明治時代に藤田組(現在のDOWA HD)において小坂鉱山の経営再建に貢献した久原房之助氏は、それまでの培った実績をもとに、国内における鉱山業で起業を決意。1905年に茨城県多賀郡における日立銅山を買収して鉱山経営に参入した。以後、久原氏は国内鉱山の買収を続けて「久原財閥」を形成した。
久原氏における鉱山経営では、機械を活用した合理化に特色があった。日立銅山においても輸入機械(排水ポンプなど)を活用して合理化を志向し、鉱物の産出量を拡大させた。
日立銅山の産出量は安定的に推移し、1912年に久原鉱業株式会社を設立した。
久原房之助氏は、藤田組(小坂鉱山の経営)に在籍していたときに、技術者である小平浪平氏を部下に持っていた。小平浪平氏は藤田組を経て東京電燈(現東京電力)に転職したが、主要な電機製品(モーター・発電機・変圧器など)が外国からの輸入品であることに問題意識を抱いた。
久原房之助氏は日立銅山の経営に従事する中で、機械化を推進するために小平浪平氏をスカウト。小平氏は日立鉱山における発電所建設を通じて外国製の電機機器について知見を得るとともに、これらの電機の修理にも従事した。
機械修理を通じて小平浪平氏はモーターの国産化を決断。試行錯誤の末、1910年(明治43年)に国産技術による5馬力モーター(誘導電動機)を開発した。
久原財閥の日立鉱山において、モーターを生産するために芝内工場(現・日立製作所山手工場)を新設した。これにより久原財閥は「日立鉱山の経営」から「電機機器(モーターの製造)」へと多角化し、電機領域に新規参入した。
自分は進んで欧米一流の製造家と提携することを企画しなかった。我々の場合は、なるべく他人の力に依存することを少なくし、専らの自らの力によって最も優良なる機械の生産を図るべきだと考えた。なるほど、外国一流の製造家と提携するときは、明らかにある程度の進歩を見る事ができるだろう。しかし、毎年多大のロイヤリティを支らねばならぬことを考えると、これと同じ費用を投じて一意専心に研究を重ねて進めば、他人の力に依存せずとも十分に成績を上げることは不可能でないと信じたから、同業者と違う道を選んだのである
久原鉱業所の製作所部門の経営が軌道に乗ったことを受けて、1918年に株式会社日立製作所を設立。資本金1000万円で設立され、資本面で久原鉱業所から独立した。もともと、久原鉱業の創業者である久原房之助氏は、機械部門への多角化に消極的であり、小平浪平氏は独立を選択した。
1918年10月に日立製作所は、生産拠点を拡大するために、東京の「佃島製作所」を合併。日立製作所の設立時に、同社の拠点を「亀戸工場(東京都)」として継承した。この結果、日立製作所の設立時は、創業地である日立工場と、東京の亀戸工場の2拠点を運営した。
浪平はとうとうがまんしきれなくなって、山をくだり、一路大阪へ向かった。久原社長を口説き落とすためであった。浪平は熱をこめて、機械製作所の分離、独立経営を説いたが、久原は肯きもしないのだ。元来、久原は鉱山業のような山気の多い仕事には熱を入れるが、製作所などという地味な事業にはほとんど関心がなかったのだ。
久原は不機嫌な表情でおし黙っている。浪平は理を尽くして弁じ立てていた。すると、いきなり、久原は灰皿を掴んで、床へ叩きつけた。内心の憤怒をそんな行為で表現したのだろうが、浪平もついに諦めて部屋を出るしかなかった。
第一次世界大戦後の不況を受けて経営難に陥っていた笠戸造船所(山口県下松市)を取得。機関車(鉄道車両)の製造を開始した
軍需対応のため全国各地の電機メーカーを買収。戦時中に18工場を運営し、日本有数の電機メーカーに発展
第二次世界大戦中に日立製作所は全国各地に軍需工場を新設して企業としては発展したものの、終戦後に軍需が皆無になったために大量の余剰人員を抱え込む形となった。終戦から4年を経た1949年には全社で4.4万人の従業員を抱えていたが、日立製作所の経営陣はこのうち8500名の従業員は余剰であると判断してリストラを決めた。
当時の日立製作所の経営陣は組合の要求を断固拒否で対抗した。この間、各地の工場長は、労働組合員から暴力を振るわれた。
会社幹部に対する組合側のつるし上げは、いまでは想像もつかない酷いものだった。「熱砂の誓」というのがあった。暑い盛りに工場長を運動場に引っ張り出して、組合員が人垣で作ったコースを、一人が工場長に赤旗を持たせてひっぱり、二人、三人がシリを叩くようにして走らせる。中継地点まで来ると次の組にリレーして工場長をまた走らせる。組合のほうはどんどん変わるが、工場長は一人でぶっ倒れるまで走らされる。それを組合員が手を叩いて、ヤジを飛ばして見守るのである。
