創業から78年。5回の決断
| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10億円 | 1億円 | 10.1% |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 25億円 | 2億円 | 10.3% |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 27億円 | 2億円 | 7.6% |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 38億円 | 2億円 | 7.5% |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 61億円 | 4億円 | 6.4% |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 58億円 | 3億円 | 6.1% |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 92億円 | 5億円 | 6.3% |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 105億円 | 6億円 | 5.8% |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 179億円 | 9億円 | 5.3% |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 285億円 | 16億円 | 5.8% |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 290億円 | 12億円 | 4.2% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 322億円 | 9億円 | 3.0% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 416億円 | 19億円 | 4.5% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 527億円 | 22億円 | 4.2% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 425億円 | -7億円 | -1.7% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 519億円 | 10億円 | 1.9% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 846億円 | 28億円 | 3.3% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 765億円 | 19億円 | 2.4% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 870億円 | 13億円 | 1.4% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,077億円 | 23億円 | 2.1% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,461億円 | 36億円 | 2.4% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,805億円 | 76億円 | 4.2% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,858億円 | 69億円 | 3.7% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,515億円 | 84億円 | 3.3% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,144億円 | 126億円 | 4.0% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,613億円 | 73億円 | 1.5% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,191億円 | -18億円 | -0.5% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,938億円 | -92億円 | -2.4% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,996億円 | 45億円 | 1.1% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,854億円 | -20億円 | -0.6% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,563億円 | 48億円 | 1.