日立製作所 の歴史

創業

1910年

創業者

小平浪平

創業地

茨城県多賀郡

直近売上高(2026/3)

105,868億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1910年に小平浪平氏は外国技術と提携せず、自前でモーターを作ろうとしたのか
A 当時の電機は外国製を輸入するか海外企業と提携するのが常道で、輸入電機には高額のロイヤリティが付いて回った。同じ金を外国へ払い続けるより自前の研究に投じれば技術が社内に残り、海外への依存からも抜けられる。久原房之助氏の日立鉱山で輸入電機の修理を担っていた技術者・小平浪平氏は、その費用を自社開発に向け替えるべきだと考え、鉱山付属の修理工場で1910年に5馬力の誘導電動機を国産で完成させた。財閥資本と外国技術を相手に国産技術を旗印に掲げる社風が、ここで定まった
Q なぜ1950年代前半に、創業以来40年守った国産技術主義を撤回して外国企業と提携したのか
A 戦後の重電で日立の火力発電技術は戦前のドイツ依存から抜けきれず経験も浅く、東芝や三菱重工に後れを取っていた。自前主義のまま開発を続けるより、すでに高水準にある外国企業と提携して時間を買うほうが、競合に対等で勝負できる。電源受注を担った駒井健一郎氏はそう判断し、日立は1952年にRCA、1953年にGE、1954年にWEと3年連続で技術提携を結んだ。テレビ・発電機・半導体を同時に押さえ、火力タービンの技術はのちの社会インフラ事業の柱となり、1959年には重電で東芝を追い抜いたと業界で認められた
Q なぜ2010年代以降、60年以上続けた親子上場を解体してデジタル・エネルギーへ集中したのか
A リーマン後の製造業最大となる7,880億円の最終赤字で、重電から家電まで抱えた総合電機の総花経営は限界に達した。50%超を握ったまま個別上場させた子会社群は連結の利益を取り切れず、社会インフラとデジタル基盤Lumadaに親和しない事業を抱える意味も薄れていた。そこで川村隆氏に始まる選択と集中のもと、日立物流・日立化成・日立建機・日立金属を順次手放し、ABBとGlobalLogicに計1兆7,000億円超を投じて稼ぎ頭をデジタルとエネルギーへ入れ替えた。2025年の「Inspire 2027」でLumadaに売上の8割を負わせる目標を掲げ、行き着く先の稼ぎ方を数値で固定した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1910年〜 国産技術を旗印に興した電機メーカー

鉱山の修理工場からの創業と、株式会社としての独立

1908年、久原房之助氏が経営する久原鉱業所の日立鉱山で、工作課長だった小平浪平氏が自社用の電気機械の製造に着手[1]した。当時の電気機械は需要が乏しく、技術と資材の両面から国産化は相当な難事とされていた[2]が、小平氏はこの事業の振興こそ国内産業の発展に寄与すると考えて苦心を重ねた。翌1909年には5馬力の誘導電動機3台を完成させ[3]ている。1910年には日立鉱山付属の修理工場を開設[4]し、建物130平方メートル・工員5名[5]という規模から出発した。小平氏は、一から十まで輸入に頼っていた電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願[6]を抱いていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1908年 久原鉱業所日立鉱山の工作課長 小平浪平氏が自社用電気機械の製造に着手
    • [2]電気機械は需要が乏しく技術・資材面から国産化は相当な難事とされた
    • [3]1909年 5馬力誘導電動機3台を完成
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1910年 久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]創業時の修理工場は建物130平方メートル・工員5名
    • [6]小平浪平氏は輸入に頼る電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願を抱いていた

修理工場は鉱山内の自家消費にとどまらず、変圧器・電動機・発電機まで製品を広げ[7]、外部からの受注を取り始めた。1911年7月には日立鉱山から分離して久原鉱業所日立製作所となり[8]、一般産業機械の製作に専念する体制へ移っている。1918年10月には佃島製作所を合併して亀戸工場とし[9]、従来の工場を日立工場と改称した。久原房之助氏は電機部門をあくまで鉱山の付帯事業とみて多角化に消極的だったが、小平氏は分離独立を主張し[10]、1920年2月、日立・亀戸の両工場を擁する[11]資本金1000万円の株式会社日立製作所として久原鉱業から独立[12]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]変圧器・電動機・発電機など一通りの製品を製造開始
    • [10]久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的、小平浪平氏が分離独立を主張
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [8]1911年7月 日立鉱山から分離し久原鉱業所日立製作所となる
    • [9]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称
    • [12]独立時の資本金1000万円
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1920年2月 日立・亀戸の両工場を擁し株式会社日立製作所として独立

独立の翌1921年2月には、経営難に陥っていた日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を開設[13]し、電機メーカーが鉄道車両の製造へ入る事業構成がここから始まった。1926年には米国へ電気扇30台を初めて輸出[14]し、以後の輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・オーストラリア・南米・ソ連[15]にまで及んだ。1935年5月には共成冷機工業に資本参加[16]して冷凍・空調へ製品を広げ、電動機・発電機・変圧器に鉄道車両と冷熱機器を加えている。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1921年2月 日本汽船より笠戸造船所を譲受し笠戸工場増設
    • [16]1935年5月 共成冷機工業に資本参加
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [14]1926年 米国へ電気扇30台を初輸出
    • [15]輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東・アフリカ・豪州・南米・ソ連に及んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1908年 久原鉱業所日立鉱山の工作課長 小平浪平氏が自社用電気機械の製造に着手
    • [2]電気機械は需要が乏しく技術・資材面から国産化は相当な難事とされた
    • [3]1909年 5馬力誘導電動機3台を完成
    • [8]1911年7月 日立鉱山から分離し久原鉱業所日立製作所となる
    • [9]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称
    • [12]独立時の資本金1000万円
    • [14]1926年 米国へ電気扇30台を初輸出
    • [15]輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東・アフリカ・豪州・南米・ソ連に及んだ
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1910年 久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足
    • [11]1920年2月 日立・亀戸の両工場を擁し株式会社日立製作所として独立
    • [13]1921年2月 日本汽船より笠戸造船所を譲受し笠戸工場増設
    • [16]1935年5月 共成冷機工業に資本参加
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]創業時の修理工場は建物130平方メートル・工員5名
    • [6]小平浪平氏は輸入に頼る電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願を抱いていた
    • [7]変圧器・電動機・発電機など一通りの製品を製造開始
    • [10]久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的、小平浪平氏が分離独立を主張

自前の研究所と、戦時下の工場拡張

当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く、自主的な研究には力を入れず[17]、日本の大学にも目を向けていなかった。その中で企業として国産技術を強く標榜したのが、大正9年に独立した若い企業である日立製作所[18]だった。1934年3月に日立研究所を設けて[19]製品の質量向上と新製品の増加を図り、1941年には基礎研究のための中央研究所の設置を決めて[20]、翌1942年4月に新設している[21]。小平氏は「ロイヤリティを支払うならば同額を自前の研究に投じるべき」[22]という考えを掲げ、研究機関への投資を続けた。1939年4月には多賀工場を新設し、日立工場から日立研究所を独立させて[23]いる。

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [17]当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く自主的な研究に力を入れなかった
    • [18]企業として国産技術を強く標榜したのは大正9年に独立した若い企業の日立製作所
    • [20]1941年に基礎研究のための中央研究所の設置を決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [19]1934年3月 日立研究所を設置
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1942年4月 中央研究所新設
    • [23]1939年4月 多賀工場新設、日立工場より日立研究所独立
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
    • [22]小平浪平氏はロイヤリティと同額を自前の研究に投じる方針を掲げた

