1927年〜 外資系蓄音機メーカーから国内電機グループへの組み入れ期
日本ビクターの業績推移:単体
- 1927年 米ビクターの日本法人としての創業と四度に及ぶ資本の変遷 高率関税を避ける国産化拠点として生まれた外資系会社は、なぜ資本の主を次々と替えていったか
- 1929年 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社に
- 1931年 横浜本社工場を新設
- 1938年 RCAが資本撤収
- 1943年 日本音響株式会社に商号変更(軍管理工場に指定)
- 1954年 松下電器産業の資本参加
- 1972年 音楽事業部門をビクター音楽産業として分離独立
米ビクターの日本法人としての創業と四度の親会社変遷
1927年9月、蓄音機市場の拡大を見据えた米ビクタートーキングマシンが対日直接進出の形で日本ビクター蓄音機を設立した。外資系現地法人として横浜市南区中村町に最初の工場を構え、初代社長には米国側のB・ガードナー氏が就いて、蓄音機の製造と販売の体制を一から構築していく歩みを始めた。正義と奉仕を掲げる「大家族主義」を創業精神とし、輸入品に課された高率の関税が国産化を促す追い風となった。1929年1月には三菱合資・住友合資が資本参加し、日米合弁会社となった。戦前の日本市場における音響機器事業の草分けとして、同社は独特の位置を占めた。米国資本の直接進出として戦前日本に入った数少ない事例の一つとしても記憶されている。草創期から資本の主体が定まらない不安定さが常について回った。 [1][2][3][4][5]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [1]1927年9月 米ビクタートーキングマシンの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社を設立(資本金200万円・横浜)
- [2]設立時の社名は『日本ビクター蓄音器株式会社』(本文表記『蓄音機』は『蓄音器』)
- [5]1929年1月 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社となった(旧本文の「1928年RCA→日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]最初の工場は横浜市南区中村町に建設、初代社長としてB・ガードナー氏が就任
- [4]創業精神として正義と奉仕を基調とする「大家族主義」のスローガンを掲げ、舶来品への高率の輸入税が国産化(日本ビクターの出現)をうながした
1937年12月には戦時統制が強まるなかで東京芝浦電気(東芝)が資本参加し、1938年2月には米ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)が資本を撤収して外資色が薄れた。1943年4月には政府の要請を受けて同社は社名を日本音響へと変更し軍管理工場に指定されたが、空襲で横浜工場の大半を焼失して全機能が停止する打撃を被った。1945年には商号を日本ビクターへと改め、国内資本の電機メーカーとしての歩みを始めている。戦後は経営難に陥って銀行管理下での再建を模索し、1954年に松下電器と資本提携を結んだ。松下電器の支援のもと「ブイワン計画」による事業再構築をしたが、家電市場では松下電器やシャープなど大手との競争が激しく、苦戦が続いた。複雑な来歴は同社の経営に長く独特の制約を課した。親会社の変遷のたびに経営方針が揺らぎ、独立性の確保という課題が常に突きつけられた時期だった。揺れる資本構造が事業判断の制約となり続けた。 [6][7][8][9][10]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [6]1937年12月 東京芝浦電気(東芝)が資本参加、1938年2月 米RCAが資本撤収(旧本文の「1943年に東芝が日産から株式取得し傘下化」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
- [9]商号を『日本ビクター』へ改めたのは1945年12月(昭和20年12月)。本文は1943年に日本音響株式会社への改称段階を補ったうえで1945年の日本ビクターへの改称を記す
- [10]1954年に松下電器産業の資本参加を受けた(資本提携)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]戦時中、政府の要請により社名を日本音響株式会社へ変更し軍管理工場に指定(昭和18年4月=1943年4月の日本音響への商号変更=公式沿革と整合)
- [8]昭和20年の空襲で横浜工場の85%と東京スタジオ・疎開先の前橋工場が全焼し会社の全機能が停止
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [1]1927年9月 米ビクタートーキングマシンの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社を設立(資本金200万円・横浜)
- [2]設立時の社名は『日本ビクター蓄音器株式会社』(本文表記『蓄音機』は『蓄音器』)
- [5]1929年1月 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社となった(旧本文の「1928年RCA→日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
- [6]1937年12月 東京芝浦電気(東芝)が資本参加、1938年2月 米RCAが資本撤収(旧本文の「1943年に東芝が日産から株式取得し傘下化」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
