蓄音機およびレコードの製造競争で優位に立つため、1931年に日本ビクターは横浜に大規模工場を新設した。この工場は日本ビクターの旗艦工場となり、日本ビクターにおける重要拠点といして位置づけられた。
第二次世界大戦の勃発以降、日本ビクターの所有権は転々とした。戦時中に日本ビクターは敵国(アメリカ)資産の外資企業としてまずは日産財閥の傘下に入り、次に東芝が買収した。だが、第二次世界大戦の末期に空襲によって横浜工場が焼失して大打撃を受けて、東芝も日本ビクターに見切りをつけることとなる。
1954年に松下電器(パナソニック)が日本ビクターの資本参加を決断し、日本ビクターは東芝に変わって松下電器の子会社として再出発する。なお、松下電器は大阪に本社および主力工場があるものの、首都圏における拠点が不十分であったため、この観点からも日本ビクターの救済は合理的な判断とみなされた。
松下電器の救済以降、日本ビクターは徹底した経費の節減を実施。この結果、コスト競争力のあるオーディオ企業として復活を果たし、1960年に東京証券取引所への株式上場を果たす。
1970年代を通じてオーディオ業界では大企業のソニーに加え、ベンチャー企業のパイオニアなどの新興勢力が台頭し、市場における競争が激化した。このため、名門企業であった日本ビクターを取り巻く競争環境が悪化し、1973年に発生したオイルショックの余波もあり業績が伸び悩みに転じた。このため、日本ビクターについて当時のメディアは「凋落か再起か、剣が峰に立つ名門」(1975/5/26日経ビジネス)と報道している。
1970年代にビデオ市場が急速に立ち上がり、1975年にソニーがベータマックス方式を提唱。続いて1年遅れで日本ビクターがVHS規格を提唱して「ビデオ戦争」が勃発した。当初はソニーが有望視されたが、日本ビクターは親会社の松下電器がVHSを全面的に採用したことを受けて形勢を逆転させる。
西ドイツのサバ社へのOEM供給を皮切りに、欧州の大手家電メーカーと連続的に提携。ゼニス(米)、トムソン(仏)、テレフンケン(独)、ソーン(英)といった大手企業と提携することで、グローバルでVHS規格を普及した
VHSの普及により1980年代前半を通じて急成長を実現。日本ビクターのVHSを育て上げた叩き上げの高野鎮雄氏(当時日本ビクター・専務)は「ミスターVHS」として世界から注目された。
1980年代を通じて日本ビクターはVHS規格の普及で優位な立場を構築し、1988年に積年のライバルであるソニーが「VHSの併売」を決定したことで日本ビクターのビデオ戦争における勝利が確定的となった。日本ビクターはビデオ事業の収入(独自ブランドでの製造販売、及びライセンス収入)により業容を拡大し、1980年代後半には日本有数の優良企業として注目を浴びる。
1980年代後半に日本ビクターはVHSで覇権を確立したが、1985年に主要各国政府で締結された「プラザ合意」によって猛烈な勢いで円高が進行すると、韓国のサムスンなどがVHSの量産で台頭したため競争が激化。日本ビクターの生産拠点は横浜などの国内が中心であったため、円高ドル安の打撃を受ける形となった。このため、FY1992に日本ビクターは430億円の巨額赤字に転落し、前途に暗雲が漂い始めた。
円高が進行しきったタイミングでアジアへの生産移管を本格化。日本ビクターは出遅れる形に
全従業員の20%をリストラ。110億円の特別損失を計上