1937年5月には鮎川義介氏が率いる国産工業を吸収合併し[24]、戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場[25]と冶金研究所、従業員約4000名を取り込んで特殊鋼部門へ進出[26]した。原材料から完成品に至るまでの一貫生産の態勢がここで整い[27]、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化した。以後は軍需に対応して工場の新設と合併を重ね、1940年9月に水戸工場[28]、1943年9月には理研真空工業を吸収合併して茂原工場を増設[29]し、真空管と電球を製品に加えて[30]いる。1944年3月には亀有工場から清水工場を、同年12月には多賀工場から栃木工場を独立させた[31]

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1937年5月 国産工業を吸収合併、戸塚工場など7工場増設
    • [28]1940年9月 水戸工場新設
    • [29]1943年9月 理研真空工業を吸収合併し茂原工場増設
    • [31]1944年3月 亀有工場より清水工場独立、同年12月 多賀工場より栃木工場独立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [25]国産工業の合併で戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場を増設
    • [27]国産工業の合併で原材料から完成品に至るまでの一貫生産態勢を確立、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化
    • [30]理研真空工業の合併で真空管および電球を製品に加えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]国産工業は7工場と冶金研究所を有し従業員約4000名

拡張の結果、工場数は18を数え、資本金も数次の増額を経て1944年8月に7億円[32]へ達し、名実ともにわが国屈指のメーカーとして発展するに至った。1939年にはブラジルのマカブ発電所向けに出力3300キロワットの横軸ペルトン水車[33]と容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を受注[34]し、内外の注目を集めた。研究の蓄積も進み、工業所有権は戦後間もない時点で4850件あまりに達し[35]、蒸気タービン、竪軸ペルトン水車、電子廻折装置、極超短波用電子管[36]といった発明を含んでいる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [32]工場数は18、資本金は1944年8月に7億円
    • [33]1939年 ブラジル・マカブ発電所向けに横軸ペルトン水車と三相交流同期発電機を受注
    • [34]容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を納入
    • [35]工業所有権は4850件あまりに達した
    • [36]蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管などの発明を含む
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [17]当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く自主的な研究に力を入れなかった
    • [18]企業として国産技術を強く標榜したのは大正9年に独立した若い企業の日立製作所
    • [20]1941年に基礎研究のための中央研究所の設置を決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [19]1934年3月 日立研究所を設置
    • [25]国産工業の合併で戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場を増設
    • [27]国産工業の合併で原材料から完成品に至るまでの一貫生産態勢を確立、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化
    • [30]理研真空工業の合併で真空管および電球を製品に加えた
    • [32]工場数は18、資本金は1944年8月に7億円
    • [33]1939年 ブラジル・マカブ発電所向けに横軸ペルトン水車と三相交流同期発電機を受注
    • [34]容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を納入
    • [35]工業所有権は4850件あまりに達した
    • [36]蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管などの発明を含む
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1942年4月 中央研究所新設
    • [23]1939年4月 多賀工場新設、日立工場より日立研究所独立
    • [24]1937年5月 国産工業を吸収合併、戸塚工場など7工場増設
    • [28]1940年9月 水戸工場新設
    • [29]1943年9月 理研真空工業を吸収合併し茂原工場増設
    • [31]1944年3月 亀有工場より清水工場独立、同年12月 多賀工場より栃木工場独立
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
    • [22]小平浪平氏はロイヤリティと同額を自前の研究に投じる方針を掲げた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]国産工業は7工場と冶金研究所を有し従業員約4000名

1945年〜 争議による人員整理と、国産技術主義の撤回

日立製作所の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1950年 労働組合と対立・約8500名を削減
  2. 1953年 GE・RCA・WEとの相次ぐ技術提携と国産技術主義の撤回 創業以来の自前主義を貫くか、外国技術を借りて東芝に対等で挑むか——火力発電の技術格差にどう向き合ったか
  3. 1956年 日立金属・日立電線を設立(子会社分離を開始)
  4. 1959年 Hitachi New Yorkを設立
  5. 1969年 システム開発を本格化
  6. 1969年 日立建設機械製造を分離独立

60日の生産停止と8500名の人員整理

1945年1月に日立精機の川崎工場を譲り受けて生産力を増やした[37]直後、同年6月の戦災で木津川工場が全焼[38]した。終戦で軍需の発注は消え、木津川・尼崎の両工場は閉鎖されている[39]。残った工場で操業を再開し、採炭・食糧増産・運輸・電力といった重点産業へ機械を送って[40]復興需要を拾ったものの、戦時に膨れた設備と人員は平時の受注量に見合わなかった。工場の配置転換と設備の近代化を進め、日立工場からは電線部門を分離している[41]。それでも4万4000名の従業員のうち約8500名が余剰と判断される[42]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [37]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受し生産力を増強
    • [38]1945年6月 戦災により木津川工場が全焼
    • [39]戦後、木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場で操業を再開
    • [40]採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業へ機械を供給
    • [41]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充など操業態勢の合理化と設備の近代化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [42]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された

1949年7月末の自己資本比率は14.1%まで落ち込み、各地の工場で労働組合のストライキが連日続いた。一部の組合員は暴徒化し、工場長に対する「熱砂の誓」「ダルマ落とし」と呼ばれる吊し上げが各拠点で横行している。社長の倉田主税氏は組合が譲歩するまで交渉に応じず、全工場の生産を約60日間止める持久戦を選んだ。当時の日立は全国に17工場・4営業所を持つ大所帯[43]であり、そこで踏み切った整理は東芝をしのぐ民間最大の規模[44]となった。

  • 読売(1950年6月23日)
    • [43]全国17工場・4営業所の大所帯
    • [44]東芝をしのぐ民間最大の大量整理

組合内部の分裂で争議は終結し、8500名規模の人員削減を完遂した。日本興業銀行を中心とする協調融資4億円で資金繰りの破綻を回避し、同年には東京証券取引所へ株式を上場している。翌1950年の経営方針で倉田氏は「1950年こそは正にこの苦難克服後の光明の年」[45]と総括し、対日講和条約と見返り資金の運用、電源開発・造船計画・国鉄電化の需要を再建の支えに置いた。1950年2月には日東運輸を設立し[46]、のちの日立物流となる物流機能をグループ内に抱えている。

  • 証券(1950年1月)
    • [45]倉田主税氏が1950年の経営方針を総括
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1950年2月 日東運輸(後の日立物流)設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [37]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受し生産力を増強
    • [38]1945年6月 戦災により木津川工場が全焼
    • [39]戦後、木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場で操業を再開
    • [40]採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業へ機械を供給
    • [41]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充など操業態勢の合理化と設備の近代化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [42]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された
  • 読売(1950年6月23日)
    • [43]全国17工場・4営業所の大所帯
    • [44]東芝をしのぐ民間最大の大量整理
  • 証券(1950年1月)
    • [45]倉田主税氏が1950年の経営方針を総括
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1950年2月 日東運輸(後の日立物流)設立

外国技術の導入と、重電での東芝逆転

1952年2月、日立は米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管に関する技術援助契約[47]を結んだ。同年12月にはバブコック・ウイルコックス社とボイラについて技術援助契約を結び[48]、1953年にはインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社と蒸気タービンおよび発電機について提携した。翌1954年にはウェスタン・エレクトリックからトランジスタの技術を導入している。創業以来40年余にわたり外国メーカーとの提携を避けてきた方針は、ここで撤回された[49]。もっとも自前の研究をやめたわけではなく、中央研究所と日立研究所を中心とする研究部門は、施設もスタッフも戦前から世界的水準にあると目されており、戦後はさらに充実している[50]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [47]1952年2月 米国ラジオ・コーポレーション(RCA)と受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の技術援助契約
    • [48]1952年12月 バブコック・ウイルコックス社とボイラの技術援助契約
    • [49]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [50]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され、戦後は一段と充実

提携の理由は火力発電での立ち遅れにあり、電源関係の受注を担当した駒井健一郎氏は「日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた」[51]と振り返り、提携の狙いを「早急に外国の一流メーカーと技術提携して、対等に勝負したい」[52]と語っている。ゼネラル・エレクトリックとの提携では東芝が先行しており、日立は後追いの立場[53]だった。それでも火力タービンの大容量化と需要増が見込まれたため、ゼネラル・エレクトリックは複数のライセンシーを認めている[54]

