| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 184億円 | -8億円 | -4.4% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 354億円 | -18億円 | -5.1% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 420億円 | 19億円 | 4.5% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 486億円 | 14億円 | 2.8% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 444億円 | 8億円 | 1.8% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 487億円 | -1億円 | -0.3% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 565億円 | 4億円 | 0.7% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 724億円 | 7億円 | 0.9% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 962億円 | 40億円 | 4.1% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,146億円 | 52億円 | 4.5% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,219億円 | 41億円 | 3.3% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,228億円 | 34億円 | 2.7% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,091億円 | 19億円 | 1.7% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,139億円 | 11億円 | 0.9% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,331億円 | 20億円 | 1.5% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,555億円 | 0億円 | 0.0% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,377億円 | -9億円 | -0.4% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,385億円 | -21億円 | -0.9% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,710億円 | 39億円 | 1.4% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,819億円 | 22億円 | 0.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,078億円 | 33億円 | 1.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,014億円 | 15億円 | 0.4% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,918億円 | 18億円 | 0.6% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,201億円 | 15億円 | 0.4% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,288億円 | -31億円 | -1.0% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,987億円 | -176億円 | -5.9% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,284億円 | 38億円 | 1.1% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,021億円 | 124億円 | 3.0% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,480億円 | 173億円 | 3.8% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,264億円 | 242億円 | 