松下電器の創業者である松下幸之助氏は、明治27年に和歌山県和佐村の裕福な家系に生まれたが、父親が米相場で失敗したことで没落。松下幸之助氏は9歳で丁稚奉公に出され、大阪市内の自転車店で雑用(子守・掃除など)と商売に携わった。
15歳になると丁稚奉公を卒業し、電力会社である大阪電灯に就職。配線工事の仕事に従事し、丁寧な仕事ぶりにより順調に出世。22歳で要職である検査員に昇格した。検査員の実質労働時間は1日2時間であり、恵まれた職であったという。だが、松下幸之助氏は仕事へのモチベーションが低下し、勤め人ではなく起業を考えるに至った。
松下幸之助氏は電灯会社の時代に研究していたソケットの生産を決意。大阪電灯を辞職して約100円の保有資産(退職金33円・積立金42円・貯金20円)を元手に、知人から100円の借金を合わせて調達。大阪市内の自宅の土間を改装して個人創業(この時点では屋号なし)した。創業の時点で、松下幸之助氏は24歳であった。
なお、創業にあたって、松下幸之助氏の妻の弟である井植歳男氏(当時15歳)も参画。井植氏は終戦直後に松下電器を退職して三洋電機を創業して独立したが、もともとは親戚である松下幸之助氏を手助けするために、創業時から松下電器に参画した一人であった。
ソケットの生産に必要な「練り物の調合」を知人から習得し、鍋で練り物を煮ることによって、ソケットの製造販売を開始した。ところがソケットの販売には苦戦し、松下幸之助氏は財産を質屋に入れるなど、厳しい状況に陥った。
転機は、扇風機向けの碍盤を川北電気から受注したことであった。従来は陶器を使用していたが、これを練り物で代替することに成功。まとまった受注に成功し、売上高160円に対して80円の利益を手にした。
黒字化を受けて、1918年3月に松下幸之助氏は、大阪市内(福島区大開2丁目)で「松下電気器具製作所(現・パナソニック)」を個人創業し、新たに事務所を構えた。事業内容としては、扇風機の碍盤の生産を継続しつつ、電気器具の生産に参入した。
電気器具の製品第1号として「アタッチメントプラグ」の生産を開始。モダンなデザインが評価されて受注が殺到した。練り物によって製造するため、生産拡大のために夜通しで鍋で材料を煮ていたという。
続いて「2灯用差し込みプラグ」の生産を開始。電気製品が普及し、家庭で電球以外にも扇風機・電熱機・アイロンといった電気製品を利用するようになり、プラグの受注も好調に推移した。販売先は問屋が主体であり、この時点では小売店への関与は限定的であった。
24歳の春、私は電灯会社の検査員に昇格した。私の昇格は異例に早く、この検査員は工事仲間にとって一つの出世目標だった。この仕事は担当者のやった仕事を翌日検査して悪ければしなおすように命ずるだけだ。日に15軒から20軒回るのだが、非常に楽な仕事で、2、3時間もあれば済んでしまう。
ところがこの楽な役に回ってみると不思議に今までのように仕事に熱が入らず、なんとも物足りない気分を持て余すようになった。ちょうどその少し前、私は新しいソケットを造ろうと研究していた。一度はできたソケットを会社の主任に見せたところ「ダメだよこれは」と言われたこともあった。そこでどうかしてソケットをものにしたいという気が沸いてきた。「よし会社を辞めよう。7年間の努力も惜しいが・・。」
何分若いだけに気が早い。主任が止めるのも聞かずに早速辞表を出した。
さて、ソケットの製造だが、先立つ資金が足りない。(略)人も足りないので、もと同僚であった林君に参加してもらったり、家内の弟の井上歳男(現三洋電機社長)が郷里小学校を卒業したので、これも呼び寄せた。資金は林君の友人S君がコツコツ貯めた200円のうち100円を借すことに話がついた。工場は私の住んでいた平屋の2畳と4畳半の半分を土間にして、これを当てたので、まともに寝る場所もない有様だった。
松下幸之助氏は起業前に自転車店で丁稚奉公していた経験から、「アタチン」「2灯用差し込みプラグ」に次ぐ新製品として「自転車用ランプ」に着眼。従来はガスランプの方式が主流であったが、電池式のランプに置き換えることを考案した。
当時の電池式ランプの寿命は、2〜3時間であり、長時間使用に耐える製品を繰り出すために、松下幸之助氏は改良品の開発に着手。半年間で約100個の試作品を制作し、最終的に30〜50時間持続する自転車用ランプの試作に成功した。
