2023/12 売上高30,207億円
2023/12 営業利益2,384億円
2023/12 従業員52,608人
創業1890年
創業地大阪市
創業者久保田権四郎

1890年に久保田権四郎が大阪で鋳物屋を創業し、7年の試行錯誤を経て鋳鉄管の量産技術を独力で確立した。鋳鉄管で国内シェア60%を獲得したのち、戦後は耕うん機・トラクターで農機メーカーへ転身し、1972年から北米・欧州へ小型農機の輸出を本格化させた。2012年のノルウェーKverneland買収、2022年のインドEscorts買収を経てグローバル農機大手に成長する一方、水道管カルテルの発覚やアスベスト問題にも直面し、コンプライアンス体制の再構築を迫られた。

歴史概略

第1期: 鋳鉄管と多角化の時代(1890〜1971)

鋳鉄管の国産化と市場独占

1890年に19歳の久保田権四郎が大阪で「大手鋳物(久保田鉄工所)」を個人創業した。外国技術や参考書が存在しない状態から鋳鉄管の製造に着手し、1897年に「合わせ型斜吹鋳造法」を開発、1900年には「鋳鉄管丸吹堅込法」で大量生産の目処を立てた。資本金百万円を投じた日本鋳鉄合資会社が1年で倒産するなか、資金も人脈もない鋳物職人が独力で国際水準の製法に到達した。1908年に大阪・難波に船出町工場を新設し、1912年には鋳鉄管の国内シェア60%を確保している。

1927年にはシェア2位の隅田川精鉄所を85万円で買収し、36歳の小田原大造を派遣して経営再建を完遂した。1930年に4位の釜石鉱山が鋳鉄管製造から撤退したことで、国内シェアは「クボタ69%・栗本鐵工所31%」の2社寡占に固定された。この構造は約40年後に発覚するヤミカルテルの温床ともなる。大正期には水道需要の一巡と原料高を受けて工作機械に参入し、1922年に小型発動機の生産を開始するなど、鋳鉄管を基盤とする多角経営の形が整えられた。

久保田鉄工八十年の歩みインベストメント 5(3)

自動車への参入と撤退

1919年に久保田権四郎は実用自動車製造を設立し自動車産業に参入した。三輪車「ゴルハム式三輪車」を船出町工場で製造したが、カーブでの横転が相次ぎ販売は拡大しなかった。1923年に四輪車「リラー号」で再起を図るも、関東大震災を契機にGMやフォードが日本市場に本格進出し、品質面で太刀打ちできなかった。鋳鉄管では独力で技術を確立した久保田であったが、多数の部品メーカーとの連携が不可欠な自動車では、部品サプライチェーンの未成熟という構造的制約を克服できなかった。

1926年にダット自動車商会と合併してダット自動車製造を設立したが経営は好転せず、1931年に日産財閥の戸畑鋳物へ全株式を譲渡して撤退した。このダット自動車製造がのちの日産自動車の源流の一つとなる。約12年にわたる赤字事業からの撤退後、クボタは本来の鋳鉄管と機械事業に資源を集中し、小型発動機を足がかりにのちの農機事業の基盤を築いていった。

久保田鉄工八十年の歩み

戦後の農機参入と国内市場の開拓

1947年に戦時中の発動機生産設備を活用して耕うん機の製造を開始し、農機事業に本格参入した。1961年の農業基本法公布を受けて国内の農業機械化が加速するなか、1957年に刈取機、1960年に中型トラクターの生産を開始した。1960年代を通じて農機部門の売上は急拡大し、1970年前後には農業機械部門が全社売上高の35%を占めるまでに成長した。1950年には隅田川精鉄所の再建で実績を上げた小田原大造が社長に就任し、創業者一族ではない経営体制への移行が進んだ。

鋳鉄管から機械、発動機、農機へという事業展開は、創業者・久保田権四郎が「鉄管一点張りではいけない」と述べた多角経営の方針に沿うものであった。1959年に権四郎が逝去したのち、クボタは鋳鉄管と農機の二本柱を軸とする総合機械メーカーとしての姿を固めていった。

久保田鉄工八十年の歩み有価証券報告書 沿革

第2期: 海外農機市場の開拓(1972〜2011)

北米・欧州への小型農機輸出

国内の稲作機械化がほぼ完了したと判断した廣慶太郎社長は、「遅くとも5年先には代替需要の時期がくる」として海外市場の開拓に舵を切った。1972年に米国にクボタトラクターCorp.を設立し、1974年にはクボタヨーロッパS.A.S.を設立して欧州にも拠点を構えた。1976年にはニューヨーク証券取引所に上場し、米国市場での認知度向上を図った。競合のヤンマーがジョン・ディアとのOEM提携で北米に参入したのに対し、クボタは自社ブランドでの単独進出を選択した。