3.8% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,564億円 | 365億円 | 4.8% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,405億円 | 559億円 | 5.9% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,441億円 | 182億円 | 2.4% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,057億円 | 40億円 | 0.6% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,737億円 | 110億円 | 1.4% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,171億円 | 230億円 | 2.8% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,723億円 | 234億円 | 3.0% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,029億円 | 289億円 | 3.5% |
| 2015/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 8,157億円 | 260億円 | 3.1% |
| 2016/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,583億円 | 88億円 | 1.1% |
| 2017/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 7,539億円 | 80億円 | 1.0% |
| 2018/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 9,591億円 | 600億円 | 6.2% |
| 2019/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 10,337億円 | 685億円 | 6.6% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 9,313億円 | 411億円 | 4.4% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 8,133億円 | 103億円 | 1.2% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 10,249億円 | 758億円 | 7.3% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 12,649億円 | 701億円 | 5.5% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 14,059億円 | 932億円 | 6.6% |
日立建機の原点は1948年に建設省から受注したパワーショベルわずか2台に遡る。日立製作所が建機に参入できた背景には、戦時中に車両・起重機・戦車の設計製造で蓄積した重機械技術の存在がある。軍需技術の民需転換という戦後の日本企業に共通する構造の中で、政府による土木工事の機械化推進という需要側の条件と、重機械メーカーの技術転用可能性という供給側の条件が合致した。建設省の発注が事業化の契機を与え、入札条件としての機械化推進が需要拡大を保証した構造である。
1948年の終戦直後、日本政府は戦災からの国土復興を急務とし、河川改修をはじめとする公共土木工事を本格化させた。建設省は土木工事における機械化を推進しており、河川改修に必要な建設機械として国内の重機械メーカーにパワーショベルの製造を打診した。1948年に建設省は日立製作所に対してパワーショベル2台を発注し、これが日立製作所の建設機械事業への参入の端緒となった。当時の日本国内にはショベルの量産実績を持つメーカーが存在せず、米国製の建機に依存する状況にあった。
一方、日立製作所は終戦にともない軍需生産からの民需転換を迫られていた。同社は戦時中に車両・起重機・戦車といった機械類の設計・製造に従事しており、重機械の開発に関する技術的蓄積を保有していた。ショベルの設計は輸送機設計課が、生産は鉱山機械課が担当する課横断の体制をとり、既存の技術資源を建設機械に転用する形で開発を進めた。軍需で培った金属加工と機械設計の知見が、建設機械への参入を技術的に可能にした基盤であった。
1949年5月、日立製作所は機械式ショベル「U05」を完成させ、建設省木曽川工事事務所に納入した。U05は河川の土木改修に投入され、国産ショベルとしての稼働実績を獲得した。建設省からの受注を通じて建設機械の製造に関する技術的知見と運用上の課題を把握し、日立製作所は建設機械の量産に向けた事業判断の基盤を得た。
