明治23年(1890年)に久保田権四郎氏が大阪市内において「大手鋳物(久保田鉄工所)」を個人創業した。久保田氏は当時19歳前後であり、独立志向が強かったことから、それまでの勤務先(奉公先)だった鋳物屋から独立して起業に至った。
かねてより奉公先では「看貫(台はかり)」に関する鋳物を製造していたことから、久保田氏は独立後も「看貫」の製造に従事。加えて、輸出用マッチ向けの製造機械(軸木製造)も手がけるなど、鋳鉄技術を生かして機械の製造も手がけた。
転機は、久保田氏が当時普及しつつあった水道に着眼したことに始まる。鋳鉄管は鋳物であるが、耐久性などが要求されるため、国産化が難しいとされていた。参考になる外国技術や書物は存在せず、手探りで生産技術を確立する必要があった。このため、同時期には、鉄管製造を目指して元海軍中将が起業した「日本鋳鉄合資会社」が設立から1年で倒産するなど、世間では水道管・ガス間の国産化は不可能と見られていた。
それでも、1893年から久保田権四郎氏は水道管・ガス管向けの鋳鉄管の開発を開始し、大阪砲兵工廠出身の技術者を雇うなどして、約7年をかけて生産技術を確立。1897年に「合わせ型斜吹鋳造法」を開発して鋳鉄管の製造に成功し、1900年には「鋳鉄管丸吹堅込法」を考案。数年がかりの開発を通じて鋳鉄管の大量生産に目処を立てた。
1908年(明治41年)にクボタは、大阪市南区(難波)において、敷地面積1.2万平方メートルの大規模工場として「船出町工場」を新設。戦前には「難波の久保田」として知られる存在となった。
国内でいち早く量産体制を整えたことで、水道の普及に合わせて販売量を拡大。明治末期における国内の水道普及率は8.4%と低かったこともあり、東京市や大阪市を始めに、全国各地の自治体に水道管を納入した。
この結果、1912年におけるクボタの鋳鉄管の生産高は4万トンに達し、国内における生産量シェアで約60%(1位)を確保した。
資金といって今日のように銀行などに頼れる時代ではありませんし、知人も顧客もなく、すべて独力独行でやりました。鋳鉄管から取り組んだのですが、もちろんその方面の技術に関しては、知る者もなく、経験者も皆無、書物などありようがない。ただ東京大阪に水道工事が始まって、水道管がポツポツ輸入されていた。それをこの目で見て、製法を考えては命懸けで作ってきたものです。
かく資本、技術なしで志したにも拘らず、東京方面で百万円の鉄管製造会社が技術的に行き詰まって潰れてしまったような中を、とにかくどうにか茨の道を越えてくることができました。
後々のことですが、輸入品に比べ得るものが当社でできてから、欧米へ行ってみましたが(大正8年と昭和2年の2回)、我々がこちらで探り探りやったものが決して向こうの技術なり製法なりに劣ったところのなかったことを発見して、いささか気を強くしました。(注:一部現代語訳)
大正時代を通じて水道の普及が一巡したことや、第一次世界大戦の勃発により鋳鉄管の原料である銑鉄の価格が冒頭。市場低迷により鋳鉄管の販売に苦戦したため、クボタは新事業として機械への参入を決断した。まずは工作機械である「旋盤」の生産を開始し、海軍の呉工廠などに納入した。
1917年には旋盤製造を本格化するために、船出町工場における機械と鋳鉄管の併用生産を停止。新設する尼崎工場および恩加島工場を「鋳鉄間専門」とし、船出町工場を「機械専門」にする生産体系の転換を実施した。
自動車の普及を予見し、1919年に久保田権四郎氏が出資して実用自動車製造(社長:久保田権四郎氏)を設立。1920年からクボタの船出町工場で三輪車の製造を開始した。販売面では、東京地区はヤナセ、大阪地区はクボタ本社が担当した。
ところが三輪車はカーブで横転しやすいといった品質不良が続出し、販売拡大には至らなかった。会社設立にあたって外国人技師を雇ったものの、すぐに退職したとこや、自動車を構成する部品の品質が安定しなかったため、月産50台の目標にも届かず、量産にも程遠い状態であった。
そこで、1923年には四輪車「リラー号」を発売するが、同年9月の関東大震災を機に都市圏を中心に国内でも自動車が徐々に普及し、品質の高いGMやフォード社による輸入自動車が支持を集めた。このため、品質に問題があるクボタの自動車生産は四輪車でも行き詰まった。
