1924年創業。テープレコーダーの輸出で成長し、高品質な音響機器で海外市場を開拓。創業者急逝後の経営混乱と円高で業績が悪化し、セミテックの支援も実らず2000年に民事再生法を適用して倒産した。
1924
赤井電機製作所を個人創業
1924赤井電機製作所を個人創業
1947
赤井電機(2代目)を創業
1947赤井電機(2代目)を創業
1951
決断
テープレコーダーに参入。輸出に特化
後発参入から輸出特化型メーカーへの転換過程
1957
生産設備に積極投資。輸出に注力
1957生産設備に積極投資。輸出に注力
1968
東京証券取引所第2部に株式上場
1968東京証券取引所第2部に株式上場
1973
赤井三郎氏が社長在任中に急逝
1973赤井三郎氏が社長在任中に急逝
1975
決断
ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化
輸出特化型の事業モデルが抱えていた構造的な限界
1981
三菱銀行が経営支援
1981三菱銀行が経営支援
1995
セミテックグループが経営支援
1995セミテックグループが経営支援
2000
民事再生法の適用申請(倒産)
2000民事再生法の適用申請(倒産)
業績を見る
売上赤井電機:売上高
■単体 | ■連結(単位:億円
n/a億円
売上高:2001/11
利益赤井電機:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結(単位:%)
%
利益率:2001/11
業績を見る
区分売上高利益※利益率
1965/11単体 売上高 / 当期純利益26億円1億円4.4%
1966/11単体 売上高 / 当期純利益52億円6億円11.9%
1967/11単体 売上高 / 当期純利益76億円8億円10.5%
1968/11単体 売上高 / 当期純利益107億円13億円12.8%
1969/11単体 売上高 / 当期純利益142億円20億円14.1%
1970/11単体 売上高 / 当期純利益172億円22億円12.9%
1971/11単体 売上高 / 当期純利益187億円17億円9.1%
1972/11単体 売上高 / 当期純利益195億円17億円8.8%
1973/11単体 売上高 / 当期純利益216億円17億円8.1%
1974/11単体 売上高 / 当期純利益247億円7億円2.8%
1975/11単体 売上高 / 当期純利益290億円4億円1.6%
1976/11単体 売上高 / 当期純利益368億円11億円3.0%
1977/11単体 売上高 / 当期純利益425億円7億円1.6%
1978/11単体 売上高 / 当期純利益475億円3億円0.7%
1979/11単体 売上高 / 当期純利益526億円2億円0.5%
1980/11単体 売上高 / 当期純利益778億円3億円0.3%
1981/11単体 売上高 / 当期純利益905億円-5億円-0.7%
1982/11単体 売上高 / 当期純利益908億円-62億円-6.9%
1983/11単体 売上高 / 当期純利益807億円20億円2.5%
1984/11単体 売上高 / 当期純利益800億円4億円0.5%
1985/11単体 売上高 / 当期純利益---
1986/11単体 売上高 / 当期純利益---
1987/11単体 売上高 / 当期純利益---
1988/11単体 売上高 / 当期純利益---
1989/11単体 売上高 / 当期純利益---
1990/11単体 売上高 / 当期純利益---
1991/11単体 売上高 / 当期純利益---
1992/11単体 売上高 / 当期純利益---
1993/11単体 売上高 / 当期純利益---
1994/11単体 売上高 / 当期純利益---
1995/11単体 売上高 / 当期純利益---
1996/11単体 売上高 / 当期純利益---
1997/11単体 売上高 / 当期純利益---
1998/11単体 売上高 / 当期純利益---
1999/11単体 売上高 / 当期純利益---
2000/11連結 売上高 / 当期純利益---
2001/11連結 売上高 / 当期純利益---
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1924
4

赤井電機製作所を個人創業

赤井舛吉氏がソケットラジオ部品を製造するために東京都港区で創業

年表赤井電機製作所を個人創業に関する出来事
19244月赤井電機製作所を個人創業
19297月赤井電機株式会社を設立
1947

赤井電機(2代目)を創業

戦時中に赤井電機(初代)は同業他社のとの合併により消滅した。そこで、終戦直後の1947年に赤井三郎氏(実父が赤井舛吉氏)は、赤い電機を復活させて、再び独立起業をはかった。

赤井三郎氏は1947年から1973年に急逝するまで赤井電機の経営に従事。1968年に株式上場を果たすなど、終戦直後は町工場であった赤井電機の業容拡大に貢献した。

1951
4

テープレコーダーに参入。輸出に特化

後発参入から輸出特化型メーカーへの転換過程

赤井電機のテープレコーダー参入は、部品事業の競争激化を背景とした最終製品への業態転換だった。小型モーター技術を応用した縦型レコーダーの開発、国内需要の限界を見越した海外輸出への集中、セールスエンジニアの育成によるアフターサービス体制の構築という三段階の施策が、輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の収益構造を生んだ。後発参入でありながら製品設計と販売戦略の両面で先発企業との差別化に成功した点に、この時期の赤井電機の特徴がある。

