日本ビクター の歴史

創業

1927年

創業者

※ビクター米国本社

創業地

横浜市

直近売上高(2009/3)

4,620億円

長期業績と転換点(1980/3〜2009/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1927年に外資の現地法人として出発した日本ビクターは、自前で技術と製品を作る会社になったのか
A 親会社が頻繁に替わり、どの株主も腰を据えて研究開発まで握る余裕を持たなかったため、技術と製品を自前で組み立てる癖が組織に残った。1927年9月に米ビクタートーキングマシンが横浜で日本ビクター蓄音器を設立してから、1937年に戦時統制下で東京芝浦電気の資本参加を受け、1938年にRCAが資本を撤収し、1954年に経営難で松下電器産業の資本参加を受けるまで、27年で資本の主体が入れ替わった。所有が定まらない不安定さの裏側で、レコードと蓄音器で培ったアナログ記録の技術を自社に蓄える体質が育っていった
Q なぜ1976年に、技術で先行したソニーのベータマックスではなくVHSが世界標準になったのか
A 勝負を分けたのは録画方式の優劣ではなく、量産と販売の能力をどれだけ陣営に集められるかであった。日本ビクターは1976年に独自開発のVHSを提唱し、親会社・松下電器産業にベータマックスの採用を見送らせてVHSを採らせた。松下の量産力と販売網が陣営に加わると、競争は技術比較から供給能力と対応メーカー数の競い合いへ変わった。さらにゼニス(米)やトムソン(仏)など欧米大手へOEMで供給しライセンスで仲間を増やし、規格を事実上の標準へ押し上げた。1985年3月期に売上高は7,000億円を超え、蓄音器で出発した同社は映像記録の世界標準を握った
Q なぜ2014年にJVCケンウッドは、家庭用AVを捨てて北米の警察・消防向け無線を買い込んだのか
A VHS後に次の柱を見いだせず家庭用AVが価格下落と赤字で行き詰まったため、機器を売り切る商売から、保守や運用まで含めて稼ぎが続く事業へ収益源を入れ替える必要があった。警察や消防が使う北米のP25無線は専門知識と既存システムとの連携が壁になり、価格競争に巻き込まれにくい。2008年にケンウッドと統合したJVCケンウッドは、2014年に米EFジョンソン・テクノロジーズを約66億円で買収し、出遅れていた行政機関向け市場に参入した。蓄音器とVHSで世界を制した会社は、家庭の居間から北米の公共安全へ事業の中身を入れ替えた。

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1927年〜 外資系蓄音機メーカーから国内電機グループへの組み入れ期

日本ビクターの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1927年 米ビクターの日本法人としての創業と四度に及ぶ資本の変遷 高率関税を避ける国産化拠点として生まれた外資系会社は、なぜ資本の主を次々と替えていったか
  2. 1929年 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社に
  3. 1931年 横浜本社工場を新設
  4. 1938年 RCAが資本撤収
  5. 1943年 日本音響株式会社に商号変更(軍管理工場に指定)
  6. 1954年 松下電器産業の資本参加
  7. 1972年 音楽事業部門をビクター音楽産業として分離独立

米ビクターの日本法人としての創業と四度の親会社変遷

1927年9月、蓄音機市場の拡大を見据えた米ビクタートーキングマシンが対日直接進出の形で日本ビクター蓄音機を設立した。外資系現地法人として横浜市南区中村町に最初の工場を構え、初代社長には米国側のB・ガードナー氏が就いて、蓄音機の製造と販売の体制を一から構築していく歩みを始めた。正義と奉仕を掲げる「大家族主義」を創業精神とし、輸入品に課された高率の関税が国産化を促す追い風となった。1929年1月には三菱合資・住友合資が資本参加し、日米合弁会社となった。戦前の日本市場における音響機器事業の草分けとして、同社は独特の位置を占めた。米国資本の直接進出として戦前日本に入った数少ない事例の一つとしても記憶されている。草創期から資本の主体が定まらない不安定さが常について回った。 [1][2][3][4][5]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [1]1927年9月 米ビクタートーキングマシンの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社を設立(資本金200万円・横浜)
    • [2]設立時の社名は『日本ビクター蓄音器株式会社』(本文表記『蓄音機』は『蓄音器』)
    • [5]1929年1月 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社となった(旧本文の「1928年RCA→日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]最初の工場は横浜市南区中村町に建設、初代社長としてB・ガードナー氏が就任
    • [4]創業精神として正義と奉仕を基調とする「大家族主義」のスローガンを掲げ、舶来品への高率の輸入税が国産化(日本ビクターの出現)をうながした