U05の納入実績を踏まえ、日立製作所は建設機械の量産を決定した。1950年9月に量産型ショベル「U06」を開発し、亀戸工場(東京)において生産を本格化させた。U05が試作機的な位置づけであったのに対し、U06は量産を前提とした設計であり、日立製作所の建設機械事業が開発段階から事業段階へと移行したことを意味した。
1950年代を通じて日本政府は建設業における機械化を推進し、公共事業の入札において建設機械の保有を条件とする施策を展開した。この結果、土木工事向けの建機需要が構造的に拡大し、日立製作所の建機部門は生産規模を段階的に拡大させた。ショベルを起点として建設機械の製品ラインナップを拡充し、日立製作所は総合電機メーカーの一部門として建機事業を展開する体制を整えた。
建設省からのショベル2台の受注という小規模な案件から始まった建機事業は、日立製作所の重機械製造技術を活用することで事業化に至った。1955年にはアフターサービス専門の「日立建設機械サービス」を設立するなど、製造から保守に至る事業体制の整備が進み、後の日立建機として独立する事業基盤が形成された。日立製作所の建機事業は、戦後復興期の政府需要を起点に拡大した事業の一例であった。
日立建機の原点は1948年に建設省から受注したパワーショベルわずか2台に遡る。日立製作所が建機に参入できた背景には、戦時中に車両・起重機・戦車の設計製造で蓄積した重機械技術の存在がある。軍需技術の民需転換という戦後の日本企業に共通する構造の中で、政府による土木工事の機械化推進という需要側の条件と、重機械メーカーの技術転用可能性という供給側の条件が合致した。建設省の発注が事業化の契機を与え、入札条件としての機械化推進が需要拡大を保証した構造である。
建機の主要顧客である中小建設業者は一括購入の資金力に乏しく、割賦販売は販売拡大に不可欠な手段であった。しかし販売の80%が割賦取引であったため、売掛債権の保持期間は約2年に及び、借入金は累計134億円に膨張した。販売を伸ばすほど債権が積み上がり財務が悪化する構造は、製造業が実質的に金融機能を内包した際に生じる典型的な矛盾であり、日立建機は発足当初からこの二重構造を抱えて経営を余儀なくされた。
日立製作所の建機事業は、1950年代から全国展開を強化する過程で、販売形態に起因する財務上の課題に直面した。建設機械のユーザーは中小の建設業者が多く、高額な建機を一括購入する資金力に乏しかったため、割賦販売(分割払い)が事実上の標準的な取引形態となっていた。1962年から1964年にかけて日立製作所は「大阪・東京・九州・東北・中部・北海道」の6つの地域にそれぞれ販売会社を設立し、割賦販売を通じた全国展開を推進した。
しかし、割賦販売の拡大は売掛債権の累積を招いた。1970年10月時点で建機の新車販売の80%が割賦販売であり、日立建機は販売ごとに約2年間の売掛債権を保持する構造にあった。日立製作所の債務保証による金融機関からの借入額は累計134億円に達し、プライムレートに対して0.75〜1.25%高い金利水準での調達を余儀なくされた。PL面では金利負担が利益を圧迫し、BS面では自己資本比率の低下が進行した。
販売会社の増設にともない、既存のアフターサービス会社「日立建設機械サービス」との業務重複が発生した。そこで日立製作所は1965年4月、日立建設機械サービスと全国6つの販売会社を統合し、日立建機株式会社を設立した。日立建機は日立製作所が株式の大半を保有する販売子会社として発足し、新車販売・中古販売・部品供給・アフターサービスを一体的に運営する体制を構築した。
ただし、1965年時点の日立建機は販売専業の会社であり、建機の製造は引き続き日立製作所の建設機械製造部が担当した。製造と販売が別法人で運営される体制は、迅速な意思決定や市場対応の面で制約があり、建機事業の競争力を高めるうえでの構造的な課題として残された。製販統合が実現するのは、1970年の日立建機の新生発足まで待つことになった。
日立建機の設立により、全国にわたる販売・サービスの一元体制が整い、建機の販売台数は拡大基調を維持した。日立製作所の信用力を背景とした割賦販売は、資金力に乏しい中小建設業者にとって建機導入の障壁を下げる効果があり、販売面での競争優位として機能した。
一方で、割賦販売の拡大は日立建機の財務体質を構造的に悪化させた。売掛債権が総資産に占める比率は上昇を続け、借入金への依存度も高まった。販売を伸ばすほど債権が膨張し財務が悪化するという、製造業と金融業を兼ねることの構造的矛盾に日立建機は直面していた。この財務問題は、1970年の製販統合による新生日立建機の発足後もなお、経営上の重大な課題として持ち越されることとなった。
建機の主要顧客である中小建設業者は一括購入の資金力に乏しく、割賦販売は販売拡大に不可欠な手段であった。しかし販売の80%が割賦取引であったため、売掛債権の保持期間は約2年に及び、借入金は累計134億円に膨張した。販売を伸ばすほど債権が積み上がり財務が悪化する構造は、製造業が実質的に金融機能を内包した際に生じる典型的な矛盾であり、日立建機は発足当初からこの二重構造を抱えて経営を余儀なくされた。
