1924年に合資会社大阪金属工業所(現在のダイキン)が設立を設立。創業者は山田晃氏(当時40歳)であり、大阪砲兵工廠の工場長を歴任した人物であったが、官僚的な組織に嫌気がさして民間企業の創業を決意したという。
創業地は大阪市内(難波新川3丁目)であり、魔法瓶の工場跡地を取得。従業員数は15名以下であり、中小企業としてスタートした。創業時は飛行機用ラジエーターチューブの製造を開始。翌1925年には満洲向けの瞬発信管30万発の受注に成功し、主に金属製品の下請け加工に従事した。
創業時は航空機部品の製造を志向したが、日本政府が戦時体制を敷くにつれて軍需品の生産を強化。創業者の山田氏が大阪砲兵工廠の出身であり、工廠時代の元上司から軍需品の生産を依頼されたことで、軍需生産を強化した。
1931年には圧搾加工品を海軍に納入し、指定工場となった。創業間もないベンチャー企業が指定工場の認定を受けるのは異例のことで、技術力が認められる形となった。
1933年には陸軍指定工場となり、薬莢・信管を陸軍に納入。このため、戦前を通じてダイキンは「砲弾を中心とした軍需品を陸軍・海軍に納入する」ビジネスを展開し、関西で有力な軍需ベンチャー企業として業容を拡大した。
1933年の時点でダイキンは、人事労務の面で課題を抱えていた。社員が競合企業を立ち上げて、ダイキンの技術者・技術を引き抜き、顧客も奪還されることに悩まされていた。
そこで、ダイキンは組織体制を近代化するために、住友財閥の住友伸銅所との資本提携を締結することを決めた。当時のダイキンの企業規模に対して、住友財閥は比較できないほどの大企業であり、異例の資本提携となった。
ダイキンは住友から銅やアルミといった材料を仕入れており、両社ともに大阪に拠点を置いていたという縁があった。住友財閥としてダイキンの高い技術力に期待した。
ただし、資本政策において、ダイキン側は経営の支配権を譲らない姿勢をとり、住友財閥に条件提示した。具体的には、①株式の保有比率は、創業者の山田晃氏の持分に対して、住友財閥の持分が超過しないこと、②住友財閥は取締役の過半数をダイキンに派遣しないこと、③住友財閥はダイキンの経営方針に関与しないことを条件として提示している。
住友財閥はこの条件を承諾し、ダイキンは住友財閥との資本提携による株式会社設立を行った。
1933年時点のダイキンは従業員数約300名であったのに対して、1941年の時点で10,000名を突破。約7年間で30倍に急拡大を遂げた。
背景としては、軍需品に対するニーズが高まったことや、資金調達によって大規模な設備投資が可能になったことが挙げられる。1930年代後半は日本で海軍と陸軍が軍備拡張を図った時代であり、ダイキンは時代の波に乗る形となった。
すなわち、戦前にダイキンが中小企業から大企業へと発展する上で、住友財閥との資本提携は重要な決定事項であったといえる。
1933年にダイキンの技術顧問であった太田十男氏(退役海軍少将)は、米海軍において潜水艦に「フレオンガス(空調設備に必要なフロン)」が採用されたという新聞記事に着眼し、ダイキンに対してフロンの研究を依頼。ダイキンは、海軍からの依頼を受ける形でフロン式冷凍機の研究を開始した。この結果、1935年末にダイキンは国内初となるフロン生産に成功し、空調領域に新規参入した。
1936年には南海電鉄に向けて電車用冷房「ミフジレータ」を納入し、1938年には海軍の潜水艦向けに空調設備を納入。空調メーカーとして日本最先発となるとともに、空調機期と冷媒(フロンガス)の両方を生産する、金属加工業と化学プラントの両方を兼ね備える、世界的に見ても稀有な企業となった。
戦前におけるフロンは、潜水艦向けに納入された。1941年に淀川製作所においてフロンの生産を開始したが、当初は量産に苦戦。その後、1943年に年産30万トンの体制を確立するに至った。
戦時中のダイキンは軍需企業として発展して従業員数1.6万名の大企業となったが、1945年の終戦により軍需を喪失。従業員245名を残し、ほぼ全員にあたる1.6万名を解雇した。
その後、1946年から1948年にかけて、GHQ向けの納入や民需転換を志向して従業員数1100名程度まで規模を拡大するものの、も事業を軌道に乗せることができずに苦戦。1948年から1950年までに180〜250名規模の整理解雇を3回実施して企業の存続を図った。
1950年時点におけるダイキンの従業員数438名の体制であり、大規模な軍需メーカーとしての経営は行き詰まった。
1950年に勃発した朝鮮戦争を受けて、1951年に米軍は日本企業に対する砲弾の発注を決定。1952年5月頃にダイキンは「81ミリ迫撃砲弾・62万発」を合計22億円で受注する意向を表明した。
しかし、ダイキンは砲弾製造のための設備投資の資金として3億円が必要であったが、大阪銀行から5000万円の融資を確保したが、ダイキンは経営難(無配転落)に陥っていたため他の銀行からの資金調達は困難を極めた。このため、ダイキンは米軍調達本部に対して砲弾受注の半減(31万発)を依頼し、ダイキンとコマツの2社による折半受注に変更した。
