歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1921年、大阪市生野区で光洋精工が軸受の専業メーカーとして生産を始めた。日本精工・東洋ベアリング製造に続く独立系で、親会社を持たず、軸受から自動車部品へと自力で領域を広げた。一方の豊田工機は1941年、トヨタ自動車工業から金属工作機械の生産を担うために分離独立し、最初から親会社の生産計画に組み込まれていた。自前で広がった光洋精工と、トヨタに発注を握られた豊田工機。出自の異なる2社が、戦後の自動車産業の拡大とともに別々の論理でステアリング領域へ近づいた。
決断1979年、経営危機に陥った光洋精工はトヨタ自動車工業に救済を仰ぎ、翌1980年の第三者割当増資でトヨタを筆頭株主に迎え、独立系から系列の部品メーカーへと立場を変えた。グループ内ではステアリングを光洋系と豊田系が別々に抱え、北米にも欧州にも重複した拠点が並んでいた。その重なりを解くべく2006年、両社は合併してジェイテクトが生まれ、軸受・工作機械・ステアリングを束ねる国内3強の一角となる。だが直後にリーマン危機が直撃し、膨らんだ固定費と二重の海外拠点が需要半減のなかで採算上の負担となり、2期続けて赤字に沈んだ。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1921年創業の光洋精工と1941年設立の豊田工機は、出自の異なる2社として別々にステアリングへ近づいたのか
- A 2社の進み方を決めたのは、誰が受注を握っていたかである。光洋精工は親会社を持たない独立系の軸受専業として始まり、次の市場を自力で探すしかなかったため、1960年に国分工場でステアリングの試作へ自ら踏み込んだ。これに対し豊田工機は、自動車量産に欠かせない専用工作機械をトヨタが自前で確保するために1941年に分離独立した会社で、最初から親会社の生産計画に発注を握られていた。同じステアリングへ向かいながら、一方は自前の事業拡大として、他方はトヨタ向け部品供給として接近した。
- Q なぜ独立系として歩んできた光洋精工は、1979年にトヨタの傘下入りを選んだのか
- A 親会社を持たない独立系であったがゆえに、不況をしのぐ後ろ盾がなかったことが大きい。NTN東洋ベアリングが昭和51年3月期に早々と4割の減産へ動いたのに対し、光洋精工は黒字と配当を1年長く続けて減量が遅れ、1979年3月期に最終赤字68億8,200万円へ転落した。全取締役がいったん辞任し、最大の取引先で大株主でもあったトヨタ自動車工業に支援を仰ぐほかなかった。トヨタは社長以下5人の役員を送り込み、翌1980年の第三者割当増資で筆頭株主となって、大阪発の独立系メーカーは系列の部品メーカーへ立場を変えた。
- Q なぜ2020年代のジェイテクトは、資本効率と欧米の構造改革を経営の中心に据え直したのか
- A 2006年の合併で軸受・工作機械・ステアリングを束ねたものの、北米と欧州に旧2社の拠点が重複したまま残り、資産の重い3事業を一つの価値へ融合できなかったことが、PBR1倍割れの低い評価につながった。2024年に就いた近藤禎人社長は、「社会におけるこの会社の価値や意義を表す一言が見つからない」と自己診断し、多くの技術を抱えすぎて一つの顔を作れない「多事業の統合力」を中心課題に据え直した。そこで2030年ビジョンでROEとPBRの改善を数値目標に掲げ、政策保有株式の売却と欧米の構造改革で採算を立て直す道を選んだ。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1921年〜1979年 光洋精工と豊田工機 ── 源流を異にする2社の歩み
1921年の光洋精工 ── 池田善一郎が拓いた大阪の軸受メーカー