(旧)建機の資金調達の歴史は苦難の連続であった。昭和40年4月(旧)建機発足後、業績は低迷すること久しく、また割賦販売資金調達のための借入金は増加を続け、45年10月合併時には総額134公演に達した。借入金もプライムレートに対し0.75%ないし1.25%も高い水準であり、また過半数の借入が日立製作所の債務保証によるという状態であった。
日立建機の製販統合は組織の合理化を目的としたものだが、発足時点での自己資本比率6.4%、総資産の47%を占める売掛債権という財務実態は、統合が経営課題の解決ではなく出発点にすぎなかったことを示す。工場用地の簿価問題を税法特例と金融機関からの64億円借入で処理した合併スキームは、法的・会計的な制約の中で統合を実現するための技術的対処であり、構造的な財務問題は発足後に持ち越された。
1960年代後半、日立製作所の建設機械部門は主力製品をめぐる競争環境の変化に直面していた。建機市場では機械式ショベルから油圧式ショベルへの技術転換が進行し、日立が強みを持っていた機械式ショベルの需要は構造的に縮小しつつあった。油圧ショベルの分野ではコマツが急速にシェアを拡大しており、日立の建機部門はコマツとの競争において劣勢に立たされていた。
一方、建機に次ぐ収益源として期待された農機(トラクター)事業も苦境にあった。1961年に土浦に工場用地を取得してトラクターの生産を開始したものの、クボタ・ヤンマー・井関農機といった先発メーカーの販売基盤は堅固であり、日立のトラクターは市場で十分な実績を確保できなかった。農機事業は建機部門の業績を補完するどころか、投資回収の見通しが立たない状態にあった。
こうした事業環境の中で、建設機械の製造と販売が別法人で運営される体制が経営上の制約として認識されるようになった。製造は日立製作所の建設機械製造部が、販売は1965年設立の日立建機が担当する分離体制では、市場変化への迅速な対応や製販一体の意思決定が困難であった。競争激化に対処するため、製造販売の統合が不可避であるとの判断が日立製作所の経営陣の間で形成された。
1969年、日立製作所は建設機械の製造販売を統合する方針を決定した。具体的には、1969年に新設した日立建設機械製造(建製)が、1965年設立の旧日立建機を吸収合併し、商号を日立建機に変更する形式をとった。建製の設立からわずか11カ月での合併であり、法的には建製が存続会社となったが、実質的には製造部門と販売部門の統合を目的とした組織再編であった。
合併の実現にあたっては、工場用地の評価方法が障壁となった。足立工場(東京都足立区)や広大な土浦工場の土地は、取得時の簿価と時価の間に大きな乖離が生じており、時価評価で合併すれば巨額の資本調達が必要となる。しかし旧日立建機は割賦販売による財務悪化で自己資本比率が低下しており、追加の資本調達は困難であった。そこで、簿価での譲渡を認める税法上の特例を活用し、条件を充足するため金融機関4行(興銀・三和・富士・第一)から合計64億円を借り入れて日立製作所からの債務を返済した。
1970年10月1日、新生日立建機株式会社が発足した。発足時の事業基盤は生産拠点3カ所、支店12カ所、営業所45カ所、出張所27カ所、サービスセンター21カ所であり、製造から販売・サービスに至る一貫体制が実現された。上場前の株主構成は日立製作所が98.7%、中央商事が1.3%を保有し、実質的に日立の完全子会社として運営された。
新生日立建機は発足時から厳しい財務状況を抱えていた。総資産596億円のうち、割賦販売に起因する売掛債権が47%を占め、売掛のための借入金も多額にのぼった。自己資本比率はわずか6.4%であり、債務超過に対する余力がきわめて限られた状態での経営開始であった。
発足直後から業績は急速に悪化した。1971年9月期および1972年3月期の半期決算で2期連続の経常赤字(累計28.1億円)に転落し、1971年度末の自己資本比率は1.8%にまで低下した。景気後退による建機需要の冷え込みに加え、油圧ショベルへの技術転換への対応遅れと農機事業の不振が重なり、製販統合の効果が発現する前に業績が底を打つ展開となった。
製販統合による日立建機の新生発足は、事業環境の悪化と財務体質の脆弱性が重なった中での経営判断であった。製造と販売の一体化という組織再編の合理性は明確であったものの、その効果が短期的に業績に反映されるには至らず、発足直後の2期連続赤字と自己資本比率1.8%という数字は、製販統合が経営課題の解決ではなく出発点にすぎなかったことを示している。
日立建機の製販統合は組織の合理化を目的としたものだが、発足時点での自己資本比率6.4%、総資産の47%を占める売掛債権という財務実態は、統合が経営課題の解決ではなく出発点にすぎなかったことを示す。工場用地の簿価問題を税法特例と金融機関からの64億円借入で処理した合併スキームは、法的・会計的な制約の中で統合を実現するための技術的対処であり、構造的な財務問題は発足後に持ち越された。
