赤井電機が1968年に売上高純利益率12.8%という水準を達成したのは、テープレコーダーの技術が抜きん出ていたからではない。売る相手を国内から外したからである。先発の大手が低価格品の量産を固めていた国内では、10万円を超える機器を買う客がそもそも薄かった。赤井三郎はその市場を諦め、高級機を買う層が厚い米国へ製品を送る。商社を挟まず各国170の代理店と直接組んだのも同じ理屈で、間に立つ者が減れば、同じ製品から手元に残る利ざやが増える。ヘッドの特許を積み上げたのは、その値段を買い手に納得させるためだった。技術は高値を正当化する道具であって、高値そのものを作ったのは販路の設計である。
この設計には、利益の源が自社の外にあるという弱さが裏側に付いていた。輸出比率94.2%とは、売上高のほぼ全部を為替と各国の市況が決めるという意味である。1969年の仕向地は米国25%、東南アジア30%、欧州20%と散らしてあり、一国の不振には耐えられた。しかし、すべての国に等しく効く変数には、散らしても効き目がない。借入金を持たず、自己資本比率69.2%のうち払込資本を9.7%に抑えて内部留保を積んだ財務は、その変数が動くまでは崩れようがなく見えた。1968年の東証二部上場は、その堅さが最も高く評価された時点にあたる。従業員1,331名の会社が、輸出だけでその評価を得ていた。
赤井電機の起点は、赤井舛吉が大正13年に従業員15名ほどで興した赤井電機製作所にある。扱ったのはソケットとラジオ部品で、完成した機器ではなく、他社の製品に組み込まれる部材だった。昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社へ改め、資本金60万円の株式会社に改組する。昭和10年3月からは自動車電装品やモーター、ラジオ部品の製造へ範囲を広げた。しかし戦災で設備は失われ、事業は一度ゼロに戻った。株式会社となってからも資本金は60万円に据え置かれ、引き上げに動くのは戦後の昭和22年5月、200万円への増資を待つことになる。部品を作る会社が部品のまま終わらなかったのは、この焼け跡からの再出発が、何を作るかを選び直す機会になったからである。
戦後の再出発を率いたのは、創業者赤井舛吉の養子となった赤井三郎で、昭和22年に24歳で経営の前面へ立った。本社を東京都大田区へ移し、翌23年2月から汎用モーターと電蓄用の小型モーターの製造を始めている。テープレコーダーの駆動に使うモーター技術と、中核部品であるヘッドの開発は、同じ昭和22年から始まっている。それまで作っていた電蓄用モーターは、レコードプレーヤーを回す役目の部品である。完成機を持つ大手の調達先という位置から出られない商材だった。赤井三郎は後年、終戦直後の電蓄用モーターの生産を続けていれば今日のアカイはおそらくなかったと回想している『終戦直後には電蓄のモーターの生産をしていたが、そのままでいたら今日のアカイはまず存在していなかっただろう』。部品の納入先にとどまるのか、完成機を自前で作るのかという分かれ道は、再出発の段階でもう引かれていた。
昭和26年、赤井電機はテープレコーダーの製造に手を染め、「テープの赤井」と呼ばれる足場を得た。昭和28年には製造を本格化させ、部品メーカーから完成機メーカーへ転換する。転換を支えたのは自社で開発したヘッドの技術で、部品から一貫して作る体制が単なる組立との差になった。同じ昭和28年7月に赤井商事を設立し、国内販売を切り離して担わせた。昭和29年4月にはテープメカニズムのAT-1を世に出している。以後も昭和33年6月にステレオテープレコーダーのMS-60を投入する。昭和37年10月にはクロスフィールドヘッドを備えたM-7を出し、製品の等級を段階的に引き上げた。作る力を先に持ち、販売先を後から探すという順序が、次の輸出特化を呼び込むことになる。
輸出に傾いた理由は、国内に売り場が無かったことにある。テープレコーダーでは先発の大手が既に低価格品の大量生産を確立しており、同じ製品で並べば価格以外に競争の焦点が残らなかった。赤井電機はヘッド技術の特許を多数握っていた。部品から一貫して高度な製品を作る高級品専門メーカーとして発足したため、需要先は海外に限られた。国内で10万円を超えるテープレコーダーを買う層は薄く、高級品メーカーの少ない米国を狙ったことが当たったと赤井三郎は述べている。販売経路は赤井電機から直接海外の代理店へ渡るものと、赤井商事を経て在日米軍のPXへ納めるものの二通りに分かれた。市場を選んだというより、選べる市場が一つしか残っていなかった。