ダイキンは借入調達を諦めて、住友金属工業との資本提携を決定。終戦の財閥解体により提携関係は途絶えていたが、改めて提携を復活することを決断した。3倍増資により約9000万円の資金調達を実施するとともに、提携後に住友銀行から2億円の借入を実施。合計3億円を確保し、砲弾製造のための設備投資の資金を捻出した。この資本提携によってダイキン創業家(山田家)の持分は希薄化し、のちに同族経営の路線と決別することにつながった。
1952年から1956年にかけて、ダイキンは砲弾の追加受注にも成功。1956年7月までに累計約199万発を受注し、累計受注額は約68億円に及んだ。このため、1950年代前半のダイキンは砲弾受注によって業容を拡大した。
1956年頃を境にして砲弾受注が一巡。それまで砲弾特需によって支えられたダイキンの売上は低迷に至った。そこでダイキンは「冷凍機・フロン」の生産に注力することで、砲弾から民需への業態転換を志向した。
すなわち、ダイキンとしては砲弾によって得た収益で、成長市場であった「冷凍機・フロン」に注力し事業転換を試みた。この転換により、ダイキンは空調メーカーとして認知されるに至った。
米軍が消耗品を日本で調達する方針で、迫撃砲弾を受注するというのだ。この機を逃して現状打開のチャンスはないと、山田社長は迫撃砲弾の受注に動いた。会社幹部のなかには、まだ途中で発注を打ち切られるのではといった危惧や、再軍備の是非をめぐって世論が紛糾するなか、砲弾生産は世間の批判を浴びるのではとの懸念から、受注には慎重論が強かった。だが、背に腹はかえられない、山田社長は万難を排して砲弾特需を受注せよと号令した。
1952年5月、15社が競い合った落札に大阪金属工業は81ミリ迫撃砲弾62万発、約22億円の落札候補として残った。だが、米軍からの前渡金はなく、約3億円と見込まれる設備・運転資金を工面しなければならない。
冷房の普及(年率+20%の市場成長)に対応して、ダイキンは家庭用エアコンの専門量産工場の新設を決定。1970年に滋賀工場を新設(年産20万台)して家電メーカーとの競合に対抗した。また、ダイキンは従来から得意だった業務用(国内シェア30%)に加えて、家庭用エアコンへの本格投資を開始した。
東京西ダイキン空調と北大阪ダイキン空調の2社を設立。エアコンの営業活動を本格化
オイルショックによる業績低迷により、累計約700名を解雇。余剰となった工場勤務の従業員はエアコンの販売会社に配属転換して対応
金岡工場内にエレクトロニクスの研究拠点設置。エレクトロニクスによる制御技術の研究を開始した。この研究によって、ダイキンはエアコン向けのインバータの内製化で世界最先発の企業に踊り出た。
本業が機械屋なので、機械技術者は多数いるが、十年前には電子屋は皆無で電子部品は専門メーカーから買っていました。買うのは別に構わないが、自社に電子技術の能力がないと電子関係と組み合わさった開発はできない。(略)勿論電子専門メーカーとタイアップすれば出来るが、それでは相手に主導権を奪われるおそれもある。そういうわけで、これからの新製品開発にはどうしても電子関係がからんでくるので、ここ数年来、私どもは電子技術者を獲得しようとしました。技術は人そのものであり、技術を持つ人が量と質においてどれだけいるかでその会社の技術レベルが決まってきます。
ソ連に軍需品としてフロン製品を輸出した疑いで、ダイキンの課長だった社員2名が逮捕。ダイキンの企業イメージが低下。役員4名を処分へ
オゾン層の破壊に配慮した冷媒を開発。量産体制を構築。化学事業の再建に大きく寄与する冷媒となった。ダイキンの空調機器と冷媒の一貫生産を持続させる原動力に
業績低迷を打破するために改革計画を立案。3期連続赤字の商品から撤退する方針を決定。これに基づき、翌1995年1月に組織改革を実施。生産・開発・販売の強化に即した組織に改編し、商品戦略会議を設置。また多角化を中止して、空調に集中投資を行う姿勢を打ち出した。
1995年11月にダイキンは中国現地のミシンメーカーと合弁会社を設立し、中国における空調機の製造販売を開始した。当初は現地の空調メーカーと合弁予定だったが、すでに米キャリア社が契約を締結しており、後発ダイキンが手を組む余地がなかった。このため、空調とは無関係のミシンメーカーを選定し、ミシンの販路を生かす形で中国における空調機の参入を図った。
ダイキンは中国で高価格帯のエアコンを販売するために、400社がひしめく競争の激しい家庭向けエアコンではなく、官公庁や銀行などのカスタマイズが必要な業務用空調の顧客開拓に集中した。1997年に政府機関が集積する北京に事務所を新設。技術セミナーの開催や、販売店開拓のための飛び込み営業、卸を介さない直売代理店の整備、空調システムの個別提案によって、ダイキンブランドの浸透を狙った。
