1951年7月に日本ミネチュアベアリングを東京都板橋区小豆沢に設立。創業者は富永五郎氏であり、旧満州重工業の航空機技術者が参画した。
会社設立と同時に、国内では初となるミネチュアベアリング(極小ベアリング)の専業メーカーとして生産を開始した。戦時中に米国の戦略爆撃機B29に工業計器向けのミネチュアベアリングが採用されていることを突き止め、終戦後に起業してミネチュアベアリングの国産化を意図した。
ところが、精密部品であるミネチュアベアリングの製造に苦戦。日本ミネチュアベアリングは、会社設立から1年で経営危機に陥った。加えて、富永氏は別会社(日本航空整備)の設立を決めており、社長が不在となった。
そこで、富永氏と懇意であった日産財閥の創業者である鮎川義介氏は、取引先である高橋精一郎氏にミネベアの再建を依頼した。高橋精一郎はさまざまな会社を経営(鉄屑の販売など)していたが、そのうちの1社が日産自動車と取引関係にあり、鮎川氏の要請を断れない立場にあった。
そこで、高橋精一郎氏は日産との関係を維持する観点から、1952年にミネベアに対して200万円を出資(増資後資本金300万円)してミネベアの筆頭株主となった。以後、高橋精一郎氏がミネベアの経営再建に従事。ミネベアの経営危機は1955年ごろまで続き、高橋精一郎氏は私財を投じて再建に従事したという。
高橋の父(注:高橋精一郎氏)はミネベアの再建に命を賭けた。そのために徹底して経営の合理化を進めた。が、いかんせん機械の精度が悪く、精巧な極小ベアリングを生産できない。メーカーとしての致命傷を、依然として持ち続けたのである。そのために資金援助を相も変わらず続けざるを得なかった。この時、もし精一郎に資金力がなかったら、現在のミネベアは存在しなかっただろう。
1959年、精一郎は長男の高見を呼び寄せた。一流企業(注:カネボウ)から一転して経営危機に直面していた弱小ベアリングメーカーへの転出を、高見自身、どんな心境で受け止めただろうか。
1963年の時点でミネベアは「ミネチュアベアリング」において国内シェア1位(70%・生産高ベースと推定)を確保。ミネベアでは500種に及ぶミネチュアベアリングを製造して、在庫として保持することによって、販売先のメーカーからの注文に対して即座に納入する体制を整えた。これにより、小口注文にも対応し、国内シェアを確保するに至った。
1966年に高橋高見氏(たかはし・たかみ)がミネベアの社長に就任。ミネベアの実質的な創業者である高橋精一郎氏の息子であり、同族経営を志向した。
社長就任当時、高橋高見氏は38歳であった。以後、1989年に急逝するまでミネベアの社長を歴任してトップラウンで経営を遂行した。このため、ミネベアの歴史において、高橋高見氏は最も重要な人物とされる。
高橋高見氏はミネベアについて、主力のベアリング事業では東南アジア(シンガポールおよびタイ)への生産移管を実施。一方で1970年代からM&Aを通じて生産品目を拡大し、ベアリングにとらわれない事業を展開した。当時の日本企業としては珍しく、1980年代には上場企業に対する買収(TOB)も辞さなかったため。買収に対してさまざまな毀誉褒貶を伴った。
1971年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことを受けて、ミネベア(高橋高見社長)は東南アジアへの生産移管を決定。1972年にシンガポールに現地生産法人を設立し、ベアリングの東南アジアでの生産を開始した。
なお、東南アジアにおける生産投資について、日本企業においては前例が少なかったため、国内の銀行は融資に対して及び腰になったという。このため、ミネベアでは生産設備の投資について外債を通じた調達を志向。高橋高見氏はスイスなどに赴き、資金調達に奔走した。
1980年にはタイに現地生産法人を設立した。シンガポールでは主に出稼ぎの労働者が多く、海外企業の進出も相次いだことから、結果として人件費の高騰や、社員が定着しない問題を抱えていた。
そこで、1980年代以降のミネベアはタイにおける現地生産に積極投資を実施。ミネベアはばんこくなどの都心部では労働力が不足することを予想し、アユタヤ、バンパイなどの地方に工場を新設し、労働力の確保優先して現地生産の体制を整えた。
労働力確保の一方で、機械設備では最新鋭の工作機械を設置。タイの工場においては、250メートルのラインを直線構築し、ラインの終端に到達した時点で製品が完成するシンプルな設計とした。労働力に関しては、全体の20%を検査工程に配置し、歩留まり向上を図った。
1970年代から1980年代にかけて円安ドル高が進行したことで、日本における人件費が高騰し、日本国内で多くのメーカーが価格競争力を喪失した。特に、ベアリングなどの汎用品は、量産によるコストダウンが効く事業であり、組立工程が労働集約なため、円高の影響を受けやすい体質にあった。