赤井電機の海外展開は、米国のキャリホン・ロバーツ社との販売契約から始まり、商社を通さずに輸出だけで売る経路を得るとともに、「アカイ」を高級品の名として海外に知らしめた。高級品に絞れば業界順位はソニーに続く第2位で、シェアは年々上がった。先発との差は製品の形にも表れた。オープンリールのテープデッキは横置きが普通だったが、同社が縦置きに改めた機種は受けがよく、各国から注文が集まった。名前が海外で通るようになったことで値を高く保てるようになり、経常利益は昭和42年11月期に14億6,000万円、売上高比で19.1%を記録した。
販路は商社を介さず、各国に置いた代理店で組んだ。代理店の数は170に達し、代理店制による販売網が固まっている。輸出比率は昭和43年5月期の実績で94.2%を占め、国内向けは端数にすぎなかった。仕向地の構成も動いた。米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年には米国25%、東南アジア30%、欧州20%となり、世界100数カ国へ散った。昭和44年以降は輸出一辺倒の販売政策を改めて国内販売にも人手を割き、国内を担う赤井商事が同年11月に新規上場している。単一の代理店に依存した状態から、地域を分けた網へ移したことで、一国の市況が収益を左右する度合いは下がったとみられる。
輸出専業の代理店直販は、収益の形にそのまま表れた。昭和40年11月期に26億9,000万円だった売上高は、昭和44年11月期には142億円へ伸びている。昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%に達した。同じ期間に当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増えた。財政の姿はさらに際立つ。借入金を持たず、現金仕入によって期末の債務が僅少であったため他人資本比率は低かった。自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%にとどまり、内部留保はきわめて厚い。資本金も昭和38年11月の4,000万円から昭和43年10月の15億円へ、5年で37倍に膨らんでいる。
昭和43年11月21日、赤井電機は東京証券取引所第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は15億円、上場株式数は3,000万株、公開株数は500万株で、公開価格は330円だった。従業員は同年5月20日現在で1,331名を数える。同期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円で、売上高に対する純利益の比率は12.8%に達した。大株主には赤井三郎の663万6,100株に次いで、専務の斎藤己之吉が116万8,000株を持った。取引金融機関は三菱銀行を筆頭に富士・大和・第一の4行が並ぶ。翌44年4月には大阪と名古屋の両市場にも公開し、昭和45年4月には東証第一部へ指定替えとなった。
上場は赤井三郎個人の資産を一挙に膨らませた。持株は時価で100億円を超え、昭和45年時点の資産は260億円から270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ全国第2位の高所得者に並んだ。その持株の1割にあたる10億円相当を、上場記念として約100人の幹部社員へ贈った。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を持った。待遇も平均23歳で月額6万6,000円、賞与は年間7カ月と国内で最も高い水準にあった。報酬を株式で配ることは、成果を測る尺度を給与から外へ出す仕組みでもあった。
昭和44年に独自方式の「アカイフォーマット」を開発して、磁気記録装置で積んだ蓄えを映像にも広げ、翌昭和45年の時点で特許権と実用新案は国内193件、国外155件を数えた。赤井三郎は、技術革新の足が速いエレクトロニクスの分野で同じ製品を五、六年も作り続ければ自滅するしかないと述べ『エレクトロニクス業界では技術革新のテンポがはやい。同じ製品を五、六年もつづけていたら自滅を待つよりない』、技術開発とマーケティングの研究を経営の二本柱とした。高い利益率の源は、製品を入れ替えるこの速さにあった。上場した段階ではすでに米国から2,500台のVTRテープレコーダーを受注しており、それを作る体制づくりを急いでいた。この年、売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円に達している。