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,051億円 | 56億円 | 1.1% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,544億円 | 96億円 | 1.7% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,469億円 | -206億円 | -3.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,730億円 | 181億円 | 3.1% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,402億円 | 19億円 | 0.3% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,018億円 | 175億円 | 2.9% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,196億円 | 169億円 | 2.7% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,436億円 | 163億円 | 2.5% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,096億円 | 188億円 | 2.6% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,081億円 | 49億円 | 0.6% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,926億円 | 44億円 | 0.6% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,389億円 | -700億円 | -13.0% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,936億円 | 5億円 | 0.1% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,506億円 | 111億円 | 2.0% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,265億円 | 41億円 | 0.7% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,464億円 | -70億円 | -1.3% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,843億円 | 143億円 | 2.0% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,486億円 | 347億円 | 4.6% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,740億円 | 390億円 | 5.0% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,532億円 | 349億円 | 4.6% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,583億円 | 473億円 | 5.5% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,513億円 | 221億円 | 2.5% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,105億円 | -40億円 | -0.5% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,180億円 | -38億円 | -0.6% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,028億円 | 229億円 | 2.8% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,331億円 | 114億円 | 1.2% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,640億円 | -298億円 | -3.1% |
東芝のエンジニアが独立後にジャンク屋を営み、そこでバリコンの品質の低さに気づいたという経緯は、技術者としての目利きと販売現場での市場感覚が重なった結果である。菊名製作所での挫折による2年間の遅れを「かならずしもムダではなかった」と後年評価されているのは、この販売経験が製品選択に直結したためである。兄を社長に据えて自らは専務に就いた創業時の体制もまた、片岡勝太郎という人物の実利的な判断力を示している。
