1921年〜 光洋精工と豊田工機 ── 源流を異にする2社の歩み
- 1921年大阪市生野区で光洋精工社(ジェイテクトの前身)を創設、ベアリング生産を開始
- 1935年株式会社に改組し光洋精工株式会社を設立
- 1941年トヨタ自動車工業から分離独立し豊田工機を設立
- 1949年大阪・東京証券取引所に上場
- 1949年名古屋証券取引所に上場
- 1960年光洋精工国分工場でステアリングの開発・試作を開始
- 1968年豊田工機が自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始
ジェイテクトの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
1921年の光洋精工 ── 池田善一郎が拓いた大阪の軸受メーカー
光洋精工の創業者・池田善一郎は、1896年に香川県小豆島で生まれ、17歳で大阪に出て関西大学の前身にあたる専門学校の夜間部で設計を学んだ。郷里に近い高松で農機具の販売に従事したのち、ベアリングの将来性に着目して再び大阪へ戻り、1916年ごろ、南区東清水町の小工場に「光洋精工社」の看板を掲げてベアリングの試作研究を始めた。そして1921年1月、弱冠25歳の池田は大阪市生野区猪飼野に工場を建設し、ボール・ベアリングの本格生産を開始する。これを現在のジェイテクトは創業期としている。創業当時の日本の軸受業界は、1916年創業の日本精工、1918年創業の東洋ベアリング製造(後のNTN)が先行しており、光洋精工はそれに続く国内軸受メーカーの一角として発足した。 [1][2][3][4][5]
- 光洋精工50年史(光洋精工・1969年)
- [1]創業者・池田善一郎は1896年(明治29年)香川県小豆島の生まれ、17歳で大阪に出て関西大学の前身の専門学校夜間部で設計を学んだ
- [2]池田善一郎は大正5年(1916年)ごろ大阪・南区東清水町に「光洋精工社」の看板を掲げベアリングの試作研究を始めた
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1921年(大正10年)1月 大阪市生野区猪飼野でボール・ベアリングの本格生産を開始(現在の創業期の起点)
- [4]日本精工は1916年創業の軸受メーカー
- [5]東洋ベアリング製造(後のNTN)の源流は1918年創業。ただし『東洋ベアリング製造株式会社』の社名採用は1937年で、1918年時点の社名ではない
光洋精工は技術開発に注力し、生野区中川町の新工場で1923年にはわが国で初めてのテーパー・ローラー・ベアリングの国産技術を完成させる。当時これは『ティムケン以外には生産は不可能』とまでいわれた難物で、光洋精工はこのジンクスを破って業界最高の定評を築いた。従来の浸炭鋼を輸入軸受鋼に切り替え、米国製の新鋭研削盤を他社に先駆けて導入し自社改造するなど材料と工作機械の両面で先行し、1927年には国産軸受生産のトップに立っていた。1935年1月18日には、官公庁需要や戦時体制への移行を背景に、池田善一郎の個人経営だった光洋精工社を資本金100万円の株式会社・光洋精工株式会社へ改組する。戦後は1949年5月に大阪・東京の両証券取引所、同年7月には名古屋証券取引所へも上場を果たし、独立系の軸受専業メーカーとして資本市場に足場を築いた。 [6][7][8][9]
- 光洋精工50年史(光洋精工・1969年)
- [6]1923年(大正12年)わが国で初めてのテーパー・ローラー・ベアリングの国産技術を完成
- [7]テーパー・ローラー・ベアリングは『ティムケン以外には生産は不可能』とされたが、光洋精工がこれを破り業界最高の定評を築いた
- [8]軸受鋼の採用と新鋭研削盤の導入・自社改造により、昭和2年(1927年)には国産軸受生産のトップに立っていた
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [9]1949年5月 大阪証券取引所・東京証券取引所に上場、同年7月 名古屋証券取引所に上場
光洋精工は軸受専業から出発したが、1960年4月、国分工場でステアリングの開発・試作を開始する。戦後の自動車産業が立ち上がるなか、軸受から派生する自動車部品領域へと足を踏み入れた決断だった。1961年8月にはミシン・工作機械部門を分離して光洋機械工業を設立し、軸受とステアリングという2つの柱に事業を集約した。独立系の自動車部品メーカーとして地歩を固めつつ拡大する路線は、この1960年代の選択と集中によって輪郭を得た。後年トヨタグループに組み込まれるまで、光洋精工は独立系軸受メーカーとしての立ち位置を保ち、自動車部品への傾斜を進めた。 [10][11][12]
