結果

安川電機の長期業績

1950年〜2024年
売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
5,756億円
売上収益:2024/2
売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
8.7%
利益率:2024/2
CF

キャッシュフローの長期推移

連結優先
営業CF
単位:億円
投資CF
単位:億円
財務CF
単位:億円
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
セグメント売上高
2024/3 | 連結
モーションコントロール
ACサーボ、インバータなど
2600億円
ロボット
産業用ロボット(1968年参入)
2534億円
システムエンジニアリング
鉄鋼プラントシステムなど
554億円
その他
-
254億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
営業利益
2024/3 | 連結
モーションコントロール
-
381億円
ロボット
-
251億円
システムエンジニアリング
-
56億円
その他
-
4億円
調整額
-
-31億円
1915
7月

合資会社安川電機製作所を設立

安川敬次郎氏による安川財閥の形成

明治時代を通じて安川家(安川敬一郎氏)は、九州の筑豊炭田で石炭採掘に参入。1908年には明治鉱業を創立し、筑豊炭田における石炭採掘の有力企業に育て上げた。また、安川敬次郎氏は石炭事業の利益により、紡績・窯業・製鋼へと多角化して安川財閥を形成した。

この過程で、安川敬次郎は息子たちに「事業を始めてみてはどうか」と提案し、新規事業の企画を要請した。

安川清三郎氏と安川第五郎氏が安川電機を共同創業

1915年7月に安川敬一郎氏の子息である安川清三郎氏および安川第五郎氏(当時30歳)は普及途上にあった電機に着眼し、黒崎(福岡県遠賀郡黒崎町 = 北九州市黒崎)において合資会社安川電機を設立。1920年までに株式会社に組織変更することで、安川財閥の1社として安川電機を創業した。

初代社長には安川清三郎氏が就任。また、安川第五郎氏は会社設立前に、日立製作所やウェスチングハウスで業務に従事したキャリアを歩み、1937年に安川電機の社長に就任した。このため、安川電機は清三郎氏と第五郎氏の2名が共同創業者に相当する。

安川財閥の支援で黒崎に1万坪の工場を新設

安川電機の設立にあたっては、必要な資金を安川財閥(安川敬次郎氏)が捻出した。安川電機の創業前に、北九州の黒崎にて1万坪の工場用地を買収するなど、安川電機の創業を資金面で支援した。

安川財閥の支援により、1916年11月に安川電機は、黒崎において本社工場を竣工。安川電機は現在に至るまで、黒崎に本社を設置し続けており、北九州を代表する電機メーカーとして認知された。

後発参入により経営に苦戦・17年連続の無配転落

安川電機は、電機機器(発電機・電動機・回転変流機・変圧器・電圧調整器)の生産を開始した。ところが、すでに日立や東芝(芝浦製作所)などの先発企業が市場シェアを確保しており、技術やコスト面で競争力を持たない安川電機は苦戦した。

この結果、1932年までの安川電機の業績は低迷し、創業から17年連続赤字(および無配)を記録した。この間、安川財閥の中心であった明治鉱業が、安川電機の経営を金融面で支援(減資および増資)することにより、安川電機は破綻することなく企業として存続した。

1915年
3月
福岡県遠賀郡黒崎町に工場用地を買収
敷地面積 1 万坪
1915年
7月
合資会社安川電機製作所を設立
1917年
三相誘導電動機を開発
1919年
12月
株式会社安川電機製作所を設立
1920年
3月
株式会社安川電機が合資会社安川電機を吸収合併
証言
安川第五郎氏(安川電機・共同創業者)

安川電機の経営に対する私の構想は大きかった。学校を出て働いたと言っても、日立1年、ウェスチングハウスは6ヶ月。私のたてた安川電機の構想は、今から思えば、足が地についていない、書生っぽい夢であったかもしれない。

当時は、日立をはじめ、今の東芝が芝浦製作所として活躍していた。だが、当時はまだ日本全体の技術レベルが低かったところから、200馬力以上の大容量のものとなると、ウェスチングハウス、ヨーロッパではシーメンスなどから輸入されていた。こうした大容量のものを国産化できる技術を持った工場が、日本にできてもいいんじゃないか。また、九州には電機製造というのはほとんどない。

だから、良いものさえこしらえれば世間は買ってくれる。買ってくれれば、経営は問題なく続けられる---という書正論に終始して、私として、非常な理想を持ってスタートしたわけである。(略)

