住友重機械工業は、住友が1888年に別子鉱業所の中へ置いた工作方を自らの起点としている。相談役を務めた西村恒三郎氏も1988年の回想で、発足を明治21年の工作方と数えている。一方で『企業の歴史』は、1889年に機械課として始まったと年を1年遅く記す。『会社銀行八十年史』はさらに古く、1882年9月に新居浜製錬所の建設に合わせて開かれた鍛冶場を源に挙げる。このころ別子では広瀬宰平氏ら経営陣が西洋技術を採り、鑿岩機や鉱山鉄道、索道を次々に据えていた。山奥の銅山で輸入機械を止めずに使うには、手元で直せる職場を抱えるほかなかったとみられる。
鍛冶場は1896年11月に住友別子鉱業所の機械課となり、鉱山開発で要る機械の製作と修理を受け持った。1921年以降は住友の銅山や工場へ納めるだけでなく、外部からの注文にも手を広げた。住友の側でも同じ1921年に事業が住友合資会社へ移り、1927年6月には資本金1,500万円の住友別子鉱山が設立された。機械課は1928年、この鉱山会社の新居浜製作所へと名を改めた。改称と同時に、製作所は独立した会計で損益を締める仕組みに移っている。鉱山の一課だった修理場が、損益を別に問われる工場へ格上げされたことになる。
新居浜製作所となる前年の1927年1月、住友はドイツのペテルゼン氏と硫酸製造設備の技術提携を結んだ。別子の製錬は亜硫酸ガスによる煙害を抱え、製錬所を四阪島へ移しても片付かなかった。中和工場が完成して煙害に決着がついたのは、ずっと後の1939年である。1955年時点の住友金属鉱山は、製錬から出る副産品として硫酸を産出していた。ペテルゼン式の契約は戦後の1951年7月、西ドイツのゲルト・ペテルゼン社との間で更新されている。煙の硫黄分を硫酸に変える設備を自作できれば、煙害対策と副産物の販売を同時に進められると見たのだろう。
新居浜製作所は1929年から1930年にかけ、欧米の企業や技術者と3件の技術提携を結んだ。1929年4月にスイスのブラウンボベリー社と電気炉、1930年1月には米国のグリナワルト氏と焼結設備で契約した。同じ1930年の6月には、ドイツのデマグ社から水平引込起重機の技術を得ている。いずれも1928年に機械課が製作所へ名を改めた直後の動きだった。西村恒三郎氏は、この会社がやがて鉱山機械に加えてクレーンの有力な作り手になったと振り返る。電気炉や起重機は製鉄所や港でも使う機械で、銅山の外の買い手を見据えた選び方だったと推察される。
1934年11月、新居浜製作所は住友別子鉱山から切り離され、資本金500万円の住友機械製作株式会社となった。住友財閥の直系会社としての発足で、新会社は製作所の事業をそのまま引き継いだ。『会社銀行八十年史』は、相次ぐ技術導入で産業機械の作り手として立つ足場ができたことを独立の背景に置く。もっとも西村恒三郎氏は、発足当初は別子鉱山へ設備を納める工場の色合いが濃かったとみている。独立するとすぐに新工場の建設に取りかかり、1937年に仕上・製缶・電機・大型鋳造の各工場を完成させた。鉱山会社の一部門のままでは、社外向けの設備投資を自らの判断で進めにくかったのだろう。
住友機械製作は1938年5月、ドイツのサイクロ社と減速機の技術提携を結んだ。その半年前の1937年11月には、カナダのノース・アメリカン・サイアナミッド社と浮選機でも提携していた。このころの新製品として、製鋼用の起重機やサイクロ減速機、鍛圧機械が挙がる。製品の売り先は国内にとどまらず、朝鮮や満州、台湾、中国まで届いた。戦後の1952年2月には、西ドイツのサイクロ社とあらためて技術契約を結んだ。サイクロ減速機は1953年版の年鑑でも、耐酸ポンプと並んで主要品目に載っている。一件ずつ受注する大型機械とは別に、同じ型を繰り返し作れる製品を初めて手にしたことになる。
