パナソニック の歴史

前身・松下電器と創業者の松下幸之助氏

創業

1918年

創業者

松下幸之助

創業地

大阪市福島区

直近売上高(2026/3)

80,487億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ無名のメーカーだった松下電器は、1932年に「水道哲学」を掲げて廉価大量供給を旗印にしたのか
A 生活に欠かせない物資を安く大量に供給できれば、無名でも数の力で問屋や小売店を動かせる。9歳で丁稚奉公に出て大阪電灯で配線工事に従事した松下幸之助氏は、安く役立つ物が広く売れる現場を体で知っていた。1923年の砲弾型電池式ランプは無名ゆえ問屋に相手にされず、全国の小売店へ無償配布して性能を示すことで販路を開いた。1927年に統一商標「ナショナル」を制定して新製品ごとに既存の信頼を転用し、1932年に「水道哲学」を公表して、廉価大量供給を組織全体の合言葉に据えた
Q なぜ松下幸之助氏は1964年の熱海会談で、全国の零細電器店を系列の販売網に束ねたのか
A メーカーが製品を量産しても、売場が乱売で消耗すれば代金が回収できず量産の利益が販売段階で消える。1964年7月の熱海会談で松下幸之助氏は、家電の乱売競争で全国の販売会社・代理店が手形取引と流通在庫に苦しみ赤字に陥っている実情を突きつけられた。すでに会長へ退いていた幸之助氏はみずから営業本部長代行に就き、一地域一販社制と事業部直販制、新月販制度からなる新販売制度を1965年2月から実施した。零細な電器店をメーカー系列の販売網として組織化したことで、量産した製品を確実に客へ届ける販売の仕組みが制度として固まった
Q なぜ家電の量産で築いたパナソニックは、2022年以降にBtoB主体へ事業を絞り込んでいるのか
A 価格競争に巻き込まれやすい消費者向け家電に依存する限り量産しても利益率が伸びず、30年にわたり連結売上は伸び悩んだ。2009年の三洋買収で得たリチウムイオン電池はテスラ向け車載電池へ育ち、2021年にはサプライチェーンソフトのブルーヨンダーを8633億円で取得した。2022年の持株会社移行で事業を切り分け、2024年に車載インフォテインメントのパナソニックオートモーティブシステムズを譲渡、2025年には楠見雄規社長が約1万人規模の人員削減を発表し、安定取引の見込めるBtoBへ事業構成を寄せている

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1918年〜 二畳の土間から始めた配線器具と、水道哲学という使命

改良ソケットの四カ月と、碍盤が開いた活路

松下幸之助氏は1894年11月、和歌山県海草郡和佐村に生まれた[1]。父が米相場で失敗して家運が傾き[2]、小学校を四年で中退した氏は、9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公に出ている[3]。三カ月で自転車店へ移って17歳まで六年を過ごし[4]、市電の普及で自転車の需要が減ると読んで大阪電灯へ転じた。屋内配線工事の助手から三カ月で担当者へ昇格し[5]、24歳の春には工事人仲間の出世目標であった検査員に就いた[6]。ところが日に十五軒から二十軒を回る検査は二、三時間で済み[7]、仕事に熱が入らなくなった。在職中に試作した改良ソケットを主任へ見せたときの答えは「だめだよこれは[8]」であった。氏は「よし会社を辞めよう。七年間の努力も惜しいが」と決めて辞表を出した。 [9]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]1894年11月 和歌山県海草郡和佐村に誕生
    • [2]父の米相場失敗で家運が傾く
    • [3]9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公
    • [4]自転車店に17歳まで六年
    • [5]大阪電灯で助手から三カ月で担当者へ昇格
    • [6]24歳の春に検査員へ昇格
    • [7]検査は日に十五軒から二十軒・二、三時間で終了
    • [8]改良ソケットへの主任の答え
    • [9]退職を決めたときの述懐

開業の資金は退職金三十三円二十銭に社内積立金四十二円と貯金を合わせた百円足らず[10]で、これに知人からの借入百円を加えた[11]。工場は住まいの平屋の二畳と四畳半の半分を土間にしたもの[12]で、まともに寝る場所も残らなかった。1917年10月にソケットが仕上がった[13]ものの、十日ほど市内を回って売れたのは百個ほど、売上は十円に満たなかった[14]。四カ月かけて十円という結果に加わった者は離れ、残ったのは氏と義弟の井植歳男氏だけとなり[15]、夫婦の着物は質屋に入った[16]。そこへ電気商会から扇風機の碍盤一千枚の注文が入った[17]。型押しのポンスと練り物を煮る鍋しかない設備で年の瀬までに仕上げ、差引八十円ほどの初めての利益を得ている[18]。碍盤の注文が続いたことで事業は細々ながら続き、1918年3月、大阪市福島区大開町で松下電気器具製作所を創業して配線器具の製造を始めた[19]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [10]開業資金 退職金33円20銭・積立金42円・貯金で百円足らず
    • [11]知人からの借入100円
    • [12]工場は平屋の二畳と四畳半の半分を土間に改装
    • [13]1917年10月 ソケット完成
    • [14]十日で百個ほど・売上10円未満
    • [15]参加者が離れ井植歳男と二人に
    • [16]夫婦の着物を質屋へ
    • [17]扇風機の碍盤1,000枚の注文
    • [18]差引80円の初めての利益
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1918年3月 大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を設立創業、配線器具の製造を開始
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]1894年11月 和歌山県海草郡和佐村に誕生
    • [2]父の米相場失敗で家運が傾く
    • [3]9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公
    • [4]自転車店に17歳まで六年
    • [5]大阪電灯で助手から三カ月で担当者へ昇格
    • [6]24歳の春に検査員へ昇格
    • [7]検査は日に十五軒から二十軒・二、三時間で終了
    • [8]改良ソケットへの主任の答え
    • [9]退職を決めたときの述懐
    • [10]開業資金 退職金33円20銭・積立金42円・貯金で百円足らず
    • [11]知人からの借入100円
    • [12]工場は平屋の二畳と四畳半の半分を土間に改装
    • [13]1917年10月 ソケット完成
    • [14]十日で百個ほど・売上10円未満
    • [15]参加者が離れ井植歳男と二人に
    • [16]夫婦の着物を質屋へ
    • [17]扇風機の碍盤1,000枚の注文
    • [18]差引80円の初めての利益
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1918年3月 大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を設立創業、配線器具の製造を開始

実演販売で開いた砲弾型ランプの販路

大開町で最初に手がけたのは古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ[20]で、市価の三割安という値付けが当たり[21]、夜なべでも注文に応じきれずに四、五人を雇い入れた[22]。続く二灯用差込プラグはさらに評判を呼び、大阪の問屋である吉田商店から一手販売の申し込みを受けて保証金三千円で契約し[23]、この資金を工場の拡張へ充てている。1922年には手元資金四千五百円に対して七千円あまりを投じ[24]、同じ町内に七十坪の本工場を建てた[25]。松下電器の基礎となる自転車用ランプの製造販売に取りかかったのもこの年で、当時の自転車の灯りはろうそくかアセチレンガスであり、電池式は二、三時間で消耗して実用に耐えなかった[26]。氏は無故障と十時間以上の持続を目標に半年をかけ、百個近い試作の末に砲弾型へ行き着いた[27]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [20]古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ
    • [21]市価の三割安の値付け
    • [22]四、五人を雇用
    • [23]吉田商店と保証金3,000円で一手販売契約
    • [24]1922年 手元資金4,500円に対し7,000円余を投資
    • [25]七十坪の本工場を建設
    • [26]既存の電池式ランプは二、三時間で消耗
    • [27]半年・百個近い試作を経て砲弾型に到達