ところが中小企業であった松下電器は信頼されておらず、販売面において苦戦。問屋や自転車店が製品の取り扱いに懐疑的であったため、松下幸之助氏は小売店(自転車屋)に2〜3個のランプを無料で配布することを決断した。これが松下電器とって、小売店という販路に直接アプローチする第一歩となった。
2〜3ヶ月のキャンペーンを経て、信頼できる性能であることが徐々に証明され、結果として自転車用ランプの受注を拡大した。
松下電器は1920年代を通じて大阪市内にランプの量産工場を相次いで新設。量産によるコストダウンを志向した。業績は非開示だが、1920年代を通じて自転車用ランプの販売拡大が、松下電器の業容拡大に最も寄与した製品となった。
松下電器の基礎となった自転車ランプの製造、販売に取り掛かったのは大正11年であった。このことを少し詳しく述べよう。当時自転車のあかりはロウソク・ランプかアセチレンのガス・ランプであったが、いずれも不便なのと高価なので皆が閉口していた。私は自転車屋の小僧をしていたので、このことに興味を持っており、事実、自転車ランプの使用数を調べてみるとバカにならない数であることがわかった。もちろん当時でも電池ランプがあることはあったが、これは2、3時間で消耗し、しかも構造が不完全で実用にはならなかった。私は簡便な構造、無故障、電池の持続10時間以上ということを目標に、約半年、百個に近い試作品を作った末、砲弾型でまずこれならというものができた。電池は市中のものを組み直してみると30〜50時間持った。(略)
さて、販売だが、予想に反してこれが一番難関だった。取引の問屋のどこを回っても答えは同じ「ノー」だった。(略)
そこで私は「背水の陣を敷くことだ。製品の真価を知ってもらうために小売店に無料で配ろう」と決心した。まず3人の外交員を雇い、資本の続く限り、大阪中の小売屋に2、3個のランプを置いて回り、うち1個はその際点火して「30時間以上持ちます。品物に信用が置けるようになったら打ってください。その後安心ができたら代金を払ってください」と言って歩かせた。全く松下電器の運命をかけた販売だった。
毎日待ち遠しいくらいに外交員の報告を聞くうち、評判は次第に高くなっていった。1ヶ月で4000、5000個預けているうちに代金回収もだんだん確実となり、2、3ヶ月もすると小売屋から電話や葉書で注文が来るようになった。
松下電器では自転車用ランプで得た利益により製品群の拡充を志向し、1920年代を通じて電気ストーブ、アイロン、コタツの製造にも参入。1927年には「ナショナル」の商標を制定し、電器製品を統一ブランドで展開した。
ナショナルという文言をブランドに制定した理由は、英語における意味に「国民の、全国の」というものが存在し、国民の必需品を目指すことを意図したためであった。1927年に販売した角型ランプについて「角型ナショナルランプ」として販売し、ナショナルブランドの製品展開を開始した。
ただし松下電器はすでに先発企業が存在する領域に対して、販売力を武器に後発参入したため、一部の同業者はナショナルブランドの製品を製造する松下電器について「マネシタ電器」と揶揄したという。
当時、あれは松下電器ではなく「マネシタ電器」のナショナル製品だ、と陰口を叩かれていた。というのは、他のメーカーが電器業界で何か新しい製品を発表すると、すぐに松下ではその製品よりも安価で優れた製品を作り上げ、巧みな宣伝文句で、もとになった他社製品を圧倒していく、その商売上手を皮肉っての「マネシタ電器」であった
1915年から国内で開始されたラジオ放送は徐々に普及し、1930年ごろまでに70万世帯に普及した。ところが当時のラジオは国産メーカーが台頭していたものの故障が多く、聞きたい放送を逃すことも多かったという。
そこで、松下幸之助氏はラジオ製造に新規参入を決定。ラジオは、それまでのランプ・電熱機とは異なり、真空管や無線通信機器が必要であり、高周波を扱うなど、技術的に難易度の高い製品であったため、買収による参入を決定した。
1930年に「K氏(北尾氏と推定)」が運営するメーカー(国道電機と推定)を買収し、松下電器の子会社として「国道電機株式会社」を発足した。買収先の関係者の名前は正式には明かされていないが、これは買収直後に経営方針の違いから、松下電器とK氏が仲違いしたことによる。
買収を通じてラジオの生産に着手したが、故障による返品が多数発生した。これは、松下電器の販売ルートが電気屋が主体であり、ラジオの修理に関する知識を持たなかったことから、返品が増大したことが要因であった。