片岡勝太郎は1937年に旧制神戸高等工業学校機械工学科を卒業し、東京芝浦電気(現東芝)にエンジニアとして入社した。1945年の終戦を機に独立を決意する。直接の動機は、最も信頼していた上司の自殺と、官僚的な大会社の機構では自分の志を伸ばせないという認識であった。旧制神戸高工時代の友人で、技術少佐として東芝に派遣されていた加藤開が片岡の考えに共鳴し、以後行動をともにすることになる。二人とも資金は持たなかったが、技術者としての自負と独立への意志は揺るがなかった。
独立への道は平坦ではなかった。東芝の下請工場主と組んで菊名製作所を設立したが、事情があって間もなく袂を分かつことになる。片岡は神田にジャンク屋(中古品・部品販売店)を開き、菊名の販売部門を担当する中で、バリコン(可変蓄電器)の良品が市場に少ないことに気づいた。この発見がのちの創業製品の選択を決定づける。菊名製作所での挫折による約2年間の回り道は「かならずしもムダではなかった」と後年評価されており、販売現場での市場感覚が技術者としての判断力と結びついた重要な準備期間であった。
1948年11月1日、片岡勝太郎は東京都大田区雪谷町に片岡電気株式会社を設立した。資本金50万円、従業員23名、50坪の建物を買収したのが全財産であった。ジャンク屋時代に目をつけていた高品質のバリコンを「アルプス」ブランドで製造し、秋葉原の電気街で販売した。当時はまだ戦後の荒廃が社会をおおっていた時期であり、ラジオ用パーツは需要こそあったものの品質のばらつきが大きく、良品を安定供給できるメーカーは限られていた。品質で差別化するという着眼点は、片岡のジャンク屋での経験に裏打ちされたものであった。
創業時の体制には独特の設計があった。社長には実兄の片岡信直を据え、勝太郎自身は専務取締役に就いた。経営の実権は弟の勝太郎が握り、兄は名目上の社長という構図である。この配置は1964年の社名変更(アルプス電気への改称)まで16年間続き、勝太郎が正式に社長に就任するのはそのときであった。兄を社長に据えるという判断は、対外的な信用と実務的な機動力を両立させる実利的な選択であり、後年の「片岡外交」に通じる勝太郎の現実主義が創業時から表れていた。
1950年6月に朝鮮動乱が勃発し、新興パーツメーカーにとってまたとない追い風が吹いた。特需景気で片岡電気の業績は飛躍的に伸びたが、片岡勝太郎は単なる量的拡大よりも品質と技術の向上を重視する姿勢を崩さなかった。「安売りをした部品メーカーで生命をまっとうした会社は1社もない」という片岡の信念は、この時期にすでに形成されていたと考えられる。1953年に動乱が終結するとパーツ業界には倒産が相次いだが、片岡電気は品質の高さを武器にこの淘汰の波を乗り切った。
さらにこの時期にチューナー(同調器)の開発に成功し、バリコンに次ぐ新たな事業の柱を築いた。1954年にはVHFテレビチューナーの製造を開始し、テレビ時代の到来に対応する。同年には東京工場二号館が完成して生産規模が飛躍的に拡大し、可変抵抗器やスイッチなど製品の品目も次第に広がっていった。創業からわずか15年で資本金5億円、従業員2,700人の一流パーツメーカーに成長する。片岡のジャンク屋時代に根ざす「品質を落とさず適正価格で売る」という哲学は、以後の経営の基本原則として組織に定着していく。
東芝のエンジニアが独立後にジャンク屋を営み、そこでバリコンの品質の低さに気づいたという経緯は、技術者としての目利きと販売現場での市場感覚が重なった結果である。菊名製作所での挫折による2年間の遅れを「かならずしもムダではなかった」と後年評価されているのは、この販売経験が製品選択に直結したためである。兄を社長に据えて自らは専務に就いた創業時の体制もまた、片岡勝太郎という人物の実利的な判断力を示している。
終戦直前にもっとも信頼していた上司が自殺したこと、また官僚的な大会社の機構は自分の志を伸ばす場所でないと考えたことが、独立の動機だった
部品メーカーが完成品領域に参入する場合、納入先のセットメーカーと競合関係が生じるリスクは避けがたい。アルプスはこの矛盾を、合弁会社という形式で本体とは別の法人に切り出すことで緩和した。モトローラとの合弁解消後も別会社として上場させたのは、部品事業と完成品事業の利益相反を組織的に分離する設計であったと読める。しかし50年後に親会社が統合を決断した際、この分離が少数株主との利害対立を生んだ。事業のリスクを分離した設計が、資本のリスクを後年に繰り延べた構造ともいえる。
1960年代前半、日本のエレクトロニクス産業はトランジスタラジオの輸出で急成長していた。アルプス電気(1964年に片岡電気から改称)はチューナーと可変抵抗器を主力製品とし、海外輸出も急速に伸びていた。1961年に電子部品業界で初めて東京店頭市場に株式を公開し、同年10月には東証二部に上場。1962年にはモトローラ社にチューナー17万台を納入し、米国市場との接点を持ち始めていた。トランジスタ化が進む中で部品のミニアチュア化への投資も拡大し、アルプスは技術力を急速に蓄積していた時期である。
当時、米国のカーオーディオ市場はモトローラ社が約40%のシェアを握る巨大市場であった。カーオーディオは家庭用オーディオとは異なる技術要件──振動対策、温度変化への耐性、車内の限られた空間に収まる小型化──を持つ専門領域であり、日本メーカーの本格的な参入はまだ限定的であった。部品の供給先としてモトローラと取引関係を築いたアルプスにとって、このパートナーシップを部品の売り込みにとどめるか、より深い事業関係に発展させるかが次の戦略的課題となっていた。
