明治時代を通じて安川家(安川敬一郎氏)は、九州の筑豊炭田で石炭採掘に参入。1908年には明治鉱業を創立し、筑豊炭田における石炭採掘の有力企業に育て上げた。また、安川敬次郎氏は石炭事業の利益により、紡績・窯業・製鋼へと多角化して安川財閥を形成した。
この過程で、安川敬次郎は息子たちに「事業を始めてみてはどうか」と提案し、新規事業の企画を要請した。
1915年7月に安川敬一郎氏の子息である安川清三郎氏および安川第五郎氏(当時30歳)は普及途上にあった電機に着眼し、黒崎(福岡県遠賀郡黒崎町 = 北九州市黒崎)において合資会社安川電機を設立。1920年までに株式会社に組織変更することで、安川財閥の1社として安川電機を創業した。
初代社長には安川清三郎氏が就任。また、安川第五郎氏は会社設立前に、日立製作所やウェスチングハウスで業務に従事したキャリアを歩み、1937年に安川電機の社長に就任した。このため、安川電機は清三郎氏と第五郎氏の2名が共同創業者に相当する。
安川電機の設立にあたっては、必要な資金を安川財閥(安川敬次郎氏)が捻出した。安川電機の創業前に、北九州の黒崎にて1万坪の工場用地を買収するなど、安川電機の創業を資金面で支援した。
安川財閥の支援により、1916年11月に安川電機は、黒崎において本社工場を竣工。安川電機は現在に至るまで、黒崎に本社を設置し続けており、北九州を代表する電機メーカーとして認知された。
安川電機は、電機機器(発電機・電動機・回転変流機・変圧器・電圧調整器)の生産を開始した。ところが、すでに日立や東芝(芝浦製作所)などの先発企業が市場シェアを確保しており、技術やコスト面で競争力を持たない安川電機は苦戦した。
この結果、1932年までの安川電機の業績は低迷し、創業から17年連続赤字(および無配)を記録した。この間、安川財閥の中心であった明治鉱業が、安川電機の経営を金融面で支援(減資および増資)することにより、安川電機は破綻することなく企業として存続した。
安川電機の経営に対する私の構想は大きかった。学校を出て働いたと言っても、日立1年、ウェスチングハウスは6ヶ月。私のたてた安川電機の構想は、今から思えば、足が地についていない、書生っぽい夢であったかもしれない。
当時は、日立をはじめ、今の東芝が芝浦製作所として活躍していた。だが、当時はまだ日本全体の技術レベルが低かったところから、200馬力以上の大容量のものとなると、ウェスチングハウス、ヨーロッパではシーメンスなどから輸入されていた。こうした大容量のものを国産化できる技術を持った工場が、日本にできてもいいんじゃないか。また、九州には電機製造というのはほとんどない。
だから、良いものさえこしらえれば世間は買ってくれる。買ってくれれば、経営は問題なく続けられる---という書正論に終始して、私として、非常な理想を持ってスタートしたわけである。(略)
しかし、良いものさえ作れば必ず売れるという私の信念は、経営ということとは結びつかなかった。(略)大きな理想を精神的なスタートダッシュとして飛び出した事業であったが、書生っぽい理想は、現実の前に脆く崩れ去って、それからの17年というもの、赤字赤字の経営を続ける結果となった。
17年間も赤字を続けた会社も稀であろうし、逆に言えばそれだけ長期にわてって赤字を続けても、やっていけたということの裏には、私の父と、明治鉱業のバックがあったからこそである。年ごとに累積する赤字に、事業としての体裁も悪いということから、一度減資し、そして再び増資し、その赤字を補填したということもある。(略)
なんとかやりくりしていた会社も、ついに昭和5年に、にっちもさっちも行かなくなり、人員整理のやむなきに至った。
昭和恐慌による不況を受けて安川電機の業績が悪化。そこで1930年12月に安川電機は、人員200名の整理を実施した。当時の従業員数は約400名であり、従業員の1/2を削減対象とした。このため、安川第五郎氏は、人員削減における苦労を吐露した。
また、1932年には事業の絞り込みによって、配電盤・変圧器などから撤退を決定し、追加で人員削減を実施した。