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1960年4月 国分工場でステアリングの開発・試作を開始
- [11]1961年8月 ミシン・工作機械部門を分離し光洋機械工業を設立
- [12]1961年に分離して設立されたのは光洋機械工業(現ジェイテクトマシンシステム)
- 光洋精工50年史(光洋精工・1969年)
- [1]創業者・池田善一郎は1896年(明治29年)香川県小豆島の生まれ、17歳で大阪に出て関西大学の前身の専門学校夜間部で設計を学んだ
- [2]池田善一郎は大正5年(1916年)ごろ大阪・南区東清水町に「光洋精工社」の看板を掲げベアリングの試作研究を始めた
- [6]1923年(大正12年)わが国で初めてのテーパー・ローラー・ベアリングの国産技術を完成
- [7]テーパー・ローラー・ベアリングは『ティムケン以外には生産は不可能』とされたが、光洋精工がこれを破り業界最高の定評を築いた
- [8]軸受鋼の採用と新鋭研削盤の導入・自社改造により、昭和2年(1927年)には国産軸受生産のトップに立っていた
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1921年(大正10年)1月 大阪市生野区猪飼野でボール・ベアリングの本格生産を開始(現在の創業期の起点)
- [9]1949年5月 大阪証券取引所・東京証券取引所に上場、同年7月 名古屋証券取引所に上場
- [10]1960年4月 国分工場でステアリングの開発・試作を開始
- [11]1961年8月 ミシン・工作機械部門を分離し光洋機械工業を設立
- [12]1961年に分離して設立されたのは光洋機械工業(現ジェイテクトマシンシステム)
- [4]日本精工は1916年創業の軸受メーカー
- [5]東洋ベアリング製造(後のNTN)の源流は1918年創業。ただし『東洋ベアリング製造株式会社』の社名採用は1937年で、1918年時点の社名ではない
1941年の豊田工機 ── トヨタから分離独立した工作機械メーカー
豊田工機の設立は、創業者・豊田喜一郎の構想にさかのぼる。自動車の量産には専用工作機械が欠かせないが、外部に頼れば時間がかかる。自前でつくるほかなく、そのためには工機部を分離して独立会社にする必要があった。社史は、『工作機械の会社は儲からん会社であるが、トヨタ自動車工業としてぜひとも必要』だとして、喜一郎が採算の苦しさを承知で独立を決意したと記す。独立を早めたのは法制度で、1938年の工作機械製造事業法と先の自動車製造事業法(1936年公布)は同一会社が同時に適用を受けられず、工機部の切り出しが避けられなくなった。こうして1941年5月、豊田工機はトヨタ自動車工業から金属工作機械の生産を担って分離独立した。光洋精工が独立系として自発的に自動車部品へ進んだのに対し、豊田工機ははじめから親会社トヨタの生産計画に組み込まれた存在だった。 [13][14][15][16]
- 豊田工機二十年(豊田工機・1961年)
- [13]創業者・豊田喜一郎は専用工作機械の自給のため工機部を分離独立させる必要があると考え、採算の苦しさを承知で独立を決意した
- [14]1938年(昭和13年)制定の工作機械製造事業法と1936年公布の自動車製造事業法は同一会社が同時適用を受けられず、工機部の独立を早めた
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1941年5月 トヨタ自動車工業から金属工作機械の生産を目的として分離独立し豊田工機を設立
- [16]豊田工機はトヨタ自動車工業から分離独立した企業(豊田喜一郎が主導したグループ内企業)
豊田工機株式会社の創立総会は、1941年4月28日にトヨタ自動車工業本社で開かれた。公称資本金は800万円、うち半額400万円を払い込み、その3百万円はトヨタ自動車工業が現物出資した。残額は情勢を見て公募する方針で、これは豊田系会社として初の公募事例だった。取締役社長に豊田利三郎、副社長に豊田喜一郎、常務に菅隆俊が就き、5月1日から営業を開始する。工場用地は当初、挙母と知立の中間に求める案があったが、地盤の軟弱が機械精度に響くことを嫌って断念し、刈谷町長・大野一造のあっせんで刈谷の現在地57,252坪を坪当り2円83銭で取得して建設に入った。 [17][18][19]
- 豊田工機二十年(豊田工機・1961年)
- [17]1941年(昭和16年)4月28日 トヨタ自動車工業本社で創立総会、公称資本金800万円・払込400万円、うち300万円をトヨタ自動車工業が現物出資、5月1日営業開始