片岡勝太郎は、単なる部品供給にとどまらない関係を模索した。モトローラの技術力と米国市場でのブランド力、アルプスの部品製造能力と日本の生産コスト優位。この組み合わせを活かすには、部品の売り込みではなく、完成品の共同生産という形が合理的であった。しかしそれは、部品メーカーが完成品メーカーの領域に踏み出すことを意味した。納入先であるセットメーカーと競合する事業を自社グループ内に持つことは、部品メーカーにとって取引関係の根幹を揺るがしかねない判断であった。
1967年5月、アルプス電気はモトローラ社との合弁でアルプス・モトローラ株式会社を設立した。カーオーディオの製造・販売を目的とする会社であり、部品メーカーがセットメーカーの領域に踏み出す異例の決断であった。日本の電子部品メーカーにとって、納入先であるセットメーカーと競合する完成品事業を自社グループ内に持つことは、取引関係を毀損するリスクを伴う。片岡勝太郎がこのリスクを承知のうえで合弁を選んだのは、部品供給だけでは得られない市場と技術の獲得を優先した判断であった。
設立翌年の1968年、第1号製品「カータブル」(8トラック・ポータブル・プレイヤー)の生産を開始し、米国市場で好評を博した。モトローラとの合弁は、アルプスに完成品の開発・製造ノウハウと米国市場への販売チャネルをもたらした。モトローラ側の事業責任者から米国のビジネス慣行と市場特性を学ぶ機会は、後にアルパインが北米で独自のブランドを構築する際の土台となった。「技術を吸収すると同時に米国の市場やビジネスについて勉強させてもらった」と後年の社長は振り返っている。
しかしこの決断は、アルプス電気の経営陣にも微妙な緊張をもたらした。1983年の日経ビジネス誌は「何故かアルプスの幹部はこのたくましい子会社を余り宣伝したがらない」と記している。「部品屋がセットに出れば片岡社長のトップ外交がやりにくくなるでしょうね」という同業他社の指摘は的を射ており、片岡勝太郎が長年培ってきたセットメーカーとの信頼関係と、子会社の完成品事業との間にはつねに構造的な緊張が存在していた。同誌はアルパインが「鬼っ子にならないという保証はない」とも指摘した。
1978年8月、アルプス電気はモトローラの持分を買収し、アルプス・モトローラを完全子会社化した。同年11月にアルパイン株式会社に社名を変更し、「ALPINE」ブランドに一新する。モトローラの名を冠さない独自ブランドとして、北米市場では高価格帯に商品を絞り、取り付け設備の整った専門店に販売チャネルを限定する戦略をとった。「一段高まったところで、客が手を触れないようにロープを張って展示されていた」とあるメーカーの技術者が当時を振り返るほど、プレミアムブランドとしてのポジショニングを徹底した。
1981年にはホンダと共同で世界初のカーナビゲーションシステム「エレクトロ・ジャイロケータ」を開発し、車載技術における先進性を示した。1988年にアルパインは東証二部に上場し、1991年には東証一部に指定替えとなった。親会社アルプス電気とは異なる市場・顧客・ブランドを持つ独立性の高い上場企業として成長し、1994年3月期には売上高920億円に達した。純正品と自社ブランドの比率はほぼ5対5であり、本田技研工業と米ビッグスリー向けの純正品、市販市場向けの自社ブランドという3本柱で事業を構成していた。
しかし、この「親子並走」の構造は、約50年後の2017年に経営統合の発表という形で終結に向かうことになる。1967年の合弁設立からアルパイン完全子会社化(2019年)まで、アルプスは部品メーカーでありながら完成品メーカーの子会社を持つという二重構造を抱え続けた。この構造がもたらした恩恵──車載事業の売上規模とブランド力──と代償──親子上場に伴うガバナンス問題──は、経営統合時に改めて問われることになる。モトローラとの合弁という原点の判断は、半世紀にわたって企業の性格を規定し続けた。
部品メーカーが完成品領域に参入する場合、納入先のセットメーカーと競合関係が生じるリスクは避けがたい。アルプスはこの矛盾を、合弁会社という形式で本体とは別の法人に切り出すことで緩和した。モトローラとの合弁解消後も別会社として上場させたのは、部品事業と完成品事業の利益相反を組織的に分離する設計であったと読める。しかし50年後に親会社が統合を決断した際、この分離が少数株主との利害対立を生んだ。事業のリスクを分離した設計が、資本のリスクを後年に繰り延べた構造ともいえる。
1992年時点でアルプスの海外生産比率は24.5%、同業ミツミ電機は約70%であった。この差は経営判断の速度の差であると同時に、1987年に片岡勝太郎が設定した「マキシマム30%」という目標が組織の動きを規定した結果でもある。創業者の設計思想が円高という環境変化のもとで制約に転じ、後継者がその修正に数年を要した。事業本部制の導入と品種削減は、トップダウンからの脱却を意図した施策であるが、それが構造改革として機能するまでに、ピークから39%の売上減少という代償を要した。