しかし、良いものさえ作れば必ず売れるという私の信念は、経営ということとは結びつかなかった。(略)大きな理想を精神的なスタートダッシュとして飛び出した事業であったが、書生っぽい理想は、現実の前に脆く崩れ去って、それからの17年というもの、赤字赤字の経営を続ける結果となった。

17年間も赤字を続けた会社も稀であろうし、逆に言えばそれだけ長期にわてって赤字を続けても、やっていけたということの裏には、私の父と、明治鉱業のバックがあったからこそである。年ごとに累積する赤字に、事業としての体裁も悪いということから、一度減資し、そして再び増資し、その赤字を補填したということもある。(略)

なんとかやりくりしていた会社も、ついに昭和5年に、にっちもさっちも行かなくなり、人員整理のやむなきに至った。

出所
参考文献
会社銀行八十年史, 1955年
歴史をつくる人々 第7, 1965年
安川電機40年史 : 1915-55, 1956年
1930
12月

従業員の半数を削減・電動機と制御器に特化

人員削減の実施

昭和恐慌による不況を受けて安川電機の業績が悪化。そこで1930年12月に安川電機は、人員200名の整理を実施した。当時の従業員数は約400名であり、従業員の1/2を削減対象とした。このため、安川第五郎氏は、人員削減における苦労を吐露した。

また、1932年には事業の絞り込みによって、配電盤・変圧器などから撤退を決定し、追加で人員削減を実施した。

電動機と制御器の生産に集中

経営改革のため、従来の重電機を幅広く生産する方針をあらためて、1932年には電動機と制御器の生産に特化する方針を決定。品目を絞り込むことにより、量産を志向することで経営再建を図った。特に量産品としてのモータ事業に注力し、「安川のモートル」のブランドとして展開した。

品目を集中したタイミングで、満州事変を契機とした軍備拡張が追い風となり日本経済が回復。安川電機の電動機および制御器の販売が好調に推移した。この結果、安川電機は累積赤字を解消し、安川財閥からの金融支援を受けなくても存続できる状態に至った。

1930年
12月
業績不振で人員削減
人員削減数 200
1932年
電動機と制御器に特化
1937年
安川モートルを商標登録
証言
安川第五郎氏(安川電機・共同創業者)

それまでは、芝浦・日立を向こうに回して、発電機・変圧器・配電盤など何でも彼でも出来ない物は無いという格好でやってきた。それがどれもよくなかった。だから何か一つ、これをやれば我が工場に最も適しているという品目のみに、集中しようということになった。それでいろいろ議論した結果、モーターのみに集中するのが良いだろうという結論を得た。然しモーターだけの工場に建て直すことになれば、今迄変圧器や配電盤の仕事を受け持って来た技術者や職工が、整理の対象となるわけだが、私としては非常に未練があった。腕の良い技術者や職工をみすみす手放すのは、身を切られるような思いだったけれど、背に腹はかえられぬというわけで、2度目も涙を飲んだわけだ。

1937年
安川第五郎氏が社長就任

実質的な創業者である安川第五郎氏が社長に就任。1976年に90歳で逝去するまで安川電機の経営に影響を与えた。

1949年5月
東京証券取引所に株式上場
1957年
九州で生産拠点を拡充
1946年
安川航空電機を合併(行橋)
1957年
行橋工場を新設
1961年
小倉工場を新設
1969年
中間工場を新設
1964年
東京工場を新設(DCサーボモータ量産)

安川第五郎氏は、競争が激しい成長市場の家電ではなく、相対的に競争が緩やかな産業用途において新規事業の展開を決定。1958年に開発したDCサーボモータ(工作機械におけるXYZ軸の制御機構に利用)を事業として発展させるため、オートメーション機器(産業用エレクトロニクス)への注力を決定した。

1964年に安川電機は初の九州以外の生産拠点として「東京工場(埼玉県入間市)」を新設。新規事業として展開していたサーボモータの量産を開始した。安川電機としては、既存事業(汎用モーター)を九州で継続しつつも、新規事業を物理的な距離がある関東で行うことで、社内ベンチャーとしてオートメーション機器を育成する意図があった。

1958年
DCサーボモータを開発
1964年
東京工場を新設(DCサーボモータ量産)
証言
安川第五郎氏(安川電機・共同創業者)

家庭電器は華やかなりし頃には、よく「安川はなぜ家庭電器をやらないのか」ということを人から言われたものである。しかし、私は「人がやるから手をだす」「儲かるからやってみよう」という経営のあり方を、厳しく戒めてきた。

