| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 189億円 | - | - |
| 1956/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 251億円 | - | - |
| 1957/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 373億円 | - | - |
| 1958/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 483億円 | - | - |
| 1959/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 653億円 | - | - |
| 1960/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,054億円 | - | - |
| 1961/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,355億円 | - | - |
| 1962/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 1,877億円 | 196億円 | 10.4% |
| 1963/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 2,201億円 | 129億円 | 5.8% |
| 1964/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 2,071億円 | 129億円 | 6.2% |
| 1965/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 2,173億円 | 134億円 | 6.1% |
| 1966/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 2,963億円 | 186億円 | 6.2% |
| 1967/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 4,035億円 | 256億円 | 6.3% |
| 1968/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 5,317億円 | 357億円 | 6.7% |
| 1969/11 | 単体 売上高 / 計上利益 | 6,885億円 | 471億円 | 6.8% |
| 1970/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,386億円 | 459億円 | 6.2% |
| 1971/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,488億円 | 407億円 | 5.4% |
| 1972/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 8,542億円 | 463億円 | 5.4% |
| 1973/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10,407億円 | 492億円 | 4.7% |
| 1974/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 11,611億円 | 350億円 | 3.0% |
| 1975/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10,659億円 | 328億円 | 3.0% |
| 1976/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 13,106億円 | 413億円 | 3.1% |
| 1977/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 14,345億円 | 486億円 | 3.3% |
| 1978/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 15,980億円 | 568億円 | 3.5% |
| 1979/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 17,344億円 | 655億円 | 3.7% |
| 1980/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 20,152億円 | 731億円 | 3.6% |
| 1981/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 23,462億円 | 836億円 | 3.5% |
| 1982/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 24,735億円 | 956億円 | 3.8% |
| 1983/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 27,188億円 | 974億円 | 3.5% |
| 1984/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 32,578億円 | 1,019億円 | 3.1% |
| 1985/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,499億円 | 1,328億円 | 1.7% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 70,558億円 | 384億円 | 0.5% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 66,235億円 | 244億円 | 0.3% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 69,481億円 | 904億円 | 1.3% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 67,948億円 | -568億円 | -0.9% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 76,759億円 | 1,378億円 | 1.7% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 78,906億円 | 936億円 | 1.1% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 76,401億円 | 135億円 | 0.1% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 72,993億円 | 997億円 | 1.3% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 76,815億円 | 415億円 | 0.5% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 70,738億円 | -4,277億円 | -6.