1946年に井深大と盛田昭夫が東京通信工業を設立し、特許買収によるテープレコーダー製造から事業を開始した。トランジスタラジオとウォークマンで世界市場を開拓し、CBS Records・コロンビア映画の買収でエンタメ企業に変貌した。PlayStationでゲーム市場に参入しCCDイメージセンサーで半導体事業を本格化したが、2000年代にはエレクトロニクス事業の不振で6年間に5期の最終赤字を計上した。平井一夫体制でVAIO・電池事業を売却し、ゲーム・音楽・映画・センサーに集中する事業再編を経て、売上高13兆円の多角的経営体制を確立した。
売上高・営業利益率
セグメント別売上高
売上高分解(原価・販管・営利)
歴史概略
第1期: 技術ベンチャーからグローバルブランドへ(1946〜1979)
特許買収とテープレコーダーで築いた創業期の基盤
1946年5月、元海軍技術者の井深大と酒造家の息子である盛田昭夫が、東京・日本橋の白木屋跡に東京通信工業を設立した。NHKの放送設備修理や電機雑務を請け負う零細企業であったが、元文部大臣の前田多門を形式上の社長に据え、帝国銀行元頭取の万代順四郎を相談役に迎えることで対外的な信用力を確保した。
1950年、井深は安立電気とNECから高周波バイアス法の特許を25万円で取得し、テープレコーダー市場に参入した。この特許は1960年まで有効であり、大手電機メーカーの参入を10年間にわたって阻止した。1951年10月期には売上高1.02億円を計上し、全社を挙げた録音機製造方針のもとで倍額増資を実施。特許という法的障壁を盾にした10年間の市場独占が、次なる製品開発への資金基盤を形成した。
トランジスタラジオとSONYブランドの世界展開
1954年にベル研究所の特許を一括900万円で導入し、1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。国内では1台2万円の高価格が障壁となり販売は低迷したが、盛田昭夫は家族を伴いニューヨークに移住し、自社ブランド「SONY」での米国輸出に活路を見出した。OEM供給を拒否し独自ブランドで展開する判断は当時の日本企業としては異例であった。
1958年に東証上場と同時に社名をソニー株式会社に変更し、1961年には日本企業初のADRを発行、1970年にはニューヨーク証券取引所に上場した。1960年前後には売上高の約40%がアメリカ向け輸出で占められ、海外投資家比率は32%に達した。1968年発売のトリニトロンカラーテレビ、1979年のウォークマン「TPS-L2」と、製品と資本の双方でグローバル化を推進した。
ベータマックスの規格競争とエンタメ戦略の伏線
1975年に家庭用VTR「ベータマックスSL-6300」を発売し、ビデオ規格の主導権を争った。しかし松下電器と日本ビクターが提唱したVHS方式がOEM供給と長時間録画対応で他社の採用を広げ、ソニーは規格競争で劣勢に立たされた。1988年頃にはVHS方式の併売を開始し、敗北を事実上認める形となった。
ハードウェアの技術的優位だけでは規格の主導権を握れないという教訓は、ソニーの経営戦略に構造的な転換をもたらした。映像コンテンツの確保を競争軸に加える方針が生まれ、1988年のCBS Records買収、1989年のコロンビア・ピクチャーズ買収へとつながった。ベータマックスでの経験は、ソニーがエレクトロニクスメーカーからエンタテインメント企業へと変貌する出発点となった。
第2期: コンテンツ企業への転換とエレクトロニクスの苦境(1988〜2014)
ハリウッド買収とPlayStationの成功
1988年1月にCBS Recordsを買収して音楽版権ビジネスに本格参入し、1989年11月にはコロンビア・ピクチャーズを約48億ドル(負債含む6720億円)で取得した。ハードウェアとコンテンツの一体提供を目指したが、1994年9月に映画部門で2652億円の営業権を償却する事態に至った。一方、1994年にはPlayStationを国内発売し、ゲーム市場に後発参入した。