背景:小型モーター事業の競争激化と最終製品への転換模索

赤井電機は戦後の再建期にレコードプレーヤー向け小型モーターの製造を手がけ、フォノモーター分野で国内市場の大半を占める地位を築いていた。しかし1950年代に入ると松下電器をはじめとする大手電機メーカーがこの分野に相次いで参入し、部品単体での価格競争が急速に激化した。小型モーターは汎用部品としての性格が強く、大手の量産体制に対して価格面での競争優位を維持することが困難になりつつあった。

部品事業での収益確保が難しくなる中、赤井電機は小型モーターで培った精密機構の技術を応用できる最終製品への事業転換を模索した。転換先として選んだのがテープレコーダーであった。テープレコーダーはモーターによるテープ駆動機構を核とする製品であり、赤井電機が蓄積してきた精密モーターの設計・製造技術をそのまま活かせる領域であった。

ただし、テープレコーダー市場にはソニーが先行メーカーとして既に存在していた。後発企業として大手と正面から競合するのではなく、製品設計と販売先の両面で独自の差別化戦略を構築する必要があった。

決断:縦型レコーダーの独自開発と海外輸出への特化

赤井電機は製品設計の面で先発企業との差別化を図った。当時のテープレコーダーは横型が主流であり広い設置場所を必要としていたが、赤井電機は省スペースで縦に設置できる独自の縦型テープレコーダーを開発した。先発のソニーが横型を展開する中、赤井電機の縦型は設置のしやすさという使い勝手の面で市場から支持を獲得し、後発ながらもテープレコーダー市場で着実に販売実績を積み上げた。

販売面では海外輸出への特化という方針を採った。戦後の日本国内ではテープレコーダーは高額商品であり十分な需要が見込めなかったため、欧米などの先進国市場への輸出に活路を求めた。1956年に赤井三郎が渡米し、アメリカの視聴覚教育企業キャリアフォン・ロバーツ社への納入契約を獲得して海外販路の本格的な開拓に着手した。

さらに自社でセールスエンジニアを育成し、海外顧客に対する修理・保守を迅速に行うアフターサービス体制を各地に整備した。製品の差別化と輸出特化という二つの戦略が、大手メーカーとの競合を回避しつつ収益を確保する基盤となった。

結果:輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の高収益企業として上場

赤井電機は1960年代を通じて高学歴のエンジニアを業界水準を上回る待遇で積極的に採用し、テープレコーダーの製品開発力を段階的に引き上げた。大田区の本社工場を中心に段階的な設備拡張を実施し、増大する海外需要に対応できる製造能力を確保した。

販売先はアメリカだけでなく欧州やアフリカなど世界各地に広がり、170の代理店を展開した。特定の取引先への売上依存度を下げることで収益基盤の安定化を図った。1969年時点で売上高に占める輸出比率は95%に達し、国内市場に依存しない独自の事業構造が確立された。

この高い輸出比率に支えられた収益性を背景に、赤井電機は1968年に東京証券取引所第2部への上場を実現した。上場時の売上高純利益率は12.8%に達し、電機業界の中でも際立つ高収益企業として証券市場や経済誌から注目を集めた。ただし、輸出比率95%という構造は為替変動に対する脆弱性を内包しており、その後の円高局面で深刻な影響を受けることになる。

後発参入から輸出特化型メーカーへの転換過程

赤井電機のテープレコーダー参入は、部品事業の競争激化を背景とした最終製品への業態転換だった。小型モーター技術を応用した縦型レコーダーの開発、国内需要の限界を見越した海外輸出への集中、セールスエンジニアの育成によるアフターサービス体制の構築という三段階の施策が、輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の収益構造を生んだ。後発参入でありながら製品設計と販売戦略の両面で先発企業との差別化に成功した点に、この時期の赤井電機の特徴がある。

証言赤井三郎

戦後の再建期には、1馬力、2馬力という汎用モーターを非常に少人数でやり出したんですが、資材面で困りまして、電蓄用のフォノモーターに転向したんです。この辺は、私の独壇場の技術でして・・・。それがずいぶん当たって、日本中を席巻していたわけです。ところが、やはり松下さんあたりの安い製品に追われて、アメリカに逃げたわけですが、アメリカでは製品が非常に良いということで評判をとった。