1926年には東京地区で自動車製造を試みていたが同じく経営難に陥っていたダット自動車商会と合併し、ダット自動車製造を設立。新会社の社長には久保田権四郎氏が社長に就任した。しかし、経営は好転せず、赤字が続く自動車事業の処遇が問題になった。
この結果、1931年に大手新興財閥であった日産財閥が自動車産業に着眼し、経営難に陥っていたダット自動車製造の買収を決定。クボタは日産系の戸畑鋳物に株式を売却し、自動車製造業から撤退に至った。
なお、日産財閥の下でダット自動車製造は再建され、数回の商号変更および合併を経て、日産自動車として経営された。このため、日産自動車の発足の系譜の一つにクボタが存在する形で歴史に記憶されている。
関東大震災という思いがけない天災があって、その後は米国の自動車が大量に輸入され、組み立て工場なども設けられるようになると、技術や経験の点からも到底太刀打ちはできず、漸次その経営の規模を縮小するのである。丁度その頃の久保田は、農耕用の小型エンジンを「クボタ発動機」として製造を始めた頃であったので、経営難にあえぐ実用自動車製造でも、その関係部品の下請けや、海軍の舟艇用エンジン制作などの仕事で、細々と命脈をつなぐ窮状であった。(略)
久保田の側では、実用自動車創立以来の赤字を引き継ぎ、熾烈な外国車との販売競争にも打ち勝つ早急な事業の好転は期待できないと判断した。そこで、この際、本来の業務に専念することとなり、同年8月末日に、所有株式の一切を戸畑鋳物に譲渡して、自動車製造事業から手をひたのである。「ダット自動車製造」はその後、戸畑鋳物の傘下に入り、昭和8年には石川島自動車製作所と合併して「自動車工業株式会社」となり、その後も曲折はあるが、現在の日産自動車株式会社の母体となったのである。
しかし、わが国自動車工業の史的展開を語る上では、実用自動車製造株式会社の社名は不滅であり、もしも久保田が手を引くことなく、さらにこの事業に執念を燃やしたと仮定するならば、満州事変以降の機運に乗じて、国産自動車工業の歴史を綴る数ページを変えたかもしれないと思われるのである。
鋳鉄管の国内シェア2位であった隅田川精鉄所(東京都向島区寺島・従業員数600名)を85万円で買収を決定。1926年頃の鋳鉄管のシェアは、1位クボタ42%、2位栗本鐵工所27%・3位隅田川精鉄所16%・4位釜石鉱山15%であり、買収によってクボタのシェアが50%を突破した。
なお、1930年に釜石鉱山は鋳鉄管製造から撤退したため、1930年代から1950年代にかけて、鋳鉄管の国内シェアは「クボタ69%・栗本鐵工所31%」で固定化されるに至った。
隅田川精鉄所はストライキや品質不良により経営難に陥っており、売却の理由となっていた。このため、クボタは経営再建を前提として買収を決定。再建には、クボタから小田原大造氏(当時36歳)が派遣され、再建に従事した。小田原氏は不良品在庫の処理や、社員への再建協力の要請(再建後の給料アップの保証)や能率改善により得た収益の即日支給などの知恵によりリーダーシップを発揮。隅田川精鉄所の生産性を尼崎工場に匹敵する水準に高め、無理と思われていた経営再建を完遂した。
覚悟はしてきたものの、恒常の惨状は予想をはるかに上回っていた。隅田川沿いの白■橋近くには、3回のストライキにその工場で首を切られたものがうようよしていた。当時の隅田長、寺島町といえば、社会主義者ら左翼の巣窟みたいなところで、ちょっと気を許すとそういう左傾分子がまたまた火をつけかねない情勢であった。勿論従業員の勤労意欲も低く、愛社精神などは薬にしたくてもない有様である。(略)
一体こんな工場がほんものになるだろうかと心痛のあまり、旅館にへたり込んでしまった。そして寝込んだままじっと考え込んでしまった。
戦時中に発動機の生産に従事しており、これらの生産設備を活かすために農機の製造を開始。ただし、農機の本格展開(市場拡大の契機は1961年の農業基本法公布以降)は1960年代であり、終戦直後から1950年代の時点では鋳鉄管が売上の大半を占めた。
