池田善一郎氏がベアリング(軸受)の将来性に着眼し、大阪市生野区にて「光洋精工社」を創業。1931年には中川工場(生野区中川町)を新設して増産に対応
軍需拡大により、戦闘機・戦車・船舶向けのベアリング需要が増大。光洋精工は工場増設及び工作機械などの設備増強により、量産投資を志向した。
1939年までに2期工事を完了した国分工場(大阪府柏原市)は、終戦後も光洋精工の国内主力工場として、ベアリングの量産に従事する基幹工場となった。
戦後の光洋精工は、欧州および米国へのベアリングの輸出に注力。生産性を高めために、国内では国分工場(大阪府柏原市)を中心に工作機械を増強するなど、積極的な設備投資を実施した。
私どもは輸出ということを考え、それを目標に経営方針を徹底したわけです。輸出をやるには、品質を、世界的水準に持っていかなければならない。値段も安くせねばならない。納期も守る。とにかく一時間遅れても船が出てしまうんですから・・・。こういうことを従業員に教育しなければならない。しかし、指導精神に欠けていた頃ですから、また、言っても聞いてくれない時代でしたから、そういう面の訓練には、ずいぶん苦労しました。
米国インターナショナル・ボール&ローラーベアリング社と3ヵ年の大型輸出契約を締結。ベアリングの北米輸出について、3年間で合計56億円の輸出を契約した。
池田巌社長は北米以外の地域でも輸出を率先し、年間60日間は海外で商談(商社を介さない直接営業)に従事したことから、ベアリング業界では「国際セールスマン」として認知された。
これにより、光洋精工は輸出を中心に販売を拡大。1960年代には、国内ベアリング大手5社(光洋精工・東洋ベアリング・日本精工・旭精工・不二越)のうち、輸出高で光洋精工がトップを確保した。
輸出高に関しては、光洋精工が頭一つを抜けていた。1963年度における国内のベアリング輸出額合計100億円のうち、1位の光洋精工が約41億円、2位の不二越21億円、3位の東洋ベアリング17億円という序列となり、を占め、輸出面において光洋精工が競合を圧倒した。
外国の会社と競争して、どうであるか。これを目標にして、全てを考えておりますから、売上がトップになったとかどうとか、新聞雑誌に書き立てられますが、私は外国の業者と競争していって、世界に地盤を築こうと思っているんですから(略)
円高ドル安の進行や、欧州における貿易摩擦によりベアリングの輸出不振に直面。1970年代を通じて光洋精工ではベアリングの国内生産に投資して、東南アジアへの生産移管に出遅れたため、国際競争力を失った。
この結果、1978年3月期には最終赤字88億円、1980年3月期にも不良在庫の処理などで358億円の最終赤字に転落。1980年3月末時点で156億円の債務超過に陥った。経営再建のため、希望退職者約800名の募集を始めとして、合計1200名の人員削減を実施。
光洋精工の技術力を評価したトヨタ自動車(再建前に光洋精工の株式3.7%を保有)は、光洋精工への支援を決定。光洋精工にとってトヨタは大口顧客であり、トヨタ向けに年間約100億円、日産向けに同約60億円の取引が存在した。
資本政策の面では、光洋精工の減資(3/4)及び増資によりトヨタが光洋精工の株式を取得。1982年3月末までにトヨタ自工が21%の株式を保有した。これにより光洋精工は株式上場を維持しつつも、トヨタ系列企業となった。
人事組織面においては、銀行の下で再建計画を練っていた創業家の池田巌社長をサプライズで解任し、トヨタ系列企業出身者が社長及び取締役を派遣。以後、光洋精工はトヨタ系列企業として企業再生を図った。なお新社長にはトヨタ系列企業の再建で定評のある井村栄三氏が就任した。
トヨタ自動車の狙いとしては、精密かつベアリングを多用する自動車向けのステアリングにおいて、光洋精工に開発・生産を担当させることにあった。トヨタの経営再建が始まった1983年にステアリングの開発を開始し、1988年には世界初の「電動パワーステアリング」の生産を開始した。
ただし、ステアリングについては、1980年代を通じてトヨタ系列の豊田工機も開発・生産に参画しており、光洋精工はトヨタにとって複数ある購買先の1社として位置付けられた。
ベアリング業界の名門「光洋精工」(本社大阪、資本金127.97億円)が、トヨタ自動車工業の全面支援を受けて、経営再建に乗り出した。
光洋精工はこれまで積極的な経営で業績を伸ばそうと図ってきたが輸出不振で過剰な設備投資が裏目に出て経営が行き詰まったもの。トヨタ自工は孫会社に当たる東海理化電機製作所社長の井村栄三氏を社長に派遣し、トヨタ自工全面支援の形で光洋精工の起死回生にあたる。(略)
トヨタ事項の全面支援が打ち出されたことから業界はもとより、当事者である光洋精工側の驚きは大きかった。事実、この驚きを象徴するかのように、池田光洋精工社長は記者会見の席上、「まさか社長が送り込まれるとは考えていなかった。新聞を見て初めて知った」とし、トヨタ自工が光洋精工抜きで新社長派遣を決めたことを肯定していた。
車載用のステアリングにおける競合関係を解消するために、トヨタ系列の豊田工機と光洋精工が合併。光洋精工を存続会社として、商号を「ジェイテクト」に変更のうえ発足した。