2024/3 売上高23,219億円
2024/3 営業利益▲1,499億円
2024/3 従業員43,445人
創業1912年
創業地東京市本所区
創業者早川徳次

1912年に早川徳次が東京で金属加工業を個人創業し、シャープペンシルの開発で製造業に転じた。関東大震災で全てを失い大阪で再起し、ラジオの国産化で電機メーカーへ転身した。半導体の内製化と液晶技術の蓄積で独自の地位を築き、液晶テレビAQUOSで一世を風靡したが、亀山・堺工場への巨額投資が裏目に出て経営危機に陥り、2016年に鴻海精密工業の出資を受け入れて台湾企業の傘下で再建を図ることとなった。

歴史概略

第1期: 金属加工業から電機メーカーへ(1912〜1963)

シャープペンシルの開発と関東大震災

1912年に金属加工の職人・早川徳次が東京市本所で個人創業した。1915年に文具メーカーからの依頼で「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」を開発し、受託加工業から自社製品メーカーへ転身した。第一次世界大戦期には海外輸出にも注力し、1923年には従業員200名規模に成長した。現在の社名「シャープ」はこの製品に由来する。

1923年9月の関東大震災で妻子と工場と特許のすべてを失った。借入金の返済不能からシャープペンシルの特許を日本文具製造に無償譲渡し、大阪に転居して技術指導に従事した。11年かけて築いた事業基盤が一瞬で崩壊する壊滅的な被害であったが、この震災による東京から大阪への移動が、シャープが関西を拠点とする電機メーカーとなる地理的起点をつくった。

有価証券報告書 沿革

ラジオの国産化とテレビへの先行参入

1924年9月に大阪・阿倍野で早川金属工業所を設立し、1925年に国内初の鉱石ラジオ受信機を開発した。輸入品の半額となる3.5円で販売し、1929年には真空管ラジオも輸入品の10分の1の価格で投入した。1934年に平野工場を新設してベルトコンベア量産を開始し、「ラジオはシャープ」の認知を確立した。新技術の国産化と低価格戦略という事業パターンがこの時期に形成された。

1952年に米RCAと技術提携を締結し、テレビ放映開始の1か月前に白黒テレビ14型を17.5万円で発売した。1954年にテレビ専用の田辺工場を新設して月産2万台体制を構築し、1953年から4年連続で国内シェア1位を確保した。しかし松下電器や日立の本格参入でシェアは急速に低下し、先行参入で市場を開拓しながら大手に主導権を奪われる構造が最初に表れた。

有価証券報告書 沿革

総合家電メーカーへの転換

テレビのシェア陥落と系列販売店の経営維持という二重の課題に直面したシャープは、1957年に「総合家電メーカーとして発展」する方針を策定した。テレビ単品では販売店の売上が限られ、冷蔵庫・洗濯機を含めた製品ラインの拡充が販売網維持の構造的な条件であった。1957年に平野第2工場で洗濯機の量産を開始し、1959年に八尾工場、1960年に奈良工場を相次いで新設した。

1964年には世界初のオールトランジスタ電卓「CS-10A」を開発した。重量25kg、販売価格53万円と大型であったが、半導体技術を活用した電子機器への展開を示す製品であった。1970年には商号を早川電機工業からシャープに変更し、半導体など新分野の展開と海外ブランド認知の向上を図った。同年9月に創業者・早川徳次は社長を退任した。

有価証券報告書 沿革

第2期: 半導体・液晶技術の蓄積(1964〜2003)

半導体内製化への巨額投資

電卓開発で米国の半導体メーカーからのLSI調達に苦労した経験から、シャープは半導体の内製化を決断した。1970年に大阪万博への出展を見送り、奈良県天理市に「シャープ総合開発センター」を新設した。投資額は約75億円で、当時の資本金105億円の約7割に相当する巨額であった。まずロックウェル社からウエハーを輸入して後工程から生産を開始し、1972年に前工程も稼働させて一貫生産体制を確立した。

半導体の内製化により、1970年代前半に電卓の価格破壊に成功し、カシオとの「電卓戦争」で競争力を発揮した。総合開発センターで培われた半導体技術は後の液晶ディスプレイ開発にも応用され、シャープが「液晶のシャープ」として知られる基礎を築いた。万博を見送ってまで研究開発に投じた75億円が、家電メーカーからデバイスメーカーへの転換の起点となった。

有価証券報告書 沿革

液晶技術の蓄積と液晶テレビ宣言

電卓で培った液晶技術を応用して1986年に液晶事業部を発足させ、1990年には液晶事業本部に格上げした。当時の液晶は電子機器の表示部品やゲーム機のモニター向けが中心で、大型パネルの実用化は技術的に困難とされていた。太陽電池の試作にも1954年から取り組んでおり、半導体・液晶・太陽電池というデバイス技術の蓄積がシャープの特色を形成した。

1998年に町田勝彦が社長に就任し、「2005年までに国内テレビ全製品を液晶に切り替える」と宣言した。有機EL・プラズマ・液晶の3方式が競合する中で液晶への一点集中を打ち出し、2001年に液晶テレビ「AQUOS」ブランドの展開を開始した。先行参入によるブランド確立はシャープが繰り返してきた事業パターンの再現であったが、この先行投資戦略が後に巨額の設備投資負担と市場環境の変化で経営危機を招くことになる。