次にテープレコーダーをやりましたが、これも形は高級品ですが、内容は大衆品という安いものが出てきたので、これもアメリカへ逃げていった。アメリカなら日本と生活レベルが違いますから、高級品に対する需要もあるわけです。

証言大阪経済評論 51(12)(611)

当時はソニーが「東通工」と言っていた頃で、当社がソニーをおいまくっていたもので、ソニーは次第にトランジスターラジオに生産転換していったような状況だった、と言われている。

証言証券20(12)(237)

輸出については米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結び、高級品「アカイ」の名を広く海外に示すとともに高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。現在各国に170の代理店を設け、代理店制による販売網を確立し、戦後の民生用機器発展の時流に乗って、同社も堅実な発展を遂げ、テープレコーダー専門メーカーとしての地位を固めている。

証言赤井三郎

私が人を集めようとしたときには、東大や東工大を優秀な成績で出て、大企業の研究所に入ったけれど、3年も研究に没頭していて2.5万円の給与で嫁さんももらえない、というのがたくさんいました(笑)。だから、オレのところに来い。年収200万円払うぞと宣伝したら、500人以上きました。優秀なのが・・・。そこからセレクトして良いのをとったんですが、それでうちの技術陣は確立したんです。

証言オール大衆

猛烈高収益会社。人は赤井電機のことをそう呼ぶ。(略)

このような超優良会社も、株式公開まで、あまり国内では知られていなかった。それは製品の高旧テープレコーダーが95%まで、輸出向けで、国内市場にはあまり出回っていなかったせいである。急に有名になったのは、従業員の待遇がとびきりいい会社ということで、週刊誌などに書き立てられるようになってからで、それから海外市場で大変な人気のあるテープレコーダー・メーカーということが知られてきた。

有名になる過程がソニーなどとは大分対照的だったので、それだけにアカイの株式公開は、最近の株式市場に異様な興奮を巻き起こしたのである。

年表テープレコーダーに参入。輸出に特化に関する出来事
19482月レコード向け小型モーターを製造
19514月テープレコーダーの製造を開始
19537月販売部門を赤井商事を設立
19559月東京大田区(東糀谷)に本社工場を新設
1957
8

生産設備に積極投資。輸出に注力

年表生産設備に積極投資。輸出に注力に関する出来事
19578月第2次工場拡張計画(本社工場に新棟)
19598月第3次工場拡張計画(本社工場に新棟)
19618月第4次工場拡張計画(本社工場に増設)
19674月第5次工場拡張計画(本社工場に新棟)
1968
11

東京証券取引所第2部に株式上場

1968/11期(単体)売上高 107億円当期純利益 13億円

企業経営の透明性を高めるために株式上場を選択。財務体質は良好で、売上高純利益率12.8%(FY1968)の高収益企業として注目を集めた。

1968/11期(単体)売上高 107億円当期純利益 13億円
1973
12

赤井三郎氏が社長在任中に急逝

1973/11期(単体)売上高 216億円当期純利益 17億円

実質創業者である赤井三郎氏が年末のスキー旅行の際に急逝。後任社長をめぐる後継争いなどが発生し、赤井電機の経営は迷走。1981年に三菱銀行出身の社長が就任して銀行支援を受けに至った。

1973/11期(単体)売上高 216億円当期純利益 17億円
1975
11

ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化

1975/11期(単体)売上高 290億円当期純利益 4億円
輸出特化型の事業モデルが抱えていた構造的な限界

赤井電機のビデオ参入はテープ駆動技術の応用という観点からは合理的な選択だった。しかしVHS対ベータマックスの規格競争に出遅れたことでライセンス収入を確保できず、量産販売のみでは十分な利益率を維持することが困難だった。加えて売上高の大半を輸出に依存し製造拠点を国内に集中させる事業構造は、プラザ合意以降の急激な円高局面で大きな打撃を受けた。オーディオ時代から続く国内製造・海外販売モデルが持つ為替リスクが顕在化した局面だった。

背景:オーディオ輸出市場の競争激化と円高による収益圧迫

1970年代に入ると、ソニー、パイオニア、トリオ、山水電気、ケンウッド、日本ビクターなど日本の電機メーカーが相次いでオーディオ機器の海外輸出を本格化させた。赤井電機が先駆的に開拓した輸出主体の事業モデルは業界全体に広がり、テープレコーダーを中心とする高級オーディオ市場での価格競争が激しさを増した。各社が類似の高品質製品を海外市場に投入する中で、赤井電機の製品が持っていた品質面での差別化の余地は縮小していた。