  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [51]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [52]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る
    • [53]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場だった
    • [54]火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認

導入した技術は数年で成果に変わり、1955年時点の日立は16工場と3分工場を基盤に[55]、水車・タービン・発電機・送配電機器の強電から通信機器・電子工業の弱電、産業機械・車両・電線・鉄鋼まで合計3000種の製品を持ち、従業員2万8000人[56]、資本金66億円に達している。輸出は総売上高の約2割を占めた。1959年には重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知され[58]、「東芝に追いつき追い越せをモットーとして来た日立製作所が、企業全体としてのスケールのみならず、ついに重電機部門においても東芝を完全に追い抜いた」[59]と評されている。 [57]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [55]1955年時点で16工場・3分工場、製品3000種、従業員2万8000人、資本金66億円
    • [56]製品は合計3000種、従業員2万8000人
    • [57]資本金66億円、輸出は総売上高の約2割
  • マネジメント(1959年6月)「日立は果たして東芝を追い抜いたか」
    • [58]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知
    • [59]マネジメント誌の評
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [47]1952年2月 米国ラジオ・コーポレーション(RCA)と受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の技術援助契約
    • [48]1952年12月 バブコック・ウイルコックス社とボイラの技術援助契約
    • [49]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [50]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され、戦後は一段と充実
    • [55]1955年時点で16工場・3分工場、製品3000種、従業員2万8000人、資本金66億円
    • [56]製品は合計3000種、従業員2万8000人
    • [57]資本金66億円、輸出は総売上高の約2割
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [51]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [52]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る
    • [53]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場だった
    • [54]火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
  • マネジメント(1959年6月)「日立は果たして東芝を追い抜いたか」
    • [58]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知
    • [59]マネジメント誌の評

非電機の分社が生んだ親子上場と、自前研究が残した領域

高度成長期には非電機事業の分社が進み、1956年10月に日立金属工業と日立電線を分離独立させ[60]、1961年にはマクセル電気工業へ資本参加[61]、1963年4月に日立化成工業、1969年12月に日立建設機械製造を順次分離している。同じ1969年2月にはソフトウェア工場を新設し[62]、計算機の受託開発を工場として抱える体制も整えた。1956年以降、日立は非電機事業を分社して個別に上場させ、本体が50%超を握る親子上場でグループを束ねてきた[63]。この形態はその後60年以上にわたってグループの基本構造となる[64]

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1956年10月 日立金属工業・日立電線を分離独立
    • [61]1961年 マクセル電気工業に資本参加
    • [62]1969年2月 ソフトウェア工場新設
  • 日本経済新聞(2022年1月11日)「日立、親子上場解消へ グループ再編、最終局面に」
    • [63]1956年以降、非電機事業を分社して個別上場させ本体が50%超を握る親子上場でグループを束ねた
    • [64]親子上場は60年以上グループの基本構造として維持された

外国技術に頼らずに育てた領域の代表が電子顕微鏡で、1939年には東京大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会の第37小委員会[65]が生まれ、大学と電気試験所に加えて日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発[66]へ取り組んだ。戦後は旧帝国大学系の大学の一号機を日立がすべて受注して抜け出し[67]、日本電気と東芝は競争から脱落した。1955年には日立が米国へ輸出[68]を果たしている。1960年代後半には日立と日本電子の顕微鏡が世界需要の半分を占め[69]、アメリカへの輸出が伸びた結果、RCAは勝てる希望を失って撤退した[70]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [65]1939年 東大・瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足
    • [66]大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発
    • [67]戦後、日立が旧帝大系大学の一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [68]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出
    • [69]1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、RCAが撤退
    • [70]アメリカへの輸出が伸びRCAは勝てる希望を失い撤退

撮像管でも同じ経路をたどり、1966年12月に中央研究所がNHK技術研究所との共同開発として着手したセレン系撮像管「アーセコン」[71]は、焼き付きの問題を解けず1970年に放棄されている[72]。ただし試作の過程で見つかった別構造が同年に基本特許となり、1972年にはセレンが界面現象を支配することを示す特許が出願された[73]。中央研究所は1972年12月にこれを大型プロジェクトに格上げし[74]、1973年9月に成功の見通しを得て発表、1975年に商品として完成[75]させている。そして1977年、セレン系撮像管の開発に長年の投資をしながら成功できなかったRCAへ、日立はサチコンの技術を供与した[76]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [71]1966年12月 日立中央研究所がNHK技術研究所と共同でアーセコンのプロジェクトを開始
    • [72]1970年 焼き付きが解決できずアーセコンを放棄、同年に新撮像管の基本特許を出願
    • [73]1972年 セレンが界面現象を支配することを示す特許を出願(サチコンの真の基本特許)
    • [74]1972年12月 中央研究所がサチコン開発を大型プロジェクト化
    • [75]1973年9月 サチコンの新聞発表、1975年に商品として完成
    • [76]1977年 日立がRCAへサチコンの技術供与
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1956年10月 日立金属工業・日立電線を分離独立
    • [61]1961年 マクセル電気工業に資本参加
    • [62]1969年2月 ソフトウェア工場新設
  • 日本経済新聞(2022年1月11日)「日立、親子上場解消へ グループ再編、最終局面に」
    • [63]1956年以降、非電機事業を分社して個別上場させ本体が50%超を握る親子上場でグループを束ねた
    • [64]親子上場は60年以上グループの基本構造として維持された
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [65]1939年 東大・瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足
    • [66]大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発
    • [67]戦後、日立が旧帝大系大学の一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [68]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出
    • [69]1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、RCAが撤退
    • [70]アメリカへの輸出が伸びRCAは勝てる希望を失い撤退
    • [71]1966年12月 日立中央研究所がNHK技術研究所と共同でアーセコンのプロジェクトを開始
    • [72]1970年 焼き付きが解決できずアーセコンを放棄、同年に新撮像管の基本特許を出願
    • [73]1972年 セレンが界面現象を支配することを示す特許を出願(サチコンの真の基本特許)
    • [74]1972年12月 中央研究所がサチコン開発を大型プロジェクト化
    • [75]1973年9月 サチコンの新聞発表、1975年に商品として完成
    • [76]1977年 日立がRCAへサチコンの技術供与

1978年〜 半導体と情報への傾斜、そして二度の巨額赤字

日立製作所の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1982年 Hitachi Europe Ltd.を設立
  2. 1984年 256KB・DRAMの量産を開始
  3. 1989年 Hitachi Asiaを設立(アジア統括拠点)
  4. 1994年 家電事業を再編
  5. 1994年 日立有限公司を設立
  6. 1999年 NECと合弁会社を設立(NEC日立メモリを合弁設立)
  7. 2002年 IBMからHDD事業を買収

大企業病の自覚と、工場から事業部への組み替え

1982年6月にHitachi Europe、1989年2月にHitachi Asiaを設立[77]して海外拠点を整え、1985年4月には基礎研究所を新設[78]した。1984年には256キロビットDRAMの量産を始め、半導体を主力の一つに据えている。同じ1984年に社長へ就任した三田勝茂氏は、規模の拡大が組織にもたらす副作用を「自己増殖した組織ばかりが林立し酸欠状態になってしまう。いってみれば大企業病」と表現した。現場は「市場全体の動向をつかみにくい」[80]ため、船の方向づけは経営者が担うと位置づけている。 [79]

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [77]1982年6月 Hitachi Europe Ltd.設立、1989年2月 Hitachi Asia Pte. Ltd.設立
    • [78]1985年4月 基礎研究所新設
  • 日経ビジネス(1984年11月26日)
    • [79]1984年に社長就任した三田勝茂氏が組織肥大を「大企業病」と表現
    • [80]三田勝茂氏は現場が市場全体の動向をつかみにくいと述べ、方向づけを経営者の責務とした

