久原鉱業所の製作所部門の経営が軌道に乗ったことを受けて、1918年に株式会社日立製作所を設立。資本金1000万円で設立され、資本面で久原鉱業所から独立した。もともと、久原鉱業所としては機械部門への多角化に消極的であり、日立製作所は独立する形となった。
独立に先立つこと、1918年10月には生産拠点を拡大するために、東京の「佃島製作所」を合併。日立製作所の設立時に、同社の拠点を「亀戸工場(東京都)」として継承した。このため、日立製作所の設立時は、創業地である日立工場と、東京の亀戸工場の2拠点を運営した。
第一次世界大戦後の不況を受けて経営難に陥っていた笠戸造船所(山口県下松市)を取得。機関車(鉄道車両)の製造を開始した
軍需対応のため全国各地の電機メーカーを買収。戦時中に18工場を運営し、日本有数の電機メーカーに発展
1953年以降、日立製作所は外国メーカーからの積極的な技術導入によって技術開発力に磨きをかけた。また日立製作所は設備投資においても優れた投資判断を下しており、1965年の経済不況期直前に投資を事前に抑制して不況に備えたのに対し、競合の東芝は不況直前に投資を続行したことが仇となり社長更迭を伴う経営不振に陥った。この結果、技術と投資判断で優位に立った日立製作所は、東芝に対する下克上を成し遂げて、1960年代後半には日本を代表する電機メーカーとなり、週刊東洋経済は日立について「日産自動車、松下電器と並ぶ日本の代表的ビックビジネス」(1972/07/29週刊東洋経済)と高く評価した。
DRAM・コンピュータなどの先端分野へ本格投資を決定
テレビ・DRAMにおける競争激化や、ネットバブル崩壊による情報通信機器の需要低迷を受けて、日立製作所の業績が悪化。巨額損失を計上してリストラを敢行
IBMが手放したHDD製造事業を買収。買収時点でグローバルで11つの製造拠点・従業員数2.4万名で運営していた。
2012年に48億ドルで売却して日立製作所の財務体質の改善に寄与