1912年に早川徳次が東京で金属加工業を個人創業し、シャープペンシルの開発で製造業に転じた。関東大震災で全てを失い大阪で再起し、ラジオの国産化で電機メーカーへ転身した。半導体の内製化と液晶技術の蓄積で独自の地位を築き、液晶テレビAQUOSで一世を風靡したが、亀山・堺工場への巨額投資が裏目に出て経営危機に陥り、2016年に鴻海精密工業の出資を受け入れて台湾企業の傘下で再建を図ることとなった。
歴史概略
第1期: 金属加工業から電機メーカーへ(1912〜1963)
シャープペンシルの開発と関東大震災
1912年に金属加工の職人・早川徳次が東京市本所で個人創業した。1915年に文具メーカーからの依頼で「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」を開発し、受託加工業から自社製品メーカーへ転身した。第一次世界大戦期には海外輸出にも注力し、1923年には従業員200名規模に成長した。現在の社名「シャープ」はこの製品に由来する。
1923年9月の関東大震災で妻子と工場と特許のすべてを失った。借入金の返済不能からシャープペンシルの特許を日本文具製造に無償譲渡し、大阪に転居して技術指導に従事した。11年かけて築いた事業基盤が一瞬で崩壊する壊滅的な被害であったが、この震災による東京から大阪への移動が、シャープが関西を拠点とする電機メーカーとなる地理的起点をつくった。
ラジオの国産化とテレビへの先行参入
1924年9月に大阪・阿倍野で早川金属工業所を設立し、1925年に国内初の鉱石ラジオ受信機を開発した。輸入品の半額となる3.5円で販売し、1929年には真空管ラジオも輸入品の10分の1の価格で投入した。1934年に平野工場を新設してベルトコンベア量産を開始し、「ラジオはシャープ」の認知を確立した。新技術の国産化と低価格戦略という事業パターンがこの時期に形成された。
1952年に米RCAと技術提携を締結し、テレビ放映開始の1か月前に白黒テレビ14型を17.5万円で発売した。1954年にテレビ専用の田辺工場を新設して月産2万台体制を構築し、1953年から4年連続で国内シェア1位を確保した。しかし松下電器や日立の本格参入でシェアは急速に低下し、先行参入で市場を開拓しながら大手に主導権を奪われる構造が最初に表れた。
総合家電メーカーへの転換
テレビのシェア陥落と系列販売店の経営維持という二重の課題に直面したシャープは、1957年に「総合家電メーカーとして発展」する方針を策定した。テレビ単品では販売店の売上が限られ、冷蔵庫・洗濯機を含めた製品ラインの拡充が販売網維持の構造的な条件であった。1957年に平野第2工場で洗濯機の量産を開始し、1959年に八尾工場、1960年に奈良工場を相次いで新設した。
1964年には世界初のオールトランジスタ電卓「CS-10A」を開発した。重量25kg、販売価格53万円と大型であったが、半導体技術を活用した電子機器への展開を示す製品であった。1970年には商号を早川電機工業からシャープに変更し、半導体など新分野の展開と海外ブランド認知の向上を図った。同年9月に創業者・早川徳次は社長を退任した。
第2期: 半導体・液晶技術の蓄積(1964〜2003)
半導体内製化への巨額投資
電卓開発で米国の半導体メーカーからのLSI調達に苦労した経験から、シャープは半導体の内製化を決断した。1970年に大阪万博への出展を見送り、奈良県天理市に「シャープ総合開発センター」を新設した。投資額は約75億円で、当時の資本金105億円の約7割に相当する巨額であった。まずロックウェル社からウエハーを輸入して後工程から生産を開始し、1972年に前工程も稼働させて一貫生産体制を確立した。
半導体の内製化により、1970年代前半に電卓の価格破壊に成功し、カシオとの「電卓戦争」で競争力を発揮した。総合開発センターで培われた半導体技術は後の液晶ディスプレイ開発にも応用され、シャープが「液晶のシャープ」として知られる基礎を築いた。万博を見送ってまで研究開発に投じた75億円が、家電メーカーからデバイスメーカーへの転換の起点となった。
液晶技術の蓄積と液晶テレビ宣言
電卓で培った液晶技術を応用して1986年に液晶事業部を発足させ、1990年には液晶事業本部に格上げした。当時の液晶は電子機器の表示部品やゲーム機のモニター向けが中心で、大型パネルの実用化は技術的に困難とされていた。太陽電池の試作にも1954年から取り組んでおり、半導体・液晶・太陽電池というデバイス技術の蓄積がシャープの特色を形成した。
1998年に町田勝彦が社長に就任し、「2005年までに国内テレビ全製品を液晶に切り替える」と宣言した。有機EL・プラズマ・液晶の3方式が競合する中で液晶への一点集中を打ち出し、2001年に液晶テレビ「AQUOS」ブランドの展開を開始した。先行参入によるブランド確立はシャープが繰り返してきた事業パターンの再現であったが、この先行投資戦略が後に巨額の設備投資負担と市場環境の変化で経営危機を招くことになる。
第3期: 液晶投資の帰結と鴻海傘下での再建(2004〜現在)
亀山・堺工場への巨額投資と経営危機
2004年にテレビ向け大型液晶パネル量産のため三重県亀山に工場を新設し、続いて亀山第2工場も建設した。パナソニックのプラズマ方式への投資(尼崎工場)と対をなす液晶方式への大型投資であった。2009年には大阪府堺市にさらに大規模な液晶パネル工場と太陽電池工場を新設し、国内液晶生産の中核拠点とした。
しかし韓国・台湾メーカーの大型投資による価格下落と、リーマンショック後のテレビ市場縮小が重なり、巨額の減価償却負担を支えきれなくなった。2013年3月期には過去最大の最終赤字に転落し、2015年には希望退職者の募集を実施した。先行参入で市場を創造しながら大手の追随で主導権を失うというシャープの歴史的パターンが、液晶テレビでも再現される結果となった。
鴻海精密工業の出資と再建
2016年8月、台湾の鴻海精密工業からの出資を受け入れ、第三者割当増資による財務改善に着手した。日本の大手電機メーカーが海外企業の傘下に入るという事態は産業界に衝撃を与えた。鴻海はiPhoneの組立製造を手がける世界最大のEMS企業であり、シャープの液晶技術とディスプレイ事業に関心を持っていた。
鴻海傘下でコスト削減と事業再編が進められたが、2024年3月期の連結売上高は2兆3219億円、当期純利益は1499億円の赤字と、収益面での回復は道半ばにある。1912年に東京の金属加工業者として出発し、ラジオ・テレビ・電卓・液晶と新技術への先行参入を繰り返してきたシャープは、液晶への集中投資が裏目に出て創業以来最大の転換点を迎え、外資の下での再建途上にある。
シャープの創業で注目すべきは、金属加工の受託業者が自社製品メーカーへと転換した経緯にある。文具メーカーからの開発依頼をきっかけにシャープペンシルを独自開発し、受注生産から自社ブランド製品の製造へ移行した。この転換がなければ、早川の事業は零細な金属加工業にとどまっていた可能性が高い。外部からの依頼を契機に事業の方向性を定めるという構造は、後のテレビや液晶への参入にも通じるシャープの事業展開パターンの原型といえる。