自覚は組織の組み替えとして現れ、1991年2月に佐和工場を自動車機器事業部へ統合[81]したのを皮切りに、同年8月には勝田工場を素形材事業部、戸塚工場を情報通信事業部、那珂工場を計測器事業部へ移している[82]。1992年2月には横浜工場と東海工場をAV機器事業部へ統合[83]し、同年8月には家庭電器・コンピュータ・電子デバイスの担当部門を工場単位から事業部単位へ変更[84]した。1993年2月には半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部へまとめて[85]いる。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [81]1991年2月 佐和工場を自動車機器事業部に統合
    • [82]1991年 勝田工場を素形材事業部、戸塚工場を情報通信事業部、那珂工場を計測器事業部に統合
    • [83]1992年2月 横浜工場・東海工場をAV機器事業部に統合
    • [84]1992年 家庭電器・コンピュータ・電子デバイス担当部門の組織を工場単位から事業部単位へ変更
    • [85]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [77]1982年6月 Hitachi Europe Ltd.設立、1989年2月 Hitachi Asia Pte. Ltd.設立
    • [78]1985年4月 基礎研究所新設
    • [81]1991年2月 佐和工場を自動車機器事業部に統合
    • [82]1991年 勝田工場を素形材事業部、戸塚工場を情報通信事業部、那珂工場を計測器事業部に統合
    • [83]1992年2月 横浜工場・東海工場をAV機器事業部に統合
    • [84]1992年 家庭電器・コンピュータ・電子デバイス担当部門の組織を工場単位から事業部単位へ変更
    • [85]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合
  • 日経ビジネス(1984年11月26日)
    • [79]1984年に社長就任した三田勝茂氏が組織肥大を「大企業病」と表現
    • [80]三田勝茂氏は現場が市場全体の動向をつかみにくいと述べ、方向づけを経営者の責務とした

創業以来初の営業赤字と、実質的独立会社への再編

1995年2月には電力・電機、家電・情報メディア、情報、電子部品の4事業をグループとして編成[86]し、研究開発部門の一部と営業部門もそこへ統合した。同年4月には日立家電を吸収合併[87]している。しかし収益基盤である国内とアジア市場が極度の不況と国際競争に直面するなか、主力事業は軒並み不振を余儀なくされた[88]。部品の調達先を替えようとしても相手がグループ内や取引先であれば通らず[89]、投資を決めるにも各事業担当役員の説得に資料作りと説明を要した。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報、電子部品を事業グループとして編成
    • [87]1995年 日立家電を吸収合併
  • 週刊東洋経済 1998年10月17日号「特集 急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
    • [88]収益基盤である国内・アジア市場が極度の不況と国際競争に直面し主力事業は軒並み不振
    • [89]部品調達先の変更がグループ内・取引先だと通らないもたれ合い、投資決定に資料作りと説明を要するスロー経営

1998年度、日立は創業以来初めて連結・単独ともに営業赤字へ転落[90]した。単独900億円・連結200億円の営業赤字に加え、半導体のリストラ費用900億円、特別退職金300億円など計1700億円の特別損失[91]を計上する見通しとなり、業績悪化の主因である重電・半導体・家電を軸に本体従業員の一割弱にあたる5000人以上を出向と転籍で減らした[92]。半導体事業だけで営業赤字は1200億円[93]に達している。1999年2月には円高で連結営業赤字が500億円へ拡大し、特別損失も2400億円へ積み増された[94]結果、最終赤字は3750億円に達する見通し[95]となった。実績は1999年3月期の連結で3387億円の赤字だった。

  • 週刊東洋経済 1998年10月17日号「特集 急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
    • [90]1998年度に創業以来初めて連単で営業赤字に転落
    • [91]単独900億円・連結200億円の営業赤字、半導体リストラ費用900億円・特別退職金300億円など計1700億円の特損
    • [92]重電・半導体・家電を軸に本体従業員の一割弱にあたる5000人以上を出向・転籍でスリム化
    • [93]半導体事業の営業赤字は1200億円
  • 週刊東洋経済 1999年2月20日号「トップ企業の断面 日立製作所 新生日立への“解体の決断”」
    • [94]1999年2月に連結営業赤字500億円へ拡大、特損2400億円へ積み増し
    • [95]1999年2月時点で1998年度の連結最終赤字は3750億円の見通し

赤字を受けて日立は組織の前提を書き換え、1999年4月、事業グループを再編し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制へ移行[96]している。投資や人事の権限を各事業グループへ移し[97]、採算の自立を求めた。同時に、独立性の高い連結会社は社内事業グループと同列に、本体の事業と関係の深い生産・販売会社は事業連結会社と定め直して[98]、連結政策を統一した。社長の金井務氏は狙いを「従来のハード依存体質から脱し、情報技術を核にした新生日立を作り上げる」[99]ことに置き、純粋持株会社制の導入も視野にあると述べて[100]いる。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [96]1999年4月 事業グループを再編し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制に変更
  • 週刊東洋経済 1999年2月20日号「トップ企業の断面 日立製作所 新生日立への“解体の決断”」
    • [97]投資・人事権を各事業グループへ移管し採算の自立を求めた
    • [98]独立性の高い連結会社は社内事業グループと同列に、本体と関係の深い生産・販売会社は事業連結会社として位置づけ
    • [99]金井務社長が解体の狙いを述べた
  • 週刊東洋経済 1998年10月17日号「特集 急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
    • [100]金井務社長は純粋持株会社制の導入も視野にあると述べた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報、電子部品を事業グループとして編成
    • [87]1995年 日立家電を吸収合併
    • [96]1999年4月 事業グループを再編し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制に変更
  • 週刊東洋経済 1998年10月17日号「特集 急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
    • [88]収益基盤である国内・アジア市場が極度の不況と国際競争に直面し主力事業は軒並み不振
    • [89]部品調達先の変更がグループ内・取引先だと通らないもたれ合い、投資決定に資料作りと説明を要するスロー経営
    • [90]1998年度に創業以来初めて連単で営業赤字に転落
    • [91]単独900億円・連結200億円の営業赤字、半導体リストラ費用900億円・特別退職金300億円など計1700億円の特損
    • [92]重電・半導体・家電を軸に本体従業員の一割弱にあたる5000人以上を出向・転籍でスリム化
    • [93]半導体事業の営業赤字は1200億円
    • [100]金井務社長は純粋持株会社制の導入も視野にあると述べた
  • 週刊東洋経済 1999年2月20日号「トップ企業の断面 日立製作所 新生日立への“解体の決断”」
    • [94]1999年2月に連結営業赤字500億円へ拡大、特損2400億円へ積み増し
    • [95]1999年2月時点で1998年度の連結最終赤字は3750億円の見通し
    • [97]投資・人事権を各事業グループへ移管し採算の自立を求めた
    • [98]独立性の高い連結会社は社内事業グループと同列に、本体と関係の深い生産・販売会社は事業連結会社として位置づけ
    • [99]金井務社長が解体の狙いを述べた

会社分割の連続と、半導体の切り離し

2000年10月に日立クレジットが日立リースと合併して日立キャピタルへ商号を変えた[101]のに続き、2001年10月には計測器事業と半導体製造装置事業を会社分割して日立ハイテクノロジーズとし[102]、産業機械システム事業は日立インダストリイズとして再編した。2002年4月には家電事業を日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューション、産業機器事業を日立産機システムへ分割[103]している。同年10月にはディスプレイ事業を日立ディスプレイズとして設立し、通信機器事業を日立コミュニケーションテクノロジーへ再編[104]、ユニシアジェックスを株式交換で完全子会社化[105]した。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [101]2000年10月 日立クレジットが日立リースと合併し日立キャピタルに商号変更
    • [102]2001年10月 計測器事業・半導体製造装置事業を分割し日立ハイテクノロジーズとして再編、産業機械システム事業を日立インダストリイズとして再編
    • [103]2002年4月 家電事業を日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューション、産業機器事業を日立産機システムとして再編
    • [104]2002年 ディスプレイ事業を分割し日立ディスプレイズを設立、通信機器事業を日立コミュニケーションテクノロジーとして再編
    • [105]2002年 ユニシアジェックスを株式交換により完全子会社化