さらに1971年のニクソンショックによる円高ドル安の進行が、売上高の95%を海外輸出に依存する赤井電機の収益構造を直撃した。為替変動が利益率に与える影響は大きく、オーディオ事業単独では中長期的に安定した成長を見通すことが困難になりつつあった。テープレコーダーで蓄積した精密駆動機構やモーター制御の技術を活かせる隣接領域への展開が、経営の喫緊の課題として浮上した。

決断:テープ駆動技術を活用したビデオ事業への参入

赤井電機はオーディオに次ぐ事業の柱としてビデオ機器を選択した。ビデオ機器はテープレコーダーと同様にテープを小型モーターで回転させる駆動機構を持ち、赤井電機が蓄積してきた精密な製造技術との親和性が高い製品分野であった。しかし、ビデオ市場では日本ビクター陣営のVHS規格とソニーのベータマックス規格による規格競争が進行しており、赤井電機はこの競争に出遅れたためライセンス収入を得られる立場を確保できなかった。

赤井電機はVHS方式を採用してビデオの売上高を段階的に拡大させ、1988年にはビデオが売上高の50%超を占めるに至った。しかし、規格のライセンス収入を持たない立場では製品の量産販売のみで利益を確保する必要があり、収益性は低い水準にとどまった。

結果:プラザ合意後の円高で採算構造が崩壊

1985年のプラザ合意によって円高ドル安が急速に進行すると、大田区の本社工場を主力製造拠点とする赤井電機の採算構造は一段と悪化した。1981年には最終赤字に転落し経営陣が更迭され、1986年には欧米の海外現地法人を閉鎖するに至った。輸出比率95%という事業構造が為替変動に対して極めて脆弱であることが、円高局面で露呈した。

オーディオからビデオへの事業転換は、技術的な親和性の観点からは合理的であった。しかし、規格競争への出遅れによるライセンス収入の不在と、国内生産に固定された製造体制、そして円高という外部環境の変化が重なり、赤井電機の収益構造を支える前提が崩れた。輸出特化型の高収益モデルは、為替環境が逆転した瞬間に構造的な弱点へと転じた。

1975/11期(単体)売上高 290億円当期純利益 4億円
輸出特化型の事業モデルが抱えていた構造的な限界

赤井電機のビデオ参入はテープ駆動技術の応用という観点からは合理的な選択だった。しかしVHS対ベータマックスの規格競争に出遅れたことでライセンス収入を確保できず、量産販売のみでは十分な利益率を維持することが困難だった。加えて売上高の大半を輸出に依存し製造拠点を国内に集中させる事業構造は、プラザ合意以降の急激な円高局面で大きな打撃を受けた。オーディオ時代から続く国内製造・海外販売モデルが持つ為替リスクが顕在化した局面だった。

証言証券20(12)(237)

今後も高級品のテープレコーダーを事業の中心とし、すでに米国から2500台の注文を受けているVTRテープレコーダーの生産体制確立を急ぎ、事業規模の拡大拡充を図っており、旺盛な需要に支えられ今後の見通しは明るいといえるが、輸出比率が各メーカーともに高く、将来の課題としては景気変動下においても比較的左右されない国内販売の需要にあると思われる。

証言赤井三郎

ますますノウハウで勝負したいと思います。物理的な労働では、台湾とかその他、かなわない国がいくらでもありますからね。これは、世界中の人が常識で考えていることでしょう。製品も、一般用のVTR(ビデオテープレコーダー)を今ではやっていますが、将来は伸びると思います。うちでは、基礎資材からやっていますから、世界的にポンと飛び出したような状態でいますが・・・。あるいは、将来はテープレコーダーがだんだん廃れて、VTRになるかもしれないけど、要するに磁気関係から外へは出ません。あるいは電算機があまりにも進歩してくれば、同じものですからああ言ったものに移るかもしれませんが、2〜3年はテープレコーダーとVTRでいくつもりです。

年表ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化に関する出来事
1969ビデオレコーダーX500VTを開発
198111月経営陣を更迭
198111月最終赤字に転落
1986欧米の海外現地法人を閉鎖
198811月ビデオ売上比率50%超
1981
1

三菱銀行が経営支援

1981/11期(単体)売上高 905億円当期純利益 -5億円

円高の進行でビデオとオーディオ機器の輸出が不振。資産売却が要に

1981/11期(単体)売上高 905億円当期純利益 -5億円
年表三菱銀行が経営支援に関する出来事
198111月三菱銀行出身の社長就任
198311月減収減益
19862月三菱電機への第三者割当増資を発表
198511月最終赤字67億円を計上
19905月人員削減
1995
2

セミテックグループが経営支援

三菱電機が再建を断念。香港系企業のセミテック社が支援へ

2000
民事再生法の適用申請(倒産)
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