光洋精工の創業者・池田善一郎は、1896年(明治29年)に香川県小豆島で生まれ、17歳で大阪に出て関西大学の前身にあたる専門学校の夜間部で設計を学んだ[1]。郷里に近い高松で農機具の販売に従事したのち、ベアリングの将来性に着目して再び大阪へ戻り、大正5年(1916年)ごろ、南区東清水町の小工場に「光洋精工社」の看板を掲げて[2]ベアリングの試作研究を始めた。そして1921年(大正10年)1月、弱冠25歳の池田は大阪市生野区猪飼野に工場を建設し、ボール・ベアリングの本格生産を開始する[3]。これを現在のジェイテクトは創業期としている。創業当時の日本の軸受業界は、1916年創業の日本精工[4]、1918年創業の東洋ベアリング製造(後のNTN)[5]が先行しており、光洋精工はそれに続く国内軸受メーカーの一角として発足した。
光洋精工は技術開発に注力し、生野区中川町の新工場で1923年(大正12年)にはわが国で初めてのテーパー・ローラー・ベアリングの国産技術を完成させる[6]。当時これは『ティムケン以外には生産は不可能』とまでいわれた難物で、光洋精工はこのジンクスを破って業界最高の定評を築いた[7]。従来の浸炭鋼を輸入軸受鋼に切り替え、米国製の新鋭研削盤を他社に先駆けて導入し自社改造するなど材料と工作機械の両面で先行し、昭和2年(1927年)には国産軸受生産のトップに立っていた[8]。1935年(昭和10年)1月18日には、官公庁需要や戦時体制への移行を背景に、池田善一郎の個人経営だった光洋精工社を資本金100万円の株式会社・光洋精工株式会社へ改組する。戦後は1949年5月に大阪・東京の両証券取引所、同年7月には名古屋証券取引所へも上場を果たし[9]、独立系の軸受専業メーカーとして資本市場に足場を築いた。
光洋精工は軸受専業から出発したが、1960年4月、国分工場でステアリングの開発・試作を開始する。戦後の自動車産業が立ち上がるなか、軸受から派生する自動車部品領域へと足を踏み入れた決断だった。1961年8月にはミシン・工作機械部門を分離して光洋機械工業を設立し、軸受とステアリングという2つの柱に事業を集約していく。独立系の自動車部品メーカーとして地歩を固めつつ拡大する路線は、この1960年代の選択と集中によって輪郭を得た。後年トヨタグループに組み込まれるまで、光洋精工は独立系軸受メーカーとしての立ち位置を保ち、自動車部品への傾斜を進めていった[10][11][12]。
1941年の豊田工機 ── トヨタから分離独立した工作機械メーカー
豊田工機の設立は、創業者・豊田喜一郎の構想にさかのぼる。自動車の量産には専用工作機械が欠かせないが、外部に頼れば時間がかかる。自前でつくるほかなく、そのためには工機部を分離して独立会社にする必要があった。社史は、『工作機械の会社は儲からん会社であるが、トヨタ自動車工業としてぜひとも必要』[13]だとして、喜一郎が採算の苦しさを承知で独立を決意したと記す。独立を早めたのは法制度で、1938年(昭和13年)の工作機械製造事業法と先の自動車製造事業法(1936年公布)は同一会社が同時に適用を受けられず、工機部の切り出しが避けられなくなった[14]。こうして1941年5月、豊田工機はトヨタ自動車工業から金属工作機械の生産を担って分離独立した[15]。光洋精工が独立系として自発的に自動車部品へ進んだのに対し、豊田工機ははじめから親会社トヨタの生産計画に組み込まれた存在だった[16]。
豊田工機株式会社の創立総会は、1941年(昭和16年)4月28日にトヨタ自動車工業本社で開かれた[17]。公称資本金は800万円、うち半額400万円を払い込み、その3百万円はトヨタ自動車工業が現物出資した。残額は情勢を見て公募する方針で、これは豊田系会社として初の公募事例だった。取締役社長に豊田利三郎、副社長に豊田喜一郎、常務に菅隆俊が就き[18]、5月1日から営業を開始する。工場用地は当初、挙母と知立の中間に求める案があったが、地盤の軟弱が機械精度に響くことを嫌って断念し、刈谷町長・大野一造のあっせんで刈谷の現在地57,252坪を坪当り2円83銭で取得して建設に入った[19]。