1923年3月に発売した砲弾型電池式ランプ[28]は三十時間から五十時間もった[29]が、販売は製造以上の難関となった。問屋はどこを回っても答えが同じで、六月から作りためた在庫は二千個に達し、木管屋との月二千個の約束がある[30]以上は生産も止められなかった。氏は「これは背水の陣をしくことだ[31]」として、三人の外交員を雇い、大阪中の小売店へ二、三個ずつ置いて回らせた[32]。うち一個をその場で点灯し[33]、三十時間以上もつと確かめてから売り、安心できたら代金を払えばよいと伝えさせている。一カ月で四、五千個を預けるうちに評判が立ち[34]、二、三カ月後には小売店から注文が届くようになった。氏はこれを「全く松下電器の運命をかけた販売[35]」と振り返っている。1927年4月には統一商標として「ナショナル」を制定[36]した。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1923年3月 砲弾型電池式ランプを考案発売
    • [36]1927年4月「ナショナル」の商標を制定
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [29]持続30〜50時間
    • [30]在庫2,000個・木管屋と月2,000個の約束
    • [31]無償配布に踏み切った際の決意
    • [32]三人の外交員が小売店へ二、三個ずつ配布
    • [33]一個をその場で点灯する実演
    • [34]一カ月で4,000〜5,000個を預託
    • [35]この販売策への本人の評
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [20]古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ
    • [21]市価の三割安の値付け
    • [22]四、五人を雇用
    • [23]吉田商店と保証金3,000円で一手販売契約
    • [24]1922年 手元資金4,500円に対し7,000円余を投資
    • [25]七十坪の本工場を建設
    • [26]既存の電池式ランプは二、三時間で消耗
    • [27]半年・百個近い試作を経て砲弾型に到達
    • [29]持続30〜50時間
    • [30]在庫2,000個・木管屋と月2,000個の約束
    • [31]無償配布に踏み切った際の決意
    • [32]三人の外交員が小売店へ二、三個ずつ配布
    • [33]一個をその場で点灯する実演
    • [34]一カ月で4,000〜5,000個を預託
    • [35]この販売策への本人の評
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1923年3月 砲弾型電池式ランプを考案発売
    • [36]1927年4月「ナショナル」の商標を制定

恐慌下の全員雇用と、水道哲学の宣言

1927年4月の金融恐慌では、取引の中心にしていた十五銀行が支払を停止した[37]。受取手形の割引が七、八万円、定期預金が三万五千円あまり[38]という相手の破綻は資金繰りを直撃したが、その二カ月前に住友銀行との取引契約が成立していた[39]。住友の行員から十回近く勧誘を受けた氏は、取引開始に先立って二万円の随時貸出契約を結ぶよう求め[40]、前例がないと渋る相手に押し通している。取付け騒ぎのさなかに念のため確かめると「約束を変えねばならない状態ではありませんから、いつでもご利用下さい[41]」との返答であった。1929年には五百坪の工場を建てる際に十五万円を無担保で借りている[42]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [37]1927年4月 十五銀行が支払停止
    • [38]十五銀行への受取手形割引7〜8万円・定期預金3万5千円余
    • [39]支払停止の二カ月前に住友銀行と取引契約
    • [40]取引開始の条件として2万円の随時貸出契約を要求
    • [41]取付け騒ぎ時の住友銀行の返答
    • [42]1929年 五百坪の工場建設に15万円を無担保で借入

1929年末、緊縮政策のもとで製品の売行きが半減し[43]、倉庫に入りきらないほどの在庫が積み上がった。病床にあった氏は従業員を半減してはどうかという相談を受けたが、生産は即日半減しても従業員は一人も減らさず、工場を半日勤務としたうえで日給は全額を支給し[44]、その代わり休日を廃して全員で在庫の販売にあたるという方針を即日示した。在庫は二カ月ほどで売り尽くされ[45]、工場の稼働は元へ戻っている。1932年5月5日、氏は全店員を集めた席で[46]、生産者の使命は物資を水道の水のように豊富にしてこの世から貧しさを無くすところにある[47]と説き、この日を創業記念日と定めた。使命の達成には二百五十年をあて、二十五年を一節として十節で完成する[48]という時間の区切りも置いた。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [43]1929年末 緊縮政策で売行き半減
    • [44]生産半減・全員雇用維持・半日勤務・日給全額支給・休日廃止
    • [45]二カ月で在庫を売り尽くし稼働を回復
    • [46]1932年5月5日 第1回創業記念式
    • [47]水道哲学=物資を水道の水のように豊富にして貧しさを無くす
    • [48]使命達成に250年・25年を一節・十節
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [37]1927年4月 十五銀行が支払停止
    • [38]十五銀行への受取手形割引7〜8万円・定期預金3万5千円余
    • [39]支払停止の二カ月前に住友銀行と取引契約
    • [40]取引開始の条件として2万円の随時貸出契約を要求
    • [41]取付け騒ぎ時の住友銀行の返答
    • [42]1929年 五百坪の工場建設に15万円を無担保で借入
    • [43]1929年末 緊縮政策で売行き半減
    • [44]生産半減・全員雇用維持・半日勤務・日給全額支給・休日廃止
    • [45]二カ月で在庫を売り尽くし稼働を回復
    • [46]1932年5月5日 第1回創業記念式
    • [47]水道哲学=物資を水道の水のように豊富にして貧しさを無くす
    • [48]使命達成に250年・25年を一節・十節

1933年〜 事業部制という組織の原型と、戦後の再建、そして熱海

製品別の独立採算と、戦時の造船・航空機

1933年5月、本店を門真へ移すと同時に[49]、工場をラジオの第一事業部、ランプと乾電池の第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器の第三事業部[50]へ分け、各事業部長が製造から販売までの損益に責任を負う事業部制を敷いた[51]。体が弱く自分一人では全体を見切れないという自覚[52]が、若い従業員へ仕事を任せる行き方を制度にさせている。1935年8月に松下電器貿易を設立し[53]、同年12月には改組して松下電器産業株式会社となった[54]。資本金は一千万円で[55]、事業部制はさらに進んで事業部門別に九社の子会社を置く分社制へ広がっている[56]。1934年にはモーターを手がけ、関西に小型電動機のメーカーが一つもないことを理由に住友と提携して資本金百万円の傍系会社を興した[57]

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1933年5月 門真に本店を移転、事業部制を採用
    • [53]1935年8月 松下電器貿易を設立
    • [54]1935年12月 改組し松下電器産業株式会社となる
    • [55]資本金1,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [50]第一=ラジオ/第二=ランプ・乾電池/第三=配線器具・合成樹脂・電熱器
    • [51]各事業部長が製造から販売まで損益責任を負う
    • [52]体が弱く一人では全体を見切れないという自覚が制度の起点
    • [56]事業部門別に9社の子会社を置く分社制へ発展
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [57]1934年 住友と提携し資本金100万円で傍系の電動機会社を設立

統制経済から戦時へ移ると資材と機械が細り[58]、軍需の生産だけが続いた。二百トン級の木造船の生産計画が大阪府へ割り当てられると松下電器が引き受け、堺市の三万坪を払い下げて松下造船を設立し[59]、半年ほどで工場を建てて終戦までに五十六隻を進水させている[60]。一日一隻を目標に据えた工場は、やがて六日に一隻を送り出すまでになった[61]。同じ年に海軍から木製飛行機の製造命令が下り、十万坪を買収して資本金三千万円の会社を設立した[62]が、合板の技術は難しく、完成したのは三機にとどまった[63]。軍が求めた月産二百機には遠く及ばない[64]数であった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [58]戦時に資材・機械が不足し軍需生産のみ継続
    • [59]200トン級木造船の計画を引き受け堺市の3万坪に松下造船を設立
    • [60]終戦までに木造船56隻を進水
    • [61]一日一隻を目標とし六日に一隻の建造ペースへ
    • [62]木製飛行機のため10万坪を買収し資本金3,000万円の会社を設立
    • [63]木製飛行機の完成は3機
    • [64]軍の目標は月産200機
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1933年5月 門真に本店を移転、事業部制を採用
    • [53]1935年8月 松下電器貿易を設立
    • [54]1935年12月 改組し松下電器産業株式会社となる
    • [55]資本金1,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [50]第一=ラジオ/第二=ランプ・乾電池/第三=配線器具・合成樹脂・電熱器
    • [51]各事業部長が製造から販売まで損益責任を負う
    • [52]体が弱く一人では全体を見切れないという自覚が制度の起点
    • [56]事業部門別に9社の子会社を置く分社制へ発展
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [57]1934年 住友と提携し資本金100万円で傍系の電動機会社を設立
    • [58]戦時に資材・機械が不足し軍需生産のみ継続
    • [59]200トン級木造船の計画を引き受け堺市の3万坪に松下造船を設立
    • [60]終戦までに木造船56隻を進水
    • [61]一日一隻を目標とし六日に一隻の建造ペースへ
    • [62]木製飛行機のため10万坪を買収し資本金3,000万円の会社を設立
    • [63]木製飛行機の完成は3機
    • [64]軍の目標は月産200機

公職追放と、労働組合による留任運動

敗戦後の五年間、松下電器は制限会社の指定をはじめ七つの制限を課され[65]、資産を動かすことも許されなかった。氏は財閥指定に対して松下は財閥ではないと主張し続け、指定は1949年末に解除された[66]が、軍需生産を指導した経緯から公職追放のA級に指定された[67]。社長退陣に抗議の余地はないと本人も腹を決めかけたところ、留任の運動に立ったのは会社の労働組合であった[68]。当時一万五千人の従業員が一人ずつ署名捺印を集め[69]、政府と総司令部へ働きかけている。一カ月後に指定はB級へ変更され[70]、審査を経て全重役の追放が取り止めとなった[71]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [65]制限会社の指定など七つの制限
    • [66]財閥指定は1949年末に解除
    • [67]軍需生産の指導を理由に公職追放A級へ指定
    • [68]労働組合が社長留任運動を起こす
    • [69]従業員1万5千人が署名捺印
    • [70]一カ月後にB級へ変更
    • [71]審査の結果、全重役の追放が取止め