1937年12月には戦時統制が強まるなかで東京芝浦電気(東芝)が資本参加し、1938年2月には米ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)が資本を撤収して外資色が薄れた。1943年4月には政府の要請を受けて同社は社名を日本音響へと変更し軍管理工場に指定されたが、空襲で横浜工場の大半を焼失して全機能が停止する打撃を被った。1945年には商号を日本ビクターへと改め、国内資本の電機メーカーとしての歩みを始めている。戦後は経営難に陥って銀行管理下での再建を模索し、1954年に松下電器と資本提携を結んだ。松下電器の支援のもと「ブイワン計画」による事業再構築をしたが、家電市場では松下電器やシャープなど大手との競争が激しく、苦戦が続いた。複雑な来歴は同社の経営に長く独特の制約を課した。親会社の変遷のたびに経営方針が揺らぎ、独立性の確保という課題が常に突きつけられた時期だった。揺れる資本構造が事業判断の制約となり続けた。 [6][7][8][9][10]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [6]1937年12月 東京芝浦電気(東芝)が資本参加、1938年2月 米RCAが資本撤収(旧本文の「1943年に東芝が日産から株式取得し傘下化」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
    • [9]商号を『日本ビクター』へ改めたのは1945年12月(昭和20年12月)。本文は1943年に日本音響株式会社への改称段階を補ったうえで1945年の日本ビクターへの改称を記す
    • [10]1954年に松下電器産業の資本参加を受けた(資本提携)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]戦時中、政府の要請により社名を日本音響株式会社へ変更し軍管理工場に指定(昭和18年4月=1943年4月の日本音響への商号変更=公式沿革と整合)
    • [8]昭和20年の空襲で横浜工場の85%と東京スタジオ・疎開先の前橋工場が全焼し会社の全機能が停止
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [1]1927年9月 米ビクタートーキングマシンの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社を設立(資本金200万円・横浜)
    • [2]設立時の社名は『日本ビクター蓄音器株式会社』(本文表記『蓄音機』は『蓄音器』)
    • [5]1929年1月 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社となった(旧本文の「1928年RCA→日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
    • [6]1937年12月 東京芝浦電気(東芝)が資本参加、1938年2月 米RCAが資本撤収(旧本文の「1943年に東芝が日産から株式取得し傘下化」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
    • [9]商号を『日本ビクター』へ改めたのは1945年12月(昭和20年12月)。本文は1943年に日本音響株式会社への改称段階を補ったうえで1945年の日本ビクターへの改称を記す
    • [10]1954年に松下電器産業の資本参加を受けた(資本提携)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]最初の工場は横浜市南区中村町に建設、初代社長としてB・ガードナー氏が就任
    • [4]創業精神として正義と奉仕を基調とする「大家族主義」のスローガンを掲げ、舶来品への高率の輸入税が国産化(日本ビクターの出現)をうながした
    • [7]戦時中、政府の要請により社名を日本音響株式会社へ変更し軍管理工場に指定(昭和18年4月=1943年4月の日本音響への商号変更=公式沿革と整合)
    • [8]昭和20年の空襲で横浜工場の85%と東京スタジオ・疎開先の前橋工場が全焼し会社の全機能が停止

音響機器メーカーとしての確立と独自路線の模索期

家電市場での苦戦が音響分野への特化を促し、同社は高品質なオーディオ機器の開発へと経営資源を集中させた。1960年には東京証券取引所への上場を果たし、1961年にはオーディオ専用の生産拠点を新設して音響機器の量産体制を整えた。蓄音機メーカーとしての出自を活かし、レコードプレーヤーやアンプなどの音響製品で独自の地位を築くことで、大手総合家電との直接競合を避けるという戦略を固めた。音響専業という立ち位置に、この時期から舵を切り直した。独立性を確保する意図が、この時期に打ち出された。音響を軸とする独自の立ち位置が、この時期からはっきりした形で固まった。 [11][12]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [11]1960年11月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に株式上場
    • [12]1961年 オーディオ生産拠点を新設