K氏は技術のある販売店にだけラジオを売る方針を主張したが、松下幸之助氏は技術がない電気店でも販売できる製品を開発すべきだと主張。K氏と松下幸之助氏の意見が対立したため、K氏は国道電機株式会社を退職しF社(双葉電機と推定)を設立して独立。松下電器は同社を吸収することでラジオ事業の継続を図った。ただし、K氏の退職と同時に、国道電気の技術者が全員退職したため、松下電器はゼロからラジオを開発する必要に迫られた。
松下電器では中尾哲二郎氏(研究部主任)が中心となり、約3ヶ月の開発期間を経てラジオの開発に成功。1931年にラジオ「当選号」として販売を開始し、代理店向けへの出荷を開始した。すでに松下電器はナショナル製品の販売で、全国に販売網を構築しており、同じく販路に強い競合企業が存在しなかったことから、ラジオの大量販売が軌道に乗った。
また、松下幸之助氏はラジオ業界の発展のため、重要な特許を握る発明家のA氏から多極管に関する特許を買収。1932年に松下電器がこの特許を無償で公開することにより、ラジオメーカーにおける発展を促し、ラジオの普及が加速した。
この結果、1935年頃に松下電器は国内のラジオ市場でトップシェアを握るに至った。
松下電器は1932年5月5日に全社員を集めて、松下幸之助氏による訓示を実施。このなかで企業の使命を演説し、大量生産によって電気製品を家庭に浸透させ、日本社会から貧乏をなくす意義を「水道哲学」として表明。250年かけて、使命を達成する時間軸を打ち出した。
なお、松下電器の創業は1918年(個人事業の開始は1917年)であるが、松下幸之助氏が企業の使命を公表した1932年5月5日を創業日として定義した。この時点で松下電器は従業員数1200名を抱える大企業となっており、組織文化の形成の上でも、経営方針を社員に共有する狙いがあった。
産業人の使命の着想の源にあったのは、ある宗教法人(奈良県の天理教と推定)を視察したことがきっかけであったという。また、水道哲学の着想は、米国で普及しつつあった自動車(フォードによる大量生産)から得たと言われている。
組織内における一体感を醸成するために、1932年からは全事業所において「朝会・夕会」を実施し、朝会の終わりに社歌を合唱した。これらの会は自然発生的に事業所から生まれたものであったという。
産業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧より救って、これを富ましめることである。商売や生産は、その商店や工場を繁栄させるのではなく、その働き、活動によって社会を富ましめることにその目的がある。その意味においてのみ、その商店なり、その工場が盛大となり繁栄していくことが許されるのである。産業人の使命である貧乏を克服し、富を増大するということは、何によってなすべきか。これはいうまでもなく物質の生産に次ぐ生産を寸刻も揺るがせにせず、これを増進していくところに産業人の真の使命がある。(略)
水道の水は加工され価のあるものである。今日、価のあるものを盗めば、咎めを受けるのが常識である。しかし、道ばたにある水道の栓を捻って、通行人が水を盗み飲んだとしても、その不作法をとがめる場合はあっても、水そのものについてのとがめ立てはないのである。それは、その価格があまりに安からである。なぜ価格が安いか。それはその生産量が豊富だからである。ここに、われわれ産業人の真の使命がある。全ての物質を水のように無尽蔵にしよう。水道の水のように価格を安くしよう。ここにきて初めて貧乏は克服される。
精神的な安定と、物資の無尽蔵な供給が相まって、初めて人生の幸福が安定する。自分が松下電器の真使命として感得したのはこの点である。松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物資を無尽蔵にして、楽土を建設することである。
この使命を達成するためには、今日以降、250年をもって使命達成期間と定める。
大阪府内に点在していた生産拠点(第12工場まで存在)を集約するために、大阪市郊外の田園地帯に大規模工場の新設を決定。量産によるコストダウンを図ることを目論んだ。
そこで、門真に大規模工場の設置を決定し、1933年5月に本店工場として竣工した。敷地面積は7万平方メートルであり、松下電器としては大規模な設備投資(投資額50万円・うち30万円を住友銀行が無担保融資)となった。竣工当初の生産品目は、ラジオ、合成樹脂(部品)、乾電池などであった。