1991年3月期、アルプス電気は売上高3,551億円というピークを記録した。しかし翌年から急激な減収が始まり、1996年3月期には2,179億円まで落ち込む。5期連続の減収であり、ピークからの下落率は約39%に達した。1948年の創業から1990年までの42年間で減収はわずか4回しかなかった企業にとって、この連続減収は未曾有の事態であった。「部品の総合デパート」として飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けてきた名門が、90年代に入って転落の道を歩み始めたのである。
業績不振の第一の原因は、円高に伴うセットメーカーの海外移転に対する対応の遅れであった。1990年時点でアルプスの海外生産比率は22.1%、1992年でも24.5%にとどまっていた。同業のミツミ電機はすでに70%近くに達しており、円高を追い風にとって低コスト化に先行することで7期連続の増収増益を達成していた。片岡勝太郎が1987年に掲げた「海外生産比率マキシマム30%」という目標は、結果として海外シフトの速度を抑制する足枷となり、競合との差を広げる要因となった。
第二の原因は「部品の総合デパート」戦略の行き過ぎであった。部品の種類は12万点にまで膨張し、研究開発投資は個々の製品に薄く広く分散した。片岡政隆社長は「バブル経済に乗って、黙っていても注文が入ってきた。注文通りの設計をこなしていれば売り上げは伸びた。受け身になって、独自の強みを生み出せなかった」と振り返っている。技術担当取締役の清野哲弘も「総合電子部品という名前におぼれてしまった。何にでも手を出し過ぎていた」と認めており、バブル期の受注環境が組織の危機感を麻痺させていた。
1993年6月、アルプス電気は大規模な構造改革に踏み切った。社員1,300人の希望退職を募集し、400人以上を子会社に出向させた。東北地方の3工場を閉鎖し、1993年3月から1996年3月にかけて社員数を6,832人から5,000人へ、約3分の2に削減した。創業以来最大の人員削減であった。さらに不採算部品の整理も並行して進め、利益の見込めないハードディスクドライブや液晶ディスプレーの一部を生産中止にし、部品の種類を12万点から8万点へと3分の1を削減した。
組織構造も根本的に改めた。それまで部品ごと・工場ごとに分かれていた125の部課を廃止し、車載電装部品・情報通信機器用部品・一般電子部品の3事業本部に再編成した。目的はトップダウンではない、事業本部単位の自主的な経営の実現にあった。権限委譲により現場での意思決定が迅速化し、「2週間かかっていた見積もりが1日でできるようになった」と車載電装事業部の担当者は語っている。社内の電子メールを使った業務改善アイデアの募集では、半年間で1,205件が集まり、待ちの意識が変わり始めた兆候が見えた。
生産方式も抜本的に見直した。「何でも自動化すればいい」という従来の設備投資方針を転換し、「屋台ライン」と呼ばれる1人組み立て方式を導入した。組み立て工程が屋台のように移動できるユニットになっており、製品の種類や量の変化に応じて簡単にラインを変更できる。ベルトコンベヤーを廃止した宮城県の車載電装事業部では、従業員が600人から440人に3割減ったにもかかわらず、生産量はむしろ増加した。「1人組み立てで生産性が5割と見違えるように上がった」と現場の担当者は語っている。
リストラの過程でアルプスは海外生産シフトを急加速させ、1996年3月には海外生産比率が40%を超えた。1990年の22.1%から6年で倍増させた計算になる。生産工程の見直しも全社レベルで実施され、工場によっては生産性が2倍になったところもあった。事業本部制の下で現場の意思決定が迅速化し、成績評価にも新規取引先の獲得件数を加えるなど、受け身の姿勢を変えるための制度的な改革が並行して進められた。守りから攻めへの転換を組織的に促す仕組みが整えられていった。
事業本部制が生んだ「攻め」の意識は、新規事業にも波及した。1995年1月、マイクロドライ方式のカラープリンターを自社ブランドで発売する。部品メーカーが納入先と競合する完成品を自社ブランドで売るという「掟破り」の判断であったが、これは事業本部長の決断によるボトムアップの提案が実現したものであった。定価69,800円のこの製品は、当初見込みの2倍近い20万台を売り上げた。開発部隊80人のうちほとんどが営業未経験ながら秋葉原で販売促進に従事するなど、組織の意識変化を象徴する事例となった。
ただし、片岡政隆社長は構造改革の成果に安堵していなかった。「手綱を緩めたらまた元に戻るだろう。TDKにはフェライト、京セラにはセラミックという他にまねできない素材がある。じゃあアルプスは何と聞かれるとそんな強みがない」。実際に競合との経営指標を比較すると、TDKは借入金依存度1.8%、自己資本比率77.9%と盤石であり、ミツミ電機のROE11.8%に対しアルプスは0.6%にとどまっていた。アルプスの回復はコスト削減による守りの改善であり、独自の技術的優位性の獲得には至っていなかった。
1992年時点でアルプスの海外生産比率は24.5%、同業ミツミ電機は約70%であった。この差は経営判断の速度の差であると同時に、1987年に片岡勝太郎が設定した「マキシマム30%」という目標が組織の動きを規定した結果でもある。創業者の設計思想が円高という環境変化のもとで制約に転じ、後継者がその修正に数年を要した。事業本部制の導入と品種削減は、トップダウンからの脱却を意図した施策であるが、それが構造改革として機能するまでに、ピークから39%の売上減少という代償を要した。
