1946年〜 特許とブランドで世界市場を切り拓いた技術ベンチャー
ソニーの業績推移:単体
- 1946年 井深大氏らが疎開工場を捨て、資本金19万円で東京通信工業を設立 りんご園の疎開工場に残るか、8人で焼け跡へ出るか——軍需を失った技術者はなぜ「理想工場」を先に掲げたか
- 1946年 ソニー創業——井深大氏と盛田昭夫氏が資本金19万円で興した「理想工場」 焼け跡の百貨店3階に集った20人は、無名の技術ベンチャーをどう立ち上げ、大手に伍したか
- 1947年 本社・工場を品川区に移転
- 1955年 トランジスタ技術の導入と自社ブランド「SONY」による米国輸出 下請けとしての大量注文か、無名でも自社ブランドか——製造業者から日本発のグローバルブランドへ賭けた選択
- 1955年 東京店頭市場に株式公開
- 1958年 社名をソニーに変更
- 1968年 CBS Inc.との合弁でシービーエス・ソニーレコードを設立
二〇人の研究所と、特許という最初の参入障壁
ソニーの前身は、1945年10月に元海軍技術者の井深大氏が旧日本測定器の同志約20人[1]と、東京・日本橋の白木屋百貨店の一隅で電気通信機と測定器の研究製作を始めた東京通信研究所である。製品が運輸省や逓信省に採用されて受注が伸び、1946年5月、酒造家の息子である盛田昭夫氏も加わって資本金19万円[2]・従業員20人余りで東京通信工業株式会社を設立した。井深氏は設立趣意書の目的の第一に「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」[3]を掲げ、戦中から「生き残って新しい仕事が始められるなら[4]、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう」(井深大の世界 1993)と構想していた。元文部大臣の前田多門氏を形式上の社長に、帝国銀行元頭取の万代順四郎氏を相談役[5]に迎えて信用力を借りたが、技術力だけで大手に伍するのは難しく、同社が最初に掴んだ武器は特許という参入障壁だった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1945年10月 井深大氏が東京通信研究所を開設(日本橋・白木屋百貨店)
- [5]前田多門氏が社長・万代順四郎氏が相談役
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1946年5月 資本金19万円で東京通信工業を設立
- 井深大「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [3]設立趣意書 目的の第一「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」
- 井深大の世界(1993)
- [4]井深大氏 戦中からの民生用製品構想
同社は当初、真空管電圧計などの測定器を手がけていたが、大手がやらず自社の技術を生かせる商品としてテープレコーダーの開発を選び、1949年に磁気テープと録音機の試作に成功[6]した。1950年、井深氏は安立電気と日本電気から高周波バイアス法の特許を25万円で取得[7]し、テープレコーダー市場に参入した。この特許は1960年まで有効[8]であり、東芝・日立製作所・松下電器産業が同市場へ参入するのを事実上10年にわたって封じる盾になった。1951年10月期には売上高1億200万円を計上し、資本金を2,000万円へ積み増して[9]本社工場の隣接地を取得した。1959年8月には「中小企業のチャンピオン・技術革新の波にのったソニー」[10]「同社は13年前、どこにでもある小さな町工場から、いま従業員2000人を数える会社にのしあがった」(読売新聞 1959/08/23)と報じられ、戦後ベンチャーの代表格として扱われた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]1949年 磁気テープと録音機の試作に成功
- [7]1950年 高周波バイアス法の特許を25万円で取得
- [8]高周波バイアス法特許の有効期限 1960年まで
- [9]1951年10月期 売上高1億200万円・資本金2,000万円へ増資
- 読売新聞(1959年8月23日)
- [10]1959年8月 従業員2000人規模への成長を報道
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1945年10月 井深大氏が東京通信研究所を開設(日本橋・白木屋百貨店)
- [5]前田多門氏が社長・万代順四郎氏が相談役
- [6]1949年 磁気テープと録音機の試作に成功
- [7]1950年 高周波バイアス法の特許を25万円で取得
- [8]高周波バイアス法特許の有効期限 1960年まで
- [9]1951年10月期 売上高1億200万円・資本金2,000万円へ増資
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1946年5月 資本金19万円で東京通信工業を設立
- 井深大「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [3]設立趣意書 目的の第一「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」
- 井深大の世界(1993)
- [4]井深大氏 戦中からの民生用製品構想
- 読売新聞(1959年8月23日)
- [10]1959年8月 従業員2000人規模への成長を報道
難しいからやる技術選択と、間口をせばめた専業経営