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,017億円 | -194億円 | -0.3% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,797億円 | 421億円 | 0.5% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 87,136億円 | 584億円 | 0.6% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 88,943億円 | 1,544億円 | 1.7% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 91,081億円 | 2,171億円 | 2.3% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 90,689億円 | 2,818億円 | 3.1% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 77,655億円 | -3,789億円 | -4.9% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,179億円 | -1,034億円 | -1.4% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 86,926億円 | 740億円 | 0.8% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 78,462億円 | -7,721億円 | -9.9% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 73,030億円 | -7,542億円 | -10.4% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 77,365億円 | 1,204億円 | 1.5% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 77,150億円 | 1,794億円 | 2.3% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 76,263億円 | 1,652億円 | 2.1% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 73,437億円 | 1,493億円 | 2.0% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 79,821億円 | 2,360億円 | 2.9% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 80,027億円 | 2,841億円 | 3.5% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,906億円 | 2,257億円 | 3.0% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 66,987億円 | 1,650億円 | 2.4% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 73,887億円 | 2,553億円 | 3.4% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 83,789億円 | 2,655億円 | 3.1% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 84,964億円 | 4,439億円 | 5.2% |
注目すべきは創業の動機が「貧困からの脱出」ではなく「安定への退屈」だった点にある。検査員昇格は異例の出世だったが、実働2〜3時間の余暇が松下を起業に駆り立てた。資金200円・自宅土間の零細創業ながら、ソケット不振から碍盤受注への素早い転換に商才が表れている。なお義弟の井植歳男は後に三洋電機を創業しており、この土間工場が日本家電産業の二大源流を生んだことになる。
松下幸之助は1894年、和歌山県に生まれた。父の事業失敗により家計は没落し、9歳で大阪の自転車店に丁稚奉公に出された。子守や掃除といった雑務を担いながら商売の現場に触れ、その後15歳で電力会社の大阪電灯に就職。配線工事に従事し、丁寧な仕事ぶりで昇進を重ね、22歳で検査員に昇格した。異例の早さでの昇格であり、工事仲間にとって一つの出世目標とされる職位であった。
検査員の業務は担当工事の翌日確認が中心で、実働は1日2〜3時間程度にとどまった。しかし松下はこの安定した立場に満足せず、在職中に研究していた新型ソケットの事業化を志すようになる。上司に試作品を見せたところ「ダメだよこれは」と退けられたが、かえって独力で製品化する意欲を強めた。勤め人としての将来よりも、自ら製品を世に問う道を選ぶ決意を固めた。
1917年6月、松下は大阪電灯を退職した。退職金・積立金・貯金など約100円に加え、元同僚の知人から100円を借り入れ、合計約200円の資金を調達。自宅の二間を土間に改装し、妻の弟である井植歳男(のちの三洋電機創業者)らとともに製造を開始した。当初は新型ソケットの製造販売に着手したが、販路が開けず、質屋に財産を入れるほど資金繰りは逼迫した。
転機は1917年12月、川北電気から受注した扇風機向け碍盤であった。従来の陶器製に代わり練り物で代替することに着目し、売上160円に対して80円の利益を確保した。この黒字化を受けて1918年3月、大阪市福島区大開に「松下電気器具製作所」を正式に創業。製品第1号のアタッチメントプラグ、続く二灯用差し込みプラグが問屋経由で受注を伸ばし、電気器具メーカーとしての基盤を築いた。
注目すべきは創業の動機が「貧困からの脱出」ではなく「安定への退屈」だった点にある。検査員昇格は異例の出世だったが、実働2〜3時間の余暇が松下を起業に駆り立てた。資金200円・自宅土間の零細創業ながら、ソケット不振から碍盤受注への素早い転換に商才が表れている。なお義弟の井植歳男は後に三洋電機を創業しており、この土間工場が日本家電産業の二大源流を生んだことになる。
24歳の春、私は電灯会社の検査員に昇格した。私の昇格は異例に早く、この検査員は工事仲間にとって一つの出世目標だった。この仕事は担当者のやった仕事を翌日検査して悪ければしなおすように命ずるだけだ。日に15軒から20軒回るのだが、非常に楽な仕事で、2、3時間もあれば済んでしまう。
ところがこの楽な役に回ってみると不思議に今までのように仕事に熱が入らず、なんとも物足りない気分を持て余すようになった。ちょうどその少し前、私は新しいソケットを造ろうと研究していた。一度はできたソケットを会社の主任に見せたところ「ダメだよこれは」と言われたこともあった。そこでどうかしてソケットをものにしたいという気が沸いてきた。「よし会社を辞めよう。7年間の努力も惜しいが・・。」
何分若いだけに気が早い。主任が止めるのも聞かずに早速辞表を出した。
