元海軍の技術者であった井深大氏(当時38歳)は、終戦によって軍を失職したため、1946年5月に東京通信工業を創業した。海軍時代の知り合いであった盛田昭夫氏と2名で共同創業。盛田氏の父親(酒造会社経営)は創業資金を出資し、ソニーの債務を個人保証として受け入れるなど財務支援を実施した。
創業時は空襲で焼け落ちていた日本橋白木屋に本社を構え、NHKの放送設備の修理などに従事した。1950年にテープレコーダーの製造に参入するためでは、電機関係の雑務を請け負う中小企業であった。
万代氏(帝国銀行=三井銀行の元頭取)が相談役に就任。前田多門氏(元日本政府・文部大臣)が形式上の初代社長に就任。これら経済界の重鎮がソニー創業期の取締役として販売先の紹介、政界へのロビー活動、金融支援によって経営を支えた
井深大氏はNHKで見かけたテープレコーダに着目して事業化を決意。製造に必須の特許を安立電気(現アンリツ)と日本電気(NEC)から25万円で買収。特許買収によって開発期間1年でテープレコーダーG型を発売できた。1960年までこの特許の存在によってソニーは、大手電機メーカーのテープレコーダーへの参入を防止し、創業期における収益源に育った。
ソニーはテープレコーダーを官公庁や教育機関向けに売り込むことで順調に業容を拡大した。1951年10月期にソニーは売上高1.02億円、利益0.9億円という高収益な決算を計上した。配当3割を行うことで、株主還元にも積極的であった。
1951年にソニーの部長会議において「全社を挙げて録音機製造にあたる」方針を決定。テープレコーダーの製造販売に経営資源を投下した。
そこで、本社工場の隣接地を買収してテープレコーダーの製造工場を増設する方針を決めた。1951年に資本金を従来の2倍となる2000万円になるように増資を実施。本社工場に隣接していた会社が保有していた土地を取得し、テープレコーダの増産に備えた。
井深大氏は1948年にベル研究所(米)で発明されたトランジスタに注目。製造特許を持つウェスタンエレクトリック(WE)社からの技術導入を決め「半導体素子に関する特許実施権許諾」を締結。1954年2月2日から期間は10年。特許料は900万円(現在換算1億円以上)に加えて、売上高に応じて2%であり、ソニーとしては巨額投資であった。ラジオへの応用を目論む。
1955年にソニーは日本初となるトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。鬼門だったトランジスタの歩留まり問題は、製造工程にアンチモンを投入するという画期的な発明によって改善し、国内の大手電機メーカーよりも早く小型ラジオの開発に成功した。
ただし、国内ではトランジスタラジオの販売に苦戦した。当時の日本人にとってはトランジスタラジオの価格が1台2万円と高すぎたことが原因であった。
販売を担当していた盛田昭夫氏は、1950年代を通じてアメリカへのトランジスタラジオの輸出の本格化を決めた。1956年にソニーはトランジスタラジオ「TR-63」を開発し、さらなる小型化に成功。盛田昭夫氏は、TR-63を日本国内で発売する前に、欧米の海外で販売して市場の開拓を目論んだ。
当時は世界的にトランジスタラジオの実用化に成功した企業は少なく、競合はグローバルで1社だけであった。このため、SONYがグローバルな先進国の市場で戦える余地が存在していた。盛田昭夫氏はニューヨークの高級マンションを借りた上で、一家で移住。さらに、一流ホテルをラジオ販売の商談の場所にすることで、アメリカのバイヤーに信用されるように努めた。これらの努力によって、地道に販売の糸口を作って行った。
輸出拡大の原動力は、独自ブランド「SONY」としてトランジスタラジオを売り出したことにある。当時の日本企業は「米国企業のOEM」として輸出することが多かったが、盛田昭夫氏は独自ブランド「SONY」で輸出展開することを断固として譲らなかった。なお、当時、ソニーの社名は「東京通信工業」であり外国にとって発音しにくい名称だったことから、ラテン語のSONUSと英語のSONNYをもとに、SONYを自社のブランド名として採用した。
すなわち、一般的な日本企業の販売戦略であった安易なOEMに頼るのではなく、盛田昭夫氏による「自社ブランドでアメリカ市場を攻略する」という決定が、SONYがグローバル企業として成長を遂げる原動力になった。
トランジスタラジオの開発成功と販売拡大によって、ソニーは戦後日本を代表する「急成長企業」として注目を集める最初の契機となった。以後、家電業界においてソニーは、戦後に設立された後発企業ながらも急成長を遂げる会社として、産業界からも注目されるようになった。1960年前後には売上高の40%がアメリカ向けの輸出で占められており、グローバル企業でもあった。
また、井深氏は新製品の開発といった技術面、盛田氏は海外輸出といったマーケティング面を担当することで、共同創業者の役割分担が明確になった。