軍備拡張で産業機械の注文が膨らむなか、住友機械製作は1939年から1944年にかけて工場を相次いで増やした。資本金は1938年2月に1,000万円、1940年10月に2,000万円となり、1944年9月には4,000万円に達した。この間の1940年9月に、社名を住友機械工業へ改めている。1944年に軍需会社の指定が進むと、住友機械工業を含む住友の生産会社はそろって指定を受けた。ただし戦中の主力は鉱工業や輸送の設備で、兵器部品の製造はごく一部だったという。西村恒三郎氏は、戦時は作れば売れる状態で高い収益を上げ、工場も戦災を免れたと回想する。
敗戦の年の1945年12月、住友機械工業は社名を四国機械工業に改めた。財閥解体によって、住友本社や旧子会社との資本その他の関係はすべて切れた。資金の手当てがつかず、特殊な大型鋳物をつくる工場はしばらく閉めざるを得なかった。1947年には石炭の増産のため鉱山機械の工場が商工省の指定を受け、資金と資材で優先された。当時の炭鉱用機械の生産では、日立製作所などと並んで住友機械工業も兼業の大手に数えられる。戦後は品目を増やす方針を掲げ、戦前に結んでいた海外との技術提携も復活させた。社名から「住友」を外したのは、財閥の名を掲げ続けにくい情勢を映したものとみられる。
1949年、四国機械工業は資本金を減らしてから大きく積み増す手順を短期間で踏んだ。1月にいったん3,500万円へ減資したうえで、同じ月に1億500万円へ増資した。同年5月には東京と大阪の証券取引所に株式を上場している。7月には資本金を2億7,000万円とし、上場した年のうちに半年前の約2.6倍へ広げた。1953年版の年鑑では、上場先が東京・大阪・京都・広島の4市場に広がっている。1954年9月末の大株主には、住友海上火災・住友生命・住友金属工業・住友商事など旧住友系の企業が並ぶ。解体で切れた資本のつながりを、上場株の持ち合いによって住友系各社と結び直したといえる。
1952年5月、四国機械工業は社名を住友機械工業に戻した。同じ年の9月には、本社事務所を大阪市へ移している。社名を戻す前月の1952年4月、リヒテンシュタインのヒバーグ社と固定式バイエル無段変速機の提携を結んだ。1953年5月には、バイエル変速機を生産するため富田機械製作所と手を組んだ。1954年10月には、自動車用のバイエル無段変速機でもヒバーグ社と提携を広げた。1955年版の年鑑は、主要製品にサイクロ減速機と並べてバイエル変速機を載せている。回転を落とす減速機に速度を変える変速機が加わり、量産品の収益源が2つになった。
住友機械工業は1954年度、年間で約7億円の赤字を出した。1954年9月期の純損失は131,376千円だった。続く1955年3月期には、566,512千円の純損失を計上している。西村恒三郎氏は、当時の売上高を26億円、資本金を2億7,000万円と挙げてこの赤字の重さを示している。西村恒三郎氏は原因として、戦後の需要の変化にインフレとドッジ・ラインのデフレが重なり、朝鮮戦争の特需にも乗り切れなかった点を挙げる。1954年3月には人員整理の方針が組合との協議前に新聞で報じられ、希望退職の募集にとどまった。社長の鮫島龍雄氏は退き、技術系の1人を除いて役員が総入れ替えとなった。
住友系の社長会である白水会は再建小委員会を設け、住友金属工業専務の木村音吉氏を委員長に据えた。再建案は一部工場の閉鎖と部門ごとの定員の絞り込みを骨組みとし、1955年3月に定員1,617名の体制ができた。新しい経営陣は木村音吉氏を首班に、銀行から市川恒雄氏、化学から川島清嗣氏を迎えた。1957年2月時点の年鑑では、木村音吉氏が社長、川島清嗣氏が副社長、市川恒雄氏が専務に就任している。1955年3月には、サイクロ減速機やバイエル変速機など量産品の販売を担う範多商事を設けた。1956年9月期に年1割で復配し、1960年版の年鑑では配当が年15%まで上がった。資本金は1956年12月に5億4,000万円、1960年9月には20億円へ増え、次の設備拡張の元手が整った。