さて、ソケットの製造だが、先立つ資金が足りない。(略)人も足りないので、もと同僚であった林君に参加してもらったり、家内の弟の井上歳男(現三洋電機社長)が郷里小学校を卒業したので、これも呼び寄せた。資金は林君の友人S君がコツコツ貯めた200円のうち100円を借すことに話がついた。工場は私の住んでいた平屋の2畳と4畳半の半分を土間にして、これを当てたので、まともに寝る場所もない有様だった。
寿命2〜3時間の製品を30〜50時間に改良した技術力もさることながら、注目すべきは無名メーカーが問屋の壁を突破した販売手法にある。小売店にランプを無償で配り、実際に点灯させて性能を証明する手法は、自転車店での丁稚奉公で「現場の信用」を体感した松下ならではの発想だった。この成功体験が後の系列販売店網の構築思想につながり、松下流マーケティングの原型となった。
松下幸之助は起業以前に自転車店で丁稚奉公を経験しており、夜間走行時の照明が実用に耐えない現状を把握していた。当時の主流はガスランプで、電池式ランプも存在したが寿命は2〜3時間程度にとどまり、長時間の使用には適さなかった。配線器具で事業基盤を築いた松下は、次なる製品として自転車用ランプに着目する。既存製品の不便さを解消すれば市場を切り拓けるという発想であった。
改良開発に着手した松下は、約半年間で100個前後の試作品を制作した。構造や電池の消耗特性を検証しながら改良を重ね、30〜50時間持続する砲弾型ランプの試作に到達した。従来製品の10倍以上の寿命であり、実用性において決定的な差を生む水準であった。
1923年3月、松下電器は自転車用ランプの製造販売を開始した。しかし当時の松下は小規模事業者であり、問屋や自転車店は無名メーカーの新製品の取り扱いに慎重であった。そこで松下は小売店に2〜3個のランプを無償で配り、実際に点灯させて性能を確かめてもらう販促策を実行した。製品を語らせるのではなく、製品に語らせる手法であった。
2〜3か月の無償提供を通じて性能への信頼が広がり、受注は徐々に拡大した。以後、1920年代を通じて大阪市内に量産工場を相次いで新設し、コスト低減と供給能力の拡大を両立させた。自転車用ランプは松下電器の業容拡大に最も寄与した基幹製品となり、後の事業多角化を支える資金基盤を形成した。
寿命2〜3時間の製品を30〜50時間に改良した技術力もさることながら、注目すべきは無名メーカーが問屋の壁を突破した販売手法にある。小売店にランプを無償で配り、実際に点灯させて性能を証明する手法は、自転車店での丁稚奉公で「現場の信用」を体感した松下ならではの発想だった。この成功体験が後の系列販売店網の構築思想につながり、松下流マーケティングの原型となった。
松下電器の基礎となった自転車ランプの製造、販売に取り掛かったのは大正11年であった。このことを少し詳しく述べよう。当時自転車のあかりはロウソク・ランプかアセチレンのガス・ランプであったが、いずれも不便なのと高価なので皆が閉口していた。私は自転車屋の小僧をしていたので、このことに興味を持っており、事実、自転車ランプの使用数を調べてみるとバカにならない数であることがわかった。もちろん当時でも電池ランプがあることはあったが、これは2、3時間で消耗し、しかも構造が不完全で実用にはならなかった。私は簡便な構造、無故障、電池の持続10時間以上ということを目標に、約半年、百個に近い試作品を作った末、砲弾型でまずこれならというものができた。電池は市中のものを組み直してみると30〜50時間持った。(略)
さて、販売だが、予想に反してこれが一番難関だった。取引の問屋のどこを回っても答えは同じ「ノー」だった。(略)
そこで私は「背水の陣を敷くことだ。製品の真価を知ってもらうために小売店に無料で配ろう」と決心した。まず3人の外交員を雇い、資本の続く限り、大阪中の小売屋に2、3個のランプを置いて回り、うち1個はその際点火して「30時間以上持ちます。品物に信用が置けるようになったら打ってください。その後安心ができたら代金を払ってください」と言って歩かせた。全く松下電器の運命をかけた販売だった。
毎日待ち遠しいくらいに外交員の報告を聞くうち、評判は次第に高くなっていった。1ヶ月で4000、5000個預けているうちに代金回収もだんだん確実となり、2、3ヶ月もすると小売屋から電話や葉書で注文が来るようになった。
当時の家電業界では製品ごとに異なるブランド名を付けるのが一般的だったが、松下は「ナショナル」に統一する道を選んだ。後発参入のたびに「マネシタ電器」と批判されたが、統一ブランドは新製品投入のたびに既存製品の信頼を転用できる仕組みとして機能した。ストーブ・アイロン・ラジオ・乾電池と横展開できた背景には、製品ではなくブランドに信頼を蓄積するという、当時としては異例の戦略がある。
大正末期から昭和初期にかけて、日本国内では電灯の普及率が着実に上昇し、都市部を中心に配電網が整備された。電気は照明にとどまらず暖房・炊事・娯楽へと用途が広がり、家庭の生活様式そのものを変え始めていた。電気を基盤とする製品群を体系的に供給できる企業が、新たな成長機会を得る構造が生まれつつあった。
松下電器は自転車用砲弾型ランプで安定した利益を確保していたが、電化の進展は単一製品への依存が持つ限界も浮き彫りにしていた。家庭に電気が引かれれば需要の裾野は拡張する。電気という共通基盤の上に複数の製品を載せられる体制の構築が、持続的成長の条件となる局面に差しかかっていた。
1927年4月、松下電器は「ナショナル」の商標を制定し、全製品を統一ブランドのもとで展開する方針を打ち出した。「国民の」を意味する名称には、特定製品のメーカーではなく全国の家庭に電気製品を届ける企業であるという姿勢が込められた。同年には角型ナショナルランプを発売し、ブランド名を前面に据えた販売を開始している。
この決断は、製品単位の評価からブランド単位の信頼形成へと軸足を移すものであった。既存企業が先行する市場への後発参入が相次いだため「マネシタ電器」と揶揄される場面もあったが、統一商標のもとで品質・価格・販路を束ねて展開する仕組みは、新製品を投入するたびに既存の信頼を転用できる構造を持っていた。
ナショナルの確立を起点に、松下電器は電気ストーブ、電気アイロン、電気コタツなど家庭用電熱機器を相次いで投入した。電気という共通技術基盤を活かし、用途別に製品を拡張する手法により、販売網を通じた横展開が可能となった。ブランドの傘の下で製品数を増やすほど、1店舗あたりの取扱高が膨らむ構造が形成された。
1930年代にはラジオ、乾電池、モータ、電球へと事業領域をさらに広げ、基幹部品の内製化にも踏み込んだ。最終製品から部品まで手掛けることで、製品群は広がりと深さの両面を備える構造へ変化した。ナショナル制定以降の一連の展開は、松下電器を単一ヒット商品の企業から総合電機メーカーへ転換させる基盤となった。
当時の家電業界では製品ごとに異なるブランド名を付けるのが一般的だったが、松下は「ナショナル」に統一する道を選んだ。後発参入のたびに「マネシタ電器」と批判されたが、統一ブランドは新製品投入のたびに既存製品の信頼を転用できる仕組みとして機能した。ストーブ・アイロン・ラジオ・乾電池と横展開できた背景には、製品ではなくブランドに信頼を蓄積するという、当時としては異例の戦略がある。
当時、あれは松下電器ではなく「マネシタ電器」のナショナル製品だ、と陰口を叩かれていた。というのは、他のメーカーが電器業界で何か新しい製品を発表すると、すぐに松下ではその製品よりも安価で優れた製品を作り上げ、巧みな宣伝文句で、もとになった他社製品を圧倒していく、その商売上手を皮肉っての「マネシタ電器」であった
