日立建機の歴史は、終戦直後の1948年に日立製作所が「建設省からパワーショベル2台」を受注し、翌1949年5月に機械式ショベル「U05」を開発および納入したことに始まる。
受注に至った背景は、終戦直後に活発化した政府(建設省)による河川改修にある。終戦後の国内では国土復興のための建設機械のニーズが高まり、建設省としては土木工事における機械化を推進した。その一環として、日立製作所に河川改修で利用する建設機械として「ショベル」を発注するに至った。
一方、日立製作所においては軍需に変わる民需製品を積極化していたことや、日立社内においては車両および機械(起重機・戦車)に関する生産・開発ノウハウが存在しており、建設機械への新規参入が可能と判断。建設省からショベルの受注に至った。ショベルの設計段階では、日立製作所の輸送機設計課、生産を同鉱山機械課が担当し、課をまたいだ生産開発の体制がとられた。
1949年に日立製作所は機械式ショベル「U05」を完成し、建設省木曽川工事事務所に納入した。「U05」は河川の土木改修に投入され、日立製作所は「河川改修」のためのショベル製造で実績を得た。
U05により信頼を確保したことで、日立製作所は建設機械の量産を決定。1950年9月に量産ショベルとして「U06」を開発。亀戸工場(東京)における生産を本格化した。
1950年代を通じて、日本政府は建設業における機械化を推進。公共事業における建設機械の利用を必須化(すなわち入札条件)に設定したことで、土木工事向けの建機の需要が増大。日立製作所の建機部門は、建機の需要増加に合わせて生産数を拡大した。
全国各地の土木現場で、過酷な状況で使用される建機事業について、アフターサービスの拡充が必要と判断。修理・部品販売を行うために1955年12月に「日立建設機械サービス株式会社」を設立した。
1963年までに「名古屋・大阪・東京・福岡・仙台・四国・旭川・富山・広島」の各地域にサービスセンターを開設し、直営のサービス網を確保した。
日立製作所の建機事業では、すでに「日立建設機械サービス」で展開していたアフターサビスに加えて、新規販売でも全国展開を強化することを決定。1962年から1964年かけて「大阪・東京・九州・東北・中部・北海道」の6つの地域について、それぞれ販売会社を設立した。
別会社として運営した理由は、建機ユーザーが中小企業などにもおよび、設備投資負担の観点から「割賦販売」が必要になったためである。すなわち、販売面でも相応の資金力が必要となり、日立製作所は6つの販社を通じて「分割払いで建機を販売」する体制をとった。
この結果、1970年10月時点において、建機の新車販売の80%が割賦販売であり、日立建機が販売ごとに売掛債権を約2年保持。日立製作所の債務保証による金融機関からの借入額は累計134億円におよび、PL面では金利負担、BS面では自己資本比率が低下し、財務体質を圧迫した。
販社の拡充により、アフターサービスと販売会社の共存問題が発生した。そこで、1965年4月に「日立建機サービス株式会社」と「全国6つの販社」を合併し、日立建機株式会社を設立した。
日立建機は発足時は日立製作所が親会社であり販売子会社として運営。建機の製造部門については、日立製作所の「建設機械製造部」が引き続き担当し、1965年の時点では販売のみ分離した。
(旧)建機の資金調達の歴史は苦難の連続であった。昭和40年4月(旧)建機発足後、業績は低迷すること久しく、また割賦販売資金調達のための借入金は増加を続け、45年10月合併時には総額134公演に達した。借入金もプライムレートに対し0.75%ないし1.25%も高い水準であり、また過半数の借入が日立製作所の債務保証によるという状態であった。
国内初の油圧ショベルを国産技術によって開発。故障が少ないショベルとして、国内で支持を獲得
トラクターへの参入のため1961年に土浦に工場用地を取得。しかし、直後の経済不況により新設を延期し、1965年から稼働した。当初はトラクターの生産に従事したが、先発メーカー(クボタ・ヤンマー・井関・佐藤造機など)が存在しており販売拡大に苦戦した。
そこで、日立製作所はトラクターの生産を諦め、1966年に土浦工場で「UH06」の生産を開始。当初計画の農機ではなく、需要が増大していた建機の工場として活用した。
トラクターで技術提携の関係にあった米ジョンディアに対して、建機に関してはOEMによる日立からの輸出を開始。UH06の輸出を本格化。以後、建機の米国展開はジョン・ディア向けのOEMが主流となった。
1969年に日立製作所は建設機械の製造販売の集約を決定。販売部門の法人「旧日立建機株式会社」と、製造部門の法人「日立建設機械製造」が合併することで、1970年10月1日に日立建機株式会社を設立した。厳密には、日立建設機械製(1969年設立)が、旧日立建機(1965年設立)を吸収合併し、建製が商号を日立建機(1970年10月発足)に変更する形をとった。
設立時の大株主は不明だが、1981年の上場直前の段階で株主は日立製作所(株式保有比率98.7%)・中央商事(同1.3%)の2法人であり、実質的に日立の完全子会社に近い形態であった。