安川電機の生きる道は、そうした総花的な経営ではなく、専門企業として、産業用電動力とその応用というテーマをより深く極めることである。そして、産業界における電動力とその制御については、他の及ばない技術を持って、企業の存在価値を高めることにある、と言っている。

一昨年の秋に、東京工場を建設して始めて関東に工場の進出をしたわけであるが、これとても、全くユニークなものである。東京工場は、産業用エレクトロニクスの専門工場であり、こうした純粋な産業用エレクトロニクスの専門工場は、もちろん、我が国ではじめてのものである。(略)産業用エレクトロニクスという言葉は、まだ耳新しい言葉であるかもしれないが、今後、産業の合理化、本格的なオートメーションの進展によって、その重要性は認識されてくるに違いない。

決算
安川電機の業績
1965年3月期(単体)
売上高
141
億円
計上利益
5.3
億円
1967年9月
米国安川電機を設立(販売現地法人)
1968年
NCに本格参入(モーションコントロール)
1958年
DCサーボモータを開発
1968年
ハードワイヤNCを開発
1969年
「メカトロニクス」の概念を提唱
1974年
NC「ヤスナック」を開発
1977年
産業用ロボット「MOTOMAN-L10」を開発
1977年
「MOTOMAN-L10」を開発
1988年
MOTOMANの販売拡大
累計出荷数 1 万台
1977年3月
希望退職者を募集検討・経営再建へ

1970年代を通じて安川電機の大口取引先であった新日鐵(八幡製鐵所)向けの取引が減少し、業績が悪化。1978年3月期までの2期連続で無敗に転落した。

業績不振に陥った安川電機を再建するために、メインバンクであった第一勧銀は同行の常務・喜谷礼二郎氏を安川電機の代表取締役副社長として派遣。九州の名門事業家である「安川家」の経営体制を問題視し、経営再建に着手した。

1976年
希望退職者の募集検討
削減予定数 700
決算
安川電機の業績
1977年3月期(単体)
売上高
563
億円
当期純利益
-39
億円
1979年
ベクトル制御インバータを開発
1979年
ベクトル制御インバータを開発
1989年
インバータ工場を新設
1995年
ベクトル制御インバータ「VS-616G5」を発売
2006年
小型汎用インバータ「V1000」を発売
2006年
インバータの販売拡大
累計出荷数 1000 万台
1980年10月
欧州安川電機を設立(販売現地法人)
1983年
ACサーボモータの本格展開
1983年
ACサーボドライブを発売
1991年
ACサーボドライブ「Σシリーズ」を発売
1993年
ACサーボモータの販売拡大
累計出荷数 100 万台
2002年
ACサーボモータの販売拡大
累計出荷数 300 万台
1991年9月
商号を安川電機に変更
1991年9月
アジアで販売現地法人を設立
1991年
9月
シンガポール安川電機を設立
1994年
10月
韓国安川電機を設立
1999年
4月
安川電機(上海)有限公司を設立
1994年4月
欧州でロボテック社を買収
2000年6月
中型・大型回転機部門を縮小
2000年
6月
安川モートルを設立。中型・大型回転機部門を移管
2019年
11月
安川モートルを解散
2002年3月
最終赤字転落
2010年3月
最終赤字転落
2012年1月
中国統括会社として安川電機(中国)有限公司を設立
2015年
本社事務所を再編・ロボット村を新設
2016

長期経営計画「2025年ビジョン」を策定

2016年度に小笠原浩氏が安川電機の社長に就任。経営方針として、2016年度から2025年度の10カ年に及ぶ長期経営計画「2025年ビジョン」を策定した。策定にあたっては、若手から経営層までが関与し、ボトムアップで草案を作成したという。

長期ビジョンにおいて、コア事業そ「産業用ロボット」と「モーションコントロール」と定義し、世界シェア1位の確保を目標に設定。2025年度(2026/2)における目標業績は「営業利益1,000億円以上・ROIC15.0%以上、配当性向30.0%以上」に設定した。なお、売上目標は詳細な目標を設定(2015年度対比で2倍以上を設定)せず、営業利益額とROICを目標設定することで、投下資本利益をベースとした目標数値を重視した。

決算
安川電機の業績
2017年3月期(連結)
売上高
3948
億円
当期純利益
203
億円
従業員数
11810
営業CF
337
億円
投資CF
-189
億円
財務CF
-164
億円
2018年
安川ソリューションファクトリを新設
2023年2月
過去最高益
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