また「ダルマ落とし」というのがあった。ドラムカンを立ててその上に工場長を立たせ、その周りを何百人もの組合員で取り囲む。前の方には比較的善良な交渉員がいて、工場長と交渉に入るのだが、その後ろにいるものが、工場長が何か気に入らぬことをしゃべると、やにわにドラム缶を蹴り倒す。工場長はドラム缶とともに転がり落ちる。すると後ろにいた乱暴な連中が、叩く、ける、つまむという乱暴を働くのである。工場長は全身に黒い打撲傷を負い、昏倒する。これは一番酷かったと思う。警察にあげられ、何人かが裁判にかかり、有罪になっている。
日立製作所の経営陣は、生産のストップを許容して、労働組合に対して要求をのまない交渉を継続した。この結果、約2ヶ月が経過し、徐々に組合内での意見分裂が生じるなど足並みが崩れた。最終的に日立製作所は希望退職者の募集に進む事ができ、同時に過激派の労働組合員を追放。企業経営を正常化した。
私は組合側が折れるまでは交渉に応じないと、交渉を打ち切って相手が疲れるのを待った。10日たち、20日がたち、1月がたった。それでも私は待った。がまんがいったが、私は動かず、じいっと待った。生産は全部止まっているし、何もする事がない。しかしこのがまんが、ついに組合を押し切った。組合はひた隠しにしていたが、1ヶ月半もするとあちこちの工場から希望退職者がで始めたのである。(略)
こうして60何日かのすとののち、8月10日に至って、当時のジャーナリズムが労使対決の天王山と呼んだ日立の争議は、会社の勝利のうちに終結した。そのとき、私には喜びはなかった。なんとも表現しようのない寂寞としたものが心に広がっていた。
1949年7月末の時点で日立製作所の自己資本比率は14.1%まで低下し、財務的に厳し状況に陥った。加えて、労働争議関連で約5億円の支出が生じたため、結果として財務体質が悪化した。このため、日立製作所は銀行からの借入を継続できなけえば倒産する危険性があった。
日立製作所の経営危機に対して、日本興業銀行は4億円の協調融資を決定。日立製作所は借入金を増やす形にはなったものの、資金繰りの悪化による倒産を逃れる形となった。
この争議で約5億円の赤字が出た。それは当時の日立にとって決して少ない額ではなかった。その上立ち上がり資金には20、30億円が必要であった。当時争議に明け暮れていた日立は、銀行の信用がなかった。(略)
結局各銀行にお願いして協調融資で急場をしのいだが、各行担当者の集まった席上、興銀の島田常務が立って「この計画は日立としては非常につつましやかなものだと思います。どうですか皆さん。あれだけの苦労をされたのですから、この計画以上に融資しようではありませんか」と言ってくださったときは、初めて思わず涙がこぼれた。この勇姿のおかげて、日立はどん底から立ち上がったのである。
1950年代を通じて日立製作所は、外国企業との技術提携を積極化。創業以来掲げてきた「国産技術」に限った経営方針を撤回した。これらの技術提携は、日立が電機メーカーとして新規分野に参入する上で、重要な役割を果たした。
1952年に日立製作所はRCAと技術提携を締結。テレビ向けブラウン管を中心とする特記実施権を獲得し、日立としては市場が急成長していたテレビ市場への参入を試みた。
1953年に日立製作所はGEと技術提携を締結。主に、発電機向け蒸気タービンに関する特許実施権を獲得し、すでにGEと提携していた東芝に追随することを目論んだ。
1954年に日立製作所はWE(Western Electric)と技術提携を締結。主にトランジスタ(半導体)における特許実施権を獲得し、半導体製造に参入することを目論んだ。
高度経済成長期を通じて、日立製作所は本業である「電機」に相当しない事業について、子会社として運営する道を選択した。
まずは1956年に日立金属(旧鉄鋼事業部)と日立電線(旧電線事業部)を設立して子会社として分離。1961年には日立化成、1964年には日立建機をぞれぞれ設立し、同様に子会社として運営した。
これらの子会社について、業績が安定した段階で株式上場を実施。1961年には日立電線および日立金属、1970年には日立化成、1981年には日立建機をそれぞれ証券取引所に上場し、いずれも日立製作所が株式50%超を保有して「上場子会社」として経営した。