- [9]商号を『日本ビクター』へ改めたのは1945年12月(昭和20年12月)。本文は1943年に日本音響株式会社への改称段階を補ったうえで1945年の日本ビクターへの改称を記す
- [10]1954年に松下電器産業の資本参加を受けた(資本提携)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]最初の工場は横浜市南区中村町に建設、初代社長としてB・ガードナー氏が就任
- [4]創業精神として正義と奉仕を基調とする「大家族主義」のスローガンを掲げ、舶来品への高率の輸入税が国産化(日本ビクターの出現)をうながした
- [7]戦時中、政府の要請により社名を日本音響株式会社へ変更し軍管理工場に指定(昭和18年4月=1943年4月の日本音響への商号変更=公式沿革と整合)
- [8]昭和20年の空襲で横浜工場の85%と東京スタジオ・疎開先の前橋工場が全焼し会社の全機能が停止
音響機器メーカーとしての確立と独自路線の模索期
家電市場での苦戦が音響分野への特化を促し、同社は高品質なオーディオ機器の開発へと経営資源を集中させた。1960年には東京証券取引所への上場を果たし、1961年にはオーディオ専用の生産拠点を新設して音響機器の量産体制を整えた。蓄音機メーカーとしての出自を活かし、レコードプレーヤーやアンプなどの音響製品で独自の地位を築くことで、大手総合家電との直接競合を避けるという戦略を固めた。音響専業という立ち位置に、この時期から舵を切り直した。独立性を確保する意図が、この時期に打ち出された。音響を軸とする独自の立ち位置が、この時期からはっきりした形で固まった。 [11][12]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [11]1960年11月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に株式上場
- [12]1961年 オーディオ生産拠点を新設
しかし1975年3月期には競争の激化による減益に直面し、オーディオ市場そのものの頭打ちが経営課題として重くのしかかった。米ビクター、三菱・住友、東芝、松下電器と親会社が四度にわたって変わる類例の少ない来歴のなかで、同社は常に自社の技術と製品で市場を切り開く独自路線を模索し続けた。長年の模索の果てに到達した成果こそが、次の時代の同社の命運を左右する家庭用ビデオテープレコーダー規格の開発だった。模索と試行錯誤の積み重ねが、後のビデオ戦争勝利という果実を準備した。音響から映像記録へと事業領域を連続的に広げる構想が少しずつ姿を現し始めた。 [13][14]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [13]1975年3月期 競争激化により減益
- [14]親会社が米ビクター・三菱住友・東芝・松下電器と四度変わった、との整理(旧本文の「日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [11]1960年11月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に株式上場
- [12]1961年 オーディオ生産拠点を新設
- [13]1975年3月期 競争激化により減益
- [14]親会社が米ビクター・三菱住友・東芝・松下電器と四度変わった、との整理(旧本文の「日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
蓄音機由来のオーディオ技術と映像機器への布石
戦後のオーディオ市場での独自色の追求と並行して、同社は映像機器分野への参入の可能性も早い段階から探っていた。家庭用の映像記録装置は1960年代からすでに各社が試作競争を繰り広げる先端領域であり、同社は蓄音機以来のアナログ記録技術の蓄積を武器に、この分野への本格参入の機会を慎重に窺った。松下電器の傘下に組み入れられた後も、自社独自の研究開発を維持するだけの自由度を持ち続けた点が、後年のVHS規格開発を可能にする組織的前提条件になった。親会社の干渉を受けにくい独自研究の場を保ったことが、後の規格開発競争において優位として働いた。自由度の確保こそが技術開発の命運を分けた。 [15]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [15]松下電器の傘下に組み入れられた(資本参加=1954年)後も独自研究開発を維持した、との性格付け(松下傘下入りは沿革で支持。独立研究維持の度合いは解釈)
音響機器で積み上げた高品質志向と、アナログ記録方式で培った精密機構の技術力が、家庭用ビデオテープレコーダーの開発現場で再び実を結ぶ下地を作った。ソニーがベータマックス方式で先行する気配を示すなか、同社の技術陣は独自の方式を開発する執念を胸に、家庭用途に最適化された規格の実現を目指して粘り強い研究を続けた。1976年のVHS発表と松下電器による採用決定へと至る筋道が、技術開発の延長線上に準備された。長年の研究開発の蓄積が、家庭用ビデオテープレコーダーという新しい市場で花開く時が、この時期に迫りつつあった。技術の連続的発展が、次の時代の主力事業を準備した。 [16][17]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [16]1976年 VHS発表と松下電器によるVHS採用決定
- 日経産業新聞(1983年6月18日)
- [17]ソニーがベータマックス方式で先行した
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
- [15]松下電器の傘下に組み入れられた(資本参加=1954年)後も独自研究開発を維持した、との性格付け(松下傘下入りは沿革で支持。独立研究維持の度合いは解釈)
- [16]1976年 VHS発表と松下電器によるVHS採用決定
- 日経産業新聞(1983年6月18日)
- [17]ソニーがベータマックス方式で先行した