明治時代を通じて住友家は、主力鉱山である「別子銅山」において機械化投資を志向し、その一環として機械設備の内製化のために1888年に「住友別子鉱業所工作方」を発足した。このため工作方の設置が、住友重機械工業における創業とされる。
三菱財閥が重工業への投資を積極化したのに対して、住友財閥は鉱工業が中心であり、機械部門は鉱山向けの機械を主体とした。そのため事業展開においては出遅れたが、1934年に住友機械製作所株式会社を設立。産業機械を中心に本格的な事業展開に乗り出した。
住友機械は、会社発足後も新居浜の1拠点による生産体制を志向。住友本社を経由して住友各社から受注した機械の生産に従事しており、鉱山機械に加えて、電線機械、化学機械、プレス機など「産業機械であれば何でも製造する」方針で販売を拡大した。
このため、住友グループにおける産業機械の供給部門であったが、サイクロ変速機の展開を除けば、産業機械の請負業に徹しており、能動的に事業を拡大する意思に乏しい企業であった。このため、住友グループ以外への外販努力がなされず、販売力に弱い機械メーカーとなった。
おっしゃる通り、生まれと生い立ちは(注:競合の日立と)非常に似ていますから、やりようによってはもっと大きくなることも可能だったでしょう。
とにかく対外的に発展を阻害したというか、伸び悩んだ大きな原因は、第一に本拠が新居浜にあったということだと思いますね。第二にはちょうど住友機械として一本立ちになり出した頃は、戦争準備に入った時期でしたので、幸か不幸か海軍系統の仕事で手一杯で、民需を負わなくても経営が成り立つということがあったため、一般民需の注文をとって行こうという方針が積極的ではなかったというか、薄かったからでしょう。
住友重機械では機械事業における遅れを挽回するために、戦前を通じて海外メーカーとのアライアンスによる産業機械の事業展開を志向した。
1938年にはドイツのサイクロ社と提携して、サイクロ減速機に参入。通常の原則きは「小さい歯車」と「大きい歯車」によって減速を実現するが、サイクロ減速機では「歯車」を活用せずに減速を可能にする点に特色があった。主に軽量小型かつ耐久性に優れる特色があったという。先発参入によって、サイクロ減速機は戦後の住友重機械における収益事業に育った。
戦前から住友機械(鮫島竜雄・当時社長)は住友グループ向けに販売してきたが、外販に注力せず、グループ外企業への販売に弱かった。決定打は終戦による財閥解体で、住友グループ企業から住友機械に発注する理由がなくなり、住友機械は市場競争に晒される形となった。
ところが、住友機械はコスト構造に課題があった。1952年時点で、愛媛県の新居浜工場の1拠点体制であり、約2,300名の従業員が製造に従事。生産品目の面では総合化を志向し「プレス機・輸送機械・運搬機械・鉱山機械・電線機械・化学機械・精錬機械・木工機械・減速機・変速機・耐酸ポンプ・ロール」など幅広く展開。合理化された専門工場を新設しなかったため、結果としてコスト改善に至らなかった。
この結果、材料費と労務費が高止まりし、競合の専業メーカーに受注を奪われ、住友機械は売上拡大が難しい状況に陥った。
住友機械は販売不振により、1954年3月期および1955年3月期の2期連続で赤字に転落した。特に、1955年3月期には最終赤字6.9億円を計上した。当時の住友機械の資本金は2.7億円であり、会社規模からして巨額赤字を計上した。
BSの面においては、1954年9月末時点で資産合計29.4億円に対して、負債合計28.0億円・資本合計1.3億円。住友機械の自己資本比率は4%に低迷し、債務超過寸前の状態に陥った。このため、大手財閥企業の経営危機として当時は注目を浴びた。
緊急対応として、住友機械は「再評価積立金(7.3億円)」の計上によって資本調達した上で、「再評価積立金取崩(6.9億円)」によって欠損を補填し、債務超過を逃れている。再評価した資産は非開示だが、保有する土地と推定される。
合理化のために1954年に住友機械は従業員の30%に相当する約850名の解雇を発表。これを受けて労働組合が反発し、労働争議が発生するなど経営状態は混迷を極めた。なお、コスト高の最大の要因であった人員の削減によって、リストラ後の住友機械の業績が浮上する布石となっている。
ただし、経営責任を明確化するために、住友機械の鮫島社長をはじめとする取締役は、ほぼ全員が引責辞任した。以後、住友化学などの住友グループ企業の重役によって、住友機械の経営再建に乗り出した。
住友機械は従来主として住友系事業会社からの受注によって経営を行ってきた。ところが戦後、住友系事業会社はいずれも一人歩きになった。戦前は住友系事業の一環として、住友本社の司令によって比較的高価に安易に各社から受注していた。戦後はそうはいかない。各社はいずれも一人歩きになったのだから、少しでも安い、優良品を制作する機械会社に発注する。背に腹は変えられぬからである。