それでも半導体の赤字は続き、1999年12月にはNECと合弁でNEC日立メモリを設立してメモリ事業を統合したが、米韓勢との価格競争と設備投資の負担にシリコンサイクルの低迷が重なり、2002年3月期の連結最終損益は4838億円の赤字[106]へ落ち込んだ。全社で2万人規模の人員削減に踏み切っている。2003年4月、システムLSIを中心とする半導体事業は三菱電機との合弁ルネサステクノロジへ分割移管され[107]、中核事業の座を外れている。同社は2010年4月にNECエレクトロニクスと合併してルネサスエレクトロニクスへ商号を変え[108]、2013年9月には議決権所有割合の低下により日立の関係会社ではなくなった。

  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [106]2002年3月期の連結最終損益は4838億円の赤字
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [107]2003年 システムLSIを中心とする半導体事業を分割しルネサステクノロジを設立
    • [108]2010年4月 ルネサステクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサスエレクトロニクスに商号変更、2013年9月に議決権所有割合の低下により関係会社ではなくなった

半導体を手放す一方で日立は記憶装置を買い足し、2003年1月、米国IBMからハードディスクドライブ事業を約20億ドルで買収し[109]、オランダに置いたHitachi Global Storage Technologies Netherlands B.V.[110]として営業を始めている。引き継いだのはグローバル11拠点・従業員約2万4000名の規模だった。同年6月には委員会等設置会社へ移行し、指名・監査・報酬の各委員会を置いて[111]、日本の大手製造業では早い段階でガバナンスの形を改めている。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [109]2003年1月 米国IBMからハードディスクドライブ事業を買収しHitachi Global Storage Technologiesとして営業開始
    • [110]Hitachi Global Storage Technologies Netherlands B.V.として営業開始
    • [111]2003年 委員会等設置会社(現指名委員会等設置会社)に移行
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [101]2000年10月 日立クレジットが日立リースと合併し日立キャピタルに商号変更
    • [102]2001年10月 計測器事業・半導体製造装置事業を分割し日立ハイテクノロジーズとして再編、産業機械システム事業を日立インダストリイズとして再編
    • [103]2002年4月 家電事業を日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューション、産業機器事業を日立産機システムとして再編
    • [104]2002年 ディスプレイ事業を分割し日立ディスプレイズを設立、通信機器事業を日立コミュニケーションテクノロジーとして再編
    • [105]2002年 ユニシアジェックスを株式交換により完全子会社化
    • [107]2003年 システムLSIを中心とする半導体事業を分割しルネサステクノロジを設立
    • [108]2010年4月 ルネサステクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサスエレクトロニクスに商号変更、2013年9月に議決権所有割合の低下により関係会社ではなくなった
    • [109]2003年1月 米国IBMからハードディスクドライブ事業を買収しHitachi Global Storage Technologiesとして営業開始
    • [110]Hitachi Global Storage Technologies Netherlands B.V.として営業開始
    • [111]2003年 委員会等設置会社(現指名委員会等設置会社)に移行
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [106]2002年3月期の連結最終損益は4838億円の赤字

2004年〜 巨額赤字を経て、事業を入れ替える経営へ転換した時代

日立製作所の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2009年 リーマンショック後の緊急再建と、総合電機路線の転換 7,880億円の赤字を前に、出戻り社長・川村隆氏は「事業の聖域」をどう解体したか
  2. 2015年 伊フィンメカニカの鉄道2社(アンサルドSTS・アンサルドブレダ)買収による欧州大陸進出 中西宏明CEOは過去最大の買収で、なぜ「鉄道ビッグスリー」の牙城に挑んだか
  3. 2019年 三菱日立パワーシステムズの解消と火力発電事業からの撤退 祖業に連なる火力を、なぜ合弁ごと手放したのか——南アフリカ案件の損失負担をめぐって
  4. 2019年 英国原発「ホライズンプロジェクト」の凍結と撤退 約3000億円を投じた案件をどこで見切るか——日の丸原発輸出の柱をめぐる損切り
  5. 2019年 英国原発「ホライズンプロジェクト」の凍結と撤退 約3000億円を投じた案件をどこで見切るか——日の丸原発輸出の柱をめぐる損切り
  6. 2020年 ABB社パワーグリッド事業の買収とHitachi Energyの発足 祖業に連なる火力を畳みながら、送配電を約7,200億円で買う——エネルギーで何を主力に据えるのか
  7. 2021年 米GlobalLogicの約1兆円買収 売上1,000億円の企業に1兆円は高すぎるのか——デジタル企業への転換を賭けた買収
  8. 2023年 上場子会社群の売却と親子上場構造の解体 60年かけて築いたグループの形を、日立はなぜ手放したのか

東電ショックと、7873億円の最終赤字

2004年10月にトキコと日立ユニシアオートモティブを吸収合併し[112]、ATMを中心とする情報機器事業を分割して日立オムロンターミナルソリューションズを設立した。2006年4月には社会・産業インフラ事業を分割して日立プラント建設・日立機電工業・日立インダストリイズと統合し[113]、日立プラントテクノロジーとして再編している。同年4月には日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューションが日立空調システムと合併して日立アプライアンスへ商号を変え[114]、同年12月にはクラリオンを株式公開買付けで連結子会社化[115]した。2007年7月には原子力関連事業を分割し、日立GEニュークリア・エナジーとして再編[116]している。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [112]2004年10月 トキコ・日立ユニシアオートモティブを吸収合併、ATM中心の情報機器事業を分割し日立オムロンターミナルソリューションズを設立
    • [113]2006年4月 社会・産業インフラ事業を分割し日立プラント建設・日立機電工業・日立インダストリイズと統合、日立プラントテクノロジーとして再編
    • [114]2006年4月 日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューションが日立空調システムと合併し日立アプライアンスに商号変更
    • [115]2006年 クラリオンを株式公開買付けにより連結子会社化
    • [116]2007年7月 原子力関連事業を分割し日立GEニュークリア・エナジーとして再編

東京電力をはじめとする大口顧客の設備投資が1兆円を割り込む、いわゆる東電ショック[117]が重電の受注を細らせ、業界のゼロサム化が重なった。2007年3月期は営業利益が1825億円にとどまり[118]、連結最終損益は同期に328億円、2008年3月期に581億円の赤字が続いた[119]。2007年8月には時価総額で三菱電機に追い抜かれて[120]いる。2009年3月には日立工機と日立国際電気を株式公開買付けで連結子会社化[121]し、同年7月にはオートモティブシステム事業とコンシューマ事業をそれぞれ分割[122]している。

  • 日経ビジネス(2008年4月14日)「日立とニッポン」
    • [117]東京電力など大口顧客の設備投資が1兆円を割り込む東電ショックと重電のゼロサム化
    • [120]2007年8月に時価総額で三菱電機に追い抜かれた
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [118]2007年3月期の連結営業利益は1825億円
    • [119]2007年3月期の連結最終損益は328億円の赤字、2008年3月期は581億円の赤字
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [121]2009年3月 日立工機・日立国際電気を株式公開買付けにより連結子会社化
    • [122]2009年 オートモティブシステム事業を分割し日立オートモティブシステムズを、コンシューマ事業を分割し日立コンシューマエレクトロニクスを設立