クボタの参入戦略の核心は、ジョン・ディアが支配する大型農機市場を避け、家庭菜園や芝刈り用途の小型農機から市場に入る点にあった。国内で培った小型トラクターの技術を活かせるセグメントを選ぶことで、追加の開発投資を抑えながら販路を開拓する設計であった。1975年に筑波工場、1985年に堺臨海工場を新設して海外向け供給体制を整備し、北米の小型農機市場で着実にシェアを拡大した。

日経ビジネス 1976/10/25

水道管カルテルの発覚と経営トップの交代

1999年2月、公正取引委員会は約30年にわたる鋳鉄管のヤミカルテルを認定し、クボタ・栗本鐵工所・日本鋳鉄管の3社を刑事告発した。当時の鋳鉄管市場規模は約1150億円。クボタ63%・栗本27%・日本鋳鉄管10%というシェア配分ルールが設けられ、自治体の入札ごとに営業部長が都内に集まって落札企業を取り決めていた。東京地検特捜部の捜査でクボタの営業部課長3名を含む10名が逮捕された。

クボタには課徴金70億7208万円の納付が命じられ、三野重和会長・三井康平社長が引責辞任して経営トップが全面交代した。クボタは課徴金を不服として最高裁まで争ったが、2012年に上告棄却が確定し、2009年3月期に特別損失72億円を計上した。水道管カルテルの発覚後も、2007年にガス用ポリエチレン管や鋼矢板での立ち入り調査を受けるなど、コンプライアンス上の問題が連鎖的に表面化した。

公正取引情報 1999/2/8

アスベスト問題と事業再編

2005年6月、クボタ神崎工場(兵庫県尼崎市)の周辺住民にアスベスト疾患が多発している問題が報道された。2001年にアスベスト製品の製造は停止していたが、被害者への救済金として2006年3月期に33億円、翌年度に29億円の特別損失を計上し、累計61億円に達した。水道管カルテルとアスベスト問題という二つの負の遺産が2000年代前半に集中して表面化し、クボタは企業体質の改革を迫られた。

一方、海外事業では1994年にスペイン現地法人「エブロクボタ」の解散で特別損失約220億円を計上するなど、欧州展開における試行錯誤も続いた。この時期のクボタは、北米小型農機の堅調な成長と、国内の鋳鉄管事業を取り巻く不祥事・コンプライアンス問題という明暗が併存する構図にあった。2003年には非注力事業の分離縮小、2004年にはタイ関連会社の子会社化を進め、事業ポートフォリオの再編を進めた。

有価証券報告書 沿革

第3期: グローバル再編と経営基盤の刷新(2012〜現在)

欧州・北米での買収による農機事業の拡大

2012年3月にノルウェーの農機インプルメントメーカーKverneland ASAを181億円で買収し、欧州における製品ラインナップを強化した。Kvernelandは1879年創業の老舗でオスロ証券取引所に上場しており、クボタはトラクターとインプルメントの組み合わせ販売で欧州市場の開拓を加速した。2016年7月には米国のGreat Plains Manufacturing, Inc.を442億円で買収し、北米の畑作市場における販路を拡充した。

一連の買収は、北米では小型農機から畑作向けへの領域拡大、欧州ではインプルメントを切り口としたトラクター販売の促進という戦略に沿うものであった。2013年にはニューヨーク証券取引所の上場を廃止しており、1976年の上場から37年を経て米国での資金調達の必要性が低下したことを示している。

有価証券報告書 沿革

インドEscorts買収と新興国戦略の転換

2008年にインドに現地法人を設立したクボタは、軽量コンパクトなトラクターで南部の稲作市場から浸透を図った。しかしインドではトラクターを荷物の牽引機としても使用しており、クボタの製品は牽引力のニーズに合致しなかった。タイからの輸入によるコスト高も重なり、約14年にわたってシェアは2%に低迷した。北尾裕一社長は「軽量コンパクトなトラクタを持ち込めばシェアを取れるはずと意気揚々と挑んだが、そうは問屋が卸さなかった」と振り返っている。

2022年4月にクボタはインドの農機メーカーEscorts社の株式44.8%を1950億円で取得し、連結子会社化した。Escortsの買収でシェアは2%から約12%に拡大し、2030年にシェア24%を目指す経営目標を設定した。2024年にはインド現地法人3社を統合し、インドを拠点とした欧州・アフリカ向けベーシックトラクターの輸出戦略を打ち出している。先進国向け製品をそのまま新興国に持ち込む手法の限界を経て、現地メーカー買収による市場参入という転換を遂げた。