1961年の農業基本法の交付を受けて、国内では農業の機械化が進行。クボタは農機の本格展開を決定し、1957年に刈取機、1960年に中型トラクターの生産を開始。1960年代を通じて農機の売上高を急拡大し、1970年前後に農業機械部門は全社売上高35%を占めるに至った。
クボタは国内における農機の普及が一巡したと判断し、米国などの海外における農機販売に注力する方針を決定。1972年にアメリカに現地法人を設立した。
なお、同時期に競合のヤンマーは、米の大手農機メーカーであるジョン・ディア社と提携(OEM供与)していたが、クボタは米国において単独進出を決定。ジョンディアが農家向けの大型農機を手がける一方、クボタは家庭向けの小型農機(家庭菜園・芝刈り用途)を市場投入することで、海外展開における差別化を図った。
今後、米国市場が伸び、それに少し遅れて東南アジア市場が増えていくことでしょう。小型機械は例えばフランスでは花畑、米国では家庭菜園や芝刈りに使われているのが現状です。しかし、小型トラクターのアタッチメント(付属機械装置)を開発していけば、大農場向けの需要をどんどん開拓できると思っています。大農場でも小回りのきく機械作業の分野がいくらでもある(略)
(注:日本国内は)もう稲作についての機械化はほとんど終わりましたね。ですから、あとは普及の問題と高性能機種の開発の問題とが残っていて、これは永久に続くわけですが、需要はやがてピークに達するはずです。機械が陳腐化して新陳代謝が起こり、代替需要が出てくる。そういう時期は遅くとも5年先にはきますね。それまでは良いとしても、その時までに我々としては海外市場を開拓していかなければならないと思っています。
スペインの農機生産に従事する現地法人「エブロ クボタ」の解散を決定。これに関連して特別損失約220億円の計上を決定。
1999年2月に公正取引委員会は、約30年間にわたって水道管で「ヤミカルテル」が存在したとし、鋳鉄管メーカー3社(クボタ・栗本鐵工所・日本鋳鉄管)を独占禁法の疑いで刑事告発した。当時の鋳鉄管の国内市場規模は約1,150億円であり、公正取引委員会は影響範囲が広く悪質であると判断し、異例となる告発に踏み切った。告発を受けて、すぐに東京地検特捜部による捜査が開始され、クボタを含む談合3社は家宅捜査を受けた。この事件は「ダクタイル鋳鉄管シェア配分カルテル事件」と呼ばれる。
調査によれば、1960年頃からカルテルが形成されたという。鋳鉄管は「クボタ・栗本鐵工所・日本鋳鉄管」の3社のみが手掛けていたが、日本鋳鉄管が経営危機に陥ったことを受けて、業界における協調(ヤミカルテル)がスタート。クボタ63%・栗本鐵工所27%・日本鋳鉄管10%というルールが形成され、不正なヤミカルテルとして約40年にわたって運用したという。
具体的には、各自治体(神戸市や東京都など)が入札を実施する際に、事前に3社が話し合い(談合)を実施。営業部長が都内に集まって方針を決定し、どの企業が落札するかを決定。細かい落札価格は、各社の営業社員が電話で調整を行なったとされる。これらの連携ノウハウは、各社の営業担当者によって継承されてきたという。
公正取引委員会の告発を受けて、クボタ・栗本鐵工所・日本鋳鉄管の3社について、営業担当者が合計10名逮捕された。このうちクボタからの逮捕者は「東京本社鉄管営業第1部長」「東京本社鉄管営業第2部長」「同第1部第1課長」であり、部課長クラスで逮捕者が発生した。
クボタでは水道管カルテルの責任を取り、三野重和(会長)および三井康平氏(社長)が引責辞任。代わりに、岡本修氏(元副社長)が会長に、土橋芳邦氏(元専務)が社長に就任し、会長を含む経営トップが交代した。
1999年12月に公正取引委員会は、ヤミカルテル3社に対して合計110億円の課徴金の納付を命令。クボタはこのうち70億7208万円の課徴金納付命令を受けた。
クボタは決定を不服として再審査を請求し、最高裁までもつれ込んだ。2009年に課徴金納付の審決となり、2010年には東京高裁で判決(請求棄却)、2012年には最高裁で決定(上告棄却)となり、クボタを含む3社は敗訴した。課徴金の確定を受けて、2009年3月期にクボタは特別損失72億円を「独禁法課徴金」として計上した。