しかし1975年3月期には競争の激化による減益に直面し、オーディオ市場そのものの頭打ちが経営課題として重くのしかかった。米ビクター、三菱・住友、東芝、松下電器と親会社が四度にわたって変わる類例の少ない来歴のなかで、同社は常に自社の技術と製品で市場を切り開く独自路線を模索し続けた。長年の模索の果てに到達した成果こそが、次の時代の同社の命運を左右する家庭用ビデオテープレコーダー規格の開発だった。模索と試行錯誤の積み重ねが、後のビデオ戦争勝利という果実を準備した。音響から映像記録へと事業領域を連続的に広げる構想が少しずつ姿を現し始めた。 [13][14]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [13]1975年3月期 競争激化により減益
    • [14]親会社が米ビクター・三菱住友・東芝・松下電器と四度変わった、との整理(旧本文の「日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [11]1960年11月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に株式上場
    • [12]1961年 オーディオ生産拠点を新設
    • [13]1975年3月期 競争激化により減益
    • [14]親会社が米ビクター・三菱住友・東芝・松下電器と四度変わった、との整理(旧本文の「日産財閥」表記を公式【沿革】に基づき訂正)

蓄音機由来のオーディオ技術と映像機器への布石

戦後のオーディオ市場での独自色の追求と並行して、同社は映像機器分野への参入の可能性も早い段階から探っていた。家庭用の映像記録装置は1960年代からすでに各社が試作競争を繰り広げる先端領域であり、同社は蓄音機以来のアナログ記録技術の蓄積を武器に、この分野への本格参入の機会を慎重に窺った。松下電器の傘下に組み入れられた後も、自社独自の研究開発を維持するだけの自由度を持ち続けた点が、後年のVHS規格開発を可能にする組織的前提条件になった。親会社の干渉を受けにくい独自研究の場を保ったことが、後の規格開発競争において優位として働いた。自由度の確保こそが技術開発の命運を分けた。 [15]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [15]松下電器の傘下に組み入れられた(資本参加=1954年)後も独自研究開発を維持した、との性格付け(松下傘下入りは沿革で支持。独立研究維持の度合いは解釈)

音響機器で積み上げた高品質志向と、アナログ記録方式で培った精密機構の技術力が、家庭用ビデオテープレコーダーの開発現場で再び実を結ぶ下地を作った。ソニーがベータマックス方式で先行する気配を示すなか、同社の技術陣は独自の方式を開発する執念を胸に、家庭用途に最適化された規格の実現を目指して粘り強い研究を続けた。1976年のVHS発表と松下電器による採用決定へと至る筋道が、技術開発の延長線上に準備された。長年の研究開発の蓄積が、家庭用ビデオテープレコーダーという新しい市場で花開く時が、この時期に迫りつつあった。技術の連続的発展が、次の時代の主力事業を準備した。 [16][17]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [16]1976年 VHS発表と松下電器によるVHS採用決定
  • 日経産業新聞(1983年6月18日)
    • [17]ソニーがベータマックス方式で先行した
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [15]松下電器の傘下に組み入れられた(資本参加=1954年)後も独自研究開発を維持した、との性格付け(松下傘下入りは沿革で支持。独立研究維持の度合いは解釈)
    • [16]1976年 VHS発表と松下電器によるVHS採用決定
  • 日経産業新聞(1983年6月18日)
    • [17]ソニーがベータマックス方式で先行した

1976年〜 VHSビデオ戦争の勝利と急成長期

日本ビクターの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1976年 独自VTR規格VHSの開発と、他社供与による世界標準化 凋落か再起かと評された音響の名門は、独自規格をどう世界標準へ押し上げたか——仲間を増やして標準を獲るという賭け
  2. 1981年 藤枝工場を新設
  3. 1987年 S-VHSを発売
  4. 1993年 上場以来初の無配に沈んだ1993年の経営再建——VHS偏重の体質を改めるリストラと社長直属「新風事業」 勝ちすぎたVTRの成功が生んだ開発偏重の体質を、坊上卓郎社長はどう改めようとしたか