経営改革のため、従来の重電機を幅広く生産する方針をあらためて、1932年には電動機と制御器の生産に特化する方針を決定。品目を絞り込むことにより、量産を志向することで経営再建を図った。特に量産品としてのモータ事業に注力し、「安川のモートル」のブランドとして展開した。
品目を集中したタイミングで、満州事変を契機とした軍備拡張が追い風となり日本経済が回復。安川電機の電動機および制御器の販売が好調に推移した。この結果、安川電機は累積赤字を解消し、安川財閥からの金融支援を受けなくても存続できる状態に至った。
それまでは、芝浦・日立を向こうに回して、発電機・変圧器・配電盤など何でも彼でも出来ない物は無いという格好でやってきた。それがどれもよくなかった。だから何か一つ、これをやれば我が工場に最も適しているという品目のみに、集中しようということになった。それでいろいろ議論した結果、モーターのみに集中するのが良いだろうという結論を得た。然しモーターだけの工場に建て直すことになれば、今迄変圧器や配電盤の仕事を受け持って来た技術者や職工が、整理の対象となるわけだが、私としては非常に未練があった。腕の良い技術者や職工をみすみす手放すのは、身を切られるような思いだったけれど、背に腹はかえられぬというわけで、2度目も涙を飲んだわけだ。
安川第五郎氏は、競争が激しい成長市場の家電ではなく、相対的に競争が緩やかな産業用途において新規事業の展開を決定。1958年に開発したDCサーボモータ(工作機械におけるXYZ軸の制御機構に利用)を事業として発展させるため、オートメーション機器(産業用エレクトロニクス)への注力を決定した。
1964年に安川電機は初の九州以外の生産拠点として「東京工場(埼玉県入間市)」を新設。新規事業として展開していたサーボモータの量産を開始した。安川電機としては、既存事業(汎用モーター)を九州で継続しつつも、新規事業を物理的な距離がある関東で行うことで、社内ベンチャーとしてオートメーション機器を育成する意図があった。
家庭電器は華やかなりし頃には、よく「安川はなぜ家庭電器をやらないのか」ということを人から言われたものである。しかし、私は「人がやるから手をだす」「儲かるからやってみよう」という経営のあり方を、厳しく戒めてきた。
安川電機の生きる道は、そうした総花的な経営ではなく、専門企業として、産業用電動力とその応用というテーマをより深く極めることである。そして、産業界における電動力とその制御については、他の及ばない技術を持って、企業の存在価値を高めることにある、と言っている。
一昨年の秋に、東京工場を建設して始めて関東に工場の進出をしたわけであるが、これとても、全くユニークなものである。東京工場は、産業用エレクトロニクスの専門工場であり、こうした純粋な産業用エレクトロニクスの専門工場は、もちろん、我が国ではじめてのものである。(略)産業用エレクトロニクスという言葉は、まだ耳新しい言葉であるかもしれないが、今後、産業の合理化、本格的なオートメーションの進展によって、その重要性は認識されてくるに違いない。
1970年代を通じて安川電機の大口取引先であった新日鐵(八幡製鐵所)向けの取引が減少し、業績が悪化。1978年3月期までの2期連続で無敗に転落した。
業績不振に陥った安川電機を再建するために、メインバンクであった第一勧銀は同行の常務・喜谷礼二郎氏を安川電機の代表取締役副社長として派遣。九州の名門事業家である「安川家」の経営体制を問題視し、経営再建に着手した。
2016年度に小笠原浩氏が安川電機の社長に就任。経営方針として、2016年度から2025年度の10カ年に及ぶ長期経営計画「2025年ビジョン」を策定した。策定にあたっては、若手から経営層までが関与し、ボトムアップで草案を作成したという。
長期ビジョンにおいて、コア事業そ「産業用ロボット」と「モーションコントロール」と定義し、世界シェア1位の確保を目標に設定。2025年度(2026/2)における目標業績は「営業利益1,000億円以上・ROIC15.0%以上、配当性向30.0%以上」に設定した。なお、売上目標は詳細な目標を設定(2015年度対比で2倍以上を設定)せず、営業利益額とROICを目標設定することで、投下資本利益をベースとした目標数値を重視した。