情勢には厳しいものがあった。ショベルを主体とする足立工場においては、油圧ショベルが業界首位を競うまでに成長していたものの、機械式ショベルは需要構造の変化によって衰退する傾向にあった。さらに、土浦工場の主力製品であるトラクタは、営業の必死の努力にも関わらず販売実績が目標に程遠く、全工場あげて製品力の向上と原価低減に取り組み、苦闘を続けていた。
昭和45年(注:1970年)に入ると、わが国は輸出の鈍化や金融引き締めの浸透などにより景気が屈折点に差し掛かり、市場競争は各メーカーの新製品開発と相まって一段と熾烈化してきた。
このような情勢の中で業容を伸展させていくためには、当初もくろんだ建設機械の製造・販売・サービス部門の一体化が強く望まれた。ここにおいて新たに一体化を法的に検討した結果、すでに新しく船出した建製(注:日立建設機械製造)は44年下期決算を終了しており、この会社と(旧)建機の合併は問題ないことが判明したので、建製は設立後わずか11ヶ月という短期間の存在ではあったが、(旧)建機を吸収合併し、新「日立建機株式会社」として発足することとなった。
足立工場の閉鎖は単なる拠点統合ではなく、宅地化が進む東京都内の工場用地12万平方メートルを売却し、その売却益で茨城県土浦の量産工場に135億円を投資するという資産の入れ替えによる投資スキームであった。都心部の地価上昇を活用して郊外の生産効率化に再投資する手法は、1970年代の日本の製造業に共通する立地戦略であり、日立建機においては発足直後の財務制約の中で投資原資を確保する合理的な選択であった。
1970年の製販統合を経て発足した日立建機は、生産面において土浦工場(茨城県土浦市)と足立工場(東京都足立区大谷田)の2拠点体制で運営していた。しかし足立工場はJR常磐線亀有駅から約1kmの位置にあり、周囲の宅地化が進行する中で工場の増設・拡張の余地に乏しかった。油圧ショベルの需要拡大に対応するための増産体制の構築が求められる一方で、都心部に近い足立工場ではその対応が物理的に困難であった。
加えて、建機の製造は部品加工から組み立てまでの工程が多岐にわたり、2拠点に分散した生産体制では工程間の輸送コストや管理負担が発生していた。発足直後の赤字体質を脱却するためにも、生産拠点の集約による効率化が経営課題として認識されていた。土浦工場は52.8万平方メートルの広大な敷地を有しており、生産の集約先として適していた。
1972年8月、日立建機は足立工場の閉鎖と生産の土浦工場への集約を発表した。1974年5月に約135億円を投じて土浦新工場を増設・合理化し、部品加工から組み立てまでの一貫生産体制を構築した。足立工場は1974年11月に閉鎖され、12万平方メートルの跡地は日本住宅公団に売却された。跡地は大谷田団地(全11棟)として再開発され、工場跡地の売却益が土浦新工場への投資資金に充当された。
足立工場の閉鎖と土浦工場への集約は、都心の工場用地を売却することで郊外の量産拠点への投資原資を確保するという、当時の製造業に共通する立地再編の手法であった。日立建機はこの生産集約により、油圧ショベルの増産に対応できる生産基盤を整備し、発足当初の2拠点分散体制から脱却した。
足立工場の閉鎖は単なる拠点統合ではなく、宅地化が進む東京都内の工場用地12万平方メートルを売却し、その売却益で茨城県土浦の量産工場に135億円を投資するという資産の入れ替えによる投資スキームであった。都心部の地価上昇を活用して郊外の生産効率化に再投資する手法は、1970年代の日本の製造業に共通する立地戦略であり、日立建機においては発足直後の財務制約の中で投資原資を確保する合理的な選択であった。
日立建機の海外戦略はOEMで量を確保し、経営体力が整った段階で自社販売に切り替える二段階のアプローチであった。ディアとフィアットの販路を借りることで海外売上を20億円から1300億円に拡大したが、ブランド不浸透と川下事業への展開制限というOEM固有の制約が長期的な収益性の上限を規定した。自社販売への切り替えは量の一時減少を伴うため、提携解消のタイミングと移行速度が戦略の成否を分ける構造にある。
1980年代を通じて日立建機は主力の油圧ショベルにおける成長の軸を海外市場に求めた。国内ではコマツに次ぐ第2位の地位を確保していたものの、コマツやキャタピラーといった上位メーカーとの規模の差を縮めるには、先進国市場(北米・欧州)における販売拡大が不可欠であった。しかし日立建機は海外における販売網を持たず、現地市場での知名度も限られていた。
海外市場を自力で開拓するには、販売拠点の整備・サービス網の構築・ブランド認知の獲得に多額の先行投資と長期の時間を要する。1980年代の日立建機はその投資体力を持ち合わせておらず、コマツのように海外に直接進出する経営資源が不足していた。そこで日立建機は、海外の有力建機メーカーとの提携を通じて販売量を確保し、段階的に海外事業の基盤を築く戦略を選択した。
この戦略の前提には、日立建機の油圧ショベルの製品競争力があった。故障率の低さで国内市場において評価を得ていた油圧ショベルは、提携先に対するOEM供給品として十分な品質を有していた。自社ブランドでの展開は断念する代わりに、提携先の販売網を通じて量を確保する判断であった。