住友機械工業は1961年、愛知県の大府に製造所を開設し、現在の名古屋製造所の起点とした。新居浜製造所で製鉄プラントや運搬機械の増産を進める間に、減速機の量産は大府へ任せ、第2期の増設にも入っていた。1962年版の企業要覧は、この2年間で売上高が2.1倍、利益が実質2.7倍になったと記している。1965年に退いた社長の木村音吉氏は、名古屋工場の完成を在任中に整えた設備の一つに挙げた。社長の市川恒雄氏の1969年の説明では、減速機の月産は1955年頃の200数十台から7,000〜8,000台まで増えた。変速機と合わせた国内シェアは30%に達し、首位にあった。受注ごとに仕様が変わる大型機械から、同じ型を繰り返す減速機を別の工場に分けたことが、量産の効率を上げたと推察される。
住友機械工業は1967年3月期、景気回復で受注が増えたものの、外注に依存した分の原価がかさみ、営業利益が約2億円減った。これを受けて、原価を下げやすい精密機械や建設機械など量産機種の売上を拡大する方針を打ち出した。1966年6月には減速機の米国現地法人を設け、組立工場を本格生産に入れた。建設機械ではパワーショベルとトラッククレーンの機種を揃えるため、米国リンクベルト社と追加の契約を結んだ。スイスのネスタール社との技術提携で、プラスチック機械の部門も拡充した。1965年2月に社長となった市川恒雄氏は、人件費の上昇を理由に、受注生産品より繰返生産品へ重心を移すと説明した。その目標は両者の比率を50対50にすることだった。
市川恒雄氏が社長に就任した頃、三菱系3社の合併で三菱重工業が生まれ、石川島播磨重工業や川崎重工業も合併で規模を広げていた。のちに社長となる西村恒三郎氏は1974年、合併前の自社を『いわば田舎のデパートのようなものだった』とたとえた。機械の品目は一通り揃えていたが、三菱重工業や石川島播磨重工業には規模で及ばなかったという。住友機械工業は1965年早々、親会社の破綻で連鎖倒産が懸念された日特金属工業に出資し、株式の32.6%を持った。同じ年の2月には専務の大塚振武氏らを浦賀重工業へ送り、経営の実態をつかみにかかった。1968年版の企業要覧は、日特金属工業の系列化と浦賀重工業の合併予定を並べて記している。
1969年6月30日、住友機械工業は浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円で、従業員は両社を合わせて1万人を少し上回った。市川恒雄社長は、1968年2月の半額減資で浦賀の累積損失が消えていたため、17億6,000万円の資本負担で造船設備を得られた点を利点に挙げた。人手の集めにくい時代には浦賀の6,000人も生産性を上げる元手になり、造船の鋼材需要が製鉄機械の受注に効くとも説明した。浦賀の側でも、運輸省が大型ドックを認める条件に中核企業並みの規模を求め、単独では満たせなかった。浦賀の収益性は住友機械を下回っていたが、市川恒雄社長は『後に減配を余儀なくされる合併はしない』として配当の維持に自信を示した。
合併時点で浦賀と横須賀の造船所は、どちらも10万トン級までの船しか造れなかった。市川恒雄社長は追浜に13万坪を埋め立て、30万トンの新造船ドックを1971年末までに築く計画を示した。建設資金には160億〜170億円を見込んでいた。両社は1968年5月の合併覚書を添えて同年11月に建設を申請したが、運輸省の正式認可は1969年11月にずれ込んだ。受注活動がその分遅れた結果、1970年からの輸出船ブームで追浜向けの船はすべて円建てで契約できた。現在の横須賀製造所にあたる追浜造船所は、1972年5月に開設された。1974年3月期には年6隻の建造体制に乗り、27万重量トン型タンカー3隻を引き渡した。
住友重機械工業は1973年2月、愛媛県に東予工場を開設した。のちの愛媛製造所西条工場にあたり、長大な橋梁と鉄構を専ら造る工場として建設に着手していた。本州と四国を結ぶ橋の工事が先送りになると、東予工場は第2期・第3期の工事を見送った。1976年の講演で専務の浅田厚氏は、機械本部の中に東予事業部を置き、塔・槽・熱交換器を輸出していると説明した。同じ工場では、海洋向けの石油掘削装置の製作も請け負っていた。当時の機械本部には、橋梁鉄構と海洋の事業部も並んでいた。架橋の需要を当て込んだ設備を、化学機器や海洋構造物に振り向けて稼働を埋めたと考えられる。