赤井電機が1980年代に失ったのは採算であって、売上高ではない。1975年に290億円だった売上高は、1980年には778億円と5年で2.7倍になっている。同じ5年で経常利益は15億円から11億円へ減った。伸ばしたのは家庭用ビデオだが、赤井電機はVHSの規格を供与する側ではなく、供与を受けて作る側に回っている。規格を握らなければ技術の使用料は入らず、残るのは量産して売った差額だけである。オーディオ時代に高値を支えたヘッドの特許は、ビデオの陣営の外に置かれた。1984年にビデオはオーディオを抜いて主力になったが、売上の順位が変わっても利益の出どころは戻らなかった。
もう一つの綻びは、売り方を変えたのに見る仕組みを変えなかったことにある。1980年前後、赤井電機は欧州の販路を代理店から自社の販売子会社へ切り替えた。代理店は売り切りの相手だが、子会社は在庫を抱え、代金の回収まで負う。それでも本社は、各子会社が出した販売計画をそのまま積んで生産計画を組み続けた。1982年11月期に海外7社のうち5社が債務超過となり、本社が32億円の特別損失を負ったのは、その帰結である。1985年に計上した67億8,000万円の赤字は1ドル240円のもとで出ており、円高はその後に止めを刺したにすぎない。三菱電機を筆頭株主に迎えた1986年の再建策は、この二つの綻びを同時に縫おうとする試みだった。
昭和45年4月、赤井電機は東京証券取引所第一部へ指定替えとなり、同年6月の増資で資本金を30億円へ引き上げた。同期の売上高は172億円、経常利益は31億円と、いずれも創業以来の最高を記録している。しかし足元では人が抜けていた。上場記念に株式を受け取った営業部長や総務部長を含む部課長4人が、昭和44年暮れに相次いで退職している。株価が1,000円を超えたところで持株を売り、1人あたり1,500万円から6,000万円を手にしての離脱だった。報酬を株式で配る仕組みは、社員を会社に縛るどころか、辞める資金を与える装置にもなった。
昭和46年11月期は、ドルショックの直撃で配当を5分下げて3割とした。売上高は187億円と伸びたものの、経常利益は前期の31億円から23億3,000万円へ後退している。同年12月には、輸出の起点だった米キャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカと赤井商事による自前の販売へ切り替えた。中途採用による即戦力の補充も続け、昭和47年には技術者を年俸250万円から400万円で募る求人を新聞に出した。売る仕組みを他社から自社へ引き取る選択は、為替と現地の在庫を自ら背負う選択でもあった。
昭和48年12月、赤井三郎は志賀高原でスキー中に急逝した。後任には専務の斎藤己之吉が昇格する。翌49年11月期の売上高は247億円と、中間期の見通し275億円を下回る。経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円へ半減した。欧州向けの輸出が輸入規制とコスト高で伸び悩み、材料手当ての借入金が膨らんで金利負担も倍増したためで、配当は1割の減配となる。現金払いで通していた支払いも、同年8月から3割を翌月へ繰り延べた。赤井三郎が持っていた全株の36.3%にあたる2,176万株は、3分の1が三菱グループへ渡った。三菱銀行の526万株を含む940万株が同グループの手に入る。
昭和50年11月、赤井電機は家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した。テープを走らせて磁気で記録する構造はオーディオと共通だった。昭和44年に開発した独自方式の「アカイフォーマット」をはじめ、固定ヘッドのビデオを手がけた蓄積もある。上場時点で米国から2,500台のVTRの注文を受けていたことも、この分野を次の収益源と見込む根拠になっていた。実際、昭和50年11月期の売上高は290億円と前期から2割近く伸びている。技術の連続性に依拠して市場を選んだ判断であり、市場の構造そのものを見て選んだ判断ではなかった。
参入した市場では、規格の主導権を握る競争が先に始まっていた。日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を広げるのは昭和51年以降で、赤井電機の合流はそれよりも後になる。規格を供与する側に立てなければ、技術の使用料は入らず、収益は製品を量産して売った差額だけに絞られる。オーディオ時代に競争の焦点だったヘッドの特許は、家庭用ビデオでは陣営の外側に置かれた。昭和49年11月期に売上高の81%を占めていたテープレコーダーは、10年後に主力の座を明け渡すことになる。
量産で追う方針は売上高に表れた。昭和50年11月期の290億円は、昭和55年11月期には778億円へと5年で2.7倍に膨らんでいる。だが経常利益は同じ5年間で15億円から11億円へ減った。昭和54年11月期の経常利益は7億円まで落ち、売上高526億円に対する比率は1.3%にとどまる。昭和59年11月期にはビデオが436億6,900万円で売上高の55%を占め、オーディオの364億0,100万円を抜いて主力に立った。主力が入れ替わっても採算は戻らず、規模の拡大が利益の拡大につながらない構造がここで固まった。