社長の座は守ったものの、この五年で負債は十億円に達し、税金の滞納額でも上位に並んだ[72]。それまで避けてきた人員整理に踏み切り、従業員は三千五百人まで減っている[73]。1949年5月には東京証券取引所と大阪証券取引所へ株式を上場[74]した。制限が解けた1950年7月17日、氏は幹部を集めた緊急経営方針発表会[75]で再建への決意を説き、「明けても暮れても商売一本でいく意欲がわいてきた[76]」と述べている。翌1951年1月には経営を学ぶため三カ月にわたって渡米し[77]、GEの標準型ラジオが二十四ドルで売られ工員が二日働けば買える[78]のに対し、松下電器のラジオは九千円で作業員の月給が六千円[79]という開きを目の当たりにした。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [72]敗戦後5年で負債10億円・税金滞納も上位
    • [73]人員整理で従業員3,500人へ
    • [75]1950年7月17日 緊急経営方針発表会
    • [76]再建への決意
    • [77]1951年1月から3カ月の渡米
    • [78]GEの標準型ラジオ24ドル=工員2日分の賃金
    • [79]松下のラジオ9,000円・作業員の月給6,000円
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [74]1949年5月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [65]制限会社の指定など七つの制限
    • [66]財閥指定は1949年末に解除
    • [67]軍需生産の指導を理由に公職追放A級へ指定
    • [68]労働組合が社長留任運動を起こす
    • [69]従業員1万5千人が署名捺印
    • [70]一カ月後にB級へ変更
    • [71]審査の結果、全重役の追放が取止め
    • [72]敗戦後5年で負債10億円・税金滞納も上位
    • [73]人員整理で従業員3,500人へ
    • [75]1950年7月17日 緊急経営方針発表会
    • [76]再建への決意
    • [77]1951年1月から3カ月の渡米
    • [78]GEの標準型ラジオ24ドル=工員2日分の賃金
    • [79]松下のラジオ9,000円・作業員の月給6,000円
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [74]1949年5月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場

フィリップス提携と五ヵ年計画、そして熱海会談

テレビへ進むには心臓部のブラウン管の技術が要り[80]、自前の蓄積を持たない松下電器は導入先を探した。戦前から取引のあったフィリップスは、イニシャル・ペイメント五十五万ドル、株式参加三〇%、技術指導料六%[81]を条件として示した。氏はこれに経営指導料を対置し、合弁会社の経営を担うのは松下電器である以上その対価も評価すべきだ[82]と主張して譲らなかった。交渉は決裂寸前まで進んだが、技術指導料四・五%を支払う代わりに経営指導料三%を受け取る[83]ことで決着している。1952年12月、フィリップスとの技術提携により松下電子工業が発足し、管球製造所の四工場が本体から分離[84]された。高槻の新工場では1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタの生産[85]が始まっている。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [80]テレビ参入にはブラウン管技術の導入が必要
    • [81]フィリップスの提示条件 イニシャル55万ドル・株式参加30%・技術指導料6%
    • [82]経営指導料を対置する主張
    • [83]決着は技術指導料4.5%対経営指導料3%
    • [85]高槻の新工場が1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタを生産
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [84]1952年12月 フィリップスとの技術提携により松下電子工業を設立、管球製造所の4工場を分離

1952年1月には中川機械と資本提携して冷蔵庫へ入り[86]、1954年2月には日本ビクターと資本提携した[87]。ビクターは資本金二千五百万円に対して四億五千万円の借金を抱えていた[88]が、氏は犬の商標が持つ暖簾の値打ちを見て引き受けを決めている[89]。1956年1月10日の経営方針発表会[90]では、前年二百二十億円の売上を五年で四倍の八百億円にする[91]という五ヵ年計画を公表した。一企業が将来の目標を外部へ発表する例のない時代で社内にも半信半疑の空気が残ったが、目標は四年目にほぼ達成され、五年後の生産販売額は一千五十億円に達している[92]。1958年1月には松下通信工業を設立して通信機器製造部門を分離し[93]、1959年9月にはアメリカ松下電器を設立して海外拠点の展開に入った[94]。1960年に掲げた週二日休日は、1965年4月の週五日制として実現[95]している。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1952年1月 中川機械(のち松下冷機)と資本提携
    • [87]1954年2月 日本ビクターと資本提携
    • [93]1958年1月 松下通信工業を設立し通信機器製造部門を分離
    • [94]1959年9月 アメリカ松下電器を設立
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [88]ビクターは資本金2,500万円に対し借入4億5,000万円
    • [89]犬の商標の暖簾の値打ちを理由に引き受けを決断
    • [90]1956年1月10日 経営方針発表会で五ヵ年計画を公表
    • [91]前年220億円の売上を5年で4倍の800億円へ
    • [92]4年目にほぼ達成、5年後の生産販売額1,050億円
    • [95]1960年に週二日休日を掲げ1965年4月に週五日制へ移行

1957年に発足させたナショナル店会は全国の零細な電器店を系列の販売網として組織し[96]、松下電器は「販売の松下」と呼ばれた[97]。1964年、東京オリンピック後の反動で家電の市況が悪化し[98]、販売会社と代理店の多くが赤字へ沈んだ。同年7月、会長へ退いていた氏は熱海のニュー富士屋ホテルへ全国の販売会社・代理店の社長を集めている[99]。資本金五百万円で一億五千万円の欠損を出した会社があり[100]、もうかっているかと尋ねて挙手したのは三十人ほど、残る百七十人ほどは赤字であった[101]。二日の予定は三日目に入っても苦情がやまず[102]、氏は壇上で「結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きると思います」と述べて非を認め、会場では半数以上がハンカチを取り出した[104]。会談後、氏は病気療養中の安川洋副社長に代わって営業本部長代行に就き[105]、一地域一販社制と事業部直販制、新月販制度からなる新販売制度を1965年2月から実施した[106][103]

  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
    • [96]1957年 ナショナル店会を発足させ系列販売網を組織
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [97]最強の販売網を誇り「販売の松下」と呼ばれた
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [98]1964年 東京オリンピック後の反動で家電市況が悪化
    • [99]1964年7月 熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会
    • [100]資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した販売会社
    • [101]黒字は挙手30人ほど・赤字は170人ほど
    • [102]二日の予定が三日目まで延長
    • [103]三日目の壇上での謝罪
    • [104]会場の半数以上がハンカチを取り出す
    • [105]病気療養中の安川洋副社長に代わり営業本部長代行に就任
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [106]1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度を実施
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [80]テレビ参入にはブラウン管技術の導入が必要
    • [81]フィリップスの提示条件 イニシャル55万ドル・株式参加30%・技術指導料6%
    • [82]経営指導料を対置する主張
    • [83]決着は技術指導料4.5%対経営指導料3%
    • [85]高槻の新工場が1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタを生産
    • [88]ビクターは資本金2,500万円に対し借入4億5,000万円
    • [89]犬の商標の暖簾の値打ちを理由に引き受けを決断
    • [90]1956年1月10日 経営方針発表会で五ヵ年計画を公表
    • [91]前年220億円の売上を5年で4倍の800億円へ
    • [92]4年目にほぼ達成、5年後の生産販売額1,050億円
    • [95]1960年に週二日休日を掲げ1965年4月に週五日制へ移行
    • [98]1964年 東京オリンピック後の反動で家電市況が悪化
    • [99]1964年7月 熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会
    • [100]資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した販売会社
    • [101]黒字は挙手30人ほど・赤字は170人ほど
    • [102]二日の予定が三日目まで延長
    • [103]三日目の壇上での謝罪
    • [104]会場の半数以上がハンカチを取り出す
    • [105]病気療養中の安川洋副社長に代わり営業本部長代行に就任
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [84]1952年12月 フィリップスとの技術提携により松下電子工業を設立、管球製造所の4工場を分離
    • [86]1952年1月 中川機械(のち松下冷機)と資本提携
    • [87]1954年2月 日本ビクターと資本提携
    • [93]1958年1月 松下通信工業を設立し通信機器製造部門を分離
    • [94]1959年9月 アメリカ松下電器を設立
  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
    • [96]1957年 ナショナル店会を発足させ系列販売網を組織
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [97]最強の販売網を誇り「販売の松下」と呼ばれた
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [106]1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度を実施