2010年代以降、日立製作所では「親子上場」の関係について見直しを実施。日立電線・日立金属・日立化成・日立建機・日立物流の各社について、株式の売却を推進した。
IBMが手放したHDD製造事業を買収。買収時点でグローバルで11つの製造拠点・従業員数2.4万名で運営していた。
2012年に48億ドルで売却して日立製作所の財務体質の改善に寄与
リーマンショックによる製造業の需要低迷を受けて、2009年3月期に約7880億円という巨額赤字を計上。日本の製造業として、過去最大の赤字額となった。日立製作所は連結ベースで「自己資本比率11.2%」という低水準となり、深刻な経営危機に陥った。
巨額赤字の理由は、事業収益の悪化により税金還付の見通しが立たなくなったこと(繰延税金資産の取り崩し増加)であった。2009年3月期における繰延税金資産の取崩額は3900億円におよび、巨額赤字の原因となった。
2009年2月に日立製作所は7000名の人員削減を決定し、赤字決算および社長交代に先立って固定費削減を急いだ。
2010年3月も厳しい経営環境が続く見込みのため、将来の税金還付を見込んで計上していた繰り延べ税金資産の取り崩しが増えることが赤字拡大の理由。営業利益予想は従来の400億円から1270億円に上方修正した。高機能材料部門や電力・産業システムを中心に各部門で改善があった。
ただ、連結納税グループに係る繰延税金資産全額を一括評価減することにより法人税等が1750億円増えるため、差し引き880億円当期赤字幅が拡大する。7880億円の当期赤字は日本の製造業としては過去最大となる。
日立製作所の取締役会(指名委員会)は、経営危機を受けて社長交代を決定。2009年4月に川村隆氏が社長に指名。川村社長の経営体制のもとで経営再建に着手した。
川村氏は1999年に日立製作所の取締役に就任したのちに、2007年に日立マクセルの会長に就任した人物であり、日立製作所の社長人事としては異例の「出戻り抜擢」となった。
10日ばかり前に、打診を受けた。まったく予想をしていない大変なこと。先頭に立って立ち向かい、礎を固めろと言われた。全身全霊、日立の再生に努める。日立には大きな財産がある。100年間の歴史の中で培ったお客様からの厚い信頼、各地にまたがる人材、価値創造への取り組みなど、日立の財産を何倍にも活用したい。日立製作所、グループの経営陣、そして若い力が必要である。経験と勇気を持って、迅速な決断と行動を徹底していく
財務危機を回避するために「増資・CB・HDD事業売却」によりキャッシュを確保した。
2009年12月に日立製作所は「第三者割当増資・公募増資・新株予約権付社債の発行」を発表し、累計3492億円の調達を決定した。
増資前の株数4,458,126,056株に対して、増資により60,000,000株を新規発行したことで、既存株式に対して13%の希薄化が発生した。このため、日立製作所の川村社長は、既存株主から批判を浴びたという。
2012年にはHDD製造事業(2002年にIBMから20億ドルで買収)をWestern Digitalへの売却を決定。売却額は約3900億円(48億ドル)であり、売却益を計上するとともにキャッシュを確保して財務体質を改善した。
| FY | 株主資本比率 | 備考 |
| 2008/3 | 20.6% | |
| 2009/3 | 11.2% | 7800億円の赤字計上による毀損 |
| 2010/3 | 14.3% | 増資による改善 |
| 2011/3 | 15.7% | |
| 2012/3 | 18.8% | HDD事業売却による改善 |
だけどもう一度リーマン・ショックが来たら日立は潰れただろうね。それは、はっきり分かっている。だから当時は世界中の株主に増資のお願いをして回ったんです。増資をすると以前から株を持っている人は損をします。だから「前から持っていた株は損しますが、今から買う株は安く買えるので、もしかしたらもうかるかもしれません」とお願いするわけです。株主にはしこたま怒られましたね。
収益性が悪化した事業からの撤退を決定。2011年に日立はテレビの自社生産からの撤退(自社販売は2018年に撤退)を決め、1956年に参入したテレビ製造から完全撤退する方針を決めた。これに伴い、日立はディスプレイ事業の子会社「日立ディスプレイ」について、産業革新機構が設立した「ジャパンディスプレイ(JDI)」に移管された。