リーマンショックによる需要の急減が弱った収益基盤を直撃し、2009年3月期の連結最終損益は7873億円の赤字[123]となり、日本の製造業として過去最大の規模に達している[124]。連結自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へ低下[125]した。主因は繰延税金資産の取り崩し約3900億円で、2009年2月には国内外で7000名規模の人員削減を決めている。社長の古川一夫氏は経営責任を取って辞任し、指名委員会は後継人事の検討に入っている。選ばれたのは、子会社である日立マクセルの会長に転じていた川村隆[126]だった。本体を経験した経営者が子会社から本体の社長へ戻る前例は乏しく、川村氏自身も「まったく予想をしていない大変なこと」[127]と受け止めている。

  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [123]2009年3月期の連結最終損益は7873億円の赤字
  • 週刊東洋経済 2021年7月17日号「追悼 中西宏明経団連前会長 豪腕リーダーの責任感 2つのイフと残された宿題」
    • [124]2009年3月期の7873億円の最終赤字は当時の日本の製造業で最大
  • 日立製作所 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [125]連結自己資本比率は前年度20.6%から11.2%へ低下
  • 日経ビジネス(2021年3月15日号)「編集長インタビュー 経営者よ『情より理』を貫け 日立製作所名誉会長 川村隆氏」
    • [126]日立マクセル会長だった川村隆氏を本社社長に起用
    • [127]川村隆氏は社長就任を予想外の事態として受け止めた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [112]2004年10月 トキコ・日立ユニシアオートモティブを吸収合併、ATM中心の情報機器事業を分割し日立オムロンターミナルソリューションズを設立
    • [113]2006年4月 社会・産業インフラ事業を分割し日立プラント建設・日立機電工業・日立インダストリイズと統合、日立プラントテクノロジーとして再編
    • [114]2006年4月 日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューションが日立空調システムと合併し日立アプライアンスに商号変更
    • [115]2006年 クラリオンを株式公開買付けにより連結子会社化
    • [116]2007年7月 原子力関連事業を分割し日立GEニュークリア・エナジーとして再編
    • [121]2009年3月 日立工機・日立国際電気を株式公開買付けにより連結子会社化
    • [122]2009年 オートモティブシステム事業を分割し日立オートモティブシステムズを、コンシューマ事業を分割し日立コンシューマエレクトロニクスを設立
  • 日経ビジネス(2008年4月14日)「日立とニッポン」
    • [117]東京電力など大口顧客の設備投資が1兆円を割り込む東電ショックと重電のゼロサム化
    • [120]2007年8月に時価総額で三菱電機に追い抜かれた
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [118]2007年3月期の連結営業利益は1825億円
    • [119]2007年3月期の連結最終損益は328億円の赤字、2008年3月期は581億円の赤字
    • [123]2009年3月期の連結最終損益は7873億円の赤字
  • 週刊東洋経済 2021年7月17日号「追悼 中西宏明経団連前会長 豪腕リーダーの責任感 2つのイフと残された宿題」
    • [124]2009年3月期の7873億円の最終赤字は当時の日本の製造業で最大
  • 日立製作所 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [125]連結自己資本比率は前年度20.6%から11.2%へ低下
  • 日経ビジネス(2021年3月15日号)「編集長インタビュー 経営者よ『情より理』を貫け 日立製作所名誉会長 川村隆氏」
    • [126]日立マクセル会長だった川村隆氏を本社社長に起用
    • [127]川村隆氏は社長就任を予想外の事態として受け止めた

川村改革と、鉄道事業による欧州大陸への展開

川村氏は就任直後に3492億円の公募増資を断行し、既存株主には約13%の希薄化が生じたが、自己資本比率の早期回復を優先した。2009年10月には事業グループを社内カンパニーへ再編し[128]、主要グループ会社と同様に独立採算による運営を徹底するカンパニー制を導入した。2010年4月には日立プラントテクノロジーと日立マクセルを株式交換で完全子会社化[129]している。日立の先輩経営者からは、汗水を垂らして育てた事業を簡単に売るのかという反発が上がった[130]。それでも川村氏は「社長として決めたことを撤回するわけにはいかない」[131]と述べ、方針を変えなかった。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [128]2009年 事業グループを社内カンパニーに再編しカンパニー制を導入
    • [129]2010年4月 日立プラントテクノロジー・日立マクセルを株式交換により完全子会社化
  • 日経ビジネス(2021年3月15日号)「編集長インタビュー 経営者よ『情より理』を貫け 日立製作所名誉会長 川村隆氏」
    • [130]先輩経営者から事業売却への反発が上がった
    • [131]川村隆氏が方針の撤回を拒んだ

売却は主力の中心から始まり、2012年3月、米国Western DigitalへViviti Technologies株式を譲渡してハードディスクドライブ事業を約48億ドルで売却[132]し、同月には日立ディスプレイズ株式の譲渡で中小型ディスプレイ事業も手放して[133]いる。自己資本比率は11.2%から18.8%へ戻った[134]。2011年には1956年以来55年続けた薄型テレビの自社生産からも撤退している。2010年4月に社長へ就いた中西宏明氏、2014年4月に続いた東原敏昭[135]も同じ路線を引き継ぎ、事業の取捨選択は一度きりの改革ではなく常時の経営規律となった。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [132]2012年3月 米国Western DigitalへViviti Technologies株式を譲渡しHDD事業を売却
    • [133]2012年3月 日立ディスプレイズ株式の譲渡により中小型ディスプレイ事業を売却
  • 日立製作所 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [134]自己資本比率は11.2%から18.8%へ回復
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【役員の状況】
    • [135]2010年4月に中西宏明氏、2014年4月に東原敏昭氏が社長に就任

売却の一方で買収も進み、その柱となった鉄道で日立が英国市場へ参入したのは1999年[136]だった。当初は実績がなく「ペーパートレイン」と相手にされなかった[137]が、2004年に高速鉄道CTRLの優先交渉権を獲得し、2009年12月に契約どおり正式運行[138]を果たしている。2012年には都市間高速鉄道の車両更新計画IEPで独シーメンス・加ボンバルディア連合と仏アルストムに競り勝ち[139]、追加分と合わせて866両・27年半の保守契約[140]という大型案件を正式受注した。2015年2月にはイタリアのフィンメカニカから鉄道信号のアンサルドSTSと車両のアンサルドブレダを合計約2600億円で取得する契約を結び[141]、同年11月に完了して欧州大陸と米州へ地盤を広げた[142]。鉄道事業の売上高は2015年3月期の1674億円から3年で3倍強[143]に増え、2022年にはフランスのThalesの鉄道信号システム事業を約2150億円で買収している。