石油危機の直前、住友重機械工業は徳島県の橘湾に100万トン級のタンカーを続けて造る造船所の計画を県に示していた。社長の西村恒三郎氏は、中小の造船所も大型化する中で、浦賀造船所の置き換えが要ると理由を説明した。当初700億円と見込んだ建設費は、石油危機前後の物価上昇で5割増えていた。売上に占める船舶本部の比率は、1974年の45.7%から1975年には35.8%へ下がった。機械の受注に占める輸出は同じ間に15%から28%へ上がり、低迷した内需を補った。1978年版の企業要覧で在籍人員は12,182人だった。1979年3月期には特別退職金を払い、翌年版の在籍人員は8,637人まで減った。
1983年4月、住友重機械工業は米国のイートン社と合弁で住友イートンノバを設立した。この会社は、半導体の製造工程で使うイオン注入装置を造って売った。1998年のアニュアルレポートによれば、住友イートンノバの資本金は16億円だった。住友重機械工業は1969年の時点で、機種を増やす手段が海外からの技術導入に偏ってきたと認めていた。1976年には専務の浅田厚氏が、提携先の販売地域の縛りで中近東の商談が進まない例を挙げ、自己開発へ移る必要を説いた。それでも造船の外に育てる新分野では、合弁で提携先の技術を取り込んだとみられる。
建設機械は、1963年6月に米国のリンクベルトスピーダー社とパワークレーンとパワーショベルの技術提携を結んで広げた分野だった。1970年代初め、系列の日特金属工業は赤字の元だったブルドーザーから段階的に撤退した。その販売店には、住友側が売り出していた油圧ショベルを扱わせて空白を埋めた。1981年版の企業要覧は、製鉄機械・港湾荷役・変減速機に続く収益源として建設機械とプラスチック機械を挙げている。住友重機械工業は1986年6月に住友建機を設立し、建設機械の事業を譲渡した。1998年時点で住友建機の資本金は40億円だった。受注生産の大型機械と別の会社に分け、量産品として機動的に動かす狙いがあったのだろう。
住友重機械工業は1986年12月からの3カ月で、社員を1,700人減らした。このうち1,300人が希望退職で、残りは出向などによる人数だった。1987年2月の募集は、造船や製鉄機械など縮小中の部門にいる35歳以上の1,600人を対象とした。副社長の兵頭博氏は、円高に備えた中期経営計画から4〜5年先の組織像を描き、それに照らして『残ってもらう人と、やめてもらいたい人のリストを作った』と明かした。1984年に立てた10年計画「SHI93」は、1993年に単独売上高5,000億円を掲げていたが、プラザ合意後の円高で前提を失った。当時の社長の合田茂氏は会長に就任した後も、この人員整理を二度と経験したくないと振り返っている。
1989年6月に社長に就任した久保正大氏は、約8カ月をかけて全国8カ所の事業所を回った。1991年1月には女優の有森也実氏を起用し、テレビと新聞で企業広告を流し始めている。1992年3月期の単独売上高は2,873億円で、NKKを除く造船重機大手6社の中で最も小さかった。専務の宮崎文雄氏は、『短期的な収益はともかく、知名度を上げ、少しでも優秀な人材を採用することが、中長期的には企業の行方を左右する』と広告の狙いを語った。理系学生の人気企業順位は、89年度就職組の181位から93年度就職組の120位へ上がった。会長の合田茂氏は1992年、石油危機後に広げた新規事業の中に伸び悩むものが出てきたと認めていた。
1993年4月、住友機械工業の出身で設計畑を歩んだ小澤三敏氏が社長に就任した。直前の3月には、射出成形機や変減速機が不況の影響を強く受け、業績見通しを引き下げていた。小澤三敏社長は1996年度からの中期経営計画「CHALLENGE 98」で、利益率の高い事業への資源の集中とコスト競争力の強化を重点に掲げた。ところがアジアの経済危機が国内の不況を長引かせ、1999年3月期は123億円の損失となった。年報は建設機械の不振を主な理由に挙げ、人件費を含む固定費の削減と販売店の統廃合を打ち出した。同じ年報は、CHALLENGE 98の施策を続けたものの、厳しい環境のもとで収益力の改善は進まなかったと総括している。