電器製品の拡充を受けて、松下幸之助氏が一人で全ての事業における意思決定が難しくなったことから組織改革を実施。1933年5月に製品別に経営責任を明確化するために事業部制を導入した。第一事業(ラジオ)、第二事業部(ランプ・乾電池)、第三事業部(配線器具・合成樹脂・電熱器)と定義し、組織の近代化を図った。
松下電器は製品の販売にあたって、定価販売を推進するために「連盟店制度」を開始。代理店および小売店が適正な利潤を確保できるように、流通ルートにおける値引きを抑制。メーカーである松下電器と、販売を担う代理店・小売店(町の電気屋)が共存共栄することを目的とした。
国内における家電の普及を前に、1951年から松下電器では家電製品への本格参入を開始。1951年には洗濯機の製造を開始した。
1952年にはテレビの国内放映(1953年開始)に備えて、白黒テレビの生産を開始。ブラウン管の製造に高度な技術を要することから、オランダのフィリップス社と提携することで技術導入する道を選択した。合弁会社として松下電子工業を発足し、同社の高槻工場においてテレビの生産を開始した。
1953年には冷蔵庫に参入。資本参加した中川機械(のちの松下冷機)を通じて量産することで、大規模な生産体制を整えた。
洗濯機・テレビ・冷蔵庫について、いずれも松下電器が運営する全国のナショナルショップ(小売店)を通じて販売された。
すでに戦前(1935年)から「連盟店」を通じて国内の小売店を組織化していたが、1957年には全国に販売会社を設立して「ナショナル店会・ナショナルショップ」として整備。全国各地の小売店(家族経営で地元密着型の小売店が中心)を組織化した。
戦後の日本では、小売業における雇用維持のために大規模小売店の新設が法律で制限されていたこともあり、松下電器は零細な家電小売店を組織化することで、家電メーカーとして販売力を確保した。規制緩和によって家電量販店が台頭する1980年代までは、松下電器の販売力に優位性が存在した(1993年にナショナル店会は解散)。
この結果、販売力を軸に松下電器は家電製品によって売上を拡大し、1950年代から1960年代にかけて「総合家電メーカー」に転身。家電業界においては、売上面で国内トップとなり、1970年代にはトヨタと売上高で肩を並べる日本屈指の大企業として注目を浴びた。
1960年代を通じて家電の三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の国内普及が一巡する一方、国内の各家電メーカーが量産工場を新設して増産体制を構築したため、結果として家電製品が供給過剰に陥った。日本コロムビアや富士電機など、家電業界における後発メーカーの中には、経営不振に陥る企業が続出した。
この結果、松下電器も1964年11月期決算で減収減益に陥った。1950年代から松下電器は家電の普及に合わせて売上高の高度成長を実現してきたことから、減収決算は悪い意味でインパクトを残した。
すでに、創業者である松下幸之助氏は1961年に会長に退いており、経営業務から離れていたが復帰を決断。営業本部長代行に就任し、トップダウンで販売面における改革を推進した。
1964年夏頃に松下幸之助氏は、全国の販売代理店(販社)の社長を熱海に集めて(通称:熱海会談)経営会議を実施。生産を担う松下電器と、販売を担う販社が、家電の乱売という情勢に際して、在庫や決済に関する落とし所を探る会議となった。会議については日数を定めず、結論が出るまで会議を継続する日程を組んだという。
議論は紛糾したが、最後は松下幸之助氏が「松下が悪かった」と言い、涙を流しながら頭を下げたことで、感化された販社の社長も松下電器に協力する姿勢を打ち出した。この結果「一地域一販社制」「事業部、販社間の直取引」「新月販制度」を実現し、販売改革の実施にメドを立てた。
家電の販売市場が乱戦になった時は大変やったな。うちも減収に追い込まれて、当時、すでに会長に退いていた私が営業の最前線に復帰せねばならんかった。そこで、1964年に販売代理店の社長たちを伊豆の熱海に全員集め、3日間ひざ詰め談判してな、こう言ったんや。「販売代理店の業績も悪化しているが、松下の経営も厳しい。それは、販売店が松下に手形を乱発するからや。ぜひ現金決済に変えてくれ」と。
