古河財閥において、大正時代を通じて市場が拡大した重電機(火力・水力発電所向けの各種機器)に着眼して参入を検討していた。すでに日立製作所は国産化により重電機に参入しており、古河財閥としては出遅れたため、挽回のために海外企業との低迷による参入を模索した。
そこで、1923年に古河電工(古河財閥における電線製造を担当)はドイツのシーメンス社と業務資本提携を締結して、合弁で富士電機製造株式会社を設立した。シーメンス社はドイツ企業であったが、第一次世界大戦によるドイツ経済のインフレに対応するため、技術輸出を拡大する意図で提携を決定した。なお、富士という社名は「古河(富)」「シーメンス(士)」に由来し、合弁会社であることを象徴した。
富士電機の発足に際して、古河電工が株式70%(推定)・シーメンスが株式30%(実績)を保有。会社設立時の資本金は1000万円。ドイツは第一次世界大戦で敗戦したこともあり、シーメンスによる出資は現金ではなく、機械器具による現物出資と、技術供与の対価とし、現金の支払いがない状態で富士電機の株式を取得するに至った。
このため、富士電機は設立時点から、現金に乏しい財務問題を抱えてしまい、設立から数年間にわたって常に金融面で苦労した。
富士電機はシーメンス社から技術供与を受けて、各種電機製品の国内生産を計画。発足当時の生産品目は「発電機・電動機・変圧器・配電盤・扇風機・探照灯・量水計」などとして、主に電力会社向けの販売を意図した。このうち、発電機・電動機・変圧器などの重電機が、富士電機の創業期における主力事業となった。
設備面では、1925年4月に富士電機は川崎工場を投資額578万円で新設。会社設立時の資本金の1/2超に相当し、現金が不足したため金融機関からの借入金を建設費に充当した。
新設した川崎工場は、重電機の出荷を考慮して海岸に隣接した工場とし、敷地面積は4.8万坪におよぶ大規模工場であった。工場長にはシーメンスから派遣された外国人が就任し、川崎工場では各種電機製品の製造を開始した。
電力会社向けの電機製品は、国内では日立製作所・三菱電機・明電舎などの先発企業がすでに存在しており、後発参入である富士電機は販売に苦戦した。
この結果、売上高は1927年度から1931年度にかけて4期連続の減収となった。
1. 新会社には次の機械器具の製作、組み立て、販売を行う。発電機、電動機、変圧器、制御器、配電盤、電気計器、測定器、探照灯、電話器具、通信器具、信号機、医療機器、水量計、その他。
2.資本金は1000万円(20万株)とし、内300万円(6万株)をシーメンスが引き受け、機械器具の資材の代金(100万円)及び技術報償金(200万円)をもってその払込み充当する。なおシーメンスと古河電工の持株は常に両社合計して前株式の過半数を保有すること。
3. シーメンスは新会社にシーメンス系各社の特許権、研究経験および製作上の機械一切を自由に使用させる。また必要なる技術者を派遣して製作上の技術一切を供与する。
4.新会社の取締役のうち、社長、専務取締役は古河から、工場長はシーメンス側から選任する。
1923年度から1931年度までの合計9期のうち合計7期で最終赤字に転落。このため、1931年に富士電機は人員削減を決定。全従業員の16%にあたる205名をリストラし、残った社員についても昇給停止・手当減額などの措置を実施した。
1931年に富士電機の2代目社長であった名取和作氏は引責辞任の意向を表明。名取社長は富士電機の経営不振の理由について、シーメンスから現金による出資を受けられず、川崎工場の新設などの設備投資の資金を借入などで賄った結果赤字が拡大したことを指摘し、金融面での苦労を吐露した。
赤字の原因について調べさせたところ、最初の株金払込がわずか250万円で、そのうちシーメンスの分は現金の払込がなく、工場建設が始まってからも株金払込は思うように取れなかったので、全て銀行からの借入金で賄った。また固定資産の償却も所定通り行ったから、それとこれとあわせるとほぼ赤字に匹敵することがわかった。
さらに不良資産の切り捨てや人員整理も一応終わったので、このままじっとして時を待てば必ず業績は好転するところまで来ていた。
1933年に電話部を設置して通信機器の製造に着手していたが、戦時下において通信省の指定工場となったため、1935年に通信機部門を会社分離することを決定。1935年に富士通信機製造(現・富士通)を発足し、富士電機としては通信機事業から撤退した。
販売不振に陥った家電に代わる事業を開発するために、自動販売機の製造への参入を決定。富士電機では三重工場において生産すべき家電がない状態に陥ったため、新製品の市場投入が急務であり、将来の市場成長が期待できる自販機に着眼した。
すでにツガミや三菱重工などの先発企業が存在していたため、富士電機は自販機の製造および販売を自社で行うことで、市場ニーズを汲み取る体制を構築。製造に徹しない事業戦略により、参入から約4年で国内シェア1位を確保した。
リーマンショックにより電子デバイス部門(HDD向けモータの販売低迷)を中心に業績が悪化。事業構造改革費用184億円(うち人員対策に係る費用82億円・固定資産に係る費用46億円・棚卸資産に係る費用45億円)を特別損失として計上