1983年、日立建機は米国の大手農機メーカーであるジョン・ディア社と提携し、油圧ショベルのOEM供給を開始した。ディアの本業は農機であり、建機は多角化事業の位置づけにあったため、日立建機がOEMでショベルを供給しディアの販売網を通じて北米市場での販売量を確保した。1988年には貿易摩擦の回避を目的として合弁会社「ディア日立コンストラクションマシナリー」を設立し、米国内での現地生産を開始した。
欧州市場については、1986年にイタリアの大手自動車メーカー「フィアット社」と提携し、同社の建機ブランドに対して油圧ショベルを供給する体制を構築した。同年にオランダにフィアット・アリス社との合弁会社を設立し、欧州での現地生産を開始した。これにより日立建機は、日本を本拠として北米はディア、欧州はフィアットの販売網を活用する「日・米・欧の3極体制」を形成した。
ディア・フィアット両社との提携によるOEM供給は、日立建機の海外事業を短期間で拡大させた。2000年頃までに現地生産分を含む海外向けの販売高は1300億円に達し、1980年代初頭の輸出部門20億円規模から飛躍的な成長を遂げた。提携先の販路を活用したことで、自社で販売網を構築する場合に比べて投資負担を大幅に抑えた海外展開が実現した。
OEMによる海外展開は量の拡大に寄与した一方で、構造的な限界も顕在化した。提携先の販売網を経由するため日立ブランドが最終顧客に浸透せず、価格決定力の確保が困難であった。加えて、OEM契約の性質上、保守・サービスといった川下事業への展開が制限され、製品販売後の継続的な収益機会を提携先に委ねる構造が固定化した。海外売上の規模は拡大しても、収益の質においてOEMの天井が意識されるようになった。
2000年代以降、日立建機は海外展開の基本方針をOEM依存から自力進出へと段階的に転換した。2001年にフィアットとの提携解消を決定して欧州での自社販売網構築に着手し、2021年にはディアとの北米での合弁提携も解消した。OEMで市場を知り、経営体力が整った段階で自社ブランドに切り替えるという二段階戦略は、海外に自力で参入する資源を持たなかった日立建機にとって合理的な選択であった。
ただし、OEMから自社販売への移行には提携先を通じた販売量の一時的な減少リスクがともなう。提携解消後に自社の販売網がどれだけ速やかに立ち上がるかが移行の成否を左右する構造であり、移行期間の設計と投資の規模・タイミングが戦略上の鍵となった。欧州ではこの移行に約2年の期間を設けて段階的に実行し、北米でのディアとの関係解消においては伊藤忠商事の参画による販路構築の加速が図られた。
日立建機の海外戦略はOEMで量を確保し、経営体力が整った段階で自社販売に切り替える二段階のアプローチであった。ディアとフィアットの販路を借りることで海外売上を20億円から1300億円に拡大したが、ブランド不浸透と川下事業への展開制限というOEM固有の制約が長期的な収益性の上限を規定した。自社販売への切り替えは量の一時減少を伴うため、提携解消のタイミングと移行速度が戦略の成否を分ける構造にある。
海外の各地域にいかにして溶け込むか、生産体制や販売網を築くのに投資がいくらかかるのかを考えたとき、当社では現地の有力企業との提携を基本にしました。(略)
私が輸出部長になった時、輸出部門の規模は20億円ほどでしかなかった。それが20年余りの間に、現地生産分を含めると1,300億円にまで伸びた。
フィアットとの提携解消は売上減少のリスクを伴う判断であったが、日立建機は現地生産・販売網・製品拡充の三方面に同時投資することで移行期の空白を最小化した。約60億円のディーラー網投資と古河機械との提携による製品補完は、OEMから自社ブランドへの切り替えにおける実務的な移行設計であった。2007年度に欧州売上1672億円を計上した実績は、OEM離脱後の自力展開が量的にも提携時代を上回りうることを示した事例である。
1986年に締結したフィアットとの提携は、日立建機の欧州進出を可能にした一方で、構造的な課題を内包していた。フィアットの販売網を通じたOEM供給では日立建機のブランドが欧州の建設現場に浸透せず、価格決定力やアフターサービス収益の確保が困難であった。提携先の販売条件に依存する体制は、日立建機が自律的に事業を拡大するうえでの構造的な制約となっていた。
2001年頃にフィアットはコベルコ(神戸製鋼所の建機ブランド)との提携を強化する方向に動き、日立建機との関係は転換期を迎えた。フィアットがコベルコから油圧ショベルの供給を確保できる見通しが立ったことで、日立建機にとっては提携解消の判断を下せる環境が整った。OEMに依存する限り欧州での事業成長には天井があるとの認識から、自社ブランドによる販売網構築へ方針を転換する判断に至った。
2001年に日立建機は欧州推進事業本部を新設し、フィアットとの提携解消を決定した。混乱を避けるため実際の解消は2003年とし、2年間の移行期間を確保した。2002年にはオランダにアムステルダム工場を新設して現地生産体制を整備し、販売面では約60億円を投じて欧州各国のディーラー網を構築した。