すると、販売代理店の親父たちは「松下の指導が悪いから儲からぬ」と非難轟々やった。そうして3日目になった時、私は彼らに謝ったんや。「松下が悪かった」とな。そうしたら、なんや涙があふれてきよって・・・。ここで彼らの信頼を失ったら、どうもならんと思うたら、自然にそうなってしもうた。そうすると会場に座っていた皆も、ハンカチを目に当てて、すすりあげている。あれ以後、長期の手形決済などという業界の悪習慣もすっかり姿を消した。あの会議は本当に劇的やったな。
日米貿易摩擦によりカラーテレビの北米輸出が政治問題に発展したことを受けて、松下電器は北米でのカラーテレビの現地生産を決定した。人件費が高い米国で生産することで、コスト面では不利になるものの、政治情勢に配慮して現地精算に踏み切った。
現地生産に備えて、1974年に松下電器は米モトローラ社のカラーテレビ製造部門である「クェーザー」を買収。買収によってカラーテレビの量産を開始した。
山下氏が松下電器の社長に就任。松下幸之助氏および松下家による経営体制に終止符。
電気自動車(EV)向けの電池を供給するために、当時はベンチャー企業であったTesla Motorsと提携。2010年にTesla Motorsに対して24億円(3,000万ドル)を出資した。なお、2021年にパナソニックはTesla Motorsの株式を約4000億円で売却し、株式投資によるリターンを確保している。
世界のリーディング電池メーカーであるパナソニックが、EVの性能や価値を高めるためにテスラをパートナーに選んだことは、我々の技術に対する力強い後押しになる」「『モデルS』のバッテリーパックに、パナソニックの次世代電池が組み入れられることにより、比類なき走行距離と高性能を実現できる。パナソニックと素晴らしいパートナー関係を持つことができて、大変光栄です
2021年6月にパナソニックの社長に楠見雄規氏が就任。2021年10月に事業会社制への移行を決定し、大規模な組織再編を実施した。
2022年に本社の商号を「パナソニックホールディングス」に変更。本社の傘下に8社の事業会社を発足した。実態としては持ち株会社制であるが、パナソニックでは事業を中心にする思想から「事業会社制」と呼称している。
事業会社制の意図は、事業部への権限移譲にある。従来のパナソニックは、本社からの意向によって売上などの数値目標を事業ごとに設定していたが、事業内容に疎い本社からの指令によって現場が疲弊していたという。このため、業績の数値目標なども事業会社に権限移譲することで、最適な事業展開を意図した。
なお、パナソニックHDとしては事業の選択と集中を行うために、各事業の採算を明確化するとともに、非注力事業の事業売却に備えるという意図もあった。2021年から2年間は事業の収益改善に注力するために売却健闘を意図的に避けていたが、2023年から見直しを実施。2023年にはHD傘下のオートモーティブ事業について、米系投資ファンドへの売却を決定しており、事業会社制を通じたポートフォリオの転換も実施している。
事業会社が中心となる形なので、私たちは「事業会社制」と呼んでいます。目的は自主責任経営の徹底を図ること。(38ある事業をそれぞれ統括する)事業部長ら責任者に、高いモチベーションを持たせる必要があります。いろんな判断をするたびに本社の承認を得るとなると、モチベーションは薄れてしまいます。だから、かなりの権限を事業会社側に委譲しました。自ら物事を判断することはとても難しいですが、事業責任者には経験を積んでもらいたい。
2023年5月にパナソニックはEV向け電池に約6000億円を投資する方針を発表。車載向け事業では電池に特化し、その他の車載事業については非注力事業とした。
2023年11月にパナソニックは「オートモーティブシステム」の事業売却を発表。同事業は年間売上高1.4兆円(利益427億円)であったが、業績面で低収益なことや、パナソニックはEV向け電池に集中するために撤退を決定した。
2024年12月にパナソニックはオートモーティブシステムの事業売却を完了。売却先は米系の投資ファンド Apollo Global Management Inc.(運用資産額 約7,330億ドル)による運営会社であった。Apolloとしては2019年に東京オフィスを新設し、約1兆円の投資を決定。国内の大型案件として、パナソニックの車載向け事業を取得するに至った。
なお、パナソニックによるオートモーティブ事業の売却額は21億ドル(約3,000億円)であり、簿価を下回った。このため、パナソニックは約500億円の損失を計上するに至った。