有価証券報告書 沿革

第3期: 液晶投資の帰結と鴻海傘下での再建(2004〜現在)

亀山・堺工場への巨額投資と経営危機

2004年にテレビ向け大型液晶パネル量産のため三重県亀山に工場を新設し、続いて亀山第2工場も建設した。パナソニックのプラズマ方式への投資(尼崎工場)と対をなす液晶方式への大型投資であった。2009年には大阪府堺市にさらに大規模な液晶パネル工場と太陽電池工場を新設し、国内液晶生産の中核拠点とした。

しかし韓国・台湾メーカーの大型投資による価格下落と、リーマンショック後のテレビ市場縮小が重なり、巨額の減価償却負担を支えきれなくなった。2013年3月期には過去最大の最終赤字に転落し、2015年には希望退職者の募集を実施した。先行参入で市場を創造しながら大手の追随で主導権を失うというシャープの歴史的パターンが、液晶テレビでも再現される結果となった。

有価証券報告書

鴻海精密工業の出資と再建

2016年8月、台湾の鴻海精密工業からの出資を受け入れ、第三者割当増資による財務改善に着手した。日本の大手電機メーカーが海外企業の傘下に入るという事態は産業界に衝撃を与えた。鴻海はiPhoneの組立製造を手がける世界最大のEMS企業であり、シャープの液晶技術とディスプレイ事業に関心を持っていた。

鴻海傘下でコスト削減と事業再編が進められたが、2024年3月期の連結売上高は2兆3219億円、当期純利益は1499億円の赤字と、収益面での回復は道半ばにある。1912年に東京の金属加工業者として出発し、ラジオ・テレビ・電卓・液晶と新技術への先行参入を繰り返してきたシャープは、液晶への集中投資が裏目に出て創業以来最大の転換点を迎え、外資の下での再建途上にある。

有価証券報告書

重要な意思決定

19125
早川徳次氏が個人創業

シャープの創業で注目すべきは、金属加工の受託業者が自社製品メーカーへと転換した経緯にある。文具メーカーからの開発依頼をきっかけにシャープペンシルを独自開発し、受注生産から自社ブランド製品の製造へ移行した。この転換がなければ、早川の事業は零細な金属加工業にとどまっていた可能性が高い。外部からの依頼を契機に事業の方向性を定めるという構造は、後のテレビや液晶への参入にも通じるシャープの事業展開パターンの原型といえる。

19239
関東大震災で工場を消失

関東大震災で妻子・工場・特許のすべてを失った早川徳次が、大阪に転居して再起を図ったことが、シャープが関西を拠点とする電機メーカーとなる地理的な起点となった。借入金の返済不能からシャープペンシルの特許まで無償譲渡するに至った経緯は、創業者が築いた事業基盤がいかに脆弱であったかを示している。災害によって事業の地理的基盤が移動し、企業の性格そのものが変わるという構造は、日本の産業史においても稀な事例である。

19249
大阪市に早川金属工業所を設立

シャープの事業転換で注目すべきは、輸入品を分解して国産化し、半額以下の価格で販売するという手法にある。鉱石ラジオでも真空管ラジオでも同じパターンを繰り返し、コスト競争力で市場を獲得した。この「新技術の国産化+低価格戦略」は、後のテレビや電卓への参入でも踏襲される。シャープの事業展開の原型が、創業からわずか数年で確立されていた点は興味深い。

19531
RCAと技術提携・白黒テレビの生産開始

シャープのテレビ参入は、ラジオと同じ「海外技術の導入→国産化→低価格量産」という手法で市場を先行開拓した事例である。4年連続でシェア1位を確保しながら、松下電器や日立の本格参入により短期間で優位性を失った。先行参入で市場を創造しつつも、大手メーカーの規模の経済に押されるという構造は、後の液晶テレビ市場でも再現される。シャープの事業史を貫く「先駆者のジレンマ」がこの時期にすでに表れている。

19547
総合家電メーカーを志向

シャープの総合家電化は、テレビ市場での競争劣位と系列販売店の経営維持という二つの課題に迫られた結果であった。テレビ単品では松下電器に対抗できず、販売店もテレビだけでは経営が成り立たない。製品ラインの拡充は自社の成長戦略であると同時に、販売網を維持するための構造的な必然であった。3年間で3工場を新設するという急速な投資判断には、テレビのシェア陥落への危機感が如実に表れている。

19708
シャープ総合開発センターを新設(半導体の内製化)

シャープの半導体内製化は、電卓の部品調達で直面した外部依存の限界から生まれた判断であった。資本金105億円の企業が75億円を研究開発施設に投じるという決断は、リスクの大きさにおいて異例である。大阪万博への出展を見送ってまで研究開発に資源を集中したことで、シャープは家電の組立メーカーから半導体を内製するデバイスメーカーへと性格を変えた。後の液晶技術の基盤もこの投資から生まれている。

1998
町田勝彦氏が社長就任・液晶テレビ宣言

町田社長の液晶テレビ宣言は、ラジオやテレビで繰り返されてきた「新技術への先行参入」というシャープの事業パターンの再現であった。有機EL・プラズマ・液晶の3方式が競合する中で液晶への一点集中を打ち出し、AQUOSブランドで市場を先行開拓した。しかし、先行参入で市場を創造しながら大手の追随で主導権を失うという構造もまた再現されることになる。この宣言は、シャープの強みと弱みの双方を凝縮した経営判断であった。

出所