部への上場を実現した。上場時の売上高純利益率は12.8%に達し、電機業界の中でも際立つ高収益企業として証券市場や経済誌から注目を集めた。ただし、輸出比率95%という構造は為替変動に対する脆弱性を内包しており、その後の円高局面で深刻な影響を受けることになる。
赤井電機のテープレコーダー参入は、部品事業の競争激化を背景とした最終製品への業態転換だった。小型モーター技術を応用した縦型レコーダーの開発、国内需要の限界を見越した海外輸出への集中、セールスエンジニアの育成によるアフターサービス体制の構築という三段階の施策が、輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の収益構造を生んだ。後発参入でありながら製品設計と販売戦略の両面で先発企業との差別化に成功した点に、この時期の赤井電機の特徴がある。
戦後の再建期には、1馬力、2馬力という汎用モーターを非常に少人数でやり出したんですが、資材面で困りまして、電蓄用のフォノモーターに転向したんです。この辺は、私の独壇場の技術でして・・・。それがずいぶん当たって、日本中を席巻していたわけです。ところが、やはり松下さんあたりの安い製品に追われて、アメリカに逃げたわけですが、アメリカでは製品が非常に良いということで評判をとった。
次にテープレコーダーをやりましたが、これも形は高級品ですが、内容は大衆品という安いものが出てきたので、これもアメリカへ逃げていった。アメリカなら日本と生活レベルが違いますから、高級品に対する需要もあるわけです。
当時はソニーが「東通工」と言っていた頃で、当社がソニーをおいまくっていたもので、ソニーは次第にトランジスターラジオに生産転換していったような状況だった、と言われている。
輸出については米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結び、高級品「アカイ」の名を広く海外に示すとともに高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。現在各国に170の代理店を設け、代理店制による販売網を確立し、戦後の民生用機器発展の時流に乗って、同社も堅実な発展を遂げ、テープレコーダー専門メーカーとしての地位を固めている。
私が人を集めようとしたときには、東大や東工大を優秀な成績で出て、大企業の研究所に入ったけれど、3年も研究に没頭していて2.5万円の給与で嫁さんももらえない、というのがたくさんいました(笑)。だから、オレのところに来い。年収200万円払うぞと宣伝したら、500人以上きました。優秀なのが・・・。そこからセレクトして良いのをとったんですが、それでうちの技術陣は確立したんです。
猛烈高収益会社。人は赤井電機のことをそう呼ぶ。(略)
このような超優良会社も、株式公開まで、あまり国内では知られていなかった。それは製品の高旧テープレコーダーが95%まで、輸出向けで、国内市場にはあまり出回っていなかったせいである。急に有名になったのは、従業員の待遇がとびきりいい会社ということで、週刊誌などに書き立てられるようになってからで、それから海外市場で大変な人気のあるテープレコーダー・メーカーということが知られてきた。
有名になる過程がソニーなどとは大分対照的だったので、それだけにアカイの株式公開は、最近の株式市場に異様な興奮を巻き起こしたのである。
企業経営の透明性を高めるために株式上場を選択。財務体質は良好で、売上高純利益率12.8%(FY1968)の高収益企業として注目を集めた。
実質創業者である赤井三郎氏が年末のスキー旅行の際に急逝。後任社長をめぐる後継争いなどが発生し、赤井電機の経営は迷走。1981年に三菱銀行出身の社長が就任して銀行支援を受けに至った。
赤井電機のビデオ参入はテープ駆動技術の応用という観点からは合理的な選択だった。しかしVHS対ベータマックスの規格競争に出遅れたことでライセンス収入を確保できず、量産販売のみでは十分な利益率を維持することが困難だった。加えて売上高の大半を輸出に依存し製造拠点を国内に集中させる事業構造は、プラザ合意以降の急激な円高局面で大きな打撃を受けた。オーディオ時代から続く国内製造・海外販売モデルが持つ為替リスクが顕在化した局面だった。