  • 週刊東洋経済 2018年12月8日号「集中連載 日立製作所 踊り場の先へ 鉄道 グローバル日立の象徴 「牽引車」ゆえの課題」
    • [136]1999年に英国市場へ参入、実績がなく「ペーパートレイン」と評された
    • [137]英国参入当初は実績がなく「ペーパートレイン」と相手にされなかった
    • [138]2004年に英国高速鉄道CTRLの優先交渉権を獲得、2009年12月に契約どおり正式運行
    • [139]2012年 都市間高速鉄道の車両更新計画IEPをシーメンス・ボンバルディア連合とアルストムに競り勝って正式受注
    • [140]IEPは追加分と合わせて866両・27年半の保守契約
    • [142]買収により欧州大陸と米州へ鉄道事業の地盤を広げた
    • [143]鉄道事業の売上高は2015年3月期に1674億円、3年で3倍強に拡大
  • 週刊東洋経済 2015年3月7日号「核心リポート05 日立、欧州で大型買収 鉄道ビッグスリーに照準」
    • [141]2015年2月 フィンメカニカ傘下のアンサルドSTS・アンサルドブレダを合計約2600億円で取得する契約を締結、同年11月に完了
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [128]2009年 事業グループを社内カンパニーに再編しカンパニー制を導入
    • [129]2010年4月 日立プラントテクノロジー・日立マクセルを株式交換により完全子会社化
    • [132]2012年3月 米国Western DigitalへViviti Technologies株式を譲渡しHDD事業を売却
    • [133]2012年3月 日立ディスプレイズ株式の譲渡により中小型ディスプレイ事業を売却
  • 日経ビジネス(2021年3月15日号)「編集長インタビュー 経営者よ『情より理』を貫け 日立製作所名誉会長 川村隆氏」
    • [130]先輩経営者から事業売却への反発が上がった
    • [131]川村隆氏が方針の撤回を拒んだ
  • 日立製作所 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [134]自己資本比率は11.2%から18.8%へ回復
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【役員の状況】
    • [135]2010年4月に中西宏明氏、2014年4月に東原敏昭氏が社長に就任
  • 週刊東洋経済 2018年12月8日号「集中連載 日立製作所 踊り場の先へ 鉄道 グローバル日立の象徴 「牽引車」ゆえの課題」
    • [136]1999年に英国市場へ参入、実績がなく「ペーパートレイン」と評された
    • [137]英国参入当初は実績がなく「ペーパートレイン」と相手にされなかった
    • [138]2004年に英国高速鉄道CTRLの優先交渉権を獲得、2009年12月に契約どおり正式運行
    • [139]2012年 都市間高速鉄道の車両更新計画IEPをシーメンス・ボンバルディア連合とアルストムに競り勝って正式受注
    • [140]IEPは追加分と合わせて866両・27年半の保守契約
    • [142]買収により欧州大陸と米州へ鉄道事業の地盤を広げた
    • [143]鉄道事業の売上高は2015年3月期に1674億円、3年で3倍強に拡大
  • 週刊東洋経済 2015年3月7日号「核心リポート05 日立、欧州で大型買収 鉄道ビッグスリーに照準」
    • [141]2015年2月 フィンメカニカ傘下のアンサルドSTS・アンサルドブレダを合計約2600億円で取得する契約を締結、同年11月に完了

原子力・火力からの撤退と、親子上場の解体

原子力では逆の結末になり、2012年に独電力会社2社から英国の原発開発会社ホライズン・ニュークリア・パワーを約900億円で買収[144]し、ウェールズのアングルシー島で2基の新設[145]を進めた。しかし安全基準の強化と労務費の高騰で総費用は当初想定の約1.5倍にあたる約3兆円へ膨らみ[146]、再生可能エネルギーの普及で電力の固定買取価格も想定を下回ることが避けられなくなった。日立は非連結化を計画実行の条件として50%超を出資する第三者を探したが[147]、採算性が不安視されて出資者は現れなかった。2019年1月17日、東原敏昭社長は計画の凍結を正式に決定[148]した。

  • 週刊東洋経済 2019年2月2日号「深層リポート 日立原発撤退 日立が英原発計画を凍結 「3000億円損切り」の事情」
    • [144]2012年 独電力会社2社から英ホライズン・ニュークリア・パワーを約900億円で買収
    • [145]ウェールズ地方アングルシー島で2基の原発計画
    • [146]安全基準強化と労務費高騰で総費用は当初想定の約1.5倍・約3兆円へ膨張
    • [147]非連結化を計画実行の条件として50%超の出資者を探したが現れなかった
    • [148]2019年1月17日 東原敏昭社長が英原発ホライズンの凍結を正式決定

凍結に伴い2019年3月期に3000億円の損失を計上し、同期の純利益見通しは4000億円から1000億円へ引き下げられた[149]。東原氏は記者会見で「今の時点で凍結ならそれほど経営判断は間違っていない」[150]と述べ、「3000億円(という損失)は重く受け止めている」[151]と付け加えている。火力でも撤退が続き、2014年2月に三菱重工業と設立した三菱日立パワーシステムズ[152]で、日立が単独受注した南アフリカの石炭火力案件が工期遅延を起こし、三菱重工から約7743億円の支払いを請求される紛争[153]へ発展した。2019年12月18日に和解し、保有する35%の全株式を三菱重工へ譲渡して和解損失3759億円を計上[154]した。手放した火力の代わりに置いたのが送配電で、2020年7月にスイスABBのパワーグリッド事業を約7200億円で取得し[155]、Hitachi ABB Power Gridsとして営業を始めている。

  • 週刊東洋経済 2019年2月2日号「深層リポート 日立原発撤退 日立が英原発計画を凍結 「3000億円損切り」の事情」
    • [149]2019年3月期に3000億円の損失を計上、純利益見通しを4000億円から1000億円へ下方修正
    • [150]東原敏昭社長の記者会見での発言
    • [151]東原敏昭社長が損失の重さに言及
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [152]2014年2月 火力発電システム事業を分割し三菱日立パワーシステムズに承継
  • 日本経済新聞(2019年12月18日)「三菱重工と日立、南アフリカの火力巡る和解を正式発表」
    • [153]南アフリカ石炭火力案件の工期遅延で三菱重工が約7743億円の支払いを請求
    • [154]2019年12月18日に和解、保有35%の全株式を三菱重工へ譲渡し和解損失3759億円を計上
  • 日本経済新聞(2020年7月1日)「日立、ABBの電力システム事業買収完了 7500億円」
    • [155]2020年7月1日 ABB社のパワーグリッド事業の買収完了(7500億円)