製品ラインナップの不足に対しては古河機械との提携で補完し、日立建機が手薄であった製品カテゴリを古河の製品で補う体制を整えた。OEMからの離脱は販売量の一時的な減少をともなうリスクがあるため、現地生産・販売網・製品拡充の三方面に同時投資することで移行期の空白を最小化する設計がとられた。
フィアットとの提携解消後、日立建機の欧州事業は自社ブランドでの展開に移行した。OEM時代には得られなかった保守・サービスの収益を自社で確保できるようになり、日立ブランドの認知浸透にともなう販売価格の改善も進んだ。リーマンショック直前の2007年度には欧州事業で過去最高となる1672億円の売上高を計上し、提携時代の事業規模を大幅に上回る結果となった。
欧州における自力進出の実績は、OEM依存からの脱却が量的な成長を犠牲にするものではないことを示した。提携解消から4年で過去最高売上に到達したことは、OEMで蓄積した市場知識と移行期の三方面同時投資による空白の最小化が奏功した結果であった。この欧州での経験は、2021年に決定した米州におけるディアとの提携解消においても参照される先行事例となった。
フィアットとの提携解消は売上減少のリスクを伴う判断であったが、日立建機は現地生産・販売網・製品拡充の三方面に同時投資することで移行期の空白を最小化した。約60億円のディーラー網投資と古河機械との提携による製品補完は、OEMから自社ブランドへの切り替えにおける実務的な移行設計であった。2007年度に欧州売上1672億円を計上した実績は、OEM離脱後の自力展開が量的にも提携時代を上回りうることを示した事例である。
日立製作所は日立建機の株式26%のみを売却し、自らも25.42%を保持する中間的な選択をとった。完全売却では収益源を失い、完全子会社化では親子上場の批判が続くという二律背反の中で、伊藤忠を筆頭株主に据えつつ自社も大株主にとどまるスキームを採用した。この結果、3者が影響力を持つ資本構成が形成され、利害調整の複雑さと商社ネットワークの活用という二面性を持つ経営体制が生まれた構造である。
2020年代に入り日立製作所はグループ経営の再編を加速させ、上場子会社の出資形態を順次見直していた。2020年4月に日立化成を昭和電工に売却し、2021年4月には日立金属の売却方針を発表した。日立化成・日立金属・日立建機は日立グループの中でも売上・利益の規模が大きく「日立御三家」と称される存在であり、3社の取り扱いが日立製作所の資本政策における焦点となっていた。
2021年6月の日立製作所の株主総会において、東原敏昭会長は上場子会社の日立建機(日立の保有比率51.42%)について「売却もしくは取得」の方針を2021年度内に結論づけると明言した。親子上場の解消は株主利益の観点から市場の要請でもあり、日立建機の取り扱いは完全子会社化か売却かの二択として整理された。日立建機は安定した収益を計上しており、完全売却には惜しい存在であった。
2022年1月、日立製作所は日立建機の株式約26%を売却する方針を発表した。売却先は伊藤忠商事と日本産業パートナーズが折半出資する「HCJI HD合同会社」であり、完全売却ではなく一部売却の形式をとった。売却後の株主構成はHCJIが26.00%で筆頭株主、日立製作所が25.42%で第2位の大株主となった。
日立製作所はこの売却により日立建機を子会社から持分法適用関連会社へ移行させ、親子上場を解消した。一方で25.42%の持分を維持することで、持分法による投資損益を通じて日立建機の業績を自社の連結決算に取り込む関係を継続した。完全売却でも完全子会社化でもない中間的な選択は、手放しがたい収益源への出資を維持しつつ市場からの親子上場解消の要請に応えるための折衷案であった。
売却の結果、日立建機の株主構成には伊藤忠商事・日本産業パートナーズ・日立製作所という3者が影響力を持つ構造が形成された。HCJIは伊藤忠と日本産業パートナーの折半出資であるため、実質的には3つの利害関係者が存在する。日立製作所が25.42%を保有し続けていることから、支配権の実質的な所在は完全に移転したとは言い切れず、株主間の利害調整が経営の意思決定に影響を与える可能性がある。
一方で、伊藤忠商事の参画は日立建機の海外事業、特に米州市場の開拓において戦略的な意味を持つ。日立建機は2021年にディアとの合弁提携を解消しており、北米市場で自社販路を構築する必要に迫られていた。総合商社のグローバルネットワークと現地でのビジネス基盤は、単独での販路構築に比べて時間と投資を圧縮する効果が期待される。資本構成の変更は、親子上場の解消にとどまらず、海外戦略の転換と連動した資本政策としての側面を持っていた。
日立製作所は日立建機の株式26%のみを売却し、自らも25.42%を保持する中間的な選択をとった。完全売却では収益源を失い、完全子会社化では親子上場の批判が続くという二律背反の中で、伊藤忠を筆頭株主に据えつつ自社も大株主にとどまるスキームを採用した。この結果、3者が影響力を持つ資本構成が形成され、利害調整の複雑さと商社ネットワークの活用という二面性を持つ経営体制が生まれた構造である。