1952年2月、井深氏は初めて渡米し[11]、ウェスタン・エレクトリック社がトランジスタの特許を900万円でライセンスすると聞いて交渉に入った。当時の東京通信工業は従業員120人ほどで、技術者が三分の一以上[12]を占めていた。井深氏はのちに「テープレコーダはそれほど奥深い技術とは思えず、大勢の技術者をその後どうしようかと困っていた。一方、トランジスタは、これは相当に難しそうだ」(技術開発の昭和史 1986)と、難度の高さこそが導入の動機だったと明かしている。ところが通商産業省は「トランジスタラジオの開発など小さな町工場にそんな大それたことができるものか[14]」と取り合わず、許可が下りたのは1954年1月末[15]だった。米国のリージェンシーが1954年末に先に市販[16]し、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」の発売は1955年8月[17]となった。 [13]
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「証言 トランジスタの開発と応用」
- [11]1952年2月 井深大氏が初訪米・WE社の特許ライセンスを知る
- [12]当時の従業員120人ほど・技術者が三分の一以上
- [13]井深大氏 難度の高さが導入の動機
- [14]通商産業省が技術導入に反対
- [15]1954年1月末 技術導入の政府許可
- [16]1954年末 リージェンシーが先行市販
- [17]1955年8月 日本初のトランジスタラジオTR-55を発売
最初のラジオは1台18,900円[18]で、当時流行のミニチュア管ポータブルラジオと比べて小さいともいえず、国内での販売は伸び悩んだ。井深氏はポケットに入る大きさを目標に据え、ミツミ電機やフォスター電機を訪ねて小型のスピーカー・コンデンサー・トランスを新たに作らせ[19]、電池まで専用の6ボルト品を用意させて1957年に世界初のポケッタブルラジオを市販[20]した。盛田昭夫氏は家族を伴いニューヨークへ移り、米国大手流通からのOEM供給の申し出を断って自社ブランド「SONY」[21]での輸出に賭けた。当時の日本メーカーは米企業の下請けとして輸出するのが常道[22]であり、無名のまま自社の名で売る選択は異例である。1958年1月に社名をソニー株式会社へ改め、同年12月に東京証券取引所へ上場[23]した。
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「証言 トランジスタの開発と応用」
- [18]TR-55の価格 1台18,900円
- [19]ミツミ電機・フォスター電機へ小型部品を発注、専用6ボルト電池
- [20]1957年 世界初のポケッタブルラジオを市販
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]盛田昭夫氏が渡米しOEM供給を断り自社ブランドで輸出
- [22]当時の日本メーカーは下請け輸出が常道
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1958年 社名をソニーへ変更し東京証券取引所へ上場
同社は総合電機への拡大を採らず、常務の吉井陛氏は1966年10月の講演で「間口を広くすれば技術の集中度において欠けるところが出て来ます[24]」と述べ、専業を貫く理由を技術の集中度に置いている。カラーテレビでは1961年3月に井深氏が米国の学会で見たパラマウントのクロマトロン方式[25]を導入したが、量産の歩留まりは一割に満たず、1台あたり10万円の赤字[26]を出した。RCAのシャドウマスク方式へ乗り換えれば技術の看板[27]が傷つき、開発を率いた吉田進氏は宮岡千里氏に一本の電子銃から三つの電子ビームを水平に出す構造を求め[28]た。1966年末に電子銃の原型ができ[29]、大越明男氏がアパーチャ・グリルを1967年夏に仕上げ、着想から6年を経た1968年4月[30]にトリニトロンを発表している。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号「ソニーの近況と今後の見通し」(常務取締役 吉井陛氏の講演要旨)
- [24]吉井陛氏 専業を貫く理由は技術の集中度
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準 1トリニトロンテレビ」
- [25]1961年3月 井深大氏がクロマトロン方式に着目し技術導入
- [26]クロマトロンの歩留まり一割未満・1台10万円の赤字
- [27]シャドウマスク方式への転換は技術の看板を傷つけるとの判断
- [28]吉田進氏が宮岡千里氏へ一電子銃三ビームを指示
- [29]1966年末 トリニトロン電子銃の原型完成
- [30]1967年夏 アパーチャ・グリル完成、1968年4月 トリニトロン発表
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「証言 トランジスタの開発と応用」
- [11]1952年2月 井深大氏が初訪米・WE社の特許ライセンスを知る
- [12]当時の従業員120人ほど・技術者が三分の一以上
- [13]井深大氏 難度の高さが導入の動機
- [14]通商産業省が技術導入に反対
- [15]1954年1月末 技術導入の政府許可
- [16]1954年末 リージェンシーが先行市販
- [17]1955年8月 日本初のトランジスタラジオTR-55を発売
- [18]TR-55の価格 1台18,900円
- [19]ミツミ電機・フォスター電機へ小型部品を発注、専用6ボルト電池
- [20]1957年 世界初のポケッタブルラジオを市販
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]盛田昭夫氏が渡米しOEM供給を断り自社ブランドで輸出