1970年代に入ると、ソニー、パイオニア、トリオ、山水電気、ケンウッド、日本ビクターなど日本の電機メーカーが相次いでオーディオ機器の海外輸出を本格化させた。赤井電機が先駆的に開拓した輸出主体の事業モデルは業界全体に広がり、テープレコーダーを中心とする高級オーディオ市場での価格競争が激しさを増した。各社が類似の高品質製品を海外市場に投入する中で、赤井電機の製品が持っていた品質面での差別化の余地は縮小していた。
さらに1971年のニクソンショックによる円高ドル安の進行が、売上高の95%を海外輸出に依存する赤井電機の収益構造を直撃した。為替変動が利益率に与える影響は大きく、オーディオ事業単独では中長期的に安定した成長を見通すことが困難になりつつあった。テープレコーダーで蓄積した精密駆動機構やモーター制御の技術を活かせる隣接領域への展開が、経営の喫緊の課題として浮上した。
赤井電機はオーディオに次ぐ事業の柱としてビデオ機器を選択した。ビデオ機器はテープレコーダーと同様にテープを小型モーターで回転させる駆動機構を持ち、赤井電機が蓄積してきた精密な製造技術との親和性が高い製品分野であった。しかし、ビデオ市場では日本ビクター陣営のVHS規格とソニーのベータマックス規格による規格競争が進行しており、赤井電機はこの競争に出遅れたためライセンス収入を得られる立場を確保できなかった。
赤井電機はVHS方式を採用してビデオの売上高を段階的に拡大させ、1988年にはビデオが売上高の50%超を占めるに至った。しかし、規格のライセンス収入を持たない立場では製品の量産販売のみで利益を確保する必要があり、収益性は低い水準にとどまった。
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が急速に進行すると、大田区の本社工場を主力製造拠点とする赤井電機の採算構造は一段と悪化した。1981年には最終赤字に転落し経営陣が更迭され、1986年には欧米の海外現地法人を閉鎖するに至った。輸出比率95%という事業構造が為替変動に対して極めて脆弱であることが、円高局面で露呈した。
オーディオからビデオへの事業転換は、技術的な親和性の観点からは合理的であった。しかし、規格競争への出遅れによるライセンス収入の不在と、国内生産に固定された製造体制、そして円高という外部環境の変化が重なり、赤井電機の収益構造を支える前提が崩れた。輸出特化型の高収益モデルは、為替環境が逆転した瞬間に構造的な弱点へと転じた。
赤井電機のビデオ参入はテープ駆動技術の応用という観点からは合理的な選択だった。しかしVHS対ベータマックスの規格競争に出遅れたことでライセンス収入を確保できず、量産販売のみでは十分な利益率を維持することが困難だった。加えて売上高の大半を輸出に依存し製造拠点を国内に集中させる事業構造は、プラザ合意以降の急激な円高局面で大きな打撃を受けた。オーディオ時代から続く国内製造・海外販売モデルが持つ為替リスクが顕在化した局面だった。
今後も高級品のテープレコーダーを事業の中心とし、すでに米国から2500台の注文を受けているVTRテープレコーダーの生産体制確立を急ぎ、事業規模の拡大拡充を図っており、旺盛な需要に支えられ今後の見通しは明るいといえるが、輸出比率が各メーカーともに高く、将来の課題としては景気変動下においても比較的左右されない国内販売の需要にあると思われる。
ますますノウハウで勝負したいと思います。物理的な労働では、台湾とかその他、かなわない国がいくらでもありますからね。これは、世界中の人が常識で考えていることでしょう。製品も、一般用のVTR(ビデオテープレコーダー)を今ではやっていますが、将来は伸びると思います。うちでは、基礎資材からやっていますから、世界的にポンと飛び出したような状態でいますが・・・。あるいは、将来はテープレコーダーがだんだん廃れて、VTRになるかもしれないけど、要するに磁気関係から外へは出ません。あるいは電算機があまりにも進歩してくれば、同じものですからああ言ったものに移るかもしれませんが、2〜3年はテープレコーダーとVTRでいくつもりです。
円高の進行でビデオとオーディオ機器の輸出が不振。資産売却が要に
三菱電機が再建を断念。香港系企業のセミテック社が支援へ