1917年に島津製作所蓄電池工場が独立する形で、日本電池株式会社を設立。会社設立に当たっては、島津家に加えて、三菱財閥、大倉財閥、さらには京都の財界人が出資した。経営トップには蓄電池事業を推進した島津源蔵氏が就任。会社設立時の従業員数は145名であり、島津製作所蓄電池工場を譲り受けて、蓄電池の生産を継続した。
会社設立時の蓄電池の用途は「海軍省・鉄道省・通信省」であり、官公需がメインであった。
1919年から自動車向け鉛蓄電池の生産(バッテリー)を開始。エンジンの始動や点灯に必要であり、当時は鉛蓄電池の寿命が1年程度と短かかったこともあり、消耗品として補修用市場を中心に事業を拡大した。
終戦後の高度経済成長期においては、日本国内における自動車(二輪車・三輪車・四輪車)の普及に合わせて、自動車用鉛蓄電池の生産を拡大。日本電池は自動車部品メーカーとして、鉛蓄電池の量産を推進した。
この結果、1967年の時点で、日本電池は自動車向け電池において、生産高ベースで国内シェア36%(1位)を確保した。
自動車向け蓄電池では、トヨタやホンダなどの完成車メーカーに対する販売(新車装着用)の場合、値下げ圧力に晒される一方、補修用向けでは収益性を確保しやすいメリットがあった。補修用向けの蓄電池は「町の自動車修理工場」に対する販売のため、値下げ圧力が相対的に低いことが利点であった。
1967年時点の日本電池では、自動車向け蓄電池のうち、新車向けが50%・補修向けが50%の割合であり、補修向けから十分な収益を確保した。
ところが、鉛蓄電池の性能改善等により、1990年代までに補修用の鉛蓄電池の市場が縮小。自動車修理に関しても、チェーン化が進み、大規模なカー用品店が台頭したことで、補修向けでも価格圧力にさらされるようになった。この結果、1990年代を通じて日本電池の業績は低迷し、1999年3月期には35億円の最終赤字(上場後初)に転落した。
蓄電池にも自動車用電池、産業用電池として据置用電池、通信用電池、移動用電池など、いろいろあります。中でもいちばん需要の大きいのが自動車用電池です。近年わが国の鉛電池生産高は330〜340億円に達していますが、このうち260〜270億円、8割強が自動車用電池です。
ご存知のように近年、わが国の自動車工業は素晴らしく発展してきましたね。この自動車用電池は、乗用車またはトラック・バスには必ず1個ないし2個の電池がいるんです。しかも、これは決して乾電池の分野でもないですし、アルカリ電池も用いられず、鉛電池の独占場です。
それに自動車用電池は、充電器を必要としない。走りながら充電しているからです。自動車はそれぞれモーターを持っている。燃焼エネルギーの一部で持って、このモーターを回し、使った後から電気を電池に補充している。もともと鉛電池には自己放電が大きいという欠点があります。自動車用電池はこの欠点をなくしているわけです。そして、長所だけを生かしている。なにぶん鉛電池は安いですから。
こうして鉛電池工業は、自動車用電池を中心に、近年大きく成長したわけです。(略)
もとより、鉛電池といえども、永久に生命のあるものではありません。次に来たるべき電池に必ず席を譲らねばならぬ時代が来ます。それは燃料電池が経済的になる時です。それにはまあ10年はかかる。それまでは、鉛電池の時代が続く、私はこう見ています。
1990年代以降、日本国内における乗用車の量産工場の新設が一巡したことや、自動車向け鉛蓄電池の市場が成熟化して価格が下落したことで、日本電池とユアサコーポレーションにおける競争が激化した。
市場規模の面では、国内補修用市場において1993年度においては706億円だった規模が、2002年度には599億円へと減少。完成車の性能向上により、鉛バッテリーの需要が減少したことが要因であった。
販売価格の面では、1993年度から2002年度にかけて、鉛蓄電池(国内補修市場)の単価が、約6,000円から約3,600円へと下落。10年間で約40%の下落率となった。これは従来の販売先が、町の自動車修理工場であったのに対して、1990年代を通じてカーディーラーや、大手カー用品店が台頭したことで、小売サイドからの鉛蓄電池の価格圧力が強まったことや、そもそもメーカー側の鉛蓄電池の生産に余剰感があったことが原因であった。
この結果、日本電池とユアサコーポレーションは、両社ともに収益率が悪化。加えて国内における生産過剰が目立ったことから、競合関係にあった2社の再編が模索されるに至った。すなわち、日本電池とユアサコーポレーションの統合は、ライン停止や工場閉鎖などにより、国内における鉛蓄電池を減産することを意味した。
2003年7月に日本電池とジーエスユアサは経営統合に関する基本合意書を締結。統合準備を経て、2004年4月に共同持ち株会社として「ジーエス・ユアサコーポレーション」を設立し、傘下の完全子会社としてYUASAおよび日本電池を発足した。統合後は、代表取締役社長に村上氏(日本電池出身)、代表取締役社長に大坪氏(ユアサ出身)が就任した。
経営統合のGSユアサは、国内においては固定費削減(高槻工場の閉鎖・希望退職者の募集・販社集約)、海外においてはアジアを中心とした設備投資の積極化、研究開発の面ではリチウムイオン電池の開発強化を公表した。
経営統合初年度(第1期)の2005年3月期における決算で最終赤字147億円に転落。特別損失として合計76億円を計上(うち固定資産除却損26億円、事業再編費用29億円など)した。
2005年にGSユアサは希望退職者の募集を発表し、496名が退職に応じた。このため、2006年3月期に希望退職費用として53億円、子会社退職年金特別費用として22億円を特別損失として計上した。
また、2006年3月期には高槻工場(旧ユアサコーポレーション)の閉鎖による「高槻事業所跡地再開発関係費用」として41億円を特別損失として計上した。この結果、特別損失の累計は169億円に及んだ。
損失を相殺するために、2006年3月期に資産売却を実施し、固定資産売却益として33億円、投資有価証券売却益として63億円などを計上し、特別利益として131億円を計上した。
この結果、2006年3月期のジーエスユアサは当期純利益5.9億円を確保し、資産売却によって黒字転換を果たした。