水道哲学の着想で見落とされがちなのは、松下が宗教法人を視察して「使命感で動く組織の強さ」に着目した点である。利益ではなく使命で組織を束ねる発想は、朝会・社歌という日常的な儀礼に具体化された。さらに創業年を1918年ではなく1932年に再定義したことは、事業の開始より理念の公表を重視する姿勢を端的に示している。250年という非現実的な時間軸こそが、短期業績に左右されない経営文化の礎となった。
1930年代初頭、松下電器は創業から十数年で従業員約1200名を擁する規模に成長していた。ランプ、配線器具、ラジオと製品を拡げる中で、単なる製造業者から社会的存在へと位置づけが変わりつつあった。企業規模の拡大に伴い、日々の生産活動を超えた事業の意義と方向性を明文化する必要が生じていた。
松下幸之助はこの時期、宗教法人を視察して「使命感で結束する組織の強さ」に触れた。また米国フォードの大量生産が社会構造を変えた事例から、生産の拡大それ自体が社会変革の手段たりうるとの認識を得た。物資を水道水のように安価かつ無尽蔵に供給することで貧困を克服できるという着想が、この時期に形成されていった。
1932年5月5日、松下電器は全社員を集め、松下幸之助による訓示を実施した。「産業人の使命は貧乏を克服し、富を増大することである」と宣言し、大量生産によって電気製品を水道水のように廉価かつ無尽蔵に供給するという方針を「水道哲学」として公表した。企業活動を私的な利潤追求ではなく社会的使命と結びつけて定義したものであった。
さらに使命達成の時間軸として、25年を1節とし10節を重ねる「250年計画」を提示した。1932年5月5日を事実上の創業日と再定義し、事業の開始よりも理念の公表を企業の起点に据えた。250年という非現実的ともいえる時間軸を掲げたこと自体が、短期業績に左右されない経営文化の形成を企図していた。
水道哲学の公表以降、松下電器では全事業所で朝会・夕会が実施されるようになった。朝会の終わりに社歌を合唱する慣行は各事業所から自然発生的に生まれ、結果として理念浸透の制度的基盤となった。宗教法人の視察で得た「儀礼を通じた使命共有」の着想が、日常の組織運営に具体化された形であった。
創業年を1918年ではなく1932年と再定義したことは、事業の規模よりも理念の存在を重視する姿勢を端的に示している。水道哲学はその後の松下電器の経営判断における根本的な価値基準となり、事業の拡大期にも撤退期にも、意思決定の拠り所として参照され続けることになる。
水道哲学の着想で見落とされがちなのは、松下が宗教法人を視察して「使命感で動く組織の強さ」に着目した点である。利益ではなく使命で組織を束ねる発想は、朝会・社歌という日常的な儀礼に具体化された。さらに創業年を1918年ではなく1932年に再定義したことは、事業の開始より理念の公表を重視する姿勢を端的に示している。250年という非現実的な時間軸こそが、短期業績に左右されない経営文化の礎となった。
産業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧より救って、これを富ましめることである。商売や生産は、その商店や工場を繁栄させるのではなく、その働き、活動によって社会を富ましめることにその目的がある。その意味においてのみ、その商店なり、その工場が盛大となり繁栄していくことが許されるのである。産業人の使命である貧乏を克服し、富を増大するということは、何によってなすべきか。これはいうまでもなく物質の生産に次ぐ生産を寸刻も揺るがせにせず、これを増進していくところに産業人の真の使命がある。(略)
水道の水は加工され価のあるものである。今日、価のあるものを盗めば、咎めを受けるのが常識である。しかし、道ばたにある水道の栓を捻って、通行人が水を盗み飲んだとしても、その不作法をとがめる場合はあっても、水そのものについてのとがめ立てはないのである。それは、その価格があまりに安からである。なぜ価格が安いか。それはその生産量が豊富だからである。ここに、われわれ産業人の真の使命がある。全ての物質を水のように無尽蔵にしよう。水道の水のように価格を安くしよう。ここにきて初めて貧乏は克服される。
精神的な安定と、物資の無尽蔵な供給が相まって、初めて人生の幸福が安定する。自分が松下電器の真使命として感得したのはこの点である。松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物資を無尽蔵にして、楽土を建設することである。
この使命を達成するためには、今日以降、250年をもって使命達成期間と定める。
創業15年で第12工場まで分散した拠点を門真に集約する判断自体は合理的だが、注目すべきは住友銀行が50万円のうち30万円を無担保で融資した点にある。町工場上がりの企業への無担保融資は松下の信用力を示す。一方、同時に導入された事業部制は米デュポンの採用(1920年)から13年後であり、日本企業としては極めて早い。製品別の独立採算は後の巨大化でも各事業部が自走する仕組みを可能にし、松下の多角化経営の骨格となった。
1930年代初頭、松下電器はラジオ、乾電池、配線器具と製品領域を拡大し、大阪府内に第12工場まで生産拠点が点在する状況にあった。受注拡大のたびに増設を重ねてきたが、工場の分散は管理効率と物流の両面で課題を抱えていた。量産体制を確立しコスト低減を進めるには、拠点の集約と設備の近代化が不可欠であった。
同時に、製品数の増加は松下幸之助一人による意思決定に限界をもたらしていた。組織の拡大は活力を生む反面、責任の所在が曖昧になるリスクも伴う。生産体制と組織体制の双方を同時に再設計しなければ、成長の持続は困難な局面に入りつつあった。
松下電器は大阪市郊外の門真地区に大規模工場を新設することを決定し、1933年5月に本店工場を竣工させた。敷地面積は約7万平方メートル。投資額50万円のうち30万円を住友銀行から無担保で調達した。町工場出身の企業に対する無担保融資は、当時の松下電器の信用力を示すものであった。
あわせて同月、製品別に経営責任を明確化する事業部制を採用した。第一事業部をラジオ、第二事業部をランプ・乾電池、第三事業部を配線器具・合成樹脂・電熱器と定め、各事業部が生産から販売まで一貫して担う体制を整えた。米デュポンの導入から13年後であり、日本企業としては極めて早い採用であった。
門真本店工場の新設により生産拠点が集約され、コスト低減と供給能力の拡大が進んだ。広大な敷地は将来の増設余地を含んでおり、長期にわたる成長基盤として機能した。本店と工場群を一体に配置する構造は、管理の効率化と意思決定の迅速化を可能にした。
事業部制の導入は、創業者中心の経営から分権的経営への転換を意味した。各事業部が独立採算で損益責任を持つ仕組みは、後年の多角化を支える組織モデルとなった。門真への集約と事業部制の同時採用は、生産の近代化と経営の制度化を一挙に進めた転機であり、松下電器が総合電機メーカーへ成長する骨格を形成した。
創業15年で第12工場まで分散した拠点を門真に集約する判断自体は合理的だが、注目すべきは住友銀行が50万円のうち30万円を無担保で融資した点にある。町工場上がりの企業への無担保融資は松下の信用力を示す。一方、同時に導入された事業部制は米デュポンの採用(1920年)から13年後であり、日本企業としては極めて早い。製品別の独立採算は後の巨大化でも各事業部が自走する仕組みを可能にし、松下の多角化経営の骨格となった。
