| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1億円 | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4億円 | - | - |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 16億円 | - | - |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 31億円 | - | - |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 62億円 | - | - |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 120億円 | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 260億円 | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 454億円 | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 584億円 | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 572億円 | -28億円 | -4.9% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 699億円 | 2億円 | 0.2% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 601億円 | 0億円 | 0.0% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 731億円 | -25億円 | -3.5% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 753億円 | 36億円 | 4.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 906億円 | 49億円 | 5.4% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,156億円 | 63億円 | 5.4% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,325億円 | 56億円 | 4.2% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,810億円 | 64億円 | 2.2% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,986億円 | 64億円 | 2.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,290億円 | 114億円 | 3.4% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,290億円 | 114億円 | 3.4% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,858億円 | 334億円 | 6.8% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,368億円 | 409億円 | 7.6% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,296億円 | 399億円 | 6.3% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,421億円 | 411億円 | 5.5% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,927億円 | 283億円 | 4.7% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,715億円 | 519億円 | 9.0% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,759億円 | 523億円 | 7.7% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,823億円 | 407億円 | 5.9% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,092億円 | 79億円 | 1.1% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,751億円 | 562億円 | 6.4% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,283億円 | 760億円 | 7.3% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,782億円 | 899億円 | 7.6% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,993億円 | 1,110億円 | 9.2% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,880億円 | 1,314億円 | 8.8% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,754億円 | 1,099億円 | 7.4% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / (親)当期利益 | 15,348億円 | 584億円 | 3.8% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / (親)当期利益 | 16,180億円 | 1,219億円 | 7.5% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / (親)当期利益 | 19,181億円 | 1,357億円 | 7.0% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / (親)当期利益 | 22,428億円 | 369億円 | 1.6% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / (親)当期利益 | 23,471億円 | 1,251億円 | 5.3% |
日本市場では製品力よりも企業の歴史と信用が取引の前提条件とされ、創業直後の日本電産は国内で全く受注できなかった。永守が選んだのは、性能と価格のみで評価する米国市場で先に実績を作り、その評価を日本に逆輸入するという迂回戦略であった。さらにKEDからの出資も、金額そのものより「信用の証明」として金融機関の融資を引き出す梃子に使われた。創業期の日本電産は、信用という無形資産を外部から調達する技術に長けていた。
1973年、永守重信は27歳で勤務先の山科精機を退職し、日本電産を設立した。もともと35歳での独立を計画していたが、列島改造ブームに伴うインフレの進行と円高ドル安への転換という経済情勢の変化を「チャンスが多い時期」と捉え、7年前倒しで起業に踏み切った。資本金200万円、周囲は全員反対という状況での船出であり、母からは「人の倍働けるなら成功する」という言葉だけが送られた。
創業直後の1973年10月には第一次オイルショックが勃発する。しかし省エネ・省力化の要請が高まる中で、小型で高性能かつ保守不要のブラシレスモータへの需要が急速に拡大し、永守が創業前から研究を進めていた技術がまさに時流に合致する形となった。
1974年にはオムロン創業者・立石一真が主宰するベンチャーキャピタルKEDから500万円の出資を受けた。出資額自体は大きくなかったが、「KEDが出資した」という実績が信用力として機能し、金融機関からの融資が一気に拡大。調達資金は亀岡工場の建設に充当され、日本電産の生産基盤が確立された。
永守は自信作の精密小型モータを持って国内大手メーカーを回ったが、結果は全て門前払いだった。製品の品質は認められたものの、「若すぎる」「信用がない」「金がない」という理由で取引を拒否された。日本市場では製品力よりも企業の信用と実績が優先されるという壁に直面した永守は、国内営業を見切り、渡米して顧客開拓に転じた。
米国では製品の性能と価格だけで評価される商慣習があり、日本電産のモータはスリーエム(3M)からビデオテープ機器向け小型モータとして受注を獲得した。さらにIBMなど米国を代表する大企業にも採用が広がり、創業初期の日本電産は売上高の95%が輸出で占められた。1988年時点でも売上高の99%が受注品であり、カタログ販売はほぼ皆無という受注特化型の事業構造であった。
日本電産のモータが組み込まれた3MやIBMの製品が米国の展示会に出展されると、日本の大手電機メーカーが後追いで日本電産のモータを評価し始めた。米国市場での実績が「信用」として機能し、かつて門前払いした国内メーカーからの受注が実現した。信用の逆輸入という構造であった。
加えて日本電産は、モータ納品後のアフターサービスで差別化を図った。大手メーカーの工場でモータの故障によりラインが停止した際、競合の大手企業が対応を翌日以降に先延ばしする中、日本電産の担当者は即座に現場へ駆けつけて修理を完了した。この迅速な対応が評価され、以後その大手メーカーはモータの全量を日本電産に発注するようになった。
こうした営業面での差別化と米国経由の信用獲得により、日本電産は精密小型モータ市場で着実に顧客基盤を拡大した。創業から15年後の1988年には売上高258億円、経常利益26億円を達成し、大阪証券取引所への株式上場を果たした。
日本市場では製品力よりも企業の歴史と信用が取引の前提条件とされ、創業直後の日本電産は国内で全く受注できなかった。永守が選んだのは、性能と価格のみで評価する米国市場で先に実績を作り、その評価を日本に逆輸入するという迂回戦略であった。さらにKEDからの出資も、金額そのものより「信用の証明」として金融機関の融資を引き出す梃子に使われた。創業期の日本電産は、信用という無形資産を外部から調達する技術に長けていた。
ティアック、山科精機で計6年間、サラリーマンをやりましたが、自分のキャリアプランでは35歳ごろに独立するつもりだったんです。独立するには資本がいるでしょう。そのお金を貯めるのに最低10年はかかると思って、35歳という年齢をひとつのメドにしたのです。それが予定より7年も早まってしまった。