特に販売網の充実に注力し、2007年までに「販売拠点32箇所」「生産拠点9箇所」「サービス拠点3箇所」を確保。中国の沿岸部のみならず、内陸部も(北京・西安など)もカバーする販売網を整えた。
ダイキンの営業方針は、中国市場では後発参入であったために、まだ開拓されていない高価格帯という市場しか残されていなかったという事情もあった。これらの戦略は、田谷野憲氏(2014年にダイキン副社長就任)が主導する形で行われた。
1999年から2003年にかけてダイキンは中国事業で「売上高利益率20%超」の高収益を達成。また、資金繰りの面では、手形決済ではなく前払いによるキャッシュフローを実現した。2003年時点で、中国における業務エアコンのシェア60〜70%を確保し、中国事業はダイキンの収益源に育った。ダイキンの中国事業の利益は非開示であるが、統括会社における開示(FY2015まで)によれば、売上高経常利益率で10%超の高収益を確保していた。
先進技術に対してカネを惜しまない市場が中国には確実にある。国や地方政府が威信をかけて作る建築物や、通信などのインフラ関係、外資系を含む全国チェーン店などだ。財政支出などから確実に予算がつく優良需要を抑えられることが高収益の秘訣
ダイキンは1973年に欧州のベルギーに現地法人を設立していたものの、本格的な展開には至らなかった。その後、1998年からダイキンはグローバル化のために、欧州における販売の強化を決定して本格投資を開始した。
なお、ダイキンは欧州における拠点新設について、現地の販売会社(代理店)を買収する方針をとった。この理由は、ゼロベースで販売網を構築するのは難しく、国ごとに気候などの条件が違うため、ニーズをとらえるためには知見が豊富な現地販売会社の買収が適当と判断したためであったという。
1998年にドイツに販売拠点を新設したことを皮切りに、2004年までにスペイン、ポーランド、イタリア、ギリシャ、イギリス、ポーランドに拠点を相次いで新設。2003年からはチェコにおける空調機の現地生産を開始した。
ダイキンが欧州の南部を中心に拠点を新設した理由は、空調のニーズが温暖な南部(地中海周辺)に多かったためであった。加えて、地球温暖化による気温上昇も、ダイキンの空調機器の販売にとって追い風となった。
空調事業においてグローバル包括提携契約に調印。前年に東芝が米国キャリア社と提携しており、キャリア社のグローバル展開に対抗する狙いがあった
グローバル大手空調機器メーカーのOYL社を約2460億円で買収。OYLは傘下のマッケイ社を通じて米国で事業展開をしており、ダイキンとしては北米を含めた海外展開に注力する方向へ
14期連続増収増益の記録が途絶へ
北米において住宅向け空調でトップシェア(約25%・台数ベース)を持つグッドマン社について、ダイキンは同社の買収検討を開始。2011年頃からグッドマン社の大株主であるPEファンド(Hellman & Friedman)と買収交渉を開始した。当初は2011年1月にダイキンは買収計画を公表し、買収規模は42億ドルが程度と噂されていた。
ところが、2010年3月に発生した東日本大震災への対応に集中するために、ダイキンはグッドマン社の買収交渉を一度停止した。その後、2012年からグッドマン社からの要請で買収交渉を再開したが、一度中断した交渉の再開という形であり、信頼関係の再構築に苦労したと言われている。
2012年8月にダイキンは米グッドマン社の買収を決定。グッドマンの買収による業績影響は、売上高1595億円・営業利益212億円であり、同社は高収益企業であった。買収価格は37億ドル(2960億円)であり、ダイキンとしては過去最大額を投じた買収を決断した。買収による投資回収に至る金は「8年」と設定した。
ダイキンの狙いは北米市場におけるエアコンのシェア確保であった。1990年代までにダイキンは北米進出を試みたものの、販路構築に苦戦して撤退した経緯があった。これは、北米市場における空調設備は「ダクト方式」であり、住宅設備向けの販路をダイキンが確保できなかったことが原因であった。ダイキンは2006年のOYL社の買収によって、北米事業をマッケイ社を通じて運営したが、売上規模は約700億円でシェアは限定的であった。
そこで、北米の有力メーカーであるグッドマンの買収により、全米6万店のディーラーを掌握することで、市場シェアを確保する狙いがあった。
ダイキン買収後のグッドマンの経営は苦戦した。FY2015からFY2018の4期連続で経常赤字に転落するなど、低収益の状況に陥った。
買収から約8年が経過したFY2020の時点でグッドマン社は売上高4465億円・経常赤字61億円となり、増収は果たしたものの、収益性の面で課題を残した。このため買収にかかった約3000億円の投資回収は困難を極めていると推察される。
新冷媒R32の本格展開を開始。第一弾として「うるさら7Rシリーズ」としてルームエアコン向けに展開