1965年〜 部門分離による垂直統合と、専門経営者への継承

パナソニックの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1969年 松下寿電子工業を設立
  2. 1971年 ニューヨーク証券取引所に株式上場
  3. 1976年 松下電子部品を設立し電子部品部門を分離
  4. 1977年 山下俊彦氏の社長抜擢——序列を越えた「25段跳び」 創業者はなぜ序列25番手を選んだか——「偉くない社長」が引き受けた決断経営
  5. 1990年 米MCAの7800億円買収と、5年での売却 ハードの会社がソフトを持てるか——才能が支配するハリウッドを、製造業の論理で御せるか
  6. 1993年 フィリップス社との松下電子工業に関する合弁契約を解消
  7. 1993年 森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する 意思決定はなぜ遅れたか——巨大組織の二重構造を、幸之助氏以来の事業部制で断てるか

子会社として切り出された製造部門と、VTR規格の攻防

垂直統合の体制は、製造部門を子会社として切り出す形で組み上げられ、1969年11月に松下寿電子工業を[107]、1976年1月には松下電子部品を設立して電子部品製造部門を分離した[108]。1977年1月には松下住設機器と松下産業機器を設立して住宅設備機器と産業機器の製造部門を移し[109]、1979年1月には松下電池工業へ電池製造部門を切り出している[110]。各社は事業部制の延長として独立採算で運営[111]された。資金調達の面では1971年12月にニューヨーク証券取引所へ株式を上場し[112]、1975年12月には米貨建転換社債を額面総額一億ドル発行している[113]。1985年7月には米国に金融子会社を設立し、翌1986年5月には欧州にも二社[114]を置いた。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [107]1969年11月 松下寿電子工業を設立
    • [108]1976年1月 松下電子部品を設立し電子部品製造部門を分離
    • [109]1977年1月 松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離
    • [110]1979年1月 松下電池工業を設立し電池製造部門を分離
    • [112]1971年12月 ニューヨーク証券取引所に上場
    • [113]1975年12月 米貨建転換社債を額面総額1億ドル発行
    • [114]1985年7月 米国に金融子会社を設立、1986年5月に欧州へ2社
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [111]各子会社は事業部制の延長として独立採算で運営

家庭用VTRの規格をめぐる攻防で、松下電器は主役の座を一週間の差で逃していた[115]。後に主流となる2ヘッド・ヘリカル・スキャン方式は、日本ビクターの高柳健次郎氏、ソニーの木原信敏氏、そして松下電器から特許が出願され[116]、1959年10月に出願した高柳氏のものがわずかに先行して特許はビクターのものとなった[117]。1970年には先行するソニーのUマチックに準じたU規格で三社の統一がまとまり[118]、翌1971年10月に三社からU規格のカラーVTRが発売されたものの、消費者は飛びつかなかった[119]。ビクターが独自にVHS方式を完成させて市販を始めたのは1976年9月[120]で、松下電器は量産力と全国の販売網でこれを後押しし、ソニーのベータマックスとの競争を制している[121]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準」
    • [115]2ヘッド方式の特許出願で松下電器は一週間の差で後れを取る
    • [116]2ヘッド・ヘリカル・スキャン方式の特許を高柳健次郎・木原信敏・松下電器が出願
    • [117]1959年10月 高柳の出願が先行し特許は日本ビクターのものとなる
    • [118]1970年 ソニーのUマチックに準じたU規格で三社が統一
    • [119]1971年10月 三社がU規格のカラーVTRを発売するが普及せず
    • [120]1976年9月 日本ビクターがVHS方式の市販を開始
    • [121]松下電器が量産力と販売網でVHSを後押しし標準規格化
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [107]1969年11月 松下寿電子工業を設立
    • [108]1976年1月 松下電子部品を設立し電子部品製造部門を分離
    • [109]1977年1月 松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離
    • [110]1979年1月 松下電池工業を設立し電池製造部門を分離
    • [112]1971年12月 ニューヨーク証券取引所に上場
    • [113]1975年12月 米貨建転換社債を額面総額1億ドル発行
    • [114]1985年7月 米国に金融子会社を設立、1986年5月に欧州へ2社
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [111]各子会社は事業部制の延長として独立採算で運営
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準」
    • [115]2ヘッド方式の特許出願で松下電器は一週間の差で後れを取る
    • [116]2ヘッド・ヘリカル・スキャン方式の特許を高柳健次郎・木原信敏・松下電器が出願
    • [117]1959年10月 高柳の出願が先行し特許は日本ビクターのものとなる
    • [118]1970年 ソニーのUマチックに準じたU規格で三社が統一
    • [119]1971年10月 三社がU規格のカラーVTRを発売するが普及せず
    • [120]1976年9月 日本ビクターがVHS方式の市販を開始
    • [121]松下電器が量産力と販売網でVHSを後押しし標準規格化

山下俊彦氏の抜擢と、事業部制の振り子

1977年2月、取締役の山下俊彦氏が社長へ就いた[122]。序列で二十五番手からの抜擢で[123]、相談役の松下幸之助氏が松下正治社長と高橋荒太郎会長との三人で決めている[124]。山下氏は松下電子工業で六年を過ごしてフィリップスの経理手法と管理手法を学び[125]、赤字子会社ウエスト電気の再建を経てクーラー事業部長から取締役へ進んだ現場派[126]であった。就任にあたって山下氏は「相談役の権威をバックにさしてもらわないとなにも私はできない[127]」として週に一日か二日の関与を求め、幸之助氏は「それであれば達者な間はなんぼでもやるから[128]」と応じている。山下氏は「いったん決心したら泣き言はいわない。失敗するときも堂々と」とも語った。 [129]

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]1977年2月 取締役社長に山下俊彦が就任
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [123]序列25番手からの抜擢
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号「決心したからには泣き言はいいません 山下俊彦氏(松下電器産業次期社長)が語る“開き直り”の弁」
    • [124]幸之助・松下正治社長・高橋荒太郎会長の三人で起用を決定
    • [125]松下電子工業で6年、フィリップスの経理・管理手法を学ぶ
    • [126]ウエスト電気の再建を経てクーラー事業部長から取締役へ
    • [127]就任の条件として相談役の関与を求める
    • [128]幸之助の応答
    • [129]就任にあたっての覚悟

就任の翌1978年、山下氏は無線・電化機器・産業機器の三総括事業本部を廃し[130]、事業部を社長へ直結させた。「百パーセント安全という事業ばかりやっとったんでは、その企業のバイタリティーは生まれてこん[131]」という考えのもと、三割の危険を含む案件にも踏み込むとした。もっとも組織は一つの形に落ち着かず、1984年にはテレビ・ビデオ・電化・情報機器の四本部からなる事業本部制が復活した[132]。1986年2月には谷井昭雄氏が社長へ就き[133]、翌1987年3月には決算期を11月20日から3月31日へ変更している[134]。1989年4月、創業者の松下幸之助氏が九十四歳で逝去した[135]

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [130]1978年 3総括事業本部(無線・電化機器・産業機器)を廃止し事業部を社長直結
    • [132]1984年 事業本部制が復活(テレビ・ビデオ・電化・情報機器の4本部)
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号「決心したからには泣き言はいいません 山下俊彦氏(松下電器産業次期社長)が語る“開き直り”の弁」
    • [131]危険を含む事業への姿勢
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [133]1986年2月 取締役社長に谷井昭雄が就任
    • [134]1987年3月 決算期を11月20日から3月31日へ変更
    • [135]1989年4月 創業者松下幸之助が逝去
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]1977年2月 取締役社長に山下俊彦が就任
    • [133]1986年2月 取締役社長に谷井昭雄が就任
    • [134]1987年3月 決算期を11月20日から3月31日へ変更
    • [135]1989年4月 創業者松下幸之助が逝去
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [123]序列25番手からの抜擢
    • [130]1978年 3総括事業本部(無線・電化機器・産業機器)を廃止し事業部を社長直結
    • [132]1984年 事業本部制が復活(テレビ・ビデオ・電化・情報機器の4本部)
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号「決心したからには泣き言はいいません 山下俊彦氏(松下電器産業次期社長)が語る“開き直り”の弁」
    • [124]幸之助・松下正治社長・高橋荒太郎会長の三人で起用を決定
    • [125]松下電子工業で6年、フィリップスの経理・管理手法を学ぶ
    • [126]ウエスト電気の再建を経てクーラー事業部長から取締役へ
    • [127]就任の条件として相談役の関与を求める
    • [128]幸之助の応答
    • [129]就任にあたっての覚悟
    • [131]危険を含む事業への姿勢