なぜ、そうなったのかと申しますと、1972年以降の列島改造ブームで土地投機やインフレが急速に進行し、世の中が混乱の兆しを見せていたからなんです。おっしゃるように、72年はまさに高度成長終焉の年だったわけで十分な資金があるわけではないし、家族や周囲の者は皆大反対でした。でも私は歴史物が好きで、いろいろな本を読み漁りましたが、世の中が混乱しているときとか、変動期にある時というのはチャンスも多いんですよ。もちろんリスクはありますが、これはいつ独立するにしても同じ。それならチャンスが多い時に賭けてみようと思ったのです。
私の場合、非常についているというのが、会社を設立して2年目の1974年に、ベンチャーキャピタル(VC)の京都エンタープライズ・デベロップメント(KED)から、500万円の融資を受けることができたんです。京都は古い町ですけど、以外に新しいもの好きの人が多くて、融資してくれたKEDも日本初のベンチャーキャピタルということでした。もう亡くなられましたが、オムロンの創業者、立石一真さんら京都の財界人が出資して作られたんです。500万円というお金は、決して大金ではありませんでしたが、「KEDが貸すなら、うちも貸そう」ということで、それまで貸し渋っていた金融機関が、むしろ積極的にお金を貸してくれるようになりましてね。KEDのお陰で一気に信用がついたんです。そうやって集まったお金は、全て亀岡市の小王城建設資金に回したのですが、それで念願の工場を作ることができ、生産体制を整えられ、わが社の最初の基礎が固まったんです。
ああ、それは海外進出なんていう格好いいものじゃ無くて、日本では全く相手にされなかったから、仕方なく海外へ出て行ったというのが実情なんでうs。自信作の精密小型モータを持って、国内の大手メーカーを回ったんですが、全て門前払い。それで「製品がダメなのか」と聞くと、「いや製品はいい」と言う。「それじゃあどうしてですか」と尋ねると「君は若すぎて経験もない。立派な工場もないし、お金もない。日本は信用第一だからお宅とは取引はできない」と答えるわけです。常にその繰り返しでした。創業したばかりの会社が、ナイナイづくしなのは当たり前でしょう。急に歳を取るわけにいきませんし(笑)
それで国内に見切りをつけて、海外に飛び出したわけです。アメリカなら製品さえ良くて安ければ、私の年が若かろうが、お金がなかろうが、それだけで評価してくれますから。結局IBMなどアメリカを代表するような大企業が、うちの製品を採用してくれました。それで当時は輸出比率が95%にも達していたんですよ。
零細企業が参入しようというのだから、生半可なやり方では通用しません。ところがある時、大手メーカーの工場だったんですが、モータの故障が原因でラインが止まってしまい、「すぐ来てくれ」という電話がかかってきたんです。うちの担当者は電話を切るや否や現場へすっ飛んでいき、故障箇所を修理しました。先方の担当者は、うちに電話をかける前に、我々の競合先である大手企業の担当者にもいくつか電話をかけたそうなんですが、「明日にしてくれ」とか「2日待ってくれ」というだけで、全く埒があかない。それで、最後の最後、うちへ電話をかけてきたんですね。
これがきっかけで、日本電産は大手に比べて何もないけれど、とにかく誠実、迅速な対応をしてくれる、と評価を受け、以来、その大手メーカーであはわが社に全てを任せてくれるようになったのです。信じられないかもしれませんが、熱意があれば必ず道は開けるんですよ。これがその後、大きなシェアを握る足掛かりになりました。
世界シェア1位の日本電産が、競争で疲弊した2位の信濃特機を救済的に買収するという構図は、価格競争の結果として寡占が自然に完成する過程を示している。独禁法の壁は「雇用維持」という条件で突破されたが、買収後にシェア約90%を握ったことで、日本電産はHDD向けモータの価格決定力をほぼ完全に掌握した。一方でこの独占的地位はHDD市場への依存度を高め、1995年の赤字転落という形で単一市場集中のリスクを顕在化させた。
1980年代を通じて日本電産はHDD向けスピンドルモータへの積極投資を続け、1989年時点で生産台数1400万台、世界シェア72.2%を確保していた。2位の信濃特機(320万台・16.5%)、3位の富士電機(120万台・6.2%)を大きく引き離す独走態勢であり、HDD向け小型精密モータは日本電産の収益を支える主力事業に成長していた。
信濃特機はティアックの子会社として長野県に本社工場を置く電子部品メーカーであったが、日本電産との価格競争の激化により業績が悪化し、1988年3月末時点で債務超過に転落した。親会社のティアックは経営再建の見通しが立たないと判断し、信濃特機の売却を決定した。
1989年に日本電産はティアックから信濃特機の株式を取得し、資本参加による買収を実施した。シェア1位の日本電産が2位の信濃特機を買収することで、合併後のHDD向けスピンドルモータの世界シェアは約88.7%に達する計算であった。日本電産にとっては競合の救済と市場の独占体制確立を同時に実現する買収であった。
最大の障壁は独占禁止法の問題であった。合併後のシェアが約90%に及ぶことから公正取引委員会の審査が必要となった。日本電産は公正取引委員会に対して、買収後も信濃特機の従業員の雇用を維持することを約束し、独占によって国内雇用が失われないことを表明した。この雇用維持の確約が認可の決め手となった。