- [18]創立時の取締役社長に豊田利三郎、副社長に豊田喜一郎、常務に菅隆俊が就任
- [19]工場用地は挙母と知立の中間案を地盤理由で断念し、刈谷町長・大野一造のあっせんで刈谷の現在地57,252坪を坪当り2円83銭で取得
1968年9月、豊田工機は自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始する。工作機械メーカーだった豊田工機が自動車部品の製造に乗り出し、トヨタ車向けパワーステアリング供給の地位を確立した。1977年10月にはアメリカ・イリノイ州にTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONを設立し、米国での工作機械販売網を築き始める。トヨタ系の工作機械メーカーからトヨタ系のステアリングメーカーへ、豊田工機は事業の比重を移した。軸受という領域に踏み込まなかった豊田工機と、工作機械を手放した光洋精工は、1960〜70年代を通じて異なる事業領域を分担していた。 [20][21][22]
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [20]1968年9月 豊田工機が自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始
- [21]1977年10月 米国イリノイ州にTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONを設立
- [22]1977年設立のTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONは豊田工機の米国工作機械販売会社
- 豊田工機二十年(豊田工機・1961年)
- [13]創業者・豊田喜一郎は専用工作機械の自給のため工機部を分離独立させる必要があると考え、採算の苦しさを承知で独立を決意した
- [14]1938年(昭和13年)制定の工作機械製造事業法と1936年公布の自動車製造事業法は同一会社が同時適用を受けられず、工機部の独立を早めた
- [17]1941年(昭和16年)4月28日 トヨタ自動車工業本社で創立総会、公称資本金800万円・払込400万円、うち300万円をトヨタ自動車工業が現物出資、5月1日営業開始
- [18]創立時の取締役社長に豊田利三郎、副社長に豊田喜一郎、常務に菅隆俊が就任
- [19]工場用地は挙母と知立の中間案を地盤理由で断念し、刈谷町長・大野一造のあっせんで刈谷の現在地57,252坪を坪当り2円83銭で取得
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1941年5月 トヨタ自動車工業から金属工作機械の生産を目的として分離独立し豊田工機を設立
- [16]豊田工機はトヨタ自動車工業から分離独立した企業(豊田喜一郎が主導したグループ内企業)
- [20]1968年9月 豊田工機が自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始
- [21]1977年10月 米国イリノイ州にTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONを設立
- [22]1977年設立のTOYODA MACHINERY USA CORPORATIONは豊田工機の米国工作機械販売会社
1973年の海外進出から1979年の経営危機へ
光洋精工は1973年11月、米国サウスカロライナ州にAMERICAN KOYO CORPとの合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORPを設立し、米国現地生産を開始した。独立系軸受メーカーとしてグローバル展開を進める動きは、日本精工・東洋ベアリングに並ぶ国内3位級の軸受メーカーとしての存在感を反映していた。オイルショック後の円高局面を見据えて、需要地での生産体制を先行して整備する判断でもあり、後に続く欧州拠点展開の出発点ともなった。既存事業の効率化と新しい収益源の創出を両立させる動きが、1970年代の光洋精工の基調にあり、親会社を持たない独立系としてのスピード感で海外投資を次々と進めた。 [23][24]
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1973年11月 米国サウスカロライナ州にAMERICAN KOYO CORPとの合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORPを設立