VHS規格の確立と長期化したビデオ戦争への勝利

オーディオ市場の頭打ちを受けて、同社は家庭用ビデオテープレコーダーの規格開発に経営資源を注ぎ込んだ。ソニーが先行してベータマックス方式を投入するなか、同社は独自のVHS方式を開発し、1976年には松下電器によるVHS採用の決定を勝ち取った。松下電器の量産力と販売網がVHS陣営に加わったことで規格の事実上の標準化が進み、ベータマックスとの長期化した規格競争は1980年代半ばにVHS側の勝利として決着を見た。業界史に残る技術的勝利だった。ライセンス制度を軸とした技術普及戦略そのものが、ビデオ戦争を勝ち抜く武器として働いた。仲間を増やすことで市場の標準を押さえるという戦略の妙が、ここに発揮された。 [18][19]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [18]1976年 松下電器によるVHS採用決定
    • [19]ソニーが先行してベータマックス方式を投入、VHSとの規格競争は1980年代半ばにVHS側勝利で決着

VHSの普及に伴ってビデオデッキとVHS記録メディアの需要が拡大し、同社の売上高は7000億円規模に到達した。1981年には国内生産拠点を新設し、VHS関連製品の大増産体制を構築している。VHS規格の提唱者として各社からロイヤリティ収入を得られる構造も整い、ライセンス事業が業績を下支えする構造も形作られた。蓄音機で出発した企業が、約半世紀を経て映像記録という別の領域で世界を制する劇的な転身を遂げた瞬間でもあった。VHS事業の成長は、蓄音機製造で出発した同社の来歴からすれば、ほとんど奇跡的な転身の物語として業界内で長く語り継がれる。半世紀を超える歳月を経ての劇的な転身だった。 [20]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [20]1981年 国内生産拠点を新設(藤枝工場・昭和56年3月)
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [18]1976年 松下電器によるVHS採用決定
    • [19]ソニーが先行してベータマックス方式を投入、VHSとの規格競争は1980年代半ばにVHS側勝利で決着
    • [20]1981年 国内生産拠点を新設(藤枝工場・昭和56年3月)

高画質規格の投入と収益構造の変質

1987年には高画質規格として「エスブイエイチエス」を投入し、VHS標準化後の価格下落に歯止めをかけようと試みた。VHSが広く普及して競合メーカーが量産体制を次々と確立するにつれて、ビデオデッキの価格は想像以上の速度で下落した。高画質を訴求する上位規格を設定して価格下落の影響を緩和する狙いだったが、規格の小刻みな進化だけでは構造的な収益悪化を食い止めることはできなかった。ライセンス料率の引き下げも進み、収益構造の根幹が揺らぎ始めた。技術の小刻みな進化では構造的な収益悪化を食い止められないという現実が、少しずつ顕在化していた時期でもあった。VHS事業そのものの賞味期限が、思いがけない速度で近づいていた。 [21]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [21]1987年 高画質規格S-VHS(エスブイエイチエス)を投入

円高の進行による輸出採算の悪化も重なり、VHSで成長を遂げた事業構造は平成に入ると縮小局面へと転じた。1993年3月期には最終赤字430億円規模を計上し、VHSテープの需要消失とデジタル化への対応の遅れが経営を直撃した。VHS規格の勝利という成功体験そのものが、皮肉にも次世代技術への投資判断を遅らせる副作用として働いた側面は否定しがたい。成功体験に縛られた判断の遅れが、日本電機業界における象徴的な事例の一つとなった。新たな主力事業を確立できないまま、日々衰弱していく旧主力に頼る危うい構造が、同社の業績を根底から蝕み始めていた時期だった。次の柱が見つからない苦しさが日に日に増した。 [22]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [22]1993年3月期 最終赤字430億円規模を計上
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [21]1987年 高画質規格S-VHS(エスブイエイチエス)を投入
    • [22]1993年3月期 最終赤字430億円規模を計上