三種の神器への同時参入で注目すべきは、技術面と販売面の両方を同時に整備した点にある。テレビではフィリップスと合弁で松下電子工業を設立してブラウン管技術を導入し、冷蔵庫では中川機械を資本提携で取り込んだ。一方、販売面では戦前からの連盟店制度をナショナル店会に再編し、零細な町の電器店を系列化した。大規模小売が規制されていた時代に、全国の小売店との結合こそが最大の参入障壁となり、後発メーカーとの差を決定づけた。
戦後復興が進む中、日本国内では生活水準の向上とともに家庭電化への期待が高まっていた。洗濯・冷蔵・映像といった分野は、ラジオや照明器具で事業基盤を築いてきた松下電器にとって次なる成長領域であった。とりわけ1950年代初頭は耐久消費財への需要が顕在化し始め、家電市場が本格的に立ち上がる局面に差しかかっていた。
松下電器は戦前から全国の販売網を整備しており、小売店との関係性を維持していた。生産体制と販路の両面を活用すれば、新たな家電製品を全国規模で展開できる条件が揃っていた。同業他社もこの機を窺う中、先行して製品ラインを揃えることが競争優位の鍵を握る状況であった。
1951年、松下電器は洗濯機の製造を開始し、家庭電化製品への本格参入に踏み切った。翌1952年には白黒テレビを発売。ブラウン管技術についてはオランダのフィリップス社と提携し、合弁で松下電子工業を設立して高槻工場に生産体制を整えた。技術導入と量産立ち上げを並行して進める手法であった。
さらに1953年には冷蔵庫を発売。資本提携した中川機械(のちの松下冷機)を通じて量産体制を構築した。洗濯機・テレビ・冷蔵庫という、のちに「三種の神器」と呼ばれる製品群をわずか3年で網羅したことは、配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を明確に示すものであった。
三種の神器を揃えたことで、松下電器は家庭生活全体を対象とする総合家電メーカーへと事業構造を転換した。各製品は全国のナショナルショップを通じて販売され、1957年には販売会社制度を整備してナショナル店会として再編。地域密着型の電器店を組織化し、価格・販促・サービスを統合的に管理する体制を築いた。
戦後の流通規制により大規模小売の新設が制限されていたことも、零細な家電小売店との結合を強固にする追い風となった。生産台数は年々拡大し、量産によるコスト低減と販売網の拡充が相互に拡張する循環が生まれた。1960年代にかけて松下電器は国内家電市場でトップ級の地位を確立し、三種の神器への同時参入が戦後の成長軌道を決定づける転機となった。
三種の神器への同時参入で注目すべきは、技術面と販売面の両方を同時に整備した点にある。テレビではフィリップスと合弁で松下電子工業を設立してブラウン管技術を導入し、冷蔵庫では中川機械を資本提携で取り込んだ。一方、販売面では戦前からの連盟店制度をナショナル店会に再編し、零細な町の電器店を系列化した。大規模小売が規制されていた時代に、全国の小売店との結合こそが最大の参入障壁となり、後発メーカーとの差を決定づけた。
熱海会議の本質は販売改革の中身よりも、創業者が販社に頭を下げたという行為そのものにある。販社は松下電器に依存する立場だったが、同時に松下も販社なしには製品を届けられない相互依存の関係だった。松下幸之助が涙ながらに非を認めたことで、手形乱発という業界悪習の是正に販社側が自発的に応じる転機が生まれた。理詰めの制度改革ではなく、感情を介した合意形成が流通構造を変えた稀有な事例である。
1960年代に入り、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機の国内普及が一巡した。一方で各家電メーカーは量産工場を新設して増産体制を構築しており、供給過剰が常態化していた。販売現場では値引きと長期手形決済が横行し、後発メーカーの中には経営不振に陥る企業も続出した。家電業界全体が量的拡大の限界に直面していた。
松下電器も例外ではなく、1964年11月期の単体決算は売上高2,071億円・計上利益129億円と減収減益に転じた。1950年代以降、家電普及に合わせて高成長を続けてきた同社にとって、減収決算は大きな転機であった。1961年に会長へ退いていた松下幸之助は営業本部長代行に就任し、自ら販売改革の陣頭指揮を執ることを決断した。
1964年夏、松下幸之助は全国の販売代理店(販社)社長を伊豆・熱海に招集し、通称「熱海会議」を開催した。生産を担う松下電器と販売を担う販社が、家電乱売のもとでの在庫負担や決済条件について落とし所を探る会議であった。会議は日数を定めず、結論が出るまで続けるという異例の形式で組まれた。
議論は紛糾し、販社側からは「松下の指導が悪いから儲からぬ」と非難が噴出した。3日目、松下幸之助は「松下が悪かった」と涙ながらに頭を下げた。この姿勢が転機となり販社側も協力に転じ、「一地域一販社制」「事業部・販社間の直取引」「新月販制度」の導入で合意に至った。
熱海会議を契機に長期手形に依存した取引慣行は是正され、販売現場の規律が回復した。一地域一販社制により責任の所在が明確化され、事業部と販社の関係が整理されたことで、在庫・価格・資金繰りを一体的に管理する体制が整った。乱売による数量拡大ではなく、収益を伴う販売への転換が図られた。
減収減益は一時的な後退であったが、販売制度の改革は松下電器の流通構造を再設計する契機となった。高度成長期の量的拡大モデルから統制と収益性を重視する経営への移行が進み、その後の国内外展開を支える基盤が再構築された。
熱海会議の本質は販売改革の中身よりも、創業者が販社に頭を下げたという行為そのものにある。販社は松下電器に依存する立場だったが、同時に松下も販社なしには製品を届けられない相互依存の関係だった。松下幸之助が涙ながらに非を認めたことで、手形乱発という業界悪習の是正に販社側が自発的に応じる転機が生まれた。理詰めの制度改革ではなく、感情を介した合意形成が流通構造を変えた稀有な事例である。
家電の販売市場が乱戦になった時は大変やったな。うちも減収に追い込まれて、当時、すでに会長に退いていた私が営業の最前線に復帰せねばならんかった。そこで、1964年に販売代理店の社長たちを伊豆の熱海に全員集め、3日間ひざ詰め談判してな、こう言ったんや。「販売代理店の業績も悪化しているが、松下の経営も厳しい。それは、販売店が松下に手形を乱発するからや。ぜひ現金決済に変えてくれ」と。
すると、販売代理店の親父たちは「松下の指導が悪いから儲からぬ」と非難轟々やった。そうして3日目になった時、私は彼らに謝ったんや。「松下が悪かった」とな。そうしたら、なんや涙があふれてきよって・・・。ここで彼らの信頼を失ったら、どうもならんと思うたら、自然にそうなってしもうた。そうすると会場に座っていた皆も、ハンカチを目に当てて、すすりあげている。あれ以後、長期の手形決済などという業界の悪習慣もすっかり姿を消した。あの会議は本当に劇的やったな。
松下幸之助は1961年に会長に退いてからも熱海会議のように要所で復帰しており、1977年の完全退任まで16年間の「半引退」が続いた。後任の山下俊彦以降、谷井・森下・中村と4代にわたりサラリーマン社長が続くが、創業者の理念を継承しつつ独自色を出すジレンマに各社長は直面した。結果的に、創業者の影が薄まった2000年代にようやく社名変更や持株会社化といった大胆な構造改革が可能になった点が示唆的である。
松下幸之助は1961年に会長へ退いたが、その後も重要局面では影響力を行使し続けた。1964年の熱海会議では営業本部長代行として現場復帰し、販売制度の抜本改革を主導している。形式上は退いていても実質的な最高意思決定者であり続けた16年間は、組織の自律性を高める余地が限られる構造を伴っていた。