- [24]日本精工・東洋ベアリング(NTN)と並ぶ国内3位級(3強の一角)の軸受メーカーという位置付け
だが光洋精工の独立路線は1970年代末に行き詰まる。1979年3月期(昭和54年3月期)に最終赤字68億8,200万円・累積損失88億6,900万円という大幅な赤字を計上し、全取締役がいったん辞任し、最大の取引先で大株主でもあったトヨタ自動車工業に支援を仰いだ。トヨタは社長以下5人の役員を送り込み、6月末の株主総会で池田巌社長は代表権のない会長へ退き、後任には『再建屋』の異名をとるトヨタ系の井村栄三・東海理化電機製作所社長が就いた。新体制は再建策『NL(ニューライト)80計画』を掲げ、旧徳島工場跡地など100億円超の資産売却や約1,200〜1,300人の人員削減、東京・高松工場の閉鎖といった減量経営を進めた。大阪発の独立系メーカーが事実上トヨタ傘下で再建を図るこの選択は、翌1980年の第三者割当増資によるトヨタの筆頭株主化へと直結した。 [25][26][27][28][29]
- 経済展望 51巻13号(経済展望社・1979年7月)
- [25]1979年3月期(昭和54年3月期)最終赤字68億8,200万円・累積損失88億6,900万円(銀行時評は前三月期88億6,900万円の赤字と記載)
- [26]全取締役がいったん辞任し、トヨタ自動車工業が社長以下5人の役員を派遣。1979年6月末の株主総会で池田巌社長は代表権のない会長へ退き、井村栄三(東海理化電機製作所社長)が後任社長に就任
- [27]再建策『NL(ニューライト)80計画』で期間損益の黒字化定着をめざし、旧徳島工場跡地など100億円超の資産売却・人員削減・東京/高松工場の閉鎖統合などの減量経営を実施
- 銀行時評 13巻9号(銀行時評社・1979年9月)
- [28]約1,200〜1,300人の人員削減(経済展望は前年度1,300人、銀行時評は前年1,200人近くと記載)
- [29]トヨタは1979年時点で光洋精工の最大ユーザーかつ大株主であり、翌1980年の第三者割当増資で筆頭株主となった(1979年の経営支援が1980年の系列化に直結)
一方の豊田工機は、トヨタ車の海外生産拡大に追随する形で米国・欧州へと拠点を展開した。両社は軸受(光洋)とステアリング・工作機械(豊田)という得意領域を分けつつも、後輪駆動から前輪駆動への転換や電動パワーステアリングの登場など、自動車技術の変化に応じて製品群を広げた。同じトヨタ系列の中で異なる出自を持つ2社が、1970年代から1980年代にかけて並走していた構図であり、この二頭体制が21世紀初頭まで続いた。北米・欧州の双方に独自の拠点網を別々に構えた構造が、合併後の一体運営の難しさに直結し、後年の改革課題の原型を形作った。 [30]
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [30]光洋精工は軸受、豊田工機はステアリング・工作機械を得意領域とし、トヨタ系列内で2社が並走した
- ジェイテクト 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1973年11月 米国サウスカロライナ州にAMERICAN KOYO CORPとの合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORPを設立
- [30]光洋精工は軸受、豊田工機はステアリング・工作機械を得意領域とし、トヨタ系列内で2社が並走した
- [24]日本精工・東洋ベアリング(NTN)と並ぶ国内3位級(3強の一角)の軸受メーカーという位置付け
- 経済展望 51巻13号(経済展望社・1979年7月)
- [25]1979年3月期(昭和54年3月期)最終赤字68億8,200万円・累積損失88億6,900万円(銀行時評は前三月期88億6,900万円の赤字と記載)
- [26]全取締役がいったん辞任し、トヨタ自動車工業が社長以下5人の役員を派遣。1979年6月末の株主総会で池田巌社長は代表権のない会長へ退き、井村栄三(東海理化電機製作所社長)が後任社長に就任
- [27]再建策『NL(ニューライト)80計画』で期間損益の黒字化定着をめざし、旧徳島工場跡地など100億円超の資産売却・人員削減・東京/高松工場の閉鎖統合などの減量経営を実施
- 銀行時評 13巻9号(銀行時評社・1979年9月)
- [28]約1,200〜1,300人の人員削減(経済展望は前年度1,300人、銀行時評は前年1,200人近くと記載)
- [29]トヨタは1979年時点で光洋精工の最大ユーザーかつ大株主であり、翌1980年の第三者割当増資で筆頭株主となった(1979年の経営支援が1980年の系列化に直結)