クボタ 統合報告書 2024

基幹システム刷新と経営基盤の再構築

クボタは6つの事業領域で異なる基幹システムを個別運用しており、社内では競合のコマツに対して「IT基盤で20年遅れている」との認識が共有されていた。2019年12月から2026年12月までの7ヵ年にわたる基幹システム刷新プロジェクトを始動し、投資予定額は370億円に達した。2020年にはSAP S/4HANAとMicrosoft Azureを基盤に選定し、日本IBMを支援パートナーとする体制を構築した。

370億円という投資規模は、月平均400名前後の外部人員が常駐する大型プロジェクトに相当する。段階的な更新ではなく7ヵ年の一括刷新を選択した判断は、コマツとの格差を一挙に取り戻す投資として設計されたものであった。農機のグローバル展開と水環境インフラ事業の拡大が進むなか、事業横断的な経営情報の統合は、買収で拡大したグループ全体の経営管理にとって不可欠な基盤整備であった。

日経産業新聞 2022/12/9

重要な意思決定

18902
久保田鉄工所を創業

鋳鉄管の国産化は、資本金百万円を投じた企業ですら設立1年で頓挫した難題であった。久保田権四郎氏は資金も技術書も人脈もない状態から、7年をかけて量産技術を独力で確立し、1912年に国内シェア60%を確保している。この先行者利得は単なる技術優位にとどまらない。クボタが開発した鋳造法が業界標準として定着したことで、後発メーカーはクボタから技術供与を受けて参入する構造が生まれ、鋳鉄管市場における少数企業の寡占体制と協調関係の起点となった。

191911
実用自動車製造を設立・自動車に参入

鋳鉄管では外国技術なしに7年かけて量産技術を確立した久保田権四郎が、自動車では約12年を費やしても品質問題を解決できなかった。鋳鉄管は自社内で完結する鋳造技術が競争力の源泉であったのに対し、自動車は多数の部品メーカーとの連携が不可欠であり、部品サプライチェーンが未成熟な当時の日本では個社の技術力だけでは対応できなかった。クボタが手放した事業が日産自動車の源流となった点は、撤退判断と買い手の選択が産業史を規定した事例といえる。

19272
隅田川精鉄所を買収

1926年時点で4社に分散していた鋳鉄管市場は、隅田川精鉄所の買収(1927年)と釜石鉱山の撤退(1930年)を経て、クボタ69%・栗本鐵工所31%の2社寡占に固定された。自治体向け入札という販売形態のもとで2社のみのシェアが長期固定化された構造は、のちに約40年にわたるヤミカルテルの温床となった。一方、小田原大造氏による経営再建の実績は、のちに同氏が社長に就任する道筋をつけた人事面での帰結でもあった。

19726
欧米進出を本格化・トラクター量産

北米農機市場はジョン・ディアを筆頭とする大型機メーカーが支配しており、ヤンマーはOEM提携で参入したのに対し、クボタは単独進出かつ自社ブランドを選んだ。競合が手薄な家庭向け小型農機という隙間市場から参入し、大手との直接競合を構造的に回避した点がこの戦略の核心にある。国内で培った小型トラクターの技術を活かせるセグメントを選択したことで、製品開発の追加投資を抑えながら海外販路を開拓する設計であった。

19993
約30年来の水道管カルテルが発覚

鋳鉄管市場は3社寡占であったが、カルテル維持の原動力は単なる談合の慣行ではなく、クボタの鋳造技術が業界標準となり他の2社が技術供与を受ける依存関係にあった。この技術的主従関係がシェア配分を「自ずと決まる」ものとし、約40年にわたる不正を構造的に安定させた。1890年に久保田権四郎が独力で確立した鋳鉄管の量産技術は、シェア60%の獲得のみならず、一世紀後に発覚するカルテル構造の起点にもなっていた。

201912
基幹システムの刷新開始

コマツが2000年代から建機稼働率のモニタリングなどIT活用を本格化させた一方、クボタは6事業領域で異なるシステムを個別運用する状態が続いていた。370億円・7ヵ年という投資規模は、月平均400名前後の外部人員が常駐する大型プロジェクトに相当する。コマツとの「20年の遅れ」を認識したうえで、SAPとマイクロソフトを基盤に全社統合を一括で進める判断は、段階的な更新ではなく一挙に世代交代を図る設計であった。

20224
インドEscortsを買収

クボタは2008年のインド進出から14年間、自社製品による市場浸透に苦戦し、シェア2%にとどまった。インドの農家がトラクターに求めた牽引力と低価格は、クボタが得意とする軽量コンパクトな製品設計と根本的に合致せず、タイからの輸入体制ではコスト競争力も確保できなかった。最終的にEscorts社の買収で現地の製品・サプライチェーン・顧客基盤を丸ごと取得したことは、自前主義の限界を認めたうえでの市場参入手法の転換であった。

出所