1933年に立石一真氏が立石電機製作所を個人創業。大阪市西淀川区野郷町(塚本駅徒歩10分)に250坪の野里工場を設置し、電力会社向けの電機製品の製造を開始した。主な製品は、誘導型保護継電器であり、1941年にはマイクロスイッチを開発した。
戦時中には三菱重工の下請けとして航空機部品(フラップスイッチ)の生産に従事。約250名の従業員を抱え、電機機器の生産に従事したが、1945年5月の空襲により工場焼失。大阪における事業を停止した。
立石電機では、すでに1944年4月に京都に疎開工場を新設。立石一真氏が、立石電機の創業前に勤務していた会社(井上電機製作所)が京都にあり、土地勘があったことが疎開先選定の決め手となった。1945年に立石電機では京都工場を本社工場とし、以後、現在に至るまでオムロンは本社を京都に設置している。
1945年8月の終戦後も、立石電機は電流制限器の生産に従事。日本国内の電力不足のため、制限器の需要が増大したことに対応した。
1948年5月に株式会社に組織変更を実施し、立石電機株式会社(オムロン)を設立した。
ところが、1949年のドッジラインの不況により電流制限器の需要が減少し、立石電機も業績不振に陥った。加えて、立石電機では労働争議が発生して生産が行き詰まり倒産の危機に直面。立石一真氏は偽装倒産を検討したという。
立石電機は会社の存続を決定し、経営再建のために従業員数を19名まで削減。協力工場に対する債務返済を2年間引き延ばすことで、財務体質を改善して倒産を逃れた。
立石電機製作所にも労働組合ができて、まっしぐらに労働争議へと突入していった。この方はお得意の創意工夫の作戦で勝ち見事に片付けたが、デフレ制作には殆参ってしまった。ついに200万円の負債を抱えて動きが取れなくなった。私は苦し紛れに会社を一応潰して再建する方がいっそ楽ではないかと、その頃はやった不心得な手段の誘惑を感ぜぬでもなかったが、今後京都で事業を続けていく以上、偽装倒産の汚名を残すことにもなるので、率直に協力工場へ2年間の債務棚上げ懇請、快く申し入れに応じてもらったので、倒産の憂き目には会わずに済んだ。
立石一真氏は保護継電器の販売だけでは業容を拡大できないと判断し、新事業を模索。1952年に「オートメーション工場」が米国で注目を集めていることを知り、この領域への参入を検討した。
立石一真氏はオートメーションには「摩耗しないスイッチ」のニーズが増大すると判断して制御系電気に着眼。すでに立石電機では保護継電器の生産に従事していることや、マイクロスイッチ・マグネットリレー・タイムリレーなどの制御に必要な部品も製造していたため、制御継電器の開発および生産に必要な要素が揃っていた。一方で、オートメーションの市場は注目されたばかりであり、競合は存在しなかった。
そこで、1954年から立石電機は制御継電器の開発を本格化し、オートメーションの領域に新規参入した。
私はこのオートメーションという技術に妙に心を引かれた。そして、それを長いこと頭の中で温めた結果、翌1953年に、いよいよオートメーションを新しいマーケットとして開発することにしたのであった。そのわけは、いずれそのうちに日本にオートメーション工場ができることになれば、それに必要なのは制御継電器である。(略)従来の保護継電器生産の技術と設備でやっていける。まだどこもやっていないので冒険ではあるが、やりがいのある仕事であると考えて、全社員に「ゴー!」の号令をかけた。今にして思えば、これこそが「企業の決定的瞬間」だったのである。
トランジスタを用いた無接点スイッチの開発に成功。従来のスイッチは真空管を活用しており耐久性(最大2000時間)に問題があったが、鉱石であるトランジスタを用いた無接点近接スイッチでは半永久的に性能を担保できた。このため、オムロンは無接点近接スイッチを「夢のスイッチ」として販売。海外メーカー(ウェスチングハウス、GE)による開発よりも先行したため、注目を集めた。
1962年に日本国内で偽札が大量流通する「チ37号事件」が発生。科学警察研究所から立石電機に対して偽札識別機の開発要請があり、立石電機は識別器の開発に着手した。
以後、立石電機は科警研都の連携を深め、1963年には車の通過台数を自動検知する「車両検知器」の開発に従事した。この過程で、立石電機は交通に関するニーズがあることを発見し、交通領域のオートメーションの事業を本格化した。
1964年には京都府警の協力を得て「自動感応式電子交通信号機」を開発。京都における河原町3条の交差点に導入され、交通渋滞の解消に活用された。これらの交通システムでは、コンピュータを活用して各信号機を連動させることで稼働し、立石電機は交通のオートメーションを推進した。
私には腑に落ちないことが一つあった。それは、わが国には警察を上得意とするれっきとした交通信号機専門メーカーがあるのに、なぜいわば門外漢のわが社にこのプロジェクト(注:車両検知器の開発)を持ち込んだのかということであった。そこでそのことを科警研にただしたところ、「もちろん、とっくに相談しているが、満足すべき返事が来ていない」ということであった。当時すでに交通戦争の微候顕著で、警察もその対策に頭を悩ましていた頃なので、それではと、交通関係に駒を進めることにしたのであった。
阪急北千里駅にて自動改札システム(無人駅システム)を導入。オートメーションのシステム販売を開始
市場が拡大していた電卓への参入を決定。すでにシャープとカシオが競争を繰り広げており、オムロンは国内で23番目の後発参入となった。参入の意図は、電卓に使用するLSI(半導体)の確保であった。
ただし、シャープとカシオが半導体への巨額投資を通じて「電卓戦争」を巻き起こしたことで、後発のオムロンは苦戦。1975年度にオムロンは電卓からの撤退を決定した。
立石一真氏は「健康産業」の時代が来ることを予見し、1970年代を通じてライフサイエンスの事業展開を本格化。1976年にデジタル血圧計・電子体温計を開発し、医療機器の製造販売に着手した。
モーションコントロールのメーカーを買収
産業用ロボットメーカーを買収
ミネベアミツミとの競争激化を受けて、バックライト事業からの撤退を決定
車載部品事業を日本電産グループに売却。2020年3月期にオムロンは売却益514億円を計上した。
2022年2月にオムロンはJMDCと資本業務提携を締結。JMDCは保険者向けのデータ(健康診断など)を保有する医療関連企業であり、2019年に東証マザーズに上場していた。2022年にオムロンはJMDCの株式31.3%を1094億円で取得した。
2023年10月にオムロンはJMDCの子会社化を決定。同社の株式23.0%を855億円で追加取得した。この結果、オムロンは累計1949億円で、JMDCを子会社化した。なお、オムロンは全株式の取得は行わず、JMDCは株式上場を維持した。
主力のIAB(制御機器事業)およびDMB(電子部品事業)の収益性が悪化し、特に事業規模の大きい「制御機器事業」の固定費効率化が急務となった。
そこで、2024年2月の取締役会において「構造改革プログラムNEXT2025」を決議し、グローバルで人員削減を決定。国内で1000名(希望退職者の募集)、海外で1000名の合計2000名の削減を決定した。
日本国内では主に40歳以上の正社員に対して、希望退職者1000名の募集を公表。この結果、国内で1296名が退職を決め、オムロンは退職に係る特別損失として130億円を計上した。