1968年9月、豊田工機は自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始する。工作機械メーカーだった豊田工機が自動車部品の製造に乗り出し、トヨタ車向けパワーステアリング供給の地位を確立していく。1977年10月にはアメリカ・イリノイ州にTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONを設立し、米国での工作機械販売網を築き始める。トヨタ系の工作機械メーカーからトヨタ系のステアリングメーカーへ、豊田工機は事業の比重を移した。軸受という領域に踏み込まなかった豊田工機と、工作機械を手放した光洋精工は、1960〜70年代を通じて異なる事業領域を分担していた[20][21][22]。
1973年の海外進出から1979年の経営危機へ
光洋精工は1973年11月、米国サウスカロライナ州にAMERICAN KOYO CORPとの合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORPを設立し、米国現地生産を開始した。独立系軸受メーカーとしてグローバル展開を進める動きは、日本精工・東洋ベアリングに並ぶ国内3位級の軸受メーカーとしての存在感[24]を反映していた。オイルショック後の円高局面を見据えて、需要地での生産体制を先行して整備する判断でもあり、後に続く欧州拠点展開の出発点ともなった。既存事業の効率化と新しい収益源の創出を両立させる動きが、1970年代の光洋精工の基調にあり、親会社を持たない独立系としてのスピード感で海外投資を次々と進めていった[23]。
だが光洋精工の独立路線は1970年代末に行き詰まる。1979年3月期(昭和54年3月期)に最終赤字68億8,200万円・累積損失88億6,900万円という大幅な赤字を計上し[25]、全取締役がいったん辞任し、最大の取引先で大株主でもあったトヨタ自動車工業に支援を仰いだ。トヨタは社長以下5人の役員を送り込み、6月末の株主総会で池田巌社長は代表権のない会長へ退き、後任には『再建屋』の異名をとるトヨタ系の井村栄三・東海理化電機製作所社長が就いた[26]。新体制は再建策『NL(ニューライト)80計画』を掲げ[27]、旧徳島工場跡地など100億円超の資産売却や約1,200〜1,300人の人員削減[28]、東京・高松工場の閉鎖といった減量経営を進めた。大阪発の独立系メーカーが事実上トヨタ傘下で再建を図るこの選択は、翌1980年の第三者割当増資によるトヨタの筆頭株主化へと直結していく[29]。
一方の豊田工機は、トヨタ車の海外生産拡大に追随する形で米国・欧州へと拠点を展開していく。両社は軸受(光洋)とステアリング・工作機械(豊田)という得意領域を分けつつも、後輪駆動から前輪駆動への転換や電動パワーステアリングの登場など、自動車技術の変化に応じて製品群を広げていった。同じトヨタ系列の中で異なる出自を持つ2社が、1970年代から1980年代にかけて並走していた構図であり、この二頭体制が21世紀初頭まで続いた。北米・欧州の双方に独自の拠点網を別々に構えた構造が、合併後の一体運営の難しさに直結し、後年の改革課題の原型を形作った[30]。
1980年〜2012年 トヨタ系列化と光洋精工・豊田工機の2006年大合併
1980年の増資でトヨタが光洋精工の筆頭株主に
1980年8月、光洋精工は資本金の3/4を減らす減資を実施し、翌9月にはトヨタ自動車工業を割当先とする第三者割当増資を行った。7,600万株を1株600円で発行し[32]、この結果トヨタ自動車工業が光洋精工の筆頭株主となる。独立系の軸受メーカーとして出発した光洋精工は、この1980年の資本関係の変更によってトヨタグループの系列部品メーカーへと性格を変えた。大阪発の独立系という出自は残しつつ、経営判断はトヨタ本体の部品調達戦略に組み込まれる構造へと移行したこの転換は、後年の豊田工機との合併への土台となる資本上の距離を狭める転機となり、両社の統合余地を広げた[31][33]。