経営陣にも社員にもおごりがあった。バブル経済に乗って、黙っていても注文が入ってきた。注文通りの設計をこなしていれば売り上げは伸びた。受け身になって、独自の強みを生み出せなかった
手綱を緩めたらまた元に戻るだろう。TDKにはフェライト、京セラにはセラミックという他にまねできない素材がある。じゃあアルプスは何と聞かれるとそんな強みがない
栗山が就任時に掲げた「仕事を増やそう」というメッセージは、経営戦略としては自明に見える。しかし265億円の赤字を経験した組織においては、コスト削減と守りの意識が支配的になっており、成長へのマインドセットを取り戻すこと自体が課題であった。3年間同じメッセージを繰り返したという事実は、組織の慣性を変えるためには戦略の精緻さよりも、方向性の明快さと反復が効くことを示唆している。営業利益9倍という結果は、前任者時代の損益分岐点引き下げと栗山の成長志向が合わさって初めて実現したものである。
2008年3月期、アルプス電気の売上高は6,926億円に達していた。しかし翌2009年3月期、リーマンショックの影響で売上高は5,389億円に急落し、265億円の営業赤字を計上した。部品メーカーの収益はセットメーカーの好不況が増幅されて伝わるという構造的特性が、ここでも如実に表れた。2010年3月期には売上高4,936億円まで落ち込み、底を打つ。1983年に日経ビジネス誌が「天国と地獄を往復する」と評した部品メーカーの宿命が、四半世紀を経てなお変わっていなかった。
リーマンショック後、損益分岐点の引き下げは進められたが、成長戦略は描けていなかった。当時のアルプスは家電・PC向け部品への依存度が高く、これらの市場は中国メーカーの台頭とコモディティ化により価格下落圧力が強まっていた。1993年のリストラ以降も「部品の総合デパート」的な体質は根本的には変わっておらず、どの市場に経営資源を集中すべきかという判断は先送りされたままであった。損益分岐点を下げても、売上を伸ばす道筋が見えなければ持続的な回復は見込めない状況であった。
創業家3代目の片岡政隆は2012年まで24年間にわたり社長を務めていた。その間にアルプスは1991年のピークから2度の大きな危機──1990年代の円高不況と2009年のリーマンショック──を経験した。いずれも外部環境の激変に対して後手に回り、コスト削減で凌ぐというパターンが繰り返された。64年間続いた創業家経営のもとで、「何を捨てるか」という判断は構造的に先送りされやすかった。創業家にとっては、父が育てた事業も自らが守ってきた事業も、いずれも切り捨てがたいものであった。
2012年6月、栗山年弘がアルプス電気の代表取締役社長に就任した。京都大学理学部物理学科を卒業後、1980年にアルプス電気に入社し、HDD向けMRヘッドの開発など先端技術分野を主導してきた技術畑の人物である。創業家外からの社長就任は1948年の創業以来64年で初めてのことであった。片岡政隆は会長に退いた。技術者としてのキャリアを持つ栗山の起用は、営業主導で成長してきたアルプスにおいて、技術・開発を軸とする経営への重心移動を意味するものでもあった。
栗山が就任時に掲げたメッセージは「仕事を増やそう」という単純明快なものであった。「損益分岐点を下げたのだから、今度は売り上げを増やさなければならない」という論理である。このメッセージを3年間繰り返し、組織の意識を「守り」から「攻め」へ転換させた。具体的な数値目標として「車載で2,000億円、スマホで1,000億円」を掲げ、成長市場に経営資源を集中する方針を明示した。単純なメッセージを反復することで、コスト削減に慣れた組織の慣性を押し返す手法であった。
組織構造の改革も並行して進めた。市場別に分かれていた組織を機能別組織に転換し、5つの技術部門を1か所に集約して事業間の技術共有を促進した。家電・PC事業に配置されていた人員をスマートフォンと車載に大胆にシフトさせた。「カスタマー・イン」──顧客との擦り合わせ型開発を推進する姿勢は、片岡勝太郎の「ユーザーの声を聞け」の現代版ともいえるが、その対象を成長市場に絞り込んだところに栗山の判断がある。資源の分散という創業以来の課題に、集中という回答を出した。
栗山改革の成果は数字に明確に表れた。2013年3月期に68億円だった営業利益は、2016年3月期には約605億円へ、約9倍に回復した。車載向け部品とスマートフォン向け部品が牽引し、売上高も2014年3月期には6,843億円、2015年3月期には7,486億円と急回復を遂げた。「仕事を増やそう」という単純なメッセージが組織を動かした背景には、損益分岐点の引き下げという前任者時代の地道な構造改革の蓄積があったことも見逃せない。守りと攻めが噛み合った結果であった。
事業構造の転換は、より大きな戦略的決断への布石にもなった。車載事業の重要性が高まる中で、アルプス電気本体の電子部品と子会社アルパインの車載情報機器を一体化するという構想が浮上する。2017年7月、栗山はアルパインとの経営統合を発表した。CASE(Connected, Autonomous, Shared, Electric)時代に対応するため、部品と完成品を統合したプラットフォーム型の供給体制を構築する戦略である。1967年の合弁設立以来50年にわたって別会社として歩んだ親子関係を再定義する決断であった。