日立建機の設立時点における設備は「生産拠点3箇所・支店12箇所・営業所45箇所・出張所27箇所・サービスセンター21箇所」であり、製造販売の一体化が実現した。
合併に至った理由は、建機市場における競争激化にある。日立の主力製品であった「機械式ショベル」については「油圧式」の台頭によってコマツとの競争にさらされ、新規事業の農機では「クボタ・ヤンマー」といった先発企業の牙城を崩せずにいた。
そこで、日立製作所は建設機械部門の機動的な運営を目的として製造および販売を統合し、日立建機という1つの会社で運営する方針に至った。
1970年まで日立建機として「製造販売」が一体的に運営できなかった理由は、会計上の理由による。
これは、建機製造における工場用地について、首都圏の一等地(足立工場)や、土浦工場広大な土地を含んでおり、さらに簿価ベースでは地価が相対的に安い時期に取得していたことが問題になった。これを合併時に時価ベースで評価した場合、バランスさせるために資本調達ないし借入調達が必要であるが、すでに旧日立建機は割賦販売により財務体質が悪化する問題に直面していた。すなわち、これ以上、自己資本比率を悪化させることは難しかった。
当時は、簿価で譲渡を実現できる特例もあり、日立建機としては税法上の恩典・制約である「譲渡資産 = 払込資本金 + 譲渡負債」を満たす道を模索した。譲渡負債に親会社(日立製作所)の負債がないことが条件であったため、金融機関4行(興銀・三和・富士・第一)から合計64億円の借入を実施して、日立製作所からの借入を解消。この結果、簿価ベースでの合併を実現し、1970年の日立建機の発足に至った。
1970年10月の日立建機の発足時点において、総資産596億円のうち売掛債権の占める割合が47%に達した。売掛のための借入も多く自己資本比率は6.4%であり、厳しい財務体質の状況で経営をスタートした。
日立建機は発足直後から業績が低迷。半期ベースの業績では、1971年9月期および1972年3月期の2期連続で経常赤字(累計28.1億円)に転落。1971年度末の自己資本比率は1.8%に低迷し、債務超過寸前の段階に達した。
情勢には厳しいものがあった。ショベルを主体とする足立工場においては、油圧ショベルが業界首位を競うまでに成長していたものの、機械式ショベルは需要構造の変化によって衰退する傾向にあった。さらに、土浦工場の主力製品であるトラクタは、営業の必死の努力にも関わらず販売実績が目標に程遠く、全工場あげて製品力の向上と原価低減に取り組み、苦闘を続けていた。
昭和45年(注:1970年)に入ると、わが国は輸出の鈍化や金融引き締めの浸透などにより景気が屈折点に差し掛かり、市場競争は各メーカーの新製品開発と相まって一段と熾烈化してきた。
このような情勢の中で業容を伸展させていくためには、当初もくろんだ建設機械の製造・販売・サービス部門の一体化が強く望まれた。ここにおいて新たに一体化を法的に検討した結果、すでに新しく船出した建製(注:日立建設機械製造)は44年下期決算を終了しており、この会社と(旧)建機の合併は問題ないことが判明したので、建製は設立後わずか11ヶ月という短期間の存在ではあったが、(旧)建機を吸収合併し、新「日立建機株式会社」として発足することとなった。
日立建機は発足直後から経営状況が悪化。そこで、販売拡大に苦戦したトラクターについて生産中止を決定。1973年にはエンジンの製造も中止し、建機に事業を絞り込んだ
1970年の日立建機の発足時点では、生産において土浦工場(茨城県土浦市)と足立工場(東京都足立区大谷田)の2拠点で運営した。
ところが、足立工場に関しては、JR常磐線の亀有駅から約1kmの距離に存在しており、周囲は宅地化が進行していた。このため、足立工場では増産のための拡張の余地に乏しく、土浦工場で生産拡張を行う方針が決まった。
そこで、1972年8月に日立建機は東京都内の足立工場の閉鎖を発表し、国内の生産を土浦工場に集約する方針を発表した。これにより土浦工場では部品から組み立てまでの建機の一貫体制を樹立でき、生産性を改善効果が期待された。
1974年11月に日立建機は足立工場を閉鎖。12万平方メートルにおよぶ工場跡地を日本住宅公団に売却し、公団によって大谷田団地(全11棟の団地)として再開発された。
一方、1974年5月に土浦工場の増設および合理化(土浦新工場の新設)の投資を完了。投資額は約135億円におよび、足立工場の工場跡地売却益によって投資費用を捻出した。
1981年に日立建機は株式を上場。上場後も日立製作所は日立建機の株式69.7%(1982年3月期)を保有し、子会社として運営した。
1980年代を通じて日立建機は主力製品である油圧ショベルの販売拡大のため、先進国(欧州・米州)における輸出および現地生産を本格化した。ただし、日立建機としては現地で売り切る販売網を持たず、投資体力も伴わなかったことから、現地の建機大手メーカーと提携する道を選択した。