1999年4月、プラスチック機械事業部長として市場シェアを4〜5%押し上げた日納義郎氏が社長に就任した。会長に回った小澤三敏氏は、事業を38に分けて収益性で選び直す方針を示していた。日納義郎社長は事業の見極めについて、『時期が来れば、撤退すべきものは躊躇せず決断する』と言い切った。同じ年に始まった3カ年計画「C21」は、投下資本利益率(ROIC)を全社の経営指標に据え、執行役員制も取り入れた。2000年時点では減速機・プラスチック加工機械・レーザ加工機・極低温冷凍機を重点事業とし、半導体と液晶を次の分野に置いた。射出成形機を育てた人を社長に選んだことは、量産機械を軸にする意思の表れとみられる。
C21の3年間に、住友重機械工業は減速機、射出成形機、精密制御機器の3つを伸ばす事業に定めた。1999年5月には、のちに住友重機械ギヤボックスとなる大阪製鎖造機を買収した。射出成形機では電動式の品ぞろえを厚くし、ガラスを成形する機種も市場に出した。第3の柱とした精密制御機器では、極低温冷凍機や超精密の位置決め装置、イオン加速器でシェアを広げた。半導体の封止装置の事業はNECと芝浦メカトロニクスから譲り受け、米国の極低温機器会社IGC-APD Cryogenicsも買い取った。2000年度の前半には、IT・半導体向けの射出成形機とレーザ装置の受注が設備投資の追い風を受けた。ところが後半は景気の減速で投資が急に冷え込み、年間の受注は小幅に減った。
2001年3月期の連結決算は286億円の当期損失となり、配当を見送った。建設機械の再編に伴う損失338億円と、退職給付の移行差額274億円の償却が重なった。会社は2000年9月に「事業再構築計画」を定め、C21の目標であるROIC5%を追っていた。2001年4月には住友建機を、ショベル・道路機械の会社とクレーンの会社に分けた。産業機械についてトップメッセージは、『we will be moving away from traditional heavy industries such as steel mills and power plants towards semiconductor- and LCD-related manufacturing facilities.』(訳:製鉄所や発電所のような旧来の重工業から離れ、半導体・液晶関連の製造設備へ向かう)と記した。造船は技術の高い船に絞り、外注を使って費用を下げる方針とした。
2002年初め、住友重機械工業は一般社員の年収を4月から2年間、一律15%削減する策を発表した。管理職の賃金はすでに同年1月から15%下げていた。早期退職などでグループ約1万人の1割にあたる約1,000人を減らし、2002年度に約80億円の人件費を浮かせる計画だった。財務経理本部長の木下幸雄常務執行役員は、『これまでは余剰人員を成長部門へと異動させることで雇用の維持を図ってきたが、そんな対応はもはや限界にきている』と語った。2002年3月期のROICは2.3%にとどまり、C21が掲げた5%を下回った。成果に応じて報いる人事・賃金制度への組み替えも、次の課題に据えた。翌期は労務費を含む固定費の削減が効き、営業利益が前期比21%増の172億円となった。
2003年4月、住友重機械工業は販売部門を除く造船事業を、新設の住友重機械マリンエンジニアリングへ譲渡した。直接の契機は、氷海向けのアフラマックスタンカーが大きな赤字工事となったことだった。分社にあたって事業の規模を縮め、受注の時点で採算を確かめる仕組みを組み込んだ。会社はこれらの手当てにより、造船部門が2003年度に黒字化すると見込んだ。これに先立ち艦艇の事業を、石川島播磨重工業との合弁会社マリンユナイテッドへ移していた。その後、建造する船種は中型タンカーに集中させた。造船の損益を本体から離し、量産機械の稼ぎを守る狙いがあったと推察される。