1988年4月、光洋精工は米国TRW INCとのパートナーシップでTRW KOYO STEERING SYSTEMSを設立し、ステアリングの北米合弁を開始する。翌1989年10月には豊田工機もテネシー州にTOYODA TRW AUTOMOTIVEを設立し、トヨタグループの中で同じ北米ステアリング現地生産の領域に2社が並存する状態となった。1993年3月にはフランス・イリニイ市のSOCIETE DE MECANIQUE D'IRIGNYを光洋精工が子会社化し、2000年3月にはフランス・ディジョン市のステアリング拠点も取り込む。欧州においても光洋精工のステアリング事業が拡大する一方で、トヨタグループ内部には光洋系と豊田系が別々に抱える重複投資の構図が残り、合併に至る前段階で統合の必要性が組織全体に浮上しつつあった[34][35][36][37]。
2002年のファーベス設立と2005年の合併基本合意
2002年11月、豊田工機・トヨタ自動車・デンソーと光洋精工の4社合弁で、電動パワーステアリング(EPS)の開発・販売会社ファーベスが設立された。油圧式から電動式への移行期にあって、トヨタ系のステアリング技術を1カ所に集約するための組織的な布石だった。既に、トヨタグループ内のステアリング事業を光洋精工と豊田工機のどちらかに統合する議論が現実味を帯び始めていたと言える。ファーベスは合併に先立つ実験的な統合の場として働き、両社の技術者が同じ屋根の下で協働する経験を積み、技術仕様のすり合わせと人的な距離の接近が同時に進んでいった[38][39]。
2005年2月、光洋精工と豊田工機は合併に基本合意する。トヨタグループの部品事業再編の中核案件であり、軸受(光洋精工)・工作機械(豊田工機)・ステアリング(両社)を一つの会社にまとめる統合だった。2006年1月、両社は正式に合併し、商号を株式会社ジェイテクトに変更する。ジェイテクトの誕生は、日本の軸受業界とトヨタ系部品業界の双方にとって構造変化であり、国内軸受メーカーとしてはジェイテクトが日本精工・NTNと並ぶ3強の一角に再配置された瞬間でもあった[43]。同時に、トヨタグループ内部ではステアリング事業を1社に集約する体制がここで完成した[40][41][42]。
リーマン危機とティムケン社ニードル軸受事業の取得
2008年3月期、ジェイテクトは合併後のピーク業績として連結売上1兆1,576億円、営業利益776億円を計上した。しかし翌2009年3月期にはリーマン・ショックの直撃を受けて連結売上1兆171億円、営業利益224億円へと急減し、親会社株主に帰属する当期純利益は▲120億円の最終赤字に転落する。2010年3月期は連結売上7,697億円、営業利益わずか4億円、純損失▲194億円と2期連続の赤字に沈んだ。合併直後に自動車生産の急拡大に乗って膨らんだ固定費と海外拠点の運営負担が、需要が半分近くに落ち込む局面で顕在化しており、統合の初期段階で財務体質の立て直しがすぐに迫られる局面に入った。
2009年7月、ジェイテクトはザ・ティムケン・カンパニーとの売買契約を締結し、同年12月に同社のニードル軸受事業を取得した。米国大手軸受メーカーの事業を取り込むことで、合併で得た軸受事業の層を厚くする狙いだった。リーマン後の需要回復局面では2011年3月期に売上9,554億円・営業利益399億円、2015年3月期には売上1兆3,559億円・営業利益741億円と業績を押し上げ、合併のスケールメリットを数字で示していく。ただし、軸受・工作機械・ステアリングの3事業をどう一体運営するかというもう一つの課題は、まだ顕在化した論点として整理されていなかった段階にあった[44]。
2013年〜2023年 安形・佐藤両社長在任中の改革と北米・欧州の採算上の負担
安形哲夫社長在任中の海外M&Aと国内グループ再編
2013年6月、井川正治氏から安形哲夫氏への社長交代があった。安形社長在任中にはインド・欧州・国内でのM&Aと構造再編が続き、2017年6月にはインドのSONA KOYO STEERING SYSTEMSを子会社化してインドでのステアリング事業基盤を強化、2017年12月には富士機工(現ジェイテクトコラムシステム)を完全子会社化してステアリングコラム事業を取り込んだ。2019年1月にダイベア、2020年1月に豊精密工業も順次完全子会社化し、軸受・ギヤシステムなど周辺事業の統合を行った。合併から10年を経て、ジェイテクトはなお関連企業を吸収する側の立場にあり、軸受・ステアリング・工作機械の3事業それぞれのグループ内再編を並行して進めていた時期だった[45][46][47][48][49]。