1977年2月、松下電器は山下俊彦氏の社長就任を発表し、松下幸之助は経営の第一線から正式に退いた。戦後の高度成長を牽引してきた創業家主導の経営体制は、ここで制度上の区切りを迎えた。もっとも、松下は名誉会長として1989年4月の逝去まで理念の象徴的存在であり続け、影響力が完全に消えたわけではなかった。
後任の山下体制は創業者の理念を継承しつつ、組織的な合議と事業部制を基軸とする経営運営へと軸足を移した。以後、谷井昭雄、森下洋一、中村邦夫と4代にわたるサラリーマン社長が経営を担い、経営は創業家から完全に分離された専門経営者体制へと移行していく。
この転換は企業規模の拡大と事業の多角化に対応するための統治構造の変化であった。しかし同時に、創業者の理念をどの程度まで経営判断の指針とするかという問いを各社長に突きつけることにもなった。社名変更や持株会社化といった構造改革が実行に移されたのは、創業者の影が薄まった2000年代以降のことであった。
松下幸之助は1961年に会長に退いてからも熱海会議のように要所で復帰しており、1977年の完全退任まで16年間の「半引退」が続いた。後任の山下俊彦以降、谷井・森下・中村と4代にわたりサラリーマン社長が続くが、創業者の理念を継承しつつ独自色を出すジレンマに各社長は直面した。結果的に、創業者の影が薄まった2000年代にようやく社名変更や持株会社化といった大胆な構造改革が可能になった点が示唆的である。
MCA買収の背景にはVHS対ベータの規格戦争がある。VHSが勝てた要因の一つは映画コンテンツの供給にあったため、松下はハードとソフトの垂直統合に活路を見出した。しかし製造業の論理で創作ビジネスを管理する試みは文化的摩擦を招き、わずか5年で株式の大半を売却する結果に終わった。ソニーのコロンビア買収も同様に苦戦しており、1990年前後の日本家電メーカーによるハリウッド進出は、製造業とコンテンツ産業の本質的な違いを浮き彫りにした。
1970年代後半から1980年代にかけて、家庭用ビデオ市場ではソニーのベータマックスと松下・日本ビクター陣営のVHSが規格競争を繰り広げた。最終的にVHSが世界標準を獲得したが、この過程でハードウェアの優位だけでは長期的な収益確保が困難であるという教訓が残った。映像産業においてはコンテンツを握る側が強い影響力を持つ構造が鮮明になりつつあった。
1989年にはソニーが米コロンビア・ピクチャーズを買収し、ハードとソフトの統合戦略を打ち出した。AV機器で世界的シェアを持つ松下電器にとっても、映画・音楽といったコンテンツを自社グループに取り込むことが戦略課題として浮上していた。規格競争の次は、ソフトを誰が押さえるかという局面に移行していた。
1990年11月、松下電器は米エンターテインメント大手MCAを約61億ドルで買収した。映画会社ユニバーサル・ピクチャーズや音楽事業を擁するMCAを傘下に収め、映像機器とコンテンツの両輪をグループ内に統合する構想であった。当時の日本企業による海外買収としては最大級の規模であり、国際的な注目を集めた。
買収の狙いはハードで築いた販売基盤の上にコンテンツを重ねることで、映像時代の主導権を確保する点にあった。ソニーのコロンビア買収に対抗する意味合いも含まれていた。しかしヒットへの依存度が高い創作ビジネスは、量産・コスト管理を得意とする製造業とは本質的に異なるリスク構造を抱えていた。
買収後、日米の企業文化の差異や経営手法の違いが顕在化し、期待したシナジーは発揮されなかった。映像ソフトの収益は作品ごとの興行成績に左右され、ビデオ規格競争の勝敗とは直接的に連動しなかった。ハードの世界シェアが高くとも、コンテンツ事業の安定化は容易ではなかった。
1995年、松下電器はMCA株式の大半を売却し事実上撤退した。売却に伴い損失を計上し、巨額海外買収の難しさを示す結果となった。この経緯は1980年代後半の過熱したM&Aとバブル崩壊を象徴する事例として語られることになり、松下電器の経営史においても大きな転換点の一つとなった。
MCA買収の背景にはVHS対ベータの規格戦争がある。VHSが勝てた要因の一つは映画コンテンツの供給にあったため、松下はハードとソフトの垂直統合に活路を見出した。しかし製造業の論理で創作ビジネスを管理する試みは文化的摩擦を招き、わずか5年で株式の大半を売却する結果に終わった。ソニーのコロンビア買収も同様に苦戦しており、1990年前後の日本家電メーカーによるハリウッド進出は、製造業とコンテンツ産業の本質的な違いを浮き彫りにした。
1933年に導入した事業部制は松下の多角化を支えたが、半世紀を経て事業部が上場子会社として独立したことで弊害が顕在化した。松下通信工業と本体のAV事業が競合し、九州松下と本体の白物家電が重複するなど、グループ内で共食いが発生していた。5社の完全子会社化は事業部制の負の遺産を清算する試みだったが、組織統合だけでは収益回復に直結せず、真の効果は2022年の持株会社制移行まで持ち越されることになる。
1990年代の松下電器は有利子負債を大幅に削減し財務体質を改善したが、売上成長は鈍化していた。AV・通信・家電・デバイスの各事業は複数の上場子会社に分かれ、グループ内で事業領域が重複する構造が残っていた。各社が独自に研究開発や設備投資を進めることで資源は分散し、横断的な製品開発や技術融合が進みにくい状況にあった。
デジタル化とネットワーク化が急速に進展する中では、通信機器・AV機器・家電を横断する統合的な開発体制が求められていた。しかし分社体制のもとでは意思決定の迅速性や投資の集中が阻まれ、グループ全体としての競争力を十分に発揮できない構造が固定化しつつあった。
2001年4月、松下電器は松下通信工業、九州松下電器、松下精工、松下寿電子工業、松下電送システムの5社を株式交換により完全子会社化した。個別上場を解消し、本体による一体的な経営管理のもとに置くことで、資本構造の整理とグループ経営の統合を進める方針であった。
同時に事業を14の事業ドメインに再編し、研究開発・製造・販売の機能を横断的に統合する体制へ移行した。分社単位の損益管理からグループ全体最適を志向する資源配分への転換であり、重複投資の抑制と技術融合の加速を図る構想であった。
完全子会社化により資本関係は整理され、意思決定の一元化と事業再編の柔軟性は高まった。分社間の壁が低くなったことで、AV・通信・家電・デバイスを横断する開発体制を構築する前提条件が整えられた。組織面では分社経営モデルの明確な転換点であった。
もっとも、統合が直ちに収益改善に結びついたかといえば評価は分かれる。重複事業の整理や人員再配置には時間を要し、デジタル化の競争環境は想定以上の速さで変化していた。構造改革は成長回復の前提を整える措置ではあったが、収益面での効果が明確に表れるまでにはなお課題を残した。
1933年に導入した事業部制は松下の多角化を支えたが、半世紀を経て事業部が上場子会社として独立したことで弊害が顕在化した。松下通信工業と本体のAV事業が競合し、九州松下と本体の白物家電が重複するなど、グループ内で共食いが発生していた。5社の完全子会社化は事業部制の負の遺産を清算する試みだったが、組織統合だけでは収益回復に直結せず、真の効果は2022年の持株会社制移行まで持ち越されることになる。
PDP投資の教訓は技術の優劣ではなく、装置産業における投資判断の不可逆性にある。尼崎3工場への累計6000億円は稼働した瞬間から巨額の減価償却費として固定費化し、市場が縮小しても止められない構造だった。液晶が大型化で追い上げる兆候は2005年時点で見えていたが、すでに投資の引き返し点を超えていた。シャープの堺工場と合わせ、日本の家電メーカーが2000年代に犯した最大級の戦略ミスとして、設備投資の不可逆性を考える好例となっている。