MCA買収という、もの作りからの逸脱

松下電器には「もの作り中心」という創業以来の方針があり、映画会社を経営できる人材は社内に一人もいなかった[136]。それでもハイビジョンなど高画質・高音質のAV製品の普及にはソフトの支援が欠かせない[137]とみられ、コロンビア映画を買収したソニーが先行していた。1990年11月26日に基本合意し[138]、同年12月、松下電器は米エンターテインメント大手MCAを[139]約六十一億ドル、日本円で約七千八百億円で買収した[140]。日本企業による海外企業買収では史上最高額の投資[141]であった。谷井氏は「松下電器産業が持っているハードとMCAの伝統ある映画などソフトを組み合わせることによって、新しい価値を生み出したい[142]」と述べている。

  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「モノ作りの『幸之助路線』と決別 MCA買収で社風が変わる」
    • [136]「もの作り中心」の方針と映画会社を経営できる人材の不在
    • [137]ハイビジョン普及にはソフトの支援が不可欠との見方
    • [138]1990年11月26日 MCA買収で基本合意
    • [140]買収額 約61億ドル(約7,800億円)
    • [141]日本企業の海外企業買収で史上最高額
    • [142]谷井社長が語った買収の狙い
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]1990年12月 米エンターテインメント大手MCA社を買収

経営陣との軋轢は当初から続き、「ジュラシック・パーク」のゲーム化権をめぐる対立[143]では、MCAを傘下の一部門とみる松下電器の側に「なぜ言うことを聞かないのか[144]」と映った。才能が価値を決めるソフトの事業を、資本の論理で御することはできなかった[145]。1993年2月に社長へ就いた森下洋一氏[146]は、MCAの経営権をめぐる確執が表沙汰になった1994年10月まで、MCA首脳陣とひざ詰めで話し合ったことがなかった[147]。垂直統合の側も解け始めており、1993年5月にはフィリップスとの松下電子工業に関する合弁契約を解消して、フィリップスが保有する同社株の全数を買い取っている[148]。技術を導入する側として対等を主張した提携は、四十年を経て一方の完全な引き取りで終わった[149]

  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「MCA売却を決断した松下電器。『才能=ヒト』の論理、理解できず ソフトビジネス、高い『授業料』」
    • [143]ジュラシック・パークのゲーム化権をめぐる対立
    • [144]傘下の一部門とみる側の受け止め
    • [145]才能が価値を決める事業を資本の論理で統御できず
    • [147]森下は1994年10月の確執表面化までMCA首脳と直接協議せず
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [146]1993年2月 取締役社長に森下洋一が就任
    • [148]1993年5月 フィリップスとの松下電子工業に関する合弁契約を解消し保有株全数を買取
    • [149]1952年の提携は40年を経て株式の全数買取で終了
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「モノ作りの『幸之助路線』と決別 MCA買収で社風が変わる」
    • [136]「もの作り中心」の方針と映画会社を経営できる人材の不在
    • [137]ハイビジョン普及にはソフトの支援が不可欠との見方
    • [138]1990年11月26日 MCA買収で基本合意
    • [140]買収額 約61億ドル(約7,800億円)
    • [141]日本企業の海外企業買収で史上最高額
    • [142]谷井社長が語った買収の狙い
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]1990年12月 米エンターテインメント大手MCA社を買収
    • [146]1993年2月 取締役社長に森下洋一が就任
    • [148]1993年5月 フィリップスとの松下電子工業に関する合弁契約を解消し保有株全数を買取
    • [149]1952年の提携は40年を経て株式の全数買取で終了
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「MCA売却を決断した松下電器。『才能=ヒト』の論理、理解できず ソフトビジネス、高い『授業料』」
    • [143]ジュラシック・パークのゲーム化権をめぐる対立
    • [144]傘下の一部門とみる側の受け止め
    • [145]才能が価値を決める事業を資本の論理で統御できず
    • [147]森下は1994年10月の確執表面化までMCA首脳と直接協議せず

1994年〜 事業部制の解体と再生、プラズマの失敗、そして事業会社制へ

パナソニックの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1994年 森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する 意思決定はなぜ遅れたか——巨大組織の二重構造を、幸之助氏以来の事業部制で断てるか
  2. 2000年 中村邦夫氏の「破壊と創造」——事業部制の解体とグループ5社の完全子会社化 ソニーに逆転を許した松下を、幸之助氏が残した「聖域」ごとどう作り替えるか
  3. 2009年 三洋電機の買収——「もうひとつの成長エンジン」を電池に賭ける エナジーで成長できるか——リーマン直後に、電池と太陽電池の技術を高値で抱え込む
  4. 2013年 プラズマテレビからの撤退——5000億円の内製を畳む 大画面はプラズマで勝てるか——垂直統合の看板を、なぜ自ら手放したか
  5. 2014年 テスラとの車載電池協業とギガファクトリー——家電から「走る電池」へ 電池で成長できるか——単一の巨大工場に製造機能を預け、BtoBへ主力を移す
  6. 2022年 ブルーヨンダー買収と持株会社への移行——「事業会社制」への組み替え ハードだけで勝てるか——本業の現場に直結するソフトを抱え、自主責任経営へ組織を組み替える
  7. 2024年 パナソニック オートモーティブシステムズの一部株式売却 「成長領域」への集中を進める楠見雄規社長が、売上1兆円超の車載事業に外部資本を招き入れた経営判断
  8. 2025年 好業績下での国内外1万人削減——固定費構造の改革 12年連続で黒字を確保するなかで、楠見雄規グループCEOはなぜ「黒字リストラ」に踏み切ったのか

森下改革と、系列流通に残された課題

森下洋一氏が引き継いだ会社は、家電不況と天候不順、産業機器の低迷が重なって三期連続の減益に沈み[150]、1995年3月期には営業赤字さえ見込まれていた[151]。1984年に復活した事業本部制は組織の二重構造を生み、本社に委員会がいくつあるか把握している者はいない[152]と言われるほど会議が膨れ上がっている。ある事業部長は、何かを決めるのではなく報告だけの会議がほとんど[153]だと語った。1993年11月の約二十五万台に及ぶIHジャー炊飯器のリコール[154]では、原因を社長へ報告した11月7日から緊急記者発表の11月20日まで二週間を要している[155]。森下氏は同年12月8日、事業本部を廃止して実質的に社長が事業部を直接みる組織へ改めた[156]

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [150]家電不況・天候不順・産業機器の低迷で3期連続減益
    • [151]1995年3月期に営業赤字の見込み
    • [152]事業本部制が組織の二重構造を生み会議が膨張
    • [153]事業部長による会議の実態
    • [154]1993年11月 IHジャー炊飯器 約25万台のリコール
    • [155]社長報告11月7日から公表11月20日まで2週間
    • [156]1993年12月8日 事業本部を廃止し社長直轄の組織へ

改革は生産部門にとどまり、営業部門には及ばなかった[157]。かつて「販売の松下」と呼ばれた全国二万五千店の系列店[158]はディスカウンターの攻勢と家電不況で重荷となり、家電流通を中心とする営業体制の立て直しは事業部再建以上の急務[159]と見られていた。それでも事業部と販売部門をどうつなぐかという核心部には手がつかないまま残されている[160]。1995年4月には松下住設機器を合併し[161]、同年6月には米国子会社が保有するMCA持分の八割をカナダのシーグラムへ譲渡して[162]、買収から五年で撤退した。残る株式も2006年2月にビベンディ・ユニバーサルへ譲渡[163]している。1999年2月には五千万株、金額にして九百八十八億円の自己株式を利益によって消却した[164]

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [157]改革は営業部門に及ばず
    • [158]全国2万5000店の系列店
    • [159]営業体制の立て直しが事業部再建以上の急務
    • [160]事業部と販売部門の接続という核心部は未着手
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [161]1995年4月 松下住設機器を合併
    • [162]1995年6月 米国子会社保有のMCA持分80%をシーグラムへ譲渡
    • [163]2006年2月 残余の旧MCA株式をビベンディ・ユニバーサルへ譲渡
    • [164]1999年2月 5,000万株・988億円の自己株式を利益消却
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
    • [150]家電不況・天候不順・産業機器の低迷で3期連続減益
    • [151]1995年3月期に営業赤字の見込み
    • [152]事業本部制が組織の二重構造を生み会議が膨張
    • [153]事業部長による会議の実態
    • [154]1993年11月 IHジャー炊飯器 約25万台のリコール
    • [155]社長報告11月7日から公表11月20日まで2週間
    • [156]1993年12月8日 事業本部を廃止し社長直轄の組織へ
    • [157]改革は営業部門に及ばず
    • [158]全国2万5000店の系列店
    • [159]営業体制の立て直しが事業部再建以上の急務
    • [160]事業部と販売部門の接続という核心部は未着手
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [161]1995年4月 松下住設機器を合併
    • [162]1995年6月 米国子会社保有のMCA持分80%をシーグラムへ譲渡
    • [163]2006年2月 残余の旧MCA株式をビベンディ・ユニバーサルへ譲渡
    • [164]1999年2月 5,000万株・988億円の自己株式を利益消却