2018年3月期には連結売上1兆4,412億円、営業利益814億円と合併後のピーク水準を更新したが、2019年3月期から雲行きが変わる。世界的な自動車生産の調整と米中貿易摩擦の影響で、2020年3月期の連結売上は1兆4,189億円、営業利益376億円[50]まで減少し、純損失▲38億円[51]と合併以来2度目の最終赤字を計上した。コロナ禍直前の自動車需要減速がジェイテクトを襲い、2021年3月期は売上1兆2,463億円、営業利益159億円という水準にまで悪化した。2020年6月、安形哲夫氏から佐藤和弘氏への社長交代が行われ、コロナ局面の経営改革と北米事業の立て直しという重い課題を担う役割が次代の経営陣に引き継がれ、新体制は需要急落の中での収益維持を迫られる位置に置かれた[52]。
2021年刈谷移転と2022年JTEKTブランド統一
2021年6月、ジェイテクトは本店所在地を大阪から愛知県刈谷市に移転した。創業以来大阪を本拠とした光洋精工の系譜を引きつつ、トヨタ系企業としての重心を名古屋圏に移すという象徴的な決断だった。翌2022年4月には事業ブランドをJTEKTに統一し、光洋精工(KOYO)と豊田工機(TOYODA)という2つのブランドを統合する。2006年の合併から16年を経て[55]、ブランド面での統合がようやく完成したかたちである。本社所在地とブランド名の双方で、光洋・豊田工機という旧2社の痕跡を対外的には消す整理が、ここで一段落し、次の統合課題として3事業の一体運営という未解決の論点が浮き彫りになった[53][54]。
2022年3月期以降、業績は回復局面に入る。2023年3月期は連結売上1兆6,781億円、営業利益626億円[56]、2024年3月期には売上1兆8,915億円、営業利益728億円[57]と、合併後最高水準の売上を更新した。セグメント別では自動車事業が売上1兆3,444億円、産機・軸受が3,580億円、工作機械が1,889億円という構成で、自動車部品依存度の高さが維持される構造が続いている。一方で北米の離職率高騰と生産性悪化は恒常化し、2024年5月の決算説明会で安形前社長は「北米では高い離職率に起因する生産の不安定が継続しており、厳しい状況が継続する前提で人に頼らない仕組みを構築する」(安形哲夫 決算説明会 FY23)[58]と述べた。表面上の業績回復と北米の構造問題が同居した局面だった。
近藤禎人プロパー社長への交代と新中期経営計画の策定
2024年5月、佐藤和弘氏から近藤禎人氏への社長交代が発表された。理由は若返りで、安形氏から佐藤氏、そして近藤氏へと続く3代の社長交代の中で、初めて生産技術出身のプロパー経営者が選ばれた。安形前社長は「近藤さんとは『利他の精神』という考え方が共通しており、生産技術出身の彼ならば現場視点でもっと緻密に改善を進めていくことができる」(安形哲夫 決算説明会 FY23)[61]と引き継ぎ時に述べた。近藤社長自身も就任会見で、歴史に基づく多様な技術要素と知見を組み合わせOnly Oneのソリューションを生み出していく姿勢を打ち出し、3事業融合の方針を掲げた。生産技術畑の経営者を選んだ人事は、北米・欧州の現場改善を中核課題に据える経営への転換の意思表明でもあった[59][60][62]。
新中期経営計画の発表は社長交代に伴って2024年8月に後ろ倒しされた。近藤社長は就任当初、社会におけるこの会社の価値や意義を表す一言が見つからないという自身の課題認識を率直に語り、「受動型から能動型へ」のビジネスモデル転換を2030年ビジョンに据えた。軸受・工作機械・ステアリングという3事業を抱えながら、それらを融合させた新しい価値を生み出せないという「多事業の統合力」の問題を、経営の中心課題として据え直した。多様な技術を抱えすぎているがゆえに一つの顔を作れないという自己診断は、合併から20年近くを経てはじめて経営トップが公にした認識である[63][64][65]。