松下電器の傘下での独立性維持を巡る微妙な経営の均衡

松下電器の連結子会社という立場を保ちつつVHSで世界市場を制するという同社の位置づけは、業界内でも珍しい事例だった。親会社である松下電器とは量産と販売の面で密接に連携しつつも、研究開発と製品企画の面では一定の独立性を保ち続けるという微妙な均衡の上に、同社の成長期は成り立っていた。親会社側からの明示的な統合圧力は弱く、独立上場会社としての形を長く保つことを許されていた。この独特の関係性は、後年の経営統合に至るまでの長い前史のなかにも、折に触れ顔を覗かせる。親会社との距離感の難しさは、同社の経営の自由度を規定する独特の要素として、最後まで尾を引いた。連結子会社でありながら独立上場を保つという形の難しさが露呈した。 [23]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [23]松下電器の連結子会社という立場を保ちつつ独立上場会社の形を続けた(松下の連結子会社・独立上場=沿革/関係会社で支持)

一方で親会社との関係が近すぎるがゆえに、業績悪化時の経営判断が後手に回りやすいという構造的な弱みも存在した。松下電器との重複事業の整理や、思い切った事業再編に踏み切るためには親会社の了承が不可欠であり、そのことが意思決定の速度を鈍らせる要因として働いた。成長期の裏側で、VHS後の事業構造の行き詰まりに備える準備は、結局のところ十分に進められないまま次の時代へと持ち越された。後に続く低迷期の原因の一端は、ここに見て取れる。構造的な弱みが業績低迷期に入って表面化し、同社の経営判断の機動力を損なった。親子関係に由来する束縛は容易に解きほぐせないものだった。

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [23]松下電器の連結子会社という立場を保ちつつ独立上場会社の形を続けた(松下の連結子会社・独立上場=沿革/関係会社で支持)

1994年〜 VHS後の長期低迷と経営統合に至る終焉期

日本ビクターの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1995年 アジア統括拠点を設立
  2. 1996年 傑偉世投資有限公司を設立
  3. 1998年 JVC Europe Limited(欧州統括会社)を設置
  4. 1999年 テイチクに資本参加
  5. 2007年 松下からの離脱とケンウッドとの経営統合による会社の終焉 53年続いた親会社と別れ、格下の相手に迎えられる——独立上場会社としての歴史をどう閉じたか
  6. 2008年 モータ事業を日本産業パートナーズ設立の新会社へ譲渡
  7. 2008年 ケンウッドと共同で株式移転によりJVC・ケンウッド・HDを設立

主力事業消失後の業績低迷と再建への苦闘

1993年の430億円規模の赤字計上以降、同社は主力事業の消失という深刻な状況へ追い込まれた。1995年にはシンガポールにアジア統括拠点を設立して海外事業のテコ入れを図り、2002年には「躍進21計画」を策定して事業構造の転換を目指した。しかしVHSに代わる新たな収益の柱を確立することはできず、松下電器の連結子会社としての制約もあって、大胆な事業再編は遅々として進まない状況が長く続いた。独立企業としての意地と親会社の制約との間で、経営は宙ぶらりんの状態を強いられた。再建の妙案を得られないまま、貴重な時間だけが流れていく局面だった。松下電器との調整と内部の再建努力との間で、経営は終始難しい舵取りを続けた。 [24][25][26]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [24]1993年の430億円規模の赤字(1993年3月期)
    • [25]1995年 シンガポールにアジア統括拠点を設立(JVC ASIA Pte. Ltd.)
    • [26]2002年 『躍進21計画』を策定(スタート)

デジタルビデオカメラや新世代のオーディオ機器への展開を試みたが、ソニーやパナソニックとの競争のなかで差別化を図ることは容易ではなかった。2008年3月期には売上高6600億円規模に対して475億円規模の最終赤字を計上し、単独での経営継続は事実上の限界に達した。VHS規格の開発という技術的偉業を成し遂げた企業が、その成功の代償として次世代への転換を果たせないまま終わるという皮肉な帰結を迎えた。技術的勝利と経営的敗北が同居した稀有な例として、後世にも語り継がれる事例となった。成功の影に潜んでいた課題が、対応の時期を逃して表面化した形だった。成功の影に潜んでいた課題が対応の時期を逃して表面化した、電機業界史における教訓的な事例である。

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [24]1993年の430億円規模の赤字(1993年3月期)
    • [25]1995年 シンガポールにアジア統括拠点を設立(JVC ASIA Pte. Ltd.)
    • [26]2002年 『躍進21計画』を策定(スタート)