- [22]当時の日本メーカーは下請け輸出が常道
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1958年 社名をソニーへ変更し東京証券取引所へ上場
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号「ソニーの近況と今後の見通し」(常務取締役 吉井陛氏の講演要旨)
- [24]吉井陛氏 専業を貫く理由は技術の集中度
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準 1トリニトロンテレビ」
- [25]1961年3月 井深大氏がクロマトロン方式に着目し技術導入
- [26]クロマトロンの歩留まり一割未満・1台10万円の赤字
- [27]シャドウマスク方式への転換は技術の看板を傷つけるとの判断
- [28]吉田進氏が宮岡千里氏へ一電子銃三ビームを指示
- [29]1966年末 トリニトロン電子銃の原型完成
- [30]1967年夏 アパーチャ・グリル完成、1968年4月 トリニトロン発表
規模の拡大と、エレクトロニクス外への最初の一歩
1970年3月、吉井氏はトリニトロンの量産に向けて200億円の設備投資を決めた[31]と明かし、これを「昭和43年まで過去23年間の投資累計額に匹敵する[32]」規模と説明した。同じ講演で輸出が総売上の60%、うち米国向けが37%[33]を占めることを示している。外国人の持株は2,450万株・32.14%[34]に達し、当時の許容枠33%にほぼ届いていた。1961年6月のADR発行以来、同社は時価発行で資金を集め、無償交付は累計で総発行株数の44.4%にあたる3,560万株[35]へ及んだ。1979年に発売した携帯型再生機ウォークマンは世界で大きく売れ[36]、盛田氏はのちに家電の条件を「商品というものは、素人の人が喜んで使えるものでなきゃ[37]、本物じゃない」(読売新聞 1983/05/10)と語っている。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻5号「ソニーの現状と将来」(常務取締役 吉井陛氏の講演要旨)
- [31]1970年 トリニトロン量産へ200億円の設備投資
- [32]過去23年間の投資累計額に匹敵する規模
- [33]輸出比率60%・うち米国向け37%
- [34]外国人持株 2,450万株・32.14%(許容枠33%)
- [35]無償交付 累計3,560万株・総発行株数の44.4%
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「5章 先端技術の開発で国際水準」
- [36]ウォークマンの大ヒット
- 読売新聞(1983年5月10日)
- [37]盛田昭夫氏 商品の条件
1979年8月、米プルデンシャル生命保険との合弁でソニー・プルーデンシャル生命保険を設立[38]し、出資比率50%でエレクトロニクスとは無縁に見える金融事業へ参入した。同社は1991年4月にソニー生命保険へ商号を改め、1996年3月に完全子会社[39]となっている。機器の販売に収益が偏る構造を補うこの事業は、のちに設立されるソニー銀行やソニー損害保険とあわせてグループの一角[40]を占めた。2004年4月にはこれらを束ねる持株会社ソニーフィナンシャルホールディングスが設立され[41]、2007年10月に東京証券取引所市場第一部へ上場している。本業のエレクトロニクスが振れるなかで金融は安定した収益を供給し、2020年3月期の営業利益は1,296億円[42]に達した。
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [38]1979年8月 ソニー・プルーデンシャル生命保険を設立(50%出資)
- [39]1991年4月 ソニー生命保険へ商号変更、1996年3月 完全子会社化
- [40]ソニー銀行・ソニー損害保険とあわせた金融事業の構成
- [41]2004年4月 ソニーフィナンシャルホールディングス設立、2007年10月 東証一部上場
- ソニー 有価証券報告書(2020年3月期・連結・IFRS)
- [42]2020年3月期 金融事業の営業利益1,296億円
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻5号「ソニーの現状と将来」(常務取締役 吉井陛氏の講演要旨)
- [31]1970年 トリニトロン量産へ200億円の設備投資
- [32]過去23年間の投資累計額に匹敵する規模
- [33]輸出比率60%・うち米国向け37%
- [34]外国人持株 2,450万株・32.14%(許容枠33%)
- [35]無償交付 累計3,560万株・総発行株数の44.4%
- 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)「5章 先端技術の開発で国際水準」
- [36]ウォークマンの大ヒット
- 読売新聞(1983年5月10日)
- [37]盛田昭夫氏 商品の条件
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】
- [38]1979年8月 ソニー・プルーデンシャル生命保険を設立(50%出資)
- [39]1991年4月 ソニー生命保険へ商号変更、1996年3月 完全子会社化
- [40]ソニー銀行・ソニー損害保険とあわせた金融事業の構成
- [41]2004年4月 ソニーフィナンシャルホールディングス設立、2007年10月 東証一部上場
- ソニー 有価証券報告書(2020年3月期・連結・IFRS)
- [42]2020年3月期 金融事業の営業利益1,296億円