2000年代前半、地上デジタル放送の開始とともに薄型テレビ市場が急拡大した。プラズマ(PDP)、液晶(LCD)、有機ELといった方式が次世代の主役を競う構図の中で、PDPは50インチ以上の大画面領域で画質・応答速度に優位性を持つとされ、松下電器はこの技術に社運を賭ける判断を迫られていた。
一方、液晶は当初中小型中心と見られていたが、シャープや韓国勢が大型化と低価格化を急速に推し進め、市場構造は想定を超える速度で変化していた。装置産業であるパネル事業は巨額の設備投資と量産立ち上げの早さが競争力を左右し、先行者が規模を確保すれば後発の追随は困難になる特性を持っていた。
松下電器はLCD事業を東芝との合弁に移管し、自社の中核をPDPに定めた。テレビを「V商品」と位置づけ、グループ再編後の成長エンジンとする構想のもと、デバイスからセットまでの垂直統合で競争優位を築く方針が固められた。
松下電器は茨木工場に続き、兵庫県尼崎市にPDPの大規模生産拠点を建設することを決定した。2005年9月に尼崎第1工場を稼働させ、2007年に第2工場、さらに第3工場へと段階的に拡張した。各工場はガラス基板の大型化と高効率生産を前提とし、量産効果によるコスト低減を狙う設計であった。
投資総額は関連設備を含め累計で6000億円規模に達した。経営陣は「生産能力が1位でなければシェア1位は取れない」との認識のもと、需要拡大期に一気に投資を積み上げた。減価償却費の範囲内投資を原則とする中期計画においても、PDP事業には例外的な資源配分が認められていた。
巨額投資は稼働した瞬間から減価償却費として固定費化する。市場環境が変化しても投資を巻き戻すことはできず、一度踏み出せば引き返し点を超える性質を持つ決断であった。
2008年のリーマンショック以降、テレビ市場は急速に縮小し価格下落が加速した。同時に液晶の大型化とコスト競争力の向上が進み、PDPの優位性は急速に薄れた。市場は方式別ではなく「薄型テレビ」全体で価格が評価されるようになり、プラズマは価格面で劣位に立たされた。
松下電器は稼働延期や投資縮小を打ち出したが、巨額の減価償却負担と需要減退が重なり、テレビ事業は連続赤字に陥った。尼崎第3工場の生産停止を経て、2013年にはPDP生産からの完全撤退を決断した。2012年3月期・2013年3月期には2期連続で7000億円超の最終赤字を計上している。
6000億円規模の集中投資が液晶との競争に勝ち切れず、事業撤退と巨額損失に至った経緯は、装置産業における技術選択の不可逆性を端的に示している。シャープの堺工場と並び、日本の家電メーカーが2000年代に直面した設備投資判断の教訓として記録される。
PDP投資の教訓は技術の優劣ではなく、装置産業における投資判断の不可逆性にある。尼崎3工場への累計6000億円は稼働した瞬間から巨額の減価償却費として固定費化し、市場が縮小しても止められない構造だった。液晶が大型化で追い上げる兆候は2005年時点で見えていたが、すでに投資の引き返し点を超えていた。シャープの堺工場と合わせ、日本の家電メーカーが2000年代に犯した最大級の戦略ミスとして、設備投資の不可逆性を考える好例となっている。
三洋電機の創業者・井植歳男は松下幸之助の義弟であり、創業期の土間工場で共に働いた人物である。戦後に独立して三洋を興したが、約60年を経てパナソニックに吸収される形となった。買収の戦略的意義は二次電池と太陽電池の技術獲得にあったが、8000億円という対価に見合う統合効果の発現には時間を要した。結果的に太陽電池事業は縮小し、電池事業がテスラ向け供給を通じて花開くまで、投資の真価が問われ続ける展開となった。
2000年代後半、デジタル家電の収益悪化と新興国メーカーの台頭に直面していたパナソニックは、新たな成長軸の確立を迫られていた。環境・エネルギー分野は次世代の基幹事業と位置づけられ、車載用リチウムイオン電池や太陽電池の技術確保が急務であった。三洋電機は二次電池で世界有数の競争力を持ち、HIT太陽電池など独自技術も保有していた。
2008年12月、両社は資本・業務提携契約を締結した。世界的金融危機のさなかで三洋の財務体質が弱まる一方、パナソニックは技術統合による競争優位の確立を急いでいた。韓国勢が巨額投資を打ち出す中、環境エネルギー領域で主導権を握るにはスピードが不可欠との判断が背景にあった。
2009年12月、パナソニックは公開買付け(TOB)により三洋電機の議決権株式の過半数を取得し、連結子会社とした。買収総額は最大で8000億円規模に達し、創業以来最大級の投資であった。将来的な完全子会社化を視野に入れた統合プロセスの第一段階であった。
エナジー事業を中核に据え、電池・太陽光・空調・冷凍機器を統合することで、単品販売から「家まるごと」「ビルまるごと」の総合提案型ビジネスへの転換を図る構想が掲げられた。なお三洋電機の創業者・井植歳男は松下幸之助の義弟であり、創業期の土間工場で共に働いた人物である。約60年を経て、松下から独立した企業がパナソニックに吸収される形となった。
2011年に完全子会社化を実施し、ブランド統一と組織再編を通じて統合を加速した。2014年には三洋社員約7000人をパナソニックへ転籍させ、人事制度の一本化も完了している。技術面では三洋製HIT太陽電池をPanasonicブランドで展開し、太陽光事業への本格参入も表明された。
一方で巨額投資に伴う財務負担は重く、有利子負債は増加し格付け会社からは懸念が示された。太陽電池事業は後に縮小に転じ、電池事業がテスラ向け供給を通じて収益化するまでには時間を要した。8000億円の投資に見合う統合効果が全面的に発現するには、当初の想定以上の年月が必要であった。
三洋電機の創業者・井植歳男は松下幸之助の義弟であり、創業期の土間工場で共に働いた人物である。戦後に独立して三洋を興したが、約60年を経てパナソニックに吸収される形となった。買収の戦略的意義は二次電池と太陽電池の技術獲得にあったが、8000億円という対価に見合う統合効果の発現には時間を要した。結果的に太陽電池事業は縮小し、電池事業がテスラ向け供給を通じて花開くまで、投資の真価が問われ続ける展開となった。
パナソニックの経営史には約30年周期で巨額買収が登場する。1990年のMCA(61億ドル)、2009年の三洋電機(8000億円)、そして2021年のブルーヨンダー(71億ドル)である。いずれも「次の成長軸」への転換を掲げたが、MCAは5年で撤退した。ブルーヨンダーはハードメーカーがソフト企業を買って「脱モノ売り」を実現できるかという問いそのものであり、収益化の遅れは過去の教訓と重なる。三度目の正直となるかは未だ結論が出ていない。
2010年代後半、パナソニックの売上高は7〜8兆円規模で頭打ちとなっていた。黒物・白物ともに海外勢との競争が激化し、ハード売切型モデルでは持続的成長を描きにくい状況にあった。津賀体制下ではBtoB領域の強化が掲げられ、モノ売りからソリューション・サービス型への転換が経営テーマとなっていた。
その中で注目されたのがサプライチェーンマネジメント(SCM)分野である。製造・物流・小売の需要予測や在庫最適化を担うソフトウェアは、データ活用による継続収益モデルを構築できる領域とされた。パナソニックは既に出資していた米ブルーヨンダーの完全子会社化により、BtoB事業の柱を確立しようとした。