(注:アメリカにおいて)ソニーの名は日本製品中のチャンピオン的役割を果たしていると言える。事実、質的に優秀であるし、量的にも一番多く出ていると思う。では何故かかる名声を勝ち得たかといえば、日本のメーカーの中で一番早くから輸出に力を注いだために、SONYの名が非常に早くから売れていたということ。しかも当社は、初めからSONYの名で統一し、アメリカでの名(注:OEM)を使わなかった。徹頭徹尾SONYの名で統一し、そのために開拓時にはかなり苦労はあったが、とにかくSONYの名を明示せずには、品物を出さぬということを固持してきた。それが実に良かったのである。
このSONYという名が、アメリカでは覚えられやすく、親しまれやすい名であったということも、良かったのである。日本を訪れたアメリカのバイヤーが、他社に行ってSONY製品をくれ!といった話をいくつも聞いているが、それほど海外でSONYの人気は高い。
トランジスタラジオによる売上急拡大を受けて、1958年に東京証券取引所に上場。1960年度には従業員数は3600名を突破し、戦後に誕生した会社として、異例の急成長企業として脚光を集めた。
株式上場に合わせて、1958年に商号を「ソニー株式会社」に変更。海外でトランジスタラジオのブランドとして認知された「ソニー」を社名とした。当時の日本企業で「カタカナ」を商号に用いる例が少なく、先駆的な企業として注目された。
1961年にソニーは、日本企業としてADRを戦後初めて発行し、海外からの資金調達を実現した。主幹事はスミスバーニーと野村証券を選定。公募は200万株(20万ADR)で、公募価格は17.5ドル/1ADR。申し込みが殺到し、募集開始から即座に公募は売り切れ(倍率10倍)となった。
さらに、1970年にソニーは日本企業として初のNY上場を果たし、海外からの資金調達を本格化。この結果、1970年時点でソニーの株主における海外投資家比率は32%に至った。
1960年にソニーはテレビへの参入を決定したが、日本国内では後発参入で苦戦した。1960年に小型の白黒テレビ「TV8-301」を発売するが、生産コストが高く普及に至らなかった。
1968年にソニーはトリニトロンカラーテレビ「KV-1310」を発売して、カラーテレビ市場に参入。日本国内はカラーテレビが普及途上にあり、KV-1310の販売が順調に推移。トリニトロンの販売好調により、ソニーのテレビ事業がトランジスタラジオに次ぐ第2の柱に育った。
カラーテレビの北米現地生産を開始。深刻化しつつあった日米貿易摩擦に対する配慮
ラジオ、カラーテレビに次ぐ期待の電機製品として「ビデオ」の開発を推し進め、ベータマックスの規格を発表した。ソニーは競合他社にもベータマックス規格の採用を申し出るが、松下電器とその子会社である日本ビクターは「VHS」方式を提唱して、ビデオ規格は2つの流派が入り乱れる形となった。
この結果、1980年代を通じてソニーと日本ビクターの間で熾烈な「ビデオ戦争」が勃発したが、ファミリー作りに成功した日本ビクターのVSHが優勢となった。1988年ごろにソニーはVHSの併売を決めてビデオ戦争で敗北を喫した。
ベータマックスの規格策定失敗という経緯から、ソニーはハードウェアでの競争だけではなく、ソフト面(映像コンテンツ)も競争の軸として加えるようになった。これが、1989年のコロムビア買収の布石となる。
金融事業に参入。合弁設立当初は折半出資(ソニー50%:The Prudential Insurance Co. of America50%)。1996年にSONYが完全子会社化で100%出資。2007年に東証一部上場(ソニーの株式保有は約60%に定価)。2020年にTOBで完全子会社化
1968年に米CBSとの合弁により、ソニーレコード株式会社を設立し、音楽の版権ビジネスに参入。合弁設立当初は折半出資(ソニー50%:CBS50%)。その後、1988年にSONYがCBSを買収して完全子会社化
米国の映画会社コロムビアを約34億ドルで買収。肩代わりする借金を含めると合計約48億ドル(6720億円)での取得となった。
しかし、1994年9月に映画部門で2652億円の営業権を償却。1988年に買収したコロムビアの業績低迷が要因となった
ソニーの共同創業者である井深大がソニーの名誉会長に就任し、経営の一線から退いた。なお、1997年に井深大は89歳で逝去し、ソニーと共に歩んだ人生に幕を閉じた。
また、1993年に盛田昭夫は病気のために経営の復帰が困難となり、1994年に名誉会長に就任する形で経営を退いた。なお、1999年に盛田昭夫は78歳で逝去し、その生涯に幕を閉じた。
VTR向けリチウムイオン電池を実用化。競合の旭化成に対する宣戦布告
当時のゲーム機業界は任天堂の1強であったが、ソニーは任天堂に宣戦布告する形でテレビゲーム市場に後発参入した。任天堂がハードウェアの性能を「必要最低限」に抑えたのに対し、ソニーはハードウェアの性能を「最大限」に高めることで差別化を図り、コアなゲーム好きな層を獲得することでゲーム事業を発展させた。