中村邦夫氏の破壊と創造、そしてプラズマへの集中

2000年6月に社長へ就いた中村邦夫氏[165]は、ソニーの平面ブラウン管テレビに松下のテレビが完敗する現場を見て「これはつぶれる、松下は危ない[166]」と危機感を覚えたと語っている。1990年代の松下電器は有利子負債を一兆円規模で圧縮して財務を立て直した半面、成長を欠いて売上高でソニーに逆転を許していた[167]。2002年3月期の連結業績は売上高七兆七百三十八億円、当期純損失四千二百七十七億円[168]で、上場後初の連結最終赤字となった[169]。中村氏は現状を肯定して少しずつ改善する積み上げ方式の再建計画を退け、「皆が痛みを感じるようなものでないと、この会社は変わらない[170]」と述べている。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [165]2000年6月 取締役社長に中村邦夫が就任
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「沈むぞ!松下 ソニーに逆転を許した松下の危機 中村改革のすべてを語ろう」
    • [166]ソニーのテレビに完敗した現場での危機感
    • [170]積み上げ方式の再建計画を退ける
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号「松下電器産業(グループ5社の完全子会社化)幸之助翁の分社経営を越えて」
    • [167]1990年代は有利子負債1兆円規模の圧縮に成功する一方で成長を欠く
  • 松下電器産業 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [168]2002年3月期 売上高7兆738億円・当期純損失4,277億円
    • [169]上場後初の連結最終赤字

2001年4月には松下電子工業を本体へ合併し[171]、2002年10月には松下通信工業・九州松下電器・松下精工・松下寿電子工業・松下電送システムの主要五社を株式交換で完全子会社化した[172]。翌2003年1月には事業ドメイン別の経営管理へ移行[173]した。分社による自主責任経営は幸之助氏が残した聖域と受け止められてきた[174]が、似通った製品を同時に手がける社内競争はすでに重複による効率低下として重荷になっていた[175]。早期退職により連結の国内製造会社を含めて一万人強がグループを去っている[176]。2003年4月にはグローバルブランドを「Panasonic」へ統一し、松下電子部品と松下電池工業も株式交換で完全子会社化した[177]。2004年4月には松下電工とパナホームおよび傘下の子会社を連結子会社化して[178]、住宅設備と照明を取り込んでいる。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [171]2001年4月 松下電子工業を合併
    • [172]2002年10月 主要5社を株式交換で完全子会社化
    • [173]2003年1月 事業ドメイン別経営管理へ移行
    • [177]2003年4月 グローバルブランドを「Panasonic」に統一、松下電子部品・松下電池工業を完全子会社化
    • [178]2004年4月 松下電工・パナホームと傘下子会社を連結子会社化
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号「松下電器産業(グループ5社の完全子会社化)幸之助翁の分社経営を越えて」
    • [174]分社による自主責任経営は「幸之助が残した聖域」
    • [175]重複による効率低下が重荷に
    • [176]早期退職で1万人強がグループを離脱

中村氏は次世代テレビの主力をプラズマディスプレイと定め、兵庫県尼崎市に専用工場を建てた[179]。2007年6月に稼働した第4工場には千八百億円を投じ[180]、累計の投資は五千億円を超えている[181]。2006年6月に社長を継いだ大坪文雄[182]も投資を続けた。2008年10月には社名を松下電器産業からパナソニックへ改めた[183]が、同年のリーマン・ショックで連結売上高は前年比一兆一千億円以上も減り、2009年3月期には創業以来初となる三千七百九十億円の純損失を計上している[184]。大画面はプラズマ、中小型は液晶という棲み分けは液晶の大型化によって崩れ[185]、プラズマはフルHD化で三、四年の遅れをとった[186]。地上デジタル放送の完全移行にあわせた大型テレビ需要の時期に、この遅れは致命傷となっている[187]

  • マイナビニュース(2013年11月8日)「「テレビ事業 復活の樹」に懸けた思い - パナソニックのプラズマ事業の歴史を振り返る・後編」
    • [179]次世代テレビの主力をプラズマと定め尼崎に専用工場を建設
    • [180]2007年6月稼働の第4工場に1,800億円を投資
  • 日本経済新聞(2013年3月18日)「巨額投資、実を結ばず パナソニックがプラズマ撤退へ」
    • [181]プラズマ事業への累計投資5,000億円超
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [182]2006年6月 取締役社長に大坪文雄が就任
    • [183]2008年10月 社名を松下電器産業からパナソニックへ変更
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2010年3月期)【経理の状況】
    • [184]リーマン・ショックで連結売上高が前年比1兆1,000億円以上減、2009年3月期に純損失3,790億円
  • マイナビニュース(2013年11月5日)「なぜプラズマは主役になり得なかったのか? パナソニックのプラズマ撤退を検証する」
    • [185]大画面プラズマ・中小型液晶の棲み分けが液晶大型化で崩壊
  • AV Watch(2021年3月12日)西川善司の大画面マニア「プラズマ盛衰から有機EL戦乱まで~2010年代のテレビ技術を振り返る」
    • [186]プラズマはフルHD化で液晶に3〜4年の遅れ
    • [187]地デジ完全移行に伴う大型テレビ需要期に遅れが致命的となる
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [165]2000年6月 取締役社長に中村邦夫が就任
    • [171]2001年4月 松下電子工業を合併
    • [172]2002年10月 主要5社を株式交換で完全子会社化
    • [173]2003年1月 事業ドメイン別経営管理へ移行
    • [177]2003年4月 グローバルブランドを「Panasonic」に統一、松下電子部品・松下電池工業を完全子会社化
    • [178]2004年4月 松下電工・パナホームと傘下子会社を連結子会社化
    • [182]2006年6月 取締役社長に大坪文雄が就任
    • [183]2008年10月 社名を松下電器産業からパナソニックへ変更
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「沈むぞ!松下 ソニーに逆転を許した松下の危機 中村改革のすべてを語ろう」
    • [166]ソニーのテレビに完敗した現場での危機感
    • [170]積み上げ方式の再建計画を退ける
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号「松下電器産業(グループ5社の完全子会社化)幸之助翁の分社経営を越えて」
    • [167]1990年代は有利子負債1兆円規模の圧縮に成功する一方で成長を欠く
    • [174]分社による自主責任経営は「幸之助が残した聖域」
    • [175]重複による効率低下が重荷に
    • [176]早期退職で1万人強がグループを離脱
  • 松下電器産業 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [168]2002年3月期 売上高7兆738億円・当期純損失4,277億円
    • [169]上場後初の連結最終赤字
  • マイナビニュース(2013年11月8日)「「テレビ事業 復活の樹」に懸けた思い - パナソニックのプラズマ事業の歴史を振り返る・後編」
    • [179]次世代テレビの主力をプラズマと定め尼崎に専用工場を建設
    • [180]2007年6月稼働の第4工場に1,800億円を投資
  • 日本経済新聞(2013年3月18日)「巨額投資、実を結ばず パナソニックがプラズマ撤退へ」
    • [181]プラズマ事業への累計投資5,000億円超
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2010年3月期)【経理の状況】
    • [184]リーマン・ショックで連結売上高が前年比1兆1,000億円以上減、2009年3月期に純損失3,790億円
  • マイナビニュース(2013年11月5日)「なぜプラズマは主役になり得なかったのか? パナソニックのプラズマ撤退を検証する」
    • [185]大画面プラズマ・中小型液晶の棲み分けが液晶大型化で崩壊
  • AV Watch(2021年3月12日)西川善司の大画面マニア「プラズマ盛衰から有機EL戦乱まで~2010年代のテレビ技術を振り返る」
    • [186]プラズマはフルHD化で液晶に3〜4年の遅れ
    • [187]地デジ完全移行に伴う大型テレビ需要期に遅れが致命的となる