1979年にはソニー・プルーデンシャル生命を合弁設立して金融事業にも参入し、2001年にはソニー銀行を設立した。CCDイメージセンサーの開発を1979年に開始し、半導体事業を本格化させた。エレクトロニクス・エンタテインメント・金融・半導体という多角的な事業構造が、この時期に形成された。
ソニーショックと6年5期の最終赤字
2003年にソニーは減収減益の決算を発表し、株式市場の一時的な暴落を引き起こした「ソニーショック」が発生した。エレクトロニクス事業では液晶テレビの価格競争、iPhoneの台頭による携帯電話事業の不振、リチウムイオン電池のiPhone納入失敗が重なった。2012年3月期には当期純損失4550億円という過去最大の赤字を計上した。
2009年から2015年までの6年間のうち5年が最終赤字という状態に陥り、2008年度末に約18万名だった従業員は7年間で約5万名が削減された。美濃加茂工場では非正規雇用者約1600名が契約終了となるなど、国内製造拠点の段階的閉鎖が進んだ。映画・音楽・金融が収益を支える一方、エレクトロニクス事業の構造的不振が続いた。
平井体制による不採算事業の売却
2012年に平井一夫がCEOに就任し、事業ポートフォリオの再編に着手した。2014年7月にPC事業「VAIO」を日本産業パートナーズに売却し、長野県安曇野市に従業員240名の新会社が設立された。2017年4月にはリチウムイオン電池事業を村田製作所に譲渡し、約8000名の雇用が引き継がれた。テレビ事業は2014年に分社化された。
工場閉鎖ではなく事業ごとの売却という手法を選択し、製造拠点と雇用をセットで引き継がせることで撤退に伴う摩擦を緩和した。ディスプレイ事業もジャパンディスプレイに統合され、愛知・鳥取の事業所と従業員約2200名が移管された。不採算事業の整理が完了した2019年3月期、ソニーは過去最高の営業利益9162億円を計上した。
第3期: センサー・ゲーム・エンタメの三本柱と再成長(2019〜現在)
イメージセンサーへの集中投資
1979年のCCDイメージセンサー開発に端を発する半導体事業は、スマートフォン向けCMOSセンサーの需要拡大によって成長軌道に乗った。FY2021からFY2023にかけて累計約9000億円の設備投資を実施し、長崎にCMOS製造棟の新設を決定した。イメージセンサーの世界シェアは約50%に達し、Apple等のスマートフォンメーカー向けの供給が収益の柱となった。
2020年4月には上場子会社ソニーフィナンシャルホールディングスを約4000億円のTOBで完全子会社化し、グループ経営の一体化を進めた。2021年4月にはソニーグループに商号を変更し、事業持株会社体制への移行を完了した。
売上高13兆円の多角経営体制
エレクトロニクスの量産型製造業から、ゲーム・音楽・映画・イメージセンサー・金融を柱とする多角的経営体制への転換が数字に表れた。FY2024の売上高は13兆207億円、営業利益は9705億円を計上し、従業員数は約11.3万名となっている。PlayStationを軸としたゲーム事業、音楽・映画の版権収益、イメージセンサーの世界的シェアという三つの柱が安定的な収益基盤を形成している。
かつてウォークマンやトリニトロンで世界の消費者を驚かせた企業は、財務的な復活を遂げた。創業から約80年を経て、ソニーは製品メーカーからコンテンツとテクノロジーのコングロマリットへと事業構造を転換させた。
ソニー創業で注目すべきは、技術者2人が自ら社長に就くのではなく、元文部大臣の前田多門を形式上の初代社長に据えた点にある。零細企業にとって販路開拓と資金調達には対外的な信用が不可欠であり、前田・万代という経済界の重鎮を取締役に組み込むことでその信用を「借りた」。井深が技術、盛田が営業、名望家が対外交渉という分業構造は、戦後の混乱期に零細メーカーが生き残るための現実的な知恵であった。