2005年度からの中期経営計画「躍進07」は、2007年度末に営業利益600億円以上、ROIC10%以上を目標とした。2006年度に営業利益642億円、ROIC12.2%を上げ、目標を1年前倒しで満たした。2007年11月30日、社長の中村吉伸氏は2008年度からの3カ年計画「グローバル21」を示した。2010年度に売上高8,500億円、営業利益1,000億円を掲げ、国内の会社から世界の会社への脱皮を標語にうたった。投資は3年間で約1,500億円とし、海外拠点の展開と「一流商品」づくりに充てるとした。背景には、国内市場が成熟する一方で中国など新興国の商機が広がっていた事情がある。
住友重機械工業は2008年3月、ドイツの射出成形機メーカーDemag Ergotechなど3社を、取得原価127億79百万円で買った。同年5月の決算説明会資料は買収の根拠として、世界市場でのブランドと販売力の強化、欧州とBRICsでの拡販、事業規模での首位を並べた。住友重機械の成形機は電動式の精密・高速成形を得意としたが、2008年度見込みの売上は9割近くを日本とアジアで占めていた。デマーグの側は欧州と北米でブランドを持ち、ロシアの販路と、自動車部品や包装容器の顧客を抱えていた。同年のアニュアルレポートも、国内シェア首位の成形機に、ドイツの老舗の販売力を加える買収と位置づけた。
イオン注入装置を担うSENは1983年4月の設立で、2008年の時点では米Axcelis Technologiesとの合弁会社だった。住友重機械工業は2008年2月、合弁相手のAxcelisそのものに買収を持ちかけ、1株5.20ドル、総額5億4,400万ドルを示した。半導体メーカーの大型化で設備投資の額が膨らみ、開発の速さも求められるなか、両社の顧客と技術を一体にする狙いだった。Axcelisは2月25日に拒否を公表し、住友重機械は3月10日に提示を1株6.00ドルへ引き上げた。最終的には2009年3月に株式を取得してSENを完全子会社とし、合弁の形を解いた。米国の会社ごと取り込む案が実らず、手の届く合弁の持分へ的を絞り直したと推察される。
2011年3月、住友重機械工業はベルギーのギヤボックスメーカーHansen Industrial Transmissionsを買収した。その前年のアニュアルレポートでは、「グローバル21」最終年度の売上高8,500億円・営業利益1,000億円を実現困難と認めていた。それでも経営陣は、『この不況を次の成長へのチャンスと受け止め、提供する製品およびサービスの変革と、市場の拡大を進めていかなければなりません。』と記した。買収額は約100億円で、資源国の設備投資で伸びるギヤボックス需要を、南アフリカや豪州に強いHansenの販路で取る狙いだった。1973年から約20年、旧親会社から技術供与を受けた縁があり、製品面の相乗効果も早く出せると見込んだ。
2013年4月、副社長兼CFOだった別川俊介氏が社長兼CEOに就任した。翌年5月に別川俊介社長が示した「中期経営計画2016」は、前計画「イノベーション21」の目標と実績を並べるところから始まった。2013年度の売上高は目標7,300億円に対し6,153億円、営業利益は730億円に対し343億円にとどまった。地域別の分析では『海外への積極的な投資が成長に結びついていない。』と総括し、欧州は投資の規模に売上が見合っていないとした。残る課題には、減速機と射出成形機で買った子会社との統合と、相乗効果の実現を挙げた。新計画は2016年度の売上高を7,000億円と前計画より低く置き、営業利益率7.5%とROIC7%以上を目標の軸にした。営業利益率は2015・2016年度とも7.2%となり、目標の水準にほぼ到達した。