1983年に日立建機は米国の大手農機メーカー「ジョン・ディア社」と提携し、油圧ショベルのOEM供給(日本からの輸出)を開始した。ディア社の本業は農機であり、多角事業としてショベルを展開していたため、日立建機がOEMでショベルを提供することにより、ディアの販路を通じて販売量を確保することが可能となった。
また、貿易摩擦を回避するために、1988年に日立建機とディアは、米国内における油圧ショベルの現地生産の合弁会社の設立で合意。ディア日立コンストラクションマシナリー Corp.を設立して、建機の米国での現地生産を開始した。
1986年に日立建機はイタリアの大手自動車メーカー「フィアット社」と提携し、同社が展開する油圧ショベルを供給することを決定した。
また、日本と欧州における貿易摩擦を回避するために、欧州での現地生産を決定。1986年に日立建機とオランダのフィアット・アリス社が合弁会社を設立し、オランダにおける建機の現地生産を決定した。
1980年代を通じた米ディアおよび欧フィアットとの提携によるOEM供給は、日立建機における海外展開(輸出・現地生産の販売)における販売量の確保に寄与した。この結果、2000年頃までに海外向けの販売高が1300億円に到達した。
その一方で、OEMによる展開で「川下(保守・サービス)」への展開が契約上困難なことや、日立ブランドが浸透しないことによる販売価格の問題もあり、日立建機のグローバル展開におけるボトルネックとなってしまった。
このため、2000年代以降、日立建機は海外展開については自力進出を基本方針とし、アライアンスの順次解消を実施。2001年に日立建機は欧州市場においてフィアットとの提携解消を決定し、2003年から独自販路の構築による進出に変更。2021年には米州市場についてもディアとの提携解消を決定し、伊藤忠の支援を受けつつ自力での販路構築を開始した。
海外の各地域にいかにして溶け込むか、生産体制や販売網を築くのに投資がいくらかかるのかを考えたとき、当社では現地の有力企業との提携を基本にしました。(略)
私が輸出部長になった時、輸出部門の規模は20億円ほどでしかなかった。それが20年余りの間に、現地生産分を含めると1,300億円にまで伸びた。
日立建機は欧州における自力進出を決定し、2001年にイタリアのフィアット社との提携解消を決定。フィアットはコベルコとの提携を継続することで、油圧ショベルの製品供給を確保したため、日立建機は合弁解消に至った。ただし、混乱を避けるために、実際の提携解消は2003年となった。
2001年に日立建機は欧州への単独進出のために、組織面において欧州事業推進本部を設立。2002年にはオランダにアムステルダム工場を新設し、建機の現地生産体制を整えた。販売面においては約60億円を投資して、現地のディーラーを確保。製品面においては、古河機械と提携することで不足する製品ラインナップを補填した。
この結果、2000年代を通じて日立建機は自力進出により欧州事業における販売高を拡大。リーマンショック直前の2007年度において、欧州事業で過去最高となる1672億円の売上高を計上した。
2021年6月の日立製作所の株主総会において、東原会長は上場子会社の日立建機(日立製作所の保有比率51.42%)に関して「売却もしくは取得」の方針を2021年度内に結論づけることを明言した。
日立製作所としては親子上場の出資形態を見直しており、日立化成(2020年4月売却実施)および日立金属(2021年4月売却発表)と同様に、相応の企業価値をもつ「日立建機」の扱いが焦点となった。
これら3社(日立化成・日立金属・日立建機)は日立製作所の上場子会社の中でも。売上および利益の規模が大きく、日立御三家として特別視された子会社であった。
2022年1月日立製作所は日立建機の株式約26%の売却を発表。売却後の日立製作所による日立建機の株式保有比率は25.4%であり、懸案であった親子上場の関係を解消した。
売却先は伊藤忠・日本産業パートナーの共同出資会社「HCJI HD合同会社」であり、売却後の日立建機の筆頭株主はHCJI(26.00%)、第2の大株主は日立製作所(25.42%)の資本構成をとった。ただし、HCJIは伊藤忠と日本産業パートナーの折半出資である。
日立製作所としては日立建機への出資を維持しつつも子会社ではなくなることから、持分法利益(持分法による投資損益)を確保する関係会社として位置付けた。これにより、日立製作所は日立建機への出資を維持しつつも、上場子会社の解消を実施した。
日立建機の創業は何年か?簡単なようで、実は難しい問題である。
法人としての「日立建機」の会社設立は、1965年の販売会社としての設立(旧・日立建機)、1970年の製販統合としての設立(現・日立建機)の2段階に分かれるが、その原点は1949年の建設省向けショベル納入にある。これについても、受注タイミンングでいけば1948年になる。
色々候補はあるものの、個人的には「法人設立は製販統合の1970年」「創業年はショベル開発年の1949年」と理解している。大企業の新規事業として生まれ、事後的に別会社として運営された事業にありがちな、創業の定義(すなわち、誰がいつ創業したか)の難しさがある。