信濃特機の買収により、日本電産はHDD向けスピンドルモータの世界市場をほぼ独占する体制を構築した。1990年代前半も世界シェア80%を維持し、パソコン需要の拡大とともにHDD向けモータの出荷量は増加を続けた。この収益基盤が、1990年代後半以降の積極的なM&A戦略を支える資金源となった。
ただし、単一製品での市場独占は需要変動に対する脆弱性を内包していた。1995年3月期にはパソコン需要の一時的な減速によりHDD向けモータの受注が急減し、日本電産は25億円の最終赤字に転落する。この経験が、永守重信に「HDD依存からの脱却」を決断させる契機となった。
| 企業名 | 順位 | 生産台数 | 世界シェア | 主な生産拠点 |
| 日本電産 | 世界1位 | 1400万台 | 72.2% | 第3工場 (滋賀) |
| 信濃特機 | 世界2位 | 320万台 | 16.5% | 本社工場 (長野) |
| 富士電機 | 世界3位 | 120万台 | 6.2% | 鈴鹿工場 (三重) |
| その他 | - | 100万台 | 5.1% | - |
世界シェア1位の日本電産が、競争で疲弊した2位の信濃特機を救済的に買収するという構図は、価格競争の結果として寡占が自然に完成する過程を示している。独禁法の壁は「雇用維持」という条件で突破されたが、買収後にシェア約90%を握ったことで、日本電産はHDD向けモータの価格決定力をほぼ完全に掌握した。一方でこの独占的地位はHDD市場への依存度を高め、1995年の赤字転落という形で単一市場集中のリスクを顕在化させた。
日本電産の買収基準は通常のM&Aの常識と逆であった。優良企業ではなく「工場が汚く社員が働かない企業」を選び、かつ収支がトントンであることを条件とした。この基準の合理性は、是正可能な非効率が多い企業ほど、規律改善だけで利益が出るという単純な論理に基づく。さらに「従業員を解雇しない」というPMI方針は、労組との交渉を円滑にし、買収先の抵抗を最小化する実務的な効果も持っていた。人を切らずに利益を出すという制約が、逆に再現可能なPMI手法を確立させた。
1994年度に日本電産はHDD向けモータの需要減速を受けて最終赤字に転落した。当時、HDD関連製品は全社売上高の約80%を占めており、パソコン市場の需給変動が直接的に日本電産の業績を左右する構造にあった。世界シェア80%超という圧倒的な市場支配力を持ちながらも、顧客産業の集中がそのまま経営リスクとなることが明らかになった。
1995年にマイクロソフトがWindows95を発売するとパソコン需要は回復し、日本電産も翌期に黒字転換を果たした。しかし永守重信は一時的な回復に安堵せず、HDD依存の構造的な脆弱性を経営課題として認識した。1997年ごろに永守はHDD向け売上比率を全体の3分の1以下に引き下げる方針を打ち出し、2002年までの完了を目標として設定した。
売上高の9割を占める事業の比率を3分の1にまで縮小するという目標は、日本電産の事業構造そのものを作り替えることを意味した。自社開発による新規参入では時間がかかりすぎるため、永守はM&Aを主軸に据える戦略を選択した。
HDD以外の事業領域を開拓するにあたり、日本電産は自社開発ではなく企業買収を主軸に据えた。自動車・家電向けモータへの参入には販売先の開拓が不可欠であったが、日本市場では取引実績のない新規参入者に対する障壁が高く、既存の取引関係と信用力を持つ企業を買収するほうが効率的であった。加えて日本電産は創業以来モータの組立に特化して成長した企業であり、精密加工技術の蓄積が不足していたため、技術獲得の手段としても買収が合理的であった。
買収先の選定基準は独特であった。永守は「工場が汚い」「社員の勤務態度が悪い」「仕入れコストが高い」という3条件を満たし、かつ収支がトントンの企業を好んで買収対象とした。悪い状態で損益が均衡するのであれば、規律改善だけで高収益化が見込めるためであった。逆に、社員が勤勉で経営陣が努力しているにもかかわらず赤字の企業は、本業の競争力に問題があり再建が困難として敬遠した。
買収後のPMIにおいては、事前に買収先の労働組合と「従業員を解雇しない」という契約を締結した。人員削減によるコストカットではなく、工場の清掃、勤務規律の徹底、仕入れ先の見直しといった運営改善によって収益性を向上させるのが日本電産のPMIの特色であった。
1995年から1998年にかけて日本電産は年間2社程度のペースで買収を実施した。共立マシナリ、シンポ工業、トーソク、リードエレクトロニクス、京利工業、コパルといった企業に次々と資本参加した。トーソクは日産自動車系列の部品メーカーであり、この買収によって自動車業界との取引実績を獲得した。
永守は買収の目的を「歴史と信用の購入」と表現した。米国であれば製品の性能と価格で取引が決まるが、日本市場では取引実績と企業の歴史が重視される。50年近い歴史を持つトーソクを買収することで「日産の親戚」という信用が付与され、新規取引先の開拓が容易になったという。製品力だけでは突破できない日本市場の商慣習を、M&Aによって迂回する戦略であった。
この結果、日本電産はHDD向け一本足の事業構造から、自動車・家電・産業機器向けを含む多角的なモータメーカーへと変貌を遂げた。以後も2000年代・2010年代を通じて買収は加速し、日本電産のM&A件数は累計60社を超える規模に拡大した。