2015年10月、子会社の住友重機械搬送システムが、三菱重工マシナリーテクノロジーから産業用クレーン事業を譲り受けた。受け皿の住友重機械搬送システムには、2013年4月に本体の物流システムと機械式駐車場の事業を移していた。この譲受は運搬機械の事業基盤を強化し、「高収益への反転」を図る施策だった。中計16の設備投資は3年500億円から700億円へ積み増され、産業用クレーンは国内設備を更新する側に入った。海外に振り向けてきた投資の一部を、老朽化の進んだ国内工場へ戻す判断だった。2017年3月には建設用クレーンの日立住友重機械建機クレーンも子会社とし、クローラクレーンまで品揃えを広げた。
2017年6月、住友重機械工業は英Amec Foster Wheelerから、循環流動層ボイラの事業会社FW Energieを買い取った。3月の説明資料は取得の目的に、エネルギー分野の成長と海外展開に加え、2021年12月以降に切れる技術ライセンスの確保を挙げた。競合に先に買われるのを防ぐことも、目的の一つに数えていた。納入実績は住友重機械が日本とアジアの小型缶、相手方が世界の中・大型缶で、地域と容量を互いに補えると説明した。取得原価は228億38百万円で、のれん126億45百万円の償却期間は20年とした。提携先の技術に依存したまま契約が切れれば、ボイラの事業そのものを続けられなくなるおそれがあったのだろう。
2019年4月、建設機械子会社の社長を務めた下村真司氏が、住友重機械工業の社長兼CEOに就任した。同年11月には英国のインバータメーカーInvertek Drivesを買収し、前年6月に取ったイタリアのモータメーカーLafertに続けた。Invertekの取得原価は126億31百万円で、取得の理由にはLafertのモータ技術と組み合わせることが挙げられた。これで減速機にモータとインバータが加わり、駆動装置を欧州の拠点から一式で販売する体制が整った。ただ2019年度に終えた前計画の利益目標は、欧州経済の停滞や米中の貿易摩擦で未達に終わった。FW Energie、Lafert、Invertekの3件の買収は、事業拡大の施策に位置づけられていた。
決算期を12月へ移した2022年12月期の9カ月決算で、住友重機械工業は263億54百万円の特別損失を計上した。中心はSHI FWの減損で、固体燃料ボイラの市場縮小を理由に、のれん102億3百万円と無形資産75億41百万円を落とした。当時CFOだった渡部敏朗氏は、2026年の統合報告書で、過去の投資を洗い直した末の減損だったと振り返った。その上で『we should have recognized it earlier』(訳:もっと早く認識すべきだった)と書いている。造船では、下村真司社長が2024年2月に示した「中期経営計画2026」で、一般商船の新規受注を2024年度から止めると決めた。同月の説明会で渡部敏朗氏は、2012年ごろからの船価低迷で建造隻数を絞り、新造船は実質赤字で修理船の利益でも補えなくなったと答えた。
2026年1月、CFOの渡部敏朗氏が社長兼CEOに就任し、下村真司氏は会長となった。欧州の買収事業では、2025年2月の説明会でLafertとDEMAGの2024年度の大幅な赤字を認め、人員と生産能力の削減を示していた。社長として臨んだ2026年2月の説明会では500名規模の希望退職が話題となり、加算金など25億〜30億円を特別損失に見込むと答えた。改革の中心は油圧ショベルで、渡部敏朗社長は『油圧ショベルは、まずは規模を追わなくても利益が出る体質に変えるということを、考えていきます。』と語った。成長事業は次の中計で3つ程度の「骨太事業」に絞るとし、半導体関連をその1つに加えるかは今後決めるとした。減損の計上が遅れた反省から、先に不採算事業の整理を終え、そのあとで成長の筋書きを示す順番を選んだとみられる。
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|---|---|---|---|---|
| 1888〜1927年住友別子鉱業所工作方の設立と鉱山向け機械の修理製作 | 住友別子鉱業所工作方を設立 | ★ | ||
| 1928〜1960年住友機械製作所の設立とサイクロ社との提携、戦後の上場と経営危機 | 住友機械製作所を設立 | ★ | ||