栗山の功績は、64年間の創業家経営のもとで先送りされてきた事業ポートフォリオの組み替えを実行したことにある。家電・PCという縮小市場から車載・スマホという成長市場へのシフトは、創業家にとっては祖業や歴史との決別を意味する側面があり、外部の視点を持つ経営者だからこそ決断できた面がある。一方で、経営統合後のアルプスアルパインにおいてモジュール・システム事業の赤字が続いている事実は、統合の理念と収益構造の改善の間にまだ距離があることを示している。
栗山が就任時に掲げた「仕事を増やそう」というメッセージは、経営戦略としては自明に見える。しかし265億円の赤字を経験した組織においては、コスト削減と守りの意識が支配的になっており、成長へのマインドセットを取り戻すこと自体が課題であった。3年間同じメッセージを繰り返したという事実は、組織の慣性を変えるためには戦略の精緻さよりも、方向性の明快さと反復が効くことを示唆している。営業利益9倍という結果は、前任者時代の損益分岐点引き下げと栗山の成長志向が合わさって初めて実現したものである。
経営統合の臨時株主総会における賛成率は73.3%であったが、親会社アルプス電気の保有分を除外すると賛成は32.38%にとどまり、反対の26.70%との差はわずかであった。形式的には特別決議の要件を満たしているが、少数株主の間では賛否が拮抗していたことを意味する。30年間上場企業として独自に企業価値を蓄積してきたアルパインの評価を、株式交換比率1:0.68で確定させることへの異議は、親子上場の構造そのものが孕む利益相反の一例として記録に値する。
2017年、自動車産業はCASE(Connected, Autonomous, Shared, Electric)という大きな技術転換の入口に立っていた。車載部品メーカーにとっては、個別の部品を供給するだけでなく、コネクテッドカーに必要な統合的なプラットフォームを提案する能力が求められ始めていた。アルプス電気の電子部品(スイッチ、センサー等)とアルパインの車載情報機器(ナビゲーション、オーディオ等)を一体化すれば、こうしたプラットフォーム型の提案が可能になるという構想があった。
しかし経営統合にはもう一つの構造的な背景があった。アルプス電気はアルパイン株式の約40%を保有する親会社であり、アルパインは東証一部の独立上場企業でもあった。親子上場という構造は、親会社と少数株主の利益が相反する局面を構造的に孕んでいる。アルパインが独自の経営判断で30年間にわたり上場企業として成長し、北米市場でプレミアムブランドとしての地位を築いてきた一方で、親会社の戦略的判断が少数株主の経済的利益を毀損しうるという根本的な緊張関係が存在していた。
2017年7月、アルプス電気はアルパインとの経営統合を発表した。アルプス電気1株に対しアルパイン0.68株という株式交換比率が提示された。統合の目的は、電子部品と車載情報機器の一体化によるCASE対応プラットフォームの構築であった。この発表に対し、アルパインの少数株主であった香港のアクティビストファンド・オアシス・マネジメントが、株式交換比率はアルパイン株主に不利であるとして反対の声を上げ、統合議案の採否をめぐって委任状争奪戦に発展した。
2018年6月のアルパイン定時株主総会ではオアシスが特別配当と取締役再選反対の株主提案を行い、同年12月5日の臨時株主総会で経営統合議案の採否が問われた。結果は賛成73.3%で特別決議の要件を満たして可決されたが、親会社アルプス電気の保有分を除くと、一般株主の間では賛成32.38%に対し反対26.70%という僅差であった。30年間にわたり独立上場企業として蓄積してきた企業価値を、株式交換比率1:0.68で確定させることへの異議は根深いものがあった。
2019年1月、アルパインを完全子会社化し、社名をアルプスアルパイン株式会社に変更した。1967年のモトローラとの合弁設立から52年、1988年のアルパイン東証上場から31年を経て、部品メーカーと完成品メーカーの「親子並走」は終わりを告げた。2020年4月にはアルパインから全事業(商標権・子会社管理を除く)を会社分割により継承し、組織統合が完了した。両社の長い歴史に一つの区切りがつけられたが、統合の真価は今後の収益で問われることになる。
しかし統合後の収益面では課題が残った。旧アルパイン領域を含むモジュール・システム事業は、2024年3月期に売上高5,543億円と全体の約57%を占めながら、セグメント利益は11億円の赤字であった。部品と完成品の一体化によるCASE対応プラットフォームの構築という統合の理念が、収益構造の改善にどう結びつくかは引き続き問われている。一方で臨時株主総会での僅差の可決は、親子上場の解消における少数株主保護のあり方について、日本の資本市場に一つの教訓を残した。
経営統合の臨時株主総会における賛成率は73.3%であったが、親会社アルプス電気の保有分を除外すると賛成は32.38%にとどまり、反対の26.70%との差はわずかであった。形式的には特別決議の要件を満たしているが、少数株主の間では賛否が拮抗していたことを意味する。30年間上場企業として独自に企業価値を蓄積してきたアルパインの評価を、株式交換比率1:0.68で確定させることへの異議は、親子上場の構造そのものが孕む利益相反の一例として記録に値する。