ここで住友機械ははたと行き詰まった。今まで安易な生活に慣れ、社内の合理化が徹底せず、あらゆる方向に動脈硬化が起こっていた。同じ機械を製作しながら他社より原価が高くつく始末であった。慌てて従業員1000名を首切ってみたが、やはりうまくいかない。(略)
昨年3月期以来、赤字益々激増、任意積立金から第三次再評価積立金まで全部食い潰してしまったわけである。
1961年に愛知県大府市に名古屋製作所を新設し、新居浜工場で生産していた「サイクロ減速機」の生産を開始。生産設備に積極投資を行い、合理化を志向。住友機械にとっては、名古屋製造所の新設が新居浜における1拠点生産から脱する契機となった。
以後、1960年代を通じて住友機械は国内工場の新設を志向。新工場では合理化を志向することにより、業績改善のドライバーとなった。
大府工場は2つの部門に分かれています。1つは(略)サイクロ減速機です。これは新居浜で作っていたものを、そのまま移転して、それにかなりの新鋭機械を加えて、生産規模をうんと大きくしたものです。もう一つは一般産業機械です。
1969年6月に住友機械工業は、大手造船メーカーの浦賀重工業(従業員数約6,000名)と合併し、住友重機械工業を発足した。合併後の従業員数は合計約1万名であり、規模において大手機械メーカーの1社となった。
産業機械が専業の住友機械の狙いは、造船への進出を足がかりとして、売上規模を拡大することにあった。合併前の住友機械の主力事業は「製鉄関係機械・クレーン・コンベア・プレス機・減速機・建機」といった産業機械であったが、浦賀重工業の主力事業である「造船」が加わることで売上拡大が期待できた。
すなわち造船メーカーの合併によって、住友機械は「重工業」を目指した。
造船メーカーの浦賀重工業が住友機械との合併を決めた理由は、大型化する造船ニーズに対応するためであった。
特に、普及しつつあった大型タンカーの製造には、大型ドッグの新設が不可欠であったものの、浦賀重工業の業績は低迷しており資金的な余力が存在しなかった。合併時点において、浦賀重工業の累積赤字は30億円であり、大手造船会社であったが財務基盤が脆弱でもあった。
そこで、住友グループである住友機械と合併することで金融面におけるボトルネックを解消し、大型船建造のための造船ドッグの新設によって、造船業界で生き残りを図る狙いがあった。
1972年に住友重機械工業は追浜造船所を新設。50万トンドッグを備えたことにより、大型タンカーの受注対応を可能にした。
さて当社、住友重機械工業は、去る6月30日に当時の資本金54億円の住友機械工業が浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し発足した。浦賀重厚から引き継いだ資本金は17億6000万円、したがって合併後の資本金は71億6000万円である。従業員は住友機械4000人、浦賀重工6000人を合わせて1万人をわずかに超える陣容となっている。
生産品目は、住友機械の製鉄関連機械、運搬機(クレーン、コンベア)、プレス機かい、化学機械等受注生産品に減速機、建設機械等の繰返生産品、これらに合併後は造船が加わっている。(略)
浦賀重工合併後に加わった船舶部門であるが、造船所は浦賀と横須賀に持っている。ただ、いずれも10万トンクラスまでの船舶しか建造できない造船所であるので、船舶の大型化に対処し、追浜に13万坪の埋立地を造成し、そこに30万トンの新造船ドックを建設する計画を立てた。
1985年のプラザ合意による円高ドル安の進行によって、国内における造船業の採算が一層悪化。1987年に住友重機械は造船部門を中心に大規模な人員削減を決定し、合計1,000名の希望退職者を募集した。
あんな経験は2度としたくない
半導体製造装置の合弁会社SEN-SHI・アクセリスカンパニーについて、株式50%を取得して完全子会社化を決定。取得額は114億円
イタリアの産業用モーターである製造販売会社Lafert社を買収。住友重機械が展開しているギア製品との相乗効果を意図した。
開示セグメントの区分変更を実施。事業の共通性に基づく区分に移行し、2010年代に採用していたセグメント開示を停止
同じ鉱山機械からスタートした日立製作所は、財閥の後ろ盾が弱いために、必死に外販することで大手電機メーカー・大手重工メーカーの一角に成長した。この結果、日立と住友機械(住友重機械)には埋め難い差が生じた。
とどのつまり「苦労して外販できるか」「グループ内の商売に安住するか」で明暗が分かれた観がある。