日本電産の買収基準は通常のM&Aの常識と逆であった。優良企業ではなく「工場が汚く社員が働かない企業」を選び、かつ収支がトントンであることを条件とした。この基準の合理性は、是正可能な非効率が多い企業ほど、規律改善だけで利益が出るという単純な論理に基づく。さらに「従業員を解雇しない」というPMI方針は、労組との交渉を円滑にし、買収先の抵抗を最小化する実務的な効果も持っていた。人を切らずに利益を出すという制約が、逆に再現可能なPMI手法を確立させた。
精密小型モータの市場は、まだまだ大きく成長する分野だと思いますが、それでもその売り上げが全体の9割近くを占めるというのは、やはり経営上リスクが大きい。それで超精密軸受部品の日本電産プレシジョンとか、F/A等の省力化設備を生産する日本電産エンジニアリングといったベンチャー子会社を相次ぎ設立する一方、スイッチング電源の中堅メーカー等を買収し、精密小型モータにならぶ新しい経営の柱に育てようとしているのです。つまり、モータ依存体質からの脱却ですね。モータ部門以外の売上高を96年をメドに現在の4、5倍に持っていき、売上高1000億円を達成したいと思います。
HDD関連の商品は、今、売上全体の6割ぐらいです。今後は別の柱を育てて、5年後にはHDD関連のモータの売り上げを全体の3分の1にしたい。そのために良いものを持った会社を年に2社ぐらいずつ買収していきます。そういう会社は大企業の子会社に多いので、大企業に「売ってくれ」と言って歩いているところです。
自動車や家電関係のモータなど新らしい分野に出たり、今やっている分野を掘り下げたりしたいのですが、自社でやるには限界があるんです。人材や技術が十分ではないし、歴史や実績もありません。商品を買ってもらおうとしても「お宅、実績がないじゃないか」と言われてしまうんです。
今年、例えば日産自動車系列の部品メーカーであるトーソクに資本参加したのですが、この会社は50年近い歴史があります。ですからお客さんから「あんた今度、トーソクの親会社になったんか。日産の親戚やな。それならうちも(商品)入れたる」と、こうなるんですわ。米国なら商品がよければ買ってもらえますが、日本だとそうはいかない。ですから企業買収によって歴史や信用を買うわけです。
問 この会社を買う、と決断するときの基準は何ですか。
答 清潔さとか整理・整頓、しつけなど。それに代表的な仕入れ品のコストがどうか。3番目は従業員の勤務態度。だいたい、この3点ですね。
問 不潔で整理が行き届かず、社員が働かないような会社は買わないと?
答 いや、そういう会社を選んで買うんです。もちろん、優れた人材がおり、良い技術、良い市場を持っていることが前提です。良いものを持っているのに赤字を出しているような会社はたいてい、みんなが働かなかったり、コストの高いものを買ったりしています。そういう会社はきちんとすれば、すぐに利益が出るんです。
問 ムダや非効率もまた経営資源というわけですか。
答 そう、資源です。ゴミためのように汚い工場の中で茶髪の女性がタバコをスパスパ、というような会社がいいですな。または日本電産より3割も高いコピー用紙を買っているとか、経営者が週に2回、平日にゴルフに行っている。それで収支はトントン。そんな会社を買収したら、ものすごく儲かりますよ。反対に無駄がなくて、みんながよく働いているのに赤字だという会社は再建の見通しが暗いですね。
永守重信は過去に複数の外部招聘社長を登用したが、いずれも短期間で退任に至った経緯がある。2024年の岸田就任では、副社長5名による競争体制を経た選抜と、代表取締役2名の併存による段階的移行という枠組みが採られた。しかし、創業者が代表権を保持したまま並走する体制は、後継社長の裁量をどこまで許容するかという構造的な問いを内包している。
2023年4月に日本電産(ニデック)は副社長5名体制を敷いた。北尾氏(元三井住友銀行出身)、小関氏(CTO)、岸田氏(元ソニー出身)、大塚氏(日本電産サンキョー社長)、西本氏(日本電産シンポ社長)の5名が副社長に就任し、創業者・永守重信の後継候補として抜擢された。外部登用人材、本社幹部、子会社社長と出自の異なる候補を広く募る形であった。
永守重信は過去にも複数の外部招聘社長を登用してきたが、いずれも短期間で退任に至っていた。後継者問題は日本電産の長年の経営課題であり、副社長5名体制は候補者間の競争を通じて最適な後継者を見極めるための仕組みであった。
2024年2月に岸田光哉が代表取締役社長に就任した。創業者の永守重信は代表取締役グローバルグループ代表に就き、代表取締役2名の併存体制となった。永守から岸田への段階的な権限移譲を図る事業承継の枠組みであり、永守が直ちに経営の第一線を退くのではなく、並走しながら移行する体制が採られた。
岸田はソニー出身の外部人材であり、日本電産の生え抜きではない。永守は創業以来50年にわたり経営の中心にあり、日本電産の企業文化と意思決定の仕組みは永守個人と不可分に結びついてきた。代表権を持つ創業者が並存する中で、後継社長がどこまで独自の経営判断を行えるかが、この事業承継体制の実質的な論点となる。
永守重信は過去に複数の外部招聘社長を登用したが、いずれも短期間で退任に至った経緯がある。2024年の岸田就任では、副社長5名による競争体制を経た選抜と、代表取締役2名の併存による段階的移行という枠組みが採られた。しかし、創業者が代表権を保持したまま並走する体制は、後継社長の裁量をどこまで許容するかという構造的な問いを内包している。