昭和55年前後、赤井電機は主戦場の欧州で販売のかたちを変えた。それまでの代理店に代えて、自社の販売子会社を置いたのである。代理店は売り切りの相手だが、販売子会社は在庫を自ら抱え、代金の回収まで負う。現地化の形だけは整えており、昭和55年に設立したアカイ・ドイツでは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質の責任者に据えた。この切り替えは、売る力を手元に引き寄せる代わりに、現地の資金繰りと在庫の負担を本社の決算へ直結させるものだった。同じ昭和55年11月には転換社債の株式転換で資本金が32億1,100万円へ積み上がっている。経営の形を変えたのに、見る仕組みを変えなかったことが後に響く。
昭和57年11月期の決算で、海外子会社7社のうち5社が債務超過に陥った。米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェーの5社で、処理のため本社が32億円の特別損失を計上している。欧州では、後から参入した三洋電機、シャープ、松下電器などの日本メーカーが投げ売りに走り、VTRの価格は20%から30%下落し、赤井電機も値下げで対抗したが、本社は現地法人の売掛金も在庫も実態をつかめていなかったと鈴木礼三常務は述べている『現地の売掛金や在庫の状況が本社で全くつかめなかった』。海外の子会社が出す販売計画を本社は手を加えずに合算し、それを生産計画としていた。損益は昭和56年11月期にはもう経常段階で18億円の赤字に陥っており、続く昭和57年11月期の当期純損失は62億円まで拡大した。
昭和60年11月期、赤井電機は税引損益の段階で67億8,000万円の赤字を計上した。この期の為替は1ドル240円で、円高が本格化する前の水準である。輸出比率は87.0%に達しており、採算の前提そのものが海外市況に預けられていた。赤字を埋めるため本社工場の一部を売却し、15億2,200万円の売却益を立てて債務超過を回避した。同期を最後に配当は止まり、無配が続くことになる。前期にあたる昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円で、規模の割に薄い利益しか残っていなかった。円高は引き金であって原因ではなく、円高の前から赤字が出ていた事実が、採算の崩れは為替より前にあったことを示していた。
提携の下地は前年に敷かれていた。昭和60年10月、赤井電機は三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面へ広げると発表している。昭和61年2月には、三菱銀行の常務やダイヤモンドコンピューターサービス社長を務めた岡田眞が社長に就任し、再建策を示した。中核は、三菱電機を引受先とする第三者割当増資400万株で同社を筆頭株主に迎えることで、増資を含む再建計画は同年6月に発表される。1ドル160円で利益の出ない機種の生産を取りやめ、赤字の海外販社を閉鎖し、生産拠点を集約して人員規模を詰めることが再建策の内容だった。掲げた目標は、売上高の構成をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつに割り、国内販売比率を30%まで引き上げることである。輸出で伸びた会社が、輸出を減らす方向へ舵を切った。
昭和61年末、赤井電機はアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も引き上げた。減った輸出は国内で埋める算段だった。しかし国内のオーディオ市場はミニコンポやCDラジカセが主流となる。1ロット2万台で作る側と10万台から20万台で作る側とでは、金型への投資効率が違いすぎた。昭和62年4月には国内向けオーディオの開発と生産を三菱電機と統合した。9月から統一ブランド「A&D」で全国4,000店の販売網に載せたが、新ブランドの定着は進まない。輸出比率は昭和62年11月期に78.3%まで下がったが、翌63年11月期には82.3%へ戻っている。昭和63年12月には、かつて売上高の20%以上を占めた北米向けAV機器の輸出停止を決めた。
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| 1924〜1969年輸出特化型音響機器メーカーとしての成長を遂げた確立期 | 赤井電機製作所を個人創業 | ★ | ||
| 赤井電機を設立 | ★ | |||
| 自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始 | ★ | |||