リーダー格のクボタは、鋳型を高速回転させて鋳鉄管を流し込む技術を開発し、それが業界標準になったことから、他の2社はクボタから多くの技術供与を受けてきたという背景があり、このため、不正なカルテルもクボタを中心に続けられてきたと見られる。
その辺りの事情について、日本鋳鉄管の元幹部が「クボタの存在は非常に大きいわけですよ。反旗を翻してもクボタにはかなわない。生活の知恵というか、自分が生き残るための知恵の一つとして枠が自ずと決まってくる」(4日、NHKテレビ)と言えば、クボタの元副社長も「まあ、一言で言えば、1社独占でやれないこともない。販売面でも生産面でも。しかし、それをやったのでは・・・」(同)と、3社が強調することが業界として最も望ましい形だったと話している。
こうして、クボタなど3社は、毎年7月から8月にかけてそれぞれの東京の営業部長が都内に集まりカルテルの内容について確認し、自治体の入札が行われるたびに、今度は営業部の社員が電話で頻繁に連絡を取り合って落札価格などを決めていたと見られる。
なお、公取委の告発を受けて、東京地検特捜部は5日午後、独占禁止法の疑いで3社に対する家宅捜査を始めた模様。
2005年6月に毎日新聞は、クボタ神崎工場(兵庫県尼崎市)における建材工場で、周辺住民の間アスベスト疾患が多発している問題を報道した。すでに神崎工場では2001年にアスベスト製品のアスベスト製品(建材・水道管)の製造を停止していたが、被害を訴える住民団体から提訴された。
2006年3月期にクボタは特別損失として「石綿健康被害救済金等」を33億円、翌年度の2007年3月期には同29億円を計上。クボタは被害者への損害賠償を実施し、アスベスト関連で累計61億円の特損を計上した。
1999年に発覚した水道管カルテルを起点に、2000年代から2010年代にかけて、公共施設向けの事業に関して談合が相次いで発覚。クボタおよび子会社に対して、公正取引委員会の立ち入りが相次ぐ異常事態となった。
2012年3月にノルウェーの「農機向けインプルメント」メーカーであるKverneland ASA(クバランド社)を買収。同社はオスロ証券取引所に上場する老舗企業(1879年創業)であり、クボタは公開買い付けを通じて、クバランド社の株式78.95%を合計181億円(取得対価)で買収した。
クボタとしては農機向けインプルメントの販売強化により、欧州におけるトラクタの販売拡大を意図した
2016年7月に米国のGreat Plains Manufacturing, Inc.を買収。株式100%を442億円(取得対価)で買収した。GP社は農機向け「インプルメント」を展開して米国における販路を確保するメーカーであった。
このため、クボタとしては、製品ラインナップと販路を拡充することにより、北米における畑作市場における農機のシェア拡大を狙った。
2019年12月から2026年12月までの7ヵ年にわたり基幹システムの刷新を実施。6つの事業領域で、各社が異なるシステムを活用しており、これらを統合する作業が発生ししたことで、大型の更新プロジェクトとなった。
2020年3月にはSAP(SAP S/4HANAの導入)およびマイクロソフト(Microsoft Azureの活用が目的)と提携し、SAPからの紹介により日本IBMが支援する体制をとった。2026年までの基幹システムにかかる投資予定額は370億円を予定。
建機で競合するコマツはITを活用した事業(建機稼働率のチェック)を2000年代以降から本格化させたのに対して、クボタはIT投資で出遅れていた。このため、クボタによるIT投資の背景には、コマツへの対抗意識も存在すると推定される。
2008年にクボタはインドに現地法人を設立し、インドにおける販売を本格化。インドは北部の畑作、南部の稲作と市場が2分されており、クボタとしては得意な稲作が中心の南部から販売を拡大する計画であった。そこで、軽量化かつコンパクトなトラクターを市場に投入し、インド南部での販売拡大を狙った。
