パイオニアの創業者である松本望氏は、父親が牧師の家庭に育った。幼少期からバイオリンやピアノに親しむとともに、事業家として独立することを考えていた。
当初は楽器会社に勤務していたが勤め先が倒産したことを受けて、ラジオに関するセールスエンジニアに転身。この頃はラジオ放送が開始された直後であり、オーディオ機器という成長産業に身を投じる形となった。
そして、セールスエンジニアを退職し、松本望氏(当時24歳)は、大阪にてラジオ卸を開業して独立を果たした。同時に結婚をしており、夫婦二人三脚で事業にあたった。しかし、事業は軌道に乗らず経済的に困窮し、数年にわたって家族を抱えて不遇の時代を過ごした。
その後、ラジオ卸の商売をやめ(廃業したと思われる)、神戸でマイクなどの音響機器を製造していた「ヴィーナス・カンパニー」にセールスマネージャーとして就職。同社でオーディオー機器の製造に関わるようになると、再び独立への意欲が湧いたという。
そして、松本望氏は「福音商会電機製作所」を創業。2度目の独立を果たした。
一貫して音にこだわった理由について、松本望氏は「私は音楽好きだし、楽器好きでもあったし、うってつけの仕事だ」(1961『これが成長株だ』)と考えて事業化を目指した。
勤めていた楽器会社が潰れまして、それでやれなくなった。それから少し病気をしましてブランクがあった。その間にラジオが世の中に出てきまして、ラジオも音に関係のあることですしね。月給取りになちゃったわけです。セールス・エンジニアですか、そういう形でこの商売に入ったわけです。
途中でスピーカー・メーカーとなって、スピーカー専門に作ってきたということなんです。しかし、スピーカーをつくるようになると、どうしても商売が優先しますね。ともかく私は事業をしたかったですからね。それで芸術家というものなしに、事業をしたい、事業をするには音に関係のある事業をしたいということだったわけです。
福音電機では、ラジオ向けの普及品である「マグネチック・スピーカー」ではなく、レコードプレーヤー向けの高音質な「ダイナミック・スピーカー」の製造開発に注力した。
この理由は、松本望氏が「いまはマグネチック・スピーカーが全盛を誇っているが、いずれ近い将来、かならずダイナミック・スピーカーが、これにかわる時代がくるに違いない」(『音に挑戦する企業:パイオニア』(1963))と考えたためである。
個人創業にあたって、松本望氏は宗教団体「福音商会(神戸でキリスト教の伝道活動を行う団体)」から借入を行うことで創業資金とした。この経緯について松本氏は「貧乏牧師の息子だったから資金がなかったんです。宗教団体で金を貸してくれる事業団体があったんで、それから借りて仕事を始めたわけです」(1961『これが成長株だ』)と語っている。松本氏自身もクリスチャンであった。
このため、個人創業時の屋号である「福音商会電気製作所」には、キリスト教伝道団体の福音商会が出資する「電機製作所」という位置づけをあらわす名称となった。
ところが、創業から1年間にわたって利益を出すことができなかったため、福音商会は「この商売には面白味がないから、以後資金の融通は打ち切る」(『音に挑戦する企業 : パイオニア』)と通告した。このため、松本望氏は「福音商会」のもとで商売を続けることを諦めて、残債整理を開始。その後、事業拠点を大阪から東京に移し、再起を図った。
ダイナミック・スピーカーの狙いには、たしかに先見の明があった。しかし、大阪を中心とする関西地方では時代に先行しすぎた感が強く、事業を起こして1年目、業績が上がらぬままに出資団体は資金援助を打ち切り、企業の閉鎖を申し入れてきた。大鉄槌だった。妻と子供5人を抱えた彼(注:松本望氏)にはあまりにも大きなショックだった。
福音電気の再起にあたって、東京を選択した理由は、スピーカーの需要が多い(日本コロムビアなど、オーディオメーカーが多数存在していた)ことを見込んだためである。東京への転身にあたって、松本氏の勤務先だった「ヴィーナスカンパニー」の関係者からの支援があったという。
東京移転後の最初の事業拠点は大崎であった。懇意にしていた都南ラジオ組合の三浦氏という人物の紹介を経て、トモエ製作所というコンデンサーメーカーが、好意によって松本氏に工場の一部を貸したことで事業拠点を確保した。
東京移転後は、修理事業で利益を確保しつつ、スピーカーの製造開発を行うことで事業を安定することを目指した。販売先は東京神田の得意先(名称不明)であったという。
東京移転後は事業を順調に伸ばし、ダイナミックスピーカーの市場規模が小さいこともあり、東京市場においては独占していた。販売先は、東芝や日本コロムビアなどのレコード再生機の完成品メーカーであり、スピーカーを部品として納入した。
間借りしている工場が手狭になったことを受けて、1940年には文京区音羽に移転。従業員数は東京移転時の5名(1938年)から、音羽移転直前には約15名、音羽移転後は約25名(1940年)へと増加した。
テレビの普及を受けてテレビの製造に参入。だが、シャープや松下電器など競合の台頭を受けて、資金力に乏しいパイオニアはテレビからの撤退を決定した(1962年頃に撤退)。