デジタルでは2021年7月に米国GlobalLogicの親会社を約1兆円で完全子会社化[156]した。並行して親子上場の解体も詰めの段階へ入り、10年前に20社を超えていた上場子会社は[157]、2016年5月の日立物流の持分法適用会社化[158]を皮切りに、日立キャピタル・日立工機・日立国際電気・クラリオンを手放し[159]、2019年末には4社まで減っている。2018年6月には日立国際電気の半導体製造装置事業を売却したうえで同社を持分法適用会社としている[160]。2020年4月に日立化成、2023年1月に日立金属の事業を譲渡し[161]、2022年8月には日立建機を持分法適用会社化[162]した。2021年1月には日立オートモティブシステムズがケーヒン・ショーワ・日信工業を吸収合併して日立Astemoへ商号を変え[163]、同社が2023年3月期に純損失810億円へ転落すると、2023年10月には株式の一部譲渡で持分法適用会社に移して[164]いる。入れ替えの成果は数字に表れ、2026年3月期の売上収益は10兆5868億円、営業利益1兆2731億円、当期利益8024億円[165]といずれも過去最高となった。時価総額は20兆円を上回り、5年前の5倍以上へ拡大[166]している。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [156]2021年 米国GlobalLogic社の親会社GlobalLogic Worldwide Holdings社を完全子会社化
    • [158]2016年 日立物流を株式の一部譲渡により持分法適用会社化
    • [160]2018年6月 日立国際電気の半導体製造装置事業を売却し同社を持分法適用会社化
    • [161]2020年4月 日立化成株式の譲渡により同社事業を売却、2023年1月 日立金属株式の譲渡により同社事業を売却
    • [162]2022年8月 日立建機を株式の一部譲渡により持分法適用会社化
    • [163]2021年1月 日立オートモティブシステムズがケーヒン・ショーワ・日信工業と吸収合併し日立Astemoに商号変更
    • [164]2023年 日立Astemoを株式の一部譲渡により持分法適用会社化
  • 週刊東洋経済 2019年12月14日号「第2特集 変わる日立 大胆にポートフォリオ入れ替え 低迷「御三家」売却の大ナタ」
    • [157]10年前に20社超あった上場子会社が2019年末に4社まで減少
    • [159]日立キャピタル・日立工機・日立国際電気・クラリオンを順次売却
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・IFRS)
    • [165]2026年3月期の売上収益10兆5868億円・営業利益1兆2731億円・当期利益8024億円
  • 週刊東洋経済 2025年12月6日号「特集 グローバル日立の野望」
    • [166]時価総額は20兆円を上回り5年前の5倍以上へ拡大
  • 週刊東洋経済 2019年2月2日号「深層リポート 日立原発撤退 日立が英原発計画を凍結 「3000億円損切り」の事情」
    • [144]2012年 独電力会社2社から英ホライズン・ニュークリア・パワーを約900億円で買収
    • [145]ウェールズ地方アングルシー島で2基の原発計画
    • [146]安全基準強化と労務費高騰で総費用は当初想定の約1.5倍・約3兆円へ膨張
    • [147]非連結化を計画実行の条件として50%超の出資者を探したが現れなかった
    • [148]2019年1月17日 東原敏昭社長が英原発ホライズンの凍結を正式決定
    • [149]2019年3月期に3000億円の損失を計上、純利益見通しを4000億円から1000億円へ下方修正
    • [150]東原敏昭社長の記者会見での発言
    • [151]東原敏昭社長が損失の重さに言及
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [152]2014年2月 火力発電システム事業を分割し三菱日立パワーシステムズに承継
    • [156]2021年 米国GlobalLogic社の親会社GlobalLogic Worldwide Holdings社を完全子会社化
    • [158]2016年 日立物流を株式の一部譲渡により持分法適用会社化
    • [160]2018年6月 日立国際電気の半導体製造装置事業を売却し同社を持分法適用会社化
    • [161]2020年4月 日立化成株式の譲渡により同社事業を売却、2023年1月 日立金属株式の譲渡により同社事業を売却
    • [162]2022年8月 日立建機を株式の一部譲渡により持分法適用会社化
    • [163]2021年1月 日立オートモティブシステムズがケーヒン・ショーワ・日信工業と吸収合併し日立Astemoに商号変更
    • [164]2023年 日立Astemoを株式の一部譲渡により持分法適用会社化
  • 日本経済新聞(2019年12月18日)「三菱重工と日立、南アフリカの火力巡る和解を正式発表」
    • [153]南アフリカ石炭火力案件の工期遅延で三菱重工が約7743億円の支払いを請求
    • [154]2019年12月18日に和解、保有35%の全株式を三菱重工へ譲渡し和解損失3759億円を計上
  • 日本経済新聞(2020年7月1日)「日立、ABBの電力システム事業買収完了 7500億円」
    • [155]2020年7月1日 ABB社のパワーグリッド事業の買収完了(7500億円)
  • 週刊東洋経済 2019年12月14日号「第2特集 変わる日立 大胆にポートフォリオ入れ替え 低迷「御三家」売却の大ナタ」
    • [157]10年前に20社超あった上場子会社が2019年末に4社まで減少
    • [159]日立キャピタル・日立工機・日立国際電気・クラリオンを順次売却
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・IFRS)
    • [165]2026年3月期の売上収益10兆5868億円・営業利益1兆2731億円・当期利益8024億円
  • 週刊東洋経済 2025年12月6日号「特集 グローバル日立の野望」
    • [166]時価総額は20兆円を上回り5年前の5倍以上へ拡大

日立製作所の沿革1910〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日立製作所創業——鉱山の修理工場から自前主義で興した国産電機メーカー外国製機器に依存する電力業界で、小平浪平氏はなぜ技術提携を選ばず国産化に挑んだか 詳細を読む★★★
日立製作所を設立
笠戸造船所を取得
国産工業を吸収合併・国内工場を拡充★★
労働組合と対立・約8500名を削減★★
GE・RCA・WEとの相次ぐ技術提携と国産技術主義の撤回創業以来の自前主義を貫くか、外国技術を借りて東芝に対等で挑むか——火力発電の技術格差にどう向き合ったか 詳細を読む★★★
日立金属・日立電線を設立(子会社分離を開始)★★
Hitachi New Yorkを設立
システム開発を本格化
日立建設機械製造を分離独立
三田勝茂Hitachi Europe Ltd.を設立
三田勝茂256KB・DRAMの量産を開始
三田勝茂Hitachi Asiaを設立(アジア統括拠点)
金井務家電事業を再編
金井務日立有限公司を設立
金井務NECと合弁会社を設立(NEC日立メモリを合弁設立)
金井務最終赤字に転落。2万人の人員削減
金井務三菱電機と合弁会社を設立(ルネサステクノロジー)
金井務IBMからHDD事業を買収★★
中西宏明リーマンショック後の緊急再建と、総合電機路線の転換7,880億円の赤字を前に、出戻り社長・川村隆氏は「事業の聖域」をどう解体したか 詳細を読む★★★
中西宏明カンパニー制を導入(事業グループ再編)
中西宏明Western DigitalへHDD事業を売却★★
東原敏昭伊フィンメカニカの鉄道2社(アンサルドSTS・アンサルドブレダ)買収による欧州大陸進出中西宏明CEOは過去最大の買収で、なぜ「鉄道ビッグスリー」の牙城に挑んだか 詳細を読む★★★
東原敏昭三菱日立パワーシステムズの解消と火力発電事業からの撤退祖業に連なる火力を、なぜ合弁ごと手放したのか——南アフリカ案件の損失負担をめぐって 詳細を読む★★★
東原敏昭英国原発「ホライズンプロジェクト」の凍結と撤退約3000億円を投じた案件をどこで見切るか——日の丸原発輸出の柱をめぐる損切り 詳細を読む★★★
東原敏昭英国原発「ホライズンプロジェクト」の凍結と撤退約3000億円を投じた案件をどこで見切るか——日の丸原発輸出の柱をめぐる損切り 詳細を読む★★★
小島啓二ABB社パワーグリッド事業の買収とHitachi Energyの発足祖業に連なる火力を畳みながら、送配電を約7,200億円で買う——エネルギーで何を主力に据えるのか 詳細を読む★★★
小島啓二米GlobalLogicの約1兆円買収売上1,000億円の企業に1兆円は高すぎるのか——デジタル企業への転換を賭けた買収 詳細を読む★★★
小島啓二Thales社を買収(鉄道信号システム)★★
小島啓二上場子会社群の売却と親子上場構造の解体60年かけて築いたグループの形を、日立はなぜ手放したのか 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
  • 読売(1950年6月23日)
  • 証券(1950年1月)
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
  • マネジメント(1959年6月)「日立は果たして東芝を追い抜いたか」
  • 日本経済新聞(2022年1月11日)「日立、親子上場解消へ グループ再編、最終局面に」
  • 日経ビジネス(1984年11月26日)
  • 週刊東洋経済 1998年10月17日号「特集 急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
  • 週刊東洋経済 1999年2月20日号「トップ企業の断面 日立製作所 新生日立への“解体の決断”」
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
  • 日経ビジネス(2008年4月14日)「日立とニッポン」
  • 週刊東洋経済 2021年7月17日号「追悼 中西宏明経団連前会長 豪腕リーダーの責任感 2つのイフと残された宿題」
  • 日立製作所 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
  • 日経ビジネス(2021年3月15日号)「編集長インタビュー 経営者よ『情より理』を貫け 日立製作所名誉会長 川村隆氏」
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【役員の状況】
  • 週刊東洋経済 2018年12月8日号「集中連載 日立製作所 踊り場の先へ 鉄道 グローバル日立の象徴 「牽引車」ゆえの課題」
  • 週刊東洋経済 2015年3月7日号「核心リポート05 日立、欧州で大型買収 鉄道ビッグスリーに照準」
  • 週刊東洋経済 2019年2月2日号「深層リポート 日立原発撤退 日立が英原発計画を凍結 「3000億円損切り」の事情」
  • 日本経済新聞(2019年12月18日)「三菱重工と日立、南アフリカの火力巡る和解を正式発表」
  • 日本経済新聞(2020年7月1日)「日立、ABBの電力システム事業買収完了 7500億円」
  • 週刊東洋経済 2019年12月14日号「第2特集 変わる日立 大胆にポートフォリオ入れ替え 低迷「御三家」売却の大ナタ」
  • 日立製作所 有価証券報告書(連結・IFRS)
  • 週刊東洋経済 2025年12月6日号「特集 グローバル日立の野望」

免責事項およびポリシー