三洋買収の代償と、事業会社制への組み替え

2009年11月、パナソニックは三洋電機に対して買付価格一株百三十一円、買付総額四千二十二億九千九百万円の公開買付け[188]を決議し、同年12月に議決権の50.19%を取得して連結子会社とした[189]。狙いはリチウムイオン二次電池と太陽電池で、エナジーを新たな重点事業に据えて[190]いる。2011年4月にはパナソニック電工とともに株式交換で完全子会社化[191]した。しかし民生用リチウムイオン電池は円高とウォン安のもとで年率一割の値下がりに晒され[192]、三洋ののれんは五千百八十億円から二千五百億円へ減損されている[193]。2012年3月期の最終赤字は七千七百二十一億円、構造改革費は七千六百七十一億円[194]に上り、翌2013年3月期にも七千五百四十三億円の純損失を計上している[195]

  • M&A Online(2009年11月4日)「パナソニック、三洋電機をTOBにより子会社化」
    • [188]TOB 買付価格131円・買付総額4,022億9,900万円
  • AV Watch(2009年12月10日)「パナソニック、三洋電機のTOBが終了。子会社化へ」
    • [189]2009年12月 議決権の50.19%を取得し三洋電機を連結子会社化
  • パナソニックホールディングス「パナソニックの歴史 2009年(平成21年)三洋電機(株)を子会社化」
    • [190]買収の狙いは二次電池と太陽電池、エナジーを重点事業に
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [191]2011年4月 パナソニック電工・三洋電機を株式交換で完全子会社化
  • 日本経済新聞(2012年2月3日)「パナソニック常務、三洋ののれん代『5180億円から2500億円減少』」
    • [192]民生用リチウムイオン電池が円高・ウォン安で年率1割下落
    • [193]三洋ののれん5,180億円から2,500億円へ減損
  • 日本経済新聞(2012年5月11日)「パナソニック、最終赤字7721億円 12年3月期」
    • [194]2012年3月期 最終赤字7,721億円・構造改革費7,671億円
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2013年3月期)【経理の状況】
    • [195]2013年3月期 純損失7,543億円

2012年6月に社長へ就いた津賀一宏[196]は、不採算事業の整理を進めた。2013年4月にドメインを解消して事業部制を軸とする体制へ戻し、同時にニューヨーク証券取引所の上場を廃止[197]している。同年3月に「撤退は最後の判断[198]」と述べていたプラズマについては、一時千億円を超えた赤字を反転させる策が見えない[199]として10月31日に生産終了を表明し、12月にパネルの生産を終え、2014年3月末で尼崎の工場を止めた[200]。津賀氏はテレビを白モノ家電の一つと位置づけ直し、「我々はパネルを内製するつもりは無い[201]」と述べている。有利子負債は2013年3月期の一兆千四百三十四億円から翌期には六千四百二十一億円へ圧縮された[202]。2014年3月にはパナソニックヘルスケアの全株式と関連資産を譲渡し、同年6月には半導体事業を分社化[203]している。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [196]2012年6月 取締役社長に津賀一宏が就任
    • [197]2013年4月 ドメインを解消し事業部制へ移行、ニューヨーク証券取引所の上場を廃止
    • [202]有利子負債 1兆1,434億円から6,421億円へ圧縮
    • [203]2014年3月 パナソニックヘルスケアの全株式と関連資産を譲渡、6月に半導体事業を分社化
  • 日本経済新聞(2013年3月28日)「パナソニック社長、プラズマ「撤退は最後の判断」 撤退明言せず」
    • [198]2013年3月時点の撤退への言及
  • EE Times Japan(2013年10月31日)「テレビは「白モノ家電の1つ」——プラズマ撤退で津賀社長」
    • [199]プラズマ事業の赤字は一時1,000億円超
  • パナソニック ニュースリリース(2013年10月31日)「プラズマディスプレイの生産終了について」
    • [200]2013年10月31日に生産終了を表明、12月に生産終了、2014年3月末で尼崎工場を停止
  • AV Watch(2013年10月31日)「パナソニック、プラズマテレビ撤退正式発表。'14年3月末でPDP事業終了」
    • [201]パネルの内製をやめ外部調達へ切り替える方針

主力はBtoBへ移り、2014年7月31日にはテスラとネバダ州の電池工場ギガファクトリーでの協力に合意して[204]、円筒形リチウムイオン電池のセルを製造・供給して製造機能ごと踏み込んでいる[205]。2020年4月にはトヨタ自動車と車載用角形電池の合弁会社プライムプラネットエナジー&ソリューションズ[206]を設けた。2021年6月就任の楠見雄規[207]は、同年9月に米ブルーヨンダーを約七十八億九千万ドルで完全子会社化し[208]、2022年4月には各事業を九社へ承継させ、持株会社パナソニックホールディングスへ移行[209]した。2024年12月にはパナソニックオートモーティブシステムズの全株式を譲渡[210]している。2025年3月期は売上高八兆四千五百八十一億円・営業利益四千二百六十五億円を計上した[211]が、同年5月、十二年連続の黒字のさなかに国内外あわせて一万人規模の削減を発表し[212]、2026年3月期の当期純利益は前期比48%減の千八百九十五億円となった[213]

  • パナソニック ニュースリリース(2014年7月31日)「パナソニックとテスラが大規模電池工場での協力に合意」
    • [204]2014年7月31日 テスラとギガファクトリー建設での協力に合意
    • [205]円筒形リチウムイオン電池セルを製造・供給し製造機能ごと参画
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [206]2020年4月 トヨタ自動車と車載用角形電池の合弁会社を設立
    • [207]2021年6月 代表取締役社長執行役員に楠見雄規が就任
    • [209]2022年4月 吸収分割で9社へ承継し持株会社パナソニックホールディングスへ移行
    • [210]2024年12月 パナソニックオートモーティブシステムズの全株式を譲渡
  • パナソニック ニュースリリース(2021年9月17日)「世界トップクラスのサプライチェーン・ソフトウェアの専門企業であるBlue Yonderの買収を完了」
    • [208]2021年9月 Blue Yonder を約78.9億ドルで完全子会社化
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【経理の状況】
    • [211]2025年3月期 売上高8兆4,581億円・営業利益4,265億円
  • 日本経済新聞(2025年5月9日)「パナソニックHD、1万人削減 構造改革費用1300億円」
    • [212]2025年5月 国内外あわせて1万人規模の削減を発表
  • 日本経済新聞(2026年5月12日)「パナソニックHDの純利益2.2倍 2027年3月期、構造改革で収益改善」
    • [213]2026年3月期 当期純利益1,895億円(前期比48%減)
  • M&A Online(2009年11月4日)「パナソニック、三洋電機をTOBにより子会社化」
    • [188]TOB 買付価格131円・買付総額4,022億9,900万円
  • AV Watch(2009年12月10日)「パナソニック、三洋電機のTOBが終了。子会社化へ」
    • [189]2009年12月 議決権の50.19%を取得し三洋電機を連結子会社化
  • パナソニックホールディングス「パナソニックの歴史 2009年(平成21年)三洋電機(株)を子会社化」
    • [190]買収の狙いは二次電池と太陽電池、エナジーを重点事業に
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [191]2011年4月 パナソニック電工・三洋電機を株式交換で完全子会社化
    • [196]2012年6月 取締役社長に津賀一宏が就任
    • [197]2013年4月 ドメインを解消し事業部制へ移行、ニューヨーク証券取引所の上場を廃止
    • [202]有利子負債 1兆1,434億円から6,421億円へ圧縮
    • [203]2014年3月 パナソニックヘルスケアの全株式と関連資産を譲渡、6月に半導体事業を分社化
    • [206]2020年4月 トヨタ自動車と車載用角形電池の合弁会社を設立
    • [207]2021年6月 代表取締役社長執行役員に楠見雄規が就任
    • [209]2022年4月 吸収分割で9社へ承継し持株会社パナソニックホールディングスへ移行
    • [210]2024年12月 パナソニックオートモーティブシステムズの全株式を譲渡
  • 日本経済新聞(2012年2月3日)「パナソニック常務、三洋ののれん代『5180億円から2500億円減少』」
    • [192]民生用リチウムイオン電池が円高・ウォン安で年率1割下落
    • [193]三洋ののれん5,180億円から2,500億円へ減損
  • 日本経済新聞(2012年5月11日)「パナソニック、最終赤字7721億円 12年3月期」
    • [194]2012年3月期 最終赤字7,721億円・構造改革費7,671億円
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2013年3月期)【経理の状況】
    • [195]2013年3月期 純損失7,543億円
  • 日本経済新聞(2013年3月28日)「パナソニック社長、プラズマ「撤退は最後の判断」 撤退明言せず」
    • [198]2013年3月時点の撤退への言及
  • EE Times Japan(2013年10月31日)「テレビは「白モノ家電の1つ」——プラズマ撤退で津賀社長」
    • [199]プラズマ事業の赤字は一時1,000億円超
  • パナソニック ニュースリリース(2013年10月31日)「プラズマディスプレイの生産終了について」
    • [200]2013年10月31日に生産終了を表明、12月に生産終了、2014年3月末で尼崎工場を停止
  • AV Watch(2013年10月31日)「パナソニック、プラズマテレビ撤退正式発表。'14年3月末でPDP事業終了」
    • [201]パネルの内製をやめ外部調達へ切り替える方針
  • パナソニック ニュースリリース(2014年7月31日)「パナソニックとテスラが大規模電池工場での協力に合意」
    • [204]2014年7月31日 テスラとギガファクトリー建設での協力に合意
    • [205]円筒形リチウムイオン電池セルを製造・供給し製造機能ごと参画
  • パナソニック ニュースリリース(2021年9月17日)「世界トップクラスのサプライチェーン・ソフトウェアの専門企業であるBlue Yonderの買収を完了」
    • [208]2021年9月 Blue Yonder を約78.9億ドルで完全子会社化
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【経理の状況】
    • [211]2025年3月期 売上高8兆4,581億円・営業利益4,265億円
  • 日本経済新聞(2025年5月9日)「パナソニックHD、1万人削減 構造改革費用1300億円」
    • [212]2025年5月 国内外あわせて1万人規模の削減を発表
  • 日本経済新聞(2026年5月12日)「パナソニックHDの純利益2.2倍 2027年3月期、構造改革で収益改善」
    • [213]2026年3月期 当期純利益1,895億円(前期比48%減)