ケンウッドとの経営統合と持株会社JVCケンウッドへの移行

2008年10月、同社は同じく業績の低迷に苦しんでいた音響機器メーカーのケンウッドと経営統合し、持株会社JVCケンウッドを設立した。松下電器が保有していた同社株式はJVCケンウッドへと移管され、同社は独立した上場企業としての歴史にひとまずの幕を下ろした。2011年には旧川崎本社工場も売却され、同社の物理的な拠点の多くが姿を消した。80年あまりの歴史に区切りをつける象徴的な出来事として、業界内で受け止められた。80年あまりの歴史に区切りをつけるこの出来事は、音響から映像、車載へと形を変えて生き残る道を選んだ瞬間でもあった。業界関係者に深い感慨をもたらした画期的な局面だった。 [27][28]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [27]2008年10月 ケンウッドと経営統合し持株会社JVCケンウッド(JVC・ケンウッド・ホールディングス)を設立
    • [28]2011年 旧川崎本社工場を売却

米ビクターの日本法人として1927年に蓄音機製造で出発し、四度の親会社変遷を経て音響機器メーカーとしての性格を固め、VHS規格の開発で世界的な名声を獲得した同社は、約80年の独立した歴史をJVCケンウッドの一部門として終えた。VHS規格の勝利は日本の映像産業史にくっきりと刻まれる偉大な成果だったが、事業転換に失敗したことによって、結果として独立した企業としての連続性を保つことはできなかった。成功と挫折がこれほど鮮やかに交錯する企業史は、電機業界でも異例の部類に属する。80年の独立した来歴が、経営統合として一つの結末を迎えた。他社にはない複雑な来歴が、そのまま同社最大の特徴となっていた。 [29]

  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [29]1927年に蓄音器製造で創業し、約80年の独立した歴史を経て2008年にJVCケンウッドの一部門となった
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
    • [27]2008年10月 ケンウッドと経営統合し持株会社JVCケンウッド(JVC・ケンウッド・ホールディングス)を設立
    • [28]2011年 旧川崎本社工場を売却
    • [29]1927年に蓄音器製造で創業し、約80年の独立した歴史を経て2008年にJVCケンウッドの一部門となった

日本ビクターの沿革1927〜2011年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
米ビクターの日本法人としての創業と四度に及ぶ資本の変遷高率関税を避ける国産化拠点として生まれた外資系会社は、なぜ資本の主を次々と替えていったか 詳細を読む★★★
三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社に
横浜本社工場を新設
東京芝浦電気が資本参加
RCAが資本撤収★★
日本音響株式会社に商号変更(軍管理工場に指定)★★
日本ビクターに商号変更
松下電器産業の資本参加★★
東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
オーディオ生産拠点を新設
US JVC CORP.を設立
音楽事業部門をビクター音楽産業として分離独立★★
競争激化により減益へ
独自VTR規格VHSの開発と、他社供与による世界標準化凋落か再起かと評された音響の名門は、独自規格をどう世界標準へ押し上げたか——仲間を増やして標準を獲るという賭け 詳細を読む★★★
藤枝工場を新設
S-VHSを発売
上場以来初の無配に沈んだ1993年の経営再建——VHS偏重の体質を改めるリストラと社長直属「新風事業」勝ちすぎたVTRの成功が生んだ開発偏重の体質を、坊上卓郎社長はどう改めようとしたか 詳細を読む★★★
アジア統括拠点を設立
傑偉世投資有限公司を設立
JVC Europe Limited(欧州統括会社)を設置
テイチクに資本参加
寺田雅彦カンパニー制を導入
佐藤国彦松下からの離脱とケンウッドとの経営統合による会社の終焉53年続いた親会社と別れ、格下の相手に迎えられる——独立上場会社としての歴史をどう閉じたか 詳細を読む★★★
吉田秀俊モータ事業を日本産業パートナーズ設立の新会社へ譲渡★★
吉田秀俊サーキット事業をメイコーへ譲渡
吉田秀俊ケンウッドと共同で株式移転によりJVC・ケンウッド・HDを設立★★
旧日本ビクター川崎本社工場を売却
出典・参考
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日経産業新聞(1983年6月18日)

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