ところが、2010年代を通じてクボタはインド市場における販売に苦戦。2021年頃の時点でインドにおけるシェアは2%に低迷した。
販売に苦戦した要因は、クボタが現地のニーズを汲み取れなかった点にあった。インドではトラクターを「農作業以外の荷物の牽引機」としても利用しており、クボタのトラクターは牽引力のニーズを満たすことができなかった。加えて、販売量が少ないために現地生産(部品サプライチェーンの構築を含む)に踏み切れず、タイからトラクターを輸入しており、結果としてコスト競争の面でも競合に劣後した。
この結果、インドの農家は現地メーカー「マヒンドラ&マヒンドラ(M&M)」のトラクターを購入し、クボタはインドにおける農機の普及タイミングにおいて、シェア拡大のチャンスを逃した。なお、M&Mは2015年に三菱農機と提携して、日本国内に進出するなど、インドにとらわれずにグローバル展開を志向した。
2022年4月11日にEscorts社(エスコーツ社=インドの農機メーカー)の株式44.8%を取得。取得対価は1,950億円であり、クボタとしては大型買収となった。買収による「のれん」として1,390億円を計上した。
なお、エスコーツ社に対する出資比率は50%未満であるが、クボタはエスコー社に対する役員の派遣を実施。これにより、クボタはエスコーツを連結子会社化し、買収を完了した。なお、買収後のEscortsについて、最高経営責任者はEscorts社の創業家出身のNikhill Nanda氏が続投する体制をとった。
クボタによるエスコーツ社の買収は、機能と価格を抑えた汎用トラクター「ベーシックトラクター」における市場確保にあった。エスコーツ社は最低限の機能に絞り込んだ新興国向けのトラクターの製造開発に従事しており、クボタとしては自力進出を諦める選択をした。エスコーツ社の買収によって、2023年時点におけるクボタのインドにおけるシェアは約2%から約12%に拡大した。
クボタはエスコーつの買収後も積極投資を実施し、「2030年までにインドにおけるシェア24%」を確保する経営方針を発表した。ただし、インドでは「マヒンドラ&マヒンドラ」がトラクターでシェア1位(約40%・2023年時点)を確保しており、エスコーツは4位企業であった。
参入当初、インドの水田では稲の苗を手植えするのが一般的でした。クボタのトラクタを水田に投入して、代かきを行ったところ、農家の人々が「これは便利だ」という感想を述べたのが印象に残っています。「軽量コンパクトなトラクタを持ち込めば、かなりシェアを取れるはず」と意気揚々と挑んだものの、「そうは問屋が卸さない」という言葉通りに、販売は苦戦の連続でした。理由はトラクタの用途の違いや、桁違いに求められる耐久性の問題、そして何よりタイで生産してインドに持ち込むことによるコストの問題でした。
そのような状況から、インドでの現地生産を行う可能性を模索しました。しかしながら、現地で部品などのサプライチェーンを自前で構築するのは容易ではなく、紆余曲折していた時期がありました。これに対して、インドでサプライチェーンを持ち、比較的安価な製品を作ることができる当時のエスコーツLtd.と合弁会社を設立したことで、トラクタの販売台数ベースで世界最大の市場であるインド市場を攻略できる道筋が見えてきました。さらに、2022年に現エスコーツクボタLtd.を連結子会社化し、インドを起点としたグローバル戦略を加速させており、インドから欧州への輸出のチャンスが増加してきています。
参入して10年ほどはインドでのトラクタのシェアは数%にとどまっていましたが、2023年時点では、インド市場のシェアはクボタグループ全体で約12%になりました。今後は、2030年には両社合わせてインドのシェアを2倍にすることを目指すとともに、インド国内での事業にとどまらず、お欧米や新市場であるアフリカなどに向けて、価格の安いベーシックトラクタを輸出していくことで、海外展開をさらに加速する考えです。
すでに戦前の時点で、鋳鉄管はクボタと栗本鐵工所の2社による寡占。隅田川精鉄所の買収で、クボタはシェア約70%を確保し、ほぼ独占状態となった。少数企業による長年のシェア固定化により、談合の温床となってしまった。