| サイクロ社と提携 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 経営危機と鮫島龍雄社長引責辞任 | ★★ | |||
| 1961〜1986年浦賀重工業との合併による造船・産業機械の総合化 | 木村音吉 | 名古屋製造所を新設 | ★ | |
| 市川恒雄 | 射出成形機に参入 | ★★ | ||
| 市川恒雄 | 造船大手の取り込みによる重工業メーカーへの転換 1969年6月30日、機械専業だった住友機械工業が造船大手の浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円、従業員は1万人をわずかに超える規模となった。別子銅山の内製工場を出自とする会社が、造船部門を抱える重工業メーカーへ移った合併である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩崎信彦 | 追浜造船所開設 | ★ | ||
| 岩崎信彦 | 愛媛製造所西条工場を新設 | ★ | ||
| 西村恒三郎 | Eaton社と合弁で住友イートンノバを設立 | ★★ | ||
| 合田茂 | 住友建機を設立 | ★ | ||
| 1987〜2007年造船・製鉄機械での人員削減と射出成形機・半導体装置への軸足移動 | 合田茂 | 主力2部門を対象とした1,700人の人員削減と事業規模の縮小 1987年2月、住友重機械工業は造船・製鉄機械など不況部門の35歳以上の社員1,600人を対象に希望退職の募集に踏み切った。1986年12月からの3カ月で、希望退職1,300人、出向などとあわせて1,700人を削減している。中期経営計画から必要な人材を選り分ける基準を作り、対象者一人ひとりに直接その意向を伝えるやり方をとった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 日納義郎 | 大規模な赤字 | ★ | ||
| 日納義郎 | 1,000名削減・年収15%カットを実施 | ★★ | ||
| 日納義郎 | 造船事業を住友重機械マリンエンジニアリングへ分社 | ★ | ||
| 2008〜2026年Demag Ergotech・Hansenなどの買収による機械事業の拡大と新造船からの撤退 | 中村吉伸 | 欧州機械メーカーを続けて取り込む5社連続取得 住友重機械工業は2008年3月3日のドイツ・デマーグ3社の取得を皮切りに、2011年3月ベルギーのHansen Industrial Transmissions、2017年6月オランダのFW Energie、2018年6月イタリアのLafert、2019年11月英国のInvertek Drivesと、欧州の機械メーカー5社を相次いで取得した。造船・建設機械への依存を下げ、ギヤ・プラスチック機械・エネルギー・電機駆動の各分野で欧州拠点を揃える事業拡張であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 中村吉伸 | SEN-SHI・アクセリスを完全子会社化 | ★ | ||
| 中村吉伸 | ベルギーHansen Industrial Transmissionsを買収 | ★ | ||
| 別川俊介 | 別川俊介氏が社長に就任 | ★ | ||
| 別川俊介 | 三菱重工の産業用クレーン事業を譲受 | ★ | ||
| 下村真司 | 下村真司氏が社長に就任 | ★ | ||
| 下村真司 | Invertek Drivesを買収 | ★ | ||
| 下村真司 | 特別損失約263億円 | ★ | ||
| 下村真司 | 新造船事業からの撤退を発表 | ★★ | ||
| 渡部敏朗 | 渡部敏朗氏が社長に就任 | ★ | ||
| 渡部敏朗 | 500名規模の希望退職を実施方針 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友重機械工業)