パナソニックの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
松下幸之助氏による松下電気器具製作所の創業と、売れない改良ソケットを抱えた出発学歴も資本もない一職工は、容れられなかったソケットの案になぜ七年の勤めを捨てたか 詳細を読む★★★
砲弾型電池式ランプを考案発売
「ナショナル」の商標を制定
松下幸之助氏による事業部制の導入——製品別・独立採算の自主責任経営一人で全体を見切れなくなった会社を、どう分けて任せるか——「一国一城の主」に損益を負わせる仕組み 詳細を読む★★★
松下電器貿易を設立
松下電器産業に改組
東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場
フィリップスとの技術提携——「5分と5分、対等である」世界最先端の技術をどう手に入れるか——ロイヤリティを払う側が、対等を勝ち取れるか 詳細を読む★★★
中央研究所を設立
日本ビクターと資本提携★★
松下通信工業を設立し通信機器部門を分離
アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始
松下正治氏が取締役社長に就任
東方電機と資本提携
熱海会談と新販売制度——「松下電器が悪かった」から始めた販売改革メーカーと販売店は共に栄えられるか——トップが非を認め、手形依存の商いを組み替える 詳細を読む★★★
松下寿電子工業を設立
ニューヨーク証券取引所に株式上場
松下電子部品を設立し電子部品部門を分離
松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離
山下俊彦氏の社長抜擢——序列を越えた「25段跳び」創業者はなぜ序列25番手を選んだか——「偉くない社長」が引き受けた決断経営 詳細を読む★★★
松下電池工業を設立し電池部門を分離
谷井昭雄金融子会社を設立
谷井昭雄半導体基礎研究所を設立
谷井昭雄谷井昭雄氏が取締役社長に就任
谷井昭雄松下電器貿易を合併
谷井昭雄創業者松下幸之助が逝去
谷井昭雄米MCAの7800億円買収と、5年での売却ハードの会社がソフトを持てるか——才能が支配するハリウッドを、製造業の論理で御せるか 詳細を読む★★★
森下洋一森下洋一氏が取締役社長に就任
森下洋一フィリップス社との松下電子工業に関する合弁契約を解消★★
森下洋一森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する意思決定はなぜ遅れたか——巨大組織の二重構造を、幸之助氏以来の事業部制で断てるか 詳細を読む★★★
森下洋一MCA社持分の80%をシーグラム社へ譲渡★★
中村邦夫中村邦夫氏の「破壊と創造」——事業部制の解体とグループ5社の完全子会社化ソニーに逆転を許した松下を、幸之助氏が残した「聖域」ごとどう作り替えるか 詳細を読む★★★
中村邦夫松下電工・パナホームとその子会社を子会社化★★
大坪文雄社名を松下電器産業からパナソニックに変更
大坪文雄初の純損失を計上★★
大坪文雄三洋電機の買収——「もうひとつの成長エンジン」を電池に賭けるエナジーで成長できるか——リーマン直後に、電池と太陽電池の技術を高値で抱え込む 詳細を読む★★★
津賀一宏パナソニック電工・三洋電機を完全子会社化★★
津賀一宏2期連続の巨額純損失★★
津賀一宏津賀一宏氏が取締役社長に就任
津賀一宏プラズマテレビからの撤退——5000億円の内製を畳む大画面はプラズマで勝てるか——垂直統合の看板を、なぜ自ら手放したか 詳細を読む★★★
津賀一宏テスラとの車載電池協業とギガファクトリー——家電から「走る電池」へ電池で成長できるか——単一の巨大工場に製造機能を預け、BtoBへ主力を移す 詳細を読む★★★
楠見雄規楠見雄規が代表取締役社長に就任
楠見雄規Blue Yonderを完全子会社化★★
楠見雄規ブルーヨンダー買収と持株会社への移行——「事業会社制」への組み替えハードだけで勝てるか——本業の現場に直結するソフトを抱え、自主責任経営へ組織を組み替える 詳細を読む★★★
楠見雄規パナソニック オートモーティブシステムズの一部株式売却「成長領域」への集中を進める楠見雄規社長が、売上1兆円超の車載事業に外部資本を招き入れた経営判断 詳細を読む★★★
楠見雄規好業績下での国内外1万人削減——固定費構造の改革12年連続で黒字を確保するなかで、楠見雄規グループCEOはなぜ「黒字リストラ」に踏み切ったのか 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準」
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号「決心したからには泣き言はいいません 山下俊彦氏(松下電器産業次期社長)が語る“開き直り”の弁」
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「モノ作りの『幸之助路線』と決別 MCA買収で社風が変わる」
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号「MCA売却を決断した松下電器。『才能=ヒト』の論理、理解できず ソフトビジネス、高い『授業料』」
  • 日経ビジネス 2001年5月28日号「沈むぞ!松下 ソニーに逆転を許した松下の危機 中村改革のすべてを語ろう」
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号「松下電器産業(グループ5社の完全子会社化)幸之助翁の分社経営を越えて」
  • 松下電器産業 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
  • マイナビニュース(2013年11月8日)「「テレビ事業 復活の樹」に懸けた思い - パナソニックのプラズマ事業の歴史を振り返る・後編」
  • 日本経済新聞(2013年3月18日)「巨額投資、実を結ばず パナソニックがプラズマ撤退へ」
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2010年3月期)【経理の状況】
  • マイナビニュース(2013年11月5日)「なぜプラズマは主役になり得なかったのか? パナソニックのプラズマ撤退を検証する」
  • AV Watch(2021年3月12日)西川善司の大画面マニア「プラズマ盛衰から有機EL戦乱まで~2010年代のテレビ技術を振り返る」
  • M&A Online(2009年11月4日)「パナソニック、三洋電機をTOBにより子会社化」
  • AV Watch(2009年12月10日)「パナソニック、三洋電機のTOBが終了。子会社化へ」
  • パナソニックホールディングス「パナソニックの歴史 2009年(平成21年)三洋電機(株)を子会社化」
  • 日本経済新聞(2012年2月3日)「パナソニック常務、三洋ののれん代『5180億円から2500億円減少』」
  • 日本経済新聞(2012年5月11日)「パナソニック、最終赤字7721億円 12年3月期」
  • パナソニック株式会社 有価証券報告書(2013年3月期)【経理の状況】
  • 日本経済新聞(2013年3月28日)「パナソニック社長、プラズマ「撤退は最後の判断」 撤退明言せず」
  • EE Times Japan(2013年10月31日)「テレビは「白モノ家電の1つ」——プラズマ撤退で津賀社長」
  • パナソニック ニュースリリース(2013年10月31日)「プラズマディスプレイの生産終了について」
  • AV Watch(2013年10月31日)「パナソニック、プラズマテレビ撤退正式発表。'14年3月末でPDP事業終了」
  • パナソニック ニュースリリース(2014年7月31日)「パナソニックとテスラが大規模電池工場での協力に合意」
  • パナソニック ニュースリリース(2021年9月17日)「世界トップクラスのサプライチェーン・ソフトウェアの専門企業であるBlue Yonderの買収を完了」
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【経理の状況】
  • 日本経済新聞(2025年5月9日)「パナソニックHD、1万人削減 構造改革費用1300億円」
  • 日本経済新聞(2026年5月12日)「パナソニックHDの純利益2.2倍 2027年3月期、構造改革で収益改善」

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