円高が進行する中で、1980年代までにミネベアはタイにおける量産体制を構築し、ベアリングにおいては海外における生産比率が99%に達した。1%は国内の軽井沢工場における生産であり、東南アジアでの生産に従事する現地社員(主に女性)を教育するための設備であり、マザー工場として位置付けられた。
このため、ミネベアは円高の影響を最小限に抑え、1988年に「ミネベアは日本で最も円高対応の進んだ企業である」(1988/1/18日経ビジネス)と形容された。
1980年代を通じてミネベアのベアリングは主にVTR(ビデオ機器)向けに販売を拡大するなど、低コストを武器に電子機器向けの部品として採用された。
計算なんてありはしません。海外にしか生きる道がなかったからなんです。たとえば、シンガポール工場の建設はわが社発展の原動力になったのですが、その時、某大手都銀のトップが見えましてね。一再ならす「あなたの会社の体力では無理だから、やめなさい」と忠告してくれました。まったくの親切心からなんですけどね。でも、ジッとしていれば、ジリ貧になるというのは、私のような第一線の経営者には感覚的にわかるんです。
ミネベアは半導体(DRAM)への参入を決定。1984年にNMBSを設立して千葉県館山市内で35万m2の工場用地を確保。投資額は300億円に及んだ。
当初は1985年5月の生産開始を予定したが、歩留まりが悪く遅延が発生。1986年初旬からDRAM(256KB)の生産を開始した。販売先は主に海外であった。
2009年に貝沼氏由久がミネベアの社長に就任。2023年に会長へ退くまで、約14年にわたって社長を歴任した。この間、LEDバックライトへの投資、ミネベアとミツミの経営統合などの意思決定を行い、ミネベアミツミの業績改善に寄与した。
ドイツの歯科・医療機器・航空宇宙向けの特殊ベアリングの製造会社myonic社を買収
射出成形用金型メーカーである第一精密産業を買収。株式を日本みらいキャピタルから取得
2010年からミネベアは中国の現地生産法人を通じて、LED用バックライトの量産を開始した。主にスマートフォンなどの部品として採用されたことから、電子機器事業として事業を遂行した。
2010年代を通じて全世界でスマートフォンが普及したことにより、LEDバックライトの需要が増大したことが、ミネベアにとって追い風となった。
バックエイトの需要増大を受けて、2013年前後を機に、ミネベアは電子機器事業への設備投資を積極化。中国およびタイにおいて、LEDバックライトの量産体制を構築した。
2016年3月にミネベアはミツミ電機との経営統合で合意。同年10月に取締役会で統合が決議された。2017年1月に株式交換によりミネベアとミツミが統合して、ミネベアミツミが発足した。ミネベアによるミツミ電機の取得原価は555億円であり、ミネベアにとって有利な統合条件であった。
ミツミ電機は1954年に設立された電子部品メーカーであり、主にスマホ向けの部品(カメラのアクチュエーター)の生産に従事。他にも任天堂向けにもハードウェアを供給する企業としても知られた。
経営統合直前の2016年3月期におけるミツミ電機の業績は「売上高163億円・当期純利益▲96億円」であり、スマホ向け電子部品(マイクロアクチュエーター)の販売不振により業績が低迷していた。
ミネベアとしてはミツミと経営統合した上で、ミツミにおける生産設備(主に金型)への投資を遂行し、生産効率を高めて、同社の収益を改善することを目論んだ。
車載向けの部品事業を強化するために、2019年4月に自動車部品メーカーのユーシン(東証1部上場)を買収。ユーシンはドア部品を手がける部品メーカーであり、ホンダやBMWなどの完成車メーカーとの直接取引があり、Tier1に相当した。
TOBを通じて全株式を取得することで、ユーシンは上場廃止となった。
ユーシンは1926年に有信商会として創業した老舗企業であり、2018年12月期における業績は「売上高1,485億円・当期純利益0.4億円・従業員数6,436名」であった。相応の規模の部品メーカーであったが、買収直前は慢性的な低収益な体質であり、有利子負債が423億円(現預金217億円)と重く、設備投資を十分に行えない状況にあった。
ミネベアは買収発表時に約320億円での取得を予定したが、最終的には「支払対価の構成価値(現金)」がに着地し、のれん91億円を計上。株式取得に伴う支出は0円であり、収入として4700万円を計上した。これは、ユーシンにおいて有利子負債残高が、現金控除後ベースでも相応に存在したことに由来する。
ミネベアとしてはドア部品への参入を足掛かりとして、完成車メーカーとの取引拡大を意図した買収であった。すなわち、ミネベアミツミで製造する電子部品について、完成車メーカーとの共同開発を経て、新車種に採用されることを狙ったと推定される。