なお、ゲーム事業の発展の立役者は久夛良木健氏とされており、「プレーステーションの父」と呼ばれるらしい。
日本企業としてかなり早い段階でガバナンス改革を開始。社外取締役の起用などで注目を浴びた
2001年にソニーは「減収減益」の決算を発表し、市場関係者を動揺させ株式市場が一時的に暴落してソニーショックと形容された。長年、ソニーといえば先進的なイメージがとりまとっていたが、ソニーショックを経たことで、経済メディアにおける「ソニー批判」の特集記事が目立つようになった。
2008年度から2014年度にかけて、ソニーでは全社的な人員削減を推進。希望退職や事業売却などにより従業員数が減少し、2008年3月期末時点の従業員数18.0万名から、2015年3月期末時点の従業員数13.1万名となり、約7年間で5万名の減少となった。
2009年の一宮テックの閉鎖を皮切りに、ソニーは国内における主力工場の閉鎖を本格化した。一宮テックはブラウン管TVの製造のための拠点であり、液晶テレビの普及を受けて閉鎖を決定した。
2013年には岐阜県の美濃加茂工場の閉鎖を決定。工場に勤務していた正社員840名については、他の工場への配置転換や希望退職の形をとった。なお、そのほか1600名の派遣社員・非正規雇用者については契約終了となったが、市内には大規模な雇用を吸収できる事業所や仕事がなく、美濃加茂市の地域経済に打撃を与えた。
ソニーにおける国内工場の閉鎖は随時進行中であり、2023年には業務用ビデオの生産拠点である「湖西サイト(静岡県)」の閉鎖を決定している。
2009年3月期にソニーは最終赤字に転落。その後も2012年3月期までの4期連続で最終赤字に転落し、2013年3月期は黒字転換したものの、2014年3月期と2015年3月期は再び最終赤字に転落した。このため、2009年3月期から2015年3月期までの6ヵ年のうち、5カ年が最終赤字に転落する事態に直面した。
特に、2012年3月期にはソニーで過去最大となる4550億円(当期純損失)の最終赤字に転落した。これは米国事業(エレクトロニクス・ゲームなど)における収益性悪化により、繰延税金資産の取り崩しに至り、約3000億円の引当金(評価性引当金)を計上したためである。
赤字転落の要因は、2009年のリーマンショックを契機とした経済不況に加え、ソニーが投資してきた「テレビ・携帯電話(エリクソン合弁)・PC・電池」の各事業が不振に陥ったことが影響している。テレビはシャープによる液晶テレビの台頭、携帯電話はAppleによるスマートフォンの普及など、リチウムイオン電池はiPhoneへの納入失敗など、競争環境の変化によって事業が行き詰まった。
これらの不振事業を抱える一方で、ソニーは「映画・音楽・金融」においては収益を確保しており、好調事業が不振事業を支える構造となっていた。特に好調であったのが、金融事業であり、ソニーフィナンシャルHDを通じた「ソニー生命」において、運用資産である株式相場の回復により高収益を確保した。
4期連続の赤字を受けて、ソニーの代表取締役(CEO)であったハワード・ストリンガー氏は2012年に退任を決定。後任のCEOには、平井一夫氏が選任された。平井氏はゲーム事業における経営再建の経験があり、ソニーグループ全体の経営再建を担うことが期待された。
2011年にソニーは中小型ディスプレイの子会社「ソニーモバイルディスプレイ」について、産業革新機構が出資するジャパンディスプレイに統合する方針を発表した。これによりソニーはディスプレイの国内製造拠点2ヶ所「愛知県・東浦事業所、鳥取県・鳥取事業所」の売却と、従業員約2200名の引き継ぎを決定した。
2010年代を通じてソニーは資産売却を本格化。子会社の投資ファンドへの売却や、自社ビルの売却、製造拠点の閉鎖などを実施し、これらで特別利益を計上することで財務体質の悪化を抑止した。
2014年からソニーは主力事業「PC・電池」の売却を開始。いずれも不採算事業であり、事業撤退により全社的な収益改善を目的とした。
ただし、これらの事業は国内の地方に製造拠点を擁しており、撤退にあたっては工場で従業員の配置転換や退職・契約社員の継続打ち切りなどを含むため、地元自治体からの強い批判を伴うものであった。このため、ソニーとしては国内工場の閉鎖を最小限に抑えるために、不採算事業(または不採算工場)については、投資ファンドや事業会社などへの売却を実施した。
2014年7月にソニーはPC事業「VAIO」を、投資ファンド・日本産業パートナーズへの売却を決定。売却後は商号を「VAIO」に決定し、海外生産から撤退し、ソニーの国内製造拠点であった長野県安曇野市に本社を設置。2014年7月1日より、VAIO株式会社は従業員数240名の体制で、ファンド傘下で再スタートを切った。
2017年にソニーは電池事業を村田製作所に売却。国内生産拠点(郡山)(現・東北村田製作所郡山事業所)を譲渡し、ソニーにおける同事業の従事者約8000名が、村田製作所における雇用を継続する形で合意した。