| 赤井三郎 | 赤井電機(2代目)を創業 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 本社を移転 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 商社を通さぬ現地直販に着手した、輸出特化の事業モデルの確立 1956年、赤井三郎社長が自ら渡米して米キャリホン・ロバーツ社と販売契約を直接結び、商社を通さず現地代理店と結ぶ輸出特化モデルを敷いた経営判断。縦型テープレコーダーで先発のソニーと競合しない位置を取り、世界各国の代理店網で高収益を築いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 赤井三郎 | 赤井商事を設立 | ★ | ||
| 赤井三郎 | テープメカニズム AT-1 を発売 | ★★ | ||
| 赤井三郎 | ステレオテープレコーダー MS-60 を発売 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 第4次工場拡張で4階建組立工場を増築 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 4階建プレス組立工場を新築 | ★ | ||
| 赤井三郎 | クロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 第5次工場拡張で本社工場7階建を新築 | ★ | ||
| 赤井三郎 | 東京証券取引所第2部に株式上場 | ★ | ||
| 1970〜1988年ビデオテープレコーダー参入の遅れと円高による収益悪化期 | 赤井三郎 | 東京証券取引所第1部に指定替え | ★ | |
| 赤井三郎 | 赤井三郎氏が社長在任中に急逝 | ★ | ||
| 家庭用ビデオへの参入と、規格争いで後発として陣営に付く選択 1975年、輸出比率9割の音響機器メーカーだった赤井電機が、オーディオに次ぐ第2の柱として家庭用ビデオテープレコーダーに参入し、規格競争では後発でVHS方式を採用した経営判断。テープ駆動技術の延長線上で新市場を選んだが、規格を握る中核企業ではなかったため収益に結びつきにくい主力事業となった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三菱銀行が経営支援 | ★★ | |||
| 三菱電機との提携を全面強化 | ★★ | |||
| 岡田眞 | 筆頭株主として大手を迎え入れることで描いた経営再建の道筋 プラザ合意後の円高で輸出偏重の採算構造が崩れた赤井電機が、1986年に三菱銀行出身の岡田眞社長のもとで三菱電機を引受先とする第三者割当増資を実施し、三菱電機を筆頭株主に迎えて開発・生産・販売まで統合していった経営判断。系列企業として支援を受けつつ再建と独自性の両立を目指した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡田眞 | 三菱電機からオーディオ製品の開発・生産を移管 | ★ | ||
| 1989〜2000年北米向け輸出の停止とセミテック傘下入りから、債務超過と民事再生申請まで | 岡田眞 | AV機器の北米向け輸出を停止 | ★★ | |
| 岡田眞 | FY1994/11決算で経常赤字23億円を計上 | ★ | ||
| 岡田眞 | セミテックグループが経営支援 | ★★ | ||
| ジェームス・H・ティン | ジェームス・H・ティン会長氏が社長兼務、種田公二社長が退任 | ★ | ||
| ジェームス・H・ティン | 主力VTRの国内生産から撤退する方針を決定 | ★★ | ||
| ジェームス・H・ティン | 香港グランデ・グループの子会社に | ★★ | ||
| ジェームス・H・ティン | 1026億円の最終赤字を計上し債務超過に転落 | ★★ | ||
| ジェームス・H・ティン | 親会社アカイ・HDが香港で清算決定 | ★ | ||
| ジェームス・H・ティン | 延命と、独立電機メーカーとしての終焉 1995年、香港に本拠を置く多国籍企業グループのセミ・テックの第三者割当増資を受け入れて発行済み株式の約55%を握られ、赤井電機は事実上その傘下に入った。三菱電機が再建を断念した後の外資による延命策で、大量リストラと国内生産の撤退を進めたものの、2000年11月に民事再生法の適用を申請し、76年に及んだ独立電機メーカーの歴史を終えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(赤井電機)