2021年4月、パナソニックは米ブルーヨンダーを総額約71億ドル(約7700〜8000億円)で買収すると発表した。三洋電機買収以来の巨額案件であり、海外案件としては1990年のMCA買収に匹敵する規模であった。SCMソフトを軸にリカーリング型収益モデルへの転換を加速させるとされ、ハード主体からデータ・ソフト主体への軸足移動を象徴する一手であった。
市場の反応は慎重であった。発表当日、株価は一時前日比約5%下落し、過去の大型買収の記憶を想起させるとの指摘が相次いだ。MCA買収(61億ドル・5年で撤退)、三洋電機買収(8000億円・統合に難航)に続く三度目の巨額買収であり、投資に見合う収益成長をどの時間軸で実現できるかが問われた。
買収から約4年が経過したが、ブルーヨンダーの収益化は当初想定ほど進んでいない。サイバー攻撃対策などの先行投資がかさみ、日本市場でのSCM導入も拡大が遅れた。新会社設立や上場構想も示されたが、グループ全体の業績を牽引する段階には至っていない。
ハードメーカーがソフト企業を買収して「脱モノ売り」を実現できるかという問いは、MCA買収から30年以上を経てなお回答が出ていない。8000億円規模の投資が成長エンジンとして機能するかは、依然として検証途上にある。
パナソニックの経営史には約30年周期で巨額買収が登場する。1990年のMCA(61億ドル)、2009年の三洋電機(8000億円)、そして2021年のブルーヨンダー(71億ドル)である。いずれも「次の成長軸」への転換を掲げたが、MCAは5年で撤退した。ブルーヨンダーはハードメーカーがソフト企業を買って「脱モノ売り」を実現できるかという問いそのものであり、収益化の遅れは過去の教訓と重なる。三度目の正直となるかは未だ結論が出ていない。
パナソニックの組織史は分権と集権の振り子運動である。1933年に事業部制を導入し、2001年に上場子会社を統合して集権化を進め、再び2022年に事業会社制で分権に回帰した。持株会社化の本質は各事業の損益を丸裸にし、不採算事業の売却判断を容易にする仕組みづくりにある。実際に移行翌年にオートモーティブ事業の売却を決定しており、事業会社制は「選択と集中」を組織的に実行するための装置として機能し始めている。
2021年6月、楠見雄規氏が代表取締役社長に就任した。従来のカンパニー制のもとでは本社が数値目標や重要判断を主導する体制がとられていたが、事業特性に必ずしも精通しない本社部門からの目標設定が現場の機動性を損ない、責任の所在を曖昧にしているとの問題意識が示された。
2022年3月期の連結売上高は7兆3,887億円、当期純利益は2,553億円と黒字を維持していたが、事業ごとの収益力や資本効率は外部から見えにくい構造が続いていた。どの事業が稼ぎ、どの事業が資本コストを下回っているかを可視化し、選択と集中の判断を可能にする体制への転換が求められていた。
2022年4月、パナソニックは商号を「パナソニックホールディングス」に変更し、純粋持株会社体制へ移行した。傘下に8社の事業会社を設立し、エナジー、オートモーティブ、空調、ホームアプライアンスなどの事業をそれぞれの会社に承継させた。制度上は持株会社制だが、事業を中心に据える思想から「事業会社制」と呼称している。
事業会社制の目的は、事業責任者への権限移譲と自主責任経営の徹底にあった。数値目標の設定や投資判断を各事業会社に委ねることで、外部環境の変化に応じた迅速な意思決定を可能にする。同時に事業別の損益を丸裸にすることで、不採算事業の売却判断を組織的に実行できる仕組みを整えた。
事業会社制への移行後、2021年から2年間は収益改善を優先し大規模な事業売却は抑制されたが、2023年にはオートモーティブシステムの売却を決定した。移行からわずか1年半での大型売却は、事業別損益の可視化が選択と集中の判断を加速させた証左といえる。
1933年の事業部制導入から89年を経て、パナソニックは再び分権経営に回帰した。事業部制→カンパニー制→事業会社制という変遷は、集権と分権の振り子運動の一局面であるが、持株会社化により事業の切り出しや統合が制度的に容易になった点が過去の分権とは異なる。その成果は各事業会社の成長力と資本効率の改善にどこまで結びつくかで評価される。
パナソニックの組織史は分権と集権の振り子運動である。1933年に事業部制を導入し、2001年に上場子会社を統合して集権化を進め、再び2022年に事業会社制で分権に回帰した。持株会社化の本質は各事業の損益を丸裸にし、不採算事業の売却判断を容易にする仕組みづくりにある。実際に移行翌年にオートモーティブ事業の売却を決定しており、事業会社制は「選択と集中」を組織的に実行するための装置として機能し始めている。
事業会社が中心となる形なので、私たちは「事業会社制」と呼んでいます。目的は自主責任経営の徹底を図ること。(38ある事業をそれぞれ統括する)事業部長ら責任者に、高いモチベーションを持たせる必要があります。いろんな判断をするたびに本社の承認を得るとなると、モチベーションは薄れてしまいます。だから、かなりの権限を事業会社側に委譲しました。自ら物事を判断することはとても難しいですが、事業責任者には経験を積んでもらいたい。
事業会社制移行からわずか1年半で売上1.4兆円規模の事業を売却した判断は、持株会社制の意義を実証する最初のテストケースとなった。カンパニー制時代なら社内の抵抗で進みにくかった大型売却が、事業会社ごとの損益の可視化によって経営判断の俎上に載りやすくなった。一方で売却額が簿価を下回り約500億円の損失を計上する点は、長年放置した不採算事業の処理コストの大きさを示している。EV電池6000億円投資の原資確保という実利と併せて評価すべき案件である。
2023年5月、パナソニックホールディングスはEV向け電池事業に約6000億円を投資する方針を公表した。車載領域では電池を中核と位置づけ、それ以外の車載関連事業は資本効率と成長性を踏まえて再編する方針を明確にした。2023年3月期の連結売上高は8兆3,789億円、当期純利益は2,655億円と全社では黒字を確保していたが、事業ごとの収益力の差は顕在化していた。
パナソニック オートモーティブシステムズ(PAS)は売上高約1.4兆円規模を有していたが、収益性は低位にとどまり単体では損失を計上していた。競争が激化する車載部品市場で追加投資を続けるか、それとも資源を電池事業に集中するか。事業会社制への移行により事業別損益が可視化されたことで、売却の判断が経営の俎上に載りやすくなっていた。
2023年11月、パナソニックHDはPASの株式譲渡についてApollo Global Managementが投資助言するファンドとの基本合意を公表した。2024年3月には株式譲渡契約を締結し、企業価値約3,000億円規模での売却が決定した。売却額は簿価を下回り、約500億円規模の損失計上が見込まれた。
事業会社制に移行してからわずか1年半での大型売却であり、持株会社制のもとで不採算事業を切り出す仕組みが実際に機能した最初の事例となった。売上1.4兆円規模の事業を手放す判断は短期的には特別損失を伴うが、電池事業への6000億円投資の原資確保という実利と併せて評価される決断であった。
事業会社制移行からわずか1年半で売上1.4兆円規模の事業を売却した判断は、持株会社制の意義を実証する最初のテストケースとなった。カンパニー制時代なら社内の抵抗で進みにくかった大型売却が、事業会社ごとの損益の可視化によって経営判断の俎上に載りやすくなった。一方で売却額が簿価を下回り約500億円の損失を計上する点は、長年放置した不採算事業の処理コストの大きさを示している。EV電池6000億円投資の原資確保という実利と併せて評価すべき案件である。