選択と集中を通じて、海外の鉄道車両などの収益が見込める「社会インフラ事業」に投資予算を配分した。
なお、事業の縮小に対しては事業に愛着を持つ社員からの反発も大きかったといわれている。
その事業を創りだした諸先輩からは「汗水を垂らして働いて育てた事業をいとも簡単に売るなんてどういうことだ」「急に経営者になったやつに何が分かるんだ」と怒られるわけです。でも私が社長として決めたことを、それを理由に撤回するわけにはいかない。諸先輩にしっかり説明すると、「結果が悪かったら俺はまた来るからな」と言って帰っていくわけです。
火力発電システムの事業統合を決定。三菱重工65%・日立製作所35%の出資比率で「三菱日立パワーシステム」を設立した。日立製作所としては祖業である電機を縮小する意図があったと推定されるが、完全撤退によるハレーションを考慮して三菱重工との合弁会社の設立を選択したと思われる。
ソフトウェア開発を強化するために、日立情報システムズ、日立ソフトウェアエンジニアリング、日立システムアンドサービスの3社を吸収合併
南アフリカにおける火力発電所の新設プロジェクトについて、工期遅れと予算超過が発生。請け負っていた三菱日立パワーシステム(三菱重工と日立製作所の合弁)は、賠償責任を背負った。
もともと日立製作所が5700億円で受注したプロジェクトであり、三菱重工としては損失を全て日立製作所が背負うべきと主張。損失の負担をめぐって三菱重工と日立製作所が対立するに至った。2017年7月に三菱重工は約7700億円の支払を日立製作所に求め、日本商事仲裁協会に申立した。
2019年に和解が成立。日立製作所は和解にかかる損失として3759億円を計上した。和解を通じて、日立製作所は合弁会社三菱日立パワーシステムの株式を三菱重工に譲渡し、火力発電の合弁事業から撤退を決定した。
自動車部品事業(オートモティブシステム)を強化するために、2019年に日立製作所は、日立オートモティブおよびホンダ系部品メーカー3社(ケーヒン、ショーワ、日信鉱業)と統合する方針を発表。集約先はホンダと日立による合弁会社を新たに設立(日立Astemoを発足)し、4社を新会社に集約する方針を示した。ホンダ系部品メーカーは、いずれも収益性が低下気味であり、部品企業の統合により自動運転などの研究開発費を捻出する狙いがあった。
2021年に日立製作所が本田との合弁により日立Astemoを発足し、同社に買収3社を統合する形で買収した。日立Astemoへの出資比率は、日立製作所66.6%・ホンダ33.4%であり、日立製作所の子会社として日立が主導権を握った。
2022年3月期における日立Astemoの業績は、売上高6430億円・当期純利益369億円であった。だが、2023年3月期に当期純利益▲810億円に転落するなど、経営に苦戦した。
2023年に日立製作所は日立Astemoに対する出資比率を約40%低下させ、株式の約26%をホンダおよびJICキャピタルに合計約1580億円で売却。2024年3月期に日立製作所は事業再編等利益として940億円を計上した。
日立Astemoについては将来の株式上場を明言し、日立製作所としては実質的に自動車部品事業からの撤退を志向。株式売却により子会社から持分法適用外社へと位置付けを変化させ、日立製作所における利益率(対売上比)の低下要因を取り除いた。
スイスABB社からパワーグリッド事業を約7200億円で買収。
デジタルエンジニアリングサービス(システム開発)を強化するため、米GlobalLogic社を約1兆円で買収した。GL社の売上高は年間1000億円()であり、1長円の買収をめぐって取締役会の議論は紛糾したという。
鉄道におけるシステム事業を強化するために、フランスのThales社を2,150億円で買収。欧州を中心に車両および信号システムを納入することで、グローバルな鉄道事業の展開を意図した。
2020年に日立製作所は子会社の日立ハイテクの株式を取得。2024年に日立ハイテクを吸収合併し、日立製作所としてヘルスケア事業に注力する方針を表明した。
ヘルスケア事業における医療機器の製造を強化するため、2023年11月にひたちなか市足崎(茨城県)において9万平方メートルの土地を取得。